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[1]
[[日本]]の[[昭和時代]]は[[日時制度]]にとっても激動の時代でした。
* 昭和への改元
[3] 大正15年、[[昭和]]に[[改元]]されました。
[SEE[ [[昭和]] ]]
[34] [[改元デマ]]もありました。
[SEE[ [[光文事件]] ]]
* 横書きの日時表記
[64]
[[大正時代]]末期から[[昭和時代]]初期にかけて、
[[新聞記事]]の一部に[[左横書き]]が使われるようになりました。
[65]
[[横書き]]記事でも基本は[[漢数字]]が使われていたようで、
「四月十日」、
「廿四五日」、
「十五年度」、
「十日午後九時」
のように表記されました。
[SRC[[CITE[[[横書き登場]]]] p.126 ([CITE[国民新聞]] [TIME[大正15(1926)年4月11日][1926-04-11]])]]
[66] [[ラジオ放送]]欄では、
[[大阪]]は
「6[ASIS[、][[[半角]]]]30―9[ASIS[、][[[半角]]]]00」、
[[東京]]は
「午後七時二十五分」
のように番組の[[時刻]]を表記していました。
同じ[[新聞]]で上下に並んだ記述で表記が違うのは、
ラジオ局が提出した原稿が違う表記を採用していたのでしょうか。
[SRC[[CITE[[[横書き登場]]]] p.126 ([CITE[大阪毎日新聞]] [TIME[大正14(1925)年9月2日][1925-09-02]])]]
[67]
[TIME[昭和13(1938)年1月3日][1938-01-03]]-[TIME[27日][1938-01-27]]に[[東京]]で開催された[[催事]]
「[[戦捷日本コドモ博覧会]]」
のポスターには、
次のようにありました [SRC[[CITE[[[横書き登場]]]] p.136]]。
>
[PRE[
戰
博 コ 捷
覽 ド 日
會 モ 本
月一年三十和昭
27 ― 3
ま 日 よ 日
で り
]PRE]
;; [68] 「年」は <https://glyphwiki.org/wiki/u5e74-itaiji-008>。
[71] 開催期日の表示は横書きと縦書きが混じった複雑な表記ですが、
開始日が右側、終了日が左側の全体として[[右横書き]]になっています。
その中で[[日]]番号は[[アラビア数字]]で[[左横書き]]になっていることが注目されます。
現在でも[[アラビア語]]表記では[[右横書き]]の[[アラビア文字]]の中に[[左横書き]]の[[アラビア数字]]が[[混ぜられる][bidi]]のと同じです。
[70] その会場にあったとみられる記念の判子の印影には、
[[右横書き]]で、
「[LINES[戰捷日本コドモ博覽會][三日[SUB[ヨリ]]―廿七日[SUB[マデ]]]]」
とありました。 [SRC[>>69]]
[REFS[
- [69] [CITE@ja[ヤフオク! - tt-37200【戦前絵葉書】[[戦捷日本コドモ博覧会]]会...]]
([TIME[2019-11-23 20:16:50 +09:00]])
<https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/m356339571>
]REFS]
* 皇紀
[2] [[昭和時代]]前期には[[皇紀]]がよく使われるようになりました。
[SEE[ [[皇紀]] ]]
[76] その理由として国粋主義、軍国主義的傾向が指摘されることが多いですが、
[[大正改元]]、[[昭和改元]]とわずか15年で2度の[[改元]]を経て、
[[元号]]の不便な点を補う有用性が認識された結果という実用面も大きかったとみられます。
45年間の[[明治時代]]を経て2,3年で[[改元]]が繰り返される時代は過去になり、
[[文明開化]]で社会も大きく変わっていました。
一方で独自の[[紀年法]]を持つことは[[独立国]]の象徴であり、
[[皇紀]]を持つ[[日本]]は[[アジア]]諸国の模範でもありました。
[SEE[ [[黄帝紀年]]、[[民国紀元]]、[[共戴紀元]]、[[成吉思汗紀元]]、[[タイ暦]] ]]
[5] [TIME[紀元2600年 (昭和15年、西暦1940年)][year:1940]]
