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[DFN[立川]]
* Webページ
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[CITE[立川の銭湯「梅の湯」で、1万冊の漫画と風呂あがりの生ビールの“ヒョイ飲み”! - メシ通]],
[TIME[2015-09-07]], [TIME[2015-09-07]]
<http://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/1509021>
]FIGCAPTION]
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第3回:梅の湯@立川で風呂あがりの生ビールと一万冊の漫画
世の中で一番旨い酒の飲み方は何かと考えると結局、 風呂あがりに生ビールをグビグビ ではないかと思うのですよ。 実はよく友達と、一緒に銭湯に行ってから、飲み屋に行くなんてことをやっています。銭湯でじっくりと温まってから、飲み屋に駆け込むのです。生ビールを飲み干すのです。正に甘露、正に至福。この時、風呂から上がってから、ビールを飲むまでの時間は短ければ短いほど美味しくなります。つまり、銭湯から飲み屋までの距離は短いほどいい。 この考えを突き詰めると、銭湯の更衣室や休憩室で飲むのが最高ということになります。おなじみフルーツ牛乳などと一緒に缶ビールを置いている銭湯なんかもあるんですが、やっぱりここは生ビールをジョッキで飲みたいものです。 探してみると、結構あるんですね、生ビールが飲める銭湯。そこで、そのひとつ立川にある 「梅の湯」 に行ってみることにしました。
立川に来たのは久しぶりですが、大きい町ですねぇ。都会ですね。
目指す梅の湯は、立川駅北口から6分ほど。立川女子高の隣なので、それを目印に行くとわかりやすいですね。
ほほう。なかなか立派な建物じゃないですか、梅の湯。
入り口に貼紙色々。営業時間は15時から24時ですか。早くからお風呂に入れるのは嬉しいなぁ。「今週 1階男性 2階女性」というのは、週によって入れ替えがあるということですね。今日は1階か。どっちの方が広いのかなぁ。
入ってみて驚きました。
あれ。
あら。
なんか、やたらと本棚が多いじゃないですか。そしてその本棚には漫画がぎっしり。 漫画読み放題というわけですか。これは嬉しいな。風呂あがりにビールに漫画。
なんですか、これは天国ですか。
まずは自動販売機で入浴券を買います。入浴だけなら大人460円。ここはせっかくなので、サウナも付けちゃいますか。合計760円。さらに岩盤浴30分500円なんてのもありますが、今日は止めときましょう。
あとレンタルタオルなんてのもあるんですね。ボディソープやシャンプーは浴場に備え付けであるようなので、手ぶらで来ても大丈夫ってことですよ。 フェイスタオル、バスタオル、そして身体を洗う用のナイロンタオル三点セットを借ります。200円ナリ。
では行ってまいります。バッグの中にはタオル三点セットね。
梅の湯さん、「銭湯力」も高いん
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[3]
[CITE[柴崎分水(立川分水)(5)根川合流点から先と、いくつかの分水路遺構 : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2014-12-03]], [TIME[2014-12-03]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/14850220/>
]FIGCAPTION]
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柴崎分水を辿るシリーズの最終回。 googlemapにプロットした柴崎分水流路図はこちら。 _________________________ 多摩川にかかる日野橋へと続く、立川通りの東側。根川が暗渠から姿を現す地点には3つの暗渠が合流している。その中で、中央に見える土管が柴崎分水の合流点だという。柴崎分水はここで根川に合流し終わりとなるが、その水の流れる先をしばし追ってみよう。
根川は複雑な経歴を持つ川だ。根川は、もともとは立川段丘の崖線下に湧き出る水を集め、昭島市中神付近から、多摩川に並行するように東に流れていたと思われる。そこに、明治時代中期、残堀川が接続された。玉川上水に合流していた残堀川は、水質の悪化から玉川上水に流れ込まないようにするため、上水を越えて南下する下流部の新水路が開削された。その際に立川市富士見町付近で立川段丘を下って以降、根川に流れ込むようになった。このため根川の水量は一気に増したという。その後、残堀川に由来する度重なる氾濫から、1972年には残堀川の流路が変更され、途中から多摩川にショートカットする流路がつくられた。この際、根川の下流部は上流部と切り離され短い川となってしまった。そのうえ、上流部は埋め立てられた上で小川の流れる緑道として、地下水と下水処理水の混合水が流れるせせらぎがつくられた。さらに1990年代に入って、根川緑道沿いにある立川市錦町下水処理場から混合水の10倍の水量となる無色無臭の高度処理水が流されるようになり、これにあわせて再整備され、現在の姿になったなったという。 暗渠部より下流の根川は、昭和初期に整備された土手と桜並木の名残が残っているようで、なかなか風情のある景色となっている。
