Skip to content
Permalink
master
Go to file
 
 
Cannot retrieve contributors at this time
8130 lines (3811 sloc) 1020 KB
<doc id="156868" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156868" title="テトラヒドロフラン">
テトラヒドロフラン
テトラヒドロフラン(、THF)は、飽和の5員環に酸素を1つ含んだ環状エーテル化合物である。常温・常圧では芳香を持つ無色の液体である。別名テトラメチレンオキシド、オキソラン、オキサシクロペンタン。
自由に水と混和し、多くの有機化合物・高分子を溶解するので溶媒としてよく使用される。引火点が と低く、日本では消防法により危険物第四類(第一石油類 危険等級2 水溶性)に指定されている。
空気中の酸素と反応して徐々に過酸化物を生成するので、長期保存したものを蒸発乾固させることは危険である。市販品には酸化を防ぐため安定化剤を含むものがあるが、安定化剤除去・水分除去などの目的で蒸留精製する際にも蒸発乾固させてはいけない。
酸素の配位性を利用して、ルイス酸や金属イオンの配位子とされる。ボランとの (BH•THF) は安定で、溶液が市販されている。
THFは年間およそ20万トンが生産されている。最も広く用いられている工業的な生産方法には1,4-ブタンジオールの酸触媒脱水が含まれ、それはエタノールからのジエチルエーテルの製造と同種の方法である。原料の1,4-ブタンジオールは、アセチレンとホルムアルデヒドとの縮合によって合成される1,4-ブチンジオールを水素化することで生成される。また、アリルアルコールのヒドロホルミル化反応によって生成した4-ヒドロキシブチルアルデヒドを水素化させることでも1,4-ブタジオールが得られる。他に、デュポンが開発した製造法として、"n"-ブタンを酸化させることで粗無水マレイン酸を生成させ、次いでそれを水素化させることでTHFを得る方法も用いられる。
THFはフランの水素化によっても合成される。フランはペントースから合成されるためこの製造方法は再生可能資源を利用することができるが、この方法は広く用いられていない。
溶媒のほか、開環重合によりポリテトラメチレンエーテルグリコール(ポリエーテル)製造の原料となる。また、酸化により、γ-ブチロラクトンに変えられる。
2005年、水にテトラヒドロフランを0.1%ほど混ぜると、50気圧、7℃という穏やかな条件で安定な水素ハイドレートが生成することが報告された(通常では -24℃・2000気圧が必要)。しかしながら本結果は追試により確かめられていない。約4%(重量%)まで貯蔵可能とされる。
</doc>
<doc id="156869" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156869" title="シュミット">
シュミット
シュミット(・Schmitt・Schmid、など)は、ドイツの姓。鍛冶屋を意味し、オランダ語のスミット(Smit)、英語のスミス(Smith)にあたる。
シュミット("Schmitt");ドイツ人の姓。
シュミット("Schmid");ドイツ系の姓。
シュミット("Шмидт")は、ロシア人に見られる姓。
</doc>
<doc id="156872" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156872" title="動画大陸">
動画大陸
『動画大陸』(どうがたいりく)は、スターチャイルド(キングレコードのアニメ関連レーベル)の関連作品群を放送していたテレビアニメ放送枠の名称である。2002年11月から2003年5月までと、2003年10月から2004年3月までの2度にわたって編成された。
同枠は『アニメコンプレックスNIGHT』枠と同様に、独立UHF局を中心に放送されるいわゆるUHFアニメ2本を30分枠内に収めて放送していた。
しかしながら、放送作品群は必ずしも15分枠での放送を想定して制作されていたわけではないという点で『アニメコンプレックスNIGHT』枠と大きく異なっていた。というのは、放送作品4本のうち、『プリンセスチュチュ 雛の章』と『BPS バトルプログラマーシラセ』は元々は30分枠での放送を前提に制作されていたためである。そのため、この両作品については1つのエピソード(30分枠での1話分)を複数に分割し、15分枠に収めるという手法を採っていた。
第2期は2003年10月から12月までが本放送で、2004年1月以降は再放送。本放送では第1期と同様に2作品共存放送の方式を採っていたが、再放送においては1作品を30分フルで個別放送する方式を採っていた。ゆえに、元々15分枠での放送を想定して制作されていた『瓶詰妖精』は、再放送においては端数になる第13話(最終回)が放送されなかった。
いずれもインターネットアーカイブのウェイバックマシンが当時の公式サイトから取得したデータ。
</doc>
<doc id="156879" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156879" title="だいもん孝之">
だいもん孝之
だいもん 孝之(だいもん たかゆき、本名:大門孝之、1962年 - )は、日本の放送作家。
東京都荒川区町屋出身で、聖学院中学校・高等学校へ進学。その後ワシントン州スノホミッシュ高校へ留学・卒業。
ビートたけしが義弟・松田秀士を擁するレーシングプロジェクト「たけしプロジェクト」で修行後、業界入りを果たした。シン西川(妻はトップコート代表の渡辺万由美)や豊田俊一を師と仰ぐ。
日本テレビ系「スーパージョッキー」をはじめ、バラエティーから情報系まで手がける。
フジテレビの深夜番組「超V.I.P.」では、4人のビジュアルクィーンを主人公に、初めてとなるドラマの脚本にも挑戦。
恩人として、フジテレビの木村忠寛(現在映像企画部部長)、深瀬雄介プロデューサー、古江学D、そして日本テレビの藤井淳プロデューサー、の渡辺弘(現在、制作局局長)、藤田育男の名を挙げている。
サンミュージックの『GETライブ』のネタ見せ作家を担当。「ダンディのつまらないところが面白い!」と、ことあるごとに会議で発言して、第3次ダンディ坂野ブームの後押しをした。
また、だいもんの名古屋進出をお膳立てしてくれたマスタマクスのさいば社長にも感謝しているとのこと。さいばとだいもんは一時、名古屋の街で話題となった、逆上がり番組「スパイスベータ」を仕掛けた間柄。
みなと六本木テレビジョン株式会社を設立。テレビ番組中心の活動から、インターネット、携帯のコンテンツ企画など守備範囲を広げて活動中である。現在、東京と名古屋のコラボレート企画を進行中で、また、新人タレントの発掘やイベント・テレビの企画も計画して六本木フェローズを立ち上げている。
新生BS放送局「日本BS放送(BS11)」での番組企画も始めた。タレントの上原ちえの後見人でもある。芸能界を引退した飯島愛さんの復帰を願って番組企画を計画しているといわれていた。
<BS>
</doc>
<doc id="156881" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156881" title="高島礼子">
高島礼子
高島 礼子(たかしま れいこ、1964年7月25日 - )は、日本の女優。
神奈川県横浜市出身。太田プロダクション所属。
元々自動車好きで、神奈川県立野庭高等学校卒業後に横浜市内の自動車関連会社で3年間OLとして働きながらアマチュアレーサーとして活動し、21歳でJAFのコンペティションモータースポーツライセンス国内A級を取得。
レース活動費捻出のため、1987年からレースクイーンとして活動開始。
その後、芸能事務所に所属し、1988年にとらばーゆのCMでデビュー。このCMを見ていた松平健の紹介で『暴れん坊将軍III』に出演し、25歳で本格的に女優デビューを果たす。
恵まれたプロポーションと男勝りの気性がバブル時代にマッチし、1993年に初主演した『さまよえる脳髄』で大胆なヌードを披露。幅広い役をこなし、女優として順調にステップアップ。1999年からは『極道の妻たち』シリーズを岩下志麻から引き継ぎ、4代目「極妻」を務めた。
1999年2月7日、2年5か月の交際を経て、高知東生とハワイ・オアフ島の教会で挙式。
2001年、映画『長崎ぶらぶら節』で、第24回日本アカデミー賞優秀助演女優賞を受賞。
2011年11月25日、同年12月1日付で所属事務所を太田プロダクションからエイベックス・マネジメントへ移籍することを発表(一部業務は太田プロと提携)。2013年7月20日、エイベックス・マネジメントとの業務提携契約が終了し、再び太田プロダクション所属となる。
2016年8月1日、高知との離婚を発表。
</doc>
<doc id="156895" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156895" title="ポーランドの大統領一覧">
ポーランドの大統領一覧
ポーランド共和国大統領(ポーランドきょうわこくだいとうりょう、)は、ポーランドの大統領で、元首である。現在の大統領は、アンジェイ・ドゥダ。
ポーランドの大統領には以下が存在する。
1997年の憲法が定める主な権限は以下の通り。大統領の権限は1997年の憲法では制限されており、議院内閣制に近い政治体制になっている。
</doc>
<doc id="156898" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156898" title="丸森町">
丸森町
丸森町(まるもりまち)は、宮城県伊具郡にある町。県の最南端に位置する。
宮城県最南端に位置する。阿武隈高地に囲まれた盆地状であり、阿武隈川が流れる北部に平地がある。町の面積のほぼ1割を国有林が占める。
1月の平均気温は1.0℃、8月の平均気温は23.6℃。
かつて猪の生息域北限が同町付近と言われていたが、冬場の積雪が少なくなるにつれて生息域も北上している。
町の消防の主な歴史は下記の通りとなっている。
注釈
出典
</doc>
<doc id="156899" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156899" title="新潟県道589号小千谷長岡線">
新潟県道589号小千谷長岡線
新潟県道589号小千谷長岡線(にいがたけんどう589ごう おぢやながおかせん)は、新潟県小千谷市から長岡市に至る一般県道。
国道351号、291号などと共に、小千谷・長岡両市境の信濃川右岸側を経由する旧国道17号の区間を担う。激しい降雨や台風など、降水量が多い際には土砂崩れの恐れがあり、しばしば通行規制がかかるため(3時間の連続雨量が80mmを超えると通行止。現在もこの措置は継続されている)交通の大きな障害となっていたことから、国道17号は信濃川左岸を大きく迂回するルート(小千谷バイパス)に移り、全区間が新潟県に移管された。
片側2車線の国道17号(長岡東バイパス)を魚沼市方面へ南下すると、小千谷市との境にあたる越の大橋(妙見堰)東詰手前で片側1車線に減少する。国道17号はそのまま道なりに信濃川を渡るが、小千谷長岡線はこの交差点から左手に分かれ、右岸側を崖に沿うように小千谷市の東側市街を目指して走る。右手は信濃川、左手は石坂山の西斜面に面する、やや狭隘な区間。また石坂山麓部には、JR上越線の榎トンネルが通っている。
小千谷市に入ると横渡交差点で国道291号に接続し、ここが小千谷長岡線の起点となる。そのすぐ先に、信濃川の西側を迂回してきた小千谷バイパスの薭生ICがある。以南は引き続き国道291号となり、小千谷駅方面へと至る。
小千谷バイパスを経由するよりも距離が短く、また小千谷市の東側市街や長岡市山古志地区(旧山古志村)へは小千谷長岡線を経由した方が近いため、バイパス開通後も通行量は比較的多い。
また、路線バス(長岡 - 小千谷・急行 長岡 - 十日町)もこのルートを通るため、新潟県中越地震後も重要な道路の一つである。
この区間の長岡市妙見堰付近ではJR上越線の下り線の榎トンネルの出口付近でロックシェッドとなっているところがあり、明かり区間がある。
2004年(平成16年)10月23日に発生した新潟県中越地震で、長岡市妙見町地内(小千谷駅北約4km)の石坂山の西斜面が幅約240m、高さ約60mにわたって崩壊。真下を経由する小千谷長岡線の道路施設は完全に崩壊し、その土砂は信濃川まで流れ込んだ(崩落土砂量は推定約600,000m)。地震発生時、現場付近では車両2台が通行していたが、このうちトラック1台は路盤ごと川へ転落し、乗用車1台は土砂や岩石に呑み込まれた。乗用車に乗っていた親子3人は約92時間後に発見され、母親と当時3歳の女児は死亡が確認されたが、当時2歳の男児が救出された。この土砂崩れの発生区間は中越地震の象徴的な被災現場のひとつとして、全国でも大きく報じられた。この小千谷市浦柄から妙見町にかけての区間は地震以降、全面通行止となり、崩落した土砂や構造物はしばらくの間手付かずになっていた。
しかし小千谷・長岡両市を結ぶ幹線道路が1路線絶たれたことにより(震災前は1日の平均通行量が約6,000台あった)、小千谷バイパスの交通量が著しく増大したため、特に朝夕の通勤時間帯には慢性的に流れが悪くなっていた。このため県と両市が検討した結果、2005年(平成17年)10月に原形復旧する方針を決定。延長300mにわたる区間について現場の崩落した土砂を撤去し、西側斜面はコンクリートや法枠ブロックで保護した上で、旧道東側を掘削して新経路が建設された。この復旧工事を経て2007年(平成19年)3月24日、長らく通行止が続いていた被災区間が2年半ぶりに開通し、通常通り通行できるようになった。また小千谷市木津交差点 - 長岡市妙見堰交差点間の最大通過所要時間(朝7時 - 9時)は、小千谷長岡線の通行止期間には最大約45分を要していたが、復旧後は約9分に短縮されている。
また県と両市は慰霊碑や公園などを有する震災の被害を伝える施設を、現場近くに建設する方針を同年11月28日に発表した。その後整備が進められ、中越地震から7年後の2011年(平成23年)10月23日に「妙見メモリアルパーク」として開場した。
国道17号(小千谷バイパス)は信濃川左岸側、小千谷市街北側をCの字を描くように迂回している。
</doc>
<doc id="156900" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156900" title="FM DEPO">
FM DEPO
FM DEPO(エフエムデポ)は、名古屋市の市制100周年記念事業として1989年7月から同年11月の4ヶ月間に開催された世界デザイン博覧会開催中に設けられたイベント放送局の名称。運営はCBC(中部日本放送)が担当。国際電信電話株式会社(KDD、現在のKDDI)が協賛していた。
イベント放送局として当時では最大出力を誇った。1989年当時、愛知県の民放FM局はエフエム愛知1局のみだった。(三重県のFM三重と合わせても東海地方で2局)FM DEPOは出力300Wで広範囲で受信でき、ニューヨーク大学ラジオ科専攻のDJとその研究協力を得て、音楽をノンストップに流すなど番組と番組の境界がはっきりしないシームレス編成で、パビリオン情報のみならず、天気予報や交通情報、駐車場情報などをインパクトのあるジングルと軽快なBGMで伝えるという、これまでのFM局にはなかった斬新な編成がリスナーを引き付け、イベントFM局というより愛知の第2FM局という印象が強かった。そのためか、FM DEPO閉局後、運営元であるCBCに復活を望む声が多く届いた。これが約4年後の1993年10月1日にZIP-FM(当時の社名はエフエム名古屋)が開局するきっかけとなり、時報のジングル化など、番組に多くの成果が引き継がれた。
当時担当したCBCのアナウンサーは、松山香織、槇徳子などが英語交じりでDJをし、平野裕加里などがイベントレポーターを担当した。各人とも、博覧会後も人気や実力を発揮し、それぞれがCBCを退職後もフリーランスで活躍を続けている。なお、男性DJのうち、CBCアナウンサーとして遠藤雅也が参加していたが、北海道テレビ放送のアナウンサーグループ部長として活躍している。
FM DEPOがきっかけで開局したZIP-FMが、FM DEPOを運営したCBCと共同で、2005年日本国際博覧会(愛称:愛・地球博)のイベント放送局、FM LOVEARTH(エフエム・ラヴァース)を運営した(期間は2005年2月25日 - 9月25日)。
</doc>
<doc id="156904" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156904" title="田名部おしまこ">
田名部おしまこ
田名部おしまこ(たなぶおしまこ)は青森県下北半島一帯で唄い踊られる盆踊り・盆唄である。
寛文4年(1664)7月、南部藩第3代藩主南部重直公が視察のために下北を訪れた。重直公は、代官所が置かれていた田名部(むつ市)にて、人々を集めて盆踊をさせた。その中におしまという美しく、澄みわたる美しい声の女性がいた。おしまの音頭で人々は唄い、踊った。これに重直公は大変満足し、褒美を取らせたという逸話が残っている。
一説にナニャドヤラから派生したといわれている。江戸時代以前、意味不明の五・七・五調の歌詞を反復して唄い踊るものであったが、これに新しい歌詞がつけられ新唄が登場した。江戸時代に入ると、それより長い七・七・七・五調が誕生し、この頃にナニャドヤラからおしまこが派生したとされている。やがて、おしまという名に「~こ」をつけておしまこと呼ばれ、現在の八戸市、三戸郡一帯に大流行したが、時代とともに次第に衰えた。
田名部おしまこは下北の盆踊りの定番曲である。地元では「おしまこ」の名で知られている。大湊ネブタ(8月最初の金・土・日)、田名部子どもネブタ(8月上旬)、田名部まつり期間中の8月18日には、人々がおしまこにのせて踊る様子を見ることができる。むつ市内に限らず、下北半島内で見ることができる。
盆踊りの場で多く使用されているおしまこは、オーケストラ伴奏にのせたもので、盆踊りと観光用に昭和40年代につくられたものである。その踊り方は、輪踊りと流し踊りの二種類がある。
しかし、近年では太鼓と唄にあわせて踊る本来の田名部おしまこを復活させる事業が行われている。旧節、中節、新節の3つの節があり、踊り方も少しずつ異なる。
旧節には「はぁ なにゃどなされの なによりとやら なにゃどなされの なにゃどやらい」という歌詞がある。ナニャドヤラからの派生と思われる箇所である。
節の違いを問わず、「田名部横町の川の水飲めば八十婆様(ばさま)も若くなる」という歌詞があるのが特徴である。
元来、おしまこは太鼓や鉦にあわせて唄い踊るものであった。近年になり、津軽三味線奏者の高橋竹山によって三味線伴奏が付けられ、広く演奏され、唄われるようになった。おしまこは、「お島コ節」、「おしまこ節」、「田名部お島コ節」という題名で広まっている。
おしまこは唄の名称であるが、おしまが大変美しい女性であったことから、その美しさにちなみ、「おしまこ」が下北美人を指す代名詞ともなっている。むつ市では、ミスおしまこコンテストが開催され、選ばれた女性たちが田名部まつり期間中の8月18日に行われるおしまこ流し踊りに華をそえる。
</doc>
<doc id="156906" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156906" title="度会家行">
度会家行
度会 家行(わたらい いえゆき、康元元年(1256年) - 正平6年/観応2年(1351年)?)は、伊勢神宮の外宮(豊受大神宮)の神官で、伊勢神道の大成者。没年は正平17年/貞治元年(1362年)という説もある。
度会有行の子で、村松を姓とし、はじめ行家といったが、禰宜昇格に際して改名した。徳治元年(1306年)度会行忠の死没による欠員で禰宜に昇格し、以後累進して興国2年/暦応4年(1341年)一禰宜となり、南朝から従三位に叙せられ、正平4年/貞和5年(1349年)に職を退いた。
伊勢神道の外宮の神官として、内宮より外宮を優位とする伊勢神道を唱えて、仏より神が上位であること(反本地垂迹説)と、外宮信仰を主張した。
家行は学者・祠官としてのみならず、建武の新政挫折後の南北朝の動乱で南朝方の北畠親房を支援し、南伊勢地区の軍事的活動にも挺身した。後醍醐天皇の吉野遷幸に尽力したほか、その神国思想は北畠親房の思想に大きく影響し、親房の師とされ、また、他の南朝方にも影響を与えた。
家行の著作の中では、特に『類聚神祇本源』が後世の神道に大きな影響を与えた。
</doc>
<doc id="156907" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156907" title="Gnumeric">
Gnumeric
Gnumeric(グニューメリック)は、フリーな表計算ソフトで、GNOMEデスクトップの一部である。Microsoft Excelなどのプロプライエタリな表計算ソフトの代わりに使えることのみならず、この世で最高の表計算ソフトになることを目指している。
Gnumericはエクセル、XML、HTML、Applix、Quattro Pro、PlanPerfect、Sylk、DIF、、SC、OpenDocument、Lotus 1-2-3など、さまざまなスプレッドシートフォーマットを読み書きすることができる。Gnumeric自身のフォーマットはgzipで圧縮されたXMLである。
GnumericはGNOMEアプリケーションの中では最も充実したプラグインシステムを持ち、カスタム関数など、アドオンを作ることができる。またこのプラグインをPerlやPythonなどの言語で記述することもできる。
付属のssconvertコマンドでは、GnumericがサポートするフォーマットをGUIを起動することなしにコマンドラインだけで相互変換することができる。
1.12.17まではWin32アーキテクチャのバイナリもリリースしていたが、1.12.18以降はリリースされていない。
GnumericはGNU GPLの元にリリースされている。
</doc>
<doc id="156908" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156908" title="上野善道">
上野善道
上野 善道(うわの ぜんどう、1946年12月 - )は、日本の言語学者、東京大学名誉教授。専門は言語学、方言学。
岩手県生まれ。1970年に東京大学文学部言語学科を卒業、1973年9月に東京大学大学院人文科学研究科博士後期課程中途退学、同10月に東京大学文学部助手となる。1975年弘前大学人文学部専任講師(国語学)、1976年金沢大学法文学部専任講師併任(言語学)、1977年金沢大転任、1979年助教授を経て、1981年から東京大学文学部助教授となり、1994年教授。2010年3月に東京大学大学院人文社会系研究科教授を定年退職(同年中に東京大学名誉教授に)。同4月から国立国語研究所理論・構造研究系客員教授。
言語学、日本語学、方言学、特に音声学・音韻論を専門分野とし、琉球諸方言を含む日本語全体のアクセント研究を行っている。2006年4月から2009年3月まで日本言語学会会長を務める。2010年4月から日本音声学会会長を務める。
</doc>
<doc id="156909" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156909" title="カンボジア君主・国家元首一覧">
カンボジア君主・国家元首一覧
カンボジア君主・国家元首一覧(カンボジアくんしゅ・こっかげんしゅいちらん)では、カンボジアの歴代君主・元首の一覧を記す。
("以下は不明なものを含んでいます。修正を要します。")
1434年 - 1970年
国王
国家元首
国家元首
大統領
国家元首
国家幹部会議長
人民革命評議会議長
国家評議会議長
国家評議会議長
連合政府大統領
最高国民評議会議長
国王
</doc>
<doc id="156910" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156910" title="大湊ネブタ">
大湊ネブタ
大湊ネブタ(おおみなとねぶた)は、青森県むつ市の大湊地区(+城ヶ沢)で行われるねぶたである。
大湊ネブタは青森ねぶたの企業ねぶたとは違い、主に地域住民の手によって制作、運行されるねぶたである。人形ねぶたが主で、ねぶたをその地域の住民が長いロープで曳いて練り歩く。
ミニねぶたなど町内・団体を表す先立ち、流し踊り、曳き手、ねぶた本体、太鼓と篠笛の囃子方。という順に並んで運行している。基本的には青森ねぶたにいるハネトがいないねぶたである。
電線や道幅によってねぶた本体の大きさが制限されており、横幅約7m、奥行約3.5m 高さ約5m(台車含む)で青森ねぶたより一回り小型である。
8月第一週の金・土・日(町内によっては木曜から)に開催。
大湊地区の町内会
【城ヶ沢】【桜木町】【宇田町】【川守町】
【大湊上町】【大湊浜町】【大湊新町】【大平町】
【山田町】【旭町】
上の町内会に加え、
【海上自衛隊】【むつ市職員互助会】
計12団体で行われる。
祭りの期間の2日目と3日目の2日間はすべての参加団体が集まり、合同運行が行われる。合同運行初日は、むつ市宇田町から大湊駅付近まで運行され、各ねぶたの採点が行われる。最終日にはその受賞のお披露目を兼ねて市運動公園から大湊駅前商店街まで運行される。
1885年頃から現在の形式で合同運行するようになったといわれる。
大湊ネブタの他、下北地方には各地にねぶたがある。むつ市田名部・同市川内町・同市脇野沢・同市大畑、および風間浦村、東通村、佐井村でも行われている。
川内町を除いて、多くは子どもねぶたである。
川内町のねぶたの正調囃子は、大湊とは著しく異なり、県内でも独特な激しくもメロディアスな囃子であり(川内地区から大湊地区の文京町にも伝わった)、青森市同様に跳ねるねぶたである。掛け声も「ラッセラーラッセッラー」以外に「イッチャヤレ、ヤーレ、ヤーレ」と言う掛け声がある。1960年以前には、方形の台(天の川を意味する雲漢の文字が書かれている)の上に八角形の皿、その上に、組ねぶたの背面に見送りと呼ばれる額が付いた自作の山車を使用していたようである。しかし、過疎化などの影響で、長年、使用済の大湊ネブタや青森市等のネブタをレンタルするか買取って開催されて来ていた(見送りを取り付けるため、背面を壊す場合もあり、レンタルでは多少の摩擦があった)。近年では、復興の意識等から住民の製作によるものも出している。
江戸時代中期の紀行家菅江真澄は、日記に大畑でも行われていると書いている。ねぶたは津軽地方や外ヶ浜だけのものではない。また、近年になって青森を真似たものでもない。江戸時代にはすでに下北地方でも行われていたのである。ねぶたの起源はわかっていない。
</doc>
<doc id="156911" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156911" title="梅ヶ谷藤太郎 (2代)">
梅ヶ谷藤太郎 (2代)
梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1878年3月11日 - 1927年9月2日)は、富山県上新川郡水橋町(現・富山県富山市)出身の元大相撲力士。第20代横綱。本名は押田 音次郎(おしだ おとじろう)で、後に小江 音松(おえ おとまつ)となる。
1878年に、現在でいう「富山の薬売り」である売薬商の四男として生まれる(誕生日には異説もある)。1891年に西ノ海嘉治郎 (初代)・劔山谷右エ門 (2代)の一行が富山県へ巡業に来た際、恵まれた体格の少年を見つけた劔山から熱心な勧誘を受け、雷部屋へ入門、早くも同年1月に初土俵を踏んだ。師匠・雷(元横綱・初代梅ヶ谷)の「ワシ(梅ヶ谷)の弟子ということで四股名は“梅ノ谷”だ」という発言で四股名はあっさりと決定、番付には「梅ノ谷 音松」と書かれた。
当時はまだ満12歳という子供ながら英才教育を受け、とりわけ鬼ヶ谷才治からの指導が特に熱心だった。その甲斐があって三段目での単独土俵入りが許されたほか、梅ノ谷の錦絵も発売、幕下時代では早くも横綱免許授与に備えて横綱土俵入りの稽古までしていたという、現在では全く考えられない英才教育だった。
1898年1月で新入幕を果たすと、この場所で小錦八十吉 (初代)から金星を獲得した。同年5月場所も小錦八十吉から金星を獲得するなど「小錦キラー」ぶりを発揮した。次の1899年1月には早くも小結、5月で関脇に昇進し、この場所6勝2敗1分と勝ち越したものの、翌1900年1月1度小結に降格するが、次の5月には関脇を飛び越えて大関に昇進した。大関昇進が決定すると雷の現役名「梅ヶ谷 藤太郎」の継承を申し出たが、雷は「いま(梅ヶ谷を)襲名したら横綱になった時に何を名乗るつもりだ?」と時期尚早を唱えた。
しかし、1902年1月から「梅ヶ谷 藤太郎(2代)」を襲名し、梅ヶ谷の名に恥じぬ好成績を挙げる。1903年5月場所9日目(当時は1場所10日、ただし幕内力士は千秋楽は出場しない)に同じく常陸山谷右エ門と全勝対決を行い、敗れはしたものの、この一戦で勝利して横綱免許授与が決まった常陸山の「梅ヶ谷関と一緒にお願いします」という申し出によって、梅ヶ谷も吉田司家から横綱免許を授与された。24歳6ヶ月での昇進は当時の最年少記録だった。横綱土俵入りは雲龍型を選択し、現在まで受け継がれている「雲龍型の土俵入りの開祖」とされ、梅ヶ谷の土俵入りの様子を撮影した映像も現存している。
現在でも短躯肥満はあまり長持ちする体格ではないと言われているが、横綱を実に12年間(同時に昇進した常陸山より1年長かった)も務め、常陸山と共に「梅常陸時代」と呼ばれる明治時代後期の相撲黄金時代を築き上げた。旧・両国国技館の開館後に優勝した経験はないが、長年の功績を称えられたことで、1915年の引退時には優勝額に相当するものが贈呈された。
引退後は雷の廃業に伴い、年寄・雷並びに雷部屋を継承したが、先代・雷より早い1927年9月2日に死去。。弟子は弟弟子だった玉椿憲太郎が引き取ったものの、江戸時代から続く名門だった雷部屋は梅ヶ谷を最後に消滅した。
本場所における十両昇進以降の成績を示す。
</doc>
<doc id="156915" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156915" title="数理工学">
数理工学
数理工学(すうりこうがく)は工学の一分野であり、世の中の諸現象、特に工学に関する現象を数理モデルとして捉え、それらに対して数学や物理を用いて理論上の解釈をあたえる学問である。特に数理工学では、古典的な数学の手法では説明できない現象に対し、新しい考え方を用いて解決方法を導き出そうとする。したがって数理工学においては複雑系科学に代表されるような最先端の応用数学についても研究されている。
数理工学の対象となる現象は必ずしも工学における現象とは限らず、数理モデルとして抽象化される現象はすべて対象であると言ってもよい。広義では「数学を工学に応用する」という姿勢を持つ学問はすべて数理工学とされる。
なお「数理工学」という言葉に相当する英語としては、定訳がない。下記に挙げてある研究・教育機関のホームページを見ても分かるように、いくつかの訳が考えられる。「数理工学」に相当すると考えられる英語には、applied mathematics and physics や mathematical engineering がある。
数理工学における研究対象は非常に幅が広く、すべてを挙げることは困難であるが、以下に大学などで研究されているテーマのうちいくつかを挙げる。
以上のテーマのうちの多くは応用数学の一分野でもあるが、応用数学における研究では、あくまでも数学の一分野として他の数学分野とのかかわりが重視されるのに対し、数理工学における研究では、現実の現象との関連性・整合性が重視される傾向が強い。
数理工学では、工学の知識のほかにかなり専門的な数学、情報学の知識が必要とされ、時には数理工学の分野から新たな数学の理論が生まれることもある。したがって数理工学は、工学、数学、および情報学の3つの分野に関わる、学際的な分野と言うことができる。
しかし一般には数理工学を名に冠する講座やコースは工学部の下に置かれていることが多い。
また数理工学の理念に関しては、以下のページが参考になる。
http://www.keisu.t.u-tokyo.ac.jp/outline/history_mist/index.html
工学の他の分野は、結果を得るにいたる過程において、「なぜそうなるか("why")」というよりもむしろ「どのようにしてそうするか("how")」ということを重視する傾向が比較的強いのに対し、数理工学では「なぜ("why")」という点を理論的に説明する姿勢が強い。このことからも数理工学は工学の中でも比較的理学に近い分野であると言うことができるであろう。
また数理工学はコンピュータを多く用いるという点で情報科学や情報工学と類似しており、場合によっては同一視されることや、いずれか一方をもう一方の部分集合と見なすことがまれにある。しかし情報科学や情報工学がクロード・シャノンを発端とする、すでにある程度体系化された分野の名称であるのに対し、数理工学はいまだ体系化が進んでおらず、新しい学問分野と言える。
このようになった経緯は、元々工学部での全学科共通科目の数学と物理を教える教員を理学部から招いたことが発端である。この理学教員のために、各大学工学部では1960年代に新しく学科を設立し始めたのが、現在の数理工学科(大学によっては物理工学科の名称)であるため、工学の中では理学に近いテーマとなった。さらには、数学出身教員と物理出身教員の接点は少なく、各々が独自に自分たちの出身講座の研究テーマを行ったことが、体系化されていない原因とも言える。
下記のように、数理工学を銘打った講座を持つ大学は数多くあるが、それぞれ研究内容や研究方針は必ずしも一致しない。
</doc>
<doc id="156916" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156916" title="ラッセル=アインシュタイン宣言">
ラッセル=アインシュタイン宣言
ラッセル=アインシュタイン宣言(ラッセル=アインシュタインせんげん、"Russell-Einstein Manifesto")は、イギリスの哲学者・バートランド・ラッセル卿と、アメリカの物理学者・アルベルト・アインシュタイン博士が中心となり、1955年7月9日にロンドンにて当時の第一級の科学者ら11人の連名で、米ソの水爆実験競争という世界情勢に対して提示された核兵器廃絶・科学技術の平和利用を訴えた宣言文である。
これを発表した3か月ほど前にアインシュタインが没しており、アインシュタインが人類に放った遺言状ともいえる。この宣言には、日本人の湯川秀樹も署名している。レオポルト・インフェルト以外全員がノーベル賞を受賞している。科学者平和宣言とも言える。
なおこの宣言の要請を受けて、1957年よりパグウォッシュ会議が開催されることとなった。第1回をカナダのパグウォッシュ村で開催した。日本からは、湯川秀樹、朝永振一郎等が参加した。
</doc>
<doc id="156920" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156920" title="ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ">
ヴォイチェフ・ヤルゼルスキ
ヴォイチェフ・ヴィトルト・ヤルゼルスキ( , 、1923年7月6日 - 2014年5月25日)は、ポーランドの軍人、政治家。軍人としての最終階級は上級大将。元ポーランド統一労働者党第一書記、首相、国家評議会議長、ポーランド大統領。
ポーランドのルブリン県プワーヴィ郡のクルフで、愛国主義的な貴族の子として生まれる。祖父は1863年にロシア帝国支配下で起こった一月蜂起に参加し、父ヴワディスワフも1920年のポーランド・ソヴィエト戦争に参加している。ワルシャワのビェラヌィ地区にあったカトリック修道会の寄宿舎で教育を受ける。少年期のヤルゼルスキは信心深くとても優秀であったと言われている。
1939年に家族とともにリトアニアに亡命。リトアニアがソ連に併合されると、1940年にはシベリア地方に抑留され、タイガでの森林伐採にまわされた。このとき雪の強い照り返しで目を傷め、以後色付きのめがねをしているとされる。なお、父はこの抑留中に命を落としている。
ヴワディスワフ・アンデルス率いるポーランド亡命政府軍に入隊志願したが失敗し、同時期に編成された親ソ連派のポーランド軍団への入隊を図る。1943年、ロシアのリャザンに設けられた士官学校で学び、ヘンルィク・ドンブロフスキの第2歩兵師団に偵察小隊の指揮官として配属される。大戦末期におけるヴィスワ川での戦闘やワルシャワ解放などに参加した。1945年5月にナチス・ドイツが敗北し、第二次世界大戦が終結すると軍内で地位を固めた。
1947年からポーランド労働党(1948年からポーランド統一労働党)員。上級歩兵学校とK.スヴェルチェフスキ名称参謀本部アカデミーを優秀で卒業、1957年に第12機械化師団長を務めた。1960年には軍政治総局長に、1965年には軍参謀総長に就任し、1962年に国防次官、1968年4月から1983年11月まで国防大臣を務める。
1980年7月に北部の都市・グダニスクで食肉の値上げを原因に起きたストをきっかけに造船所の工員レフ・ヴァウェンサ(レフ・ワレサ)が自主管理労働組合「連帯」を組織し、委員長に就任した。民衆からの民主化への要望が高まる中、ヤルゼルスキは1981年2月に首相に就任。また、同年の10月から党第一書記を兼任することになる。
その後も高まる民主化運動とそれの伴うソ連の内政介入への対抗策として1981年12月13日にポーランド全土にを布告したものの、民衆の民主化要求に背くこの行為は、共産圏を除く世界各国から激しい非難を浴びる結果となる。戒厳令中の1983年2月に、史上初のポーランド出身のローマ教皇であるヨハネ・パウロ2世がポーランドを訪問した際には、直接的な批判は避けながらもヤルゼルスキに対し、「人間の顔をした社会主義」を実現するよう強く求めた。
修道会寄宿舎で学んだ経歴を持ち、信心深いカトリック教徒であるヤルゼルスキは「この時のローマ教皇との会見がその後の方向転換の大きなきっかけとなった」と後に語っている。
なお、ヨハネ・パウロ2世はこれ以降も連帯をはじめとする民主化運動への有形無形の協力と、社会主義政権への圧力を粘り強く掛け続けた。その後ヤルゼルスキは、1981年から1983年まで救国軍事会議議長、1983年からはポーランド軍総司令官となった。
教皇訪問後の1983年7月には戒厳令が解除され、ヤルゼルスキは社会主義の枠内での経済改革を試みたが、「連帯」率いる労働者からの支持が得られず効果は上がらなかった。その後1985年11月には国家評議会議長に就任したが、同年にソ連ではペレストロイカ政策を押し進めるミハイル・ゴルバチョフが共産党書記長に就任し、その結果ポーランドをはじめとする東欧諸国にも民主化の波が急激に押し寄せた。
この様な民主化の波を受け、1989年2月以降数度にわたり行われた「円卓会議」と呼ばれる「連帯」を中心とする反体制側との会議で、上院の新設や下院立候補の制限緩和、「連帯」の合法化などの大幅な民主化政策の実施についての合意を成立させ、民主化への道筋をつけることに成功した。
その後1989年6月に行われた部分的自由選挙では「連帯」系候補者が地滑り的な大勝利を収め、8月2日には統一労働者党(共産党)出身のチェスワフ・キシチャク内相を強引に首相に指名したものの、「連帯」が認めず組閣に失敗し、その後8月24日に「連帯」出身のタデウシュ・マゾヴィエツキが首相に指名された。ヤルゼルスキ自身は先立って行われた円卓会議での合意の下ポーランドの初代大統領に選出され、1990年12月まで大統領を務め、初の自由選挙で大統領に選出されたかつての政敵、ヴァウェンサにその座を譲って政界を引退した。
政界を引退してからの彼は回想録を出版した後、ポーランド政府から年金を受け取って生活していた。しかし2007年4月17日、1981年の戒厳令布告の際の民主化弾圧の責任を問われ、ポーランド検察によって起訴された。
高齢であることを考慮され、自宅から毎月裁判所に出廷することを許された。弁護側は、ヤルゼルスキが、あの時戒厳令を布告して民主化運動を取り締まらねばソ連が介入してきたはずであり、結果的にポーランドの独立を守ったと主張したが、検察側は、ソ連はポーランド内政に干渉しないという当時のソ連指導部の文書を提示し、ヤルゼルスキ側の弁論に反論した。有罪ならば懲役10年程度が予想されていた。
2011年より癌の治療を受けていたが、2014年5月初旬に脳卒中になり、呼吸困難や身体の麻痺などの症状を訴えて治療中だったという。2014年5月25日午後3時24分、脳梗塞によりワルシャワ市内の病院で死去。90歳没。