には様々な記念事業が行われ盛大に祝福されました。 [SRC[>>4]]
[7] [[日本軍の制式名称]]にも[[昭和時代]]に入ってから[[皇紀下2桁年]]が用いられるようになりました。
[[明治]]から[[大正]]、[[昭和]]と[[改元]]が続き、
[[元号年]]番号だけでは距離が近すぎて不便なため[[昭和]]への[[改元]]直後に改められたと考えられます。
[SEE[ [[日本軍の制式名称]] ]]
[REFS[
- [4] [CITE@ja[紀元二千六百年記念行事 - Wikipedia]] ([TIME[2019-06-13 21:59:16 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%85%83%E4%BA%8C%E5%8D%83%E5%85%AD%E7%99%BE%E5%B9%B4%E8%A8%98%E5%BF%B5%E8%A1%8C%E4%BA%8B>
]REFS]
* 暦法改良案
[43] [[大正時代]]に続き、国際的に[[暦法改良案]]が議論されました。
[[日本]]でもその是非が議論されました。
[SEE[ [[暦法改良案]] ]]
* 学暦
[22] 学問の世界では[[西暦]]も使われていました。
学術的な[[紀年法]]ということで[[学暦]]と呼んだりしていました。
時局柄、欧米かぶれではなく学術目的であると主張する必要もあったとみられます。
* 標準時統一
[11]
国内の一部
([[沖縄県]]の[[先島諸島]]、
[[台湾]]、
[[南洋群島]]、
[[関東州]]・[[満鉄附属地]])
で異なる[[時刻]]が使われていました
[SEE[ [[西部標準時]]、[[南洋群島の標準時]]、[[満州の標準時]] ]]
が、
[[昭和時代]]にすべて[[中央標準時]]に統一されました。
[17]
経済的なつながりが大きかった[[満州国の標準時]]も改正され、
[[日本]]の[[中央標準時]]と統一されました。
[16]
交通や通信が発達し、経済的な一体化が進み、
[[時差]]による不便が大きくなったことが理由でした。
[SEE[ [[日満時差撤廃]] ]]
[42]
[[夏時刻]]や[[通年夏時刻]]の実施も度々提案されました。
[[台湾]]や[[満州国]]では[[標準時]]改正として実現しましたが、
[[日本本土]]では実施に至りませんでした。
[SEE[ [[日本標準時改正案]] ]]
* 24時間制
[41]
[[鉄道省]]や[[軍][日本軍]]などが[[24時間制]]を採用しました。
[48]
国レベルで統一には至らなかったため、現在に至る[[12時間制]]と[[24時間制]]の併用が始まりました。
* 戦時下
[6]
[[皇紀]]や[[昭和]]の[[元号]]は、
[[大日本帝国]]の[[領土]]やそれに準じる地域だけでなく、
[[満州国]]や[[中華民国]]など同盟国に駐在する[[日本軍]]はもちろん、
[[南方占領地]]の[[日本軍]]やその[[軍政]]下の現地住民によっても用いられました。
[8] 具体的には[[南方占領地]]旧蘭領[[東インド]] (現在の[[インドネシア]])
や[[南方占領地]]旧英領[[マラヤ]]・[[昭南市]] (現在の[[マレーシア]]、[[シンガポール]])
の[[新聞]]などで使われた記録が残っています。
[[インドネシア]]の独立宣言にも[[皇紀下2桁年]]の[[日付]]が記載されました。
[SEE[ [[マレーシアの標準時]]、[[インドネシアの標準時]] ]]
[10]
[[南洋]]各地に展開した[[日本軍の軍用時]]は、
本国と同じ[[中央標準時]]に統一されていました。
[[南方占領地]]の一部では現地の[[標準時]]が[[中央標準時]]と同じ[[時刻]]に改められました。
[[満州国]]や[[中華民国]]などの同盟国も含め、
[[大東亜]]の広大な地域が単一の[[時刻]]で統一されました。
[SEE[ [[大東亜の標準時]] ]]
[44]
[[本初子午線]]を[[日本]]基準に改正しようとする者もあり、
[[帝国議会]]に[[請願]]として提出されましたが、
流石に無理があり[[日本政府]]は拒否しました。
[SEE[ [[本初子午線]] ]]
* 連合国による干渉
[9]