根川は立川球場の北側を500mほど流れた後、多摩川に合流する。合流地点直前は川岸まで立川段丘の崖線が迫っており、貝殻坂橋という吊り橋がかかるあたりはちょっとした渓谷風になっている。橋のところで流域は立川市から国立市へと変わる。川岸ではサギが魚を狙っていた。
]BOX]
]FIG]
- [4] [CITE[渋谷川水系再訪(2)三田用水白金村分水 : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2013-07-01]], [TIME[2013-07-01]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/13276026/>
- [5] [CITE[河骨川・姿を現した参宮橋の遺構 : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2013-07-01]], [TIME[2013-07-01]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/13393914/>
- [6] [CITE[神宮前三丁目・渋谷川謎の支流 : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2013-07-01]], [TIME[2013-07-01]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/13840625/>
- [7] [CITE[笄川夕景 : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2013-07-01]], [TIME[2013-07-01]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/13926201/>
- [8] [CITE[いもり川再訪(1) : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2013-07-01]], [TIME[2013-07-01]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/14392796/>
- [9] [CITE[いもり川再訪(2) : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2013-07-01]], [TIME[2013-07-01]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/14422097/>
- [10] [CITE[柴崎分水(立川分水)(1)分水地点〜昭和記念公園まで : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2014-12-03]], [TIME[2014-12-03]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/14689959/>
- [11] [CITE[柴崎分水(立川分水)(3)奥多摩街道〜中央線付近まで : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2014-12-03]], [TIME[2014-12-03]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/14745548/>
- [12] [CITE[柴崎分水(立川分水)(4)中央線付近〜根川合流点直前まで : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2014-12-03]], [TIME[2014-12-03]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/14800279/>
- [13] [CITE[狛江暗渠ラビリンス(4)灌漑用水としての清水川 : 東京の水 2009 fragments]],
[TIME[2015-01-17]], [TIME[2015-01-17]]
