重力波。
本来、ビッグバン級の巨大なエネルギーの放出に伴い発生する、僅かな時空の歪み。
ある日の早朝の事――
それが、この街を中心に発生した。
重力波の放出の原因となるような現象は、どこにも見当たらない。
発生そのものは一瞬で、しかも非常に強力な重力波でもその絶対的なエネルギーは決して多いものではないため、通常の感覚器官を持った存在には感知できない。
そのため、この街の住人の殆どは、何も感じていない。
しかし、中にはその時空の歪みを敏感に感じ取るものもいた。
(ふむ……)
ある存在は、それまで閉じていた目をうっすらと開き、思考する。
この星に何が起きているのかを。
「おや?」
ある存在は、それまでしていた作業の手を止め、重力波が発生した方角を見て、沈黙する。
何が原因なのかを。
(へぇ)
ある存在は、口元にうっすらと笑いを浮かべる。
これから面白くなりそうだと。
「ちょっと待って、これ何?」
ある存在は、種々の観測機器が示す異常値に目を向け、首をかしげる。
何の兆候なのかと。
「あぁん? 何だ!?」
ある存在は跳ね起きる。
とりあえず、何が自分の安眠を妨害したのかを確認しようと。
それぞれの反応は異なっていて。
それぞれの考えは異なっていた。
しかし、共通している部分もあった。
「これから何かが起きる」
その認識が。
北川新は、朝から河原で寝そべっていた。
「んあー……」
背中を覆う長さを持つ長髪が痛むのも気にせず、本格的な迷彩服を着用しているその矮躯を、寝そべったまま思い切り伸ばすと。
「気持ちいぃーなぁー! 朝ってのは!」
割と大きな声でそう呟いた。
周囲に人の姿は見当たらず、広々とした河原をどこまで見渡しても、人間の姿は新だけである。
(今朝は、安眠妨害されたからなー……)
伸びをしたあと、寝転がりながら空を見上げつつ、そう思考する。
同時に、新の奥歯が擦れる強烈な摩擦音が発生する。
(ったく、五時間しか寝れなかったっつーの)
相当イラついているらしく、新は右足を勢いよく地面に振り下ろす。
振り下ろされると同時に、足元の河原を舗装している強化プラスチックが、音を立てて砕け散る。
足元の強化プラスチックを破壊した事で少し落ち着いたらしく、新はゆっくりと目を閉じる。
(ま、寝れなかった分だけ、今寝てもいいよな――)
そう結論し、今まさに眠ろうとした瞬間。
ピピピピピ……
新の耳元から小さな音がし、体内組み込み型通信機器が、連絡が入ったことを新に告げる。
再び新の奥歯で摩擦音がし、今度は奥歯が砕ける音もした。
「誰だ !? くっだらねぇ用事だったら一センチ角に二秒で圧縮して広島湾に沈めてやんぞ!?」
大声で叫びつつ、新は右耳の操作ボタンをいじる。
数瞬後。
『やっほー、し』
「誰だぁぁぁぁああ!!」
着信が入った瞬間、新の機嫌の悪さを体現するかのような怒鳴り声が、周辺数キロに響く。
『っ――…………』
新の耳元で、誰かが倒れそうになっているのを必死でこらえているような音がする。
「…………で、だーれーだー?」
新が険悪な声でそう言うと、二十代女性と思しき人物の声が新の耳元で響く。
『……なんで確認してから出ないのよ』
二十六世紀。
この時代の通信機器は、テレビ電話を発展させたものが主流になっており、それに次いで、直接耳元などの体内に埋め込む形の小型通信機器が普及している。そのどちらも、誰からかかってきたのかを特定する機能がついており、通常はそれを使用し、相手が誰かを確認してから出る。
新がそれらを使わなかったのは、単に、可能な限り早く文句を言おうとしたからである。
「めんどくせぇ。っつかババァかよ」
声から判断する限り非常に若い女性に対し、何の遠慮も無く「ババァ」と言う新。
『まずはその口の悪さを何とかしなさい……』
それに対し、普通に答える女性。
「で、何の用だ? ちなみにくっだらねぇ用事だったら五秒でてめぇんとこ行って二秒で一センチ角に圧縮して三秒で広島湾に沈めてやる」
『何で数字が無駄にリアルなのよ……いっそ全部一秒にしちゃえばいいじゃない』
「じゃかぁしい。今関係ねぇだろ……で?」
そろそろ相手をどのようにして圧縮するかを真面目に検討し始めながら、先を促す新。
『はいはい、ええと、五分前に研究所敷地南端部において不法侵入者用注意警報発令』
相手を効率的に海の中に沈める方法を考えていた新は、『侵入者』と言う単語を聞き、思考を停止させる。
「…………へぇ」
開いている両手を頭に持って行き、長い髪を、どこからか取り出したゴムで手早く一つにまとめる。
その口元には“肉食獣のような”と言う形容がぴったりの笑みが浮かび、目には鋭い光が宿り始めている。
「つまり、そいつが俺の安眠タイムを妨害したと言うことでいいんだな……?」
朝妨害されたことではなく、足りない分を補おうとした、先ほどの行為を邪魔されたことに対する台詞。
『安眠……? まあ、解釈はどうでもいいわよ。とにかく新ちゃん、あなたに頼みたいのは――』
「了解」
何も聞かず、答える新。
『りょ、了解?』
「研究所敷地南端部だな? オーケーオーケー」
そう言うと新は通信機器を強引に切り、にやりと微笑む。しかし、目は全く笑っていない。
「キレーに抹殺してやろーじゃん」
次の瞬間。
轟音と共に、新がいた場所の強化プラスチックが数メートル四方すべて灰燼と帰し、その中心部には新の右足の靴跡がくっきりと残っていた。
大全統合サイエンス研究所所長、北川有香は忙殺されていた。
朝早く、広島市を中心として非常に強力な重力波が観測され、それらの解明や各国機関に対する説明などを行う必要があった上、その重力波の原因はいまだに解明できていないからである。
(全く……なんなのよ、一体)
各種報告書に目を通しながら、有香は左手で頭を掻く。
それら報告書に書かれている事をまとめると。
重力波の原因は、自然現象ではあり得ない事。
今回の重力波から、同様の重力波を発生させる天文現象は、超新星爆発と同程度である事。
だけである。要するに、実際の現象を記述する以上の事は出来ておらず、それらに対する論理的説明は一切行われていない。
(あーもう、私としてはあの子の制御で手一杯だっているのに)
そう考えながら、有香は作業用コンピューターの横の液晶ディスプレイに目をやる。
そこには、河原でのんびりと睡眠を始めようとしている小柄で髪の長い人物――新の姿が映されている。
(あの子ったら、今朝から何だか機嫌が悪いし、何かあったのかしら)
まさか自分が今手にしている報告書に記載されている未解明事件の影響であるとはつゆほども思わず、有香は思考を元に戻す。
(さて――)
(仕事仕事)
自分の頬を叩き、そう言い聞かせるが――。
(え?)
頬を叩いた自分の手の感触に違和感を持ち、周囲を見回す。
手近なところに鏡を見つけると、急いでそこに自分の顔を映す。
「あら、やだ」
睡眠不足などが重なり、皮膚などが非常に残念なことになっていると有香は認識する。
傍目には全く分からないが、本人にとっては大問題らしく、仕事関係の書類をすべて放り出して、所長室も出て、洗面所に向かう。
「あれ、所長、どうしたんですか?」
今まさに報告しに来ようとしていたのだろうか、研究所の所員が、所長室から出てきた有香を見て、そう声をかける。
それに対して、有香の返事はただ一言。
「お肌」
「……いつも通りに見えますが」
有香の肌にいつもとの差を見つけようとし、諦めた所員はそう言う。
「……そう思う?」
「はい」
「……考えすぎかしらね。で、何か報告?」
はぁ、と溜め息をついて、有香は所員に問う。
「あ、はい、その事なんですが、今さっき、敷地の南端部において、未登録生体認証システムが作動しまして」
その言葉を聞いた瞬間、自分の肌の心配をしていた若い女性の姿はどこにもなく、世界屈指の研究所を預かる責任者がそこにいた。
未登録生体認証システム――文字通りに、登録されていない生命体を確認するシステムであり、野生動物にも反応するものの、スパイや泥棒の検出などにも非常な威力を発揮する。
有香がこの報告を聞いた瞬間に思ったのは「何者が侵入したのか」である。
「――スパイ?」
有香は口に出してそう言う。
「いえ、相手が何者かはまだ分かりませんが、少なくともその大きさから、人間である事ははっきりしています。さらに、心拍数やエネルギー消費量の関係から、性別および年齢は――」
分かっている事を次々に述べてゆく所員。
その報告を聞いている有香の中では、謎の重力波の事よりも、現在進行形の不法侵入者の事の方が大きくなってゆく。
「――と言うわけで、とりあえず安全確保のため不法侵入者用注意警報発令を発令させてもらう許可を取りに来たのですが――」
「いいわよ、急いで出しなさい」
何の躊躇いもなくそう命じた有香は、所員が走り去ってゆくのを見届けずに、所長室に入る。
(さて――ここは、新ちゃんに協力してもらうかしらね)
相変わらず新の姿が映されている液晶ディスプレイ。
その傍の、この時代にしては大き目の通信機器を手に取り、新に直通の番号へかける。
(こう言うときだもの――使える物は、息子でも使わなきゃ)
その考えが、所内にも響いた新の声により吹き飛ばされかけるのは、二秒後の話。
山崎裕也は朝から街を放浪していた。
二十六世紀となり多くの乗り物が数メートルの上空を浮遊するようになっても、依然として車道が歩行者にとって危険なのは変わらず、歩車分離は殆どの道で徹底されており、むしろその境界は二十一世紀のそれよりも厳格に分けられている。
歩道と車道を区切る強化プラスチック。その間際を、裕也は寝巻き姿で歩いていた。
(ええと…………)
キョロキョロと、いかにも不審者らしい行動で、裕也はあたりを見渡し、思考する。
(ここ、どこだろう…………)
裕也が異常に気がついたのは、西暦二千五百三十三年五月三日、つまり今日の早朝の事だった。
日が昇るのにもしばらく待つような時間帯に目覚めた裕也は、周囲の風景が全く見知らぬものであることを、ぼんやりした意識の中で理解した。
(ええと――ドッキリ?)
だとしても、誰がなぜやったのか、合理的な説明をつけることはできず、とりあえずその考えは脳内に留めておくだけにする。
「……問題は、この風景だよな……」
幾分しっかりしてきた思考回路で、周囲の状況を把握し始める。
まず、最初に気がつくのは、ここが野外である事。それも、公園かどこからしい。
“らしい”と言うのは、周囲の風景が公園だと仮定した所で、裕也の常識からするといささか不自然なものばかりだったからだ。
公園全体を覆うようについている、強化プラスチックの壁。
何の用途でどのように遊ぶものか、皆目見当のつかない遊具。
どれを見ても謎だらけで、一目でそれが何か判別できたのは、裕也自身が寝ていたベンチだけである。
(ってか、この状況だけ見たら、僕、ホームレスだよな……)
さらに状況を把握しようと、今度は公園の外にも目を向ける。
まず、最初に目に入ってきたのは、距離感がわかないほど高い超高層ビルである。富士山よりも圧倒的に高い。
あまりの高さと、その重量を支えるための土台面積の広さのせいで、ビルと言うよりは鋭く切り立った山のようにも見える。
(…………)
(何、あれ……)
土台の幅が一キロ近くあり、高さが軽く十キロメートルを超えているようなその建築物を目にした裕也の最初の印象は。
(……煙突?)
だった。
確かに、そのサイズを除けば、形状は太い煙突のそれと似ていなくもない。さらに、その巨大さゆえに距離感が狂っていれば、そう判断しても仕方がないと言える。
(ええと……)
(何が起きてるんだ?)
しばらく周囲の風景を見渡し、なに一つ見慣れた場所では無いと言う事を何度も確認し、裕也はそう考える。
(…………)
(考えてても仕方が無いか)
(とりあえず、外の様子を見て見るか)
ベンチから立ち上がった裕也は、公園を出て、様子見を始めた。
「で、いい加減どこなんだここは」
思わず、裕也はそう呟く。
先ほどからぶつぶつと怪しげな言動を繰り返しており、さらには寝巻きという不自然な格好であるため、自然と裕也の周囲には人の流れに穴が開いている。
そんな事にも気がつかずに、裕也はなおも呟きながら思考を進める。
「て言うか――」
――と、そのとき。
「どうかしましたか?」
穴の開いた人ごみの中から、眼鏡をかけた柔和そうな人物が裕也に向かって歩み寄ってくる。
「…………」
思考に没頭していた裕也は、それに気が付かずにそのまま歩み去ろうとする。
「もしもし?」
「……へ? あっ」
目の前に回られ、ようやく裕也は気がつく。
「え、えとえと」
慌てるあまり、両手をワタワタさせて、意味のある言葉を喋れなくなる裕也。
それに対して、眼鏡の人物は。
「いえ、何かお困りの様子だったので、何かお助けできることはあるかと。……余計でしたかね?」
少し不安そうな色を目に浮かべる眼鏡の人物。
そんな眼鏡の様子には気が付かず。
「え、えとえと――失礼しますっ!」
「あ、そっちは――」
ジリジリとカニの様に横向きに歩き、眼鏡の人物とある程度距離を撮ると、裕也は背を向けてダッシュで走り出す。
幸い、裕也の走り去った方向に人はまばらで、衝突事故などは起こさなかったが。
「ふむ…………」
残された眼鏡の人物は、裕也の走り去った方角を見て、思案する。
「とりあえず、新君の機嫌がいい事を祈りましょうか……」
そう呟く口元には、うっすらと笑いが浮かんでいる。
何かが、楽しみでたまらないとでも言うかのように。
「――あーあ」
新が一方的に通信を切った直後の事。
「まーた修理しなきゃ」
有香は、つい一瞬前まで新が映っていた液晶パネルを見ながら、そう言う。
そこには、先ほどまでの綺麗に舗装されていた河川敷の歩道は面影もなく、代わりに五メートル四方に渡って巨大な亀裂が入っている。。
「失礼します、所長、報告に――どうしたんですか?」
そのとき、先ほど侵入者の連絡をした所員とは別の所員が入ってき、液晶パネルを凝視する有香の姿を見て、事務口調を切り替える。
「あの子がまた暴走しそうなのよ。これ見て」
有香はそう言うと、液晶パネルを指差す。
「え? はい……またですか」
所員はそこに映されている惨状を見て、溜め息をつく。
「悪いけど、手の開いている人に修理を頼んでもらえる?」
「あ、はい、今手配します。もう一箇所はどこですか?」
「さあ。敷地の南端あたりだと思うわ」
はい――と答えた研究員は、ポケットから小さな機械を取り出し、それに向かって何かを言う。
数秒後。
「それにしても、大丈夫かしらね……」
「なにがですか?」
通信機器をポケットにしまいながら、所員が答える。
「ああ、あなたはここに来てからまだ二年か。あのね、三年前、結構酷いことがあったのよ」
「と、言いますと?」
「新ちゃんに、『スパイが入ったから生け捕り頼んだわよ』って言ったのよ」
有香の台詞に、所員が目を丸くする。
「スパイなんて入れるんですか、ここ。……で、どうなったんですか?」
「外傷は全治半年、精神の方は――まだ病院」
「…………まさか、それがまた繰り返されるとでも」
不安そうな声を上げる所員に対し、有香はそっけなく。
「可能性は高いわ」
そう言う。
「新ちゃん機嫌悪いみたいだし……侵入者さん、大丈夫かしら」
「……機嫌、悪いんですか?」
「かなり」
「……やばくないですか?」
所員がかなり不安げにそう言うと、有香は断言する。
「一応、あの子は殺しはしないし、何をしている最中でも理性は失わないから。何とか止めれると思う」
その時。
液晶パネルの表示が自動的に切り替わり、どこかの森の中を表示する。
その変化に敏感に気が付いた有香と所員は、同時にその液晶パネルを覗き込み、同時に呟いた。
「「あ……やばい」」
気が付くと、裕也は森の中にいた。
裕也に木の種類は分からないが、少なくとも杉などの針葉樹でない事は確かだ。
(さて、今度は何だ?)
高い木のおかげで、例の超高層建築は視界に入ってこず、少し気楽でいられる。
(やっぱ、見慣れないものがあると落ち着かないよな……)
そう、裕也が考えた時。
ヒュッ
鋭い風を切る音。
ドッ
と何か重い物が土の上に落ちる音。
「って、え、うわぁっ!」
周囲一体に突風。
裕也はその突風に吹きとばされ、近くの太い木に正面からぶつかる。
(っ――)
(いてぇ――――っ!)
顔面をモロに硬い木の幹にぶつけた裕也は、そのまま落ちるとしゃがみこみ、鼻を押さえる。
「い、いてて……」
そう呟きながら、何とか立ち上がると、裕也の背後から、声が聞こえてきた。
「ねえねえ」
甲高く、可愛らしい声。
女の子だろうかと考えながらとっさに振り返ると、そこには、可愛らしい女の子らしき人物がいた。
身長は結構低い。百五十あるかないかと言ったところか。髪は背中を覆うほど長く、整った顔立ちをしている。
(女子……中学生?)
鼻をさすりながら、裕也はそう考える。
「ねえねえ、って言ってるんだけど、聞こえてる?」
いろいろと考えていると、その沈黙を無視と受け取ったのか、女の子らしき人物がゆっくりと歩いてきながらそう言う。
「え? ああ、何?」
(なんだなんだ? さっきの衝撃とこの子は関係あるのか?)
答えながらも、裕也の頭の中にはそんな考えが巡る。
「思うんだけどさ」
そう言ったときには、少女は裕也の目の前にいた。
「えー、えと、何?」
と、裕也に言う暇はなかった。
少女の右手が一瞬見えなくなったと思ったら、木と生身の肉体がぶつかる奇怪な音がし、裕也の背後の木の幹に突き刺さっていた。
(…………)
(えーと?)
裕也は、少し状況を整理する。
突然消えた少女の右手。
その右手は、今、自分の頭のすぐ横に、木の幹に突き刺さっている。
その直前、木が抉れるような奇怪な音がした。
…………。
「って、え……?」
少女が木の幹を殴ったのだと理解した瞬間、裕也の足腰から力が抜ける。
「安眠妨害は犯罪にするべきじゃない? ついでに極刑を言い渡すべきだと思う」
そう言いながら、少女らしき人物――新は左手で、崩れ落ちる裕也の襟元を強引に掴む。
「っつーわけで……今からちょっと質問するけど、答えによってはお前の命はないからな?」
強引に掴んだその腕を、まるで裕也と言う荷物がぶら下がっていないかのように、軽快に持ち上げてゆく。
(ええっ! って言うか、待ってこれって――)
と裕也が考えた瞬間、裕也の足が地面から浮かび上がり、首元へ強力な圧迫感が押し寄せる。
(く、苦しいっ……!)