[[第二次世界大戦]]の[[終戦]]後、
[[連合国]]は[[日本国]]内の諸制度に介入しました。
[[日時制度]]もその例外ではなく、
様々な変更を余儀なくされました。
[20]
[[大日本帝国]]政府は[[東京天文台]]の計算を元に[[伊勢神宮]]に[[暦]]を発行させていましたが、
これを中止せざるを得なくなりました。紆余曲折を経て現在は[CITE[暦要項]]を[[官報]]で公表する形となっています。
[13]
[[日本政府]]は旧[[皇室典範]]の[[改元]]に関する条項にかわる新しい[[法律]]を制定しようとしましたが、
[[GHQ]]
の干渉により断念しました。
[14]
しかし [[GHQ]] も[[西暦]] ([[キリスト紀元]])
の利用を求めることは[[信教の自由]]に反するとして、
[[日本本土]]においてこれを強制することはできませんでした。
[51]
あるいは
[[GHQ]]
の威を借りて[[元号]]を廃止し、
[[西暦]]を公用化しようとする勢力が[[国会]]で活動しましたが、
国民の理解を得るには至りませんでした。
[SEE[ [[昭和の元号危機]] ]]
[15]
事実上の[[米国]]領土となった[[南西諸島][米領琉球列島]]と[[小笠原諸島][米領小笠原諸島]]、
事実上の[[ソ連]]領土となった[[樺太]]、[[千島列島]]、[[北方四島]]では、
[[西暦]]が公式な[[紀年法]]として用いられました。
[[元号]]の利用は憚られ、ごく一部で限定的に使うことができるのみでした。
[SEE[ [[南西諸島の日時]]、[[小笠原諸島の日時]]、[[北日本の日時]] ]]
[21] [[日本本土]]で当時発行された英文[[官報]]に掲載されていた[[英語]]の[[法令]]は、
本文中で[[西暦]] ([[法令番号]]の[[引用]]も含む。) を、
署名で[[元号]]に[[西暦]]の併記を採用していました。
[23]
[[ソ連]]軍の「軍事法廷」と称する尋問を受けた[[日本軍]]関係者は、
[[元号年]]が通用せず[[西暦]]で説明しなければならず、
[[換算][暦の換算]]の誤りによって虚偽説明と疑われるなどの不利益を受けたと証言しました。
[SRC[>>24]]
証言を信じるならばこれは平和の回復や正義を目的とした裁判ではなく、
被疑者に一方的に不利な状況を押し付ける報復的性質の強い[[戦争犯罪]]であって、
その攻撃の手段の1つに[[紀年法]]が悪用された事件ということになります。
戦勝国が敗戦国民を裁くという性質上、
こうした事例は他にも多々あったのでしょうが、あまり公にはなっていないとみられます。
[12]
[[皇紀]]は[[戦争]]と結び付いた不適切な[[紀年法]]であるというイメージが植え付けられ、
次第に使われなくなりました。
[[歴史]]の[[教科書]]も[[皇紀]]でなく[[西暦]]を使うようになりました。
[18]
[[GHQ]] は[[日本本土]]や[[南西諸島][米領琉球列島]]で[[夏時刻]]を実施させました。
日本の気候や生活習慣に合わず国民には大変不評でしたが、
日本側からの中止の提案を拒絶し [[GHQ]] の廃止まで続行させました。
[SEE[ [[昭和のサンマータイム]] ]]
[19]
[[小笠原諸島]]では[[標準時]]自体が改められ、
日本に返還されるまで[[時差]]がありました。
[SEE[ [[小笠原諸島の日時]] ]]
[[樺太]]、[[千島列島]]、[[北方四島]]も[[標準時]]が改められ、
現在も[[日本本土]]と[[時差]]が残ったままです。
[40]
なお、同じ頃労働時間管理の方法も改められました。
従来の[[季節ごとに労働開始・終了時間を定める慣習][夏季営業時間制度]]から、
年間を通じて一定の労働時間制限の中で就業時間を定める方式に切り替えられました。
[37]
[[日本の祝日]]制度も全面的に改められました。
[SEE[ [[日本の祝日]] ]]
[72]
[[米国統治下の琉球][米領琉球]]は別の[[祝日]]制度が実施されました。
[SEE[[[琉球の祝日]] ]]
[[日本本土]]とは違って[[盆]]や[[クリスマス]]は[[祝日]]でした。
[[日本国憲法]]が施行されなかった[[米領琉球]]では、
[[信教の自由]]や[[政教分離]]の原則も適用外ということなのでしょうか。