<http://tokyoriver.exblog.jp/18324407/>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14]
[CITE[新宿駅 - Wikipedia]],
[TIME[2014-01-19]], [TIME[2014-01-22]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
概要__&&[&&__編集__&&]&&__
東京の副都心・新宿に位置するターミナル駅である。1885年(明治18年)に日本鉄道により現在の山手線が開業したのが当駅の始まりである。4年後の1889年(明治22年)には南豊島郡淀橋町となる。開業時から新宿を副都心にする計画が発表されるまでは当駅周辺はまだ街の外れであり利用客は少ないものだったが、大正期に入り次第に市街地が拡大するにつれ、多くの私鉄が乗り入れるようになる。ターミナルとなって周辺が発展するにつれて利用客は増え続け、1931年には私鉄や国鉄などを合わせた利用者数で日本一になった__&&[&&__1__&&]&&__。そして、1966年(昭和41年)には国鉄(現 JR)新宿駅も国鉄池袋駅を抜いて乗車人員数日本一になっている__&&[&&__2__&&]&&__。同年の当駅の乗車人員数は41万69人で、池袋駅の41万67人をわずか2人上回っての日本一だった。 さらに1960年代から当駅西側一帯で進められた新宿副都心計画によって、70年代には多くの超高層ビルが建てられ利用者の増加に拍車がかかった。
現在ではJR・私鉄・地下鉄の多くの路線が周辺地域のベッドタウンとを結んでおり、多くのビジネス客が利用する。また、当駅周辺は日本最大の繁華街・歓楽街となっており、昼夜を問わず人の流れが絶えることはない。JRの駅を中心に東・西・南口、周辺の各地下鉄駅、商業施設などが通路や地下街などで広範囲に連絡している。
一日平均乗降者数は約326万人(2011年)__&&[&&__3__&&]&&__と世界一(ギネス世界記録認定)多い駅であり、地下道などで接続する西武新宿駅まで含めると約343万人(2011年)ほどになり、この数字は横浜市の人口に匹敵する。
乗り入れ路線__&&[&&__編集__&&]&&__
JR東日本、京王電鉄、小田急電鉄、東京メトロ、東京都交通局の5社局が乗り入れるターミナル駅である。以下のうち、京王線と小田急小田原線は当駅を起点としている。
JR東日本
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は山手線と中央本線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、山手線を当駅の所属線としている。一方、当駅に乗り入れている運転系統は以下のように多岐にわたっている。また、特定都区市内制度における「東京都区内」および東京山手線内に属する。
(線路名称上の)山手線では、電車線を走行する環状線としての山手線電車のほか、山手貨物線を走行する埼京線と湘南新宿ラインが全列車停車
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]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15]
[CITE[東京の鉄道、「都会」「郊外」の境目はこの駅だ | 通勤電車 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準]],
[TIME[2016-08-08]], [TIME[2016-08-08]]
<http://toyokeizai.net/articles/-/130274?page=2>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
中央線(中野〜高尾)は、総世帯数、借家世帯数ともに立川までが高い。借家年収も立川までが400万円台、立川以降は300万円台と分かれる。新築マンションも立川までは高単価・高価格だが、日野より先は単価・価格ともに大きく低下する。つまり立川より先が郊外と考えられる。
京王線(新宿〜京王八王子・橋本)の場合、総世帯数は分倍河原まで、借家世帯数は府中まで、借家年収は中河原までが高い。一方、新築マンションは聖蹟桜ヶ丘までが単価が高い。中古マンションは聖蹟桜ヶ丘まで取引が多いが、調布以降は特急停車駅の府中を除き成約単価が低水準。これらを総合的に判断すると聖蹟桜ヶ丘から先が郊外と判断される。
小田急線(新宿〜本厚木・片瀬江ノ島)は、急行停車駅の町田・相模大野を除くと、生田以遠は借家世帯数が大幅に減る。新築マンションは生田までは単価が高いが、生田より先は急行停車以外の単価は低め。中古マンションは向ケ丘遊園を越えると急行停車駅以外の単価が低くなる。以上から、向ヶ丘遊園から先が郊外(町田、相模大野などの急行停車駅を除く)。