ヤルゼルスキは、戒厳令を敷いたことで非難されており、実際に戒厳令中には民主化を主張するポーランド人を弾圧した。しかし一方で熱心なカトリック信徒でもある彼は、教会に逃げ込んだデモ隊に対して弾圧を行なうことは決してなかった。また、以下に述べるように、当時のポーランドの置かれた国際政治環境を考慮する必要があり、大局的視野において評価すべきとの意見も根強く、同時代的評価と歴史的評価との間で評価が割れている人物でもある。
実際のところ、ソ連の衛星国である当時の東欧諸国がその影響下から離脱しようとした時、ソ連が容赦なく軍事侵攻している事実がある以上(例、ハンガリー動乱、プラハの春)、戒厳令を敷かなければソ連政府はポーランドへ軍事侵攻を実行に移すことは明白であった。実際にソ連からは有効な対策を打たなければ実力行使を行うという期限付き最後通告を受けており、放置しておけばソ連の介入でポーランドが壊滅すると考えた末で戒厳令を決断したとされている。
一方、「ククリンスキ文書」において当時の政府内部では、民主化運動が過激化して収拾がつかない状態に陥れば「最後の手段として」ソ連その他ワルシャワ条約機構軍の受け入れ要請を行うのもやむを得ないという選択肢も検討されていたことが明らかになっている。しかし当時のヤルゼルスキ政権はソ連との間でポーランドの石炭と引き換えに食料や燃料を受け取るバーター取引により国民の生命をつないでいる状態であり、民主化運動が過激化して無政府状態にでもなればそれは即座に国民の多数が餓死する事態が容易に予想されたことから、東側軍隊の受け入れが検討されたことは、「最後の手段」としてならばごく自然な選択肢であるとも考えられる。
ヤルゼルスキ自身ものちに、「あれ(戒厳令の布告)は、(ソ連の介入という事態に比べれば)より小さな悪(lesser evil)だった」といった発言をしているが、「連帯」運動の中心的指導者のひとりであり当時は政府と激しく対立していたジャーナリストのアダム・ミフニクはこのヤルゼルスキの立場を全面的に支持している。
自らが悪者として泥をかぶりハンガリー動乱やチェコ事件のような悲劇を未然に防いだことは、彼自身の功績であるという考え方もできる。またポーランド民主化運動も彼が拒否し弾圧を過激化させていたならば、平和的に無血で政権交代に及ぶことが出来ず、ルーマニア革命や、ユーゴスラヴィアの様な内戦に陥る不安もあったと言われている。当時、鋭く対立していたヴァウェンサもその状況は理解しており、ヤルゼルスキを裁くのは間違いだと強く主張し、彼に対する評価は現在の世論や政治家や司法ではなく、のちの世の歴史家の判断にゆだねるべきだと述べている。
東欧革命ではヴァウェンサに主役の座を譲ったが、彼自身も革命的政治家として、東欧革命の主役の一人であった。晩年は旧敵ヴァウェンサと親交を深め、時おり両夫妻で食事を共にするほどの仲であった。かつての宿敵同士は、いまや互いをこの世で最も理解する無二の親友となった。旧民主化運動のパーティーに呼ばれることもあった。ヤルゼルスキが体調を壊してからは、ヴァウェンサが見舞いに来ることも多かった。これらの際にヤルゼルスキとヴァウェンサが歓談している写真は頻繁に報道されている。
ポーランドの最高軍事勲章である「ヴィルトゥチ・ミリタリ」勲章を受章。
妻バルバラは、哲学科学準博士。1女を有する。
</doc>
<doc id="156921" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156921" title="桜井章一">
桜井章一
桜井 章一(さくらい しょういち、1943年8月4日 - )は、東京都下北沢生まれの経営者、雀士、著作家。雀荘の経営、麻雀の自伝・自己啓発の分野で書籍の出版に携わっている。
1988年3月28日に「雀鬼流漢道麻雀道場 牌の音」を開設。1991年に「雀鬼会」という組織を作り、桜井章一の雀風や生き方を意味する「雀鬼流」を指導している。牌の音は町田に道場がある。現在は閉店しているが、下北沢と札幌に牌の音2号店があった。。
同卓した人の待ち牌・ツモ牌・捨てる牌・和了点数・次に和がる人間・裏ドラなどを的中させるエピソードが多々登場する。弟子との対局中、リーチ宣言牌での和了・和了時の役や和了牌を同一にし続けるなど一般の麻雀愛好家が狙っても出来ないエピソードが日常茶飯事だとされている。
雀荘での大会では必ず優勝し続けたので桜井章一に大会の半分だけ出場という案を出した所、更に2000点より上の和了を無効にするという条件を本人が出したが優勝してしまい以後裏プロの出場が禁止されるという事態になったという。船上で行われた近代麻雀開催の麻雀大会では2位という結果で終わっている(本人談ではこの大会では和了点数を3900までと決めていた)。しかし優勝者がゲスト(将棋棋士の森雞二九段)ということで優勝を辞退したので繰り上げ優勝になった。
九蓮宝燈での和了を嫌う桜井は、九蓮宝燈の牌姿を逃し清一色で和了しようとしたが、ギャラリーに「九蓮宝燈ですね」と指摘されたため、止む無く九蓮宝燈として和了処理したという。また、一晩で九蓮宝燈以外の役満を全て和了したという逸話がある。
人を見ればある程度のことが分かるという。例えば泥棒がその日に窃盗をしたかどうか、どういう生き方をしてきたかというのも分かる、と自著で述べられている。漫画家の高梨くみが霊能力者(木津龍馬)に頂いたアクセサリーを身に付けて(右手中指)麻雀を打っていたところ経緯を伝えていないにも関わらず「そんなものに頼っていては自力が付かないぞ」と指摘することもあったという。
ヒクソンの身内に降りかかった不幸の予知をし(夜中に妻を起こして話した事になっているが、みやわき心太郎の漫画では茶の間で妻に話している)東日本大震災の数日前にはスニーカー等を用意していた。ただし震災が起きて一ヵ月後の発言である。イチローの2011年度大リーグ安打記録を186本で終えると春先に予言(実際の記録は184本)していた。ただし当該シーズン最終戦後の9月30日のブログ上での発言である。
また2011年将棋の名人戦では新聞に載っていた羽生善治の写真を見ただけで羽生善治の敗北がわかってしまったと語っているが、これも名人戦が終わってからの発言である。
また最近では(2012年5月)オフィシャルサイトで「目に見えないものを感じる」「目に見えないものが見える」と発言している。
高身長である。現在は膝を痛めていることや老化に伴い激しい運動は出来ない模様。体の使い方に関しては武術を研究している甲野善紀が正中面が立っていると評することから体のバランス感覚が良く、また体の使い方を学びにプロレスラーである中邑真輔が習いに来たことがある。
近代麻雀の開催する船上麻雀大会では優勝者辞退の繰上げ優勝。1984年の『近代麻雀』の誌上対局では、金子正輝や飯田正人を相手に、半荘2回をトップで勝利している。エンペラー戦では井出洋介・金子正輝・馬場裕一・片山まさゆきを相手に優勝。ツカンポ日記というビデオでは井出洋介・馬場裕一・片山まさゆきを相手に半荘1回のみの勝負だがトップを取った。灘麻太郎を相手に1勝1敗(灘より上か下かで勝敗)。北海道で行われた土田浩翔主催の雀鬼祭では3連続トップで終了。麻雀ゴラク誌の創刊記念大会「天聖戦」では12人中5位の次点で予選敗退している(優勝は黒鉄ヒロシ)。
引退後は、指導者として活躍しているが、弟子の活躍で目立った者は、最強戦で弟子の佐々木秀樹(4期)・山田英樹(5期)と連続で優勝している。
麻雀プロの評価としては、阿佐田原作の映画「麻雀放浪記」で麻雀指導を桜井がした。なお桜井関連の書籍では桜井だけが麻雀指導をしたように書かれているが他には桑原靖太(メイン指導)と荒正義も麻雀指導をしている。伊藤優孝は「会長は超能力者」と表現している。
三家和を見越した上で当たり牌を切り、流局に持ち込んだ件については、「リーチ麻雀論改革派」(天野晴夫著、南雲堂)では批判的論評をされた(三人目の和了宣言してない相手の手牌を強引に腕で倒して開けた)。
2012年2月12日の公式サイトで「20年間無敗の雀鬼って、本当のところ、ガセネタです」と記述。
ただし、孫が「キャラクターグッズの何か光る刀みたいな武器」で攻撃してきたり、突っ込んできて顔面をやられたり、体の上で飛び跳ねられる、それでベッドから落下して腰の痛みがとれない、孫の遊びの延長だから怒るわけにはいかない、という記述が続くため、「20年間無敗の雀鬼も、孫には勝てない」という解釈が正しいと思われる。
よく勘違いされることではあるが、「20年間無敗」という看板はあくまでも「年に数回の代打ち」で20年間無敗だったという意味であり、ラスを引いたことがない、マイナスになったことがない、などということではない。著書である「超絶」で、調子の悪い日はどんなに頑張っても「トントンで精一杯だった」「調子の悪い日が代打ち勝負の日に重ならなくてほっとした」ということも述べている。
著書は麻雀よりも自己啓発の本のジャンルが多い。
</doc>
<doc id="156932" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156932" title="ロード・ハウ島群">
ロード・ハウ島群
ロード・ハウ島群(Lord Howe-とうぐん)はロード・ハウ島とその周辺の島の総称である。ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録されている。
ロード・ハウ島群は海水による浸食で作られた島で、険しい山や珊瑚礁などを抱え、ロード・ハウ島でしか見られない生物を多数抱える、豊かな自然地域である。1981年ロード・ハウ島法等の法律で保護されている。
</doc>
<doc id="156933" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156933" title="カル・リプケン">
カル・リプケン
カルヴィン・エドウィン・リプケン・ジュニア(Calvin Edwin Ripken Jr. 1960年8月24日 - )は、アメリカ合衆国メリーランド州ハバディグレイス出身の元プロ野球選手(内野手)。
歴代1位となる2632試合連続出場を記録した。現役時代の全てをボルチモア・オリオールズで過ごした現代では数少ないフランチャイズ・プレイヤー。
のドラフトでボルチモア・オリオールズから2巡目に指名を受け入団。
8月10日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビューを果たした。
シーズン当初は三塁手として出場していたが、7月1日にアール・ウィーバー監督が遊撃手にコンバート。打率.264・28本塁打・93打点を記録し、アメリカンリーグ新人王を受賞した。
メジャー屈指の攻撃型遊撃手として5月30日から9月20日までの15年間に2632試合連続出場の大記録を成し遂げる。この間に1982年6月5日から9月14日まで8243イニング連続出場や903試合連続フルイニング出場のMLB記録も作っている。
は前年を上回る打率.318・27本塁打・102打点を記録。211安打・47二塁打・121得点はリーグ1位となり、史上初めて新人王の翌年にア・リーグMVPに選出された。チームはワールドシリーズ進出を果たし、自身は打率.167と低迷したがチームは13年ぶりのワールドチャンピオンとなった。
はリーグ新記録となる583補殺を記録し、5月6日にはサイクル安打を達成。また、同年の日米野球のメンバーの一人として参加している。
4月10日に左足首を捻り医師から2週間の休養が必要と宣告されたが次の日は試合がなく、12日から出場を続け連続試合の記録は途切れなかった。
に父のカル・リプケン・シニアがオリオールズの監督に就任し、弟のビリー・リプケンがメジャー昇格を果たし二遊間を形成。史上初めて親子3人が同一チームとなった。
4月14日から7月27日かけて当時のMLB新記録となる95試合連続無失策を達成。
には遊撃手として当時のリーグ新記録となる368塁打を記録し(1996年にアレックス・ロドリゲスが記録更新)、遊撃手としてア・リーグ史上初めて3割・30本塁打・100打点を達成。また、この年のオールスターゲームではMVPとなり、前日に行われたホームランダービーでも優勝している。自身2度目のMVPも受賞した。
8月12日から4月2日にかけての232日間に及ぶ長期ストライキの際には、オーナー側が代替選手で1995年シーズン開幕を強行させようとしたが、「もし、試合が行われたら記録が2009で途切れてしまう」と、ボルチモア市議会はオリオール・パーク・アット・カムデン・ヤーズで代替選手によって試合が行われたらMLB機構に1試合1,000ドルの罰金を科す法案を成立させた。そして、4月27日にシーズン公式戦は再開され、9月6日、ルー・ゲーリッグ(ニューヨーク・ヤンキース)の2130連続試合出場を56年ぶりに塗り替える、2131連続試合出場を達成した。
さらには翌6月12日にはカンザスシティ・ロイヤルズ戦にて衣笠祥雄(広島)が持つ2215連続試合出場を越え、2216連続試合出場を達成した。この試合には衣笠も2試合連続で来場しており、記録更新に立ち会った。
1996年にデーブ・ジョンソン監督は若手有望株だったマニー・アレクサンダーを遊撃手に据えようと考え、リプケンを三塁手へ再コンバートしようとした。結局、この案は約1週間しか続かなかったが、この間リプケンはアレクサンダーと1ヶ月以上も話をしなかったという。アレクサンダーは翌にニューヨーク・メッツへトレードされた。アレクサンダーはリプケンを恨み続け、背番号8を提示されたがリプケンと同じ番号であるという理由から拒否した。
からは三塁手として出場を続けた。
の本拠地最終戦となった9月20日、自ら欠場を申し出て連続試合の記録は2632で終わった。。
3月25日に父のシニアが亡くなり精神的に大きなショックを受け開幕を迎えた。開幕から不調で打率.179の成績で4月19日に腰痛のため自身初の故障者リスト入りとなった。故障から復帰して以降は調子を上げ、6月13日のアトランタ・ブレーブス戦で球団記録の1試合6安打を記録。7月には年俸630万ドルでの契約を延長した。8月3日に再び腰痛でリスト入りとなり、2度の故障者リスト入りで出場試合数は86に留まり規定打席に達していないが、打率.340は自己最高となった。
4月16日のミネソタ・ツインズ戦で3000本安打を達成。
6月、この年限りでの現役引退を発表。最後のオールスターゲームにはファン投票で19回目の選出を果たし、アメリカンリーグの選出記録を更新した。試合前に遊撃手のアレックス・ロドリゲスがリプケンとポジションを交代し、リプケンはオジー・スミスの持っていた遊撃手としての出場試合数14を更新した。試合では本塁打を放ち、オールスターゲーム史上最年長でMVPを獲得した。
引退直前の9月9日、リプケンの背番号『8』はオリオールズの永久欠番に指定された。
引退試合はヤンキー・スタジアムの予定だったが、アメリカ同時多発テロ事件のため同年10月6日に本拠地で公式戦最後戦で迎えた。ファンへの挨拶では「今は第1章を終えたばかり。これから第2章が始まる」と述べた。
その後は故郷・メリーランド州アバディーンに球場を建設し、オリオールズ傘下のマイナーチームであるアバディーン・アイアンバーズを誘致。現在はアイアンバーズの共同オーナーの1人として名を連ねる。そして、妻ケリーと「ケリー&カル・リプケン基金」を設立して、チャリティ・イベントや募金活動、自身が破った前記録保持者の衣笠と共に少年野球の発展などに力を注ぎ、たびたびその指導のために日本にも来日している。多くの組織に積極的に寄付も行っているが、その中には筋萎縮性側索硬化症(ルー・ゲーリッグ病)の研究への援助も含まれている。
引退した2001年にUSAトゥデイが満票でアメリカ野球殿堂入りすることができるかと特集が組まれ、殿堂入り有資格者となる、満票ではなかったが537票(98.5%)もの高得票を集め初年度での殿堂入りを果たした。得票率98.5%は歴代3位、野手としては当時史上最高の得票率である。
4月23日に前記録保持者の衣笠が死去した折には、リプケンも「偉大な友人だった」と哀悼の意を表した。
連続試合出場記録ばかりがクローズアップされるリプケンだが、通算3184安打・431本塁打・1695打点とバッティングでも優れた成績を残しており、カール・ヤストレムスキー以来のアメリカンリーグのみで3000本安打と400本塁打の記録を達成した。
ゴールドグラブ賞を2回受賞しており、大柄な体を生かしたミスのない職人肌のプレーはメジャー屈指であった。通算守備率.979は、遊撃手のMLB歴代4位(天然芝を本拠地とする選手としては歴代1位)であり、1990年には、95試合連続無失策、シーズン守備率.996という当時の遊撃手のMLB新記録を樹立した。こうした守備面での貢献が評価されたことで、打撃不振に陥った時にもリプケンが変わらず起用され続けたのである。
リプケン登場以前は遊撃手といえば、小柄な選手で打撃に少々難があったとしても守備力が優先されるのが当たり前のポジションだった。しかし、リプケンの登場によって、後のデレク・ジーター、アレックス・ロドリゲス、ノマー・ガルシアパーラの1990年代三大遊撃手にもつながる、打撃にも優れた大型遊撃手時代が幕を開けることとなった。
一方で様々な賞を獲得しながらも、打撃のタイトルは一度も獲得をしたことはなかった。
</doc>
<doc id="156934" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156934" title="蒲池駅">
蒲池駅
蒲池駅
</doc>
<doc id="156935" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156935" title="フランク・ロビンソン">
フランク・ロビンソン
フランク・ロビンソン(Frank Robinson, 1935年8月31日 -2019年2月7日)はMLBの元選手(外野手)・監督。
史上初めてMLB両リーグでMVPに選出され、アフリカ系アメリカ人初のMLB監督となった。
、20歳でメジャーデビュー。152試合出場で38本塁打を記録し、新人王に選出されたが、新人最多となる20死球を受けているなど不遇なシーズンでもあった。以降もチームを代表する強打者として活躍し、にはリーグ優勝に貢献してMVPを受賞した。
、オリオールズに移籍。ブルックス・ロビンソンと「ロビンソン・コンビ」として活躍し、打率3割1分6厘、49本塁打、122打点で三冠王に輝く。この三冠タイトルがロビンソン唯一の打撃タイトルである。黒人選手として史上初めての三冠王獲得で、現在でも史上唯一である。チームもリーグ優勝を果たし、ワールドシリーズでもドジャースを下し世界一。ロビンソンはシーズンMVPとワールドシリーズMVPの両方に選出された。また、両リーグでシーズンMVPとなるのはMLB史上初の快挙だった。その後も~のリーグ三連覇、1970年のワールドシリーズ制覇に貢献した。
に引退するまでの通算成績は2808試合出場(歴代22位)、打率2割9分4厘、586本塁打(歴代9位)、1812打点(歴代20位)。
にクリーブランド・インディアンスで選手兼任で黒人初のメジャーリーグ監督となる。監督としてクリーブランド・インディアンス(1975年 - )、サンフランシスコ・ジャイアンツ( - )、ボルチモア・オリオールズ( - )、そしてからまでモントリオール・エクスポズ(よりワシントン・ナショナルズ)を率いた。オリオールズ時代のには前年54勝107敗の東地区最下位で開幕21連敗を喫したチームを87勝75敗と東地区2位に導き、最優秀監督賞を受賞した。
、アメリカ野球殿堂入り。
ドジャース時代のには、後にアメリカ野球殿堂入りするエース、ドン・サットンが背番号20をつけていたため36を着けたが、それ以外は現役、監督を通じて一貫して20をつけていた。オリオールズを退団した翌1972年に現役中ながらオリオールズで、殿堂入り後、にレッズ、にインディアンスで、ロビンソンの背番号20がそれぞれ永久欠番に指定された。特に2017年にインディアンスで永久欠番に指定されたことにより、ノーラン・ライアンに次いでロビンソンは二人目の3球団欠番選手となった。
2019年2月7日死去。83歳没。
</doc>
<doc id="156936" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156936" title="アドルフォ・デ・ラ・ウエルタ">
アドルフォ・デ・ラ・ウエルタ
フェリペ・アドルフォ・デ・ラ・ウエルタ・マルコル(Felipe Adolfo de la Huerta Marcor, 1881年5月26日 - 1955年7月9日)は、メキシコの政治家、大統領。ソノラ州出身。
デ・ラ・ウェルタは1917年にソノラ州の知事に就任した。1920年3月にベヌスティアーノ・カランサ大統領は労働争議を鎮圧するためソノラ州に連邦軍を派遣するが、これに対してデ・ラ・ウェルタはソノラ州の独立を宣言する。デ・ラ・ウェルタはプルタルコ・エリアス・カリェスらとアルバロ・オブレゴンを押し立て、内戦状態となる。
カランサは逃亡途中に殺害され、1920年6月にデ・ラ・ウエルタは臨時大統領に就任した。7月にはパンチョ・ビリャが和平協定により当局に降伏している。9月の選挙ではオブレゴンが大統領に選出され、デ・ラ・ウエルタは蔵相に就任する。1923年にオブレゴン大統領はアメリカ合衆国のメキシコ国内に於ける権益を大幅に承認し、議会はこれに反発、デ・ラ・ウエルタを次期大統領候補に推す。デ・ラ・ウェルタは12月7日にベラクルスで革命を宣言し内戦となる。当初はデ・ラ・ウェルタ側が優位だったが、翌年3月に反乱軍は鎮圧され、デ・ラ・ウエルタはアメリカに亡命。オブレゴンは反乱に参加した少佐以上の将校を銃殺した。オブレゴンは憲法の再選禁止規定により大統領を辞職し、7月の選挙ではプルタルコ・エリアス・カリェスが勝利、大統領に就任した。
デ・ラ・ウエルタは1935年にはメキシコへ帰国し、ラサロ・カルデナス政権下で外務大臣に就任した。1955年にメキシコシティで死去。
なお、同じく元メキシコ大統領のビクトリアーノ・ウエルタと血縁関係はない。
</doc>
<doc id="156937" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156937" title="ラファエル・パルメイロ">
ラファエル・パルメイロ
ラファエル・パルメイロ・コラレス(Rafael Palmeiro Corrales、1964年9月24日 - )はキューバ生まれのプロ野球選手(内野手)。左投げ左打ち。
MLB史上4人目の「通算3000安打&500本塁打」を記録した選手。
息子のパトリックも2008年のMLBドラフトでピッツバーグ・パイレーツから22巡目指名されプロ入りしたプロ野球選手。
キューバの首都・ハバナで生まれるが、フィデル・カストロによるキューバ革命をきっかけに家族とアメリカ合衆国に移住。ミシシッピ州立大学でプレーした。
にシカゴ・カブスからドラフト1巡目で指名され入団。
9月8日にメジャーデビューを果たす。
には152試合に出場し、打率.307を記録。オールスターに初めて選出された。
1988年12月5日にジェイミー・モイヤーらとともにトレードでテキサス・レンジャーズへ移籍し、ピート・オブライエンの後釜として外野手から一塁手へ転向した。
には37本塁打・105打点を記録した。シーズン終了後にフリーエージェントとなった。
1993年12月12日にボルチモア・オリオールズへ移籍した。
12月1日に5年契約で古巣レンジャーズへ移籍。
5月11日に史上19人目の通算500本塁打(ヒスパニックとしてはサミー・ソーサに次いで2番目)を達成し、から9年連続で35本塁打・100打点を達成しジミー・フォックスのメジャー記録に並んだ。
にはかつて所属していたボルチモア・オリオールズと1年契約で再び移籍。加齢等によりバットスピードが遅くなり左投手の速球に対応できなくなり、前年は.282だった対左投手の打率は.189まで下がっている。
2月、元メジャーリーガーのホセ・カンセコが著書「禁断の肉体改造」を出版し、その中でパルメイロが筋肉増強剤のアナボリックステロイドを使用していると暴露した。パルメイロはこれにより2005年3月17日のアメリカ議会特別委員会での証言を求められた。委員会でパルメイロは、「まずこれを言いたい。私はステロイドを使ったことがない。以上終わり。これ以上何をどうはっきり言えというのかわからない。決してやっていない。(Let me start by telling you this: I have never used steroids, period. I don't know how to say it any more clearly than that. Never.)」と述べた。ステロイド使用疑惑を明確に否定したこの証言は称賛を集めた。
7月15日には史上26人目の3000本安打を達成した。「3000安打&500本塁打」を達成したのは、ハンク・アーロン、ウィリー・メイズ、エディ・マレーに続き史上4人目である。なお、この歴史的瞬間に守備位置のライトで立ち会ったイチローは、「なかなかこんな機会に巡り合うことはない。貴重な瞬間だった」「ヒットを毎年200本打っても15年かかる記録。彼は19年間やっているそうですが、それだけ長い間グラウンドに立っていることだけでもすごい」「とても尊敬している。自分が500本塁打打つなんて、おそらく練習でもありえないし、まさに偉大な業績だ」と彼を称えた。ところが3000安打500本塁打を達成した直後の2005年8月1日、アナボリックステロイド使用の陽性反応が出た。パルメイロは「故意にステロイドは使用してはいない。なぜ陽性になったのかはわからない」とコメントしたが容れられず、結局MLBから10日間の出場停止処分を受けた。半年前のアメリカ議会特別委員会の証言ではステロイド使用疑惑を強く否定していたため、パルメイロのドーピング違反は全米で大きく報道された。2005年は前年以上に打棒が衰えていたが、出場停止処分からの復帰後はファンからのブーイングによって精神的に疲労し、さらに不振におちいった。同年8月下旬のトロント・ブルージェイズ戦ではついに耳栓を使用するに至り、結局本塁打・打点と共に過去15年で最低の成績に終わり、オフにはチームから契約を解除された。以後はプレーせず、この2005年シーズン限りで実質引退状態となった。
引退後5年が経過した2011年から、パルメイロはアメリカ野球殿堂の殿堂入り表彰の候補者となった。しかし殿堂入り投票では選出に必要な75%以上の支持を集めることができず、毎年10%前後の得票率に留まった。得票率が伸びない原因としては、上述したステロイド使用疑惑の影響が指摘されている。2014年の投票で得票率が足切り基準の5%を下回ったため、翌年以降の殿堂入りの投票対象から外されることが決まった。パルメイロは、野球賭博に関与して永久追放処分を受けたピート・ローズに続き、メジャーリーグ通算3000本安打を達成して殿堂入りを逃した史上2人目の選手となった。
9月18日に独立リーグ・アトランティック・リーグのシュガーランド・スキーターズと選手として契約したことが発表される。スキーターズには息子のパトリックも所属し、シーズン終了まで親子で同じチームでプレーすることになった。
2018年現在、メジャーリーグ復帰を視野にアメリカ独立リーグのに所属している。
</doc>
<doc id="156939" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156939" title="橋本麗香">
橋本麗香
橋本 麗香(はしもと れいか、1980年12月25日 - )は、日本のファッションモデル、女優。
東京都出身。オスカープロモーション所属。
ファッションモデルの道端ジェシカと仲がよい。
1980年12月25日に東京都練馬区で生まれる。練馬区立谷原中学校を経て、堀越高等学校卒業。スペイン人のクオーター。10歳の時からモデル・子役として活動している。
1996年にテレビ朝日系特撮ドラマ『ビーファイターカブト』でビーファイターアゲハ/ソフィー・ヴィルヌーブ役を演じる。
1997年にはTBS系深夜バラエティー番組『ワンダフル』で、ワンギャルの一人としてリポーターを務めた。
1999年に浅野忠信主演の映画『白痴』で、本格的に女優業に力を入れる。
2004年、『SURVIVE STYLE5+』(東宝)に出演し再び浅野と共演。また、中国ではファッション誌の表紙を5年以上飾り続け、中国制作のテレビドラマに出演するなど活躍している。
2006年3月1日に手塚眞の事務所ネオンテトラからリズメディアに移籍した。
2013年7月31日に一般男性と入籍したことを発表した。
2014年12月15日に妊娠9ヶ月である事と、トップコートからオスカープロモーションに移籍した事を発表した。
2015年2月19日に第1子となる女児を出産。
</doc>
<doc id="156943" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156943" title="シャノン">
シャノン
シャノン ()
英語の姓・男女名。アイルランドのシャノン川に由来。異綴に ・(シャネン)・(シャナン)がある(英語での発音はいずれも同じ)。異形にシャナ () がある。
</doc>
<doc id="156944" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156944" title="伊勢海老汁">
伊勢海老汁
伊勢海老汁(いせえびじる)は、イセエビを主な具とした味噌汁のことをいう。
伊勢海老の身はぶつ切りにし、基本的に姿形にはこだわらない。このため、安価な角の折れた伊勢海老などが使用されることが多い。これらの海老は殆ど地元で消費されるため、ほとんど市場には出回らない。
このような事情があるため、水揚げのある市町村以外では高価な海老を使用することになり、ほとんど水揚げのある地域の郷土料理と化している。
以下は代表的な作り方であるが、地域により異なる場合もある。
なお、伊勢海老鍋として出す料理店もある。
</doc>
<doc id="156945" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156945" title="シュコダ・オート">
シュコダ・オート
シュコダ・オート (Škoda Auto) は、チェコの自動車メーカーである。本社は中央ボヘミア州のムラダー・ボレスラフ。現在はドイツのフォルクスワーゲングループ傘下で、チェコ国内自動車生産のシェア1位を占める。スローガンは「SIMPLY CLEVER」。
オーストリア=ハンガリー帝国領時代の1895年、書籍商のヴァーツラフ・クレメント(Václav Klement)と機械工のヴァーツラフ・ラウリン(Václav Laurin)が自転車メーカーのラウリン&クレメント(Laurin&Klement)社として創業した。当初「スラヴィア」(Slavia)ブランドで自転車を生産し、まもなく補助エンジン付き自転車も発売。1899年にはオートバイの生産を開始した。1901年に同社初の自動車「ラウリン&クレメント」を製造。1907年に株式会社化し、1912年にはリベレツの自動車メーカーレイヒェンベルガー自動車工業(RAF : Reichenberger Automobilfabrik)社を買収。第一次世界大戦の特需で急成長し、オーストリア=ハンガリー国内最大の自動車メーカーに成長した。
ラウリン&クレメント社は大戦敗戦によるオーストリア=ハンガリー帝国瓦解・会社所在地を含んだチェコスロバキア共和国成立後も、乗用車やトラック、航空機用エンジンの製造を手がけて好調な業績を維持したが、1924年に大規模な工場火災が発生して経営困難に陥り、翌1925年、特殊鋼や鉄道車両・兵器等の製造工場、鉱山、醸造所などを経営する国内大資本のシュコダ工業株式会社(Škodovy závody, a.s.)に買収された。自転車とオートバイの製造はこのとき取りやめた。
買収に際し、創業者の1人ヴァーツラフ・ラウリンは技師長として迎え入れられ、開発中だったラウリン&クレメント360をシュコダ360として1926年に発表。以後「シュコダ」ブランドで自動車を製造した。また1925年から1928年にかけ、シュコダが航空用エンジンをライセンス生産していたイスパノ・スイザのフランス本社との提携により、当時、高性能・高品質で知られた100HP級の最高級車「イスパノ・スイザH6B」を「シュコダ・イスパノ・スイザ」として150台以上生産した。
1929年の世界恐慌で経営に打撃を受けたものの、新車種が市場に支持されて経営を立て直した。ナチス・ドイツによるチェコスロバキア侵攻後、ドイツの重工業メーカー、ヘルマン・ゲーリング工業の傘下に置かれ、第二次世界大戦中は、ヤブロネツ・ナド・ニソウとムニホヴェ・フラディシュチの旧RAF社工場で兵器と不整地用車両の製造を行った。これらの工場は1951年に独立し、バス・トラック専門メーカーの国営会社リベレツ自動車工業(LIAZ : n.p. Liberecké automobilové závody、2003年1月廃業)となった。
チェコスロバキア共和国は、終戦直後の1945年から戦後復興を目的に国内主要重工業企業の国有化を進めた。シュコダ工業は社会主義政権成立後の1948年に国有化が行われ、自動車製造部門が自動車工業国営会社(AZNP : Automobilové závody, n.p.)に、部品製造部門が国営会社シュコダ・プルゼニ(n.p. Škoda Plzeň)に分離された。AZNP社は先に国有化された自動車メーカー、タトラ国営会社が開発した乗用車、タトラT600「タトラプラン」の製造を行い、その後行われた国内の自動車生産体制再編で、タトラ社が高級車を、AZNP社が大衆車を開発・生産する形に整理された。
AZNP社の乗用車は引き続き「シュコダ」ブランドで生産され、1950年代後半から60年代にかけては、国際ラリーで優秀な成績をおさめ西側市場でも注目されたバックボーンフレーム車の「オクタビア」や、リアエンジンの小型車である「1000MB」「100/110」「105/120/125」などを開発し、社会主義体制下の不利な条件にもかかわらず、一定の国際的競争力を維持し続けた。その後、主要市場である共産圏諸国の経済低迷にともなってAZNP社の開発・生産力も落ち、70年代に開発されたモデルを90年代まで製造し続ける状態となった。一方でペレストロイカ開始後の1987年には、イタリア・ベルトーネ社設計のFF車「ファヴォリット」(Favorit)を発表し、シュコダ車の健在ぶりをアピールした。
1989年の体制転換後、チェコスロバキア連邦政府は強力な外国資本を導入してAZNP社を民営化する方針を決めた。このときAZNP社ではフランス・ルノー社の東欧向け低価格車「ルノー・トゥインゴ」などの受託生産を行う方向で調整が進められていたが、ドイツのフォルクスワーゲン社が割って入る形で提携にこぎ着け、1991年にフォルクスワーゲン・グループの4番目のブランド、シュコダ・オート株式会社として民営化された。
民営化後、フォルクスワーゲン社は自社の技術・デザインをシュコダ社に持ち込んで大幅な近代化を進め、欧州市場をターゲットにフォルクスワーゲン車をベースにした「オクタビア」「ファビア」を発表。旧東欧企業のマイナスイメージを払拭する宣伝活動も積極的に行って成果をおさめている。現在はチェコとスロバキア以外にもインド、ロシア、中華人民共和国にも製造拠点を有するほかウクライナやカザフスタンにも組立工場を持ち、フォルクスワーゲングループの販社によるオーストラリア市場への進出も図っている。2008年には累計販売台数が67万4530台に達した。
社会主義時代の1960年代から積極的に国際ラリーに100シリーズなどで出場していたシュコダは、FIA世界ラリー選手権(WRC)に1975年、130RSのベースモデル(110R)の1.1Lエンジンを1.3LへスープアップしGr.Aマシンとして投入。総合優勝には届かないものの、クラス優勝圏内を席巻し、その"東側"からやってきた流麗なスタイリングのラリーカーは西側諸国でも大きな人気を博していった。その後これを180RS、200RSへと進化させていく。1989年にファヴォリットを投入。1.3Lの小排気量ながら、1994年には2リッターワールドカップを獲得する。翌1995年には、フェリツィアをキットカー化した、フェリツィア・キットカーを投入。1999年にはオクタヴィアWRCを投入。オクタヴィアWRCの最高成績は2001年サファリラリーの3位。2003年後半からはオクタヴィアより小さいファビアWRCで参戦し、2004年のラリーオーストラリアではリタイアまで2位をキープした。同年にはラリージャパンにもワークスとして2台が初出場した。
ワークスチームとしてのシュコダは2005年でWRCから撤退し、2006年から2008年、セミオフィシャルのレッドブル・シュコダチームとして引き続きファビアWRCで参戦した。同年のラリーカタルーニャで5位、2007年のラリー・ドイチュラントでも5位の好成績をおさめている。
2009年からはプロダクションカー世界ラリー選手権(PWRC)と、FIA統括のもう1つのラリー選手権、インターコンチネンタル・ラリー・チャレンジ(IRC)にマニュファクチャラー登録。新開発のファビアS2000はすぐに戦闘力を発揮し、スバル・三菱の跋扈するPWRCやIRCで優勝を収めた。2011年にはSWRCでユホ・ハンニネンがタイトルを獲得した。WRC2発足以後はファビア R5で参戦し、2016年にエサペッカ・ラッピ、2017年にポンタス・ティデマンド、2018年にヤン・コペッキーがチャンピオンになるなど、トップコンテンダーとしての地位を確立している。またファビアR5は世界中のカスタマーにも人気であり、2018年にAPRCを制した炭山裕矢もファビアでの参戦であった。こうした活躍もあり、日本でシュコダの名を聞く場合はラリー関連の話題であることがほとんどである。
近年のシュコダはラリーにおけるフォルクスワーゲンの尖兵の役割も担っており、2011〜2012年にフォルクスワーゲン・モータースポーツはファビア S2000を用いてWRCにエントリーし、本格参戦に向けてドライバー育成やオペレーションを習熟を行っていた。これが奏功してポロ WRCは初年度から撤退まで無傷の4連覇を達成している。また2018年デビューのポロ GTI R5は、既にR5で実績を積んでいるシュコダとの共同開発である。ちなみにポロとファビアは市販車でも兄弟車の間柄である。
</doc>
<doc id="156947" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156947" title="東京都道・神奈川県道139号真光寺長津田線">
東京都道・神奈川県道139号真光寺長津田線
東京都道・神奈川県道139号線真光寺長津田線(とうきょうとどう・かながわけんどう139ごう しんこうじながつたせん)とは、東京都町田市から神奈川県横浜市緑区を結ぶ一般都道・県道である。
この道路は町田市では主に鶴川街道と、川崎市・横浜市内では主にこどもの国通りと呼ばれ、真光寺町と長津田町を南北に結んでいる。都県境付近では鶴が丘ガーデンホスピタル(旧・鶴が丘病院)前の信号(名称なし)から東側が県道(自動車通行不可)となっており、南側のこどもの国西側交差点までは横浜市都市計画道路真光寺長津田線である。
</doc>
<doc id="156952" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156952" title="宮宿">
宮宿
宮宿(みやしゅく、みやじゅく、宮の宿、熱田宿)は、東海道五十三次の41番目の宿場である。中山道垂井宿にいたる脇街道美濃路や佐屋街道との分岐点でもあった。一般には宮の宿と呼ばれることが多かったが、幕府や尾張藩の公文書では熱田宿と書かれている。
場所は現在の愛知県名古屋市熱田区にあたる。東海道でも最大の宿場であり、天保14年には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋は248軒を擁し、家数2924軒、人口10,342人を数えたという。古くからの熱田神宮の門前町、港町でもあり、尾張藩により名古屋城下、岐阜と並び町奉行の管轄地とされた。
桑名宿とは東海道唯一の海路である七里の渡しで結ばれていた。現在も、折りにふれて宮~桑名間を遊覧船で渡る現代版「七里の渡し」が行われる。
江戸時代中期以降は四日市宿へ直接渡る航路(十里の渡し)もよく利用された。
現在の国道19号および本町通が旧街道である。
</doc>
<doc id="156954" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156954" title="宮">
宮(みや、きゅう、ぐう、く)
</doc>
<doc id="156955" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156955" title="石取祭">
石取祭
石取祭(いしとりまつり、いしどりまつり)は三重県桑名市で行われる祭で、重要無形民俗文化財に指定並びに、ユネスコの無形文化遺産に登録されている。石採祭と表記されることもある。30数台の祭車が、鉦や太鼓を12時に春日神社から一斉に打ち鳴らして練り歩く様から、「日本一やかましい祭り」、「天下の奇祭」と呼ばれる。