裕也は首を押さえながら悶絶しているが、新はそんな事は構わずに質問する。
「あんたスパイ? 泥棒? なんでもいいけどここに来たのは犯罪目的?」
裕也の体が背後の幹に叩きつけられる。
一瞬肺から空気が抜けるような感覚を味わったが、背中にある程度の支えが出来たおかげで、首の苦しみは多少軽減した。
脳に血が回り、ほんの少しだがまともな思考が出来るようになる。
(えーと、本当のことを言えばいいんだよな?)
そう判断した裕也は、自分がここに至るまでの極簡単な経緯を語ろうとする。
「い、いや。ここには迷子になってきただけで――」
裕也の背中がいったん木の幹から話され、再び新の腕により支えられた状態になる。
そして、今度はとんでもない勢いで木の幹に叩きつけられる。
(――――――――っ!)
まるで車に轢かれたかのような衝撃に、裕也は息をするどころか思考すらも出来なくなる。
「ほぉ……そうか、理由無しって事でいいんだな?」
新は、目を細めてそう言うと、首元を掴んでいる手を、裕也の首元へ押し付けてゆく。
「――――」
「じゃ、俺の睡眠時間を大幅に奪ったって事で――し に さ ら せ」
理不尽な事を言うと新は、右手を大きく振りかぶり、そしてそのまま裕也の顔面に向かって――。
裕也の目の前でその手を止めた。
「……ちっ、何だよ一体……」
裕也を地面に叩きつけると、新は自分の耳元を操作する。
「んだよババァ」
弱々しくケホケホと咳き込んでいる裕也をよそに、新は通話に集中する。
『なんだよじゃないわよ! なにあっさりと抹殺しようとしてるの!? て言うかさっきの事だけど、最後まで人の話は聞きなさい!』
裕也にもかすかに向こうの声が聞こえてくる。
「いや、だって俺の貴重な睡眠時間を」
『えーと……確かにあなたはあそこで寝ようとしてたけど、だからってそこまで』
「いーじゃんかよ。どーせ不法侵入には違いねぇし。それもスパイとかだったら生け捕りにしようかと思ったけど、迷子だっつーんだから、むかつくのも、な?」
『な? じゃないわよ! 罪がないならなおさら生け捕りにして事情を聞こうとか、考えないの?』
「考えん」
『…………所長命令よ。生け捕りにして私の所まで連れてきなさい』
「……りょーかい」
そう言うと、新は通信を切る。
「良かったなぁ、あんた。運がいいぜ。母さんからの電話が後数瞬遅かったら、今頃あんたの頭はザクロと区別がつかなくなってたぜ?」
新の通話中に、何とか話が出来る程度には回復した裕也は、あまりの台詞に絶句する。
「ざ、ザクロって……」
(あ、でも、確かに木の幹を殴って穴開けてたし……)
(あながち……)
「ま、どの道あんたはここでいったん気絶するんだがな?」
「へ?」
新の言った台詞に対し、裕也が疑問符を上げた瞬間。
衝撃。
そして、暗転。
十メートル四方程の医務室には二十近い数のベッドが並んでおり、そのうちのひとつ、最も入り口に近いベッドのそばで、有香がいすと机を用意して書類作業を行っている。
(それにしても……困ったものよね、あの子も)
有香が書類から一瞬目を離し、視線をすぐ傍のベッドに目をやる。
そこには、新に気絶させられた状態のままかなりの時間が経っている裕也が寝かせられている。
(全く……手加減ぐらいしなさいっての)
新が裕也を持って帰ったのは三十分ほど前のことである。
「ただいま。ほれ、これ侵入者」
新はそう言って、気絶したままの裕也をごみでも投げるかのように放り出す。
「ちょ、あなた」
気絶したまま投げられたため、不自然な姿勢で倒れている裕也に有香は駆け寄る。
「あークソ、なんか今朝からストレスたまりまくりなんだけど」
放り投げた裕也の事はもう忘れたかのように、新は玄関を抜け、自室に戻ろうとする。
「ちょっと、待ちなさい」
「……んだよ」
「話があるわ」
心底面倒臭そうにする新と、毅然とした態度を取る有香。
数秒間、両者の間に火花が散る。
「…………はいはい」
折れたのは新の方だった。
「まず一つ。あなたが動くたびに敷地内の何がしかが壊れるのはなぜ?」
にこりとさわやかな笑みを有香は浮かべるが、笑っているのは口元だけで目は全く笑っていない。
「俺をこういう風に設計したのはどこの誰でしたっけ?」
「設計」と言う、親子の間で交わされるには少し不自然な単語を口にして新は返す。
それに対して有香は。
「だから、そう言う力があるってことを自覚した上で動きなさいって言うこと! この注意をするのは一体何回目かしら?」
「三万四千七百十五回目」
「……………………。次。いくら不法侵入だとか、ストレス溜まってるとかでも、やっていいことと悪いことがあるわよ?」
液晶画面越しに見た、新が裕也の頭を殴り潰そうとしている映像が有香の脳内をフラッシュバックする。
「あー……確かに、あれはやりすぎたわ。それは謝る。……つって、気絶させてるんだったか」
先ほど無造作に投げ捨てた裕也をチラッと見ながら、新は比較的素直に答える。
「ま、あとで謝る。それで言いか?」
新としては、これで有香に対する返事としては十分だと認識しこれ以上は何も言う必要はないと思っていた。
「いえ、謝る必要はないわよ」
「……は?」
しかし、今有香が口にしたのは、「謝罪をしなくてもいい」と言うことである。
(なんだ? いつもなら母さん、不法侵入者にも寛容な態度を取るよな?)
新が疑問に思っていると。
「こちらも、仕事時間をかなり取られたからね……重要書類が山積になってるわよ」
にこりと。
新でさえ直視するのをためらうほどの凄惨な笑みを浮かべながら、有香はそう言い切った。
(新ちゃんが手加減してたら、私も好きなだけ痛めつけられたのに……)
科学者と言うのは偉そうなイメージを持たれることも多いが、実際のところ幼稚園のときの好奇心をそのまま大人になるまで保持している人種であり、論理感が欠如していることも珍しくない。
そんな科学者らしい論理感の欠如を丸出しにした思考をしながら、有香は書類仕事に戻る。
数分後。
「……ん」
有香のすぐ隣から、弱々しく声が聞こえてくる。
「あら」
いくつかの書類には少なからず機密事項も含まれているため、コンピューターの画面を落とし、書類を見られないようにしながら有香は裕也の方を見る。
(えーと……何があったんだっけ?)
一方裕也は、目が覚めたばかりのぼんやりした思考で、周囲の状況を把握しようと努め始める。
寝かされているため、当然視界は真上に限定され、天井しか見えない。
と、その視界に、二十代前半と思しき女性の顔が映る。
「こんにちは。目は覚めた? 侵入者さん?」
「へ? えーと? ……誰?」
状況が全く理解できていない裕也は、何も考えずにそう言う。
「さあね、誰でしょう。あなたが誰で、何があってここに来たのか教えてもらえたら教えて上げる」
有香は普通の微笑を浮かべ、にこやかにそう答える。
そんな微笑を浮かべながら、有香は裕也の処分方法について真面目に思案し始める。
「ここ? て言うか何があったんでしたっけ? 済みません、ちょっと記憶が」
裕也ははっきりして来た思考で記憶を呼び出すが、何か恐ろしい事があったと言うこと以外憶えていない。
(あらあら……まあ、あんな事があったものね)
有香は裕也が一時的に記憶を封印していると判断すると、いくつかヒントを与えることにした。
処分方法として、実験動物の身分を与えるのもいいかもしれない、と考えつつ。
「そうねぇ……森の中、髪の長い女の子、穴の開いた木の幹、ザクロ……これだけキーワードがあったら思い出せる?」
有香から提示されたヒントを元に、裕也は脳みそをフル回転させる。
(ええと……そう言えば、確か……)
数秒経ち、新の表情が悩んでいるそれから、若干の恐怖を含んだそれに変わる。
「ええと……僕、何かしましたっけ?」
「ええ。ここがどこかは分かる?」
何があったかを思い出したらしいと判断し、処分方法についての思考は止めないまま、有香は早速尋問を始める。
「いえ、迷子になってたら、何だか障害物が急に増えてきて、どこから抜けようかと思ったら、穴の開いたフェンスがあって、とりあえずそこを出たら、あの怖い女の子に……」
裕也が言う言葉の端々から、有香は事情を把握する。
(なるほどね……フェンスを壊したのは新ちゃんかしら?)
なぜ迷子になったかは分からないが、とにかく意図的に侵入したのではないと理解した有香は、どのように処刑するかの思考を停止する。
(それにしても……本当、どうしようかしら)
これがスパイや泥棒ならば、有香は迷わずに抹殺する。しかし、迷子だと言うのであれば、話は別である。
(とは言っても、研究所に無断で踏み込んだんだし、このまま帰す訳にも行かないけれど……)
数秒黙考した後、有香は。
「そうそう、あなたの名前を聞いてなかったわね」
その事に思い当たった。
「え? ああ、ええと、山崎裕也です」
裕也からして見れば、状況説明をしたあと、数十秒に渡って沈黙が続いた後の急な質問である。
「そう、裕也君ね。ちょっと聞きたい事があるけど、いい?」
多少、戸惑ってしまった。
そんな裕也をよそに、有香は自分の話を進める。
(…………)
(さっきから一方的に質問してたような……?)
裕也はそう思うが、口には出さない。
「さて、ここがどこか、分かる?」
「ええと……病院、ですか?」
「残念。ま、医務室だから中から見ても分からないのは当然なんだけどね」
「医務室……じゃあ、どこかの施設ですか?」
「大全統合サイエンス研究所」
有香は裕也の質問に、一言で答える。
二十六世紀現在、地球上にこの研究所の名前を知らない人間は殆どいない。
そのため、この単語を言えば、裕也は反応すると、有香は考えた。
考えたのだが、返ってきた反応は予想外の物だった。
「大全……なんです?」
聞いた事もない、と言うような反応。
「――え、知らないの?」
あまりにも予想外の返答に、有香の思考がフリーズする。
(え――だって、え? 何で知らないの?)
現在、地球上で出回っている技術の大半が、この研究所から出たものだと考えても、そんなに的を外してはいない。
科学技術関係での知名度ランキングを作れば、大全統合サイエンス研究所の名前は、アインシュタインやニュートンと並び、五指には入る知名度を誇る。
それゆえ、裕也がその名前を知らなかった事は、有香にとって大きなショックである。
「あなた、まさか原始人じゃないでしょうね?」
言外に、冗談は程々にしろ、と匂わせる。
大全統合研究所の存在を知らないと言うのは、この時代において、タチの悪い冗談にも等しい。
特に、その所長である有香にとっては。
しかし、裕也の反応は、なお、有香の予想を上回っていた。
「て言うか……今、何時代ですか?」
(…………)
(え? 時代?)
有香の思考がいよいよ本格的に止まる。
――と、そのとき、有香の脳裏を、重要事項がよぎる。
謎の重力波の発生。
有香はさまざまな事を脳内でまとめ、数秒で思考し、ある仮説へたどり着く。
「ねえ」
出来れば悪い冗談であって欲しいと思うと共に、これですべてが解決かとも思う。
「……なんでしょう」
「もしかして……あなた、今朝起きたら不思議な現象に合った、って事無い?」
果たして。
「ええ、何だかSFみたいな状況に」
返ってきた答えは、有香の予想を裏付けるもの。
だめ押しのように、有香はもう一つ尋ねる。
「一応、あなたの生年月日を教えてもらえるかしら?」
裕也は、何でそんな事を聞かれるのだろうと言った表情を浮かべ、その数瞬後に、答えた。
「千九百九十四年十一月五日です」
「……冗談だったらぶっ飛ばすぞ」
有香から呼び出された新の最初の反応は、そんな言葉だった。
かなり不機嫌そうな口ぶりであり、少しでも刺激すればもう少しで爆発しそうな雰囲気が周囲に漂っている。
それもそのはずであり、つい先ほど「一仕事した」ともう一眠りしようとした所を有香に叩き起こされたのである。
(冗談じゃすまさねぇからな……)
新の脳裏には、実の母親をどのようにすれば効率よく殺せるかと言うことだけが巡っている。
「冗談じゃないわよ」
一方、剣呑な雰囲気を敏感に感じ取っている有香は、なるべく新を刺激しないように、はやる気持ちを抑えつつ、しっかりと要点のみを伝える。
今朝、謎の重力波が広島市を中心に起こった事。
新が“捕獲”した侵入者が、何らかの形でその重力波と関係しているのでは無いかと推測した事。
訊いて見た結果、侵入者の生年月日が、今から五百年以上昔のものだったこと。
念のため、各種計器で調べたが、矛盾する結果は出なかったこと。
「……じゃあ、何だ? あいつは五百年以上昔の人間だと?」
「ええ、厳密には五百二十一年前の人間ね。生年月日が千九百九十四年十一月五日で、今十七歳だそうだから。二千十二年から来たんだと思う」
新と有香、二人が揃って渋面を作る。
「……どうしたらいいと思う?」
「テメェはそれを聞くために俺をわざわざ呼び出したのか? 所長なんだからそんぐらい自分で考えろ」
一触即発。
そう形容するのにふさわしい空気が、所長室を満たす。
「で、でもね、ちょっと新ちゃんにもお伺い立てなくちゃいけないことがあるから。個人的な事で」
慌てて、有香が取り繕うように言う。
「……言うだけ言って見やがれ」
「うん。しばらく所内で暮らさせることになると思うんだけど、そのときに、新しく部屋を用意するのは難しいから、新ちゃんと同じ部屋で寝泊まりさせれたら便利だと思って」
新の表情が、これまで以上にあからさまに不機嫌になる。
「ってー事は、何だ、俺の部屋にあいつを住まわせると」
「そ……、そう言うこと」
新の殺気に気圧されながら、有香は答える。
それ以降、新は何も喋らない。
数秒後、有香は新が何を考えているのだろうかと考え始める。
十数秒後、一体何時新は爆発するのだろうかと有香は考え始める。
数十秒後、爆発するなら生殺しにしないでさっさと爆発してくれと有香が考えた、その瞬間。
がたん、と音を立てて新が立ち上がる。
(――お父さん、今までありがとうございました――)
有香の脳裏を、そんな別れの文句がよぎる。
有香が自分の命を覚悟したその時。
新は部屋から出て行く。
「って、あれ? 新ちゃん?」
「挨拶だ。同じ部屋で寝泊まりすんだからよ」
そう言うと新は、医務室の方向へと歩き出す。
(……………………)
(えーと、つまり)
有香が脳みそをフル回転させ、結論を導き出すまでに、数秒の時間を要した。
(……新ちゃんが、OK出してくれたって事?)
カチャ、と言う小さな音で、裕也は目を覚ました。
(……んーと、何だ?)
数分前のことを思い出す。
生年月日を答えた後、有香はかろうじて自己紹介と言える言葉の断片を残し、医務室を出て行った。
直後、急速に襲って来た睡魔に負け、数分の間だが眠っていたと言う次第である。
(有香さんか?)
裕也はそう思い、上半身を起こして出入り口の方を見ると。
そこには今にも爆発しそうな雰囲気をまとった少女のような人物がいた。
(あ、あの子って)
瞬間、新の背中を冷や汗が伝わる。
新のまとった雰囲気だけで圧倒されそうであり、さらには先ほど、その実力を垣間見ている。
裕也が、とうとう自分は死ぬのかと覚悟した瞬間。
「……ほぉ」
新が、言葉を口にした。
(え、何なにナニ? 僕何かした?)
あまりの緊張に、思考さえも上手く出来なくなる裕也。
そんな裕也に、一歩ずつ、ゆっくりと新は近づいてゆき――
裕也の肩に手を置いた。
「ま、よろしく」
(……――へ?)
今朝から姿の見えない家族に今生の別れを心の中で言っていた裕也は、新の言葉が理解出来なかった。
「え、ええーと?」
「あぁ、ごめんごめん。ババ、じゃなくて有香から何か聞いてる?」
「有香」と口にするとき、僅かながら口元をヒクつかせ、新が問う。
「な、何も」
途端、新のまとう雰囲気が、鈍い鈍器のような雰囲気から鋭い日本刀のような雰囲気へと変わる。
「説明無しかよ、クソババァ……よし、じゃあ、説明すんぞ」
それも束の間、剣呑な雰囲気を瞬時に周囲から取り払い、新は話し始める。
「まず、俺の名前は北川新。クソバ、有香の息子で、十七歳。これだけ情報がありゃいいだろ」
「あ、えと、北川新、……十七歳? 息子? って事は……男子?」
「応、良く間違われるけどな。で、ここは大全統合サイエンス研究所」
「あ、有香さんも言ってたけど……どう言うところなの?」
「まー名前の通りだ。地球上の科学技術がほとんどすべて集まってる。で、ちょっと俺がフェンスを壊してしまってた箇所があって、どうもあんたはそこから入ってきたらしい。一応機密とかの問題もあるから、あんたにはしばらくここで暮らしてもらう」
「え」
「文句は無し。で、最後。今何年何月何日?」
最後だけ質問形にして、新は言葉を切る。
(何年何月何日?)