東急田園都市線(渋谷〜中央林間)は青葉台を除き、江田以遠で借家世帯数が低下する。借家年収は沿線全体で高く、青葉台まで500万円台を維持。新築マンション市場は長津田まで坪単価が200万円超と高い。その先は同160~170万円に低下する。中古マンション市場はあざみ野までの坪単価が高い。以上から江田以遠が郊外と判断される。
東横線に「郊外」はない
東急東横線・みなとみらい線(渋谷〜元町中華街)は沿線全体が借家率、借家年収ともに高い。新築マンションも東白楽〜横浜を除くほとんどの区間で高単価だ。中古マンションも都心から武蔵小杉にかけて成約単価は高い。渋谷と横浜という大都市同士を結んでいるという沿線の性格もあり、郊外は存在しない。
東海道線(小田原まで)・京浜東北線(横浜方面)・根岸線は、横浜まで同じ方向なのでまとめて考える。根岸線(横浜〜大船)は石川町まで総世帯数、借家世帯数いずれも高水準で山手より先で落ち込む。借家年収は沿線全体で高い。供給単価は根岸から先が低下。中古マンションは関内までの取引は活発だが、石川町以遠は落ち込む。
東京から小田原までの東海道線を見ると、茅ヶ崎までのマンション供給が活発で平塚より先は減少。供給単価は茅ヶ崎より先で低下する。中古マンション取引は藤沢を
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]FIG]
[FIG(quote)[
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[16]
[CITE[東京駅 - Wikipedia]],
[TIME[2013-12-24]], [TIME[2013-12-25]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%A7%85>
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[BOX[
東京の表玄関とも言うべきターミナル駅で、プラットホームの数は日本一多く、在来線が地上5面10線と地下4面8線の合計9面18線、新幹線が地上5面10線、地下鉄は地下1面2線を有しており、面積は東京ドーム約3.6個分に相当する。赤レンガ造りの丸の内口駅舎は辰野金吾らが設計したもので、1914年に竣工、2003年に国の重要文化財に指定されている。「関東の駅百選」認定駅でもある。
当駅にはJRの新幹線と在来線各線(後述)、東京メトロの丸ノ内線が乗り入れている。丸ノ内線の駅には「M 17」の駅番号が与えられている。また、当駅を発着するJR線と東京メトロ大手町駅間との連絡運輸は東西線のみ行われている__&&[&&__2__&&]&&__。
JRの駅に乗り入れている路線は、正式な路線名称上は、新幹線が東海道新幹線と東北新幹線の2路線、在来線が東海道本線・東北本線・総武本線・京葉線の4路線であり(詳細は路線記事および「鉄道路線の名称」を参照)、東海道本線を当駅の在来線における所属線としている__&&[&&__3__&&]&&__。管轄会社は東海道新幹線がJR東海、東北新幹線がJR東日本となっている。これら各路線はすべて当駅を起点としており、当駅構内にはこれら各線の0キロポストが設置されている。ただし旅客案内では後述の運転系統名称が使用される。「東北(本)線」は案内上では上野駅発着の長・中距離列車を意味するため、当駅では現在用いられていない。なお中央本線についてもかつては当駅が正式な起点であったが、当駅 - 神田間における東北本線との二重戸籍区間を解消するため、JRへの移行に伴い中央本線は神田駅が起点とされた。ただし、現在でも0キロポストは設置されている。
運転系統では、JR東日本の新幹線ホームには、以下の路線の列車が乗り入れている。
東北新幹線
上越新幹線 : 大宮駅から東北新幹線に乗り入れている。
長野新幹線 : 長野駅 - 高崎駅間は北陸新幹線を、高崎駅 - 大宮駅間は上越新幹線をそれぞれ走行し、大宮駅から東北新幹線に乗り入れている。
山形新幹線 : 新庄駅 - 福島駅間は奥羽本線を走行し、福島駅から東北新幹線に乗り入れている。
秋田新幹線 : 秋田駅 - 大曲駅間は奥羽本線を、大曲駅 - 盛岡駅間は田沢湖線をそれぞれ走行し、盛岡駅から東北新幹線に乗り入れている。
また在来線に関しても多岐にわたる運転系統が発着する。これらの在来線各線のうち
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[FIG(quote)[
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[17]
[CITE[奥多摩駅 - Wikipedia]],
[TIME[2014-08-02]], [TIME[2014-08-13]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%A4%9A%E6%91%A9%E9%A7%85>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