毎年8月第一日曜日の前日(土曜日)の午前0時から日曜日深夜まで行われる。参加する町内毎に祭車があり、それが30数台寄り集まってそれぞれにおはやしを打ち鳴らし練り歩く。
土曜日午前0時からを叩き出し、土曜日夜を試楽、日曜日を本楽と呼び、本楽は毎年決められる順序にしたがって桑名宗社(春日神社)前でおはやしを披露する。騒々しい祭であるため、重要な事には厳しいきまりがある。例えば叩き出しは春日神社前でちょうちんが振られた瞬間を開始とするが、一瞬でも先走ると翌年の参加を禁じられる。また、喧嘩なども参加停止となる。
起源は、江戸時代初期に神社の祭場へ町屋川(員弁川)の石を奉納した神事といわれる。当時は三祭礼のひとつであったが、独立・発展し今の形となった。
1981年(昭和56年)に三重県指定無形民俗文化財の指定を受けた。2007年(平成19年)に「桑名石取祭の祭車行事(くわないしどりまつりのさいしゃぎょうじ)」の名称で、国の重要無形民俗文化財に指定された。2016年(平成28年)10月には、18府県33件の「山・鉾・屋台行事」の中の1件として、ユネスコの無形文化遺産に登録勧告され、同年12月1日に登録された。
6月第1日曜
7月中旬(海の日を最終日に6日間)
7月20日
8月第1日曜3日前(木曜)
8月第1日曜2日前(金曜)
8月第1日曜前日(土曜)-試楽(しんがく)。
8月第1日曜-本楽(ほんがく)。全祭車順番に渡祭を行う。
祭終了後、後日
石取祭の祭車は、この地域で独自に発達した山車で、典型的には3輪の御所車形式である。高欄の付いた台の中心に12張の提灯が吊り下がった柱が立てられ、柱の先端に角行灯、さらにその先に3本の御幣が立てられている。柱の代わりに造り物が設置されている祭車もある。祭車の前端には長い綱が結びつけられ、多数の人が引っ張って進む。祭車の両側には、左右あわせて4個から6個の鉦が吊され、後方には大太鼓が1張設置されている。これらの鉦や太鼓を打ち鳴らしながら練り歩く。
祭車には、高村光雲、立川和四郎富重、井尻翠雲などの彫刻師が彫刻を施したもの、天幕に豪華な図柄が描かれたもの、漆塗りのもの、百数十年の歴史を持つものがあり、芸術的・歴史的価値の観点から高く評価されている。
祭車が売却・譲渡・貸与されることで、周辺地域でも石取祭が行われるようになった。桑名市内をはじめ、東海3県で地元の祭と結びつき、親しまれている。同地域に存在する祭車の総数は約150台に及んでいる。
</doc>
<doc id="156959" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156959" title="篠塚流">
篠塚流
篠塚流(しのづかりゅう)は、日本舞踊における流派のひとつ。江戸時代の後期、文化・文政期(1804年-1830年)に、歌舞伎上方歌舞伎所作事の振付師・篠塚文三郎によって創設された京舞最古の流派である。
文三郎は、名優といわれ当時絶大な人気があった三代目中村歌右衛門から手腕と力量を認められて梅扇の名を許され、以後は初代家元・篠塚梅扇を名乗る。幕末から明治初期にかけて、この篠塚流の芝居がかった「はんなり」とおおらかな所作が、京の町衆の間で大人気だった。
三世篠塚梅扇が1886年(明治19年)に死去した後、篠塚流には後継の家元が不在という状態が長く続いたが、多くの門弟によって流風は残された。しかし1946年(昭和21年)に篠塚流最後の町師匠と言われた水野つる女が死去すると、篠塚流は一時断絶という局面を迎えるにいたった。
1963年(昭和38年)水野つる女に幼少から師事し、地唄を主とした上方舞を学んでいた内弟子が五世篠塚梅扇を襲名して家元を継承、篠塚流を再興した。同年、小町踊りを復活させ、以後毎年7月10日には一門で祇園祭の神輿洗い神事お迎え提灯に参加している。
五世篠塚梅扇は平成4年京都市芸術功労賞を受賞。祇園甲部歌舞練場、京都府立芸術会館などで、「京舞篠塚流の会」を開催したり、 重文・芦花浅水荘、京都市指定有形文化財・野口邸、同じく杉本邸などで「座敷で見る京舞」を開催するなど、流派の発展に尽力するかたわら、重文・京都島原角屋で『島原三番艘』を披露するなど文化面での活動にも余念がない。
現在は五世の娘の瑞穂が中心。島原角屋の「春の鑑賞会」での茶道お手前、「秋の鑑賞会」での舞披露といった活動を担う「八千代太夫」役の女性を、流派の名取の女性から出している。また、京都市内の年中の様々なイベントに社中として出演したりなどしている。
</doc>
<doc id="156960" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156960" title="透明ドリちゃん">
透明ドリちゃん
『透明ドリちゃん』(とうめいドリちゃん)は、1978年1月7日から7月1日まで、テレビ朝日の土曜日19:30 - 20:00枠で放送された、東映・テレビ朝日製作の特撮ファンタジー番組。全25話。
主人公の青山ミドリは、ある日、弟の虎男とともに妖精の国、フェアリーに連れて行かれる。そこでミドリは、長い間行方不明になっているフェアリー国の王女ゼリアンとして迎えられる。しかし、それを事実として受け入れられないミドリは妖精界に留まることを拒否。
ガンバス大王は仕方なく、透明になれる魔法の玉ドリームボール」と、妖精を呼び出せる魔法のベルフェアリーベルを授け、“周囲の者に夢と勇気と希望を与え続ける事”“妖精界の秘密を他人に知られたらカエルになる事”を条件に姉弟を人間界へ帰すことにする。
二人は身の回りで起こる数々の事件を、ドリームボールとフェアリーベルで解決していく。
ミドリと虎男が、透明人間になる時は、ドリームボールを片手に「ベルカイアルアマサラク、ナイナイパ!!」の呪文を唱える。この時映像合成処理で、一旦妖精に変身したのち、透明になるという演出が施された。
日本初の実写魔法少女もの。本作品のコンセプトは後に『東映不思議コメディーシリーズ』の原型となった。
前番組の『ジャッカー電撃隊』が1977年末に打ち切られたことで、『宇宙からのメッセージ 銀河大戦』までのつなぎ番組として、当初から半年間の放送予定で開始された。8%で始まった視聴率も終盤には12%を記録するほどの人気を得て、予定通りの放送期間を全うした。ヒーロー作品からファンタジー作品への転換であったが、小学生を主人公としたことで視聴者層を男女問わずアピールすることができたとされる。
「ドリちゃん」のネーミングは、『がんばれ!!ロボコン』でロボコンがみどりのことを「ドリちゃん」と呼んでいたことに由来する。なお、『ロボコン』のメインライターだった上原正三も本作に参加している。
本作は、『仮面ライダー』以来多くの作品を手掛けてきた、東映生田スタジオで撮影された最後の作品でもある。
妖精の造形物は着ぐるみ・操演・ハンドパペットなど様々な手法が用いられ、ファンタスティックな世界観を演出していた。
音楽は『ジャッカー電撃隊』から引き続き渡辺宙明が担当した。ヒーロー作品が多い渡辺としては珍しいファンタジー系の作品となった。BGMは2017年にコロムビアサウンドトレジャーシリーズの1つとして初商品化された。
※すべてノンクレジット。
</doc>
<doc id="156961" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156961" title="品川宿">
品川宿
品川宿(しながわしゅく、しながわじゅく)は、東海道五十三次の宿場の一つ。東海道の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。
慶長6年(1601年)に、中世以来の港町として栄えていた品川湊の近くに設置され、北宿、南宿、新宿にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、北は京急本線の北品川駅から南は青物横丁駅周辺までの旧東海道沿い一帯に広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿(かちしんしゅく)といった(現在の北品川本通り商店街から品川区北品川2-2-14の法善寺辺りまで)。歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在していた茶屋町が享保7年(1722年)に宿場としてみとめられたもので、宿場が本来負担する伝馬と歩行人足(かちにんそく)のうち、歩行人足だけを負担したために「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味で名付けられた。
品川宿は五街道の中でも重要視された東海道の初宿であり、西国へ通じる陸海両路の江戸の玄関口として賑わい、旅籠屋数や参勤交代の大名通過数において他の江戸四宿と比べ数多いという。
古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中等)の舞台となっており、他の宿場がそうであったように岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わっていたことが覗われる。1772年、幕府は品川宿の飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加。1843年ころの記録では、食売旅籠屋92軒、水茶屋64軒を数え、「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄した。1844年1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1,348人の飯盛女を検挙している。
西沢一鳳の江戸見聞録『皇都午睡』(1850)では、幕末当時の賑わいを「高縄より茶屋有て(案内茶屋也)品川宿の中央に小橋有り、それより上は女郎銭店、橋より下は大店也。女郎屋は何れも大きく、浜側の方は椽先より品川沖を見晴らし、はるか向ふに、上総・房州の遠山見えて、夜は白魚を取る篝火ちらつき、漁船に網有り、釣あり、夏は納涼によく、絶景也。 (中略) 女郎屋頗る多し。中にも土蔵相摸・大湊屋など名高し。岡側の家は後に御殿山をひかえ、浜側は裏に海をひかえ、往来は奥州・出羽より江戸を過ぎて京・西国へ赴く旅人、下る人は九州・西国・中国・畿内の国々より行く旅人ども、参宮・金ぴら・大山詣り・富士詣、鎌倉・大磯の遊歴やら箱根の湯治、参勤交代の大小名、貴賎を論ぜず通行すれば、賑わしきこと此上なし。表の間は板敷にて玄関構へ、中店は勘定場にて泊り衆の大名・旗本衆の名札を張り、中庭・泉水、廊下を架し、琴・三味線の音など聞へ、道中女郎屋の冠たるべし。」と書いている。
1872年(明治5年)の宿駅制の廃止と鉄道の開通によって宿場町としての機能は失われたが、北品川では多くの遊郭が営業を続けたことから関連の商業施設が建ち並び、目黒川流域の低地には、地価の安さや水運・用水の便から大規模工場が立地、その周辺の南品川では下請の小規模工場やその関連住宅が増え、商店も旧東海道沿いに建ち並んだ。
その後も遊廓としての賑わいは、昭和33年(1958年)の売春防止法施行まで続いた。旧品川宿地域は第二次世界大戦の戦災をほとんど受けなかったため、戦後も北品川の遊郭は営業を続けたが、売春禁止法より工場の従業員寮や民間アパートなどに変化し、商店街が形成された。一方、南品川では1970 年代の日本列島改造によって目黒川周辺の大規模工場の移転流出が続き、その従業員らを相手にしていた商店街が衰退した。その後、近隣の埋立地が再開発されていく中、旧品川宿地域は取り残される形となったが、反面、宿場町特有の歴史的資源が維持され、1988年に「旧東海道品川宿周辺まちづくり協議会」が組織され、歴史的景観を生かした町の活性化が計られている。
江戸(日本橋) - 品川宿 - 川崎宿
</doc>
<doc id="156962" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156962" title="川崎宿">
川崎宿
川崎宿(かわさきしゅく、かわさきじゅく)は、東海道五十三次の2番目の宿場である。
武蔵国橘樹郡川崎領(現在の神奈川県川崎市川崎区)に置かれた。
東海道の成立時点では正式な宿場となっていなかったが、品川宿 - 神奈川宿間が往復十里と長く、伝馬の負担が重かったために、1623年(元和9年)に設置された。
設置後には伝馬を務める農民の負担ばかりでなく、問屋場が破産に追い込まれるなどの窮状に陥り、1632年(寛永9年)には、宿役人が幕府へ川崎宿の廃止を訴える事態となった。幕府は問屋場などへの支援を行ったものの、廃止の願いが受け入れられることはなく、さらには伝馬の負担引き上げ、地震や富士山の噴火などで財政は困窮を極めた。
そんな中で問屋・名主・本陣の当主を一身に兼ねた田中休愚は、幕府に働きかけを行い、六郷の渡しの権益を川崎宿のものとしたほか、さらに救済金を取り付けるなど、川崎宿再建のために大きな役割を果たした。
川崎宿維持の負担に苦しめられたのは宿の住民だけでなく、近隣の農民も助郷として負担を強いられていた。1694年(元禄7年)の制度発足当時は先に召集される定助郷8村と、定助郷でも不足な場合の大助郷30村というように分かれていたが、東海道の交通量増加で定助郷村の負担が過大となった結果、1725年(享保10年)には定助郷・大助郷の区分を廃止し、後にはさらに遠方の16村に加助郷が命ぜられている。助郷負担の見返りに出る手当は微々たるものであり、またその間は農作業にもかかれず、さらには川崎宿特有の問題として多摩川が川止めになれば何日も拘束されてしまうなど負担は重く、助郷の免除願が出されたり、出勤簿だけ書いて逃走したりと、負担回避のための行動が行われた。延享年間以降には金納する例も現れたが、支払う金銭は高額であり、依然として助郷村は苦しむこととなった。
川崎宿は砂子・久根崎・新宿・小土呂の4町からなっており、本陣は田中本陣・佐藤(惣左衛門)本陣・惣兵衛本陣があったが、惣兵衛本陣は江戸後期には廃業していた。ただ、度重なる災害や各藩の財政窮乏もあって幕末には本陣も衰微しており、1857年(安政4年)には、タウンゼント・ハリスが田中本陣に泊まる予定であったものの、荒廃のため万年屋へ移るということが起こっている。この万年屋は東海道から川崎大師への分岐点にあったという地の利もあって隆盛を誇り、1877年(明治10年)には和宮親子内親王も泊まるなど、本陣を衰微させるとまでいわれた繁栄を誇っていたが、1882年(明治15年)には第一京浜の工事のため姿を消した。
旅籠は72軒あり、そのうち飯盛女を置いていた「飯売り旅籠」が新宿に集中して33軒、置いていない「平旅籠」が39軒であった。旅籠1軒あたり飯盛女は2人までということとなってはいたが、実態としてはほとんど守られておらず、また取り締まりが必要なほど服装も華美になっていっていた。こうした事情もあり、平旅籠と飯売り旅籠の間にはしばしば紛争が起きたという。飯売り旅籠は、明治に入っても「貸座敷」と称して同様の営業を続けていたが、のちに南町へ移された。
JR東海道本線・南武線・京浜東北線 川崎駅又は京急本線・京急大師線京急川崎駅
品川宿 - 川崎宿 - 神奈川宿
</doc>
<doc id="156963" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156963" title="神奈川宿">
神奈川宿
神奈川宿(かながわしゅく、かながわじゅく)は、東海道五十三次の3番目の宿場である。武蔵国橘樹郡、今の神奈川県横浜市神奈川区神奈川本町付近にあった。付近には神奈川湊があった。
神奈川宿は神奈川湊の傍に併設された町であり、相模国や武蔵国多摩郡方面への物資の経由地として栄えた。なお幕末には開港場に指定されたが、実際には対岸の横浜村(現在の中区関内地区)が開港となり、開国以降次第に商業の中心は外国人居留地が作られたこの横浜村に移っていった。
神奈川町と青木町の二町からなり、両町の境には滝野川(現滝の川)が流れていた。江戸側の新宿村に隣接する江戸見附から順に並木町、新町、荒宿町、十番町、九番町、仲之町、西之町と続いて滝野川を渡り、滝之町、久保町、宮之町、元町、七間町、下台町、上台町、軽井沢といった町並みが続いていた。なお、本陣は石井本陣が西之町に、鈴木本陣が滝之町にそれぞれ置かれ、問屋場は仲之町に、一里塚は下台町にそれぞれ設置されていた。町並みは東海道沿いのみに限らず、十番町からは内陸に仲木戸横町が延び、仲之町から海辺沿いに小伝馬町、猟師町、内陸には飯田町、御殿町、二ツ谷町がそれぞれあり、枝郷として斎藤分(神奈川町)、三ツ沢(青木町)があった。
旧東海道は現在の国道15号と宮前商店街を通り、神奈川駅及び青木橋の西側、台町、上台橋を通っていた。旧東海道はそのまま上方見附を経て芝生(しぼう)村から現在の環状1号線に沿って天王町駅、保土ヶ谷駅方面へ進む。
亀の甲煎餅が名物とされたが、現在は提供している店舗は存在しない。台町から海を見下ろす眺望は十返舎一九の『東海道中膝栗毛』や歌川広重の浮世絵にも紹介され名所とされた。神奈川沖の海は、葛飾北斎の『富嶽三十六景』神奈川沖浪裏にも描かれた。また、宮洲(青木町の海岸、現在の栄町)の潮干狩りも名物であった。
天保4年(1833年)には、東日本では暴風雨災害以後、米価の高騰により、9月に神奈川宿で米騒動があったといわれている。
明治22年(1889年)に神奈川町、青木町、芝生村が合併し神奈川町が成立、1901年(明治34年)に横浜市に編入された。
成仏寺の東にある神奈川地区センターの前には高札場が再現され、館内に江戸時代の神奈川宿のジオラマが展示されている。
神奈川湊(かながわみなと)は、武蔵国橘樹郡神奈川(現・神奈川県横浜市神奈川区)にあった湊(港)である。
神奈川湊が記録に現れるのは、鎌倉に幕府が置かれた13世紀以降のことである。しかし、古代から東京湾内海交通の拠点として、六浦(神奈川県横浜市金沢区)・品川(東京都品川区)・富津(千葉県富津市)・木更津(同木更津市)などとともに、当地に港が存在したことは確認されている。
神奈川湊とその湊町は、鎌倉時代には鶴岡八幡宮が支配し、室町時代には関東管領上杉氏の領地となった。江戸時代には東海道が整備され、慶長6年(1601年)に神奈川へ宿場が置かれた。神奈川宿と神奈川湊は、幕府の直接支配を受け、神奈川陣屋がこれを担った。神奈川湊の周辺には、北に生麦湊、新宿湊があり、南に戸部湊、野毛湊があった。
安政5年(1858年)、神奈川湊沖・小柴(横浜八景島周辺)に碇泊していたポーハタン号上で日米修好通商条約が締結された。同条約では「神奈川」を開港すると定められていた。しかし、街道を通行する日本人と、入港する外国人との間の紛争を避けるために、神奈川湊の対岸にある横浜村に港湾施設や居留地をつくり、開港した。これが現在の横浜港となった。そのため、外国人に対しては横浜は神奈川の一部と称した。
JR京浜東北線・横浜線 東神奈川駅又は京急本線仲木戸駅
川崎宿 - 神奈川 - 程ヶ谷宿
</doc>
<doc id="156965" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156965" title="戸塚宿">
戸塚宿
戸塚宿(とつかしゅく、とつかじゅく)は、東海道五十三次の5番目の宿場である。東海道では相模国最東端の宿場町である。
相模国鎌倉郡(今の神奈川県横浜市戸塚区)にあった。日本橋から旅程がちょうど一泊目にあたり、旅籠数が五十三次中、小田原宿に次ぐ規模であった。当初、保土ヶ谷宿の次は藤沢宿であったが、上記の理由から戸塚にも宿屋が増え、客を奪われることを恐れた藤沢宿の猛反対を押し切り、幕府公認となった。
吉田町、戸塚町、矢部町の三町からなる。見附は、現在の吉田町イオン前と戸塚町大坂下(バス停前)にあり、品濃町と原宿町に一里塚が残る。大山道、鎌倉街道、厚木街道などと交差する要衝であった。幕末の黒船来航の際には、避難民が逃げてきたといわれている。
澤辺・内田の二軒の本陣があった。澤邉本陣跡には屋敷神であった羽黒神社が現存している。内田本陣跡は戸塚郵便局になっている。
戸塚宿にちなむ川柳「佐野の馬 戸塚の坂で 二度転び」は鉢の木物語のパロディで、「いざ鎌倉」と馳せ参じた老馬が鎌倉目前の戸塚で転んだ、という意味。「戸塚の坂」は戸塚宿の上方寄りにある大坂、あるいは程ヶ谷宿との間にある権太坂や品濃坂(東戸塚駅近く)のことともいう。
元遊廓の名残として、料亭の「丁字屋」が近年まで営業していた。
JR東海道本線・横須賀線・湘南新宿ライン・横浜市営地下鉄ブルーライン 戸塚駅
程ヶ谷宿 - 戸塚宿 - 藤沢宿(途中に原宿と鉄砲宿の2つの間宿がある。)
</doc>
<doc id="156966" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156966" title="藤沢宿">
藤沢宿
藤沢宿(ふじさわしゅく、ふじさわじゅく)は、東海道五十三次の6番目の宿場である。
神奈川県藤沢市にあった。
慶長6年(1601年)に東海道の宿場となった。後に戸塚宿、川崎宿が追加され東海道6番目の宿場となる。東海道五十三次整備以前から清浄光寺(遊行寺)の門前町として栄え、後北条時代は小田原城と支城の江戸城の桜田門、八王子城、玉縄城をつなぐ小田原街道の分岐点だった。
清浄光寺の東側に江戸側の見附(江戸方見附)があり、現在の小田急江ノ島線を越えた西側あたりに京都側の見附(上方見附)があった。この範囲が藤沢宿である。
境川に架かる大鋸(だいぎり)橋(現遊行寺橋)を境に、江戸側(東岸)の大鋸町(後に西村が分立)は相模国鎌倉郡、京都側(西岸)の大久保町、坂戸町は同国高座郡に属した。
右上の浮世絵の背景に見られるように清浄光寺(通称:遊行寺)が近くにあり、手前の大鋸橋の京都側南東には江島神社の一の鳥居があり、ここから絵の手前右手へ江の島道が約1里(約4km)の距離で江の島に通じていた。また八王子道(現・国道467号)のわきには源義経が祀られている白旗神社がある。幕末には70軒以上の旅籠があった。
藤沢御殿は徳川将軍家の宿泊施設であり、現在の藤沢公民館と藤沢市民病院の間にあった。慶長元年頃東西106間、南北62間の広さの御殿が建てられた。表御門は南側、裏御門は東側にあった。徳川家康、秀忠、家光と30回近く利用されている。天和2年(1682年)まで設置。現在では御殿橋、陣屋小路、陣屋橋などの地名が残る。
延享2年(1745年)までは堀内本陣、その後は蒔田本陣があった。
サザエ、アワビ、ひこしなます(しらす干し)、弁慶餅。
以下は藤沢宿支配の歴代代官の一覧であるが、藤沢宿には代官所は存在しなかった。
小田急江ノ島線 藤沢本町駅
戸塚宿 - 藤沢宿 - 平塚宿
</doc>
<doc id="156967" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156967" title="平塚宿">
平塚宿
平塚宿(ひらつかしゅく、ひらつかじゅく)は、東海道五十三次の7番目の宿場である。現在の神奈川県平塚市にあった。
藤沢宿 - 平塚 - 大磯宿
</doc>
<doc id="156968" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156968" title="大磯宿">
大磯宿
大磯宿(おおいそしゅく、おおいそじゅく)は、東海道五十三次の8番目の宿場である。現在の神奈川県中郡大磯町にあった。
大磯宿までの旧跡・みどころ
平塚宿 - 大磯 - 小田原宿
注釈
出典
参考文献
</doc>
<doc id="156969" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156969" title="小田原宿">
小田原宿
小田原宿(おだわらしゅく、おだわらじゅく)は、東海道五十三次の9番目の宿場である。今の神奈川県小田原市にあった。江戸を出て最初の城下町にある宿場。
小田原宿までの旧跡・みどころ
JR東海道本線・東海道新幹線・小田急小田原線・伊豆箱根鉄道大雄山線・箱根登山鉄道 小田原駅
大磯宿 - 小田原 - 箱根宿
</doc>
<doc id="156970" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156970" title="箱根宿">
箱根宿
箱根宿(はこねしゅく、はこねじゅく)は、東海道五十三次の10番目の宿場である。現在の神奈川県足柄下郡箱根町にあった。
『新編相模国風土記稿』によると、元和4年(1618年)に箱根山にかかる箱根峠と箱根関所の間の狭い地域に設置されたとある。これに対して古くからの箱根の町があった関所から小田原宿寄りの地域を「元箱根」と呼ぶ。これは関所設置に不満を抱いた元箱根の住民が本陣の提供を拒んだため、三島宿寄りに急遽人工の町を設置したためである。
最初の住民は隣接する小田原・三島両宿場の住民を強制的に移住させたといわれている。箱根町箱根に現在残る「小田原町」「三島町」の字は、この移住に由来する。また、「小田原町」は小田原藩が、「三島町」は三島代官所(後に韮山代官所)が管轄するという、領主を異にする特殊な統治体制だった。このような統治体制は東海道五十三次の他の宿にはみられない。
標高725mという五十三次の中で最も高い場所に置かれていたため、幕府も宿場の維持に苦心したという。
小田原宿 - 箱根宿 - 三島宿
</doc>
<doc id="156971" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156971" title="三島宿">
三島宿
三島宿(みしましゅく、みしまじゅく)は、
三島宿(みしましゅく、みしまじゅく)は、東海道五十三次の11番目の宿場である。
現在の静岡県三島市にあった。本陣2、旅篭数74。江戸幕府の天領であり、宝暦9年(1759年)までは伊豆国統治のための代官所が設けられていた。
JR伊豆箱根鉄道駿豆線 三島田町駅
</doc>
<doc id="156972" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156972" title="沼津">
沼津
沼津(ぬまづ)
</doc>
<doc id="156976" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156976" title="蒲原宿">
蒲原宿
蒲原宿(かんばらしゅく、かんばらじゅく)は、東海道五十三次の15番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区に位置する(2006年3月30日までは蒲原町と呼ばれていた)。
JR東海道本線 新蒲原駅
</doc>
<doc id="156979" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156979" title="由比宿">
由比宿
由比宿(ゆいしゅく、ゆいじゅく)は、東海道五十三次の16番目の宿場である。現在の静岡県静岡市清水区に位置する。
本陣跡が整備され、由比本陣公園となっている。東海道名主の館(小池家住宅)が、1998年(平成10年)10月9日に、国の登録有形文化財(建造物)の指定を受けた。
JR東海道本線 由比駅又は蒲原駅
</doc>
<doc id="156980" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156980" title="江尻">
江尻
江尻(えじり)
</doc>
<doc id="156983" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156983" title="新居">
新居
新居(あらい・あらゐ)
新居(にい・にゐ)
</doc>
<doc id="156985" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156985" title="赤坂宿">
赤坂宿
赤坂宿(あかさかしゅく)
</doc>
<doc id="156987" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156987" title="桑名宿">
桑名宿
桑名宿(くわなしゅく、くわなじゅく)は、東海道五十三次の42番目の宿場である。現在は三重県桑名市。脇往還佐屋街道もここから分岐していた。徳川四天王の本多家のほか、各松平家の大名が藩主を務めた桑名藩の城下町でもある。
江戸時代後期の調査では、本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠屋120軒を擁し、家数2,544軒、人口8,848人(男4,390人、女4,458人)であったと記録されている。東海道では旅籠屋数で宮宿に次ぐ2番目の規模を誇った。
宮宿とは、東海道で唯一の海上路である七里の渡しで結ばれ、伊勢国、および、伊勢参りの玄関口となっていた。
江戸時代の宿場町は揖斐川沿いにあったが、関西鉄道桑名駅が宿場町の西側に設けられて以降、市街地は西にシフトした。
話し言葉(方言)において木曽三川が東京式アクセントと京阪式アクセント(関西式アクセント)の境界であることから、桑名宿は東海道における京阪式アクセント地区最東端の宿場町となっている。
四日市宿までの史跡・みどころ
江戸時代後期に幕府の道中奉行所が五街道の全宿駅を調査、記録した『宿村大概帳』によれば、「桑名宿雑之部」に"「一、此宿蛤・時雨蛤・白魚・干白魚名物なり、」"との記載があり、桑名宿の主な名物として蛤(はまぐり)、白魚(しらうお)を挙げることができる。「桑名市#名産」も参照のこと。
</doc>
<doc id="156988" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156988" title="四日市宿">
四日市宿
四日市宿(よっかいちしゅく、よっかいちじゅく)は、東海道五十三次の43番目の宿場である。現在は三重県四日市市。幕府直轄の天領であり、代官所が置かれていた。宮宿との間に「十里の渡し」があった。宿内人別:7114人(男3522人、女3592人) 宿内総家数:1811軒(本陣2、脇本陣1、旅籠98)。
</doc>
<doc id="156989" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156989" title="大津宿">
大津宿
大津宿(おおつしゅく、おおつじゅく)は東海道53番目(→東海道五十三次)の宿場で、現在は滋賀県大津市。東海道五十三次中最大の宿場。
江戸時代、大津と京都を結ぶ旧東海道の区間では牛車の往来をスムーズにするために道に「車石」と呼ばれる花崗岩の石が敷かれた。明治時代に馬車の利用が進むと車石は撤去され、撤去された車石は石垣などに利用された。
大津宿から三条大橋までは、京阪電鉄京津線および京都市営地下鉄東西線が並行している。
三条大橋までの史跡・みどころ
</doc>
<doc id="156991" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156991" title="きんつば">
きんつば
きんつば(金鍔)は、きんつば焼きの略称で、和菓子のひとつである。
現在よく見られるのは、寒天を用いて粒餡を四角く固めたものの各面に、小麦粉を水でゆるく溶いた生地を付けながら、熱した銅板上で一面ずつ焼いてつくる「角きんつば」であるが、本来のきんつばは、小麦粉を水でこねて薄く伸ばした生地で餡を包み、その名の通り日本刀のつばのように円く平らな円型に形を整え、油を引いた平鍋で両面と側面を焼いたものである。
サツマイモでつくった芋餡を包んだもの、もしくは、四角く切った芋ようかんの各面に生地を付けて焼いたものは「薩摩きんつば」「芋きんつば」と呼ばれるものになる。
元々は大阪で考案された菓子であり、上新粉(米粉)で作った生地で餡を包んで同様に焼いたものであった。当時は、その形状と色から「ぎんつば(銀鍔)」と呼ばれていた。1600年代後半に製法が大阪から江戸に伝わると「銀よりも金のほうが景気が良い」との理由から、名前が「きんつば」に変わったとされている。
現在の「角きんつば」は、神戸元町の紅花堂(現在の本高砂屋)の創業者である杉田太吉により明治時代に考案されたものである。
富山県高岡市戸出地区などでは現在も円型でつばの文様を付けたきんつばが残っている。
</doc>
<doc id="156993" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156993" title="板橋宿">
板橋宿
板橋宿(いたばししゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。
中山道六十九次のうち江戸・日本橋から数えて1番目の宿場(武蔵国のうち、第1の宿)。
同時に、川越街道(川越・児玉往還)の起点でもある。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国豊島郡板橋郷下板橋村。
現在の住所では東京都板橋区本町、および、仲宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。
江戸時代には武蔵国豊島郡下板橋村の一部で、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、奥州街道・日光街道の千住宿とならび、江戸四宿の一つとして栄えた。
江戸の境界にあたり、江戸後期には上宿の入り口にある大木戸より内側をもって「江戸御府内」「朱引き」、すなわち、「江戸」として扱われていた。 
板橋宿はそれぞれに名主が置かれた3つの宿場の総称であり、上方側(京側、北の方)から上宿(かみ-しゅく。現在の本町)、仲宿(なか-しゅく、なか-じゅく、中宿とも。現在の仲宿)、平尾宿(ひらお-しゅく。下宿〈しも-しゅく〉とも称。現在の板橋)があった。
上宿と仲宿の境目は地名の由来となった「板橋」が架かる石神井川であり、仲宿と平尾宿の境目は観明寺付近にあった。 
道中奉行による天保12- 15年(1841- 1844年)の調べ(『中山道宿村大概帳』)によると、宿往還の長さは20町9間(約2.2km)、うち町並地は長さ15町49間(約1.7km)であり、南北に広がる。宿内人口は2,448人(うち、男1,053人、女1,395人)、宿内家数は573軒であった。
うち、本陣は仲宿に1軒、脇本陣は各宿に1軒ずつ計3軒が設けられ、旅籠(はたご)は総計54軒であった。
板橋宿の中心的存在であった仲宿には、問屋場、貫目改所、馬継ぎ場、番屋(自身番の詰め所)があった。
また、上宿には木賃宿(商人宿)や馬喰宿が建ち並んでいた。 
江戸時代には日本橋が各主要街道の形式上の起点ではあったが、実際の旅の起点・終点としては、江戸四宿と呼ばれる品川宿、千住宿、内藤新宿、そして、板橋宿が機能していた。
これらの宿場には茶屋や酒楼はもちろん飯盛旅籠(めしもり-はたご)も多くあり、旅人のみならず見送り人や飯盛女(宿場女郎)目当ての客なども取り込んでたいそうな賑わいを見せた。
規模は同じ天保15年頃の宿内人口と家数を比較して大きいほうから、千住宿(9,556人、2,370軒)、品川宿(7,000人、1,600軒)、内藤新宿(2,377人、698軒余)、板橋宿(2,448人、573軒)と、板橋宿は四宿の中では最下位ながら、その繁栄ぶりは中山道中有数であった。
なお、板橋宿は150人もの飯盛女を置くことが認められており、日本橋寄りの平尾宿には飯盛旅籠が軒を連ねていた。
幕末の戊辰戦争の際、中山道から江戸攻撃に進軍中であった官軍は、天璋院からの書状によりここで停止した。
宿場町として終焉を迎えたのは明治時代。
その頃になると中山道の重要性の低減に連れて徐々に寂れてゆき、板橋遊廓へと変貌していった。遊廓としての賑わいは昭和中期の太平洋戦争中まで続いた。遊廓として使われていた『新藤楼』の玄関部分は現在、保存されている。
板橋宿は第一に中山道の宿場であるが、脇往還として江戸側から分岐する川越街道(川越・児玉往還)が平尾宿を起点としており、平尾追分と呼ばれていた。
また、日本橋から2里(約7.9km)の平尾宿には道中2つ目の一里塚(平尾の一里塚)があったが、今は何も残されていない。
板橋は、仲宿付近の石神井川に架けられ、地名「板橋」の由来とされる橋である。
その名は『義経記』等の文献の中で、平安時代の昔より既にあったものとして登場する。
古代から近代にかけてのものは文字どおり板張りの木橋、江戸時代のものは、長さ9間(約16.4m)、幅3間(約5.5m)の緩やかな太鼓橋で、歌川広重の浮世絵や長谷川雪旦の『江戸名所図会』にも描かれている。
橋の形は明治以降も変わらなかったが、昭和7年(1932年)を境に以後はコンクリート橋になっている。
現在、二つの川、二つの橋が連続して存在するように見えるが、これは南側に大きくV字状に回り込んでいた川を昭和47年(1972年)の河川改修で直線化した結果である。北に約10m移動した石神井川の橋と、埋め立て公園化された元の川にかかる橋がある。コンクリート製ながら、欄干に木目模様を施して雰囲気を演出している。
橋の傍らには「距日本橋二里二五町三三間」「日本橋から十粁六百四十三米」と記された標柱と、案内板がある。
現在は板橋十景の一つとされている(参考:)。 
江戸初期以前の創建とされる遍照寺(へんしょう-じ)は、江戸期にはその境内が馬つなぎ場となっていた。ここで開かれる馬市は明治40年(1907年)頃まで続いていた。寛政10年(1798年)建立の馬頭観音像が名残を留める。
江戸期の天台宗であった寺は廃仏毀釈時代の明治4年(1871年)に廃されたが、明治14年(1881年)旭不動冥途と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年(1947年)真言宗智山派、成田山新勝寺末寺の寺院として再興。
縁切榎(えんきり-えのき)は、榎大六天神(えのきだいろくてんじん)のご神木である。街道の目印として植えられていた樹齢数百年という榎(エノキ)の大木で、枝が街道を覆うように張っていたという。
その下を嫁入り・婿入りの行列が通ると必ず不縁となると信じられた不吉の名所であったがしかし、自らは離縁することも許されなかった封建時代の女性にとっては頼るべきよすがであり、陰に陽に信仰を集めた。
木肌に触れたり、樹皮を茶や酒に混ぜて飲んだりすると、願いが叶えられる信じられたのである。
徳川家に降嫁する五十宮(いそのみや)、楽宮(ささのみや)、および、和宮(かずのみや、親子内親王)の一行は、いずれもここを避けて通り、板橋本陣に入ったという。
和宮の場合、文久元年(1861年)4月、幕府の公武合体政策の一環として将軍家茂に輿入れすることとなり、関東下向路として中山道を通過。盛大な行列の東下に賑わいを見せるのであるが、板橋本陣(飯田家)に入る際は不吉とされる縁切榎を嫌い、前もって普請されていた迂回路を使って通過したとのことである。
なお、和宮の一行が菰(こも)で木を包んで真下を通ったとの話があるが、迂回路を造ってそちらを通ったことが史料で確認されている。
現在の榎は3代目の若木で、場所も道路の反対側に移動しているが、この木に祈って男女の縁切りを願う信仰は活きている。大六天神であるが、日本三大縁切稲荷に数えられることもある。
平尾の一里塚から上方(京側)へ、板橋宿を経て1里進んだ所に、日本橋から3里(約11.8km)、道中3つ目の一里塚である志村の一里塚が建てられている。2基一対の塚が、今日でも石垣と木(榎)をそのままにほぼ完全な形で保たれており、最も保存状態のよい一里塚跡の一つとして知られている。この区間の中山道が国道化された昭和初期の整備の際に元の位置のまま3段積みの石垣で土の崩れを防ぐようになり、石垣と国道との間の歩道が狭くなって、石垣を廻り込む別の歩道がある現在の姿となった。
このあたりからは荒川右岸、荒川低地と武蔵野台地成増台の境をなす崖地形となり、およそ20mにおよぶ高低差を急峻な坂道で下っていく。
志村の一里塚を後にしてさらに進むと、中山道で最初の難所とされた急勾配である清水坂に入り、間もなくして相模大山へ向かうふじ大山道(明治期以降は「富士街道」と称)との追分に差し掛かる。
この坂道は左斜めに大きく湾曲していて、中山道中で唯一右手に富士山を望める名所として知られ、「右富士」と呼ばれていた。『江戸名所図会』にもその記述が見える。
また、「清水坂」の名はこのあたり一帯が湧き水に恵まれていることにちなんだものであるとされている。
他にも古く戦国時代初期の頃には志村城を拠点に勢力を張った千葉信胤(千葉隠岐守信胤)にちなみ「隠岐殿坂」とも呼ばれ、のちには、地蔵尊があったことにより「地蔵坂」とも呼ばれていた。
清水坂を過ぎ、旧・中山道(国道17号)と東京都道311号環状八号線(環八通り)が交差する現在の志村坂下交差点近くには、当時立場(たてば)が設けられていて、立場茶屋のほか、志村名主・大野藤左衛門の屋敷も建っていたという(志村の立場)。
茶屋は平時に休憩所として利用されたものであるが、屋敷のほうは、荒川の戸田の渡しが大水で川留めされた際の控え場所として重要な施設であった。