(そりゃあ……)
ここ数日の間に見たカレンダーなどの記憶から、即座に今日の日付を出し、裕也は即答する。
「二千十二年五月三日」
「残念。違う」
「え?」
間違い無いと思い即答した裕也を、新は即刻否定する。
「今から言う事は良く聞け。言ってる意味が分からなかったら、分かるまでじっくり考えていいからよ」
そう新は念を押し、裕也の目を見る。
「……分かった」
数秒間、新に見つめられたままだった新は、コクリとうなずく。
「今は、二千五百三十三年五月三日だ」
「…………はい?」
裕也の脳内で、いくつもの数字が旋回する。
二千五百三十三。
二千十二。
その差――五百二十一。
裕也は、その数字の示す意味を掴もうとして。
「……西暦?」
掴めず、新に確認を取る。
「もちろん」
「あの、だとすると、僕の記憶と五百年以上の開きが出るんだけど?」
「ん。だから、良くわかんないけどあんたは今朝、五百年以上の時間をスキップしたらしい。ちなみにその証拠に地球上で――っておい、あんた、大丈夫か?」
裕也は、力が抜けたように、仰向けにベッドの上に倒れこんだ。
意識はなかった。
新は、一人で、うっすらとした闇の中にいた。
基本的に明かりはないのだが、どこからともなくぼんやりとした緑色の光が漏れ出ており、それが部屋を、人間の視力で部屋の内部を確認できるぎりぎりの明るさにしている。
「おい……何か知ってるんだろ?」
――と、新が、虚空に向かって呟く。
返事はない。
「……――おい、何とか言え」
返事はない。
「……無視か」
返事はない。
「そっちがそのつもりなら、まあ、こっちは勝手に動くだけだ」
返事はない。
「いいのか? いろいろと勝手に動かさせてもらうぞ?」
返事はない。
「言っとくが、あいつらはもう動いてるからな」
返事は――――
「――――」
あった。
部屋のどこからか、小さな、小さな、耳を澄ましていても分からないほどの小さな音。
「ん? 反応したか」
部屋を出て行こうとしていた新は、出入り口に手をかけようとした姿勢のまま、背後を振り返る。
「へぇ、やっぱりあいつらの事は気になるわけね」
そう言って新は、部屋の中に向き直る。
「知ってること、洗いざらい教えてもらおうか」
「――で、つまりあなたは経過観察って事」
半時間ほど気絶していた裕也を目の前にし、有香は説明を終える。
裕也が研究所に侵入し、その結果どうなったかを。
説明を聞いた裕也の感想は、
(……別に何も見てないんだけどなぁ……)
だった。
他にも考えなければならない事は山ほどあるのは分かってははいるものの、どうにも理不尽だという思いが抜けきらない。
しかし、そうはいっても――
「て言うか、経過観察よりも、僕を二十一世紀に帰す方法とかはないんですか? 五百年経ってるんですし、何かそんな技術とか……」
裕也が今もっとも考えなければならない事はそれだった。
いかにして元の時代に戻るか。
裕也が今もっとも気にしていること、それを。
「無いわ」
有香はばっさりと切り捨てた。
時間移動――二十世紀、特殊及び一般相対性理論の登場により、人類は空間のみならず時間も移動する可能性を手にした――あくまで理論上は。
しかし、未来に行くには光速に極めて近い速度で移動しなければならず、過去に移動するには光速を超えるか、特殊な環境下におかれなければならないことを、相対性理論は示していた。
物体が光速に近い速度で移動する事はあくまでも可能であり、つまり未来へ行くのは比較的容易である。事実、詳細は不明であるものの、裕也は五百年の時を飛び越えた。しかし、過去に移動する、つまり物体が光速を超えて運動する事は理論上不可能、もしくは、可能ではあるものの二十世紀の人類の技術では不可能なことであり、そしてその状況は二十六世紀でも変わらない。
結果として、二十六世紀から二十一世紀へと裕也を送り返す事は不可能と言うことである。
有香の、それらの細かい説明を抜かした返答に対し、裕也は。
「で、でも――」
当然、反論する。
(おいおい……未来に永住する気なんかさらさらないぞ……)
そう思っての反論だったのだが。
「残念な事に、無理なものは無理なのよね。あなたは二十六世紀へ永住。いいじゃない。住む所にも困らないんだし。見た目だけなら可愛い子と同じ部屋で寝止まりできるのよ?」
むしろ楽観的な有香の返事。
「しかし……――え、待ってください? 『見た目だけなら可愛い子と』――なんて言いました?」
「『同じ部屋で寝泊まりできる』」
有香の返事を聞き、裕也の思考が一瞬止まる。
「……え?」
「あれ? 聞いてない? まあいいじゃない。可愛いんだし。何かさせてもらえるかもよ?」
(いや、問題はそこじゃ――)
と、裕也が反論しようとしたとき。
部屋を揺るがす轟音が鳴り響く。
「「!?」」
有香と裕也は反射的に轟音の発信源――入り口の方を振り向く。
裕也の視界の隅を、二メートルほどの物体が横切るが、裕也にそれを気にしている暇は無かった。
「…………気持ちわりぃこと言ってんじゃねぇよ、クソババァ」
右拳を前に付き出し、破壊された入り口のあった場所に立っている新。
扉を殴り破ったと推測されるが、その際に髪でも乱れたのだろうか、顔が若干隠れており、表情が見えない。
(――っ! 怖い怖い怖い!)
裕也の脳中に、側頭部を拳が通り抜け、その後周辺に木屑が散った光景が蘇る。
トラウマで硬直している裕也をよそに、新はゆっくりと右腕を降ろすと。大股で裕也達へ向かってくる。
「……まぁいいよ。処刑は今度にしてやる。で、何を話した?」
有香の目の前へ来ると、かなり不機嫌そうな表情で新はそう切り出した。
「――え、あ、そうね、まあ、これからどうするかを今から話そうとしてたところ」
「ん」
新は単音で返事をすると、今度は裕也へと向き直る。
「っつーわけで、これからルームメイトだ。よろしくな」
有香へ向かってしたものとは打って変わって、その容貌に似合った可愛らしい笑みを浮かべて、新はそう言う。
何も知らなければ、普通に見蕩れてしまうような笑みである。
「そう言う新ちゃんはどうなのよ。首尾の方は。うまく行ったの?」
「ん? ああ、まぁな……、そうだ、それを言わなきゃな」
そう言うと、新は裕也に歩み寄る。
「おーい、あんた。大丈夫か?」
裕也に息がかかるほど近寄り、そう尋ねる。
「っ、ひっ!」
反射的に、裕也は新から遠ざかろうとし、結果として後ろ向きにベッドから転げ落ちる。
「あー……、こりゃ嫌われてんな」
新はぽりぽりと頭を書くと、そう呟く。
「……誰のせいよ」
「…………るせぇ」
まあとりあえず話すぞ、と新は話し始める。
「ちょっと事情に詳しいやつの所に話を聞きに行ってた。あんたを元の時代に返す方法とかをな」
裕也の反応が変わった。
それまで周囲を見渡し、逃げ道を探そうとしていたのが、さっと視線を新の方へ合わせる。
「……事情に詳しい?」
「ああ、どう言う奴かとか、そう言うのはおいおい分かると思うから、とりあえず、詳しいのがいると思っとけ」
「ええと……有香――さんとかよりも詳しいんですか?」
新はその返事を聞いて、鼻で笑うような表情で有香の方を見て、即答する。
「比べ物にならん」
「……新ちゃんの表情がかなり気に食わないけど、まあ、そうね。私よりもずいぶんと詳しいわ」
(……そう言う人に意見を聞きに行ってるんだったら、あっさり「無理」とか言わないで欲しいなぁ……)
そう裕也は思ったが、口には出さない。
「で、手っ取り早く結論だけ言うと、可能、らしい」
「え」
裕也は思わず立ち上がり、新に詰め寄ろうとする。有香も似たような反応を返す。
「でも、やっちゃいけないらしい」
裕也の足から力が抜ける。
「……なら、どちらかと言うと、最初から無理って言って欲しい……欲しかったです……」
無駄な期待を抱かせるな、と、裕也と有香が同時に思った。
「んあ? そう言うもんか?」
「……だと思います」
「しかし、何で無理なのか、知りたくないのか? あんた」
(…………)
(そりゃあ、全く無いって言ったら嘘になるけれども、今は社会的に帰れるか帰れないかが重要なのであって、理論的な可能性は問題にしていないんだよなぁ)
社会的な問題と理論的な問題がうまくかみ合わない事はそう珍しいことではない、と言う事実を裕也は痛感する。
「…………教えてください……」
「いや、ああは言った物の、よく分からん」
「「……………………」」
裕也と有香から同時に、かなり冷たい視線が新に注がれるが、新は全く意に介す様子が無い。
「俺が知らないとか、そう言うわけじゃなくて、そいつが教えてくれねえんだ」
それでも一応少しは気になるのか、そう言い訳がましく言う。
事実言い訳であったが。
「……じゃあ、僕は……」
「そいつが方法を教えて解禁してくれるまで、ここで暮らすことになるな。ま、いいんじゃね? 未来に住むとか、楽しそうじゃん」
過剰なまでに楽観的な新の言葉を聞き、裕也の心理状態は地の底へと落ち込む。
(……酷い……)
「じゃあ、新ちゃん、一緒に暮らすってことでいいのね」
それまで口を開かなかった有香が、そう新に聞く。
「そう言うことになるな」
「……裕也君は良い?」
有香が裕也を呼ぶのを聞いて、新が「あ、そう言えば名前聞いて無かった」と、色々な意味でかなり暢気なことを呟く。
「ええと……そう言えば、そう言う話でしたね……」
裕也は考える。
正直、暴力の権化のような新と同じ部屋に住むと言うのは勘弁願いたい。
しかしながら、さっきの言動を見る限り、それなりに単純そうであり、刺激さえしなければまともに暮らせるのではないか、と言う考えも同時にある。
(男だって言うけど……やっぱり可愛いものは可愛いしなぁ……)
口にも、当然顔にも出さない。
しかし言動や容姿などの要因が重なり、かなり気楽な精神状態になったのは確かである。少なくとも、数分前のように、絶対拒否、と言う感情は無い。
「……他に方法はないんですよね?」
最後に、そう聞く。
「ええ。いえ、野宿をしたいと言うのなら話は別だけれどもね」
「……分かりました。新君と同じ部屋で……」
そうして、この日から、二十世紀末期生まれの十七歳と、二十六世紀生まれの十七歳が、同じ部屋で住むことになった。
裕也にとって重大で、かつ聞き忘れていたことがある。
「ねえ、新……」
新と同じ部屋で暮らすことが決定してから、新に「呼び捨てでいいから! 堅苦しいし!」と強制され、ぎこちなくも新を呼び捨てする裕也。
「ぁん?」
現在二人は新の部屋におり、ベッドを持ち込むなど、裕也が暮らすための必要最低限の準備を行なっている最中である。
「お昼、とかは?」
裕也が聞き忘れていたこと、それは食習慣の変化である。
裕也が慣れている食習慣はあくまで二十一世紀のものであり、五百年経った二十六世紀でもその常識が通用するか分からない。
むしろ、通用しない可能性が高い。
そんな事を考え、裕也は新に質問する。
「ああ、そう言うこと。食堂でいつでも食えるけど」
「あ、なら良かった。……食堂ってどこ?」
準備も一段落し、時間も時間なのでひとまず食事をしようと、部屋を出ようとした裕也だが、肝腎の食堂の場所を聞いていない。
「廊下出て」
新に言われ、裕也は部屋から出る。
「右手の方向見て」
裕也が今いるのは、幅五メートルはあろうかと言う幅広い廊下であり、その廊下は左右にそれぞれ百メートルほどずつ続いている。
「突き当たったらT字路になってるだろ」
新の言う通り、廊下の右側を突き当たったところは、どうやらT字路になっているようである。
「そこを左に行ったら良い」
要するに、廊下を右に行き、突き当たりで左に行くと食堂がある、と言いたいらしいと裕也は理解する。
「ありがとう」
右行って左、と再確認して、裕也は部屋を出る。
廊下そのものが長いので、突き当りに行くまでに時間が掛かったが、一分ほどで突き当たりへと着く。
裕也が左を向くと。
「おや」
そこには、眼鏡をかけた柔和そうな人物が立っていた。
「す、すみません」
進行の邪魔にならないよう、急いで元の廊下へと裕也は退避するが。
「……?」
既視感。
(あれ……今の人……)
裕也はもう一度、突き当たりの左を覗き込む。
「どうかしましたか? ……おや」
そこにはまだ先ほどの人物がいて、今度は何か珍しい物を見るかのような目で裕也を見ている。
「……あの、もしかして」
裕也が、さまざまなことがあった今日の午前中の事を思い返しながら、眼鏡の人物に声をかける。
「新君は大丈夫でしたか?」
顔を出した裕也にそう返事を返す眼鏡の人物に、裕也は確信する。
(やっぱり……、朝のあの人だ……)
裕也は、朝、街中で迷っているときに、眼鏡をかけた柔和そうな人物――目の前の人物に声をかけられた事を思い出す。
「あの、えっと、――すみません」
そう言えば、今朝は全力で逃げたりと失礼な事をしたと考えながら、裕也はそう言う。
先ほどの発言や、今この場にいることなどから、この人物が研究所とある程度の関係を持っている、少なくとも新とは個人的な知り合いである可能性が高い事は間違いが無い。
そうすると、今朝裕也に声をかけたのも、新の機嫌が悪い事を考慮し、忠告しようとしたものだろう。
(それなのに逃げただなんて……)
軽く裕也が自己嫌悪に陥っていると。
「いえいえ、誰であろうと、たとえあの新君であろうと、いきなり五百年も時を飛び超えたら驚きますよ」
「そうですかね? そう言っていただけると――ん?」
いえ、新君はもしかしたら、などと呟いている眼鏡の人物に、裕也は不可解なものを見る目を向ける。
「……あの、なんで僕が五百年前から来た事を知っているんですか?」
裕也は、眼鏡の人物を詳細に観察し始めながら、訊く。
身長百七十センチほど、細身の体型をしており、着ている服は五百年前でも通用しそうな地味な代物。
黒髪の髪型は少し短めで、特に変わったセットなどはしておらず、自然に流している。
手には何も持っていない。
全体的な印象から、目の前の人物は十代だと裕也は判断する。
(少なくとも、二十代後半以後って事は無いな)
裕也の知らない五百年の間の技術革新を無視した推論ではあったものの、実際のところそう外れていそうもない。
そうすると、なぜこの人物が研究所内にいるのかと言う問題が生じる。
これが成人男性などなら、研究員だからある程度の事は知っていると判断する事もできるが、未成年だとすると、そもそも研究員である可能性そのものが極端に低くなり、つまりは事情を知っている可能性は限りなく低いと言う事になってしまう。
しかし、目の前の人物は事情をある程度知っているようである。
「ああ、それはですね――おや」
裕也の問いに答えようとした眼鏡の人物は、しかし答える事は無く、裕也の背後を見る。
そして、次の瞬間。
「!?」
裕也の眼前から、眼鏡の人物が消えた。
走り去り、姿が見えなくなったなどの比喩では無く、文字通りに、瞬間的にその場から消え去った。
裕也が混乱していると。
背後で軽い金属音がし、膨らむような空気の流れが発生する。
何事かと裕也が背後を振り返ると、そこにはかなり緊迫した光景が広がっていた。
まず、新がいる。そして、いつの間にか眼鏡の人物もいる。
本来ならば、最初に気にするべきは「眼鏡の人物は一体どのようにして一瞬で移動したのだろう?」と言うことだろうが、しかし裕也にそんな事を気にしている余裕は無かった。
眼鏡の人物は、一体どこに隠していたのだろうかと言うような巨大なナイフを新の眼前に突きつけており、新は眼鏡の人物の首元に、今にも手刀を叩きこもうとしている。
眼鏡の人物はちょうど裕也に背中を向けており、その表情はうかがえないが、新の表情はと言うと、なんと笑っている。
眼鏡の人物がナイフをつきつけ、新は手刀を叩きこもうとしていると言う状態は、そのまま動きを見せることなく、数秒間続いた。
裕也は、なすすべもなく固まるばかりである。
(……。えーと?)