奥多摩駅(おくたまえき)は、東京都西多摩郡奥多摩町氷川にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)青梅線の駅である。
青梅線の終着駅で、東京都内でもっとも西に所在する。標高は東京タワー(海抜高351m)よりも8メートル低い343mで、東京都内にあるJRの駅の中でもっとも高い。
歴史__&&[&&__編集__&&]&&__
1944年(昭和19年)7月1日 - 運輸通信省(→運輸省→日本国有鉄道)青梅線 御嶽 - 当駅間開通と同時に氷川駅(ひかわえき)として開業。一般駅。
1952年(昭和27年)12月16日 - 東京都水道局小河内線(専用鉄道)が開通。小河内貯水池の建設資材運搬用の専用鉄道。
1957年(昭和32年)5月10日 - 東京都水道局小河内線、ダム建設竣工が間近となり、運行休止。
路線は休止後も撤去されていない。所有者は1960年代頃に西武鉄道、その後1970年代以降に奥多摩工業に移っている。
1971年(昭和46年)2月1日 - 奥多摩駅に改称。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により東日本旅客鉄道・日本貨物鉄道(JR貨物)の駅となる。
1997年(平成9年) - 「関東の駅百選」に選定。選定理由は「自然豊かな奥多摩に似合っているロッジ風の山小屋駅」。
1998年(平成10年)8月13日__&&[&&__1__&&]&&__ - 貨物列車の最終運行日。
奥多摩工業の石灰石積込設備へ専用線が続き、石灰石の輸送を行っていた。最終期の行先は、浜川崎駅にあるセメント工場であった。
1999年(平成11年)3月25日 - JR貨物の駅(貨物営業)が廃止。
2002年(平成14年)2月8日 - ICカードSuica供用開始。
2006年(平成18年)4月21日 - 奥多摩ステーションギャラリーがオープン。電車発車時の合図が発車ベルから、童謡『どんぐりころころ』の発車メロディに変更される。
駅構造__&&[&&__編集__&&]&&__
島式ホーム1面2線を有する地上駅。ホームは1番線と2番線がある。2番線の有効長は6両編成が入線可能であるが、電車とホームの隙間が大きく開く箇所があるため、平日は朝の1本のみ、土休日は「ホリデー快速おくたま」号(6両編成)と普通電車の数本、臨時列車のみが使用している。かつては2番線の奥に貨物ヤードがあり、隣接する奥多摩工業の工場から川崎方面に向かって石灰石を発送していた。また、過去には東京都水道局小河内線(現・奥多摩工
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]FIG]
[FIG(quote)[
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[18]
[CITE[昭和記念公園内を歩く: 暗渠さんぽ]],
[TIME[2009-11-09]], [TIME[2014-12-03]]
<http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2009/11/post-6d40.html>
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[BOX[
ふたたび、立川周辺です。と、いっても、このときは、たんにコスモスを鑑賞し、公園で昼ビールでも飲んで癒されよう、という目的で昭和記念公園に行きました。
そう、「今日は暗渠抜きよ」みたいなかんじで・・・。
ちなみに昭和記念公園っていうと地下シェルター説が気になりますが・・・そして中央線のここらへん、軍事萌えが活性化するエリアなんですが・・・
ふつうに公園日和を楽しんでいて(ふつうの公園日和の写真は割愛w)、そういえばここって川が流れていたな、と、川のほうへ行ってみることに。
残堀川(狭山池を水源とし、立川にて多摩川と合流する)。開渠が公園をぐるうっと通っています。ま、それはそれで。
で、ふと、川のすぐ脇に側溝が走っていることに気づきました・・・。わああ、こんなのあったんだ・・・!
見下ろすと、わりときれいな水がなみなみと流れています。ちょっと、うれしくなるほどに。 周囲の景色とあわせると、暗渠っぽいふんいきを醸し出しているのに、暗渠ともいいがたい。しかし開渠とも言いがたいぞ。なんと呼んだらいいのかな・・・そうしたら、連れのひとが、「半渠」と表現してくださるではないですか。ナイスネーミング!
ちなみに、横を流るる(はずの)残堀川はこうです。のぞきこんだら、カラッカラでした。
このカラッカラ、と、横の半渠のなみなみ、の対比が興味深すぎます。いったいなぜこんなことが・・・?半渠の水は、いったいどこから、どこへ・・・?