立場は役目を終えた後も長くその面影を留めていたが、都電志村線の開通、周辺の工業地帯化・住宅地化、環八通りの整備計画などにより、昭和30年(1955年)頃に姿を消した。
江戸方から上方へ、おおよそ道なりに記す。
</doc>
<doc id="156994" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156994" title="浦和宿">
浦和宿
浦和宿(うらわ しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。
中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて3番目の宿場(武蔵国のうち、第3の宿)。
また、北は日光街道と連絡し、南の府中通り大山道(相模大山および大山石尊〈現:大山阿夫利神社〉詣での道の一つ)とは荒川の渡し場2箇所、羽根倉の渡し(現・埼玉県志木市内)と秋ヶ瀬の渡し(現・埼玉県さいたま市内)によって繋がっていた。現在の埼玉県さいたま市浦和区(旧・浦和市)にあたる。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡浦和郷浦和宿。浦和宿は上町(のちに常盤町)・中町・下町(のちに高砂町)からなり、現在は区画整理を経て常盤・仲町・高砂がそれぞれ対応している。
1591年(天正19年)までは大宮宿は馬継ぎ場で、宿場は無く、北隣の宿場は上尾宿であった。
浦和宿は幕府直轄領(通称:天領)であった。
徳川将軍家の鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・浦和区常盤1丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社や玉蔵院の門前町として栄えていた。
施設はしかし、近隣の鴻巣宿で文禄2年(1593年)に鴻巣御殿が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。
当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。
道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2km)。宿内人口1,230人(うち、男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)。 
現在は埼玉県の県都として大都市に発展している浦和であるが、江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく、江戸期の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち、8番目と少なかった。
宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社(じけい-いなり-じんじゃ)の鳥居を中心として南北2町(約0.2km)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。市は昭和初期までは続いていた。常盤公園へ向かう道の入り口にあって野菜を売る姿の農婦の銅像も、かつての市場の様子を伝えている。六斎市とは、中世において、一定の地域にて月のうち6回開かれた定期市であり、日は1と6、2と7などといった組み合わせで開かれるものである。六斎市が語源とする六斎日は八斎戒に由来する仏教習俗で、特に身を慎み、清浄であるべき日とされた6日を言う。毎月の8日・14 日・15日・23日・29日・30日がそれであった。
星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200坪(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇の氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。しかし、明治のうちに星野家が断絶し、建物は緑区大間木の大熊家に移築された表門以外ことごとく破却されてしまった。「明治天皇行在所阯」の碑が往時を偲ばせる。その後は公園化され、さいたま市の史跡となっている。
浦和宿は、北は日光街道と連絡し、南は府中通り大山道と結ぶ、追分の地勢にあった。
詳しくは導入部で既に述べているので参照のこと。
江戸方に一つ手前の蕨宿の項目でも述べているが、この界隈を越えて上方(京側)へ向かうと、しばらくの間、鰻(うなぎ)を食せる店が無くなってしまう。
そのため、ここで食べていく客が多く、蕨宿と浦和宿はともに鰻で有名な宿場町であった。また、江戸に向かう旅人は、戸田の渡しを越えればついに江戸という立地であるため、宿泊し、精をつけるため鰻を食することも多かった。仕入れていたのは別所沼(現・さいたま市内)で獲れた鰻である。現在でも浦和区を中心に鰻の老舗が軒を連ねており、浦和うなぎまつりや浦和うなこちゃんなど鰻に関する文化が残る。
蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。
江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。
当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。
これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。
旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。
また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。
浮世絵師・渓斎英泉が浦和宿を描くにあたって着目したのは、この焼き米売りの茶屋であり、焼米坂手前を視点として浦和宿と浅間山を望む構図であった(右上の画像を参照)。
浦和宿の少し手前岸村(現在の岸町)にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。
「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。
しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。
その後、「調(つき)」は音韻によって「月(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。
それゆえ兎(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ならぬ兎である。
また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるともしている。 
『木曽路名所図会』に「富士 浅間 甲斐 武蔵 下野日光 上州伊香保など あざやかに見えたり」とある全方位的に見晴らしのよい名所として知られ、「六国見(ろっこくけん)」と呼ばれていた。
文久4年(1864年)1月23日の朝に、水戸藩家臣・宮本鹿太郎とその後見人3名が、千葉周作門下の元・丸亀藩浪人・河西祐之助を父の仇として討ち、4年越しに本懐を遂げたという、「一本杉の仇討ち」の現場と伝えられる。
河西は乗り合わせた舟中で宮本の父と口論となり、その命を奪ってしまった者であったが、その後、僧となるために江戸へ下る途中であった。
河西を哀れんだ村人が供養塔を建てたが、今はそれも失われ、「一本杉」と刻まれた石碑が針ヶ谷3丁目の旧中山道脇にひっそりと建つばかりである。河西の墓は近くの廓信寺にある。
与野駅東口前の交差点に半里塚として推定樹齢300年高さ13メートルの欅があったが、2008年に樹木医の診断で根本部分に回復不能の腐食が見つかり、2010年5月19日深夜に管理者のさいたま市によって伐採された。与野駅構内に幹が展示されている。
江戸時代、隣の大宮宿に柳屋という飯盛旅籠があり、街道筋でも評判の千鳥・都鳥という美しい姉妹が旅人の相手をしていたという。
やがて千鳥が宿場の材木屋の若旦那と恋仲となり、末は夫婦にと固い約束を交わす。
ところが、関八州を荒らし回る大盗賊・真刀徳次郎が横恋慕し、何が何でも千鳥を身請けするとしつこく迫り、挙句の果てには宿に火を点けると凄んで手を付けられなくなった。
これを知った千鳥は思いあまって、高台橋から身を投げてしまったという。
今日、高台橋の傍らにひっそりと佇む女郎地蔵は、千鳥を哀れに思った町の人々による建立と伝えられる。
さて、千鳥の悲劇があった頃、高台橋付近では鬼火(火の玉)が多く見られた。人々はこれを高台橋から身投げした千鳥の霊魂であるとか、傍らの不動明王像の悪戯であるなどと噂し合った。
そんなある日の夜、一人の男が松の陰に潜んでいると、谷間から鬼火が現れた。これに怖れおののいて、男は鬼火に向かって出鱈目に斬りつける。すると大きな悲鳴が聞こえ、そして、物凄い形相の男が姿を現わした。その男は 「俺は不動明王だ。お前に剣を斬り落とされた」 と言い残して消えてしまった。
この話を聞いた人々が翌日様子を確かめに行くと、怖ろしい顔をした不動明王像は剣を持っていなかったという話である。
以来、像は「火の玉不動」と呼ばれるようになった。
江戸方から上方へ、おおよそ道なりに記す。
</doc>
<doc id="156995" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156995" title="大宮宿">
大宮宿
大宮宿(おおみや-しゅく)は、日本の近世にあたる江戸時代に整備され、栄えていた宿場町。
中山道六十九次(または木曾街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて4番目の宿場(武蔵国のうち、第4の宿)。
所在地は、江戸期には東海道武蔵国足立郡大宮宿。
現在の埼玉県さいたま市大宮区にあたる。
中山道の前身となる街道は、戦国時代に後北条氏によって整備されたが、その時代には浦和宿の次が上尾宿となり、大宮は両者の中間点で馬継ぎをする場であった。またその街道は、一の鳥居から氷川神社の参道を通り、神社の前で折れて迂回していた。神社の鳥居前、参道沿いに既に町と呼べる集落があったようである。
大宮宿の脇本陣の主であった栗原家が伝えるところによると、天正19年(1591年)に栗原次右衛門保逢が地子免許と引き替えに宿役を勤めると願いを出した。免税は受け入れられなかったが、これを機に大宮宿が設けられたという。宿の名は氷川の大宮、すなわち氷川神社にちなむ。この年は徳川家康が北条氏にかわって関東地方を支配するようになって間もなく、他の宿場の整備年代との関連で、もう少し年代が下るのではないかと言われる。
当初の大宮宿は、大門通りと呼ばれた参道沿いに、宮町、中町、下町と続く3つの町からなった。寛永元年(1624年)には、1キロメートル北東の寿能城跡に屋敷を構えていた北沢甚之丞直元が42軒の村民とともに移住し、大門町を開いて4町となった。
寛永5年(1628年)に、大宮宿の人々は、西の原野に新道を開き宿場をそこに移した。往還の人を神社に参らず通過させるのが神に対して恐れ多いこと、道を直にすると便利なこと、移転の跡地を畑にすれば年貢も増えるというのが、その申請理由であった。翌寛永6年(1629年)に検地が実施され、この時に地子免許を受け、伝馬役負担が定められた。新道は、氷川神社の一の鳥居から北西方向、西寄りに分岐させて開いた。
明治時代に入り、街道の重要性の低下に伴い、宿場町としての賑わいは終わった。日本鉄道が敷設されたものの町の衰退から浦和駅-上尾駅間には鉄道駅が設けられなかった。しかしその後の誘致運動により東北本線の分岐点として大宮駅が開業し、さらに大宮工場が設置されたことで、鉄道の町として発展した。
道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並みは9町30間(約1.04km)。宿内人口1,508人(うち、男679人、女829人)。宿内家数319軒(うち、本陣1軒〈在・宮町1丁目〉、脇本陣は9軒で中山道の宿場としては最多である。問屋場4軒、旅籠25軒。他に、紀州鷹場本陣〈北澤家〉1軒、等あり)。 
人口は浦和宿とほぼ同じ規模であったが、宿場ではなく馬継場を起源としていたこともあり、問屋場が多い。また、当時江戸から1日で歩く距離としては大宮宿までが限界だったこともあり、脇本陣が町の規模に合わないほど多いという特徴がある。
宿場は当初、本村(のち、高鼻村、さらに、宮町)、北原村、右衛門八分(のちの堀之内村)、甚之丞新田(のち、寿能村、さらに、大門町)、新宿中町、新宿下町、吉鋪新田の7組で構成され、これらを大宮宿と総称した。
のち、宮町・大門町・仲町・下町・吉敷町の5町構成に形を変えながら集約・発展を見せている。
紀州鷹場本陣は、寿能城家老・北澤宮内の子孫、北澤次郎左衛門家の屋敷であった。
同家は甚之丞新田の開拓者であり、紀州鷹場本陣は大宮宿の草分けであった。
同家は紀州候の鳥見役として御鷹場本陣と宿駅の脇本陣を兼ねていた。
なお、北澤家は後世、日本近代漫画の創始者と評価される北澤楽天を輩出している家柄である。
建物は安永4年2月1日(1775年)に出火全焼。
現在当地は高島屋大宮店(大宮駅前)になっており、屋上に北澤稲荷を残す。
氷川神社(氷川明神社)は、武蔵一宮と称される神社である。大宮宿の名は神社の雅名としての「大宮」に由来する。今日の中山道から右手に分岐して氷川神社へ向かって18町(約2km)ほど続く参道(「氷川神社参道」)は、寛永5年(1628年)に一の鳥居から左手に延びる道が新たに造られるまでは中山道であった。参道を北に歩きつめてから、神社には入らず迂回路をとっていたのだが、その迂回路については複数の伝えがあり、はっきりしない。なお、今日ある欅並木の参道は、江戸期には松並木、太平洋戦争の前までは杉並木であったという。
毎月の5と10の日には六斎市が立てられていた(五十の市)。
氷川神社参道から分かれて中山道を北に進むと最初にある大きな交差点が吉敷町交差点である。
かつて大宮宿の南の入り口であったこの場所には東西に流れる排水路があり、長さ7尺(約212cm)、幅1間4尺(約303cm)の石橋が架かっていた。
この橋の名を「安藤橋」といったが、それは大宮宿の人々を救った一人の武士の名にちなんだものである。
北澤家の失火に始まり大宮宿の85軒を焼いた安永4年(1775年)の大火(北澤大火)は、その救助活動が7日に及ぶほどの惨事であったという。
言い伝えによれば、この事態に際してときの勘定奉行であり道中奉行であった安藤弾正(安藤惟要;あんどう これとし。安藤弾正少弼惟要。在職:1761- 1782年)は、被災者に幕府の御用米と御用金を施し、大いに救ったと伝えられている。
しかし、それは許可を取らない独断による措置であったため、彼は責任を問われて切腹した。
安藤弾正に救われ、その死を悼む人々は、その徳を永く後世に伝えるため、墓碑を建てて祀ったという。
碑は「安藤弾正少弼惟要」と刻まれた小さなものであるが、交差点の脇に今も見ることができる。
なお、安藤橋は今は無く、小さな石碑が残されている。また、大宮市立博物館には、欄干の北側にあって橋の名が刻まれていた親柱が保存されている。
先の盗賊団の頭目・真刀徳次郎は寛政元年(1789年)の4月、一族郎党とともに火付盗賊改方・長谷川宣以に捕らえられ、処刑された。
奇しくもその場は、飯盛女・千鳥が身を投げた高台橋の脇にある「下原刑場(しもはら けいじょう)」であったという。
なお、その名「下原」は一帯が原っぱであったことにちなむものである。
この刑場は、明治元年(1868年)の明治天皇の氷川神社行幸の際、地元から嘆願書が出されて廃止されている。現在のさいたま新都心駅の東側一帯である。
下町の排水路に架かる石橋であったという。
大宮宿を江戸方へしばらく下った所にある下原刑場へと送られる罪人は、ここ中之橋あたりで遺される者と涙の別れをすることになっていた。
そのため、いつの頃からか「涙橋」と呼ばれるようになったらしい。
橋の跡地には今、「涙橋」と刻まれた碑が置かれている。
次のような言い伝えが残っている。
昔、妻に先立たれた浪人が幼い2人の娘とともに旅をしていたところ、この地で病に倒れた。
嘆く娘たちはある日の夜、夢枕に地蔵菩薩を見る。
そのときのお告げに従い、塩断ちをして地蔵堂に祈る娘たちの願いは叶い、父の病は快癒する。
喜んだ娘たちはたくさんの塩と線香を奉納し、のちには浪人はかつての主家に帰参することも叶い、2人の娘も幸せに暮らしたとのことである。
そして、この親子にあやかりたく信仰を篤くした人々は、娘たちに倣って塩と線香を供えるようになったという。
信仰は今も続いており、毎日信心深い人々の訪れが絶えない。
堂は今日でいう吉敷町4丁目鉄道線路敷地内に祀られていたが、線路拡張のため吉敷町1丁目中仙道沿いに移され、しかしそこで火災に遭い、大正10年(1921年)、現在の吉敷町1丁目に再度移転された。隣に3体の子育て地蔵もある。
曹洞宗曹洞宗約15000寺のうち十指に入る北関東の名刹である大宮山東光寺は、もとは大宮黒塚(氷川神社の東側、現・産業道路脇)にあって、天台宗に属していた。
徳川家光の頃、中山道の整備にともなって現在地に移されている。
寺伝によれば平安時代末期、武蔵坊弁慶の師匠とされる京・鞍馬寺の東光坊祐慶(宥慶)が黒塚の鬼婆(おにばば)を法力をもって退散させ、鬼婆に殺された人々を葬るために庵を結んだことを起縁としている。
史実としては、鎌倉時代に梁室元棟禅師がこの地に来錫(らいしゃく)して開山し、曹洞宗寺院に改めたとされている。
なお、ここに見る「黒塚の鬼婆」というのは福島県の安達太郎山に伝わる「安達ヶ原(あだち-が-はら)の鬼婆」こと「黒塚の鬼婆」と同一の怪異者である。
「安達ヶ原」は陸奥国の話であるが、
ただし、この種の伝承は日本各地に存在するのであり、いずれが本家・本元と言えるようなものではない。
東光坊祐慶が足立ヶ原黒塚の鬼婆を呪伏した際の護身仏と伝えられる、1寸8分の金銅薬師如来像を本尊とする。
萬霊塔、庚申塔(延宝8年〈1680年〉)あり。
また、東光寺は、中山道を往還する文人墨客が足を留めた所でもあり、漢学者・上山寿山や先述の漫画家・北澤楽天、大宮市発展の礎となった駅の誘致に尽力した白井助七、といった名誉市民の墓碑もある。
浮世絵師・渓斎英泉が大宮宿の風景として描いたのは、当時、丹沢山地と富士山の眺望が素晴らしかった東大成(ひがし-おおなり)の庚申塔近辺である(右上の画像と解説文を参照)。
塔は元禄10年(1697年)の建立と伝えられる。
正面に青面金剛像・二鶏・三猿が陽刻され、裏面には近在の22人の女の名が刻まれている。
地元では「耳の神さん」「眼の神さん」として親しまれ、耳や眼の病いのときには団子を供えて平癒を願う。
江戸方から上方へ(この区間では南から北へ)、おおよそ道なりに記す。
・大宮市史編さん委員会『大宮市史』第3巻上、大宮市役所、1977年。
</doc>
<doc id="156996" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156996" title="新町宿">
新町宿
新町宿(しんまちしゅく)とは、江戸時代に指定された江戸から数えて11番目の中山道六十九次(木曽街道六十九次)の宿場町であった。
新町宿は、現在の群馬県高崎市新町に位置する。新町宿は、中山道で最も遅く成立したものであった。新町宿の指定により中山道の宿場町は67宿となったが、東海道と重複する草津宿、大津宿を加えて中山道六十九次(または木曽街道六十九次)と呼ばれた。
江戸時代初期新町宿周辺の中山道の本庄宿と倉賀野宿との間の経路は、烏川北岸の玉村を通っていた。その後、慶安4年(1651年)に「落合新町」、承応2年(1653年)に「笛木新町」(いずれも烏川南岸)に伝馬役が命ぜられ、経路が変更された。
新町宿は落合村と笛木村が合体してできた宿場町である。新町宿成立の経緯と地名の由来は、『多野藤岡地方誌』に示されている。
地古文書・古記録には、新町宿は落合村と苗木村から構成されることから 「落合新町」「笛木新町」と区分された記述があり、行政的には両者独立していたという。
新町宿の石高は、安政3年(1856年)の「新町熊谷間五ヶ宿盛衰其他内調書上」によると863石1斗8升6合とされている。近隣の本庄宿では2149石8斗7升1合、熊谷宿では2024石5斗4升2合であった。新町宿の助郷村の状況は、江戸時代末期の助郷村調によると,13,232石で, 定助郷32ヶ村,であった。新町宿の宿内の内訳は、天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人であった。嘉永5年(1852年)の「嘉永5子年宿方銘細書上帳」によると、新町宿の本陣2軒、脇本陣1軒、問屋4軒、旅籠屋42軒とされている。
新町宿の状況は調書の報告によると「乱宿事実善悪で先ず平凡」であったという。
寛保2年(1742年)には、寛保二年江戸洪水があった。7月28日(新暦8月28日)頃より、暴風雨が畿内を襲い、関東でもこの日以後雨が降り始めた。翌々日の8月1日の夜に入ると江戸では最初は雨とともに北東の激しい風が吹き始めていたが、夜四ッ時ころから激しい南風に変わり激しい荒に見舞われれ、江戸を中心に広範囲にわたる被害が記録されている。利根川上流域に位置する新町宿は利根川水系烏川支流の神流川の氾濫が及んでおり、その被害状況は「新町町史」に、家屋の押し流し、死者および中山道の通行止め等の被害状況の記述がある。
寛政年中(1789年~1800年)、天保4年(1833年)、天保10年(1839年)、寛永5年(1852年)、寛永6年(1853年)、安政3年(1856年)に火災があり新宿町に記録があった。被害はおおきくなかったため「先無難」との記述があった。
</doc>
<doc id="156997" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156997" title="カイヅカイブキ">
カイヅカイブキ
カイヅカイブキ(貝塚伊吹、学名: 'Kaizuka')は、ヒノキ科ビャクシン属の小高木。ビャクシンの栽培品種。枝が巻き上がるように生育する。
原産地は中国、日本。漢名を「龍柏」といい、中国では山東省以南の各都市で広く植樹されており、台湾、香港でも一般的。主に、春に挿し木や接ぎ木で増やす。
砂地など、水はけのよい場所が適する。低温には弱いが、排気ガスに強く、公園の生け垣などにも用いられる。また、剪定によって造形をするのにも用いられる。強く剪定したり樹勢が弱るとスギの葉に似た針状の葉を付けた枝を生じることがあるが、これは鱗片葉をもつビャクシン類には共通の特徴である。
ナシと近接して植えると赤星病を媒介するため、主なナシの産地には赤星病防止条例があり、植栽規制と除去命令が制定されている。
</doc>
<doc id="156998" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156998" title="軽井沢宿">
軽井沢宿
軽井沢宿(かるいさわしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて十八番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町の軽井沢駅北側一帯。一般に軽井沢と呼ばれる場所とは2~3キロ離れており、旧軽井沢と呼ばれるあたりが該当する。中山道有数の難所であった碓氷峠の西の入口にあたり、六十九次で最も栄えた宿場であった。本陣と脇本陣合わせて5軒、旅籠は最盛期には100軒近くあったとされ、数百人の飯盛女が働いていたという。宿場の東にある矢ヶ崎川にかかる二手橋は、旅人と飯盛女が別れを惜しんだ場所。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、軽井沢宿の宿内家数は119軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠21軒で宿内人口は451人であった。
明治時代以降は欧米人宣教師に避暑地として広く紹介され、それまで「かるいさわ」であった当地の名を英語などで発音しやすい「かるいざわ」と読むようになった。多くの外国人が滞在する街として変貌を遂げたため、現在宿場町の面影を残すものは少ない。
浅間山は、長野県北佐久郡軽井沢町及び御代田町と群馬県吾妻郡嬬恋村との境にある安山岩質の標高2,568mの成層火山である。天明3年(1783年)に浅間山は大噴火(天明噴火)を起こした。4月に活動を再開し7月まで噴火と小康状態を繰り返しながら活動を続けた。浅間山の天明噴火の中山道筋での被害は軽井沢宿から桶川宿まで4月から7月までの長期にわたり、火山礫、火山砂、そして火山灰などによるものであった。その被害の大きさは、大角(1975)にて説明されている。
浅間山の天明噴火の中山道筋では家屋の被害が最も大きかったのが、中山道筋に最も被害が大きかったのは軽井沢宿であった。噴火による火石玉、火山灰の降落により、家屋の焼失・全壊・半壊および草木や農産物の全滅があった。また、降灰及び大雨による土石流による被害もあった。軽井沢宿は浅間山の噴火による被害が最も大きかった地域である。『軽井沢町誌(歴史篇)』によると、天明噴火による軽井沢宿の状況とその被害が記述されている。
軽井沢宿までの史跡・みどころ
</doc>
<doc id="156999" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=156999" title="追分宿">
追分宿
追分宿(おいわけしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十番目の宿場。
現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分にあたる。北国街道(北陸道)との分岐点でもあり「追分」の名はこれに由来する。元禄時代には旅籠屋71軒、茶屋18軒、商店28軒を数え、飯盛女も最盛期には200~270人もいたとされるほど栄えた。また、民謡に多く見られる追分節の発祥の地である。旧脇本陣の油屋は、堀辰雄や立原道造、室生犀星らに愛され、堀辰雄の小説『菜穂子』、『ふるさとびと』に登場する牡丹屋という旅館はこの油屋がモデルである。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、追分宿の宿内家数は103軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠35軒で宿内人口は712人であった。また御影陣屋支配下の貫目改所が設置された。
</doc>
<doc id="157000" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157000" title="八幡宿">
八幡宿
八幡宿(やわたしゅく)とは、中山道六十九次のうち江戸から数えて二十四番目の宿場である。
現在の長野県佐久市八幡。千曲川の西岸にあたり、対岸の塩名田宿との距離は1里もないが、川止めになったときの待機地として、また千曲川沿いの米の集散地として江戸時代初期の慶長年間に整備された宿場である。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、八幡宿の宿内家数は719軒、うち本陣1軒、脇本陣4軒、旅籠3軒で宿内人口は719人であった。
</doc>
<doc id="157001" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157001" title="愛知川宿">
愛知川宿
愛知川宿(えちがわしゅく、えちがわじゅく)は、近江国神崎郡にあった中山道65番目の宿場(中山道六十九次)で、現在は滋賀県愛知郡愛荘町愛知川および中宿。愛知川の東岸に位置する。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、愛知川宿の宿内家数は199軒、うち本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠28軒で宿内人口は929人であった。
元は東山道の宿駅で、『太平記』にも記載されている。宿場町であると同時に近江商人の町でもあった。「びん細工手まり」は、起源は定かでないが、愛知川だけに伝承される工芸品である。
武佐宿までの史跡・みどころ
</doc>
<doc id="157006" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157006" title="こんぺいとう (曖昧さ回避)">
こんぺいとう (曖昧さ回避)
こんぺいとう、コンペイトウ
</doc>
<doc id="157013" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157013" title="いいちこ">
いいちこ
いいちことは、大分県の方言で「いい(よい)」を意味する言葉。
言葉としての「いいちこ」という表現は、大分県の中でも主として北部で用いられている。
「~ちこ」はこの地方独特の強調表現であり、大分の他の地方でも用いられる「~ちゃ」と同等もしくはさらにその強調型といえる。「~ちゃ」+「こん(この)」が結合して「~ちこ」となったものと考えることができよう。「こん」は、(しばしば「こーん」と変化して)間投詞として用いられることも多いが、ときに語尾に置かれて、表現を強めるために用いられる。
「いいちこ」は、すなわち「いい(よい)」の強調型であるが、この場合の「いい」は、価値を積極的に評価する場合などの「いい」であるというよりも、むしろ、断り・拒絶としての「いい」である場合が多い。
価値を積極的に評価する意味での「いい」を強調する「いいちこ」という表現も時として聞かれないわけではないが、こうした用法は非常に稀であるといえる。
断り・拒絶の強調表現としての「いいちこ」の用例として次のような会話が挙げられる。
</doc>
<doc id="157022" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157022" title="アイルランドの海賊放送">
アイルランドの海賊放送
アイルランドの海賊放送( -かいぞくほうそう)とは、アイルランド国内で無許可で活動している放送局の放送である。
アイルランド国内では、何百もの海賊放送局がラジオ番組を流しており、でも活動している海賊放送局がある。無許可の放送局は法律で禁止されていたが、民間商業ラジオ放送局が1989年まで存在しなかったことと、アイルランドが小さい国であり、大規模な設備を必要としなかったため、海賊放送局が広まった。取り締まりが、ほとんど行われなかったことも大きな理由の1つである。
数百もの海賊放送局が記録されているが、今でも人々の記憶に残っている数は少ない。これはダブリン市や他の都市では、海賊放送局はあまりにも多すぎたため、聞き流されていたためである。
他の国と違って、海賊放送局は常に陸上にあり、電話番号と所在地を公開している。また、広告を流し、有名なDJが番組を担当している。他の海賊放送とは違い、商業組織として活動しており、でもいくつもの海賊放送局が認可を受けたりして活動している。
1980年に中波を使用して活動を始めたラジオ・ノヴァ(Radio Nova)は、初めての大規模な海賊放送局であった。1981年にFM方式に活動の場を移し、1986年まで1度しか中断することなく活動を続けた。1986年以後はNRGとして活動を続け、1989年に公共放送が許可制になるまで無許可で活動を続けた。
24時間の音楽番組を中心に、1時間ごとにダブリン市とアイルランドのニュースを提供した。主催者や出演者、電話番号や所在地は頻繁に変更されたが、常に広く知られていた。1983年にラジオ・ノヴァは取り締まりにあったが、1週間未満の中断の後、放送を再開した。国営のアイルランド放送協会(RTÉ)は、時折妨害電波を出して、ラジオ・ノヴァの視聴を妨害することぐらいでしか対抗できなかった。
1966年に放送を開始したラジオ・ダブリン(Radio Dublin)は、中波、短波、それにFM波で放送をする著名な海賊放送局であったが、現在では時折放送をするのみである。1990年の半ばに最も有名であった。頻繁に放送周波数を切り替えていたことで知られている。仮認可を受けてアイリッシュ・ミュージック・ラジオ(Irish Music Radio)として、放送をしていた時期もある。
XFMは、1991年に放送を開始し、活動し続けている海賊放送局では最古参にあたる。放送当初は、アリスのレストラン(Alice's Restaurant)という名前であった。
</doc>
<doc id="157023" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157023" title="少年探偵団 (BD7)">
少年探偵団 (BD7)
『少年探偵団』(しょうねんたんていだん)は、1975年10月4日から1976年3月27日まで、日本テレビ系で毎週土曜日18:00-18:30に放送した特撮番組。全26話。
このページの題名にある「BD7」(ビーディーセブン)とは「Boy Detectives Seven」(=7人の少年探偵団)の略で、作中では探偵団の愛称として使われた。
原作は江戸川乱歩の『少年探偵団』。舞台は放送当時の現代。
怪人二十面相の犯行を、明智小五郎や少年探偵団(BD7)が阻止しようとする物語。
本作品の怪人二十面相は、BD7抹殺を狙うなど完全な悪役となっていた。『超人画報』では、少年探偵団のメンバーを固定化していることや怪人二十面相の風貌など、1968年のアニメ版『わんぱく探偵団』からの影響を指摘している。
オープニング、アイキャッチ、二十面相が変装を解くなどのシーンで、当時最新のビデオ表現技術であったスキャニメイトが使われている。
10話までは前後編。11話からは1話完結となった。
劇中で少年探偵団が用いる自転車(BDサイクル)やローラースルーが人気を博した。
製作局でもある日本テレビ放送網の土曜18:00 - 18:30はローカルスポンサーの時間帯で、福岡放送など九州の系列局では1日遅れの日曜18:30 - 19:00に放映していた。
菊池俊輔が主題歌・挿入歌およびBGMの作・編曲を1人で手掛けた。
作詞は脚本の上原正三と長坂秀佳が担当した。
水木一郎が全ての主題歌・挿入歌を歌った。4曲のうち3曲にはBD7も歌手としてクレジットされている。
挿入歌の初出は日本コロムビアの「最新テレビまんが人気者(アイドル)デラックス 3」というLPレコード(CW-7053、1976年3月発売)で、『鋼鉄ジーグ』や『元祖天才バカボン』などの主題歌・挿入歌と併録された。
現在は、コロムビアミュージックエンタテインメントから発売されているCD「特撮ヒーロー 主題歌・挿入歌大全集II」に全曲が収録されている。
()内は放送日
</doc>
<doc id="157025" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157025" title="優勝額">
優勝額
優勝額(ゆうしょうがく)とは、大相撲の本場所に於いて幕内最高優勝を達成した力士に毎日新聞社より贈呈される額縁である。
明治42年6月場所大相撲常設館(後の旧両國國技館)完成に伴い優勝掲額制度が開始される。これは最初はあくまでも時事新報社の行事であり、協会公認の優勝制度ではなかった(協会が個人優勝を制度化したのは賜杯下賜を契機にした大正15年のことである、ただしそれ以前の掲額力士も現在では歴代優勝力士として追認されている)。第1回の掲額は前頭7枚目髙見山酉之助だった。当時は今よりも小さい白黒の優勝額が用いられていた。
第2回の掲額は横綱常陸山であるはずだが、国技館落成の功労者として横綱2代梅ヶ谷の額も、髙見山と常陸山の間に掲額された。実際には梅ヶ谷が優勝した場所はなかったが、「この二人がいてはじめて国技館はできたのだから」とこれは後々まで暗黙の了解とされた。
大正6年、国技館が失火により全焼し優勝額も焼失したが、国技館再建の際に全て再作成された。大正12年関東大震災により再び国技館が全焼、優勝額も焼失した。この時は複数回優勝した力士の額は1枚のみ再作成され、「太刀山優勝9回」「鳳優勝2回」と回数が付記された。
昭和11年、時事新報が東京日日新聞(現在の毎日新聞)に合同したため、以降の掲額は東京日日新聞の事業として承継された。
戦前の優勝額は昭和18年夏場所優勝の双葉山のものまで国技館に掲額された。昭和19年春場所優勝の佐賀ノ花の額は作成されたが同年夏場所が後楽園球場での開催になったことや国技館が軍部に接収されたりしたことから掲額はされたものの、贈呈式や掲額披露の式典などは行われず、そのまま戦災で焼失したため「幻の優勝額」とされている。
第二次世界大戦にてアメリカ合衆国軍の空襲のために初代兩國國技館が焼けた際に、戦前の優勝額の多くが焼失したと伝わる。屋外の本場所では額を掲げる場所などないため一時期優勝額も途絶えたが昭和26年から蔵前仮設國技館で優勝掲額が再開された。今度は現在まで続く等身大以上の大きさのフルカラー優勝額である。この第1号は横綱照國萬藏だった。
全勝優勝を達成すれば優勝額にも優勝ではなく全勝と書いて区別する。この額を全勝額と呼んで区別する人もいる。史上初の全勝額は明治44年6月、この場所新横綱の太刀山峯右エ門が獲得、また戦後優勝額復活第1号の照國の額も全勝額である。なお横綱羽黒山政司はただ1人戦前戦後の優勝額を併せ持つ力士でもある。
昭和初年の年間4場所時代の関西本場所には優勝額がなかった。そのため地方場所での優勝は東京場所での優勝より低く見られがちだったが、昭和29年の蔵前国技館完成の折に、その年3月場所で優勝した大関三根山隆司に遡る形で贈呈されて以降地方場所の優勝でも國技館で掲額できる優勝額が贈呈されることになった。現在では東京場所の初日に前場所と前々場所の優勝額除幕式が行なわれる。
優勝決定戦がない時代には誰が優勝かをめぐって争いが発生することも珍しくはなく、このため解決策として額を2枚作成、掲額することが幾度か検討された。昭和3年1月場所における前頭13枚目三杉磯善七と大関常陸岩英太郎の優勝問題の際には本当に2枚作成され(三杉磯が辞退したため掲額されたのは常陸岩のみ)上位優勝制度に対する問題提起に使われたりもした。
現在の両国国技館では優勝額は四方に8枚ずつ32枚掲額されている。(かつての蔵前国技館では36枚の掲額であった)東京場所ごとに2枚ずつ新たな優勝額が加えられ、古いものから外される。外された優勝額は優勝力士当人に贈られ、普通は稽古場に飾るなどするが、5回、10回と優勝を重ねた力士の場合、母校など優勝力士と縁のある施設や人物に寄贈される。国技館の最寄り駅となるJR両国駅の改札口には、関脇(のち横綱)三重ノ海五郎(昭和50年11月場所)、横綱2代若乃花幹士(昭和53年11月場所)、横綱武蔵丸光洋(平成14年5月場所)、横綱白鵬翔(平成19年11月場所)の優勝額が飾られている。また、昭和42年に横綱大鵬が25度目の優勝を果たしたときの優勝額が日光市在住の当時の後援会副会長に寄贈され、同市が譲り受け体育施設で管理していたが、その体育施設の解体が決まり、官公庁オークションにかけられるも取引が成立せず、大鵬の遺族に返還された後江東区に寄贈された、という事例もある。
平成22年7月場所の表彰式において、協会は7月7日の持ち回り理事会で一連の野球賭博問題で天皇賜杯、内閣総理大臣杯など全ての表彰を辞退(優勝賞金、優勝旗、三賞の表彰は従来通り行われた)したが、優勝額においても協会は「7月場所は反社会勢力と決別する場所と考え、協会外からの表彰を受けるのは適切ではない」と贈呈しないことを検討したが、9月場所初日、毎日新聞社は横綱白鵬に対し、5月場所の優勝額とともに7月場所の優勝額も贈呈し、国技館に掲額された。
平成23年は、3月場所が八百長問題により開催中止、5月場所は本場所ではなく「技量審査場所」として全ての表彰を辞退(優勝賞金、優勝旗、三賞の表彰は従来通り行われた)したため、9月場所の初日では1月場所の優勝額(白鵬)および7月場所の優勝額(日馬富士)を贈呈・掲額する形となった。
優勝額は長年力士の写真を白黒で現像したものに油絵具で着色したものが使われてきた。このほうがカラー写真よりも見栄えが良く、色褪せもしにくかったためである。平成26年1月、昭和26年春場所(優勝:照國萬藏)以来優勝額の着色を担当してきた彩色家の佐藤寿々江が引退を表明、佐藤自身の意向や写真技術の向上もあり、富士フイルムの協力を得て同年初場所から従来の色合いに似せてデジタル処理したカラー写真が用いられることになり、これにともなって名称も「優勝色彩写真額」から「優勝写真額」に改められた。同年の5月場所初日の除幕式で、1月場所優勝の白鵬と3月場所優勝の鶴竜の「優勝写真額」がはじめて国技館に掲額された。順当にいけば平成31年5月場所、同年1、3月場所の優勝力士の掲額をもって「優勝色彩写真額」は国技館から姿を消すことになる。
</doc>
<doc id="157031" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157031" title="サフォケイション">
サフォケイション