裕也が思考停止に陥っていると。
「……――なるほど」
「はん」
眼鏡の人物はナイフを引っ込め、新は手を下げ、腰に当てた。
「腕は落ちていないようですね」
眼鏡の人物が首筋をなでながら、そう言う。
「人にいきなり凶器突きつけといてよく言うよ。て言うか俺の腕はいつまで経ってもおちねぇっつーの」
「……その自信を少しでも分けてもらいたいですね」
険悪なのか仲がいいのか良く分からない会話。
「ね、ねえ新」
裕也は、先ほどの光景を思い出し、恐る恐る新に尋ねる。
「ああ、コイツはだな。ま。見た方が早いだろ。ほれ」
そう言って新は眼鏡の人物に合図を送り、そして眼鏡の人物は動きを見せる。
チャキ、と。
先ほどもした軽い金属音と共に、裕也の首筋にごついナイフが突きつけられる。
いつの間にか眼鏡の人物が、立ち位置を新の目の前から裕也の眼前へと変えており、そして柔和な笑みを浮かべたまま、裕也にナイフを突きつけている。
裕也は戦慄する。
何もいきなり首筋にナイフが突きつけられたと言うだけで戦慄したわけではない。もちろんそれもあるのだが――
「手、手が」
眼鏡の人物がナイフを持っている――のではなかった。眼鏡の人物の手が、手首から先、丸々巨大なナイフに変わっているのである。
「そう、僕は人間ではありません。僕はですね――」
と、眼鏡の人物が、ナイフをつきつけたまま説明しようとしたとき。
「あら、何してるの、こんなところで」
四人目の声がした。
新、裕也、そして眼鏡の人物の視線が、同時に声の方向へ向く。
食堂の反対方向、つまりT字路を右折した方向に有香が立っている。
「新ちゃんと、裕也君と――」
「宇宙人さんと」
(さあぁて…………どうなるのかしらね)
有香は、目の前で繰り広げられている光景を見て、楽しそうに笑う。
有香の前には、新、裕也、眼鏡の人物――二ノ宮健太が座っており、昼食を食べている。
新は不機嫌そうに、のどに食事を直接流し込むと言うお世辞にも行儀がよいとはいえない食事をしながら、ちらちらと健太を見ている。
その新から二つ離れた席に座っている健太は、新の視線など意にも介さず、地球人には到底不可能な食事を続けている。
裕也は、五百年経った食事が自分の舌に合わないことを早々に悟り、それでもゆっくりと食事を続けながら、居心地が悪そうに左右を見ている。
「あの――」
裕也が、意を決したように健太に話しかける。
「健太――さん、でしたよね?」
「はい、どうかしましたか?」
それに対してあくまでも柔和な笑みで答える健太。
「その食事方法、止めて貰えません、か?」
健太の右手首から先は二本の棒――箸のようになっており、左手は皿を効率的に固定できるように形状が変化している。
一般人類にとって見ていて楽しい光景ではなく、むしろ嫌悪感を憶えるものが大半だろう。
実の所、裕也がこのようなことを提案したのはこれが最初ではなく、これまでにも遠まわしに何度か言っていたのだが、はっきりと言ったのはこれが最初である。
「おや、お気に召しませんか?」
それに対して、裕也ではなく新が答える。
「お気に召すも何もねぇだろ。単純に気持ち悪いっての」
そう言ってる間にも、一キログラム近い量の食料が新ののどを通過する。
さながら蛇のようなその食事風景に、裕也はまたしても意見する。
「新も、その、……少しは噛もう?」
「いや、胃袋ですりつぶすから問題ねぇ」
「……そう言う問題じゃないんだけどなぁ」
左右を交互に見て、裕也は苦笑いを浮かべる。どちらかと言うと、苦笑いを浮かべるしかない、と言った方が正確であったが。
「はいはい、二人とも、ちゃんと食べて」
見かねた有香が、助け舟を出す。
「あと、二ノ宮君。裕也君にあなたの事ちゃんと説明してないでしょ? まだ」
健太はそれを聞くと、両手を元の形状――人間のそれと同じものにし、裕也に向き直る。
「そう言えば、説明してませんでしたね、僕の正体」
対する裕也は、「出来ることならこの人物と関わりたくない」と行った様子で、冷や汗を流しながら表情を引きつらせている。
「ええとですね、僕は……説明が難しいのですが、簡潔に言うと、宇宙人です」
(あー、そう言えば有香さんがなんかそんな事を言ってたな)
相変わらず表情を引きつらせたまま、裕也はそう考える。
「宇宙人と言うと、ええと、この時代では当たり前のことなんですか?」
「いいえ、知ってる人は限られてるわ」
裕也の問いに答えたのは、有香だった。
「彼らが私達の研究対象に入ったのは、実を言うとここ十年ぐらいなの。つまり、彼らが曲がりなりにも人類の前に姿を表したのは十年前」
「人類の前と言うか、地球に来たのがそもそも十年ほど前の話になるのですけれど」
食事のことなど忘れたかのように、語りだす健太。
「とは言え、電波などからこの地球の状況は把握してますよ。あなたの時代の記録もあったはずです」
「え? 本当ですか?」
「ええ。なんなら午後は過去の記録映像鑑賞会としましょうか?」
健太がした魅力的な提案に対し、新が反応した。
「あ、すまん。午後は予定があるんだわ」
「おや、裕也君とですか?」
「わりぃかよ。曲がりなりにも客だし、て言うかこれから同じ部屋で暮らすんだ、ちったぁ親睦深めてもいいだろうよ」
新は新なりに、裕也に怖がられている事を気にはしていたらしい。
「え、新……と? なに?」
「広島市観光ツアー。嫌とは言わせねぇ」
もっとも、その手法は強引だったが。
「て言うか裕也、メシがぜんぜん進んでねぇじゃねぇか」
新が、ふと隣の皿を見て言う。
裕也の食器の上には、九割がたの食事が残っており、数少ない、無くなっている食品は、五百年までにも入手可能だったものばかりである。
「いや、それは、その……」
「まあいいよ。ババァ、今度から五百年前風の味付けで頼むように言っとけ」
新は、二十六世紀の食事が裕也の口に合わなかったのだと見抜く。
「……その呼び方をなんとかしてくれたら考えてもいいわね」
「…………母さん」
「分かったわ。まあ、裕也君が餓死しても困るわけだし。……いえ、困らないのかしら? 今現在戸籍が無いって事は、法律上人間じゃない……?」
「……戸籍のことも頼んだからな」
考えなくてもよい事をぶつぶつと考え続ける有香に対し、「試しに言ってみた」と言うようなテンションで新は呟き、席を立つと、裕也の腕を掴んで立ち上がらせる。
「と言うわけで、今から広島市内観光ツアーだ。あ、言うまでも無いが健太はついてくるなよ?」
「言われなくてもついて行きたくはありませんね」
新はそう言いながらかなりの速度で歩いて行き、裕也はそれに引きずられる形になる。
「て、え? 今すぐ?」
「善は急げ、って言葉、五百年前は無かったのか?」
「いや、あったけど、そうじゃなくて――」
そう言う間にも、裕也は新に引きずられ、あっという間に有香と健太からは見えなくなる。
数秒間、健太と有香は二人の後ろ姿を見ていたが、やがて向き直り、会話を始める。
「さて、あなた方の知っている事を、洗いざらい教えてもらえたらありがたいのだけれど?」
トントン、と机を叩きながら、有香が言う。
口元には微笑を浮かべているが、目は笑っていない。
それに対して、健太は。
「こちらとしても、掴んでいる情報の量が圧倒的に不足しているんですけどね……」
そうして、二人は語り始めた。
「まず最初に、我々の長い歴史の中でも異例の事態だと言っておきましょう」
健太はそう切り出した。
「……長い歴史って、どれぐらいなのかしら? 地球に来てからは確か十年ぐらいのはずだけれど」
「正直に言いますと、実はこちらの記録がはっきりしていないのですよ。まあいいじゃないですか。地球で恐竜が闊歩していたような時代でしょう」
有香の関係ない問いに対し、受け流す健太。
「とにかく、何万年何十万年何百万年と我々が母星で暮らしてきて、さらにこの十年地球で暮らしてきて、類似する出来事は一回もなかったと言う珍事です」
「……分かったわ。つまり、あなた方も大した事は掴んでいないのね?」
「まあ、そう言うことになりますかね。ただ、大した事を掴んでいないだけで、少しだけでもよいのであれば、掴んでいますが。……時に、あの方はどうしていらっしゃいますか?」
話の最中に、その話の流れを大きく変える健太。
そんな態度に、有香の眉間にあからさまにしわが寄る。
「……さあ。最近は新ちゃんしか接触していないから、分からないけれど。まあ、話を聞く限りは元気みたいよ」
有香の返事に、はあ、と健太は溜め息をつき、額に手を当てる。
「所長がそれで大丈夫なのですか?」
「いいのよ、あの子が次期所長なんだから」
まあいいです、と健太が続ける。
「はっきり言って、あの方が掴んでいる以上の情報を我々が掴んでいると言う自信は無いのですけれど」
「そんな情報はお断り――と言いたいところだけれど、残念ながら、あの人今回に限って口が堅いのよ」
「……と言いますと?」
「新ちゃんが訊きに行ってくれたんだけどね、何か知ってるのは確かだけれど、詳しい事は教えてくれないんだって」
健太の額に汗が浮かぶ。
「……我々が掴んでいる限り、公開に問題のあるような情報は無いのですが……」
「それが本当だとすると、あの人は相当の情報を掴んでいると言うことになるわね、――で、あなた方の情報は?」
「ええ、まあ、お分かりでしょうけれど、今朝起きた重力波は、確実に裕也君と関係があるでしょう」
「そりゃそうよ。むしろ五百年の時を飛び越えてあれだけの重力波で済んだ方が驚きだわ」
有香の答えに、健太は胡散臭い微笑で返す。
「確かにその通りです――が、あなた、あまりにも忙しすぎて思考を停止してはいませんか? 根本的におかしいことがあるのですが」
有香がいっそ清々しいほどに分かりやすい渋面を作る。
「…………どう言うことよ?」
有香としては、忙しいなりにも現象解明のために頭を働かせているつもりである。
「あのですね、そもそも、なぜ重力波が発生したのでしょうか? 裕也君が時を超えた――普通に考えたら、とんでもない速度で宇宙空間を旅して戻ってきたと考えるのが妥当でしょう。しかし、それであれば、発生するのは大きな熱エネルギーや音――重力波ではないはずでしょう?」
有香の動きが止まる。そして、それとは裏腹に、脳細胞が急速に活性化し始める。
(確かに、普通に考えたら、発生するのは音と熱、……でも、発生したのは重力波――裕也君のタイムスリップのメカニズムは、高速移動では無い――?)
数秒後。
「……言いたいことが分かったわ。あなた方が掴んでいる情報は、『根本的に現代の地球人の科学技術では説明できない』、と言うことね?」
「ご名答」
二十六世紀、そして裕也の育った二十一世紀。その間にある五百年間は、大きいようで実は小さい。
実際、二十六世紀の生活を支えている技術や理論の基礎、特に物理学のそれは、既に二十世紀に提唱され二十一世紀中に完成されたものが大半である。つまり、少なくとも物理学に関して言うのであれば、二十一世紀と二十六世紀に大した差はない。
そして、二十一世紀に、自然界で起こりうるタイムスリップのアイデアはほぼ出尽くしており、そして裕也が巻き込まれた、「光速に近い移動を伴わない時間移動」を説明出来るアイデアは、存在しない。
つまり、二十六世紀でも、裕也のタイムスリップは説明できない。
「……………………」
有香が深い沈黙に浸っていると。
「ところで」
健太が有香に声をかける。
「どうかしたのかしら?」
「いえ、裕也君の待遇は今後どうなるのでしょうかと、ふと思いましてね。いつまでも研究所内に閉じ込めておく事は出来ないでしょう?」
有香の気を紛らわすためか、それともただ単に空気を読んでいないのか。
健太が提示したのは裕也の処遇についてだった。
「……特に考えてないけれど」
「ならば、僕にいい考えがあるのですが?」
「言うだけ言ってみなさい?」
健太のさわやかな笑顔を直視しないように注意しながら、有香は先を促す。
「あのですね、明日から――」
「新君と同じ学校に通わせると言うのはどうでしょう?」
裕也が引きずられて行ったのは、重厚な扉の前だった。
ただ重厚なだけではない、金属製のいかにも分厚そうなその扉は、一番近いほかの扉までの距離が数十メートルと言う、部屋の内部の幅広さを物語らせるものとなっている。
扉の上のプレートには一言。「格納室」。
「……新?」
「ここと他の研究所の行き来なんて珍しくないからな。移動用に専用機を持ってる研究員も少なくないんだよ」
セキュリティを解除し、扉を開きながら新が言う。
「飛行機をな」
中は――
「何これ」
裕也は思わずそう呟いた。
新の言に則れば、この部屋に大量に並んでいるのは小型飛行機――と言うことになるのだろうが、裕也の目に飛び込んできたのは、その外見からはとても飛行機とは思えないような代物ばかりだった。
まず、どれもこれも丸っこい。フォルムとしては卵が近いだろうか。
次に、窓が無い。少なくとも、外からは見えない。特殊なガラスを使っているのか、それとも端から窓などついていないのか?
そして極めつけは――
「新……翼は?」
翼が無い。
翼がない飛行物体として裕也の頭に思い浮かんだのはヘリコプターだが、それにしたってプロペラなどがついているはずである。
長径五メートルほどの、翼の無い飛行機達を前にした裕也の問いに対して、新は関係なさそうな答えを返す。
「飛行機には二種類あってな」
「?」
「流体力学を基礎としたもの。これは昔からフォルムが変わってないらしいから、裕也がイメージしてるのはそれだろ。で、ここに並んでいるのは――」
新は裕也に向き直り、なぜか誇らしげに宣言する。
「重力理論を基礎としたものだ。最新型だぞ、どれも」
裕也はおぼろげながらに理解した。
自分にはよく分からない原理で飛ぶ飛行機なのだと。
(全く……五百年ってすごいなぁ)
半ば呆れ、半ば驚く。
「さ、行くぞ。あれが俺の」
最寄りの卵上物体を指差し、新が大股で歩き始める。
「あ、うん……あれ?」
新についていき、つまりは飛行機により近づくにつれ、裕也はさらに違和感を覚える。
(……どこから入るんだ?)
扉でも何でもいいが、とにかく入り口が見えない。
卵状物体まで後二メートルと言うところで、裕也は立ち尽くす。
「ん? どうした?」
「いや……」
どうやって入るの、と裕也が訊こうと思ったとき。新が卵状物体に手を触れた。
新が触れたところから、瞬間的に丸い漆黒の穴が開いた。
「……………………」
開いた口が塞がらない、と言うことわざを裕也は体感する。
「……裕也、間抜けみたいだぞ」
呆れ顔で新がそう呟く。
「ほれ、はしごとか無くても乗れるだろ。俺は先行って準備しとくから」
そう言うと新は軽くジャンプして穴の中に入り、そのまま奥へと入る。
「あ、待って」
呆けていた裕也は急いで新の後についていく。
とは言っても、裕也は新のように気軽にジャンプをすることはできず、また穴の中が漆黒で様子がわからなかったため、穴に手をかけてゆっくりと様子を伺いながら入るという間抜けとも言える様子ではあったが。
「……新ー?」
裕也はやっとのことで丸いふちから飛行機内に入り込み、立ち上がると船内に向かってそう尋ねる。
と。
「うゎっ!」
叫び声をあげた裕也の背後で、丸く口をあけていた入り口が勢いよく閉まる。
完全な闇となった飛行機内部で裕也は立ち尽くすが――。
「おお、すまんすまん」
暗闇のどこかからかそんな声がしたかと思うと、ある一方向から強烈な光が入ってきた。
実際には裕也が強烈だと思ったのは、暗闇に順応しかけていた裕也の目が過剰反応しただけで、外の光が入ってきただけである。
「――っ! ……なんだ?」
本能的に目を背けた裕也は、ゆっくりと光源の方向へ目を向けていく。
「今光入れたからな」
裕也の視界に、人影。
「……新?」
「他に誰がいるってんだ?」
新は操作盤(と思しきもの)の前でごちゃごちゃと操作をしており、さらには右耳に手を当ててぶつぶつとなにやら呟いている。
その新の向こうには、飛行機の形状に合わせて丸く湾曲している、ガラスのような透明な物体が見えており、光はそこから入ってきている。
「――よし、裕也、飛行許可が取れたぞ」
そう宣言すると新は操縦席(と思しきところ)にさっさと座り込む。
「……僕は?」
「てきとーに座っとけ。イスがあるだろ? どれでもいいから」
新の文字通りに適当な返事にげんなりしながら、裕也は手近な所にあったイスに座る。
次の瞬間。
「お」
機体に加速度がかかった。
「別に発着時の衝撃を完全吸収する事も出来るんだけどよ。飛行時のパフォーマンスがちょっと落ちるし、あんま好きじゃねえんだ」
新がニヤニヤと笑いながら、そう言う。もっとも、裕也にその表情は見えないわけだが。
「へぇ」
窓から垣間見える外では、天井の一部に穴が開きつつあり、、どうやらそこから出るらしい。
「よし……天井オッケー、スカイからの許可もオッケー、よし、行くぞ」
そう言って、新が手足の機器を複雑に操作する。その表情はジェットコースーターに乗る直前の子供のそれである。
数秒後。
「――!」
加速。加速。加速。
裕也の全身がイスのシートに押し付けられる。
指さえも例外ではなく、痛みが猛烈に響く脳を必死に稼動させ、指先を動かそうと試みるも、ピクリとも動かない。
さほど長くも無い髪の毛は全て後方――体感的には真下へと垂れ下がり、頭皮を強烈に引っ張る。
そのまま、体の自由が聞かない状態が数秒間続いた。
「――よし、広島市上級二万メートルへようこそ――っておい! 大丈夫か!?」
加速がほぼゼロになり、飛行状態が安定したのを確認した上で自動制御システムに切り替えた新は、背後を振り返り、裕也が半生半死の状態でいるのを見て慌てる。
「……………………………………………………………………………………」
数秒間に及ぶ数Gの加速により意識が跳びかけている裕也は、その新の言葉を認識することすら困難である。
「……まあいっか、そのうち回復するだろ」
コンマ二秒ほど考え、新はそう結論を下すと、操縦を手動に切り替える。
「あーあ、勿体ねぇなぁ。広島市が全宇宙に誇る人類史上最高建築を真下に見れるってのによ」
そう呟く新の視界は、高さ一万メートル――十キロメートルにも及ぶ超巨大高層建築が大半を占めている。
二十二世紀に立案され、二十三世紀から竣工が始まったこの高層建築は正式名称を「スカイ」と言う。二十一世紀において各地に散らばっていた電波塔などの役割を一手に担うだけではなく、二十一世紀から二十二世紀にかけて進行した、地球温暖化などの災害で住居を失ったり、人口増加などの問題で住居をそもそも確保できなかった人達の為の居住区域ともなっており、また二十四世紀からは娯楽施設や学校などの施設が内部に作られるようになっている。二十六世紀現在では、広島県の人口の約九割、施設のほぼ全てがスカイの中に収用される形となっている。
「……スカイの外にある主要施設と言えば、やっぱりうちなんだよな……」
新は、視線を少し北方にずらす。
そこには、深い緑に包まれた白い広大な建物が見えている。大全統合研究所である。
敷地面積は十平方キロメートルを軽く超え、スカイの敷地面積である二平方キロメートルの数倍となっている。広島市の平野部の広さの関係上、事実上スカイの敷地は大全統合研究所に食い込んでいる形となっている。
「さて……」
新は再び操縦を自動制御にすると、操縦席のベルトをはずし、席を立つ。
「いい加減――起きやがれっ!」
裕也の前まで歩いてゆき、そう言うと裕也の額を軽くデコピンする。
裕也の頭部が勢い良くイスのシートに叩きつけられ、裕也は強制的に覚醒させられる。
「!?」
「なーに驚いてやがんだ。広島市観光ツアーっつったろ? 今広島市の上空二万メートルだからよ。そこから好きなだけ見とけ」
操縦席の窓を乱暴に指差し、新は操縦席へと戻る。
「……お? 足元が安定してる」
記憶の断片との違いを探りつつ、裕也は新についてゆく。
「ってうわ、こんな光景、飛行機でしか見たことない」
「飛行機だからな」
「あー……今朝も気になったんだけど、あの馬鹿でかいの、何?」
「スカイって呼ばれてる超超高層建築だな。二十三世紀竣工、二十四世紀完成。最大収容人数は地下も含めて一億人」
「……億?」
「億。一階層が平均で四万人収容可能で、それが大体二千階から三千階ある」
「……すごい。あ、あの広い敷地は、もしかして?」
「うちだな」
そうやってしばらく新と裕也は問答をしていたが。
「そう言えば、新、一つ訊きたいんだけど」
「ぁん? どうした?」
「いや、原爆ドームってどうなってるの?」
千九百四十五年、世界で初めて軍事目的での核兵器使用がなされた都市である広島市には、当時の惨状を伝える遺跡が複数残っている。二十一世紀においてその数は激減しているものの、主要な遺跡は残っており、その一つが原爆ドームと呼ばれる建物である。
大正時代、日本の撮った富国強兵政策により日本の産業は大きく近代化された。原爆ドームはもともと産業奨励館と呼ばれており、近代化された日本の産業などの資料館だった建物である。爆心地からは数十メートルしか離れておらず、近くにあった大半の建物が全壊・全焼した中、鉄筋コンクリート製の産業奨励館は、その骨組みの大半と多くのレンガが残った。
その原爆ドームがあった区画が、「スカイ」のある敷地とすっぽり重なっているのを見て取った裕也は、そんな質問をしたのだが。
「原爆ドーム? なんだそりゃ」
新の返事は簡単なものだった。
「五百年前の遺跡なんてどんだけ残ってるかね。ほら、裕也の時代だと……千五百年ごろ? そのころの遺跡を全部言えるか?」
簡単と言えば簡単で、その通りと言えばその通りである。
「あー……、とにかく、聞いた事はないんだね?」
「ねぇな」
「……そうか、五百年経ってるんだもんなー……」
原爆ドームの記録が残ってい無いと言う現実をつきつけられ、裕也は時の流れを痛感する。
そこに全てのヒントが眠っていることにも気がつかずに。
「……どう言うことかしら?」
有香は思いきり額にしわを寄せる。
「ですから、新君と同じ学校へ通わせてはどうかと言う提案です」
「それは分かるわ。どう言う意図かと聞いているの」
有香の指が、机をトントン、と軽く叩く。
「……そうですね。裕也君に現代についての知識をつけさせるには、研究所に閉じ込めておくよりも、学校に通わせた方がいいでしょう? 新君が見張りでいれば間違い無しです」
「……純粋にそう思っているわけ?」
「疑っているのですか?」
「あなた方の今までの行いを思い返して見なさい」
お互いがお互いの腹の探りあいを行なう。
食堂と言う和気あいあいとした場にあって、二人のいる場所だけが空気が重く沈んでいる。
「……今回の件に限っては、他意はありませんよ。単純に山崎裕也と言う人間にとってベストな選択はどういったものかを考えた結果です」
「…………いいわ、信じましょう。で、何? あなたさっき『明日』って言った?」
二千五百三十三年五月三日。この日時は日曜日である。そのため、明日から学校へ通わせると言う健太の主張は的を外してはいない。いないのだが――。
「あなたねぇ……いくらうちでも、出来ることと出来ないことがあるわよ」
「我々がいるではありませんか」
「……私達と関係のない所でやってよね」
あくまでもこの意見を強行突破させようとしているらしい宇宙人に対し、有香は深々と溜め息をつく。
「いえ、実を言うとすでに手は回してあります。あなた方と裕也君が接触したのより、我々が接触した方が僅かながら速かったですからね」
有香の額のしわがより深くなる。
裕也と健太が接触したのは、健太の言う通り大全統合研究所と裕也が接触したのよりも前である。その分早く行動していてもおかしくない。そして実際に、研究所よりもはるかに早く行動していたようである。
「……新ちゃんと同じ学校に?」
「ええ。流れ的にそうした方がよさそうだったので。すでに教育委員会とも話はつけてあります。山崎裕也君は本日付でスカイ中央高等学校へ入学です」
自分の知らないうちに話が進んでいることを知り、有香は諦める。
健太達宇宙人が人類の前に姿を現してから十年――その間、有香達研究者は躍起になってこの地球外存在を制御しようと試みてきたが、常に相手の方がすばやく行動し、結果として、十年経っても彼らについては謎だらけである。
現在有香が知っているのは彼らが自ら公開した情報ばかりで、個体数でさえ把握できていない状況である。
「おや、帰ってきたようですよ、あの二人」
有香がげんなりとしていると、頭の上から健太のそんな声が聞こえて来る。
その声に頭を上げ、食堂の入り口の方を見ると。
「たっだいまー!」
ハイテンションな新と。
「…………………………………………」
気分の悪そうな裕也が食堂に入ってきて、こちらをちょうど見つけたところだった。
「いやー、久しぶりに空飛んだら気分がすっきりした」
そう気分がよさそうにしている新の横で、裕也は今にも吐きそうな表情をしている。
「…………新ちゃん。一つ聞いていいかしら?」
「ん?」
有香には滅多に見せない素直な笑みを浮かべ、新はさも気持ちよさげに答える。
「最高速度と最高加速度を教えてもらえるかしら?」
「最高速度五百メートル毎秒、最高加速度五十メートル毎秒毎秒」
最高時速千八百メートルと、五G。
「……あなたぐらいでしょ、それに乗って気分がすっきりするのって。裕也君を医務室に連れて行きなさい」
「あいよ。あ、そうだ。後でちょっと話がしたいんだが」
新は裕也を医務室に連れて行こうとして、その途中で有香に尋ねる。
「……話?」
「ああ。ちょっとな」
この親子において、話とは有香が新に対してするものであって、その逆は滅多にない。
ゆえに、有香は即座に反応できなかった。
「じゃ、そう言うことで」
新はそう言うと、裕也をお姫様抱っこして(裕也は抵抗するそぶりを見せたが、それすらも出来ないぐらいに憔悴している)、食堂を出て行った。
「……さて、二ノ宮君、ちょっとお願いがあるのだけれど」
「はい?」
「帰ってもらえるかしら? 学校の事は私から話しておくから」
(…………もし、もし俺の考えが正しかったら)
裕也を医務室に無事連れて行き、食堂に向かう新は考えていた。
(なんにせよ、ババァに聞かねぇとはっきりしねぇが……)
食堂に付いた新は、有香が先ほどと同じ場所に座っていることを確認する。なぜか健太はいないようだ。
(……帰しやがったな)
新としては健太がいた方が話がはかどってよかったのだが。
「ちっ、しゃあねえな。よっす、ババァ」
「話って何?」
微妙に不機嫌そうに有香は新をせき立てる。
「いや、その脳みその中にはそれなりに知識が詰め込まれてるだろ? ちょっとその知識を借りたい」
「…………十年ぐらいしか年齢に差はないわよ? 十年差の知識でどうこうなる話なの?」
「もしかしたらな。まあ、何、聞きたいことってのはなんて事はない。一言で済むんだ」
「早く済ませなさい」
「あぁ、あのさ、原爆ドームって聞いた事あるか?」
新の発言から、物語は回り始める。
(…………おえっぷ)
(吐きそう)
着陸後十分。裕也の気分はいまだに戻っていなかった。むしろ、悪化する一方である。
(ええと……吐きそうになったらここに吐けばいいのかな?)