もう気になって仕方が無いので、追いかけてみることにしました(トイレ休憩もはさみつつw)。
途中、こうやってコンクリ蓋の終点があって、でもそれを我慢して遡ると、また出現して・・・の繰り返し。しばし黙々歩きます。
昭和記念公園、何度も来ているのに、こんな側溝知らなかった・・・当然といえば当然かもしれないけど。芝生でねころんだり、花見でどんちゃんやったり、それで帰るだけだと、この端っこをひっそり通っている流れには出会えないわけです。
突如、開渠になります。
サイクリングコースのすぐ脇だからでしょうか、とつぜん綺麗に整備されています。今までの、端っこボウボウ未整備地帯からすると、面食らうほどに。
そして、立て札が出現。 「立川分水は、1737年(元文2年)に玉川上水から水を分けました。水道施設が広まったため生活用水に使われることはなくなりましたが、現在も農業用水として利
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]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[19]
[CITE[四方津駅 - Wikipedia]],
[TIME[2015-08-17]], [TIME[2015-08-19]]
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%9B%E6%96%B9%E6%B4%A5%E9%A7%85>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
歴史
1910年 ( 明治 43年) 12月15日 - 国有鉄道 の駅として開業。旅客および貨物の取り扱いを開始。
駅から北西に2kmほどの所にある大野貯水池の建設工事の資材輸送を行うために開業した。貯水池は開業4年後の 1914年 ( 大正 3年)に完成している。
1960年 ( 昭和 35年) 4月20日 - 貨物の取り扱いを廃止。
1987年 (昭和62年) 4月1日 - 国鉄分割民営化 により、東日本旅客鉄道の駅となる。
2001年 ( 平成 13年) 11月18日 - ICカード Suica 供用開始。
2009年 (平成21年) 5月31日 - みどりの窓口 の営業を終了。
駅構造
単式ホーム 1面1線と 島式ホーム 1面2線、計2面3線の ホーム を持つ 地上駅 。 木造 駅舎を有する。ホームが嵩上げされていないので、乗・降車の際に段差が生じる。駅舎とホームおよびホーム間の移動は 跨線橋 を利用する。
上野原駅 管理の 業務委託駅 ( JR東日本ステーションサービス 委託)。 自動券売機 ・簡易 Suica 改札機が設置されている。かつては みどりの窓口 が併設されていたが、2009年5月31日で営業を終了した。
JR中央線は、 2020年度 を目途に東京 - 大月駅間のオレンジ帯で運行する列車に2階建グリーン車を2両連結させ12両編成運転を行なう。そのため当駅は、今後12両編成の列車が停車できるようにホームを延長する各種改良工事などが実施される __&&[&&__1__&&]&&__ 。
のりば
番線
路線
方向
行先
備考
1
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[FIG(quote)[
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[20]
[CITE[アイドルのメンバーが「青海」と「青梅」を間違えて公演に間に合わない事態に!「マジで間違える人いたのか」「年2回くらい見る光景」 - Togetterまとめ]],
[TIME[2016-10-03]], [TIME[2016-10-03]]
<http://togetter.com/li/1031606>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
メンバーのMEIが、青海と青梅をまちがえて、今、八王子にいます。
急いで向かっていますが❶回目のステージは間に合いません。
楽しみにしてくださっていた方、申し訳ございません。
YUKINAとKAHOで頑張りますので、応援よろしくお願い致します。
]BOX]
]FIG]
- [21] [CITE[「出身はどこ?」「岐阜」「岐阜ってどこ?北海道?」(馬鹿にされてる…)→実は高学歴トークだったのかもしれない - Togetterまとめ]],
[TIME[2016-10-15]], [TIME[2016-10-15]]
<http://togetter.com/li/1036963>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[22]
[CITE[@nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」]],