サフォケイション(SUFFOCATION)は、アメリカ合衆国出身のデスメタル・バンド。
1990年代米デスメタル・シーンの創生期から支えたグループの一つ。一度解散したが、2003年から活動を再開した。
ブルータル・デスメタルへの多大なる影響を与えたバンドである。テクニカルで濃密なギタープレイとブラストビートを取り入れた典型的なデスメタルであるが、と共に、昨今のUSデスメタルに与えた影響は大きく、その先駆的存在と考えられている。ヴォーカルのフランク・マレンは、デスメタル独特のガテラル・ヴォーカルを最初に使ったシンガーの一人とされる。マイク・スミス、テレンス・ホッブスの二人がメタル・ミュージシャンには珍しい黒人であることも特徴の一つ。
1990年に結成の解釈もあるが、1988年頃から活動を始めていた。
カンニバル・コープス、マルヴォレント・クリエイション、イモレイションらと共にニューヨークを中心に活動を行い、デス、モービッド・エンジェル、オビチュアリー、ディーサイドらフロリダ勢と共に、1990年代初頭のアメリカデスメタルシーンの創生期を支え、世界中のデスメタルバンドに影響を与えた。
また、彼らがレコーディングに使用したフロリダ州タンパのとそこを拠点に活躍していたプロデューサーのが作り出すサウンドは世界中のデスメタルバンドの憧れになり、世界中から次々とデスメタルバンドがレコーディングに訪れるようになった。
1998年に一度解散するがその後再結成、現在も活動中。一度解散したために来日することはないだろうと考えられていたが、再結成後の2005年4月に来日を果たした。
</doc>
<doc id="157032" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157032" title="曽我町子">
曽我町子
曽我 町子(そが まちこ、1938年3月18日 - 2006年5月7日)は、日本の女優、声優。東京都八王子市出身。株式会社ステラ元代表取締役。
東京都立南多摩高等学校を経て、東京アナウンスアカデミーを卒業。
1956年にNHKの児童番組『みんな一緒』でデビュー。本人曰く、このとき合格したオーディションは度胸試しで受けたものであったという。その後『チロリン村とくるみの木』のリップちゃんや『オバケのQ太郎』の初代Q太郎など、声優としても活躍。
舞台、テレビなどでも活躍。特にスーパー戦隊シリーズ(テレビ朝日系)では『電子戦隊デンジマン』『太陽戦隊サンバルカン』でヘドリアン女王、『恐竜戦隊ジュウレンジャー』で魔女バンドーラを演じた。その他『魔法戦隊マジレンジャー』など数々の特撮番組に出演、悪の女王・魔女役を数多く演じた。
『ジュウレンジャー』は後にアメリカでも『パワーレンジャー』シリーズとして放送されて大ヒットとなった。主人公たちの変身前など素顔の出演者はアメリカ人が演じて撮影し直したが(変身後は日本で撮影した画像をそのまま使用)、曽我が演じたバンドーラ(アメリカ版ではリタ・レパルサ)は、アメリカ側のスタッフが曽我の演技を評価したことから、初期シリーズでは曽我の映像にバーバラ・グッドソンがアテレコする形でそのまま使用されていた。リタはアメリカの他、各国でも人気を博した。
一時「ステラ曽我」という芸名を名乗っていた時期がある。
1983年に俳優業の傍ら、東京・原宿に趣味の古美術品収集を生かしたアンティークショップ「ステラ」を開業(後に国立市の自宅を改装して店舗を移転)、アクセサリー・オリジナル香水のデザインなど商品開発も手がけていたほか、休店日などにはファンとの交流会なども同店内で催していた。
2006年5月7日、自宅のあるマンションで亡くなっているところを、訪れた知人によって発見された(死因は膵臓癌)。。
遺作はPlayStation 2用ゲームソフト『宇宙刑事魂』(暗黒銀河女王役)。テレビおよび映画における最終出演作は『魔法戦隊マジレンジャー』であるため、メディアをゲーム以外に限定して話をする場合、そちらが遺作とされることもある。
</doc>
<doc id="157034" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157034" title="東京都道112号ひばりケ丘停車場線">
東京都道112号ひばりケ丘停車場線
東京都道112号ひばりケ丘停車場線(とうきょうとどう112ごう ひばりがおかていしゃじょうせん)とは東京都西東京市の西武池袋線ひばりヶ丘駅と所沢街道の(東京都道4号東京所沢線)田無町三丁目交差点までの一般都道である。西東京市谷戸町を通ることから「谷戸新道」ともいわれ、本線の全線が東京都都市計画道路ひばりが丘駅南口線に指定されている。起点と終点の近くに2つの支線を持つ。
明治42年版二万分一地形図「田無」(大日本帝国陸軍参謀本部陸地測量部製作)によれば、もともとこの道路は武蔵野鉄道(後の西武池袋線)が開通する以前から存在しており、1970年代になって都市計画道路として拡幅・線形の変更が行われたのが2014年現在の当道路の姿である。明治期以前からの旧道もところどころに残っており、特に当道路はひばりヶ丘駅南口バスターミナルで途切れているため、線路を越えて北側へ行ける道は旧道だけである。しかし旧道の駅周辺部は一方通行規制のある狭い道で、商店街になっているため人通りが非常に多く、自動車の通行には危険が伴う。なお、バスターミナル内は都道に指定されていない。
線形は途中でやや北東に折れ曲がる他はほぼ直線となっていて、後の改良により田無町三丁目交差点から谷戸一丁目交差点までは車道・歩行者道ともに拡幅され十分な余裕が取られているが、ひばりヶ丘駅前で道が途切れていることから、北側へは狭い旧道を通らなければならないというネックが長年残った。これを解決するため、線路を踏切で越えて進む東京都道36号保谷志木線の又六地蔵交差点付近と当道路のひばりヶ丘駅南約430mの地点を短絡する支線が2000年代になって開通した。
この他終点付近に枝分かれするように150mほどの短い支線があるが、この部分はもともと明治道由来の本線であったものが2000年代に入って直線化改良された際に旧道となり、引き続き支線として指定されているものである。この支線の終点は東京都道4号東京所沢線に接続するが、都道4号側に中央分離帯があるため北から直進して武蔵境通りへ進むことは出来ず、都道4号東進方向へ左折、あるいはその逆しか出来ない。
なお、ひばりヶ丘駅の北側では都市計画道路ひばりが丘駅北口線が敷設事業中であるが、この道路は線路を越えて本道路と接続される予定はない。
</doc>
<doc id="157039" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157039" title="フラン (化学)">
フラン (化学)
フラン (furan) は、4個の炭素原子と1個の酸素原子から構成される複素環式芳香族化合物である。分子式 CHO、分子量 68.07 で、CAS登録番号は[110-00-9]。フランはIUPAC命名法における許容慣用名で、系統名では1-オキサ-2,4-シクロペンタジエンである。環の一部にエーテル結合があるため環状エーテルでもある。可燃性の無色透明の液体で、沸点が室温に近いため揮発性が非常に大きい。消防法に定める第4類危険物 特殊引火物に該当する。
五員環であるが、酸素原子に孤立電子対がありヒュッケル則を満たすため芳香族性を有する。
フランの親化合物はペントース含有材料の熱分解、特に松脂の乾留で得られる。パラジウム触媒を用いて水素化すると有機溶媒などに使われるテトラヒドロフランが得られる。
「フラン」という名称は、ラテン語でふすまを意味する""furfur""にちなむ。
フランは当初は誘導体として発見された。1780年にカール・ヴィルヘルム・シェーレがふすまからカルボン酸誘導体の2-フロ酸を発見。1831年にヨハン・デーベライナーがギ酸の副生成物としてフルフラールを発見したが、1840年にジョン・ステンハウスによりふすまなどの植物体の蒸留によっても得られることが発見された。そして、純粋なフランそのものは1870年にハインリヒ・リンプリヒトにより発見された(リンプリヒト自身は「テトラフェノール」と呼んでいた)。
融点は−85.6 ℃、沸点は31.4 ℃である。特異臭を持つ無色透明液体で、空気中で褐変しやすい。引火点は−35 ℃のため室温で容易に引火する。純粋なフランは容易に重合反応を起こすため市販品には重合禁止剤が添加されている。有機溶媒に溶けやすいが、水には溶けにくい。
フランの酸素原子は炭素原子と同じくsp混成している。環平面に垂直なp軌道上に2つの電子を提供し、環平面内のsp軌道上には1つの非共有電子対が存在する。この軌道上の2電子は6π電子系の形成に寄与している。
置換した誘導体が多数あり、このような化合物の母体として重要である。代表例としては、アルデヒド基が置換したフルフラール (CHO)、ヒドロキシメチルフルフラール (CHO) などが挙げられる。
フランは求電子置換反応を受けやすい。これはフランが双極性の共鳴混成構造を持つことによる。
環境汚染物質としてしばしば言及される「フラン」は、フランそのものではなく、フラン環を持つジベンゾフランの誘導体のポリ塩化ジベンゾフラン (PCDF) のことである。PCDFはポリ塩化ジベンゾジオキシン(PCDD、ダイオキシン)に似た構造と毒性を持ち、ダイオキシン類に含まれる。
</doc>
<doc id="157040" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157040" title="庄内地震">
庄内地震
庄内地震(しょうないじしん)は、1894年(明治27年)10月22日17時35分35秒、山形県庄内平野北部(北緯38.9度、東経139.9度)を震源として発生したM 7.0 の内陸直下型地震である。
震源は極浅く、最大震度は烈震を記録している。余震も数多く発生した。震源は現在の山形県酒田市の中心部であり、庄内平野東縁断層帯ので発生したと推定されている。最大震度は当時の震度階級(微震、弱震、強震、烈震の4段階)において最大のものである。
また、地震の発生が日本において本格的に地震観測を始める直前であったということもあり正確な記録に乏しく、地震の規模はM7.3、最大震度は現在の7 相当ではないかとも言われており、また震源についても正確な位置の特定はできていない。厚く軟弱な堆積層によって地下の断層による変位が地表にまで到達せず、明瞭な地表断層か出現しなかった地点もある。また、地表には地震断層(地表の変位による断層)として矢流沢断層が出現したとされるが、地質構造とは異なった方向の断層であること、トレンチ調査の結果からは矢流沢断層の存在は否定されている。
この地震によって庄内平野、特に酒田を中心に局地集中的な大きな被害を出した。そのため、酒田地震とも呼ばれる。家屋損壊は本荘や山形まで及び、酒田では大火災が発生し総戸数の8割が焼失した(酒田地震大火)。
庄内平野全域において地盤の亀裂や陥没、噴水・噴砂が多く発生した。例えば、袖浦村大字黒森(現・酒田市黒森)の砂丘では幅1町(約110m)に渡り深さ30尺(約10m)も沈下し、袖浦村大字浜中(現・酒田市浜中)では高さ1丈(約3m)の小山が出現した。
この地震によって当時は木造建築が大半であった家屋の破損が相次ぎ、木造建築の耐震性を改めて問うきっかけになった。このことにより、濃尾地震を契機に設置された震災予防調査会が木造建築改良仕様書を発表した。
歴史資料が乏しく、また農耕や経済活動に伴う土地の人工改変や気象条件による攪乱などなより地層による痕跡が残りにくい内陸地震のため不明点が多い。トレンチ調査により、約2500年まえから1894年までの期間に、少なくとも1回の地表変位を伴う地震が発生しており歴史資料によれば、前回の発生は 850年頃と考えられ再来周期は約1000年。
</doc>
<doc id="157041" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157041" title="神奈川県道・東京都道56号目黒町町田線">
神奈川県道・東京都道56号目黒町町田線
神奈川県道・東京都道56号目黒町町田線(かながわけんどう・とうきょうとどう56ごう めぐろちょうまちだせん)は、神奈川県横浜市瀬谷区目黒町から東京都町田市原町田に至る県道・都道(主要地方道)である。
横浜市瀬谷区の北に位置する目黒町から、都県境を越えて町田市の中心街までを南北に結ぶ幹線道路。横浜市瀬谷区内の目黒交差点の国道246号(厚木街道)より分岐して、ほぼ都県境を流れる境川に平行するように北西方向へ進み、町田市中心街の三塚交差点で主要地方道47号八王子町田線と連絡する。町田市金森地内には町田街道へ抜けるバイパスの支線があり、金森郵便局前交差点で町田街道(東京都道141号辻原町田線)と接続する。
神奈川県では、横浜市内で八王子街道とよばれる道路の延長で、沿線に東急田園都市線のつきみ野駅がある。その先の大和市内で国道16号大和バイパスと交差する つきみ野入口交差点で針路が折れて、東進した先の境川を鶴間橋で渡っていく。
目黒交差点 - つきみ野入口交差点間は旧国道16号(大和バイパス完成時に県道に降格)。
南橋交差点付近 - 金森郵便局交差点付近の旧道は狭隘となっている。目黒交差点から保土ヶ谷バイパス上川井インターまでの区間は県道ではなく、横浜市道である。しかし、案内看板上では、「八王子街道」として県道・市道の区別は無く一括りに表示。なお、保土ヶ谷バイパスが渋滞時、抜け道として市道と一体となって利用する車両が多いため、交通量は多い。目黒交差点で接続する国道246号が渋滞すると、その最後尾が当該道路にもつながり流れが悪くなることがある。
区間内に「鶴間橋」という同名の橋が2ヶ所存在し、いずれも境川に架けられているが、2km以上離れた全く別の橋である。
</doc>
<doc id="157045" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157045" title="スプラッター映画">
スプラッター映画
スプラッター映画(スプラッターえいが、splatter movie)とは、殺害シーンにおける生々しい描写に特徴のある、映画の様式のひとつである。大部分は広義のホラー映画に含まれるが(スプラッター的要素のまったく無いホラー映画は少なくない)、身体の一部が切断されてはね飛んだり、血しぶき(splash)が吹き上がったりするといった、誇張を含むあからさまな表現は、スプラッター映画独自のものといってよい。「スプラッター・ムービー」という呼称は1980年代に定着したものであり、1970年代以前は「ゴア・ムービー("Gore Movie")」という呼び方が多く用いられていた。
1960年代にアメリカのハーシェル・ゴードン・ルイス監督が始祖となって作り上げたジャンルとされる。その後1970年代にイタリアのマリオ・バーヴァをはじめ、ジョージ・A・ロメロ、トビー・フーパー、ピート・ウォーカー、デヴィッド・クローネンバーグ、ダリオ・アルジェント、ウェス・クレイヴン、ショーン・S・カニンガム、ジョン・カーペンターなどによって基盤が創られると、1980年代に大ブームとなった。大量のスプラッター映画が製作され、多くの秀作や、いわゆる「B級作品」が誕生した。1990年代に突入すると、さすがに衰退の時期を迎えたが、今日でもコンスタントにスプラッター映画が製作されている。
スプラッターの元祖は19世紀末から20世紀初頭にフランスで流行したグラン・ギニョールという恐怖劇専門の劇場で上演された、血糊などを大量に用いた特殊効果による残酷な殺人描写を多く含んだ演劇にあるとされる。グラン・ギニョールの恐怖劇は後にアメリカのECコミックと呼ばれるコミック誌の恐怖漫画に影響を与え、その荒唐無稽でグロテスクな残酷描写がスプラッター映画の原点であるとされる。
映画における「スプラッター」の歴史は1963年にハーシェル・ゴードン・ルイス監督が『血の祝祭日』"Blood Feast"(1963年)を発表したことから始まる。カルト宗教にとり憑かれた狂信的な肉屋が若い美女を次々に惨殺し解体する異常犯罪を描いた猟奇映画であり、くり抜かれる眼球、切り裂かれる舌、手足の切断、脳や内臓の抉り出しといった過激な残酷シーンをホラー映画において初めて直接的に描写した作品であった。
スプラッター映画の始祖とされるのはルイスだが、それ以前から恐怖映画において残酷表現が過激化する萌芽は存在していた。
スプラッター映画が発明される以前には、恐怖映画において「ショッカー」「ショック映画」と呼ばれるジャンルが存在した。主な作品としてはアンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督の『悪魔のような女』"Les diaboliques"(1955年)、ジョルジュ・フランジュ監督の『顔のない眼』"Les yeux sans visage"(1959年)、ヴィンセント・プライス主演の『肉の蝋人形』"House of Wax"(1953年)、マイケル・ガフ主演の『黒死館の恐怖』"Horrors of the Black Museum"(1959年)といった作品が「ショッカー」の代表作とされる。これらの作品はスプラッター映画と呼べるほどの過激な流血描写が直接的に表現されているわけではないが、観客にショックを与える表現を重視したという点で、後のスプラッター映画の地ならしに近い役割を果たす。
また、映画評論家の児玉数夫による考えでは、1950年代にAIPが量産した『心霊移植人間』"I Was a Teenage Werewolf"(1957年)、『怪人フランケンシュタイン/生きかえった死体』"I Was a Teenage Frankenstein"(1957年)、『十代の陰獣』"Teenage Monster"(1957年)といった「ティーンエイジ・モンスター・ホラー」映画の様式が、後のスプラッター映画に影響を及ぼしているとされる。
1960年になると「ショッカー」「ショック映画」の系譜に連なる名作として、アルフレッド・ヒッチコック監督の『サイコ』"Psycho"(1960年)が登場。主演女優のジャネット・リーがシャワールームで惨殺される有名な「シャワーシーン」が世界に衝撃を与えた。ジャネット・リーの肌をナイフが直接切り裂く描写は見られないが、当時としては画期的と言えるほど過激な暴力描写が物議を醸した。この映画の殺人シーンが後のスプラッター映画につながっていったと見る意見は多い。この作品はヒッチコックが、クルーゾー監督による『悪魔のような女』のショッキングな演出を超える恐怖を作り出したいとの意欲から製作されており、当時としては類のない新次元のショック映画を創出したとして評価されている。
また、『サイコ』と同じ1960年に公開されたマイケル・パウエル監督の『血を吸うカメラ』"Peeping Tom"(1960年)をスプラッターの元祖と見る意見もある。作家の都筑道夫は後年『血を吸うカメラ』を評して「おしゃれなスプラッター映画」と評価している。
『サイコ』と『血を吸うカメラ』がきっかけとなって、世界的に精神異常者による猟奇犯罪を描いた「サイコ・スリラー」が流行。恐怖映画の分野で人気を博していたウィリアム・キャッスル監督が『第三の犯罪』"Homicidal"(1961年)や『サイコ』の原作者ロバート・ブロックを脚本に招いた『血だらけの惨劇』"Strait-Jacket"(1963年)を発表。巨匠として名高いロバート・アルドリッチ監督も恐怖映画に挑戦し、『何がジェーンに起ったか?』"What Ever Happened to Baby Jane?"(1962年)と『ふるえて眠れ』"Hush... Hush, Sweet Charlotte"(1964年)をヒットさせた。独立プロ系のインディーズ映画からもジェームズ・ランディス監督による『サディスト』"The Sadist"(1962年)などの異常心理を描いたスリラーが量産される。これらの作品は『サイコ』のシャワーシーンを超える衝撃を観客に与える効果を模索し、従来の恐怖映画よりも猟奇色を強めた作風を突き進めて行った。
また、英国の怪奇映画制作会社ハマー・フィルム・プロダクションもサイコ・スリラーに意欲的に参入。セス・ホルト監督の『恐怖』"Taste of Fear"(1960年)やフレディ・フランシス監督の『恐怖の牝獣』"Nightmare"(1964年)といった作品では猟奇色は控えめなミステリー・タッチによる知的なサスペンス劇として老舗怪奇映画会社の威厳を保ったが、一方で猟奇色を前面に出したジミー・サングスター監督の『惨殺!』"Maniac"(1962年)のような作品も制作した。ハマーのライバル格といえる英国のも、ロバート・ブロックを脚本に招いたフレディ・フランシス監督の『』"The Psychopath"(1966年)を制作。スプラッターとは呼べないながら犠牲者をガスバーナーで焼き殺す残酷描写や、死体のそばに犠牲者そっくりに似せた人形を残すなどの猟奇色を強く打ち出した作風で話題となった。
こうした流れの中で前述の通りにハーシェル・ゴードン・ルイスが、1963年の『血の祝祭日』を皮切りに、露骨な人体解体描写を取り入れた恐怖残酷映画を立て続けに制作。『血の祝祭日』がドライブイン・シアターにおいて若者たちから熱狂的な人気を得たことからルイスは同種の血まみれ映画を量産することとなる。『悪魔のかつら屋』"The Gruesome Twosome"(1967年)、『血の魔術師』"The Wizard of Gore"(1969年)、『ゴア・ゴア・ガールズ』"The Gore Gore Girls"(1971年)と、作品を重ねるごとにルイスの残酷描写は過激さを増してゆく。ルイスの時代には「スプラッター映画」という言葉はまだ作り出されておらず、「ゴア・ムービー(血みどろ映画)」"Gore Movies" と呼ばれていた。これらの「ゴア・ムービー」は若者の間で熱狂的な人気を博しながら世間一般からは低俗な三流映画として侮蔑の対象となっていた。
こうしたサイコ・スプラッターの流れとは独立して、1968年にはジョージ・A・ロメロ監督が『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968年)を発表。当時は知る人ぞ知るカルト映画としての評価にとどまったが、この映画における人肉をむさぼり食うゾンビは、後年のスプラッター・ブームにおいて重要なジャンルとして成長することになる。
ハーシェル・ゴードン・ルイスに始まった「血みどろ映画」は1970年代においても、アンディ・ミリガン監督による『血に飢えた断髪魔/美女がゾクゾク人肉パイに』"Bloodthirsty Butchers"(1970年)、デヴィッド・ダーストン監督による『処刑軍団ザップ』"I Drink Your Blood"(1970年)、エド・アドラム監督による『血まみれ農夫の侵略』"Invasion of the Blood Farmers"(1971年)、J・G・パターソン監督による『ドクター・ゴア/死霊の生体実験』"Doctor Gore"(1974年)、ジョエル・M・リード監督による『悪魔のしたたり』"Bloodsucking Freaks"(1974年)などがインディーズ系の映画会社によって制作され続け、世間からは無視に近いアングラとしての地位に甘んじながらもドライブイン・シアターやミッドナイトシアターで熱狂的な人気を博した。
あくまでアングラとしてしか存在しなかった「血みどろ映画」をメジャーの地位に押し上げたのは、イタリアのマリオ・バーヴァ監督であった。
それまで『血ぬられた墓標』"La maschera del demonio"(1960年)などの古典的なゴシック怪奇映画で知られていたイタリアのマリオ・バーヴァ監督が、1971年に特殊メイクによる過激な残酷描写を取り入れた『血みどろの入江』"Reazione a catena (Ecologia del delitto)"(1971年)を発表。素人役者をキャスティングした低予算で粗雑な作りのH・G・ルイス作品とは異なり、クローディーヌ・オージェやといった国際的な知名度を持つ名優の出演、練られた脚本、特殊効果のカルロ・ランバルディをはじめ衣装のエンリコ・サッバティーニや音楽のステルヴィオ・チプリアーニといった一流のスタッフによって制作された初のスプラッター映画として世界に衝撃を与えた。また、『血みどろの入江』は残酷描写の演出におけるビジュアル面とストーリーラインにおいて、1980年代のスプラッター・ブームにおける火つけ役となる『13日の金曜日』(1980年)に多大な影響を及ぼすこととなる。
バーヴァの『血みどろの入江』を皮切りに、当時イタリアで流行していたジャッロとよばれる推理サスペンス映画が、生々しい残酷描写を積極的に取り入れ始める。セルジオ・マルティーノ監督による""La coda dello scorpione""(1971年)や『影なき淫獣』"I corpi presentano tracce di violenza carnale"(1973年)、マッシモ・ダッラマーノ監督による『ソランジェ/残酷なメルヘン』"Cosa avete fatto a Solange?"(1972年)や ""La polizia chiede aiuto""(1974年)、ルチオ・フルチ監督による『マッキラー』"Non si sevizia un paperino"(1972年)、アルマンド・クリスピーノ監督による『炎のいけにえ』"Macchie solari"(1974年)、ダリオ・アルジェント監督による『サスペリアPART2』"Profondo rosso"(1975年)といった70年代のイタリア製スリラーは、犯人捜しの推理ミステリーの体裁を取りながら、血みどろのスプラッター描写を露骨に表現したことで刺激に飢えた若い観客からの支持を得た。
また、この時期にイタリア映画界は『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』から強い影響を受けたゾンビ映画の名作とされる『悪魔の墓場』"Non si deve profanare il sonno dei morti"(1974年)を送り出す。『悪魔の墓場』では後に『サンゲリア』(1980年)で名声を確立する特殊メイク技師・の腕によるゾンビのメーキャップと残酷描写が『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』をしのぐ過激さを見せる。このように1970年代のイタリア映画は、残酷描写の追求にかけてアメリカ映画と張り合う急進性を発揮していた。
さらにアメリカのウェス・クレイヴン監督による『鮮血の美学』"The Last House on the Left"(1972年)、トビー・フーパー監督による『悪魔のいけにえ』"The Texas Chain Saw Massacre"(1974年)、カナダのデヴィッド・クローネンバーグ監督による『ラビッド』"Rabid"(1977年)やボブ・クラーク監督による『暗闇にベルが鳴る』"Black Christmas"(1974年)といった、高い技術と緻密な脚本・演出に支えられた現代的な残酷ホラーが多く製作される。これらの作品はH・G・ルイスが狙ったような単なる表面的な血みどろ描写による刺激だけではなく、残酷シーンの痛々しさを通して人間心理にひそむ狂気や異常性の恐ろしさを描き上げたという点で、当時としてはリアルで現代的な感覚を持った恐怖映画だったと言える。
英国におけるサイコ・スリラーからスプラッター映画への発展は、アメリカともイタリアとも異なる独自の道をたどった。英国においてのサイコ・スリラーは、本質的には『サイコ』よりも『血を吸うカメラ』の路線を突き進んだ発展を遂げたと見られる。『サイコ』公開後に異常心理を扱ったスリラーの傑作を送り出した英国のハマー・プロは、1970年代になってからも、ピーター・コリンソン監督による""""(1972年)のような優れたサイコ・スリラーを制作した。ハマー制作のサイコ・スリラーは流血描写よりも『血を吸うカメラ』の系譜に属する、粘着質な心理的恐怖に重きを置いた作風であった。これはハマーのみならずハマー以外の制作会社による英国製サイコ・スリラーにも見られる特色で、英国製サイコ・スリラーの代表作とされるロイ・ボールティング監督による『密室の恐怖実験』"Twisted Nerve"(1968年)なども陰湿で粘着質な心理的恐怖描写が、しばしば『血を吸うカメラ』と比較される。
英国ではこうした流れの中で、独立プロ系のピート・ウォーカー監督が独自の様式によるスプラッター映画を確立させる。1974年の『拷問の魔人館』"House of Whipcord"(1974年)は、アメリカ映画『悪魔のいけにえ』からの強い影響を受けながらも、『血を吸うカメラ』や『密室の恐怖実験』に通じる粘着質な心理恐怖描写による陰湿な作風がアメリカ映画とは異なる英国的な残酷ホラーと評価されている。イギリスの有力な映画批評誌""""誌は、『拷問の魔人館』を『血を吸うカメラ』と比較して批評する論文を掲載した。ピート・ウォーカー監督はその後も『フライトメア』"Frightmare"(1974年)や『魔界神父』(1975年)で独自の粘着質な作風を持つサイコ・スリラーを発表しながら、1970年代という時代の中で残酷描写を先鋭化させる。特に『スキゾ』"Schizo"(1976年)および『カムバック』"The Comeback"(1978年)においては、イタリアのダリオ・アルジェント監督による『サスペリア PART2』から強く影響を受けた、過激なスプラッター描写を含むサイコ・スリラーを作り上げてカルト的な人気を得た。
一方で古典的な怪奇映画の体裁を取りながら、残酷描写を過激化させた作品も作られるようになる。イギリスのやジム・オコノリー監督による『愛欲の魔神島・謎の全裸美女惨死体』"Tower of Evil"(1972年)や、イタリアのリッカルド・フレーダ監督による『ヨーロッパのある都市の警察のシークレット・ファイルより』"Estratto dagli archivi segreti della polizia di una capitale europea"(1972年)といった作品は、ストーリーラインはジェイムズ・ホエール監督の古典的怪奇映画『魔の家』"The Old Dark House"(1932年)に代表される「オールド・ダーク・ハウス」のパターンを下敷きにしながら、積極的に血みどろの残酷描写を取り入れ、1980年代以降のスプラッター映画のパターンを先取りしているとされる。
これらの流れと平行して、1973年の『エクソシスト』"The Exorcist"(1973年)のヒットによって始まったオカルト映画ブームの中で、インディーズ映画のみならずメジャー・スタジオの大作映画においても残酷描写が過激化。リチャード・ドナー監督の『オーメン』"The Omen"(1976年)やマイケル・ウィナー監督の『センチネル』"The Sentinel"(1977年)といった有名監督の大作映画においてさえ、残酷な描写を露骨に表現する傾向が加速していった。
こうした流れの中で1978年にはジョン・カーペンター監督の『ハロウィン』"HALLOWEEN"(1978年)とジョージ・A・ロメロ監督の『ゾンビ』"Dawn of the Dead"(1978年)という2本の恐怖映画が公開され、世界に衝撃を与える。以降のスプラッター映画の流行において、『ハロウィン』が打ち出した超人的な殺人鬼を扱った映画と、『ゾンビ』が打ち出した人肉をむさぼり食うゾンビを描く映画という、ふたつの流れが主流となっていく。
1980年には『ハロウィン』の系列に属する『13日の金曜日』"Friday the 13th"(1980年)と、『ゾンビ』の流れに属する『サンゲリア』"Zombi 2"(1980年)の2本が公開され、いずれも世界的なヒットを記録する。
『13日の金曜日』はマリオ・バーヴァ監督の『血みどろの入江』からストーリーラインや小道具、残酷描写の演出に至るまで細かく模倣しながら、登場人物を映画の観客層として想定する10代後半の若者に設定したことで、若者たちに熱狂的な支持を受けて大ヒットを果たす。『サンゲリア』では古典的な吸血鬼映画のストーリーを土台として用いながら、極端まで過激化した残酷描写によって話題を呼んだ。『13日の金曜日』の特殊メイクを担当したトム・サヴィーニおよび、『サンゲリア』の特殊メイクを担当したはホラー・ファンから注目を集めた。
</doc>
<doc id="157046" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157046" title="ヤニス・クセナキス">
ヤニス・クセナキス
ヤニス・クセナキス(ギリシャ語: 、ラテン文字:Iannis Xenakis、カナ表記によってはイアニス・クセナキス、英語圏の発音ではゼナキス、後半生を過ごしたフランス語圏の発音ではグゼナキスとも、 1922年5月29日 - 2001年2月4日)は、ルーマニア生まれのギリシャ系フランス人の現代音楽作曲家。建築家。
で建築と数学を学び、第2次世界大戦中にギリシャ国内で反ナチス・ドイツのレジスタンス運動に加わる。枢軸軍のギリシャ退去後に進駐して来た英軍と戦った際に、銃弾を受け顔の左側に傷を負い左目を失う。大戦後は独裁的新政府に抵抗する運動に加わるが、1947年にレジスタンス活動家に捕縛の危機が迫ったためにギリシャを脱出。アメリカへ亡命しようと立ち寄ったパリに定住した。欠席裁判で死刑が宣告される(1951年に禁固10年に減刑。1974年のパパドプロス独裁政権崩壊によって、やっと刑が赦免されることになる)。以後その生涯の大半をフランス国内で過ごす。眼だけではなく、耳も機銃掃射の音で傷ついた。
1948年より建築家ル・コルビュジエの弟子として学び、ブリュッセル万国博覧会(1958年)でフィリップス館の建設に携わる。このフィリップス館ではエドガー・ヴァレーズの大作電子音楽『ポエム・エレクトロニーク』が演奏され、後に自作の電子音楽を大規模施設で上演する際の参考となった。
建築家としては、その後、インド・チャンディーガルのプロジェクトやラ・トゥーレット修道院などの設計でコルビュジェを助け、独自の才能・アイデアを発揮する。モデュロール(黄金比を参考したコルビュジェ独自の比例配分)理論の発案、窓枠や格子のプロポーショナルな配置などについて、彼の数学的考案に基くところが大きい。コルビュジェの弟子として働く傍ら、パリ音楽院にて作曲方法を学び、作曲に数学の理論を応用した方法を発案して行く。1984年にはパリ・ラ・ヴィレット公園に建設予定のシテ・ド・ラ・ミュジークの建築設計競技に同門のジャン=ルイ・ヴェレと参加している。
晩年は1997年に京都賞思想・芸術部門を受賞し来日もしたが、既に執筆原稿は高橋悠治の校正なくしては読めるものではなく、健在であることをアピールしたものの手の震えは止まらず、徐々にアルツハイマー型認知症に冒され作曲が困難となった。1997年に書いた作品に『オメガ』(ギリシャ語の最後の文字)と題名をつけ作曲行為に自ら終止符を打ち、2001年にその生涯を終えた。
全作品がサラベール社から出版されたが、彼への委嘱はほとんどが日本を含めた海外の財団及び個人からである。ギリシャ政府は罪人として扱った彼に後日正式に謝罪し、凱旋帰国も実現したが、生涯のほとんどをフランスで過ごした。唯一の公称の弟子にパスカル・デュサパンがいる。生涯を通じて多作であり、2001年に他界するまでに170曲以上を作曲するなど、現代作曲家としては異例の委嘱や演奏に恵まれたが、その過激なスタイルゆえ敵も多かった。
一柳慧は「ジョン・ケージの影響を受けなかった作曲家などいないはずだ、しかし1人だけ例外がいて、それはヤニス・クセナキスであった」と述べた。
妻のフランソワーズ・クセナキスは作家。最近作の"Regarde, nos chemins se sont fermés"(見よ、我らの道々は閉じられている)は、夫ヤニスの晩年の闘病記を元にした私小説である。
何とかレッスン代を確保し、アルチュール・オネゲルに師事するが、批判と文句ばかりで辟易して一回でやめる。このころの作品は自主撤回するなどした。「オネゲルからの言葉は、もっぱら技術へのクレームに終始した」と本人は語る。落胆した彼はその時期の作品を多く破棄したが、現在は破棄を免れた数作のみ現存する。ピアノのための『六つのシャンソン』はその時期の作品である。
その後パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンらに師事する。このときメシアンに「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか。伝統的な修練は、あってもなくても同じではないか」と言われ、その慧眼に強い霊感を受けた。そして数学で生み出されるグラフ図形を元に、縦軸を音高、横軸を時間と見做し音響の変化を綴る形で作曲したオーケストラ曲『メタスタシス』を1954年に作曲、ドナウエッシンゲン音楽祭で鮮烈なデビューを飾る。『メタスタシス』は3部よりなる管弦楽曲『アナステナリア』(1952-54)の第3曲目であるが、あまりに作風が他とかけ離れて先鋭的であるため、これを独自に作品1とした。メシアンがオープンな感性の持ち主であることも手伝い、直ちにオーケストラ作品の委嘱が舞い込むが、これらの委嘱作も死の直前のヘルマン・シェルヘンが激賞。この激賞の経緯は、写真にも収められ閲覧できる。
その後も数学の論理を用い、コンピュータを使った確率論的手法(『ピソプラクタ』より採用)で多くの斬新な作品を生み出した。高橋悠治の協力を得て、室内楽や独奏でも『エオンタ』や『ヘルマ』など初期から優れた作品を発表したが、特に管弦楽曲や電子音楽など多くの音群を自在に扱うことのできる分野でもっとも手腕を発揮した。中期の2つの傑作、会場内に奏者がランダムに配置される管弦楽曲『ノモス・ガムマ』と、照明演出を伴う電子音楽『ポリトープ』(クリュニー、モントリオールなどいくつかの版がある)で、彼の作風は一つのピークを迎える。日本万国博覧会では、『ヒビキ・ハナ・マ』(響き、花、間)(1969年)という日本語の題を持つ多チャンネル360度の再生装置を伴う電子音楽を発表した。
その後、『メタスタシス』以前の習作に見られるギリシャの民謡に基づくアイデアを混合させた作品を手がけるようにもなる。この分野の代表作では音楽劇『オレステイア』(1965年)、『アカンソス』、『夜』等がある。1970年代の作品では方眼紙を用いた直感的なグラフ作法と天性のバルカン半島的な韻律に基づいた作品が多い。1977年には、電子音楽の作曲用コンピュータとして、ペンとタブレットで描いた線形が音響として反映されるUPICの開発を完了した。
このころはブーレーズと敵対したためフランスから委嘱が全くもらえなかったにもかかわらず、世界中からの支援者から常に委嘱が舞い込み、それに全力で答えていたため常に最新作は問題の嵐であった。ピアノのための『エヴリアリ』はメシアンとロリオの激賞を受け、弟子にはこれをマスターするように薦めたといわれている。ロストロポーヴィチ国際チェロコンクールのために書かれた『コットス』は課題曲という枠を超え、世界中のチェリストによって今もなお弾き継がれている。この時期ドイツ、ボン市のベートーヴェン賞を『ピアノとオーケストラのためのエリフトン』で受賞。
『エルの伝説』などの電子音楽は全面的にグラフで作曲しており、これは同郷のアネスティス・ロゴテーティスの影響が大きいが、器楽曲や声楽曲は定量記譜で常に作曲していた。例外に打楽器ソロのための『サッファ』があるが、これは大きな問題になり、世界中の打楽器奏者はこれをすべて五線紙に直して演奏したため、クセナキスも後年にはすべて五線紙に戻っている。
ブラウン運動からヒントを得た「非合理時価を互い違いにかける」アイデアは、メシアンが実現させたアイデアだったが、メシアンが単なる付随効果として使用したのとは対照的に、クセナキスはオーケストラの全声部に適用させて数十段でやるという技法を手にし、これらのアイデアで1980年代の作品は、音楽的密度も潤うことになった。音色が単一である場合は複雑性が知覚の限界を超えてしまうために解りづらいが、オーケストラ作品では複数の楽器に明け渡されるために、可聴域の限界を超えた音色が展開される。このため録音が非常に困難であり、オーケストラ作品の音源定期リリースは、没後にハイレゾの音響設備を備えたスタジオが整備されるまで長らく行えなかった。挑戦性も顕著で、四声部で書かれた『ミスツ』をピアニストのロジャー・ウッドワードにクリアされたことが分かると、ピアノ協奏曲『ケクロプス』では六声部を要求し、彼の手でもクリア出来るか分からない、手に余る結果となった。
中期以降は聴覚的に平易な瞬間が増えるにもかかわらず、演奏が容易ではないために、批判者を生み出すことになったが、出来る限りクセナキスの意思に忠実なコンピュータリアライズで、正確に全ての音符を打ち込んだCDもリリースされている。
最晩年までグラフを用いた硬派の作曲法は手放さなかったが、ランダム出現がなされる音の時間については16分音符のグリッドをあらかじめ書いておいてから、そのなかに音符を目分量で入れる、といった技法も多くの作品で使われている。