枕の横には割と大きな容器が無造作に置かれている。
「――!」
急激に吐き気が裕也を襲い、急いで裕也は容器の中に頭を突っ込む。
数秒後。
「み、水……」
悲鳴をあげる体を酷使し、目に見えるところにあった水道へと移動し、口元を洗う。
「……ふぅ」
口元を洗ってもしんどいことに変わりはなく、出来る限り急いでベッドへ戻り再び横になる。
「しっかし……酷い目にあった……」
このまま起きているとまた吐き気を催しそうだったので、裕也は今日何度目になるか分からない眠りにつこうとする。
もちろん数度目の眠りがそう簡単に出来るわけもなく、数分間悶々とするハメとなる。
その、眠りに付く直前。
「やっほー!」
いつの間にか修復されていた医務室の扉を元気よく蹴り開けて、新が入って来た。
「…………………………………………」
何があってもこれから眠ることは出来まいと悟り、裕也はゆっくりと上体を起こす。
「…………何があったのさ」
「いや、ちょっと裕也がこっちの世界に来たことについてちょっとしたヒントが得られた。手掛かりとも言う」
「……………………え?」
裕也の動きが思わず止まる。
数秒後。
「ちょ、詳しく教えて! ……うっ」
気分が悪いのも忘れて慌てて起き上がり、結果として、急激に吐き気が裕也を襲う。
「……っ!」
「……大丈夫か? まあ、つっても確かな事は分かんねぇし、詳しく教えることも実は出来ない」
「…………」
そう言う事は先に言ってくれ、と裕也は思った。
「で、ちょっと聞きたい事がある」
「何?」
「裕也の知ってる歴史の知識を教えてもらえるかな?」
新は手近なところに会ったイスを引っ張り。裕也のすぐ隣に座る。
「歴史?」
「ああ。出来れば紀元前からの世界史」
「何で?」
反射的に訊く。
自分の生まれ故郷といっても差し支えない世界のこと。状況はなるべく詳しく言っておきたい。
そんな、焦りともいえる思いを抱いて聞いた裕也だが。
「まあまあ。話を訊かねぇと分かんねぇ事がいっぱいあるんだよ」
そう新にいなされる。
「…………」
(そうは言われても…………)
数秒間の葛藤の末。
「……世界史は苦手なんだけど」
「知ってる限りで十分だ。じゃ、話してくれ」
新はそう言うと、「ちょっと待て」とでも言うように右手を裕也の前に付き出し、右耳あたりを細かく操作する。
「オッケー。一応録音するから」
「? ……分かった」
新の気合の入れようにただならないものを感じた裕也だが、おそらく何を聞いても答えは帰ってこないだろうと判断する。
「ええと……紀元前――千年? もっと前かな? とにかくそれぐらいに世界各地で文明が発生し始めて――」
そして、裕也は話し始める。
紀元前千年ごろから話し始めたため、歴史の内容は裕也の知っている限りでも相当な量に上り、話し終えるまでには一時間近い時間を要した。
「――で、去年は東北で世界最大規模の地震が起きて日本の経済状況は最悪。……ええと、これで大体話したと思ったけど。」
「分かった。ありがとう」
声が枯れかけている裕也にたいし、新はそっけなく答える。
裕也が話を進めるにつれ、新の表情はものすごい勢いで深刻なものになっていき、裕也が話し終えた現在、新の表情はまるで親しい親戚の訃報を聞いたようなそれである。
「…………新?」
「――ん? ああ、すまん。ちょっと考え事してた」
裕也が話しかけると、新はふっと意識を裕也に移す。
「さて、帰るか。今の話しを元にバ……有香とちょっと話さなきゃいけないからな」
そう言うと新はイスから立ち上がり、出入り口へと向かう。
その途中。
「あ、そうだ。大事なこと言い忘れてた」
打って変わって明るい表情になった新は、そう言うと立ち止まる。
「裕也。明日から俺と同じ学校な」
新はそう言い捨てると出入り口を蹴り開けて出て行った。
「うん、分かった。……」
何事もなかったかのように返事をした裕也は、数秒後にやっと新の言葉を認識する。
「学校?」
急いで出入り口へ移動し、外を見渡すが、新の姿はどこにも見当たらなかった。
「そう言うことか?」
一般人にとって、暗闇と称しても全く問題のない照度しかない部屋。目を凝らせば、部屋のどこからかうっすらと緑色の光が漏れているのが分かる。
その部屋の中心付近に、新が立っている。
「今までの俺達の認識は、全て根本的に間違っていたと?」
返事はない。
「ふん、答える気は無しか」
返事はない。
「まあいいさ。勝手に動かさせてもらうだけだ」
そう言うと、新は部屋の出入り口へと向かう。
「ああ、そうだ――」
新は出入り口に手をかけた所で立ち止まり、振り向きもせずに言う。
「いざとなったら、強制的に手伝ってもらうからな」
そう言うと、新は部屋を出て行った。
最後まで、返事はなかった。
「正当な説明を要求する」
だいぶ体調のよくなった裕也は、新が部屋にいるのを見つけると、まずそう宣言した。
それに対して新は。
「ぁん?」
泣く子も黙る、と言うのがぴったり来るような声でそう言う。
「……正当な説明を要求させて頂いてもよろしいでしょうか?」
数秒後、裕也はかなり丁寧に言い直す。
ビビッたとも言う。
「つーか、何をだ? 言う事は言ったと思ったがな」
「あ、いや、学校とやらの事」
通常の神経をしていれば、新の一言で全てを了解するわけはないのだが、新はそんな考えに至らない。
「……何かいけなかったか?」
「全部だよ!」
思わず声を荒らげ、直後にはっとする裕也。
そして、きょとんとする新。
その拮抗状態が数秒間続く。
「……何か言い足りなかったか?」
「え、あ、いや…………なんだろ」
裕也としても、はっきりと何かがあるわけではなく、何と無く納得しがたい、と言うのが本音である。
「ああ、そう言えば、学校の位置とか何だとか、色々と説明してなかったな」
裕也が戸惑っている間に、新はようやく自分の説明に足りなかったところを思いついたらしく、改めて説明し始める。
「つっても、そんなややこしい事はないんだがな。裕也は今日付けで俺と同じスカイ中央高等学校に転校、ってことになったらしい」
「……らしいって」
「ババ……有香からの受け売りだからよ」
「……で、えーと、制服とかは?」
裕也がそう聞くと、新はきょとんとした表情をする。
「制服? 何だそれ?」
新のその台詞に一瞬思考停止する裕也だが。
(あ、無いんだ?)
すぐに悟る。
「いや、なんでもない。学校にはどんな服装で行ったらいいのかなーって」
「あ、そう言うこと。……さすがに二十一世紀製の寝巻きで行くわけにはいかねぇな。さりとて俺の服も貸せねぇし……」
新が、自分の服を引っ張りながら言う。
新の身長は百五十センチ弱。対して裕也のそれは百六十強と、両者の間には二十センチ近くの差がある。
かといって、裕也が持っている自分の服は、今朝起きてた時に着ていた服、すなわち寝巻きしかない。
「…………」
「…………どうしよっか」
「……気合で何とかなるか?」
「……いや」
しばらく、不毛な会話が続いた結果。
「よし、バ、有香と身長が同じらいだから、貸してもらうか」
と言う結論に、新が達した。
「有香さんに?」
「応。あいつ、服の趣味ってもんがなくてな。色っぽい水着持ってるかと思ったら、まるで西部劇に出てきそうな服も持ってやがんの」
「えーと、つまり僕が来ても不自然じゃない服も持ってる、と」
しかし、と裕也は思う。
「なんと言うか……女性に服を貸してもらうってのは……」
何と無く抵抗がある裕也である。
「あいつの事を女と思わなきゃいい」
「…………」
新に対して何を言っても無駄と、今日何回目になるか分からない悟りを開く裕也。
「なーに、ファッションセンスないくせに服は沢山持ってやがるし、なんも問題ねぇだろ」
そう言う新は、すでに部屋を出ようとしている。
「え、ちょ、ま」
いまだに聞き足りない事が沢山ある裕也は、急いで新を追いかける。
数秒後。
「ねえ、新」
「何だ。裕也」
「……今の日本の教育制度って、どうなってるの?」
所長室への道のりを歩きながら、裕也はいくつか質問する。
「さぁ? むしろ俺としては……五百年前の方を聞きたいんだが」
なぜか、「五百年前」と言う時に顔をしかめる新。
「五百年前? ええと……小学校が六年間、中学校が三年間、これが義務教育で、高校が三年、大学が二年か四年とかで割と変則的。大学を卒業したら就職か大学院。……大学院は何年なんだろ?」
説明しながら首を傾げる裕也に対して、「はぁん」と何か納得したような表情の新。
「基本変わってねぇぞ」
「あ、そうなの?」
「ほれ、さっき俺はなんつった? 『俺と同じ広島スカイ中央高等学校に転校』っつったろ?」
「……なるほど」
そうこうするうちに、二人は所長室の前へとつく。
新が出入り口の前へと歩いてゆき、電子開錠機に手を伸ばす。
そのまま普通に開けると、新も裕也も思っていた。
が。
「……む」
今まさにロックを解除しようとした直前、新が顔をしかめて、数秒間硬直する。
そして。
「っし」
と新が軽い掛け声を出したかと思うと、伸ばした腕を思い切りドアに打ち込む。
拳が金属にめり込む奇怪な音と共に、所長室の出入り口が強制的に解放される。
「……なによ、新ちゃん」
『M理論 ~基礎から応用まで~ 北川有香 著』と題してある分厚い本を読んでいた有香が、新の襲来に顔を上げる。
「いや、テメェこそ何自己満足浸ってんだよ」
新が間髪入れずに答える。
「ああもう、部屋に入る前から相手がなに読んでるのか分かるって、最悪だな」
新が長い髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜながら言う。
「……?」
新の発言に疑問を感じた裕也だが、とりあえず黙っておく事にする。
金属を殴り破れる人間に対して疑問を抱いても無駄であろう、と判断しての事。
しかし、有香は裕也の様子を敏感に感じ取ったようで、口には出していない裕也の疑問に対して答える。
「この子、耳がいいのよ。大方、ドアの外から私がページをめくる音を聞いて、紙質や本の質量から私が何を読んでるか当たりをつけたって所でしょうね」
同じ紙を使っていたり、同じ重さの本は滅多にないため、そこまで特定出来たら本の特定も十分可能である、と言うことである。
「…………」
(まあ、親が自分が書いた本を読んでたら、ちょっとな……)
今日始めて裕也が新に共感したかもしれない瞬間。
「で、何なの? 新ちゃん。さすがに一日二回以上施設の物を壊されたら大変なんだけど?」
「このドアはテメェの自業自得だ」
割とめちゃくちゃな事を言って、新はようやく本題に入る。
「いやよ、裕也に服貸してくれねぇかな? って」
そう言われた有香は。
「…………」
まず裕也の首元から足元までをさっと見て。
「…………」
次に、新と裕也の身長を見比べる。
「…………なるほど」
そして最後に、裕也の身長と自分の身長を確認する。
「分かったわ。どの服がいいかしら? 新ちゃんが着てるような迷彩服もあるけれど?」
「……いえ、結構です」
新の着ている迷彩服は、自衛隊が着ているような本格仕様の物であり、いかに二十六世紀と言えども街中では目立つことこの上なさそうである。
「そう? じゃあ、ナース服とかメイド服もあるけど。……あら、裕也君華奢だし、結構似合いそうね?」
「断固拒否します」
二十六世紀にそれがある事に対する驚きよりも、着る事に対する拒否反応の方が先に出る。
「残念。まあ、……普通の服、あったかしら?」
しばらく有香は考え込み。
「ちょっと待ってて」
そう言うと部屋の奥へいき、しゃがみこんで何かを探す。
数秒後。
「これはどうかしら?」
いくつかの服を取り出して来た。
二十六世紀風のそれではあるもの、裕也から見てもあまり違和感のない服である。
「……ええと、じゃあ、これでお願い出来ますか?」
「どうぞ」
裕也が服を受け取ったのを見た新は、一仕事終えた後のように溜息をつき。
「これで一件落着だな」
そう言って、部屋を出て行こうとする。
「じゃ、ババァ、ありがとな」
そう言って、新が裕也を連れて所長室を出て行こうとした瞬間。
「あら」
執務机の上の通信機器が着信の音を立てる。
有香は習性なのか、新や裕也がいるのも構わずそれを反射的に取ると、「はい」と答える。
通常ならば、新と裕也は急いで部屋を出るべき所なのだが――
「…………おいおい」
新の足が、所長室を出るか出ないかの所で止まった。
「? どうしたの? 早く出なきゃ……」
「まあ待て」
そう言うと新は室内へと向き直り。
「で、用件は何だ?」
すでに有香が差し出していた送話機に向かって、そう言った。
「じゃあ、先生によろしくね」
「応」
軍用ではないかと思われる頑丈なブーツの靴ヒモを結びながら、新が有香に答える。
「じゃ、裕也君も挨拶きちんとしてくるのよ」
「あ……はい」
これまた有香の靴を貸してもらった新は、緊張しながら答える。
先ほどかかってきた通信は、新の担任――つまり、明日からの裕也の担任からのものだった。
先生曰く。
『明日から教えることになる生徒となるべく早く会っておきたい』
とのことで、これから新と裕也は先生の自宅へ向かうところである。
「つか、何でセンコーこねぇんだよ」
「さあ? 何か研究職にも就かれてるみたいだから、色々と忙しいんじゃないかしら?」
「けっ」
靴の履き心地を確かめるかのように靴底を軽く床に叩きながら、新は舌打ちをする。
「じゃ、裕也、行くぞ」
少し刺激すれば簡単に爆発しそうな雰囲気をまとい、裏口から出ようとする新。
「……はーい……」
そんな新に答えながら。
(こわぁ……)
と裕也は考える。
現在新がまとっている雰囲気は、今朝裕也が図らずも不法侵入をしてしまい、新に殺されかけたときのそれに近い。
(……仲が悪いのかな?)