[38]
一部の地域の[[学校]]で週5日制 ([[週休二日制]]) が導入されました。
しかし不評で定着せず、後に6日制に復しました。
[REFS[
- [24] [CITE[コンクリートのベット]],
[[岡村善四郎]] ([TIME[2010-03-25 15:27:00 +09:00]]) <https://www.heiwakinen.go.jp/shiryokan/heiwa/03hikiage/H_03_012_1.pdf>
]REFS]
* 年齢計算
[63]
[TIME[昭和25(1950)年][1950-01-01]]、
[[日本本土]]では
[CITE[年齢のとなえ方に関する法律]]によって[[数え年]]は廃止され、
[[満年齢]]に統一されました。
[[米領琉球]]では[TIME[翌1951年][year:1951]]に統一されました。
[SEE[ [[年齢]] ]]
* 大韓民国の竹島侵攻
[73]
[[大韓民国]]は、[[日本国]][[島根県]]の[[竹島]]に進攻し、
以後自国領土と主張しています。
[74]
[[大韓民国]]は領土編入後に国家の[[標準時]]を改正したり、
[[夏時刻]]を実施したりして、
[[日本の標準時]]とは異なる状態となりました。
紆余曲折を経て[[平成時代]]の頃にはまた同じ[[標準時]]に戻っていました。
[SEE[ [[朝鮮半島の標準時]] ]]
[75]
領土編入後しばらく[[大韓民国]]の公式な[[紀年法]]は[[檀君紀元]]でした。
[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]] ]]
* 丙午年
[61]
[[干支年]]は[[明治時代]]に公式の場から消え
[SEE[ [[幕末維新期の日時]] ]]、
[[昭和時代]]にはかなり衰退してきました。
[[昭和時代]]が終わる頃には、
[[祭事]]の他は[[年賀状]]など[[新年]]ものに[[十二支年]]が使われたり、
自分の生まれ年を[[十二支年]]で表したり、
[[干支年]]に由来する[[還暦]]の慣習が残ったりする程度となっていました。
[62]
しかし[[干支年]]が[[日本人]]の生活から消え去ったわけではありませんでした。
[TIME[昭和41(1966)年[RUBY[丙午][ひのえうま]]][year:1966]]には、
迷信のため[[出生]]数が著しく低下しました。
* 観光地の日時
[46] [[昭和時代]]後期、
日本各地で旅行者へのアピールなどの目的で独自の (疑似)
[[日時制度]]が導入されることがありました。
[FIG(short list)[ [45]
- [[豊国]]
- [[新邪馬台国標準時間]]
- [[ニコニコ時間]]
- [[桃岩時間]]
]FIG]
;; [47] [[平成時代]]に入ってからですが、
より大規模な提案もありました。
[SEE[ [[北海道標準時]]、[[西部標準時]] ]]
* 週休二日制
[39] [[昭和時代]]後期、
[[週休二日制]]が提案され、一部で導入され始めました。
本格的には次の[[平成時代]]に普及が進みました。
[59]
[[昭和時代]]初期には、
まだ[[週]]が十分定着しておらず、
従来の[[旬]]による[[休日]]や行事も多く残っていました。
[60]
[[昭和時代]]末期には、
[[週]]は当然の前提のごとく生活に溶け込んでいました。
* 保時・報時
[50]
[[標準電波]]による[[報時]]機構が整備されました。
[SEE[ [[JJY]] ]]
[52]
[[ラジオ放送]]や[[テレビ放送]]で[[時報]]が放映されました。
[53]
[[中央標準時]]や [[UTC]] は[[
[[日本]]の[[昭和時代]]は[[日時制度]]にとっても激動の時代でした。
* 標準時統一
[11]
国内の一部
([[沖縄県]]の[[先島諸島]]、
[[台湾]]、
[[南洋群島]]、
[[関東州]]・[[満鉄附属地]])
で異なる[[時刻]]が使われていました
[SEE[ [[西部標準時]]、[[南洋群島の標準時]]、[[満州の標準時]] ]]
が、
[[昭和時代]]にすべて[[中央標準時]]に統一されました。
[17]
経済的なつながりが大きかった[[満州国の標準時]]も改正され、