活動末期にはアルツハイマー病に羅患し、徐々に脳を蝕まれると共に作曲能力も衰えて行った。しかし、本人は作曲を継続した。アルツハイマー病に苦しんでいた彼は「どこから作曲したか完全に忘れる」ことが多くなったため、前作の素材を切り取り次の作品に生かす「再作曲」を1990年代に入ってから行っていた。『キアニア』では、『ホロス』や『アケア』等の自作が再利用されている。1990年代に入ってからはリズムの単純化がいっそう顕著になり、また作品の時間が徐々に短くなり始めた。ドナウエッシンゲン音楽祭の新作には大きな賛辞が飛んだが、舞台上には現れず客席で会釈したのみであった。晩年の管弦楽曲では、自身の持ち味であった数学的な規則性の応用どころか、過去の自作曲すら全く再利用しておらず、トーン・クラスターによる音高の羅列しか使用しなくなっていた。1997年には遂に作曲能力の低下が限界に達し、「オメガ」と名付けた作品を発表して自身の音楽活動に終止符を打った。1999年に「音楽に全く未知の領域を切り開いた、類い稀なる業績」を祝してポーラ音楽賞を受賞したが、2年後の2001年の2月1日から昏睡状態に移行し、その3日後に死去した。
翻訳された書籍を含まない。
</doc>
<doc id="157048" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157048" title="神奈川県道50号座間大和線">
神奈川県道50号座間大和線
神奈川県道50号座間大和線(かながわけんどう50ごう ざまやまとせん)とは、神奈川県座間市相模が丘の相武台団地入口交差点から大和市下鶴間の下鶴間交差点までの主要地方道である。
この道路は通称「座間街道」と呼ばれており、起点の相武台団地入口交差点の延長上に神奈川県道507号相武台相模原線があり、地元では神奈川県道507号相武台相模原線(村富線)と一体化して認識されている。
また、神奈川県道50号と同507号をあわせると国道16号の旧道と接続されていることから、国道16号の迂回路としても利用されている。
元々周辺に物流拠点や工場が多く存在し、付近の大型商業施設への接続道路となっていたために渋滞が発生していたが、座間市の道路脇にイオンモールが開店したことにより慢性的に渋滞が発生する状況である。週末の昼間は渋滞が県道内で捌ききれず、付近の道路まで連鎖的に渋滞しているような状態になっている。行政側もこの問題は認識しており、変則交差点を改良して信号を減らすなどの対策が実施されたが根本的な解決には程遠いというのが現状である。
起点・終点の両区間内に交差する国道はなし。県道は、始点相武台団地入口交差点で県道51号(通称行幸道路)と交差する。
その他、多数の工場が沿線に立地する。
</doc>
<doc id="157049" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157049" title="控訴">
控訴
控訴(こうそ)とは、第一審の判決に対して不服がある場合に、上級の裁判所に対してその判決の確定を遮断して新たな判決を求める不服申立てをいう。上訴の一つ。
日本法など大陸法系訴訟法においてみられる概念であり、控訴審判決に不服がある場合にさらになされる不服申立てである上告とは厳密に区別される。
日本法においては、裁判所法16条1号、24条3号、以下、刑事訴訟法372条以下に規定がある。
。民事訴訟の場合、控訴しても1回で結審してしまい、原審通りの判決が出される割合が7割程度といわれている。
特に、刑事訴訟では、「やむを得ない事由によって第一審の弁論終結前に取調を請求することができなかった」場合でない限り、新しい証拠を取調べないという刑事訴訟法382条の2、393条第1項を厳格に適用し、被告人の証拠申請を全て却下する一方で、検察官の証拠申請は認めるという不公平な取り扱いがあるともいわれている。
正式な裁判以外に、俗にスポーツ全般におけるスポーツ仲裁裁判所等への仲裁申立てや、モータースポーツの世界におけるレース中のペナルティに対する統括団体への不服申立てなども「控訴」と表現されることがあるが、それらについてはスポーツ仲裁裁判所、ペナルティ (モータースポーツ)#抗議と控訴等を参照のこと。
</doc>
<doc id="157054" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157054" title="野球解説者">
野球解説者
野球解説者(やきゅうかいせつしゃ)とは、野球の実況中継で試合の内容を解説する人物、また職業。元野球選手などの野球関係者が務めることが多い。
日本におけるプロ野球実況中継は戦前にラジオで放送されたのが始まりである。戦後しばらくまで中継はアナウンサーによる試合の経過実況のみであったが、プロ野球人気の上昇に伴い聴衆に試合内容を広く理解してもらうために、元野球選手や野球評論家などが解説者として起用されるようになった。小西得郎が野球解説の第一人者と言われる。
解説者は各放送局と年契約を結び、中継試合の解説を行う。また、契約局のスポーツ番組に出演し、当日試合の詳細な事後解説を行うこともある。加えて、系列局や提携局の中継やスポーツ番組に出演することがある。さらに近年は契約局の野球と直接関係ないバラエティ番組にも出演することがある。なお、放送局と契約している解説者は他の系列の放送局にはあまり出演しないので専属出演契約になっているとみられる。
現在は地上波テレビ放送、衛星放送、ラジオ放送、インターネット放送など、解説者の活躍の場は多方面に拡がっている。また、複数の放送局をまたがって活動するフリーランスの解説者も増えつつある。
高校野球、大学野球、社会人野球などのアマチュア野球では、野球解説を生業としている人は非常に少ない。中継放送の少なさが大きな理由である。
プロ野球の解説者と兼任している例は、過去には有本義明などのアマ野球および新聞記者出身者での例があった。2018年現在は元北海道釧路工業高等学校監督の宮古栄吉が、NHKで北北海道・南北海道大会の解説を務める一方で、エフエムくしろで釧路市民球場で開催の北海道日本ハムファイターズ戦中継の解説を務める例がある程度である。
これらアマ野球の放送では、元監督など現場経験のあるアマ野球関係者が解説者として広く招かれている。
</doc>
<doc id="157055" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157055" title="絵師">
絵師
絵師(えし)とは、
『日本書紀』には、崇峻天皇元年(588年)条に、「画工白加(えたくみ はくか)」の名や推古天皇12年(604年)条の「黄書画師(きふみのえかき)」、「山城画師(やましろえかき)」の記事がある。また、「聖徳太子伝暦」ではこの他に、簀秦(すはた)画師、河内(かわち)画師、楢(なら)画師の記述がある。この時代(6世紀末から8世紀にかけて)の画師は寺院壁画や石室内壁画など、宗教壁画としての絵仏師が活動しており、遺物として壁画の破片も出土している(一例としては、法隆寺若草伽藍跡)。
律令制の下で画工司が設置されて、画師などが配置されて宮中で用いる絵画などの作成を行った。画工司は平安時代初期に廃止されたが、程なく蔵人所支配下の画所と呼ばれる令外の機関として復活して再び画師が配置された。
江戸期以前の日本には芸術家としての「画家」という概念が無く、絵画の専門家は絵を描く技能に長けた技能者あるいはその仕事をする職人と見なされていた。技能に長けた者を意味する「師」という字が用いられるのもそれ故である。
浮世絵は版画特に木版画の技法で複数の職人により原画から版が作られ多くの数が刷られるものである。そのため絵師は現代でいう所のアニメーションやゲームの原画家のような側面も持ち合わせていた。元の絵を描く人を絵師または下絵師、それを版画に彫る人を彫師、紙に摺る人を摺師といった。
江戸期の絵師は「御用絵師」と「町絵師」に分かれており、御用絵師では狩野派と土佐派、町絵師では円山派や四条派が有名であった。
なお、日本画や浮世絵等以外で実用的な国絵図や村絵図など絵図類の作者については絵図師と呼ばれる。
近年、サブカルチャーの世界においてイラストを描いている者も「絵師」と呼ばれていることがある。主にインターネット上で、作品を鑑賞する側から敬称の1つとして使われる言葉。
また、近年の市場の急激な変化により、それにより、「絵描き」や「絵師」等といった「絵を描く人」に向けられた鑑賞者側の敬称の定義もまた、曖昧な物となってきている。
</doc>
<doc id="157056" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157056" title="壁">
壁(かべ)とは、家の四方を囲うもの、または室と室の隔てとなるもの。建物の仕切りとなる平板状の部分。
室内と外界との境にある壁を外壁(がいへき)と言う。建物の中の各室あるいは部屋と廊下などの間を仕切る壁は内壁(ないへき)や間仕切り壁(まじきりかべ)と呼ばれている。
二つの地域を隔てて、人間を移動できなくして閉じ込めたり、隔離したりする目的の壁、人権を侵害する壁もある。(イスラエル西岸地区の分離壁、ベルリンの壁等)  
日本語の「壁」は狭義には建造物を構成する外壁や内部を間仕切る内壁のみを指すが、広義には屋外で領域を区切るための「塀」と同義で使われることも多い。塀とほぼ同じ意味の「垣」は近年では「石垣」や「生け垣」など、もっぱら限定された意味で用いられる。区画を仕切る物としては、他に「柵」があるが、これは木製(近年は金属製なども)の柱を複数本立て、貫(ぬき)を通して往来を遮断する物をいう。ただし、最近は有刺鉄線を使った物などものなども柵というが、基本的にはお互いがすき間から確認できるような物に対して使われ、表面が塗り固められている物には「壁」や「塀」を用いるのが一般的である。古語では家屋の内外壁を「かへ(処重)」、屋外を仕切る物は一般に「き(柵、垣、城)」と呼ばれたようであり、塀(ヘイ)や柵(サク)の語は大陸伝来の漢語である。
壁には建物を支える構造体となっているものと、そうでないものがある。前者は「耐力壁(bearing wall ベアリングウォール)」、後者は「帳壁」「非耐力壁」(curtain wall カーテンウォール)と呼ばれる。
欧米の建築では、伝統的に、外壁が石壁・レンガ壁などでできていて、壁が建築物の基本の構造体となっており、壁が屋根を支えている。つまり、西欧の伝統的な建築物の壁は「耐力壁(bearing wall ベアリングウォール)」である。しかし、鉄骨造建築の出現以降は、欧米においても非耐力壁構造も増えており、特に高層建築に多く用いられている。
日本の木造住宅では、柱や梁が建物の基本構造体になっており、壁というのは柱の間にはめこまれているだけで、屋根を支えているわけではない。日本建築では、非耐力壁が多く使われてきたわけである。
洋風の住宅などで、柱を内装・外装で包み、柱を見せない様式を「大壁造」と言う。
木造の家で、柱と柱の間に壁をはめこんで柱が外部から見える様式を「真壁造」と言う。
外壁の機能・役目には、室内を外界から守る、ということがあり、断熱性・遮音性・水密性・気密性・防火性・耐衝撃性・耐候性などが求められる。内壁のほうの機能・役割としては、遮音性・防水性・防汚性に加えて、視覚的に美しいこと、触れた感触も良いことなど、感覚的な性質も大切である。
さまざまな機能を持った壁があり、
遮音性を特に高めた「防音壁」、音の反響を防ぐ「吸音壁」、火事の際に延焼を防ぐ「防火壁」、放射線が漏れるのを防ぐ「放射線遮蔽壁」、「収納する」機能と「部屋を仕切る」機能が融合した「収納壁」 等々等々がある。
その他にも様々な役割を持つ壁がある。たとえば岸壁は船舶が接岸する場所を確保するために、垂直の壁で陸地の土砂を支えるのが目的である。また擁壁は切り通しや盛り土の法面の崩落を防ぐために設けられるものである。
壁材として、伝統的には、日本では内壁には土壁、漆喰などが用いられてきた。
外壁としては板壁、石、土壁、漆喰など。
明治、大正時代は、土壁・漆喰・板・石に加えて煉瓦が用いられるようになった。
第二次世界大戦後は、土壁・漆喰・板・石・煉瓦に加えてコンクリート、石膏ボードなどが用いられている。
洋風建築の普及に伴い、断熱材等の開発が行われている。防音目的でグラスウール(近年では断熱も兼ねて被覆されたもの)が用いられる場合もある。
屋外ではコンクリートやトタンの上に塗装を行ったりして装飾される。また、石膏ボードの場合にはそれ自体にプラスチック又はアルミニウムなどの板により装飾がされているものもあり、その場合外壁材として直に張られる。
室内は塗料、壁紙などで装飾される。床から1メートルほどの高さまでは汚れたり傷んだりしやすいため、この部分だけ補強を兼ねて板やタイルで装飾されることもある。この部分、あるいはこのような装飾を腰壁という。
崖などに於ける壁材はコンクリートの他に硬化プラスチック製の物がある。主に風化や波による浸食で崩落した場合の景観復元のために用いられている。
また、次世代の壁として愛知万博のパビリオンの様に水のカーテンを壁としている場合もある。
概説でも説明したが、内壁では感覚的な性質も重要である。西洋では伝統的に、貴族の館などでは、石壁の内側にタピスリーなどが掛けられた。これは石の壁がそのまま見えているより視覚的に柔らかで優しいということ、また寒い季節などは、石の壁がそのままむき出しでは部屋の中が冷え込んでしまうのでそれを少しでも緩和させる役割もあった。
壁に様々な目的で絵画が描かれることがある。これを壁画という。古代ローマではテンペラ画などが描かれた。
近年の住宅では、内壁には壁紙が貼られることが多い。
壁面線(へきめんせん、building line)とは、敷地境界から外壁面の位置を後退させるラインのこと。通りに面する建物の位置をそろえ、街並みとしての景観を向上させる目的で決められる。一般には地区計画、特定街区、建築協定などで定められる。建築基準法第2節に、建築物又はその敷地と道路又は壁面線との関係等(第43条~第47条)が定められている。
建物の外壁または柱の面から敷地境界線(道路境界線含む)までの距離を壁面後退距離と呼ばれる。これも第一種低層住居専用地域や第二種低層住居専用地域では、良好な住宅市街地形成のために指定されている場合がある。その他の用途地域においても、良好なまちなみづくりや空地の確保などを目的として、地区計画で定められている場合もある。
(w:List of wallsより一部翻訳、改変)
壁が内と外とを隔て、外界からの影響を遮断するものであることから、転じて心理的あるいは象徴的に何かを隔てるもの、あるいは行く手に立ちふさがる大きな障害を比喩的に壁と呼ぶことがある。例として、「男女の壁」「夫婦の壁」「世代の壁」「記録の壁」「心の壁」「言葉の壁」「音の壁」「バカの壁」などが挙げられる。スポーツ関係でいう「記録の壁」は、例えば100メートル走におけるかつての「10秒の壁」などが知られる。特に遮断するという意味では、コンピュータ用語としてのファイアウォール(防火壁)は、コンピュータネットワークに於いて通信の内容を監視し、外部からの侵入活動などを遮断する役割を持つソフトウェアあるいは機器を指す。サッカーなどでゴールキーパーが「鉄壁」と喩えられることもある。また野球ではその役割から、ブルペン捕手を譬喩する。
また、大きくのっぺりした平らな面といった形状から壁と呼ばれている構造物もある。例えば、山岳用語では海岸段丘や山の崖などにおける平らな垂直部分を壁または壁面と呼ぶ。あるいはコンピュータ用語でGUIにおいて、背景として置く画像を壁紙と呼ぶのもこのような意味の比喩である(ただし壁紙が貼ってある作業域はデスクトップ(机上)である)。天文学の世界でも、宇宙の大規模構造における超銀河団の数億光年にわたる連なりが、グレートウォールと呼ばれている。
単に区切りという意味では、パソコン通信のニフティサーブにおいては会議室(いわゆる電子掲示板)と会議室を区切るための空の会議室があり「壁会議室」又は単に「壁」と言われた。このような区切り会議室は通常は書き込みができないようになっているが、偶然又は故意に書き込めるようにしたものもあり、そういう会議室はさながら「壁」への落書きのようにボードチャットや本来のフォーラムの趣旨とは関係ない書き込みで満たされた。
教育用語においては、脳の認知機能などの変化をさす物として、「9歳の壁」あるいは「10歳の壁」という表現が使われる。
</doc>
<doc id="157057" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157057" title="ズビグネフ・ブレジンスキー">
ズビグネフ・ブレジンスキー
ズビグネフ・カジミエシュ・ブレジンスキー(Zbigniew Kazimierz Brzezinski または Brzeziński , 1928年3月28日 - 2017年5月26日)は、アメリカ在住の政治学者。1966年から1968年まで、リンドン・ジョンソン大統領の大統領顧問を務め、1977年から1981年までカーター政権時の第10代国家安全保障問題担当大統領補佐官を務めたことで知られる。
ポーランド出身、カナダ育ち。1958年にアメリカ市民権を取得。
ポーランドのワルシャワに「ズビグニェフ・カジミェシュ・ブジェジンスキ( )」として生まれる。ブジェジンスキ家は、現在はウクライナ領となっているブジェジャヌィ(Brzeżany)を故地とし、3つのホルンをあしらった「トロンビィ」紋章を持つポーランドの名門シュラフタ。
外交官だった父タデウシュ・ブジェジンスキは1931年から1935年までベルリンに赴任、ズビグニェフも父と共にドイツで過ごし、アドルフ・ヒトラー率いるナチス党の台頭とその強引な政治手法を目撃した。
その後タデウシュは一家とともにモスクワに赴任。当時のソビエト連邦ではヨシフ・スターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れており、ズビグニェフはまたもや独裁者による恐怖政治を目撃することとなった。
その後父タデウシュは1938年にカナダへ赴任することになり、一家もカナダに移住、1939年にドイツがポーランドに侵攻したため、一家はポーランドに帰国できなくなった。第二次世界大戦後も共産主義者によって祖国ポーランドが支配されたため帰国が実現することはなかった。
カナダで成長したブレジンスキーは、マギル大学で学部と大学院修士課程を修了し、ハーバード大学大学院に進学する。ハーバード大学大学院では同じく欧州からの移住者であった政治学者カール・フリードリッヒに師事し、1953年に博士号を取得する。さらにのちに駐日大使となる日本生まれの東洋史研究者のエドウィン・O・ライシャワーにも学んだ。学位取得後はハーバード大学で教鞭をとったが、テニュア(終身雇用)を得ることができなかったことからコロンビア大学に移り、同学の教授(1960年~1989年)として共産主義圏の政治・外交の研究を行なう。
ブレジンスキーは1950年代より、ソ連の政治体制を、1) 全体主義イデオロギーの支持、2) 一党独裁、3) 秘密警察組織の浸透、4) マス・コミュニケーション手段の体制による支配、5) 武力の体制による独占、6) 中央集権的統制経済などの特徴を有する「全体主義体制」の一つであり、従来の独裁や権威主義体制とは異なるものと位置づけた。1940年代まで、全体主義という概念はナチス党政権下のドイツやファシスト政権下のイタリアを論じるために用いられる一方、ソ連研究には用いられていなかった概念であり、ブレジンスキーの研究は同時代に発表されたハンナ・アーレントの『全体主義の起源』などと呼応する形で、これらの体制間の比較研究に地平を開くこととなった。
また、1971年には日本に半年間在住した後に、急速な経済発展を遂げた日本が政治外交領域ではいまだに独立した行動をとる力を持っていない「ひよわな花」であると論じ、日本で大きな注目を浴びた。冷戦後に発表した『ブレジンスキーの世界はこう動く』 でも、日本に対する基本的な見方は継承されている。
研究の一方、1960年の大統領選挙以降、歴代大統領選で民主党候補者陣営の外交問題顧問に加わる、日米欧三極委員会の創設に携わるなど、実務面でも力を発揮した。この面では共和党と深い関係を持っていたヘンリー・キッシンジャーと並び称されることが多い。
1976年の大統領選においてカーターの外交政策アドバイザーを務め、カーター政権発足後に国家安全保障問題担当大統領補佐官に就任。反共主義者ながら、一方で中華人民共和国との米中国交正常化に取り組み、後にG2論者にもなってることから親中派であったとされる。
ハト派の多い民主党の中では異色のタカ派(リベラルホーク)でもあり、政権内ではサイラス・ヴァンス国務長官と外交政策を巡って対立することが多く、ヴァンスは中華人民共和国との会談の場でも疎外されるようになり、1979年のイランアメリカ大使館人質事件の対応をめぐって対立は決定的になった。結局、カーターの信任を勝ち取ったのはブレジンスキーで、ヴァンスは政権から追い出されるかたちで1980年に辞任することになった。
後任の国務長官には、故郷ポーランドからの移民の子であるエドマンド・マスキー上院議員を支持する。後にはマスキーを民主党大統領候補に推している。
さらに、レフ・ヴァウェンサをリーダーに、ソ連による支配に対抗したポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」を積極的に支持し、ポーランド出身だった当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世とも密に連絡を取り合っていたため、事実上1989年の東欧革命の最大の黒幕ともいわれている。
カーター政権退陣後も現実政治との密接なかかわりを持ち、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究大学院(SAIS)の教授を務める傍ら、戦略国際問題研究所顧問として「チェチェンに平和をアメリカ委員会」の共同代表を務めた。いわゆるネオコンとは連絡を取り合いながらも一線を画していた。
2008年の大統領選で当選する民主党候補バラク・オバマ陣営の外交顧問を務めるなど、現代アメリカ政治に隠然たる力を及ぼしていた。2013年にはシリア内戦に対するアメリカの武力介入への反対を表明しており、オバマ政権は結局シリアへの攻撃を諦めた。
2016年には民間人としては最高栄誉の、アメリカ国防総省公共サービス栄誉賞を受賞した。2017年5月26日に、バージニア州の病院において89歳で死去したと報道された。その実績から、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官と並ぶ戦略思想家だったとする評価もされている。
1990年2月、NHKの特別番組『90年代ソビエトはどうなる』に出演する。同番組は米ソ両国の要人が偶然にも日本に滞在していることを知ったNHKが企画した特別番組で、ブレジンスキーはゴルバチョフ側近として知られたソ連外務省情報局長と対談を行なった。
</doc>
<doc id="157058" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157058" title="カポネ">
カポネ
カポネ
</doc>
<doc id="157059" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157059" title="鶴来町">
鶴来町
鶴来町(つるぎまち)は、石川県の南に位置し、石川郡に属していた金沢市南郊の町。金沢市への通勤率は29.7%(平成12年国勢調査)。
2005年2月1日に、野々市町を除く石川郡を構成する町村及び隣接する松任市と合併し、白山市になった。
手取川扇状地の扇頂に市街地が形成されており、白山麓の玄関口にあたる町。加賀国一宮・白山比め神社が立地し、古くから市が立った歴史のある町である。
町西部の手取川扇状地では、「暴れ川」として知られた手取川の氾濫による浸水を避けるための集落形態である島集落が見られる。
近年、狭隘な市街地の人口が減少している一方で、金沢市に隣接する北部地域の人口は増加しており、金沢市のベッドタウンとしての性格が強まっている。
平成22年より地域おこしの一環として、地元商工会青年部がご当地グルメであるつるぎTKGYを開発。
松任石川広域事務組合消防本部が管轄する。
一部を除いて石川県企業局が供給する。
鶴来町単独の公共下水道と、石川県下水道公社の犀川左岸流域下水道に接続されている。
松任石川広域事務組合が、松任市の松任石川環境クリーンセンターで処理する。
金沢市のNTT西日本金沢支店が管轄する。
町内の集配は以下の局が行う。
松任市の金沢国税局松任税務署が管轄する。
鶴来町の電気事業者は当初金沢電気瓦斯であったが町営にかわった。1919年(大正8年)12月事業許可を受け、発電所はもたず金沢電気瓦斯より受電し1920年(大正9年)6月より事業を開始した。
</doc>
<doc id="157060" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157060" title="北条氏秀">
北条氏秀
北条 氏秀(ほうじょう うじひで)は、戦国時代の武将。武蔵国江戸城代。北条綱成の次男(孫とも)。治部少輔(治部大輔とも)。最初、北条氏康の偏諱を受けて沼田(北条)康元(やすもと)と名乗った。。綱景・氏広という署名も残っている。
永禄元年(1558年)に沼田氏に内訌があり、後北条氏は近辺の国衆長野氏とともにこれに介入し、当主弥七郎を支援した。内訌の過程で弥七郎が家督を継承したとみられる。
当初、上野国沼田氏を継いで沼田城に在城していたが、永禄3年(1560年)に長尾景虎(後の上杉謙信)の関東出兵によって攻略されてしまう(この時に北条孫次郎が戦死したという記述もある。後述)。永禄5年(1562年)江戸城に入り、翌年出奔した太田康資に代わって対里見氏の一翼を担った。
元亀元年(1570年)12月に兄康成とともに足柄に在陣している。天正2年(1574年)2月から、実名が氏秀でみえ、江戸地域において一定の権限を有する存在としてみえている。7月には、代々江戸城主扇谷上杉家当主が名乗ってきた「治部少輔」を称したことも確認できる。8月には武蔵岩付城代の兄氏繁の出陣の留守を守って同城に在城している。
天正6年(1578年)の御館の乱では、北条家から養子に出ていた上杉景虎を救援するために越後へ出兵している。
天正10年(1582年)3月から7月にかけて下総関宿城に在番しているが、7月頃に病に倒れ、関宿城から江戸城へ戻り、翌年、同地で没した。
没後の家督は子の乙松丸が継いだ。元服前の幼少であったため、当時「御隠居様」と称されていた宗家隠居の氏政が後見を務め、その家臣団統制を行っている。乙松丸は、天正12年(1584年)3月に江戸平河法恩寺に対し、寺領について代替わり安堵を行い、10月に石神井三宝寺(東京都練馬区)に代替わり安堵的な禁制を与えているので、この年から、氏秀の後継者としての活動を開始したことが知られる。しかし、その後は史料に見られなくなるため、早世したと思われる。
これにより江戸北条家は断絶した。そしてその権限や所領・家臣は「御隠居様」氏政がそのまま管轄していった。
</doc>
<doc id="157062" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157062" title="東京都道・埼玉県道108号東京朝霞線">
東京都道・埼玉県道108号東京朝霞線
東京都道・埼玉県道108号東京朝霞線(とうきょうとどう・さいたまけんどう108ごう とうきょうあさかせん)とは東京都練馬区大泉町の東京都道68号線との交点から埼玉県朝霞市の中央公園入口交差点に至る一般都道(県道)である。
</doc>
<doc id="157069" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157069" title="北条氏時">
北条氏時
北条 氏時(ほうじょう うじとき)は、戦国時代の武将。伊勢盛時(北条早雲)の子。初代玉縄城主。
伊豆国・相模国の戦国大名・伊勢盛時(北条早雲)の子として誕生した。生年は不明であるが、嫡男・北条氏綱と同腹の次男と推定されており、兄・氏綱(1487年)から四弟・長綱(幻庵・1493年、一説に1501年)までの間ということになる。
氏時に関する史料は極めて少ない。享禄2年(1529年)5月15日付で伊豆国の三島大社護摩堂に宛てたものが初見文書であり、伊豆郡代または韮山城主であったと考えられる。次の文書は同年8月19日付の相模国東郡二伝寺(藤沢市)宛てのものでこの時には玉縄城主になっていたことになる。
大永6年(1526年)、安房国の里見義豊が相模国鎌倉に乱入してきた際、戸部川で迎撃したとされている。なお、戦後両陣営で首を交換し、それを埋め弔うために建てた供養塔(玉縄首塚)が残っており、供養は現在も「玉縄史蹟まつり」として毎年継承されている(鶴岡八幡宮の戦い)。
享禄4年(1531年)8月18日に死去した。子がなかったため、玉縄城主は兄・氏綱の子の為昌に引き継がれた。
歌舞伎演目「本朝廿四孝」に「足利将軍義晴の頃、信濃村上義清と組んで行動する"小田原の太守北条氏時"」なる登場人物があるが、これは本記事の人物とも他の同名人物とも関係なく、実在しない。
</doc>
<doc id="157072" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157072" title="プロビデンス (テレビドラマ)">
プロビデンス (テレビドラマ)
プロビデンス(原題:Providence)は、アメリカ・NBCで、1999年1月より2002年12月まで、全5シーズンが放送されたテレビドラマ。
アメリカ合衆国ロードアイランド州プロビデンス市を舞台にした、ハンセン一家の家族の絆・恋・医療・動物医療などを描く、ファミリー向けテレビドラマである。
アメリカでの放送は完結しているが、日本ではNHK-BS2で第2シーズンまでが放送されたが、2003年秋以降ラインナップから外れている。
</doc>
<doc id="157073" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157073" title="ハードコア・シャード">
ハードコア・シャード
ハードコア・シャードとは、多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム(MMORPG)・ウルティマオンラインの上級者専用シャード。通常のシャードと異なり全てのファセットがフェルッカルールで運営される(トランメル・イルシェナー・マラス・徳之諸島・テルマーでも対人戦可など)。
またNPCにアイテムを売却するのが不可能な為、仲間との連携が重要になっている。
また一般シャードがスキル上昇システムとしてGGSを採用しているが2005年現在上級シャードではROTシステムを採用している。
上級シャードは2005年現在では、日本のMugen(ムゲン)米国のSiege Perilous(シージ・ペリラウス)の2シャードが存在する。
</doc>
<doc id="157075" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157075" title="嘉陽愛子">
嘉陽愛子
嘉陽 愛子(かよう あいこ、1985年12月11日 - )は、日本の女優、歌手。愛称は、あいぴー。
身長154cm。
デビュー前に「モーニング娘。LOVEオーディション21」の最終選考まで残った経験が有る。アニメ声が特徴で、声優もこなした。
口調は小倉優子と同じで、ぶりっ子調である。奇術の心得がある。
芸能人女子フットサルチームだった「TEAM dream」の元メンバーで、現在はチームは解散している。キャッチコピーは「A-MUSIC界の清純派アイドル!!」である。生え抜きアーティストとしては事実上同社唯一のアイドル歌手路線で売り出されていた。
2003年12月10日、デビューシングル『瞳の中の迷宮』をリリース。オリコンチャート最高22位を記録。
2006年3月1日、1stアルバム『Dolce』をリリース。
2007年6月6日、2ndアルバム『P♡P』をリリース。同年、エイベックスのスペシャルユニット「金魚」に加入し、7月11日にシングル『LOVERS HIGH』をリリース。同年末、エイベックスとの契約が終了し、歌手活動を休止。
2013年7月7日、ブログで映画主題歌を担当することを報告した。以降、歌手活動再開に向けてストリートライブを行っていた。
2014年2月7日、ブログで主題歌を担当した映画公開と映画主題歌入りのミニアルバムのリリースを報告。(このリリースは映画とクラウドファンディングサイトで製作資金を募集するプロジェクトで目標額に達したことで決定したものである。)
2014年2月14日、aiとしてボーカルを担当するバンド「ROYAL BLUE」結成を報告。3月7日には1stシングルをリリースする。ギターとベースとドラムはロックバンド「シンガーベラ」のメンバーがそれぞれ担当している。同時にFacebookのページが公開される。アーティスト写真はaiとギターの小松慶太朗の2人である。
2018年3月31日、15年間所属したフィットワンを退社、翌4月1日よりフリーとなる。
全て終了済み
</doc>
<doc id="157076" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157076" title="ディアブロ">
ディアブロ
ディアブロ()はスペイン語で、またディアボロ()はイタリア語で、いずれも「悪魔」の意。ボローニャの方言ではディアベル()。
</doc>
<doc id="157078" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157078" title="騎馬警官 (テレビドラマ)">
騎馬警官 (テレビドラマ)
『騎馬警官』(きばけいかん、原題: "Due South")は、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに住み活躍するカナダ騎馬警察官の冒険を描いたカナダの警察官テレビドラマである。
騎馬警官は元々テレビ映画として制作され、アメリカ合衆国のCBS及びカナダのCTV上で共同放送されていた。このシリーズはCBSによって中止されるまで、1994年から1996年まで制作されていた。中断された1年後、CTVは国際的な投資により1997年にこのシリーズを復活させ、1999年まで2シーズン分を放送した。
日本ではNHK-BS2で第2シーズンまで放送されたが、第3シーズン以降の放送は予定されていない。その後、2006年よりCS放送のミステリチャンネルにて放送される。
カナダ騎馬警官のベントン・フレイザーは、騎馬警官である自分の父を殺した男の行方を追っていた。その男が、シカゴに関連があるという情報を得たフレイザーは、シカゴ総領事館への転属を願い出て、受理される。
シカゴでは、27分署の刑事レイ・ベッキオらの協力も得て犯人を突き止める事が出来た。その後、フレイザーは、イヌイットの知恵や、独自の調査方法を用いながら、ベッキオや愛犬ディーフェンベイカーと共に様々な事件を解決していく。
このテレビドラマは世界中で放送された。
</doc>
<doc id="157081" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157081" title="赤座直保">
赤座直保
赤座 直保(あかざ なおやす)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。
赤座氏は朝倉氏家臣123家を所収した『一乘録』にその名が記されており、直保や父の直則も朝倉氏家臣であった可能性が高い。
天正元年(1573年)8月、織田信長の朝倉氏討滅後、信長に降り信長書状によって本領を安堵されたのが直保の初出である。その後、越前守護代となった桂田長俊(前波吉継)の下で信長に仕え、天正3年(1575年)11月には長俊の書出しに基づいて府中火内村56石の加増を受けた。この所領は翌年、府中三人衆から打ち渡しを受けている。このころ堀江・新開・千福・赤座・鞍谷・諏訪といった越前の諸士は柴田勝家や府中三人衆の与力とされており、前田氏とは関係があった。
天正10年(1582年)の本能寺の変で父・直則が討ち死にすると家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて所領を安堵される。天正17年(1589年)10月、南条郡大桐村に灰焼きの営業独占権を与えた文書が現存する。天正18年(1590年)の小田原征伐では石田三成の麾下で武蔵岩槻城、忍城の攻略に参加し、この功によって従五位下備後守に任官、越前国今庄2万石に加増され大名に列する。しかしその地位は小早川秀秋や堀尾吉晴の与力であり、独立の大名ではなかった。今庄は直保が居館を置いたことからその統治下において発展し、その統治は結城秀康の街道整備政策によって引き継がれて北国街道の宿駅として栄えるに至る。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属して北国口で戦ったが、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。だが事前に通款を明らかにしなかったとの理由で戦後、徳川家康にその功を認められず所領を没収されたとするが、そもそも直保は関ヶ原の戦いに参戦していなかったとする指摘もある。その後は京に住んだが、同年10月前田利長の家臣となり加賀へ赴き、松任城代として7千石を領した。慶長8年(1603年)には利長の命により先祖・赤座景秋が建立した棟岳寺を下屋敷の敷地内に移転させている。慶長11年(1606年)、越中国大門川の氾濫の検分の際、濁流を渡河中に落馬、溺死している。
子の孝治は永原と改姓し、加賀藩の藩士として存続した。「寛永十九年小松侍帳」には「御人持」(人持組)の席次第四位に永原左京(5千石)、十四位に永原大学(□□800石)、「御馬廻」に永原内膳(600石)、永原五郎左衛門(300石)が記載されており、子弟か一族と思われる。左京の娘は加賀八家長家嫡男・長元連に嫁ぎ、この縁故から左京、大学の両名は浦野事件に藩側として関与し浦野孫右衛門の子弟を預かっている。幕末には馬廻役・作事奉行を歴任した永原甚七郎(孝知)が出、水戸天狗党討伐の指揮を執り、葉原でこれを降伏させ最期を看取っている。
</doc>
<doc id="157086" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157086" title="カリフォルニアロール">
カリフォルニアロール
カリフォルニアロール (California roll) は、アメリカの巻き寿司の一種である。カリフォルニア巻き・加州巻き(かしゅうまき)ともいう。
カリフォルニア・ロールは、カニ風味かまぼこ(もしくは茹でたカニの脚身)、アボカド、マヨネーズ、白ゴマなどを、手巻き、または裏巻き(外側から酢飯、海苔、具の順になるように巻く)にしたものを言う。
本場アメリカではカリフォルニア・ロールに本物のカニが使われることはほとんどなく、またマヨネーズが使用されることも極めて稀である。またアメリカでは、アボカドとともにキュウリが巻いてある場合も多い。ゴマは外側からまぶしてある場合が多く、ゴマの代わりにとびこを使う場合もある。また、海苔を使わないこともある。ちなみに発祥の店といわれる「東京会館」では、カニ脚、アボカド、キュウリ、白ゴマを手巻き(海苔は外側)にしていた。
生の魚介類を使わず、海苔を酢飯の内側に巻き込んで裏巻きにすることが多いため、生魚介や海苔になじみのないアメリカ人にとっては抵抗がない。カリフォルニア・ロールで海苔と酢飯に慣れた後に、徐々に日本で一般的な寿司に入ってゆくアメリカ人が多いといわれる。
一般的な寿司に慣れている日本人には抵抗をもたれることもあるが、現在では日本国内でもよく食べられている。フルコースの前菜として出されることもある。
1963年、「ミスター寿司」と称される共同貿易社長の金井紀年がロサンゼルスのリトル東京のレストラン「東京會館」(1998年に閉店)内に開設したスシ・バーにおいて、東京會舘オーナーの小高大吉郎の提案を受け、寿司職人・真下一郎(ました いちろう)がタラバガニの脚身とアボカドをマヨネーズであえた巻きずしを考案したのが始まりとされる。また、海苔を内側に巻く作り方は、米国人が海苔を気味悪がって剥して食べている姿を見た同店の職人が考案したものとされている。後に「カリフォルニア・ロール」と命名され、1980年代までにはアメリカ合衆国各地で作られるようになり、日本にも伝わった。
また、カリフォルニア・ロールと似ている巻き寿司でカナダのバンクーバーにある有名な日本料理店“Tojo's”のが1974年に考案したTojo Roll (東條巻き)がある。具はカニ、アボカド、ほうれん草、卵焼きを裏巻き(外側からゴマ、酢飯、海苔、具の順になるように巻く)にしたもので、海苔や生魚に抵抗感がある客の為に作られた。これがカリフォルニア・ロールの元祖という説も一部ある。
2005年7月20日、アメリカカリフォルニア州の観光大使となったガレッジセールのゴリ扮するゴリエは、「ゴリエと行くカリフォルニアツアー」のイベントとして、長さ30メートルの「世界一のカリフォルニア・ロール」を作った。