そう推測するも、情報量が圧倒的に足りない。
(案外、気まぐれだったりして……)
十分あり得る事を考えながら、裕也は新についてゆく。
「……あ」
「今朝のところだな」
研究所の敷地は広大で、裏口から出て敷地から出るまでに数分を要した。もっとも、その道のりの大部分が、人工的な森林と言う道無き道ではあるが。
その途中、もうすぐで敷地の出入り口まで残り数十メートル. と言うところで、新と裕也は足を止める。
そこでは数本の細い倒木がある点を中心とするように倒れており、その中心には半径数メートルほどの窪みがあり、そこだけ落ち葉などが無い領域ができている。
さらに、その窪みのふちあたりでは、一本の太い木の、ちょうど人の肩あたりの高さに、真新しい、抉られたような傷が出来ている。
朝、新が着地し、そして裕也を殴り殺そうとした跡である。
「…………」
「よし、先に行くか」
その無残といっても一向に差し支えない光景を前に、裕也と新は無視を決め込んで前へ進む。
今朝裕也が侵入したのとは違う、正規の門のロックを新が解除し、二人が研究所の敷地から出る。
「……」
「…………」
「………………」
「……………………」
しばらく歩くが、新が喋りだす様子はない。
「……………………ねえ、新」
恐る恐る、というのがこれほど似合うことも少ないだろうと思わせるほどのビクビクした様子で、裕也が新に話しかける。
「ぁん?」
「……なんでそんなに機嫌悪いの?」
「んなもん、あのセンコーの家に行くからに決まってんだろ――、って、そうか、裕也はあいつんこと知らねぇのか」
そう言いながら、新は髪を乱暴に掻き混ぜる。
そうして、数秒間考え。
「あー、まあ、行きゃ分かるか」
(……結論それかよ)
と裕也は心の中で突っ込むものの、墓穴を掘るようなまねはしない。
裕也は自殺志願者ではない。
その後は沈黙が続き、つき進む新に裕也が黙々とついて行くという状況が続く。
昼なのもあり、今朝裕也が街中を歩いていたときほどの人数はおらず、たまにちらほらと新を見て、道の出来る限り端による人が現れる程度である。
(どれだけ新が怖がられてるのか、露骨によく分かる態度とるなぁ……)
それらの人々をみて、裕也はそう考えるが、しかしそう考えている間に新は先に進んでいる。
「あ、待って――っと」
急いで追いつこうとするが、新の所に着く直前に新が立ち止まり、危うくぶつかりそうになる。
「どうしたの?」
新はある家の前で立ち止まっており、その家の表札を眺め、溜息をついている。
表札には『猫神』と書かれている。
「……センコーの家だ」
裕也も表札を眺めていると、新が忌々しそうにそう言う。
「って、え? 研究所から五分ぐらいしか――」
「……ちょっとな。家が近いんだよ」
新の含みを持たせた言いかたに、裕也は不安を覚える。
(……なにかあるな?)
そう思って新の挙動を見ていると。
「おや、お二方、どうしました?」
門の施錠部分に手を伸ばしていた新と、その様子を不安と共に見ていた裕也の、二人の動きが、同時に止まった。
背後から聞こえてきたのは、聞き憶えのある声。
さらに、新も直前まで気がつかなかった。
となると――。
「……よぉ、健太」
ゆっくりと、新が振り返る。
裕也も振り返ると、そこには健太が立っており、二人をニコニコと愛想のいい薄ら笑いを浮かべながら見ている。
「……もしかして、呼び出されましたか?」
「そっちもか?」
たった二秒ほどのやり取りで、新と健太はお互いの状況を把握したようで。
「……はぁ、お互い、苦労しますね」
「全くだ」
二人同時に溜め息をついた。
「……えっと?」
(あれ? 呼び出されたのは僕であって、新じゃないよな?)
裕也が疑問符と共に首をかしげると、新が説明を始める。
「こいつは」
と言いながら、目の前の家を親指で指差す。
「お前を呼び出すっつー口実で、俺を呼び出したんだよ」
「……え、そうなの?」
通信には裕也も参加したが、とてもそのようには感じられなかった。
「この人はそう言う人ですからね」
健太までもが、新の言葉に賛同する。
「じゃ、ま、適当に入るか。何だか良い予感はしないがな」
その言葉を受け、健太は門の施錠に手を当てる。それだけで門が自動的に開き、案内音が流れる。
「一応言っとくと、この門は特定の人物だけに対して開くような設定になってるから」
あからさまに驚愕の表情を浮かべる裕也に、新が解説を加える。
「では」
健太はそう言うと、家のドアに手のひらを当てる。
先ほどと同じくドアが自動的に開き、家の内部をさらけ出す。
「…………」
「…………」
「…………」
裕也、新、健太の三人が同時に固まる。
ドアの内部には――
「…………」
土下座をしている、うら若い女性がいた。
「ふぅ……」
新と裕也の二人を見送った有香は、深く溜め息をつく。
「にしても、困るのよねぇ……」
そう言って、視線を、ここからでは見えない、とある家の方向へ向ける。
「通信で一言も喋らないって……」
「おい」
「…………」
「……おい」
「…………」
「……黙ってるだけじゃ何もわかんねぇぞ」
「…………」
「っくそ」
新はそう吐き捨てると、玄関先に乱暴に座り込む。
裕也達三人が家に入ってから五分ほど、その間ずっと女性――猫神奈々は土下座と沈黙を守ったままである。
「コイツよ」
と新が裕也に向かって語りかける。
「ん?」
「自分の正体を知ってる奴しかいない状況では、なぜだか絶対喋りやがらねぇ」
「……正体?」
裕也の疑問符に新が答える前に。
「まあまあ、それなりの理由が彼女にはあるのですよ。そう言わないでやってください。それに、これで私が呼ばれた訳が分かりましたし」
「……そうだな」
新と健太が、裕也には分からない会話を続ける。
「ねえ、新、正体って?」
「んあ? ああ、そうか、裕也には言ってねぇんだった」
――と。
奈々の肩がピクッと動いた。
そして。
「……――あら、すみませんね、ずっとこんなで。今日は、山崎裕也君。私が今度からあなたの担任になる猫神奈々です」
急に奈々は立ち上がり、服の裾を払うと、照れくさそうに裕也へ深々と挨拶をする。
「? ? ?」
先ほどから何が何だか分からない裕也。
「けっ」
急変した奈々の態度を見て、舌打ちをする新。
「…………」
三人の動きを見て、沈黙しながら頬を掻く健太。
四人の動きが拮抗し合い、その場が一瞬固まる。
「……裕也」
一瞬出来た沈黙を打ち破ったのは、新だった。
「?」
「ほら、挨拶」
「あ、えと、こちらこそすみません。今度からお世話になる山崎裕也です」
新に促されるとは思ってもいなかった裕也は、戸惑いながらもぎこちなく挨拶をする。
「で、何だ? 用事は?」
裕也の発言を受けてまた何か言おうとした奈々を遮って、新が発言する。
「あんだろ? 何か。せっかく喋ってくれるんだから、聞けるときに聞いとかなきゃなぁ?」
(ええと……あれ? 僕の担任って事は、多分新の担任でもあるんだよな?)
裕也が、新の口調に対して感じたその疑問を口に出すよりも早く。
「ごめんなさい」
奈々が、今度は土下座でこそないものの、ともすればそれをしかねない勢いで頭を下げる。
「――っ! さっきも頭を下げてましたよね? 何かあったんですか?」
返事にならない奈奈の返事を聞いて新が爆発しかけたのを感じ取った健太が、慌てた風で言う。
「そうそう、あなた達を呼んだのはちょっと事に進展があったからなのよ。悪いけど、裕也君への挨拶はそのついでね」
「事っつーと……、今朝のことか?」
「飲み込みが早くて助かるわ」
「何があったんですか? まだ私の所に報告が来ていないようですが……」
「ちょ、ちょっと待って!」
奈々、新、健太の三人の間で進行していた会話を、裕也は全身で止める。
「……今朝の事だって言うなら、僕が一番の被害者なんだけど……?」
裕也以外の三人の視線が錯綜する。
その間にも、裕也は続ける。
「て言うか……なんで先生はそのことを?」
奈々が健太を見て。
健太が新を見て。
「……けっ。俺が言えば良いんだろ、どうせ」
新はそう言うと、奈奈を親指でぞんざいに差しながら、裕也に言う。
「あのな、コイツも宇宙人だ」
「…………へ?」
突然のカミングアウトに、思考が停止する裕也。
そんな裕也には構わず、新は続ける。
「二ノ宮と同じな」
裕也の視線が、ゆっくりと健太に向けられ、そして奈々に向けられる。
裕也の思考回路が、ようやく動き始める。
(先生は宇宙人で……自分の正体を知っているものしかいないときには喋らない? ……と言う事は……?)
奈々に視線を向けたまま、裕也は問いかける。
「あの……先生? 本当ですか?」
返事は――
「…………」
無かった。
「……また、セキュリティきつくなってるんじゃない?」
暗闇。新にとっては周囲が把握出来るそれも、有香にとっては視覚情報が得られないと言う深刻な状況である。
「ま、なんにせよ、久しぶりね。元気にしてるとは聞いてたけれど……」
かろうじて認識出来る薄暗い緑色の光の方向を向きながら、有香は言う。
――と。
「一億五百三十万二千三百十一秒ぶり」
暗闇の中から、反応が返って来た。
女性の物とも、男性の物とも、老人の物とも、子供の物とも、区別のつかない声。
「と言う事は……ざっくり三年とちょっとぶりかしら?」
「そう言う事になる」
声はそう返事をすると。
「用件を」
単刀直入にそう言った。
(はぁ……こう言うところが苦手なのよねぇ……)
どちらかと言えば政府の高官などとの腹の探り合いを得意とする有香にとって、こういった直接的なやり取りは苦手な部類である。
(ま、仕方ないか)
早々に諦めると、有香は本題を切り出す。
「今朝、起きたことなのだけれど……そろそろ、知ってることを教えてもらえないかしら?」
「そう言った用件は基本的に彼を通じてくるはず」
「色々とあるのよ。新ちゃんは今はいないわ」
「現状で分かっている事は非常に限られている、貴女のコンピューターに転送したものから情報の更新は殆ど行なわれていない」
「表向きにはね。整理されていない生の情報なら、朝から今までの間に相当量の更新が行われているはずでしょう? 例えば――」
そこで有香は一呼吸置く。
「――あなたの推測とか」
「…………そのために来たのか。私の考えを聞くために」
「まあ、そう言うことになるかしらね」
「出来ない」
即答する声に、有香は反問しようとするも、声は矢継ぎ早に言葉を繰り出してくる。
「現状で分かっている事は非常に限られており、よって推測出来る事も非常に少ない。確かに私には私の個人の考えがあるが、それをあなたに伝え、あなた個人の判断を狂わせる原因となる事を私は危惧する」
無論、彼に対しても同じ――と言い、声は途切れる。
「……なるほどね。まあ、そう言ってられるのも今のうちだと思うわよ?」
「?」
どこか得心したように有香が言った言葉に、声が反応しようとした時。
「――――よぉ」
有香の背後から外部の光が漏れ入ってき、さらにそこから第三者の声が入ってくる。
有香が振り向くと、そこには出入り口を開けた新の姿があり、その背後には裕也、健太、そして奈々の姿が見える。
「……まあ、どう言う事かは分かるわよね?」
向き直らないままに、有香はそう言った。
「――裕也の世界では、どんなSFがあった?」
現在、新、裕也、健太、奈々の四人は、研究所へ向かっている途中である。
「……SF?」
「そう。Science Fictionの略でSF」
「それは分かるけど……詳しくないよ?」
「まあ、内容は想像はつくがな」
(じゃあ聞くなよ!)
そう裕也は心の中で突っ込みを入れたが、口には出さない。
「『機械が人間を支配する』とか、『機械の反乱』とかがえがかれていたと思うが」
「……多分」
記憶の限りでどのようなSF映画が上映されたかを思い浮かべ、答える裕也。
(機械が云々……はどちらかと言うと古いかな……?)
とは思うものの、機械に関連したものが全く思い浮かばないわけではない。
「……で、SFがどうしたのさ?」
「いや、これから見る物の説明をしといた方がいいと思ってな」
「?」
首を傾げる裕也をよそに、新は話し始める。
「見ての通り、二十六世紀はハイテクの世の中だ――機械に反乱されたらたまったものじゃない」
「まあ……そうだろうね」
「で、ババァとかの科学者はどう考えたか。答えの前にちょっと考えてみるか?」
「……ロボット三原則?」
「まあ、内部的に先に仕込んでおくってのもありだがな、確かに。ただ、もっと確実な方法がある」
「と言うと?」
「例え話だが――裕也がどこかの国の首相を何年か経験したあと、そこの国民として暮らせと言われたら、どうする?」
数秒、裕也は考える。
「……自分が暮らすときに、暮らしやすいようにすると思う」
「ナイス」
ビッと。
新が裕也を指差して言う。
「それがまさに二十六世紀の科学者の考えたことだ」
「? ? ? どう言うこと?」
「将来、地球を担う人材に機械の制御を任せる――誰も自分が将来暮らす世界で機械に支配されたくなんか無いし、この方法はうまく行くと考えられて、実際うまく行ってる」
(将来、地球を担う人材――?)
裕也は立ち止まってまで考えて見るものの、ピンと来る考えは思い浮かばない。
「ま、見りゃ分かるよ。ほら、研究所が見えてきた」
新がそう暢気に言っているとき、ちょうど健太が裕也のそばを通る。
「……ショッキングな光景を見る事になるかもしれません。覚悟しておいた方がいいですよ」
その横で奈々が苦笑を浮かべる。
「おーい、裕也、何立ち止まってんだ?」
もうすぐで研究所の裏口にたどり着くと言うところで、新が裕也を急かす。
「あ、うん。ごめん」
そう言いながら。
(覚悟って……何を見せる気だ?)
裕也の胸中には不安が渦巻く。
「で、さっきの話の続きだが――裕也、量子コンピューターって聞いたことあるか?」
「……多分」
裕也が追いつくと、新は早速話し始める。
「そうか。まあ一応説明しておくと、力学などのマクロな物理学とは全く異なる法則を持つ量子論、その性質をうまく利用して計算を行なうコンピューターのことだな。従来のコンピューターに比べ、並列演算などの処理に優れる」
「はあ」
「で、だ。次が重要なんだが、二十五世紀に入って、人間の脳が非常に優れた量子コンピューターとして働いていることが明らかになった」
「脳?」
「ああ」
そう返事をしながら、新は自分の頭を指差す。
「それも、十歳以下の子供の脳が理想的だと言うことも分かった」
「…………」
裕也の中で、先ほどからの話の断片がつながってゆく。
「……ねえ、新、もう少し詳しい話を――」
「あれ?」
裕也が新を催促しようとした瞬間、新が突拍子も無い声を上げる。
「何でロックが……」
新は表札のかかっていない部屋の前で固まっている。
よく見ると、その扉は、閉じているにしては微妙に角度がついている。
「……はぁん」
新は何事かを納得したかのような表情になり、目を細めて目の前の扉を見る。
「よし、皆、入るぞ。いいか」
振り返り、裕也、健太、奈々が部屋の前に到着したのを確認し、新は扉を開ける。
「…………え?」
裕也がそこで見たのは――
その存在は考える。
(彼が一日に二度以上来るとは珍しい――が)
その存在は、まず入り口に仁王立ちしている新を確認する。
(それもやむを得ず、と言ったところか)
次に、その後ろで驚愕の表情を浮かべている裕也を確認する。
(彼らも来ているとなると――事実の一部を掴んだか?)
最後に、裕也の後ろで微笑む宇宙人二人を確認する。
(ふむ――)
その存在は考える。
(これからどうなることやら)
「え――」
裕也は目の前の光景を見た瞬間、固まる。
目の前には漆黒と形容しても差し支えない空間が広がっており、その中に有香がいるのがかろうじて認識出来る。
さらによく目を凝らせば、室内にはさまざまな巨大な機械が所狭しと置かれており、それらを複雑に繋いでいるコードの類も見える。
が、裕也の視線は全く別の所へ向いていた。
「し、し、し、新――」
ようやく喋れるようになった裕也は、目の前のものを指差しながら、新に問いかける。
「あれ、何?」
裕也が指差す先には、直径一メートルほどの、円柱状の巨大な水槽が鎮座している。
その中には。
「新、あれ、子供に見えるんだけど――」
齢五歳ほどの子供のような物体が浮かんでいた。
「ご名答。正真正銘人間、ホモ・サピエンス種の五歳の子供だよ」
新は裕也の問いに、こともなげに答える。
「人類の将来を担い、なおかつ精密な計算機たるコンピューターに最適な存在として、これほど研究所の全制御を任せられる存在はいないだろう?」
「で、でも――」
「俺も昔はしてた」
何かを言い返そうとした裕也を、新が遮る。
その口から出たのは、裕也にとって驚愕の事実。
「……――え?」
裕也は何かを言おうとするも、その何かが口から出てこない。
代わりに発言したのは、有香だった。
「裕也君の時代にはこんなこと思いもよらなかったでしょうけど、現代では極一般的よ? 子供に悪影響が無いこともはっきりしてるしね」
「…………分かった。今日は色々あったし、百歩譲って認めるとして――」
早くも落ち着きを取り戻した裕也は、水槽を指差して。
「で、誰?」
子供であるからには人間であり、たとえその用途がコンピューターだとしても、人間としての個性と言うものがあるはずである。そう推測した裕也は、新を問い詰めようとする。
「あー、俺のクローン、名前は無い。どうしても気になるってんなら、三十二号」
頬をポリポリと掻きながら、新が答える。
「ついでに言うと、俺はババァのクローンだから。厳密に言えば違うがな」
「……………………」
あまりと言えばあまりの事実に、裕也の思考が数秒間停止する。
ようやく思考が動き始めようかと言う時、裕也の知らない声が響いた。
「――端的に聞く。情報交換か?」
男の様な、女の様な。
子供の様な、老人の様な。
人間の様な、動物の様な。
どのように形容しても正解で、どのように形容しても間違いになりそうなその声は、水槽の方向から響いて来た。
裕也が恐る恐る水槽の方を見ると、水槽の中の子供――三十二号はまっすぐに新を見ていた。
「あー、俺はそうじゃないんだが、この二人が何か掴んでそうだからな。連れて来たっつー方が正解だ」
新が、健太と奈々を指差しながら答える。
「――承知した。今現在までの情報に地球外知性体からの情報は無い。有力な情報たり得る」
どこかにマイクが仕込んであるのだろうか、明らかに肉声ではあり得ない声で三十二号は語りながら、今度は健太を見る。
「いえ、私では無く奈々さんが……、しかし、私が通訳した方がよさそうですね、ええと――」
――と、健太が話し始めようとしたとき。
「……先に何が起きたかをはっきりさせておく必要がありそうだな」
新が口を挟んだ。
「……え? どういうことですか?」
「今朝、何が起きたのかを、そこの多分誰よりも詳しい人が話すべきじゃないかって事だよ」
新はそう言いながら、顎で三十二号を指す。
「…………」
三十二号は沈黙を続ける。
「今朝、二回来たけどよ、何にも話してくれなかったよな? ここで話してくれないか? なにせ――」
新はそこまでいうと、唐突に裕也の方を軽く叩く。
「被害者張本人がいるんだからよ」
「…………」
三十二号は十数秒間沈黙を続けたままだったが――。
「……了解した。私の私見を含まない、純然たる事実と、そこから根拠を持って推測出来る範囲の話を行なう」
やがて、そう言った。
「全員の共通認識であろう事象として、まず今朝の五時ごろに発生した重力波が挙げられる」
三十二号はそう語り始めた。
「発生した重力波をエネルギーに換算すると、一階の超新星爆発で放出されるエネルギー量に匹敵する。現象の原因の特定はいまだできていない」
そして次に――と三十二号は続ける。
「非公開データとして、異時空生命体、山崎裕也の存在が上げられる」
三十二号の視線が、裕也を射抜く。
「各種調査により、山崎裕也の起源時空に存在した環境と類似の環境は今の所地球上では存在していないことが確認された。これにより、山崎裕也の起源時空は、時間的、もしくは空間的に、この時空と直接的な関係が無い事が考えられる」
――と、三十二号がそこまで言った所で、有香が新の傍に歩いてくる。
「……新ちゃんの予想……」
「当たっているとはな……」
有香が半信半疑と言った顔で新に耳打ちし、それに対して新が不機嫌そうに答える。
「? 予想?」
「ちょっとな」
その会話を聞きつけた裕也が反射的に聞くも、新は明確には答えない。
「さて」
三十二号が再び話し始めた。
「重力波の発生と、山崎裕也の存在は、大きく関連している事が考えられる」
ここからは、完全に私の推測であるが――と断り、三十二号は続ける。
「山崎裕也の起源時空とその環境は、この世界における二十一世紀初頭のそれと非常に類似しており、山崎裕也自身、自身の起源時空について二十一世紀だと証言している――が、実は、違うのではないか」
裕也の思考が、止まる。
(……えーと、つまり?)