[[日本]]の[[中央標準時]]と統一されました。
[16]
交通や通信が発達し、経済的な一体化が進み、
[[時差]]による不便が大きくなったことが理由でした。
[SEE[ [[日満時差撤廃]] ]]
[42]
[[夏時刻]]や[[通年夏時刻]]の実施も度々提案されました。
[[台湾]]や[[満州国]]では[[標準時]]改正として実現しましたが、
[[日本本土]]では実施に至りませんでした。
[SEE[ [[日本標準時改正案]] ]]
* 24時間制
[41]
[[鉄道省]]や[[軍][日本軍]]などが[[24時間制]]を採用しました。
[48]
国レベルで統一には至らなかったため、現在に至る[[12時間制]]と[[24時間制]]の併用が始まりました。
* 戦時下
[6]
[[皇紀]]や[[昭和]]の[[元号]]は、
[[大日本帝国]]の[[領土]]やそれに準じる地域だけでなく、
[[満州国]]や[[中華民国]]など同盟国に駐在する[[日本軍]]はもちろん、
[[南方占領地]]の[[日本軍]]やその[[軍政]]下の現地住民によっても用いられました。
[8] 具体的には[[南方占領地]]旧蘭領[[東インド]] (現在の[[インドネシア]])
や[[南方占領地]]旧英領[[マラヤ]]・[[昭南市]] (現在の[[マレーシア]]、[[シンガポール]])
の[[新聞]]などで使われた記録が残っています。
[[インドネシア]]の独立宣言にも[[皇紀下2桁年]]の[[日付]]が記載されました。
[SEE[ [[マレーシアの標準時]]、[[インドネシアの標準時]] ]]
[10]
[[南洋]]各地に展開した[[日本軍の軍用時]]は、
本国と同じ[[中央標準時]]に統一されていました。
[[南方占領地]]の一部では現地の[[標準時]]が[[中央標準時]]と同じ[[時刻]]に改められました。
[[満州国]]や[[中華民国]]などの同盟国も含め、
[[大東亜]]の広大な地域が単一の[[時刻]]で統一されました。
[SEE[ [[大東亜の標準時]] ]]
[44]
[[本初子午線]]を[[日本]]基準に改正しようとする者もあり、
[[帝国議会]]に[[請願]]として提出されましたが、
流石に無理があり[[日本政府]]は拒否しました。
[SEE[ [[本初子午線]] ]]
* 私的紀年法
[28]
[[昭和]]や[[皇紀]]のような公的な[[紀年法]]が弱まった空きに、
いくつかの私的な[[紀年法]] ([[私年号]])
は入り込みました。
いずれも広く普及しなかったものの、
それぞれの分野で一定の影響力を持ちました。
[29]
終戦後の混乱の中で、
[[アジア大陸]]の[[日本人]]の中で、
[[昭和]]が[[改元]]されて[[大新]]となったという[[改元デマ]]が流布しました。
[30]
実際にも[[改元]]の動きはあり、
[[新日本]]という[[紀年法]]が提案され、一部で利用する人もいました。
[31]
その他に宗教的な色彩の強い[[紀年法]]として次のものが現れました。
一部は[[平成時代]]になっても使われ続けています。
あるいは[[平成時代]]になって、[[第二次世界大戦]]ごろに遡って[[元期]]を設定したものもあります。
[FIG(short list)[
- [[大延]]
- [[霊寿]]
- [[核時代]]
- [[ヒロシマ紀元]]
- [[神の国の紀元]]
- [[原子][原子元年]]
- [[原爆暦]]
- [[エコ暦]]
- [[戦後][戦後暦]]
- [[豊国]]
- [[統一教会暦]]
- [[霊波]]
]FIG]
* 元号法
[SEE[ [[元号法]] ]]
* スローガン的元号
[27]
[[松下電器]]の[[命知元年]] (昭和初期)、
[[日本政府]]の[[福祉元年]] (昭和後期) など、
[[元号風にスローガンを掲げる用法][スローガン的元号]]が徐々に広がっていきました。
この用法は次の[[平成時代]]になって更に広く使われるようになりました。
[SEE[ [[スローガン的元号]] ]]
* 計算機システム
[25]
[[昭和時代]]後期、[[計算機システム]]が発達し[[日本国内]]でも様々な用途で使われるようになりました。
[[計算機システム]]における[[日時の表現と処理の方法][日時形式]]は世界的にまだ整理が進んでおらず、