[TIME[2011-07-28]], [TIME[2013-05-24]]
<http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
「はじめて上京してきたときは、びっくりした。東京ってテレビで見るような高層ビルばかりのところだと思ってたから」という話をきいたことがある。
ぼくは東京のお隣、千葉県の出身なので、東京にもなんてことない住宅街や畑が広がっていることは知っていた。が、そういう「いかにも東京」のイメージもなんとなくわかる。
実際の行政界の「東京」と、いかにも東京だよなー、と思う「イメージ上の東京」は異なる。たとえばぼくは立川より西は東京とは思えない(立川以西の方、すみません)。
みんなが「どこまで東京と感じるか」を調べてみよう。
(大山 顕)
千葉県とはいえ日常的に東京で遊び、働いて20年あまり。もちろん行政界的にどこまでが東京かは知っている。が、どこまで東京と「感じるか」はべつだ。以下にその感じを書き下してみよう。
東側
葛西は東京じゃない
でも葛西臨海公園は東京
小岩は東京だよなー
でも金町って東京じゃない気がする
綾瀬、微妙。
北側
赤羽とか高島平とかの団地知識のおかげで実際の東京境界にけっこう忠実な自分に気がついた
でもひばりヶ丘は東京じゃない
小平も東京じゃない
西側
東京は立川まで
府中本町は東京じゃない(たぶん武蔵野線のイメージ→「埼玉に行く線」)
南側
やっぱり多摩川って言われると東京じゃない
小田急線は下北沢までが東京(!)これはこの線に関してぼくが全く疎いから。世田谷代田って、もう東京な気がしない。
でも溝の口は東京
武蔵小杉も東京な気がした。なぜだ。
そして蒲田は断固東京じゃない。
とはいえ、羽田はやっぱり東京だ
千葉っ子なので、西側のことがよくわからない。小平って何。(小平の方、すみません)
で、みんなにも「どこまで東京?」をきいてみよう、と投稿してもらってまとめるサイトを作ってみた。その名も『どこまで東京?』だ。
インターネットって素晴らしい。こういうことのために開発されたんじゃないと思うけど。
自分がやったように、みなさんに地図に線を引いてもらうのは難しいだろうと思ったので、JR私鉄各線の駅名を挙げ、何駅までを東京だと感じるかを選んでもらうやり方にした。東京の鉄道の多くは郊外に向かって放射状にのびているので、つごうがよい。こういうことのために放射状にしたわけじゃないと思うけど。
西方面は「中央線-青梅線」「京王線」「小田急線」、南西方面は「田園都市線」「東
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[23]
[CITE[武蔵境駅 - Wikipedia]],
[TIME[2013-06-22]], [TIME[2013-06-25]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%A2%83%E9%A7%85>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
連続立体交差化工事__&&[&&__編集__&&]&&__
2003年より2009年にかけて、連続立体交差化工事が施工されていた。
工事開始前の時点では、1番線が単式ホーム、2・3番線が島式ホームの計2面3線の地上駅で、橋上駅舎を有していた。工事前は共同使用駅でJR東日本の管轄駅であり、改札内を共用していた。当時は1番線が中央線東京方面、2番線が中央線高尾方面、3番線が西武多摩川線という割り当てになっていた。なお、2・3番線ホームに両社を分ける中間改札や柵などはなく、そのまま乗換が可能だった。
また、JRと西武鉄道の線路は東小金井側でつながっており、西武多摩川線車両の検査入場時および転配時はJR線を経由し機関車牽引で甲種輸送されていた。このほか、1・2番線の間にホームに接しない待避線が1本あり、西武側には側線があった。
工事開始に伴い改札口は分離され、西武側に新たに駅舎が建設された。この時点では仮設の駅舎だったため、西武の駅には自動改札機は設置されなかった。また、1番線ホームにはバスターミナル付近に抜けられる臨時改札口が設置されていたが、ホーム移設時に廃止された。
2006年11月30日から2007年6月30日までの間はJR改札口 - 南口間の経路が変更され、階段とエレベーターを上って高架部分の上を跨ぎ、そこから階段・エスカレーター・エレベーターを下りる経路となった。そのため、JR - 西武の乗り換えには約4分程度かかっていた。
2006年12月8日より、西武鉄道のホームが高架に切り替えられた。切り替え直後は新設された4番ホームのみの1面1線で暫定開業で、新たにエレベーターや発車標が設置された。2008年7月19日には3番ホームも高架化され1面2線の島式ホームが完成し、中央線との渡り線も設置された。