「要するにだ、裕也は単に過去から来たとかじゃなくて、全く、根本的に違う時空から来たのではないか? っつー事だな?」
「その認識で正しい」
「……ってえぇぇぇえ!?」
部屋のなかに、裕也の叫び声が響き渡る。
「え? 新、どう言うこと? 僕が――過去から来た訳じゃない?」
裕也が新に詰め寄ると。
「そのまんまだよ。そして三十二号。それはおそらく正しいぞ」
新が、三十二号に向かってそう言う。
「何か推測材料でも」
「ああ、ちょっとな。ここからはちょっと俺の推測を話させてもらっていいか?」
「構わない。状況整理のために私は話しており、より的確な人材がいるのならその人物が話すべき」
三十二号のその言葉をうけ、新は有香、裕也、健太、奈々の全員の視線を受けることが出来る場所に移動する。
「最初に俺が疑問を感じたのは、裕也を乗せて広島上空を飛んでいる時だ。裕也。憶えてるか?」
「な、何を?」
「原爆ドームがどうなってるかって聞いて来たよな?」
数瞬のタイムラグを開け。
「……それがどうかしたの?」
裕也が答える。
「原子爆弾が過去に日本の国土に落とされた事は無い」
え、と裕也は言おうとしたが、構わずに新は続ける。
「そのあと、裕也の知っている歴史について聞かせてもらった。結果、西暦千八百年ごろまでは大筋が一致している事が分かった――が、それ以降については、全く異なった歴史を、俺達の歴史と裕也の歴史は歩んでいるらしい」
例えば――と新は続ける。
「俺達の歴史では千九百七十年代に第三次世界大戦が発生している。千九百年代末期に発生した日本の大規模な経済成長は、破壊的な結末を日本の歴史にもたらす前に収束した。二千十一年の三月に世界最大規模の地震は発生していない」
その後もいくつかの重大な相違点を挙げていく。
「――と、俺達の歴史と裕也の歴史には重大な相違点が存在する。裕也の記憶間違いと言う可能性はとりあえず消去すると、考えられるのは一つ、裕也の時空と俺立ちの歴史は、連続していない」
「それを踏まえると、今朝の重力波についても説明が可能となる」
新が結論を導き出すと同時に、三十二号が話し始める。
「M理論、と呼ばれる物理理論が存在する。この理論はいまだに実験的な検証が完全には出来ていないが、それでも断片的ながらこの説を支持する証拠が見つかりつつある。そこでこの仮説を事実として考えると、この世は十一次元時空間の中に浮かぶ四次元時空の膜だということになる」
ちょうど、水中に布が浮かんでいるように、と三十二号は続ける。
「何も、十一次元に存在する時空が、我々のもの一つだけだと考える理由は無い。むしろ、複数の膜が浮かんでいるのだと考える方がしっくりと来る。そこで複数の膜が存在すると、次の疑問が生じる。はたして、それぞれの膜は独立なのだろうか? それとも互いに何かしたつながりを持っているのだろうか? 結論から言うと、何かしらのつながりを持っていると推測出来る」
「重力。これが重要なんだな」
三十二号の言葉が切れた所で、新が引き継ぐ。
「この世には四つの力が存在する――強い力、電磁気力、弱い力、重力。他の全ての物理現象は、これら四つの力で説明することが出来る。そして、この中で、重力だけが断トツに弱い。この事は二十世紀から物理学者の頭を悩ませてきた。しかしM理論が登場し、ある解釈が与えられた。すなわち、重力だけ、この四次元時空から逃げているのでは無いか――と言うことだ。こうすると、重力だけが異常に弱い理由が説明出来る」
何せ、逃げ出してるんだから――と新は続ける。
「さて、M理論が真実だと仮定すると、重力により、十一次元時空の中の四次元時空の膜は、お互いに係わり合いを持っていると推測出来る。つまり、何かしらの重力現象により、別々の宇宙同士が接触する、もしくはその逆で、宇宙同士が接触などを行なうことにより、重力現象が発生する事が考えられる」
新はそこまで言うと、無言で裕也を見つめる。三十二号も何も言わない。
「……て、え?」
裕也が周囲を見渡すと、有香も健太も奈々も、裕也の事を見ている。
新が小さく呟く。――どう言うことか、分かるよな?
(重力現象で宇宙同士が接触、もしくはその逆って事は――)
裕也の頭が数秒間猛回転し、一つの結論を導き出す。
(何かが原因で大規模な重力現象が発生し、僕のいた宇宙と、この宇宙が接触して――僕だけがこちらに移動してしまった?)
裕也はなおも考える。
(じゃあ……その重力現象って何だ?)
と。ふと、裕也の視線が、ある二人の人物の方向へ向く。
(……まさか)
「そう、裕也は何かしらの、宇宙規模の現象に巻き込まれた事が考えられる。そこで、その現象の原因は何か? と考えたとき、ある重要な集団がある」
すなわち、と新が二人を指差す。
「宇宙人」
裕也、新、有香、そして三十二号――その場に存在する全地球人の視線が、健太と奈々に向けられる。
そして。
「……よくできました――と言っておきましょう。しかし、いつから分かっていたのですか?」
「はん、そんなの決まってるだろ」
「十年前からだよ」
「ええと――」
有香は戸惑っていた。
この世に生を受けて齢十五年。二十六世紀の世の中であっても十代が子供とみなされるのは変わらない。
だから、十代半ばの有香が、地球最高責任者として火星に派遣されてきたのは、とにかく異例な事だったのだ。
(全く……なんだって私が最適だって言うのよ)
地球で水槽に浸かりながらデータを処理する、自分の後継者たる人間コンピューターの姿を思い浮かべつつ、有香は心中でぼやく。
(今から地球に帰っても最速で一年だし、今更帰るに帰れ無いじゃないの。それに――)
いつの間にか有香は居住ドームのど真ん中――火星臨時政府連絡所の巨大な建物の真ん前に来ていた。
(用件が用件だし――ねぇ?)
今回有香が火星に呼ばれたのは、最近小惑星帯で発生したある事件に関してだった。最近とは言え、一年以上前の事なのだが。
(侵略的宇宙人の襲来――って、冗談じゃ無いわよ)
兆候は、あった。
五年前、二千五百十八年の八月頃、深宇宙から規則的なデータ構造を持つ電波が太陽系全域において観測された。そのときには、すぐに信号が途切れてしまったのもあり、それまでの過去数百年間に渡る幾多もの取り組みの結果と同様、何らかの自然現象では無いかと言う結論が下された。
また、四年前には、太陽系外縁部に位置する小惑星、冥王星の軌道異常が観測されていた。その時には、彗星が冥王星の近くを通過したのでは無いかと結論付けられた。
三年前には、土星を回る人工衛星の一つが消息を立つという事故が発生した。この時には、軌道投入時からの誤差の積み重ねで、人工衛星が土星に落下してしまったのでは無いかと言う結論に達した。
二年前、一昨年には、小惑星帯のいくつかの小惑星軍で、観測されていた軌道とのずれが観測された。ここに至って、人類は通常とは違う何かを感じ始めていた。
そして、去年――一昨年に観測された小惑星の軌道異常を調査していた調査チームが、丸々消息を絶ち、そして地球に向けて強力な怪電波が送られてきた。
数時間に渡って地球の無線システムを麻痺させたその怪電波を解析した結果、地球起源ではあり得ず、自然発生でもあり得ない――現実的に考えて、地球外知性体による物だとしか考えられないと言う事が判明した。
メッセージの内容はいまだに解明できていないが――。
(最悪の場合に備えて、ねぇ)
相手が凶悪な存在だった場合に備え、太陽系各地の有力者が火星に集められている。その内の、地球代表が有香と言う訳である。
(ま、面白い話が聞けそうだったら聞けばいいし、つまらなくても寝ればいいしね)
非常に子供らしい考えを持ち、有香は連絡所の中へ入る。
数時間後。
有香は遅まきながら、火星に来たことを後悔していた。
(火星臨時大統領が演説をするのはよしとして――)
右腕に巻いた腕時計をちらりと見ながら、有香は考える。
(何でその話が二時間も続くのよ?)
周辺数メートル範囲にいる人の視線がしょっちゅう有香の幼い容姿に向けられるのもあり、有香は不機嫌である。
(……寝よっかなー……)
あまりにも長い火星臨時大統領の話は終わる気配を見せず、よく見るとちらほらと寝ている人も見受けられる。
(……眠気って……重力の変化と……かん、けい……ある……の、かな……?)
とうとう、有香の意識も沈みそうになった、そのとき――。
警報が響き渡った。
「!?」
瞬時に覚醒した有香は、周囲の情報収集に努める。
(『外気進入』…… !? ちょっとちょっと、大丈夫なの!?)
火星の環境はいまだに人類の生存に適さないそれであり、万が一外気が居住ドーム内に本格的に進入して来た場合、多くの人が酸素不足で死ぬ可能性が高い。
慌てて火星臨時大統領の方向を見るも、そこには慌てふためく中年男性の姿しかなく、有香や他の出席者を安心させてくれるような要因は見当たらない。
いつまで経っても解決策を提示しない火星臨時大統領の態度に、徐々に人々の間に不安が広がってゆく。
(――っ! 酸素マスクはどこよ!?)
反射的に屈み込むと、机の裏側にそれらしい物体が付属している。
(Oxygen ――酸素ね)
酸素マスクであることを確認すると、有香は急いで立ち上がり、土足で机の上に上がると、声を張り上げる。
「皆さん、酸素マスクが机の下にあります!」
有香の台詞に、場が一瞬静まり返る。
そして。
「えっ……」
急いで出入り口に向かっていた人々を中心として、多くの人々が死に物狂いで机の下へと向かい、結果として混乱が起こる。
誰よりも先に酸素マスクを取ろうとするもの。
急ぐあまりに将棋倒しを起こすもの。
人の下敷きになり、うめき声を上げるもの。
まさに、地獄絵図だった。
(ちょっとちょっと……冗談でしょ?)
その場で冷静だったのは、有香だけだった。
だから、その異常に気がついてのも、有香だけだった。
(……? 上?)
二十メートルほど頭上の天井、そこから、奇妙な音が聞こえてくる。
何かを削るような。
石を石でこすり合わせる様な、そんな音が。
有香が頭上を見上げるのと、どちらが早かっただろうか。
「――っっ!」
有香は急いで机から飛び降りると、部屋の隅へと駆け寄る。
壁に到達して振り返った有香の視線の先には。
崩れた天井。
落下する岩盤。
その隙間に見える、明らかな人工物。
天井を構成していた岩盤は幸い人のいないところに落ち、砕け散る、が――謎の物体はいつまで経っても落ちてこない。
すでに人々の混乱は極限に達しており、有香を含め、周囲の状況を完全に把握しているものはいない状態である。
が、そんな状況でも、有香は見た。
謎の人工物から、何かが飛び降りる。不定形の液体に見えるそれは、一瞬後に床に到着したときには、大雑把な人の姿をしていた。
それは、一番目立つところにいる火星臨時大統領を見て、中年男性のそれへと姿を変える。
次に、全身着飾った老婆。
次に、屈強な背の高い男。
次に、肥満体型の男性。
有香はその様子から、一つの単語を導き出す。
(――変身能力!?)
よく見ると、一刻一刻と変わっていくそれの姿には、明らかにモデルがいるようだった。
有香がそう思っていると、それが、十代半ばの少女の姿を取る。
(――って、え)
急いで有香は周囲を見渡すが、どう見てもみんな三十代以上で、十代はおろか二十代の人間も見当たらない。
(って、え、嘘。なんかさっきから姿変わって無いんだけど……)
急いでそれの方向に視線を戻すと、いまだに有香の姿をしていて、しかも、有香の方を凝視している。
有香は考える。
(今、ここで、私の姿を取ると言うのは、どう言うこと?)
結論はすぐに出る。
(同じ時人物が二人いたらまずいから――どんな理由であれ、どんな手段であれ――私は消される?)
サァッと。
有香の顔から血の気が消える。
(ちょ、冗談じゃ無いわよ! どこか逃げ場所――)
急いで有香が逃げようとすると。
(っ!)
目の前に自分と瓜二つの姿がある。急いで先ほどまでそれがいた方向を見るも、そこにはすでにいない。
「――っ!」
驚きのあまり有香が固まっていると、それの手が有香の頭に伸びてきて、有香の頭を優しく包む。
そして。
「――――――」
(何? 何……か、言って……る……?)
有香の意識がだんだん遠ざかって行く。
我々には、目的がある。
目的を果たすには、ありとあらゆる物体が邪魔だ。だから本当は、この星系を一掃したい。
――が、君だって問答無用に潰されるのは嫌だろう。我々だってわざわざ星系一つ潰すのは大変だ。
そこで、提案だ。
いつの日か、君が――この星系を潰さなくても我々が目的を果たせるよう、取り計らってはくれまいか――。
有香の目が覚めた時、そこは見慣れない病院で。
医師から聞いた話によると、有香は第一居住ドームで唯一生存が確認されている人類だと言う。
「今朝、奈々さんが純粋重力波の発生に成功しました」
健太が、語り始めた。
「我々は数万年前、ある異常を検知しました。太陽系付近において、重力場が乱れていると言うものです。詳細な調査の結果、どうやら、別位相の宇宙が太陽系付近において接近しているらしいと言うことが判明しました。
我々はその時期、科学技術において、停滞していました。そんな種族にとって、このような自然が与えてくれた機会を逃すわけには行きませんでした。
太陽系へ急ぎ向かったところ、どうやら太陽系のある惑星に、生命がいるらしいと言うことが分かりました。しかも、そのうち一種が、勢力を拡大しつつあるということも判明しました。
我々が太陽系へ接近した頃、その種族はとうとう宇宙へ進出を始めました。そこで我々は、メッセージを送って見る事にしました。そのメッセージを感知し、星系から生命が逃げ出してしまえば儲け物です。
しかし、その種族は見た目の活動性からは理解出来ないほどに保守的でした。我々のメッセージを、あろうことか自然現象と解釈してしまったようです。その種族は、我々が星系に進入し、いくつかの天体の運行に影響を与えて始めて、我々の存在を感知しました。
その頃、我々の中には過激派が多数を占めていました。星系を問答無用に一掃した方がよいと言う意見です。そのため、我々に接近して来た調査団や、火星の居住ドームを一掃しました――が、そのとき、ある個体が協力者を見つけました。いつか、星系の生物と我々が共存しつつ我々が調査出来るよう、取り計らってくれる存在が現れたと言うのです。
我々だって手荒な真似はしたくありません。その存在が調査の許可をくれるのを待とうとしました。
しかし、いつまで経っても許可を下ろしません。我々は業を煮やし、勝手に実験を始めました。
その結果が――山崎裕也君です」
語り終えると、健太と奈々は踵を返し、部屋から出て行こうとする。
「では」
「待て」
何事も無かったかのように出て行こうとする健太を、新が呼び止める。
「……なんですか? もう、面倒臭いなぁ。用があるなら早く言ってもらえませんか?」
「――どこに行くつもりだ?」
「どこって。今、二つの宇宙は不安定です。ちょっとした刺激でまた接続することでしょう」
「答えろ――」
「例えば、人類史上最大の巨大建築を破壊するとか」
その場に――緊張が走った。
「な――スカイを破壊するだと? あそこに何人の人が住んでると思ってるんだ!」
「さぁ? ざっと一億人弱だったと記憶してますが」
「自分達がしようとしていることがどう言うことか、分かってんのか?」
「科学の発展に犠牲は付き物でしょう。違いますか?」
ダン、と。
新の姿が元の位置から掻き消え、次の瞬間、健太の眼前で腕を振りかぶっている。
それを見た健太と奈々の姿がその場から消える。
「ちっ!」
「新ちゃん!」
新は舌打ちをすると、目にも止まらぬ速さでその場から掻き消える。
「大変! 裕也君、良い? 私から離れないこと。分かった?」
言うが早いか、有香は駆け出す。
「え? あ、はいっ!」
数瞬遅れて、裕也はようやく反応する。
数秒後、部屋は無人になる――三十二号を除いて。
(さて――どうなることやら)
一人で三十二号は思考する。
これからどうなるかを。
「――広島県民に告ぐ。ただいま二千五百三十三年五月三日十四時五十分を持って、広島県内において警戒レベル二十五を発令する。只今より、全ての社会活動を停止し、己の身の保身を最優先事項にする事。行動規定は全て警戒レベル発令時マニュアルに順ずる」
有香は一息にそう言うと、ゆっくりと深呼吸をする。
「……あの、状況がつかめて無いんですが……」
「あ、ごめんなさいね。今、広島県何に警戒レベルを発動したの」
「いやまあ、それは何となく分かると言うか」
「しかし……大事になったわね……」
「……はあ」
気の抜けた返事をする裕也を無視し、有香は考える。
(十年前、宇宙人達は私だけを残して――居住ドームを消した。逆に言えば、私だけは助けた)
考えながら、有香はイスに座る。
(よく考えたら、あの時何かを言っていた気もする。さっき二ノ宮健太が言っていた事も考えると――穏便に事を運ぼうとしたのか)
そこまで考えて、有香は憂鬱な気分になる。
(もし、宇宙人が言っていた事を憶えて、対応していれば、もしかしたら今のような状況にはなって無かったかもしれない)
「ねえ、裕也君」
「あ、はい?」
有香は思考を中断すると、裕也に話しかける。
「あなただったら、どうする?」
「……は?」
「ああ、ごめんなさいね。大変な事が起きて、それが過去の自分の不注意が原因だと言う可能性があるとして、あなたならどうする?」
裕也は数秒間がえてから、答える。
「どうしようもないですし、あくまで可能性ですから、状況にもよりますけど、忘れることにすると思います」
「…………そう」
有香は一瞬何か言いたそうにしたものの、なにもいわずに頷く。
(……『可能性』ね。確かにそうだわ。その曖昧さが一番怖いのよね……)
有香が考えていると。
「ん? この音なんですか?」
裕也の声で我に返った有香は気がつく。
携帯端末に着信が来ていることに。
新は『スカイ』の外壁を蹴っていた。
一回の蹴りで数百メートル、時には一キロメートル近くも飛び上がり、上空を行く健太にどんどん追いつく。
やがて。
軽い音と共に新の姿が『スカイ』屋上を飛び越え、数秒後に屋上に着地する。
(――どこだ!)