また、2009年11月8日に同じカリフォルニア州で地元の学生数百人が世界最長のカリフォルニア・ロール作りに挑戦し、長さ100.6メートルの巻き寿司ができあがった。それまでの記録はハワイで記録された91.4メートルだったので、世界一を達成した。
</doc>
<doc id="157087" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157087" title="自作 (アマチュア無線)">
自作 (アマチュア無線)
アマチュア無線における自作(じさく)(英語:Amateur radio homebrew)とは、アマチュア無線の楽しみ方のひとつで、アマチュア無線技士がアマチュア無線に使用する機器などを自ら設計・製作することである。
国際法、すなわち国際電気通信連合憲章に規定する『無線通信規則』においてアマチュア業務とは「金銭上の利益のためでなく、もっぱら個人的に無線技術に興味を持ち、正当に許可された者が行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務(第1条第78項)」と定義され、日本の電波法施行規則においても「金銭上の利益のためでなく、もつぱら個人的な無線技術の興味によつて行う自己訓練、通信及び技術的研究の業務をいう」と定義されており、
すなわちアマチュア無線技士は、自らの自由意思で、たったひとりででも、アマチュア局の無線設備の全てを自ら設計・製作し、免許を受けて無線通信を実施することができるのであるが、具体的なところでその目的には、
等が挙げられる。
日本アマチュア無線連盟では自作奨励の一環として毎年、自作品コンテストを実施し、アマチュア無線フェスティバルで入賞作品を公開している。
アマチュア無線の黎明期、アマチュア無線技士はそれぞれ独自に送受信機を作り、無線通信を行っていたが、本格的なアマチュア無線における自作は、第二次世界大戦後に不要となった軍用部品を安価に入手することによって始まった。
第二次世界大戦後、アマチュア無線における自作は、さまざまなアマチュア無線に関する出版物によって奨励された。米国では1950年、ARRL(American Radio Relay League)が自作コンテストを実施、その優勝賞金は1000ドルであった。米国では、アマチュア無線における自作は、いわば人的な「技術の池」として位置付けられ、1958年、ARRLの機関誌は、アマチュア無線がその技術的な活動としての地位を失った場合、公衆電気通信も衰退することになるとまで指摘している。
現代では、少数のアマチュア無線家が完全に自作した無線設備を運用して無線通信を実施するようになっているが、例えば米国では、組み立てキットの供給者も多く、自作の文化、すなわち、「自家製の芸術」としての地位も得ている。
上述の通り、現代では、アマチュア局の免許に係る部分(送信装置本体)を自作することは少なくなっているが、免許に関わらない、電鍵、ボイスメモリ、スイッチャーなど数多くの周辺機器が存在し、それらの自作の楽しみがある。
アンテナの自作・改造は、直接的には電波法令の制限を受けないが、電波の質に影響を与える可能性があり、また利得の向上にともなって電波障害を引き起こすこともありえるため、入念な調整と各種測定が必要である。
受信機および周辺機器については、電波法令の制限を受けず自由に製作、改造が可能で必要な手続きも無い。これは、これらの機器が動作原理上、電波の質に影響を与えないためである。
送受信機やアンテナは電気工学や電子回路に関する専門的な知識や技術、また測定器や特殊な部品などが必要な場合も多いが、周辺機器は最低限度の機械工作の技術があれば製作できる例も多く、材料もホームセンターや廃材を利用して入手しやすい。
本節では日本でのアマチュア無線における自作・改造機器に関する諸手続きを記述する。
自作の送信装置で免許を受けるには、
なお、技術基準適合証明を取得して免許を受けた事例は極めて少ない。
</doc>
<doc id="157088" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157088" title="東京都道420号鮫洲大山線">
東京都道420号鮫洲大山線
東京都道420号鮫洲大山線(とうきょうとどう420ごう さめずおおやません)は、東京都品川区八潮橋交差点と板橋区仲宿交差点を結ぶ特例都道である。狭隘区間が多く残るが、おおむね東京都道317号環状六号線(山手通り)と東京都道318号環状七号線(環七通り)の中間を通り、それらを補完する役割を担っている。
北から
北から
この道路の路線名の中の大山は、終点近くの板橋区の大山町を指している。路線の途中の渋谷区にも大山町(大山交差点)がある。
</doc>
<doc id="157091" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157091" title="ロード・ハウ島">
ロード・ハウ島
ロード・ハウ島(ロード・ハウとう、)は、オーストラリア領で本土から東に600km離れた所にある小さな島である。タスマン海の中にあり、ニューサウスウェールズ州に属する。
なお、島のほとんどはロード・ハウ島海洋公園として保護されている。
ロード・ハウ島は三日月型の形をした全長約10km、幅約1.5kmの島で、約6900万年前の楯状火山が海水に浸食されて出来たものである。三日月の湾の内側では珊瑚礁や干潟がこの湾に守られる形で存在している。海域に存在するロード・ハウ海底山脈は珊瑚に覆われた平頂海山で、オーストラリア・プレートの活動により出来たものとされており、1000kmも北に続いている。
玄武岩で出来たリッジバード山 (777m) とガウアー山 (875m) が島の南部に位置しているが、これは元々火山のカルデラを形成していた溶岩が冷え固まったものである。これらの溶岩は6400年前のこの火山最後の火山活動で生まれたもので、最終的にはこの島の現在の形を形成したと見られている。
亜熱帯で海洋性の気候である。1年を通して温暖で降水がある。冬に当たる6~8月は気温が少し下がり雨も多くなる。
ロード・ハウ島は、ロード・ハウ島亜熱帯雨林としても知られ、陸上動物の生態に際立った特徴が認められており、また、本土オーストラリアを含めニューギニア、ニューカレドニアと生物学的な類似性を見いだすことが出来ることもあり、生物地理区であるオーストラリア区の一部とされている。ロード・ハウ島は大陸とつながったことがないため、その動植物相はすべて海を越えて渡ってきた種を祖先としている。島の植物の半分以上は島固有の種である。固有の植物には、たとえばヤシ科の やケンチャヤシ() といったものがある。
島には哺乳類はもともとコウモリ一種しか生息していなかったが、ネズミやイノシシなどが移入された。ロードハウクイナなどの固有種を含め100種を越える鳥類が生息している。他に島にはキバラモズヒタキのロード・ハウ島亜種 ("")、ハイムネメジロのロード・ハウ島亜種 ("")、フエガラスのロード・ハウ島亜種 ("") などの固有亜種の鳥類が生息している。絶滅した固有種としてロードハウセンニョムシクイ ("")、ロードハウメジロ ("")、ロードハウセイケイ、固有亜種としてアカメカラスバトのロード・ハウ島亜種 ("")、アオハシインコのロード・ハウ島亜種 ("") などがいる。
昆虫にはロードハウナナフシなどの固有種がいたがネズミなどに捕食されて数を減らした。ロードハウナナフシは島からいなくなり絶滅したと思われていたが、2001年に近くにある小島・ボールズ・ピラミッドにごくわずか生息しているのが発見された。
島では約10%の森が農業用地に転用され面積を減らし、20%の森は野生化したウシ、ヒツジ、山羊、イノシシなどによって荒らされた。このため、島では入植者に持ち込まれた生物を減らす努力が続けられている。特に山羊はすべて除かれ、イノシシの数は減った。ネズミや入植者に持ち込まれた植物に関しては引き続き減らす努力が続いている。
ロード・ハウ島は1788年2月、リッジバード・ボール大佐の命を受けノーフォーク島の開拓に向かっていた海軍により発見されフランス軍との戦いで功労のあったリチャード・ハウの名前を取ってその名称が付けられた。1833年以降から入植が開始された。1878年からココヤシが植え始められ観光産業と並び島の重要な産業となった。
1982年周辺の島々と共にロード・ハウ島群として、ユネスコの世界遺産(自然遺産)に登録された。
</doc>
<doc id="157092" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157092" title="ゼブラ">
ゼブラ
ゼブラ (zebra)
</doc>
<doc id="157093" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157093" title="ゼブラ (文具メーカー)">
ゼブラ (文具メーカー)
ゼブラ株式会社(英語:ZEBRA Co., Ltd.)は、ボールペンなどで知られる日本の文具メーカー。本社は東京都新宿区東五軒町。ボールペンでは三菱鉛筆、パイロットコーポレーションと並び日本国内でシェアが高い。
社名「ゼブラ」の由来は、シマウマが団結力のある動物であることから、社員が人の和を持ってシマウマのように団結し、会社を支えてもらいたいという理由から。また、シマウマは漢字で「斑馬」と書き、「王」と「文」の組合わせから成り立っていることも、理由の一つとなっている。
1897年、石川徳松がエンジニアであった松崎仙蔵の協力を得て純国産初の鋼ペン先の開発に成功し、その後「石川ペン先製作所」として発足した。
1914年にはシマウマをデザインしたロゴマークを商標として採用し、「ゼブラペン」ブランドを確立した。1957年、ペン先に代わる新しい筆記具としてボールペンの開発に着手、1959年に最初の商品「No.5911」を発売した。
社名は1963年に「石川ペン先製作所」から「ゼブラ」へと変更。その後も3色ボールペン、フェルトペン(ハイマッキー)、シャープペンを合体させたシャーボなど、独創的な筆記具を開発している日本有数の筆記具メーカーである。
1981年には世界で初めてボールペンインクの逆流を防ぐシステム「ツインボールシステム」を完成させ、「DXハード」という商品に採用し発売した。
1996年、先代の社長石川秀明元が勲四等瑞宝章を受章。
1997年、創業100周年を迎える。
2017年、創業120周年を迎える。
多機能ペンとしては、赤・黒・シャープペンシルがロータリー式にどちらの方向にも動く「SHARBO」や、赤・黒・青・緑・シャープペンシルの5機能をコンパクトに収めた「クリップ・オン マルチ」が代表的である。
東京ディズニーリゾートのパーク内限定で、キャップにミッキーのデザインが施されたオリジナルの「ハイマッキーマウス」(黒と赤)が販売されている。
ゼブラで取り扱っている筆記具の多くは、文具店や量販店・ゼブラのWebサイトで芯を購入し、入れ替える事で長く経済的に使うことが出来る。
現在・過去のものを含む。
</doc>
<doc id="157096" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157096" title="A*">
A*
A*(A-star, エースター)探索アルゴリズムは、グラフ探索アルゴリズムの一つ。
最良優先探索を拡張したZ*に、さらにf値として「現時点までの距離」gと「ゴールまでの推定値」hの和を採用したもの。 h は ヒューリスティック関数と呼ばれる。
A* アルゴリズムは、「グラフ上でスタートからゴールまでの道を見つける」というグラフ探索問題において、 ヒューリスティック関数 "h(n)" という探索の道標となる関数を用いて探索を行うアルゴリズムである。hは各頂点nからゴールまでの距離のある妥当な推定値を返す関数で、解くグラフ探索問題の種類に応じてさまざまなhを設計することが出来る。 例えば、カーナビなどで用いられる単純な二次元の地図での探索では、hとしてユークリッド距離 formula_1 を使うことができ、この値は道に沿った実際の距離のおおまかな予測になっている。しかし、高次元空間でのグラフ探索を効率的に行うためには、より高度に設計された関数を用いる必要がある。例えば、15パズルにおいてはマンハッタン距離やパターンデータベース、STRIPSプランニングにおいてはFFヒューリスティック,Merge-and-Shrink,Landmark-Cut などがある。
A* アルゴリズムは、ダイクストラ法を推定値付きの場合に一般化したもので、h が恒等的に0である場合はもとのダイクストラ法に一致する。
A*の探索効率はhの正確さに左右される。
もしもhがまったくでたらめな値を返すならば、探索はゴールとはあさっての方向に進んでしまい、現実的な時間内(一時間、一週間、一年)では解を発見できない場合がある。しかし、いくらおかしな方向に探索が進んだとしても、いつかは必ず解を発見できる保証がある(完全性)。
一方、hが常に正しい値"h*"を返す場合、計算機は「迷うこと無く=分岐をすること無く」グラフ上の最短経路を発見することができる。そのようなhのことを、パーフェクト・ヒューリスティクスとよぶ。
現実に用いられる有用なhは、これらの中間の位置にある。
A* アルゴリズムは1968年に Peter E. Hart、Nils J. Nilsson、Bertram Raphael の三人が発表した論文の中で最初に記述された。A* というこの一風変わった名前は、この論文でスタートからゴールまでの最短経路を確実に見つけるアルゴリズムを許容的 () と呼び、論文の数式中に 許容的なアルゴリズムの集合を A と表し、そのAの中でも評価回数が最適になる物を A と表記していたためである。
スタートノードから、あるノード "n" を通って、ゴールノードまでたどり着くときの最短経路を考える。このときこの最短経路のコストを "f* (n)" とおくと、
と置くことが出来る。ここで "g* (n)" はスタートノードから "n" までの最小コスト、"h* (n)" は"n" からゴールノードまでの最小コストである。もし "g* (n)" の値と "h* (n)"の値を知っていれば、全体の最短経路"f* (n)" は容易に求まる。しかしながら実際には "g* (n)" と "h* (n)" をあらかじめ与えることは出来ない。そこで "f* (n)" を次のような推定値 "f (n)" に置き換えることを考える。
ここで "g(n)" はスタートノードから "n" までの最小コストの推定値、"h(n)" は "n" からゴールノードまでの最小コストの推定値である。この場合 "g" に関しては探索の過程で更新を加えることにより"g*"に近づけてゆくことができるが、 "h*" は、実際にゴールに辿り着くまでは誰にもわからない。そこで、 "h(n)" には人間が(ある程度妥当性を持つように)設計した推定値を与えることにする。このアルゴリズムを A*探索アルゴリズムといい、 "h (n)" をヒューリスティック関数という。
A* のアルゴリズムの実装を以下に示す。このOPENリスト実装は後に述べるように遅いことを記しておく。
以上の流れを見れば、アルゴリズムが手続き的で、並列化が非常に難しいことがわかる。しかし、近年では HDA*, PBFS などの並列手法が開発され、特にHDA*は768コア以上の大規模並列計算環境にもスケールすることが実証されている。
OPEN/CLOSEリストに登録されているノードの数が多い場合、ノードの展開ごとに子ノードmをOPENからCLOSEへ移動(あるいは逆)するのは非常に高価な操作である。
たとえば、OPEN/CLOSEリストが2分探索木(赤黒木など)で実装されている場合、まずノードの探すのに formula_26 かかり(ノードのIDで検索)、また削除にもformula_26かかる。配列の場合には削除により大きなコストがかかる。
しかし、データ構造を工夫することで、より効率よい実装を行うことが出来る。ノードをOPEN/CLOSEリスト間で行ったり来たりさせる代わりに、以下のように実装する:
A*の性質はhの性質によって大きく左右される。
このとき、A*の返す経路は最適、つまり最短経路である。
このアルゴリズムはCPUの使用率、メモリの使用率など、計算負荷は高いが、問題に応じた適切なヒューリスティック関数を用いることにより、問題に対しての最適化が可能である。
分割統治法のように、部分問題に分割したうえで全体問題を解いた方が効率的な問題もある。A 同様の通常の状態遷移はどれかがゴールに到達すれば良いので OR と呼び、部分問題に分割する場合は全ての部分問題が解けないといけないので AND と呼ぶと、探索木が AND/OR 木になる。AND で状態を分割する際、ゴールも分割する必要がある。
同じ状態が2度出現した場合に1つのノードにまとめると AND/OR グラフになる。閉路のない AND/OR グラフに対する A アルゴリズムに対応する物が1968年に開発され、1980年に AOアルゴリズム と命名された。閉路のある AND/OR グラフに対する A アルゴリズムに対応する Aアルゴリズム は1976年に開発された。AND ノードのコストを「辺のコスト+部分問題のコストの最大値」や「辺のコスト+部分問題のコストの総和」などの単調非減少関数で定義すると、ヒューリスティック関数が許容的であれば、A 同様、最適解が求まる。なお、閉路のない AND/OR グラフは文脈自由文法(タイプ-2 文法)、閉路のある AND/OR グラフは制限のない文法(タイプ-0 文法)に1対1対応することが証明されている。
</doc>
<doc id="157097" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157097" title="横山昭二">
横山昭二
横山 昭二(よこやま しょうじ、1927年12月18日 - 2007年)は、日本の検察官・弁護士。1996年に大阪弁護士会から除名処分を受け弁護士を廃業した後は、歴史(主に世界史)を研究しながら余生を送った。
東京府深川区生まれ。炭坑夫を経て、中央大学法学部二部に入学するも後に中退。大学中退後は肉体労働に従事しながら、30歳のときに司法試験に合格。司法修習13期を修了。同期に山花貞夫や一井淳治、堀田力がいる。1961年に検察官任官。検察官を退官した後は弁護士に転じる。
かつて弁護した暴力団員の紹介で、一連のオウム真理教事件でのオウム真理教教祖の麻原彰晃(松本智津夫)の最初の私選弁護人を1995年6月9日から務めた。弁護料は月150万円。初公判の前日の10月25日に麻原により解任されるが、10月27日に再任される。10月22日には横山を乗せたオウム信者が運転する車が交通事故を起こして横山が負傷して2週間の予定で入院したり、11月17日、翌年の大阪弁護士会除名の原因となる債務整理の預託金の返還請求の訴訟を起こされ、12月2日に麻原により解任された。12月21日には『週刊現代』に掲載された麻原の供述調書を流出させた秘密漏洩罪容疑で自宅マンションが家宅捜索され、事情聴取も受ける。
これらの過程で、横山の独特のキャラクターは、マスメディアの注目を集め、連日連夜報道機関から追い回される日々が続いて、お茶の間の話題を独占。一時期はバラエティー特番への出演も頻繁に行っていた。
1996年6月13日、横山は麻原の供述調書の横流しや弁護士費用の着服疑惑のため、大阪弁護士会から除名の懲戒処分を受け、弁護士を廃業した。その後はかねてから関心のあった歴史(世界史)を研究しながら、大阪府河内長野市で余生を送った。また弁護士廃業後も、何度かテレビ番組に出演している。
2006年7月19日、肺癌を患い闘病中であるとスポーツ紙で報じられた。同年春先、中期ガンであると診断され、本人は延命治療を拒否しようとしたが、家族が抗がん剤による治療を勧め、本人も承諾することになった。治療の結果、危機的な状態からは脱し、その後は「日本の刑事裁判における裁判官の暴走」というテーマで本を執筆中だったという。
2007年8月6日発売の写真週刊誌FLASHの特集「日本の人権派弁護士」の中で麻原の弁護人として紹介され、「故人」と表記された。
苦労して弁護士になっただけに人情家であったが、その一方頑固一徹なところがあった。
「私は有能な弁護士であるという自信があります」「事務所にある法律関係の本は六法です」と公言。
ヘビースモーカーで、いつも両切りのピースをくわえているのがトレードマークであった。甘いもの好きで、阿佐ヶ谷の喫茶店でオレンジジュースをおいしそうに飲む姿が数回テレビ放映された。その一方、歯磨きが嫌いで、むし歯のためほとんど歯がなかったとされる。ベレー帽とネクタイなしのシャツに背広の上着、ショルダー・バックが定番であり、独特のキャラクターや風貌により、オウム事件後の知名度は急上昇した。
2004年、2005年の「年越しロンドンハーツ」に特別出演し、マスコミに揉みくちゃにされる自虐ネタを自ら買って出て演じた。なお2回とも出演はこのシーンのみである。
1995年の松本逮捕の後、松本の弁護人を買って出て、そのまま松本の私選弁護人となる。当時はオウム真理教の幹部が連日連夜報道番組等に出演して芸能人のような扱いを受けており、横山も例に漏れず同様の扱いを受ける。
殊に横山は、その独特の雰囲気やしゃべり方から「横弁」の渾名がつくほどの人気を得た。しかし、日を経る毎に他の裁判での弁護費用の310万円の着服等の疑惑が取り沙汰され、これに関することでマスコミに追い回されることとなった。
当初は「や、や、やめてくださ〜い」と当惑ながらも冷静で丁寧な対応をしていたが、やがてそのあまりのしつこさにキレた横山の「この〜、大馬鹿者が!」「バカモンっ!」や「も〜う、やめて〜」に代表される一連の発言は、バラエティ番組やラジオでタモリ、志村けん、岡村隆史、坂崎幸之助、加藤茶などにモノマネされ、また、本人も出演することも多かった。
麻原の私選弁護人就任後、横山には供述調書の講談社への横流しや、弁護士費用の着服等の疑惑が取り沙汰され、裁判所の判断により私選弁護人の横山がいながら、麻原には別に国選弁護人がつけられる異例の事態に発展する。
しかし、国選弁護人は初公判の日時をめぐり、裁判所と激しく対立する。その時、早く公判を開きたい裁判所側は、国選弁護人と意見の合わない横山に注目し、横山を麻原の主任弁護人にすることを画策するが、国選弁護人らにより阻止された。
その後横山は私選弁護人を再び解任される。さらに着服や供述調書の横流しが問題視され、1996年6月13日、大阪弁護士会から除名処分を受けた。
「横山弁護士は大阪弁護士会3000人のうち3001番目の弁護士だ」などとワイドショーで発言し名誉を毀損したとして、大阪弁護士会に所属する弁護士山之内幸夫を相手に民事訴訟を起こした。1審では敗訴したが、2審で勝訴し、30万円の損害賠償請求が認められた。
写真週刊誌の『FLASH』も横山が大阪弁護士会で2001番目の弁護士だという記事を掲載し、名誉毀損だとの横山の訴えを大阪府警察が受理し、『FLASH』編集者を1日7時間、2日にわたって取り調べをした。
</doc>
<doc id="157101" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157101" title="思春期">
思春期
思春期(ししゅんき、、)は、人間が生殖器以外でも外形的性差が生じ、やがて生殖能力を持つようになり、性的に成熟し、心身ともに子供から大人に変化する時期のこと。文学的に青春と表現される場合もある。
医学的には「第二次性徴の発現の始まりから成長の終わりまで」と定義されている。英語の「puberty」は、陰部に恥毛が生え始める時期から由来している。こうした発育の時期は、栄養状態や運動量などからも何歳あたりから何歳あたりまでとは必ずしも一定しない。個人差にもかなり左右される。そのため、生涯発達の発達段階とは別項目となっている。 
第二次性徴を反映する。思春期の始まりは男子の場合は男性器のタナー段階でIIに達したとき、女子の場合は乳房の発達が始まった時(乳房のタナー段階でIIの前半→乳頭期)であり、ジュニアブラを着け始めるべき時期でもある。平均して男子は11歳6ヶ月・女子は9歳9ヶ月に始まり、前後1年半ぐらいの個人差がある。思春期が早くなる要因に、肥満児(低所得ほど肥満、ジャンクフードで蛋白質・カルシウム不足)・睡眠不足(中学受験・ゲーム・スマホ)・ストレス(いじめ)・愛情不足(虐待・ネグレクト)がある。 
 平均身長で早い・小柄で普通だと、将来的に低身長になりやすい。大柄だと早いのは当然だが戸惑いやすく(特に長子・一人っ子で、異性の親がいない)、陰毛が早いと恥ずかしくなり陰毛を剃毛を行う人もいる。第二次性徴は以下の順番で出現するが、陰毛の前に精通する子も多い。性器以外での外形的性差は女子は思春期開始と同時に乳房の発達が始まることで生ずるが、男子は思春期開始して男性器が一定以上発達するまでは性器以外の外形的性差は生じない。男女とも染色体異常や性分化疾患、内分泌器系の異常などを持っている人は、下記通りに出現しない場合がある。 
思春期における二次性徴発現の順序
男子
女子
 字面の通りでは、その後に続く「青春期」を「思い始める」時期であると解釈される。海外ではティーンエイジャー (teenager) の中でもローティーン (lowteen) もしくはミドルティーン (middleteen) が相当する。この時期は身体的に大きく変化を遂げる時期であり、ホルモンバランスが不安定であること、また社会的にも子供から大人への過渡期として、自らの行動に周囲の大人から責任を持たされたり、それまで認められていた甘えが許されなくなるなど、本人をとりまく社会の対応も大きく変化する時期であり、精神的には不安定になりやすい時期である。 
 集団入浴や陰部を露出させる着替えなどで陰毛があることを理由に同級生からからかわれることを心配し、家族などに相談せずに陰毛を剃毛する者もある。これは、男子は陰毛の生え始め(陰毛のタナー段階II)を持って思春期に既に入っていることに気づき、女子は既に発達中である乳房(乳房のタナー段階II以降)により思春期に入っていることに気づいているが、それに加えて陰毛も生え始める(陰毛のタナー段階II)ことから戸惑いを起こすためで、児童心理学では戸惑いから来る成長の否認、もしくは抵抗として、一種の赤ちゃん返りに似た心理行動として受け止められている。これは防衛本能の一種であって、剃毛し、自身にとって見慣れた無毛の状態を見ることで心の安定を取り戻すことを目的としている。しかし、剃刀や毛抜きなどを扱い方を知らずに使用することは危険であり、怪我や肌にダメージを与えることがある。
 思春期を題材にした映画では、大林宣彦や相米慎二が得意ジャンルとし、大林の尾道三部作などが有名である。海外では、過激な性描写のためにDVDが発売後に回収されるという経緯を持つ『思春の森』などがあげられ、いずれも思春期というものが性と関わりの深い年代であることを表している。恋愛漫画や恋愛ゲームの大半が思春期を題材とした、いわゆる『学園もの』に該当する。過激な性描写のためにレーティングや法令に基づく年齢制限がかけられたり、審査を担当した組織によっては、登場人物の年齢設定も18歳以上に変更となるケースが少なくない。 
</doc>
<doc id="157102" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157102" title="にっぽん菜発見 そうだ、自然に帰ろう">
にっぽん菜発見 そうだ、自然に帰ろう
『にっぽん菜発見 そうだ、自然に帰ろう』(にっぽんさいはっけん そうだ しぜんにかえろう)は、2003年10月5日から2010年3月28日まで、朝日放送・PTV(プランニング・テレビジョン)の共同制作により、テレビ朝日系列(フルネット24局)で毎週日曜9:30 - 10:00(JST)に放送された紀行・教養番組である。通称「にっぽん菜発見」。
本番組は『新★得するテレビ ホンジャマカな日曜日』の後番組として放送を開始した。ホンジャマカも引き続き出演した。
毎週日本各地の村々を訪ね、その土地の農産物などの名産品を紹介、現地の人々との交流や触れ合いが放送された。
また、系列外では山梨放送、北日本放送、山陰放送、高知放送でも遅れネットで放送された。
2008年4月6日放送分からハイビジョン制作を開始。
農産物をほぼ毎週紹介しているため、主要スポンサーにJAグループが入っているが、時期により一社提供や複数社提供(PT扱いも含む)になる場合もあった。
開始当初はJAグループの単独提供だったが、一時期、ジャパネットたかた筆頭でJAグループが各社扱いでの複数社提供とジャパネットたかたとJAグループの提供の時期があり、最終回まではJAグループのみが残り、JAグループ以外の枠はPTになった。
2010年4月4日より同枠で『冒険JAPAN! 関ジャニ∞MAP』が放送されることになったため、2010年3月28日放送分をもって終了した。最終回は、東ちづるが鎌倉・三浦半島を訪れ、放送開始から6年半、全320回の放送を終えた。これによりホンジャマカの番組が7年半(8年間)の幕を閉じた。
前半の提供クレジットのBGMはアニメ『東京ミュウミュウ』の次回予告で使用されたものの後半部分を短縮編集したものが使用された。
太字は、番組内でのキャッチコピー
2010年3月14日には14:00 - 15:30に特別番組『食べまくれ!!グルメの達人が行く!!日本一の産地 裏メニュー!! 』と題して、本番組のレポーターが料理界の重鎮・服部幸應から依頼された有名食材を使った日本一の産地ならではの「達人さえ知らないグルメ」を見つけ出す旅へ出かける番組として放送された。
</doc>
<doc id="157104" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157104" title="プロ野球珍プレー・好プレー大賞">
プロ野球珍プレー・好プレー大賞
『プロ野球珍プレー・好プレー大賞』(プロやきゅうちんプレー・こうプレーたいしょう)は、フジテレビ系列で1983年から2005年まで(第1期)及び2010年から(第2期)放送されている野球を専門としたスポーツバラエティ番組である。
毎回、プロ野球12球団やメジャーリーグの試合の中から激突、乱闘、抗議、審判受難、珍妙な観客乱入、野球選手の取材、最後の数分で好プレーなどペナントレースを始めキャンプ、オープン戦、日本シリーズ等で起こった1年間の「珍プレー・好プレー」を特集する特別番組。なお、好プレーは番組の最後に流れる。
『プロ野球ニュース』が始まった1976年(昭和51年)から1980年(昭和55年)までそれに似た前身の特集コーナーがあり、最初は面白いプレーを集めた傑作集でみのもんたのナレーションはなく、字幕付きだったが、当時プロ野球ニュースのキャスターだったみのが、メジャーリーグの映像に合わせてふざけ気味に喋っていたところディレクターに「それいけるよ」と判断され、試験的にアテレコ付きのものを放送したところ大反響を呼び、珍プレー好プレーの企画の実現につながった。またこれが、みのを番組のコメディ・リリーフにするきっかけにもなった。
そのきっかけを作ったのは中日の宇野勝の1981年(昭和56年)に起きた『宇野ヘディング事件』で8月26日に後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ対中日ドラゴンズ19回戦における、中日の宇野選手のエラーがきっかけとなって、『プロ野球珍プレー・好プレー集』が始まったとされる。さらに、この企画が始まった1980年代には、ENG取材ができるようになり、これによって、様々な場面を長時間にわたり撮影できるようになった。これによって、これまでフィルムだったら撮影できなかった様々な表情が撮影できるようになった。
1983年11月11日に『決定!!'83第1回プロ野球珍プレー好プレー大賞』として初放送された。この回はタイトルに83となっていたが、番組内容は1981年から1983年の3年間の珍プレー好プレーを特集したものであった。1985年から2004年まではプロ野球前半戦終了後の7月(8月)にも放送が開始されたため、年2回放送の企画に発展した。番組当初は当番組のナレーションも行っているみのもんたや『プロ野球ニュース』のキャスターでもある佐々木信也が司会だったが、1987年から島田紳助と板東英二に代わり、92年には板東に代わり当時のフジテレビのアナウンサー、中井美穂が司会に加わり、96年以降は板東が復帰し、紳助、板東、女子アナ(西山喜久恵、木佐彩子、内田恭子)の3人体制となった。
毎回高視聴率をマークし、他局でも同じ企画の番組が放送されるなど高い人気を誇っていたが、プロ野球全体の人気の低下などを原因に徐々に視聴率が落ち始め、2005年の放送は1984年以来21年ぶりに年1回の放送に縮小され、翌2006年から2009年までは特番としての放送はなく、事実上の打ち切り状態となっていた。
2010年12月29日『たまッチ!プレゼンツ プロ野球珍プレー好プレー大賞 完全復活祭!あの伝説の珍も甦る〜中居君も思わず笑っちゃいますSP〜』として5年ぶりに復活し、以降2014年までは12月下旬に放送されていた。
2015年から『中居正広のプロ野球珍プレー好プレー大賞』と題した年1回の特別番組として年末に放送されている。また、中居正広の冠番組としても放送されている。2015年は2004年以来11年ぶりにゴールデンタイム・プライムタイム帯で放送され、司会は中居正広、アンタッチャブルの山崎弘也(2016年は出演なし)で、審査員長が徳光和夫、そしてみのが2002年大晦日以来13年ぶりに特別ゲストとして出演した。
2010年から2012年までは山崎がメインナレーションでもう一人はサブナレーションであった。2013年と2014年はみのと山崎のW体制。2015年以降松村と山崎とのW体制となり現在に至る。なお第1期の映像に関してはみのもんたのナレーションのまま放送している。
第1期の途中の1993年から第2期も共通してその年ブレイクした芸能人・芸人や優勝チームのプロ野球選手、監督(古田敦也、野村克也)が登場することが多く、ナレーションのみのもミリオネアがブレイクした年はCGキャラながら登場した。また2000年以降は女子アナウンサーが担当することもあり、基本的には一言言ってから珍プレーを紹介するが全く喋らずに紹介することもあった。
テーマ音楽は当初たかしまあきひこによるものであったが、1991年からはナムコのアーケードゲーム球界道中記のサウンドトラックを使用している。
当番組の売り物でもあるみののナレーションは初放映時から一貫して務めている他、実は台本を一切貰っておらず映像は前もって見るだけでその後は全てアドリブで収録を行っている。放送当初は選手名を積極的に連呼していたが、番組が進行するにつれて連呼しなくなった。元中日の山本昌によると、中日監督当時の星野の台詞は「かなり近い」という。またナレーションに定評があるものの、行き過ぎたナレーションもあり批判もあった。
ちなみに、好プレーは選手の名前を呼ぶだけである。(例:松井の好プレーが出ると「松井!」連続で出るときは「もういっちょ松井!」という感じでこれに抑揚を多少つける。)
番組としては当初は高視聴率を上げているものの、審判団からはあまり快く思われていなかった。
その理由として
などがあり、勝手なナレーションや暴力シーンの自粛を放送局に要請したこともあった。
2001年~2003年はタイトルに大賞とついていたものの大賞受賞は行われなかった。
※在籍球団は当時。
特にパフォーマンスに優れた野球選手、番組に多大な貢献をした選手は「名人」と呼ばれ、「名人特集」が数回放送されている。
主に単発番組枠で放送されていた。中には19:00-19:30枠の番組を休止して2時間枠に拡大して放送されたり、単発番組枠ではない枠で、通常番組を休止して放送された回もあった。
2002年の『FNSの日』内のコーナーとして「中居正広VSみのもんた 珍プレー・生ナレーション対決!!」が行われた(2002年7月7日放送)。
</doc>
<doc id="157108" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157108" title="ボールズ・ピラミッド">
ボールズ・ピラミッド
ボールズ・ピラミッド()は、640万年前に形成された楯状火山とカルデラの上にそびえる岩頸からなる島。オーストラリア東岸沖、ロード・ハウ島の南東20kmに位置し、オーストラリアのニューサウスウェールズ州に属する。海抜562mの高さがある一方、水平面は幅1100m×300mしかなく、世界で最も高い火山岩の海食柱となっている。ロード・ハウ島海洋公園(ユネスコ世界遺産)の一部でもあり、1982年にはロード・ハウ島と共にユネスコの世界自然遺産に登録された。
ロード・ハウ島およびロード・ハウ海山群と同様に、ボールズ・ピラミッドはロード・ハウ海膨の上にあり、今は海に沈んだジーランディア大陸の一部である。
ボールズ・ピラミッドにはいくつか近傍の島がある。ボールズ・ピラミッドの西端から見て、オブザーバトリ・ロックは北西800m、フィートシーフは南西800mのところにある。サウスイースト・ロックは南東3.5kmのところにある尖塔状の岩である。
ボールズ・ピラミッドは、それが在る海底棚の中心にある。その海底棚は長さ20km、幅は平均10km、水深は平均50mである。また500mの深さの海底谷により、ロード・ハウ島が在る海底棚と隔てられている。海食柱であるボールズ・ピラミッドの断崖は水面下も同様で、底の海底棚まで続いている。
この島の名前は、1788年にここを発見した大尉にちなんでいる。ボールは同じ航海でロード・ハウ島も発見した。『ポート・ジャクソンとノーフォーク・アイランドで多くの入植を成し遂げたボタニー湾へのフィリップ提督の航海』(1789年)において、アーサー・フィリップはロード・ハウ島について記す前に、ボールズ・ピラミッド周辺の海域についてこう書いている。
それはピラミッドの南西から約4マイルの位置にある。ピラミッドは危険な岩で、水面から少し頭を出した状態であり、小型船ほど大きくはないようだ。ボール大尉は、そこに安全な航路があるか試す機会が無かった。
この島に最初に上陸したのは、ニューサウスウェールズ州の鉱山課に勤務した地質学者のヘンリー・ウィルキンソンと考えられており、それは1882年のことだった。
1964年に、冒険家のディック・スミスのほかスカウト活動のメンバーたちを含むシドニーの探検隊が、ピラミッドの頂上への登攀に臨んだ。しかし食料と水が尽きて5日目に撤退を余儀なくされた。
初めて登頂に成功したのは、ブライドン・アレン、ジョン・デイヴィス、ジャック・ペティグルー、デイヴィド・ウィザムの4人からなるシドニー・ロック・クライミング・クラブのクライマー隊で、1965年2月14日のことだった。
1979年にスミスはクライマーのジョン・ウォラルとヒュー・ウォードを伴って再びピラミッドに挑んだ。彼らは登頂を果たし、ニューサウスウェールズ州首相のネヴィル・ランから渡されていた州旗をそこで広げ、この島はオーストラリア領だと宣言した。(それまで誰もそうしたデモンストレーションをしていなかったようである。)
ロード・ハウ島法の改正によりこの島の登攀は1982年に禁止され、1986年にはロード・ハウ島委員会により島へのアクセスが全て禁止された。この方針は1990年に緩和され、厳格な条件を課した上である程度の登攀が許されるようになり、近年では州の担当大臣への申請が必須となっている。
の低木の茂みがボールズ・ピラミッドで見つかっている。その茂みは、岩の下の裂け目から水がしみ出る小さな割れ目で育っていた。この水分により、比較的青々としたこの植物は長い年月をかけて成長し、その残骸が数メートルの深さまで積み重なっていた。
ボールズ・ピラミッドは、ロードハウナナフシ(Dryococelus australis)の野生個体群が存在する、現時点で唯一の場所である。
ロードハウナナフシはロード・ハウ島で1920年を最後に見られなくなった後、絶滅したと考えられていた。しかし1964年のボールズ・ピラミッド登攀時に、この種が継続的に生息していたことが発見され、一体の死体が写真に撮られた。その後、何年にもわたり何体も死体が見つかったが、生きた個体は探しても見つからなかった。2001年に昆虫学者たちと自然保護団体の者たちが、植物相と動物相の分布を調べるためボールズ・ピラミッドに上陸した。そして期待通り、海抜100メートルの地点で、Melaleuca howeana の茂みの下にロードハウナナフシの群れが生息しているのを発見した。この群れは極めて小規模で、24匹しかいなかった。2対のつがいがオーストラリア本土に持ち帰られ、新しい個体の繁殖に成功した。最終的にはこれらをロード・ハウ島に戻すことが計画されている。
</doc>
<doc id="157109" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157109" title="島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!">
島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!