[[日本国内]]でもいろいろな方法が試されました。
[FIG(short list)[ [26] [[昭和時代]]の[[計算機システム]]の[[日時]]
- [[昭和暦]]
- [[元号コード]]
- [[皇紀下2桁年]]
- [[西暦2桁年号]]
]FIG]
[49]
[[平成時代]]中頃から、 [[Unix time]] など処理しやすい形式を内部形式とする方式が一般的になりましたが、
こうした[[昭和時代]]の設計も[[令和時代]]まで生き残っています。
* 夏時間案
[32] [[石油危機]]の頃から、
[[夏時間]]を再導入しようとする勢力が活動をはじめました。
この運動は断続的に[[平成]]末期まで続きました。
[SEE[ [[日本標準時改正案]] ]]
* 観光地の日時
[46] [[昭和時代]]後期、
日本各地で旅行者へのアピールなどの目的で独自の (疑似)
[[日時制度]]が導入されることがありました。
[FIG(short list)[ [45]
- [[豊国]]
- [[新邪馬台国標準時間]]
- [[ニコニコ時間]]
- [[桃岩時間]]
]FIG]
;; [47] [[平成時代]]に入ってからですが、
より大規模な提案もありました。
[SEE[ [[北海道標準時]]、[[西部標準時]] ]]
* 週休二日制
[39] [[昭和時代]]後期、
[[週休二日制]]が提案され、一部で導入され始めました。
本格的には次の[[平成時代]]に普及が進みました。
* 平成への改元
[77]
[[昭和天皇]]の[[崩御]]による翌日の[[平成改元]]をもって[[昭和時代]]は終わりました。
[SEE[ [[平成改元]] ]]
[33] なお、昭和後期にいくつか[[改元デマ]] (新元号とされる怪情報)
が流れていたようです。
* 保時・報時
[50]
[[標準電波]]による[[報時]]機構が整備されました。
[SEE[ [[JJY]] ]]
[52]
[[ラジオ放送]]や[[テレビ放送]]で[[時報]]が放映されました。
[53]
[[中央標準時]]や [[UTC]] は[[天文学的観測による時刻][平均太陽時]]から[[原子時計]]に移行しました。
[SEE[ [[原子時]] ]]
[54] [[ロランC]]や [[GPS]] が整備され、
[[欧米]]を含む世界各国との[[標準時]]の国際比較が実施されるようになりました。
[SEE[ [[UTC]] ]]
* 世界の動向
[55]
[[大東亜戦争]]で一時的に[[日本]]の影響範囲が拡大しましたが、
[[終戦]]により急激に縮小しました。その後の領土返還があったものの、
最盛期には遥かに及びません。
[[太平洋]]はほぼ全域が[[米国]]の勢力域となり、
[[アジア大陸]]はほぼ全域が[[共産主義]]に堕ちました。
[56]
[[紀年法]]でみれば、
[[昭和]]の[[元号]]と[[皇紀]]が広範囲で使われたものの、
[[戦後]]は[[西暦]]の領域となりました。
[[支那]]の周辺の異民族国家の独自の[[紀年法]]も、
[[共産主義]]国の[[西暦]]に飲み込まれてしまいました。
唯一[[台湾]]でだけ[[民国紀元]]が残りました。
[[大韓民国]]は[[大韓民国][大韓民国 (紀年法)]]と[[檀君紀元]]を使いましたが、
その後のクーデターで[[西暦]]に[[改め][改元]]ました。
[57]
[[標準時]]でみれば、
[[中央標準時]]や戦時[[夏時刻]]が広範囲で使われたものの、
[[戦後]]はそれぞれの地域の元の時刻となりました。
[SEE[ [[大東亜の標準時]] ]]
[58]
[[戦後]]にアジア各地で季節性の[[夏時刻]]が実施されましたが、
[[昭和]]が終わる頃にはみなやめてしまいました。
[SEE[ [[東アジアの標準時]] ]]
* 日時制度研究
[35] [[日本の元号]]制度や[[日本の私年号]]についての研究が[[昭和時代]]に大きく進展しました。
[SEE[ [[日本の元号]] ]]
[36] [[明治時代]]後期から研究が進められていた[[朝鮮半島の紀年法]]についても[[昭和時代]]中期までにおおむね明らかとなりました。
[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]] ]]
* メモ
[SEE[ [[国会時間]] ]]