視覚、聴覚、嗅覚――考えうる全ての感覚器官を総動員し、付近で動く物体を探す。
(!)
背後から殺気を検知した新は近くの飛行機の影に隠れる。
次の瞬間、新がいた場所には大量の銃痕が出来る。
(さぁって――どこに隠れたんでしょうか?)
新の位置を確認するために一瞬攻撃を止めた健太の眼前に、小型飛行機が迫る。
健太は難なくそれを避けると、視認すらせずに飛行機が飛んできた方向へ攻撃を再開する――が、背後から空気を斬る音が聞こえ、取り急ぎ攻撃を取りやめ、背後へと向きを変える。
直後、健太がいた場所を、音速を超える拳が通り抜け、周囲を衝撃波が通り過ぎる。
直前に健太は逃げたのか、周囲に健太の姿は無い。
拳の勢いを止めようとする新の上空に巨大な影が出来、そこに飛行機が一機墜落する。
逃げる余裕の無い新はそのまま殴り飛ばすことで応酬する。
と、その殴り飛ばす動作をしている間に健太は肉薄しており、両手を巨大なナイフのような形状にして新に切りかかる。
新は両掌でナイフを掴むと、そのまま健太の体を持ち上げ、近くの床へ叩きつける。
地面に叩きつけられる直前に健太は姿を眩ます。
「っく――!」
新の両手から血が滴り落ち、その勢いは徐々に増してゆく。
「まずいな……早いところ決着つけねぇと……」
そう呟きながら新は周囲を見渡すも、動く影は見当たらない。
「問題はこれだな……」
そう呟きながら、新は掌をなめる。
すると、目に見える勢いで切り傷が治癒していき、数十秒後には新の掌は元通りになっていた。
「よーし……探しますか……」
そう言うと新は、勢いよく地面を蹴り、上空へと姿を消した。
(ふぅ……やはり、強いですね――しかし、我々の敵では無い、と……)
スカイに何百もある飛行機、そのうちの一つの影で、健太は思考する。
(相当改造を加えられているようですが――所詮、生身の生物。刃物に触れれば切れるし、おそらく高い所から落下すれば致命傷を負う。そして、それがまぎれも無く最大の――弱点)
今健太がいるのは、屋上の縁まで後数メートルと言う位置であり、そこからは広島県を中心として、四国、九州、近畿、日本海や果ては太平洋が望める。
「さて――そろそろでしょうかね」
そう呟くと健太は立ち上がり、縁に背を向け、両手を前に出す。
次の瞬間。
「っらぁぁぁぁぁあああああああ!」
絶叫と共に新が飛行機を貫いて飛び込んできて、そのまま真っ直ぐに健太の顔面へと拳を叩きこむ。
健太は前に出した両手でその拳を受け止めると、そのまま新の体を固定する。
「――なぜ、邪魔をするんですか。下等生物が」
「あぁん?」
「あなたは何のために動いているんですか? 自分のため? 違いますね」
「何を言って――」
新の言葉を遮り、健太はなおも続ける。
「あなたの行動はひどく利他的だ――それも、不可解なほどに」
「…………」
新は黙ったまま、拳へと力を加えていく。それに伴い、健太の位置が徐々に後ろへとスライドして行く。
「あなたは、クローン人間――しかも、あり得ないほどの手を加えられている。故に、あなたには自分が人間であると言う意識が無い。自分は異端者だと言う意識に常にさいなまれている。それが故に――いざと言うときに利他的に動く。そう、丁度今のように」
「……何が言いたい」
「いえ? 別に。事実を述べたまでです。ただ――」
「ただ?」
「もしあなたが、現実に目を向けたらどうなるのかと思いまして」
「現実だぁ?」
「ええ、『スカイ』に居住している人類は一億人――地球上で暮らしている全人類の、たった十分の一です。我々は一回でも成功したら星系から出て行くつもりです。そうすれば――あなた…はどのようにした方が………、より人類のために動けるのでしょうか……………?」
新の拳から――力が抜けた。
「は。あなたはものすごいパワーに恵まれている。が、それが故に、深く考える事をしない――故に、あなたは、つめが甘い。だから…、こうなる…」
健太の足が、新の足を振り払う。それと同時に健太は新の拳を握ったまま倒れこむ。
当然新の体は引きずられる形となり――勢いに乗ったまま、『スカイ』屋上の縁を乗り越える。
新の体が縁を越えた瞬間、健太の周辺で爆発が起こり、爆風が新をさらに外へと押しやる。
容赦の無い重力に引っ張られた新の体はあっという間に縁から見えなくなる。
(――約、五十秒後に着地、よければ即死、運が悪くても――身動きは出来ない、と言った所でしょうか)
考えながら、健太も縁を乗り越える。
健太の足が地面から離れた瞬間、健太の姿は屋上から消えていた。
「あ、はい」
有香が慌てて通信端末を手に取る。
「――え? 分かったわ」
出てすぐ、有香はそう言うと、通信端末を裕也に渡す。
「裕也君と話したいって」
「え? はぁ……」
見た目は裕也の世界の携帯電話と変わらないそれを受け取り、耳元に持って行く。
「はい、山崎裕也です」
『三十二号』
単純明快な自己紹介の後、三十二号は続ける。
『これから私の言う事は、一つの判断材料として聞いて欲しい。なお、質問は受け付けない』
「……はあ」
『現在、北川新は非常に厳しい状況に置かれている。このままでは地球外知性体である二ノ宮健太の勝利となる。当然、地球にとって、そして宇宙にとって喜ばしい事態では無い。
しかし、猫神奈々は動いていない。おそらく、地球外知性体は一枚岩では無い。二ノ宮健太代表の過激派と、猫神奈々代表の穏健派に分けられると推察出来る。今回の件に関して黒幕は二ノ宮健太のみであり、猫神奈々は手伝わされたと考えるのが妥当。そこで、北川新の勝利に頼らずに事態を収集する一つの方策として、猫神奈々に働きかけると言う方法が考えられる。
貴方は今回の件に関しては被害者であり傍観者。その貴方に判断を委ねるのは、私としても心苦しい――が、北川有香はすでに十年前の交渉の機会を逃しており、北川新には場合によっては永遠に交渉の機会は訪れない。確実な交渉機会を与えられたのは――貴方のみ』
裕也が言葉を挟むのを許さない良い気負いで三十二号はそう言うと、一方的に通信を切った。
「……えーと」
「なんだって?」
有香が話しかけてくるのを無視して、裕也は思考する。
(猫神奈々――猫神先生に、働きかける――?)
なおも考える。
(考えろ、どうするべきか――)
――と。
「全く、あの子にも困ったものよね。なんだって裕也君に一任するのよ」
「……え?」
裕也は顔を上げて、有香を見る。
「いつもはあの子の指示には従ってるんだけど――今回については事態が事態だし、独断で動かさせてもらおうかしら」
取り返しが聞くかもしれないし――と有香は呟きながら、イスから立ち上がる。
「裕也君、猫神奈々さんの居場所ね、多分こちらよ」
事態を把握できていない裕也の腕を引っ張り、有香は所長室から出る。
「全く……しぶとい人ですね」
ある裏路地で、健太は言う。
「その悪運の強さを分けてもらいたいぐらいです――が、それもここで終わりです」
十キロ上空から落下したにもかかわらず、新の体に外傷は無く、かろうじて服のほつれに苦労の後が認められるのみである。
しかし、新は見た目以上に傷ついており、実際のところ這いずり回る以上に動くことは出来ない状態である。高い治癒能力により動きは徐々に俊敏にはなってはいるものの、健太にのしかかられている状態では、俊敏さなどあってなきが如しである。
一方健太はと言うと、外傷も内傷も無く、それまでと動きは何も変わらない。
どちらが有利かは、明らか。
健太は右手で新の首を掴むと、左手を手刀の形にして、新の眼前に持ってくる。
その左手が、先端から徐々に裂けていき、やがて肘から数万本、数十万本の銀色の糸が生えているような状態となる。
糸は一本一本が動いており、精神の弱い人間であれば見ただけで吐き気を催しそうな光景。
「…………」
「何か言う事はありませんか? なんなら遺言を有香さんに伝えても良いですけど」
「…………さっきよぉ」
「ん?」
「成功したら太陽系から出て行くっつったよな……」
「ええ、言いましたが。何か?」
「その言が本当だっつー保障はねぇよな。だとすりゃ答えは一つだ。問答無用でお前らを追い出した方がいいだろうよ。ついでに言えば、本当だとしても、実験をして地球が無事だっつー保障もねぇしな」
「……ほう」
新の言葉を聞いて、健太は。
「言いたい事は、それだけですか?」
健太の左手、そこに生えている糸が、急速に動きを増し、目にも止まらぬ勢いで縒り合わさってゆく。
数秒後、そこには左手をドリルへと変形させた健太の姿があった。
「……ああ、特に言いたい事はねぇわ」
「そうですか。では――さようなら」
直後、新の視界が暗くなる。
(……あれ?)
新は最後に、裕也の声を聞いた気がした。
猫神奈々は大全統合研究所の裏口にいた。
背中を壁につけ、左足を右足に引っ掛け、やる気なさげに『スカイ』の方角を見ている。
(十年前――健太率いる過激派に対抗するため、私は保険をかけた。)
奈々のすぐ近くにある扉が開き、そこから有香と裕也が顔を覗かせる。
(北川有香――彼女を協定役に任命し、人類と共存しつつ実験を行うことが出来るようとりはからせる)
有香が、奈々の目の前に立つ。
(――さて、健太が主張するように、私の試みは失敗したのか)
有香が、口を開く。
(それとも――まだ判断するには時期尚早なのか)
激しい金属音を立てて、健太の左手――ドリルが、分厚い金属板に当たり、勢いを弱める。
「なっ――奈々さん!?」
健太は驚愕の表情を浮かべると、左手を元の形状に戻し、勢いよく立ち上がる。
「何のつもりですか!」
怒りもあらわに怒鳴る健太に対し、奈々は表情一つ変えずに、金属板――右手を元の形状に戻し。新に向かってその手を伸ばす。
「……何のつもりだ」
新がそう言うと、奈々は無言で背後を振り返る。
そこには。
「――新! 間に合った!?」
息を切らした裕也が、生きている新を見てへたり込んでいた。
「おいおい、まるで死んでて当然ッつー言いかただな」
「……私に殺されかけていたでしょうに」
「は?」
新が、心底理解出来無いと言う表情を浮かべる。
「本気で言ってんのか? 健太よぉ」
「……とうとう、狂いましたか?」
「…………はぁ」
何やらぶつぶつと呟きながら、新は立ち上がる。
「全員、動くなよ」
新はそう牽制すると、軽く地面を蹴る。
次の瞬間、周囲に目の細かいレーザーの網が出来、そこいらじゅうの壁を、地面を、石を、植物を、焼き尽くす。
「…………」
驚愕の表情で立ちつくす健太に、新が解説する。
「およそ地球上で確認されているありとあらゆる物質の融解温度を超えていることが確認されている。――さて、テメェら宇宙人の材質は何かな?」
しばらく呆けていた健太は、はっと気が付いたように奈々に迫る。
「あなた! 何があったんですか!」
それに答えたのは、裕也だった。
「有香さんが――」
「やっぱりババァか。何があった?」
「うん、それがね――」
「取引をしに来ました」
「…………」
「まず、こちら側の条件として、今回の被害者である、山崎裕也に全ての権利――事後処理、実験の承諾の権利等を譲り渡させてもらいます」
「…………」
「次に提案として、今後百年以内に、太陽系で実験を行うことを許可する――と言うものです」
ピクリと。
奈々の眉が動く。
「これらすべての前提条件として、北川新の無事を挙げさせてもらいます」
「…………」
奈々が、無言で歩きだす。
スカイ、その基部周辺、新が落ちたであろう方向へ向かって。
「あ、あの、先生!」
裕也が、立ち去ろうとする奈々に声をかける。
奈々は立ち止まり、振り向かずに――裕也の台詞を聞く。
「あの――僕も付いて行っていいですか?」
その言葉を聞いて、奈々は。
「…………」
無言で右手を差し出し、にっこりと微笑んだ。
「おっはよぅ!」
殺気を感じた裕也は、本能のままに転がる。
直後、新が寝転がっていたところの金属枠が、新の拳の形に歪み、とてもではないが人が寝るのには適さない形状になる。
「ちっ、逃げるなよ」
「いや逃げるって」
裕也はそう返しながら起き上がる。
「…………」
そうして、初めて新の姿をまともに視界に入れる。
「……あれ? 怪我は?」
「一晩寝たら直った」
さも当たり前のように言う新を前に、裕也は溜め息を付く。
五月四日。波乱の一日が終わり、また新しく日が昇った。
「まず最初に、残酷な真実を述べさせてもらうわ」
食堂。新が注文を取りに行っている間に、有香は裕也に向かってそう言った。
「残酷な真実?」
「ええ、話が専門的になるのだけれど。昨日、『M理論』って言うのが話に出てきたのは憶えてる?」
裕也は数秒間かけ、昨日の出来事を思い出す。
「――ええ、確か、十一次元だか何だかの時空の中に僕らの宇宙があるって言う」
「大正解。それでね、昨日、色々な文献をあさって見たのだけれど、どうやらM理論によると、二つの宇宙が接触した場合、そのときには接触箇所を中心に大爆発――ビッグバンが起こる可能性が高いらしいの」
「はあ。……え?」
「そう、あなたは現にこの宇宙に来ている。ここから推測出来るのは、M理論が間違っているか、もしくは、あなたがかなり低い確率の賜物である、と言うこと」
「……つまり?」
「あなたには宇宙人との交渉権がある。けれど、地球、太陽系、そしてこの宇宙の事を考えるのならば、賭けをしてまでその権利を行使する事は許されない、と言う事ね」
「……分かりやすい理屈ですね」
「あれ? 何か言おうとは思わないのかしら?」
「いえ、何だか疲れました……」
げんなりとしながら、健太は答える。
昨日の朝、この世界に来てから、元の世界に帰れるのか、帰れないのか、常に判然としなかった。そう言う意味においては、事情がはっきりした、と言うことになる。しかしながらもちろん、元の世界に帰りたいのは山々であり、複雑な気持ちである。
「ま、M理論が絶対ってまだ決まったわけじゃ無いし、もしかしたらいつかあっさり帰れるかもよ? まだ諦めるのは早いわよ」
「気休めは良いです……」
と、丁度そのとき、新が帰って来た。
「ん? 何で裕也は落ち込んでるんだ?」
「現実を直視してたらね……」
「ふぅん? まあ良いや。メシ食ったら持ち物とかのチェックがあるから急いで食えよ」
そう言いながら、新は大量の料理を机の上に置く。
「……新ちゃん、この量はなに?」
「あー、いや、昨日の今日で腹が減ってな――……」
新が全て食べ切るのに、ものの五分とかからなかった。
「お疲れ様」
裕也が職員室に入り、担任――奈々の近くに行くと、そう声をかけられた。
「……あ、猫神先生」
職員室。当然の事ながら複数人の人間がいて、猫神の正体を知らないものが大半であろう。
「誰の声か分からなかった? まあいいわ、ここに座って」
奈々はそう言いながら、自分の目の前のイスを勧める。
「本当は色々と聞きたいのだけれど、とりあえず今日からのことね」
立体映像のコンピューターを立ち上げると、奈々はいくつかの書類を画面上に引き出してくる。
「ここに掌を押し当ててもらえるかしら……そうそう」
裕也がいくつかの登録作業を行なっていると、奈々がぼそりと呟いた。
「急がなくて良いわよ」
「え?」
「いえ、実験の事。確かにあなたは我々、特に健太からは人類代表だとみなされている。でも、仮に二つの宇宙を接触させた場合、どうなるのかを正確には知らないのは私たちも同じ。だから、宇宙を抹消してまで帰りたいと思うまで、権利は行使しなくて良いわよ」
むしろ私は、危険な事はしない方が良いと思ってるんだけどね、と奈々は呟く。
「…………」
「あら、登録は済んだかしら? じゃあ、教室に行きましょう」
裕也の手が止まっているのを見て、登録状況を確認すると、奈々は立ち上がる。
「……新と同じクラスなんですよね?」
「健太もいるわよ」
廊下に出て、奈々は何でも無いように言う。
「…………」
裕也はその言葉を聞いて、不安そうに黙りこむ。
「大丈夫よ、みんな楽しい子達だから」
裕也の表情に不安のそれが浮かんでいるのを見て取った奈々は、そう言って裕也の背中を叩く。
「うわぁっ!」
勢い余って倒れた裕也の眼前には、教室の入り口。
「あらごめんなさい、教室に着いたわよ」
奈々がそう言って、立ち止まる。
「? 入らないんですか?」
腰をさすりながら立ち上がり、裕也は聞く。
「先にどうぞ」
奈々はそう言って、くすりと笑う。
「? はあ」
裕也が扉を開く後ろで、奈々が「全く……」と呟いている。
裕也は怪訝に思うも、扉を開ける。
扉が開き、裕也の視界に教室の中が見えようかと言う時。
「うわ! みんな準備良いか?」
「お、応!」
「せーの!」
教室の中がざわめき。
「ようこそ、スカイ中央高等学校二年三組へ!」
教室の内部から大量の紙ふぶきが噴き出してきて、それと同時に大勢の人間の唱和が裕也の耳を襲う。
「っつ――え? 何? これ」
数秒後、教室内部を確認する余裕の出来た裕也の目には。
あちこちに紙吹雪の引っかかった、まるでこれからパーティーでも開こうかと言うほどに飾り立てられた教室。
クラッカーを持つ大勢の生徒。
それらの真ん中には新が机の上で仁王立ちしていて。
「よろしくな、裕也」
教室の中を見て、聞いて、裕也は。
「……こちらこそ、よろしくお願いします、皆さん」
この世界で生活するのも、そう悪く無いかもしれないと思った。
END