島田紳助がオールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えますスペシャル!(しまだしんすけがオールスターのみなさまにげいのうかいのきびしさおしえますスペシャル)は、読売テレビの制作で日本テレビ系列で1995年から2008年まで春と秋の年2回放送されていたバラエティ特番である。視聴者アンケート対決(好きな芸能人、嫌いな芸能人など)などがある。
1995年3月に『EXテレビ』の人気企画「クイズここまで出てるのに」をゴールデンタイムに進出した特別番組「超ド忘れイライラクイズ」として島田紳助(以下、紳助と表記)と、当時読売テレビの月曜夜10時枠の番組の司会を勤めた関口宏が担当した。以後、関口から細川直美に変わり、1996年まで春・秋の年2回放送された。1997年10月に、「クイズここまで出てるのに」以外のEXテレビ発コーナーを持ち込んだ現番組の原型「秋の超テレビ宣言!」(「クイズここまで出てるのに」はなかった)となり、1998年と1999年は春改編は「超ド忘れイライラクイズ」、秋改編は「オールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えます!SP」として放送され、2000年から再び年2回の放送になった。
2004年秋 - 2005年秋では完全に「芸能界・恋のキューピッドあなたの思い届けまショー」のみの内容となったが、上記企画が2006年4月より『芸恋リアル』としてレギュラー番組化されるのに伴い、2006年春の特番からは再び「オールスターの皆様に芸能界の厳しさ教えます!SP」として放送されている。なお、提供バックで使用されている音楽はKinKi Kidsの「HONEY RIDER」(5thアルバム『E album』に収録)のイントロ部分である。
2008年3月の第27回放送を最後に放送されていない。なお、島田紳助は芸能界引退している。
本番組は、基本的に読売テレビ制作枠があった月曜日に放送されることが多かった。
</doc>
<doc id="157110" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157110" title="亀岡運動公園">
亀岡運動公園
亀岡運動公園(かめおかうんどうこうえん)は、京都府亀岡市にある運動公園である。施設は亀岡市が所有し、株式会社三煌産業が指定管理者として運営管理を行っている。
亀岡市営の運動公園として開園。また、公園内では9月から10月にコスモス園が開かれる他、亀岡元旦ロードレースなどの陸上競技、日本女子サッカーリーグ公式戦などのスポーツイベントも開催される。
亀岡運動公園内にあり、施設内には亀岡市の姉妹都市や友好都市であるクニッテルフェルト (オーストリア)、スティルウォーター (オクラホマ州)、ジャンヂーラ (ブラジル)、蘇州市 (中国) に由来するモニュメント等が置かれている。
</doc>
<doc id="157111" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157111" title="新ビーグル号探検記">
新ビーグル号探検記
『新ビーグル号探検記』(しんビーグルごうたんけんき)は、1991年10月9日から同年12月25日まで、毎日放送の制作により、TBS系列局で毎週水曜 19:00 - 19:54 (JST)に放送されたドキュメンタリー番組・教養番組である。。
毎日放送開局40周年記念番組。番組の放送から160年前の1831年に、博物学者チャールズ・ダーウィンがビーグル号に乗って南半球の大陸・島々(南米・パタゴニア・ガラパゴス諸島・マダガスカル・アフリカなど)を航海した記録を基に、160年後の自然と生物はどう変わったのかを各分野で活躍する文化人たちがリポート・検証していた。
テーマ音楽はS.E.N.S.が担当。ナレーターは俳優の柳生博が務めていた。
</doc>
<doc id="157115" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157115" title="トムヤムクン">
トムヤムクン
トムヤムクン (ต้มยำกุ้ง, Tom yum goong) は、辛味と酸味、複雑な香りが特徴的な有名なタイ料理。トムヤンクンとも表記される。
「トム (ต้ม)」は煮る、「ヤム (ยำ)」は混ぜる、「クン (กุ้ง)」はエビのこと。エビ入りトムヤムスープという意味であり、他にも鶏肉やイカ等、他の食材入りのトムヤムスープもある。鶏ならトムヤムガイ(ต้มยำไก่)、魚肉ならトムヤムプラー(ต้มยำปลา)、イカならトムヤムプラームック(ต้มยำปลาหมึก)となる。
レモングラスを使った酸味のある味が特徴。
日本国内でのみ世界3大スープの1つとされるが、「美味しんぼ」の原作者である雁屋哲は、友人で食文化研究家の森枝卓士が広めたと主張している。ちなみに、後の2つはブイヤベースとフカヒレのスープとされることが多い(いずれかの代わりにボルシチが入る場合もある)。
なお、固形やペースト状のトムヤムスープの素がマギー(ネスレのブランド)やクノールなどから販売されており、これを使えば簡単に作ることができる。
</doc>
<doc id="157117" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157117" title="絶対安全剃刀">
絶対安全剃刀
『絶対安全剃刀』(ぜったいあんぜんかみそり)は、高野文子の漫画作品集。白泉社より1982年1月に刊行された。作者初の単行本であり、表題作を含め1977年から1981年までに発表された17作品を収録している。装丁は南伸坊・小倉敏夫による。白泉社は当時A5の漫画単行本シリーズを持っていなかったため絵本の扱いで出版された。ISBN 4592760166。
高野はこの単行本で第12回(1982年度)日本漫画家協会賞優秀賞を受賞している。
5ページのオールカラー作品。ベッドで目を覚ました中国の少女が「たあたあたあと遠くで銃の鳴く声がする」と言いおいて出かけ、銃を守るために貂に石をぶつける。家に戻って銃に包帯を巻いてあげる少女に母は「貂はどうしたの?」と聞き、少女は「知らない」と答える。母のつくるオムレツのケチャップが血を連想させる。彩色はカラートーンによる。
同人誌『楽書館』で、参加者のみに配布される青焼版に掲載された作品。雨上がりの庭でおかっぱの少女が椿の木に登り、一本だけ残った花を折りとって自分の髪に挿す。軒先で見ていた母親が「生花を髪に挿すと母親が早く死ぬぞ」と言い、少女は花を取ろうとするが、髪に絡まってしまう。「どれ」といって母親が髪を梳いて花を取ってやり、それからおもむろに花を自分の髪に挿す。驚いた少女に母親は「うそ…めいしんだよ」と言う。発表されている高野の作品のなかではもっとも古いもの。
銭湯にやってきた眼鏡にジーパンの少女。「よるな女ども!」「女なんかだいっ嫌いだ!」と心の中で女性への嫌悪を露にするが、一人の老女が隣にすわると突然気持ちが落ち着く。少女は老女に自分を帝王切開で生んだ母の面影を見ていることに気が付く。「アナタ ワタシノカアサンデショウ・・・」「ソンナコトモアリマシタッケネエ ムカシ・・・」「ムカシナノデスカ?」心の中で老女と対話する少女に、「おかあちゃん」と自分の母親と間違えて子供が声をかける。声をかけて去っていく老女の背中に、少女は「ツギハ アナタノバンデスヨ」というメッセージを見て取る。この作品や「ふとん」には点描や鎖線が用いられており、これは『楽書館』主宰の水野流転の影響と考えられる。
高野の商業誌デビュー作。「なーんもおもしろくない」と言って自殺を企てる少年と、それを茶化したり諭したりするもう一人の眼鏡の少年とのやりとりをコミカルなタッチで描く。かっこよく死のうとする死装束をまとった少年は、眼鏡の少年が「ちょっとくらい傷ついていたほうがかっこよく見える」と言おうとするのをあわてて止めるが、口をふさがれた眼鏡の少年は動かなくなってしまう。「結局もうなーんにも計画どおりになんかいきっこないんだ」と死装束の少年は言い、「あしたの朝にはおきろよね」と言ってもう一人の少年の眼鏡を直す。描き出しから現実の背景が描かれず、最後のコマで何の変哲も無い勉強部屋でのやりとりだったことがようやく明らかになる。
「パパとママどっちが好き?」と問われた男の子がベッドで煩悶する様をサイケデリックなイメージを交えて描いた作品。明日の朝おはようのキスを先にママにするべきかパパにするべきかと思い悩むうち、そもそも自分はいつも両親の期待を裏切ってきたのではないか、というところまで不安を募らせていくが少年だったが、ベッドの上で愛し合っているパパとママを見つけ、「そーかぁ キスはぼくのひとつっきりしかないわけじゃないんだもんね」とケロリとして寝床に戻る。
電車の中で「年寄り きらいなんだ」「おんな きらいなんだ」「貧乏人 きらいなんだ」と隣に座った人を嫌って次々に席を移る少女の自意識を描く。最後には立ちっぱなしになりながら「強い強い嘘つきになりたいんだ」と独白する。
死んでしまったおかっぱの少女の霊が、自分の葬式を眺めながら迎えに来た観音菩薩とのんきなやり取りを交わす様子を幻想的なイメージで描く。作中に出てくる甘酒や五色の花は、高野が子供の頃に読んだ童話『花まつり』のイメージからとったもの。描きだしの数ページと最後のページはアングルを固定した同じ形のコマの連続となっているが、これは当時高野が好んで観ていた演劇(鈴木忠志の早稲田小劇場)からの影響がある。
女3人、男1人の学生4人組のバスの中での会話を描く。男の子は青春のむなしさや孤独を切実に訴えるが女子たちとは会話がかみ合っていない。男の子は女の1人に告白するが、少女は「少女まんがみたーい」とおどける。と、女子の1人が窓の外にスーパーマンを発見(姿は描かれない)、「えっ!どこどこ?」と窓の外を探しているうちに、男の子はバスの中に1人とりのこされてしまう。絵柄は大友克洋の影響が濃く、高野は作品に合わせて意図的に作った絵柄と述べている
認知症が始まった老女を中心としたある一家の一日を淡々と描く。作品中、老女のみが一貫して「きいちのぬりえ」風の幼女の姿で描かれ、客観的な世界と老女の心象風景とが被らされている。マンガにしか出来ない表現方法として発表当時から多数の評論家に言及されてきた作品。夏目房之介は、老女が階段を下りていく最後のページで、アングルやパースの変化だけで老女が階段を下りていく危うい感覚が表現されていることに驚嘆している。
気の優しい弟オジと悪たれの姉アネサの生活をギャグタッチで描く作品。アネサの意地悪に耐えかねたオジは、アネサを懲らしめるために様々な策を練るが、頭上に大きな石を落としても爆弾をしかけてもアネサはびくともしない。他に策は無いかと「歩きながら本を読んで」いると、同時にふたつのことが出来ないアネサはそれを見て驚愕、それ以来オジを師と仰ぐようになる。
東京に憧れながらそのことを周囲に言えない田舎の女子高生。進学せず実家に留まることで「親孝行者」と言われるが、自室ではヘッドフォンでFMラジオを聴きながら「わたし いい子やだな」とつぶやく。と、放送中に自分の送った葉書が読まれたらしくラジオ局から電話がかかってくる。急いで電話を取った少女は5月のコンサートにいけるかどうか聞かれ「そのころはそっちにいるから」と答えて、「タバコロードにセクシーばあちゃん」(サザンオールスターズ)をリクエストする。作中の方言から、舞台は高野の出身地である新潟県と考えられる。
親の目を盗んで空想に耽る少女・エイベルを描く作品。エイベルは親の見ていないところでは、魔女に捕らえられたお姫様になりきってしまう。エイベルは黒猫のぬいぐるみのトウベが見当たらないことを不審がるが、じつは彼女がお姫様になりきっているあいだ、邪悪な魔女の化身として自分で切り裂いてしまったのだった。絵柄・モチーフは萩尾望都の初期作品(『かわいそうなママ』『エミール』など)に通じる。
男と同棲しているマリーさん。彼女は男に対して将来のことを何も期待せず、ただ今日が幸せであればそれで満足している。「何も欲しがらない」「何も期待しない」「誰も信じない」「誰も待たない」マリーさんの幸せな生活が、作り物の家鴨の視点から独特のリズムで描かれる。
山東京伝の戯作もとに浮世絵風の絵柄で描かれた作品。吉原の美女・花荻に横恋慕する悪二郎が、韋駄天の守り札を使って花荻をさらおうとしたことに始まり、守り札を使って様々な登場人物が世界中を駆け回り、めぐりめぐって花荻は相思相愛の幸二郎と一緒になる。ヤマシタトモコは、当時デビューしたばかりの杉浦日向子に触発されて描いた作品だろうとしている。
「アネサとオジ」シリーズ第2弾。ある日、アネサとオジの家の前で流浪の青年が行き倒れになる。青年にひとめぼれしたアネサは、自分を可愛くみせる方法(古典的な少女漫画のパロディ)をオジから伝授される。特訓の成果を青年の前で披露するアネサとオジを前に、青年は「僕がさがしもとめていたものは愛だったんだぁー」とひとりごち、「"希望"という名の人形」を残して去っていく。「アネサとオジ」シリーズは他に「愛の都 憎しみの街角」(小学館『FOR LADY』1982年5月号)「極寒の宿」(同1982年12月号)があるが、いずれも単行本未収録。
「女の子なんだから」というような言葉に反感を持つ女学生・つじこは、男子学生に「かわいい」と髪を褒められたことに苛立ちを覚える。かよわさを演じる女たちが許せないつじこだったが、その男子学生にお茶に誘われるうち、自分が恋心を抱いていることに否応なく気づかされる。「はい―背筋を伸してワタシノバンデス」「おすわりあそべ」に通じる、「女性であること」への違和感をテーマにした作品。
二人の少女の夏休みの情景を描いた作品。少女えみは、夏の初めに海水浴で溺れかけたことがきっかけでプールに入れなくなってしまう。そうして、彼女と一見仲のいいもうひとりの少女・しょうこに対して複雑な思いを抱いている。しょうこは庭のほうからえみの家を訪れるため、題名に反して作中で玄関が描かれない。
</doc>
<doc id="157119" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157119" title="1998年の日本シリーズ">
1998年の日本シリーズ
1998年の日本シリーズ(1998ねんのにっぽんシリーズ、1998ねんのにほんシリーズ)は、1998年10月18日から10月26日まで行われたセ・リーグ優勝チームの横浜ベイスターズと、パ・リーグ優勝チームの西武ライオンズによるプロ野球日本選手権シリーズ試合である。
パ・リーグは東尾修監督率いる西武ライオンズ、セ・リーグは権藤博監督率いる横浜ベイスターズの対戦で、下馬評は西武有利と予想されたが、横浜が4勝2敗で勝利し、大洋ホエールズ時代の以来38年ぶりの2度目の日本一となった。「マシンガン打線」と呼ばれる攻撃陣と、「中継ぎローテーション」と呼ばれた中継ぎ陣、そして「ハマの大魔神」こと佐々木主浩が最後に控える投手陣、機動力で西武をリードした横浜が圧倒。西武は横浜の勢いを止めることができなかった。本シリーズでは、いずれの試合も先制点をあげたチームの勝利となり、試合途中の逆転もなく、淡白な試合が多かったとも言える。
両チームが予告先発を行った、また、投手出身の監督同士のシリーズとしても位置づけられる。
第1戦は10月17日(土)開催の予定だったが、雨で1日順延された。
10月18日(日) 横浜スタジアム(試合開始 18:40~) 入場者29,025人
横浜の一番打者石井琢朗の試合開始直後のセーフティバントと2盗塁が特にあげられる。石井は、第1打席で出塁して次打者の波留敏夫の3球目に二盗を成功させ、鈴木尚典の安打で先制の生還をした。さらに横浜は3回、石井琢が四球で出塁、二盗すると、波留、鈴木尚、ロバート・ローズの3連打などで3点を追加した。4回には無死一・三塁から波留が適時打、さらに西武に失策、暴投といったミスが重なってさらに3点を追加し、結局、横浜が1勝した。
なお、横浜の佐々木は、この試合、8回二死から登板し、1回1/3を無失点に抑えたが、シリーズ直前に高熱を出し、シリーズ期間中本調子に戻らなかったという。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
10月19日(月) 横浜スタジアム(試合開始 18:40~) 入場者29,076人
横浜が斎藤隆、西武が豊田清、ともに後年リリーフとして実績を残すこととなる両投手の先発。横浜は初回、安打で出塁の石井琢が二盗し、鈴木尚の適時打で先制という第1戦と同じパターン。5回には石井琢のソロ本塁打、ローズの適時二塁打で3対0とし、7回には再び鈴木尚の適時打で4対0とした。斎藤隆は初回に無死一・三塁のピンチを迎えたが、松井稼頭央を遊飛、鈴木健を三塁併殺打に仕留め、結局3安打完封勝利を飾った。日本シリーズ初登板完封勝利は第3戦の渡辺智男以来8年ぶり、史上9人目。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
10月22日(木) 西武ドーム(試合開始 18:20~) 入場者31,599人
再び雨で1日順延(屋根がつき全天候になったのは翌年の1999年から)。舞台を西武ドームに移した第3戦、西武がベテラン潮崎哲也、横浜が三浦大輔の先発。西武は、第1戦、第2戦で横浜の機動力に翻弄された伊東勤に代えて強肩の中嶋聡を捕手に起用した。横浜は先頭の石井琢が四球で3試合連続の第1打席出塁だったが、潮崎が波留を併殺打に仕留め、無失点で切り抜けた。シリーズ前に二段モーションを指摘されていた三浦は神経質になり、3回までに6四球を出す大乱調。三浦は3回1/3を4失点でKOとなった。さらに福盛和男、戸叶尚も合わせて5四球と乱れ、西武打線は5回までに7点を奪い、試合を決めた。横浜の1試合11与四球はシリーズワースト記録。潮崎は初回以外は石井琢を1度も出塁させず、6回まで1失点の好投。7回一死から谷繁元信に本塁打を浴び、続く進藤達哉に安打を許したが、小刻みな継投で西武が逃げ切った。なお、横浜は大洋時代の前回、日本シリーズに出場時には4戦全勝だったので、この試合が日本シリーズで球団史上初の敗戦となった。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
10月23日(金) 西武ドーム(試合開始 18:20~) 入場者31,685人
西武が石井貴、横浜が野村の先発。西武は2回、中嶋の2点本塁打で先制。しかし横浜も4回に鈴木尚の2点本塁打で同点に追いついた。6回、ヒットで出塁した高木大を一塁におき、4番マルティネスの2点本塁打で勝ち越し、野村をこの回でKOした。石井は9回途中まで2失点の好投。橋本、西崎幸広とつなぎ、第3戦に続いて西武が逃げ切り、対戦成績を2勝2敗の五分とした。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
10月24日(土) 西武ドーム(試合開始 18:20~) 入場者31,756人
先発は西武がシリーズ初登板の横田久則、横浜が第2戦で完封勝利の斎藤隆。横浜は初回から4イニング連続得点で7点を奪い、8回にも3点を追加して10対2とほぼ勝負を決めた。西武も8回に変わった五十嵐英樹から3点を返したが、横浜はさらに9回、代打の荒井幸雄のヒットを皮切りに集中打で7点を追加し、17対5で圧勝した。17点のうち、本塁打による得点は9回ローズの2ランによる2点だけで、あとはすべて連打で奪った得点だった。
横浜の1試合20安打、12長打、9二塁打はシリーズ新記録に、2三塁打、17打点はタイ記録になった。
個人記録では佐伯の4長打がシリーズ新記録、鈴木尚の4得点がシリーズタイ記録だった。
一方8、9回に集中打を浴びた西武の新谷博は、失点を重ねながら続投となり、1試合10失点、10自責点、9回の1イニング7失点、7自責点、6被安打というシリーズワースト記録(但しイニング被安打はタイ記録)を作る破目になってしまった。また、試合時間4時間15分は9イニングの試合としてシリーズ史上最長だった。なお、横浜はシリーズ史上6度目の毎回残塁も記録している。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
10月26日(月) 横浜スタジアム(試合開始 18:40~) 入場者29,289人
両チーム無得点で迎えた8回、横浜は、四球と二塁手高木浩之の野選で迎えた好機に、駒田徳広の適時二塁打で2点を先制した。
9回表の西武の攻撃に対して、横浜はシーズン定石どおり佐々木をマウンドへ送り、佐々木は、大塚にシリーズ新(当時)の6打席連続安打となる三塁打を打たれ(左翼手鈴木尚が照明の光で打球を見失って後逸したもの)、中嶋の三塁ゴロ野選の間に大塚に生還されて1点を失った。続く一死一・二塁の場面で代打金村義明を併殺打に打ち取り日本一を決めた。8回途中に2番手で登板した阿波野が近鉄バファローズ時代の第1戦以来の勝利投手で、日本シリーズ史上2人目の両リーグ勝利投手となった。
公式記録関係(日本野球機構ページ)
※なお、第7戦はTBSテレビが中継する予定だった。
※関東地区での視聴率は(ビデオリサーチ調べ)、第1戦(フジテレビ系)は27.9%。第2戦(TBS系)は25.9%。 第3戦(テレビ朝日系)は20.9%。 第4戦(TBS系)は21.4%。 第5戦(テレビ朝日系)は24.7%。 第6戦(フジテレビ系)は29.9%だった。
</doc>
<doc id="157120" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157120" title="OPS">
OPS
OPSとは、
</doc>
<doc id="157121" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157121" title="THF">
THF
THFとは、
</doc>
<doc id="157122" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157122" title="能代潟錦作">
能代潟錦作
能代潟 錦作(のしろがた きんさく、1895年4月5日 - 1973年6月8日)は、秋田県山本郡藤里町出身の元大相撲力士。本名は石田 岩松(いしだ いわまつ)。
1895年4月5日に秋田県山本郡藤里町で農家を営む家に二男として生まれる。幼少期から力が強く、家業である農業の合間に太良鉱山で鉱石と鉛塊を運ぶ作業に従事し、ある時は馬でさえ運べなかった100貫もの荷を担いだこともあった。相撲も元々好きだったことから周囲から「田舎大関」と呼ばれていた。1914年の春に太良鉱山山神祭が行われた際に、田舎大関の実力を発揮しようと飛び入り三番勝負へ参加したが全く歯が立たず、それが元で力士を志すようになった。そんな中、同年夏に同郷の大蛇潟粂藏一行が巡業でやって来たことで日本相撲協会の目代を介して面会し、大蛇潟の風格に憧れたことで入門を志願すると許可されたので、一行の巡業に帯同し、同年暮に錦島部屋へ正式に入門した。最初の四股名は「突山」で、生家が東方の高山(388.4m)から地鳴りとともに、突き出してできたという突山の上にあったため、そこから名付けた。
1915年1月場所において、土地相撲の実績と部屋の稽古によって幕下付出予定者に勝利した実力を買われて幕下付出から初土俵を踏むが、1勝4敗に止まり当時の規定によって序二段まで降格された。
1921年5月場所で新入幕を果たすが、その場所で虫垂炎を発症させて全休、一場所で十両陥落となってしまった。それでも1922年5月場所で再入幕を果たすと順調に番付を上げていき、1925年1月場所では小結を通り越して一気に関脇へ昇進した。関脇では好成績が続き、1926年5月場所終了後に大関昇進が決定した。ちょうどこの頃に大坂相撲との東西合併が行われることになり、合併による番付の編成がやり直される事態が発生するが、能代潟は予定通り1927年1月場所において新大関となった。短躯だが前述のように怪力で腰が重く下半身も磐石で、腰を落として左四つで組んでから相手の一瞬の隙を突いて少しずつ土俵際へ寄って行く取り口だった。
大関昇進後の1927年10月場所は10勝1敗(優勝同点)、1928年3月場所では10勝1分で初優勝を果たすなど好成績の場所もあったが、前後の場所はいずれも負け越しに終わるなどムラが大きく、大関らしからぬ成績を残すことになった。その後も勝ち越しと負け越しを繰り返していたが、1930年5月場所では4勝7敗とまたも負け越したことでついに大関の座を陥落することとなった。1931年1月場所ですぐに大関復帰を果たすものの、勝ち越しても6勝5敗ばかりで、横綱昇進どころか大関の地位を守るほうが厳しい状況が続く。
同年5月場所10日目(1931年5月21日)では天竜三郎と対戦するが、引き分けを嫌って決着を勝負検査役へ申し出たことで、異例となる2日後(1931年5月23日)の中入り後・後半戦の開始前に再戦することが決まった。再戦では能代潟が吊り出しで敗れるが、天竜も能代潟も、その後に行われた正規の取り組み(能代潟は武藏山武戦、天竜は玉錦三右エ門戦)では既に力を出し切ってしまったことによる疲労から両者とも呆気なく敗れた。しかし、この両者の姿勢が敢闘精神とされて日本相撲協会から両者揃って特別表彰と金一封をもらった。
1932年1月6日に春秋園事件が勃発した際は協会脱退組(革新力士団へ参入する力士)から勧誘されるが、「ワシは紙屑拾いになってでも師匠を養う。どんなことがあっても師匠の側に居るのだ」と発言して脱退組力士を追い返し、師匠を喜ばせた。この話は非常に有名で、のちに新国劇がこの一件を「錦島三太夫」として芝居にしたほどである。1933年1月場所では大関から再度陥落、このときには小結の地位に置かれ、これは大関が直接小結まで陥落した最後の例となっている。同年5月場所ではさらに平幕まで陥落するが、玉錦三右エ門から金星を奪うなど6勝5敗と勝ち越し、同年5月場所でも7勝4敗の好成績で関脇に返り咲いた。しかし、初土俵から21年目を数えるベテラン力士となっていたことで喘息・神経痛に悩まされ、1936年5月場所(前頭7枚目)を全休したのを最後に現役を引退した。
引退後は年寄・立田山を襲名したのち、枩浦潟達也を引き連れて独立、立田山部屋を創立したが、1945年3月10日に発生した東京大空襲によって枩浦潟が戦災死したことで部屋を閉鎖、錦島部屋へ戻った。戦前~戦中まで大横綱だった双葉山定次には稽古を付けて指導したことで後々まで親交が深く、双葉山相撲道場が設立されると傘下に入って一門の相談役に就任した。
1961年に日本相撲協会へ停年制が導入されると、その時に停年退職、1973年6月8日に死去、。
土俵に上がる、仕切り直す、水を含んで吐き出す、塩を撒く時に、力を入れて自身の廻しを叩く仕草を見せた。その叩き方が力のこもった音で、「ワシの強さを見よ」と言っているかのようだと伝わる。相撲を心から愛し、悠々たる態度は土俵態度・取り口として立派なものだった。
非常に几帳面で、飲酒しても自身で決めた一定量以上は、何があっても絶対に飲まなかった。
</doc>
<doc id="157124" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157124" title="黄色い本">
黄色い本
『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』(きいろいほん ジャック・チボーというなのゆうじん)は、高野文子の漫画作品集。講談社アフタヌーンKCデラックスの1冊として2002年2月に刊行された。高野の単行本としては『棒がいっぽん』以来8年ぶりのものとなる。ISBN 4063344886。
高野はこの作品集で2003年、第7回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞している。
北部の田舎で暮らす女子高校生・田家実地子が、学校の図書館で借りたロジェ・マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』翻訳5巻本をゆっくりと読み進めていく様子を描いた作品。10-15ページ程度で分けられた5つの章からなるが、作中で大きな出来事は起こらず、実地子が田舎暮らしや学校生活の中で本を読み進めていく様が静かな調子で描かれる。読書中のシーンでは、実地子が読み進めているページの活字をコマいっぱいに描く表現がなされている(描き出しもそのようなコマから始まる)。そして実地子は自身の暮らしのなかで、本の中の登場人物であるジャック・チボーやその友人たちと言葉を交わす。会話の主題は革命である。実地子と彼らとの会話は、時に実地子の生活と地続きであるかのように描かれており、また実地子は革命の主題をしばしば自分自身の生活に当てはめて考え、自身の生活が革命からほど遠いことを思う。実地子が就職先を決め、卒業式の日に本を返却したところで幕となる。
各章の最初のページは、扉絵の代わりにカエルを主人公にした小さな4コマ漫画が1本ずつ描かれている。
名前が出てくるのは上記のみだが、他に実地子の父母、叔母(留美の母)、同級生などが登場する。
制作には3年が費やされており、100ページ超の下書きを刈り込んで70ページほどに凝縮、ネームから完成までは1年かけられている。高野は制作の動機として「「読書が大切」とか「活字離れが問題」とかそういったことを書きたかったわけではない」「(自分が)そもそも本なんか読んで、マンガなんてものを描くようになったスタートを描こうと思った」と述べており、これを最後の作品にしようと考えていたとも語っている。
作品のねらいについて、高野は次のように語っている。
「字が絵になるかもということ。字も絵のように目に入ってきたらおもしろいかも、と思ったんです。コマの中が字だらけになるので、写植はフキダシ内だけにする。そしてフキダシ内は方言。そうしてみたら、シーンと音の無いマンガになる気がした。だったらいっそ、匂いやら、湿気なども出せるかもと思った。夜具の匂い。ですから布団は最初っから最後までしつこく出しました」「絵柄を単純にしたのはスピードを上げてこまを追ってもらうためです。1ページに9コマをいれて、9コマ全部流して見たあとに、布団の匂いが頭の奥にポヤッとしたら、そのページは成功! としようと思った。だからみっこちゃんの顔がかわいくないのはしょうがないの。かわいかったらそのコマに目が留まるでしょう。そうすると読むスピードにムラが出る。9コマすべて均等に1秒ずつ見てもらうような仕組みにしたの。1ページ9コマで4ページくらい続けた後に、ここぞというコマを大きく取る。そこで一息ついてもらうって感じかな」
作品の舞台、年代はおおよそ高野の少女時代をもとにしており、高野も高校時代に実際に『チボー家の人々』を読んでいる。しかし「恥ずかしかったので」実地子の年齢は高野よりも5歳上に設定している。また高野には弟はいたが、「留ーちゃん」のような子は実際にはいなかったという。作中に描かれるジャック・チボーは、高校時代に読んでいた萩尾望都『ポーの一族』に登場する少年・キリアンがイメージされている。執筆に当たって資料探しなどはあまりしなかったが、作品を描くために農文協から出ている写真集や、今村昌平『赤い殺意』、川島雄三『暖簾』を観たとしている。また執筆時、鈴木翁二、武田京子、樹村みのりの漫画が始終頭にあったという。
制作の際、何十年も開いていなかった『チボー家の人々』と中学時代からつけている日記も参考にしたが、高野は作品が完成したのち「思い出すこともすっからかんになって」日記も本も全て捨ててしまったと語っている。
「黄色い本」は発表当時それほどの反響はなかったが、単行本発売を機に各誌紙でさかんに取りあげられるようになり、以後多数の評論家・研究者により議論が行なわれている。呉智英は「田辺のつる」(『絶対安全剃刀』所収)に並ぶ高野の最高傑作としており、「日本マンガの画期的作品として、長く読み継がれるだろう」と評している。。また斎藤は漫画によって読書を追体験させる本作を、おそらく漫画史上はじめての試みであろうとし、登場人物のセリフ、内語、小説、ナレーションといった多層的な語りのポリフォニックな描かれ方に注目している。伊藤剛は作品に描かれる「没入(=リアリティの混乱)」に注目し、キャラクターへの感情移入とは別の形で読者を「没入」に誘う本作の構造を論じている。
若い母親と二人の娘との家の中でのやりとりを描く作品。『COMIC CUE』の「カバー・バージョン企画」参加作品で、冬野さほの同名作品(マガジンハウス刊『ツインクル』収録)のリメイク。。
一種の「社内セクハラ」を描いた作品。12に分けられた短いシーンからなる。若いOLのたきちゃんは、前日、同僚のスネウチ君に「ホテルにいこうか」と誘われたことで気まずい思いをしている。スネウチ君の前で何とか普段どおりに振舞おうとし、会社を辞めてやろうかと思ったり、またぶしつけにそんなことを言い出したスネウチ君を懲らしめてやろうと思ったりする。その月、彼女はツネウチ君が紛失した書類のありかを一緒に考えてやり、何気ないふうに一緒にケンタッキーを食べたりする。同僚の一人は神戸にボランティアに行き、スネウチ君はいつの間にかたきちゃんの部屋に上がりこんでいる。そうしてたきちゃんとスネウチ君は結婚してしまったのだった。
ホームヘルパーを題材にした作品。主人公・里山まり子は、勤め先の高齢者向けサービス「すこやかヘルプセンター」から派遣され、毎週火曜日11時から2時まで、二丁目二の六にある大沢宅を訪れている。大沢家にはいつもはお婆さんが独りいるだけだったが、その日はたまたま、警備会社に勤める57歳の息子が帰ってくる。彼は前日、ファミリーレストランで女子高生を助け、40歳も年の離れた彼女とデートの約束をしていたのだった。車が使えなくなってしまい、家に女子高生を呼びつける息子。女子高生を待つ間、息子はまり子がおばあさんに高見順の本を読んでやるのを聞いている。一方家の前までやってきた女子高生は、窓から見えたまり子を彼の奥さんと勘違いし、そのまま帰ってしまう。どうやらやって来ないらしいなと思った息子は、時間が来て帰ろうとするまり子にさりげなく予定を聞いたりするが、まり子は大沢家が気に入らなくなり派遣先を変えてもらうことにしてしまう。こうして里山まり子はまた一つ縁を逃したのだった。
</doc>
<doc id="157128" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157128" title="遠州小林駅">
遠州小林駅
遠州小林駅(えんしゅうこばやしえき)は、静岡県浜松市浜北区本沢合にある遠州鉄道鉄道線の駅である。駅番号は15。
島式ホーム1面2線の地上駅で、駅舎が設けられている。終日無人駅である。2008年10月、ホームおよび駅舎の改築工事が完了しバリアフリー化された。
列車交換が無い場合は上下列車とも東側の線路を使用する。なお、22時07分以降の1時間を除き列車交換は実施されていない。
正式名称には「遠州」とつくが、各種表示や車内放送では省略され「小林駅」と呼称されている。
駐輪場(収容300台)が駅の東西両側にそれぞれ存在する。
開拓時代、この近辺で一番先に開拓された長上郡(後の浜名郡)小林村の新原集落(現在の浜北区新原)住民用の駅として新原駅と命名された。その後駅名を改称する際、駅の所在地が小林集落(旧小林村)と本沢合集落(旧本沢合村)にまたがっていたためにどちらを駅名にするかが課題となり、大きな集落だった小林集落側(浜名郡北浜村大字小林)を駅名とし、所在地を本沢合集落側(浜名郡北浜村大字本沢合)にしたという。
「小林」はこの近辺に小さな林が多かったのが由来で、「本沢合」は天竜川の流れに由来する地名である。
2017年度(平成29年度)の乗車人員は487,208人(全18駅中6位)、降車人員は483,029人(同6位)である。
1980年度(昭和55年度)以降の乗車人員および降車人員は次の表のとおりである。
住宅や商店が多い。駅前に小規模商店があるほか、駅北側を通る静岡県道61号浜北袋井線沿線にチェーン店など比較的規模の大きな店舗が集中している。
駅西側のロータリーにかつて浜松赤十字病院行きの遠鉄バスの路線が乗り入れていたが、廃線となった。現在はタクシーの待合所となっている。ロータリーには乗り入れないが周辺にもバス停が設置されている。
</doc>
<doc id="157130" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157130" title="クセナキス">
クセナキス
クセナキス(Ξενάκης, ラテン文字表記:Xenakis)は、ギリシャ人の姓。
</doc>
<doc id="157132" url="https://ja.wikipedia.org/wiki?curid=157132" title="IDCフロンティア">
IDCフロンティア
株式会社IDCフロンティア(英称:IDC Frontier Inc.)はIaaS型クラウドサービス