2007年6月30日から7月1日にかけて、JRの下り線が高架に切り替えられた。この切り替えにより、仮設の南口改札が設置され、高架下通路と上り線地平ホームの連絡路も設置された。南口・西武改札 - JR構内の移動における高架跨ぎは解消され、2番線からは階段などを一度下りるのみで、1番線からは上下移動をほとんど要さずに南口に出られるようになった。なお、従来の経路は南口 - 北口間の自由通路として残された。
2008年9月7日にはJRと西武との連絡改札口が設置された。JR側・西武側ともに乗り継ぎの精算機は設置
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[24]
[CITE[多摩ニュータウン - Wikipedia]],
[TIME[2014-05-19]], [TIME[2014-05-25]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
戦後の高度経済成長期、東京区部での深刻な住宅難にともなって地価は著しく上昇し、その結果として地価の安かった市部が急速に宅地造成されることになった__&&[&&__5__&&]&&__。しかし民間主導の無計画な開発は劣悪なスプロール化をもたらすことになる。当時は民間による違法な宅地造成が56%を占める状況で、このような乱開発を防止するとともに居住環境の良好な宅地を大量に供給することを目的として1965年(昭和40年)に多摩ニュータウンが計画された__&&[&&__6__&&]&&__。
計画決定の当初段階では、開発主体者が全区域の土地を全面買収する新住宅市街地開発事業で進められることになっていたが、1966年(昭和41年)、既存住民らの請願により土地区画整理事業区域が設けられた。そのため、街づくりの基本概念となる後述の近隣住区理論を実践するに当たり、歩行者専用道路網などが一部途切れて空間構成に矛盾を生じることになったが、他方、街の形成に自由度を残した多様性をもたらすこととなった。
多摩ニュータウンの最初の入居としては、別の開発計画として存在し、早期から買収が進んでいた公団の「聖蹟桜ヶ丘地区」が計画に組み入れられる形で、多摩ニュータウンの「諏訪・永山地区」として1971年(昭和46年)に入居が始められた__&&[&&__7__&&]&&__。この地区を中心にオイルショックまでの3年間で約8千5百戸余りもの画一的な住宅が供給され、その後種々の問題を引き起こすことになる__&&[&&__8__&&]&&__。当時はまだ鉄道は開通しておらず、住民は多摩市北部の聖蹟桜ヶ丘駅などへバスやタクシーでの移動を強いられていた__&&[&&__9__&&]&&__。乗り入れ認可を受けていた当時の京王帝都電鉄・小田急電鉄は、新線建設の費用のほか多摩ニュータウン方面からの輸送量増加に伴う在来区間の複々線化の費用が掛かるとなると、とても採算が取れないとしていて、多摩ニュータウン内の開発益を得る余地も少ないことから、国や都に用地の無償提供などを求めて建設を中断していたためである__&&[&&__10__&&]&&__。最終的には、日本鉄道建設公団が私鉄事業者の鉄道施設を建設し、完成後に25年の割賦で事業者に譲渡するという方策がとられることとなり、小田急線が1974年(昭和49年)6月に小田急永山駅まで、続いて京王線が同年10月に京王多摩センター駅まで開通し、小田急も翌1975年(昭和50年)に小田急多摩センター駅まで開通した。
1974年(昭和49年)のオイルショックでは社会情勢が大
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[25]
[CITE[@nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」]],
[TIME[2011-07-28]], [TIME[2013-05-24]]
<http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/4.htm>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
とりあえず、薄目で見て、多数決ではここらへんが現時点での「ここ東」かなー、というところに線を引いてみた。ぼくの視力と主観によって。えいっ、と。
で、線引いてみてから、それがどこに位置しているかを見てみた。
中央線→吉祥寺
京王線→千歳烏山
小田急線→成城学園前
田園都市線→用賀
東横線→多摩川
東海道線→蒲田
京葉線→新木場
総武線→亀戸
常磐線→亀有
伊勢崎線→北千住
京浜東北線→赤羽
東上線→下赤塚
池袋線→大泉学園
おお!なんかこれまでまとめてきて抱いている感触といい感じで一致している。
一致してるけど、これじゃあまりにもてきとうなので、ちゃんと集計してみよう。がんばろう。
まずは中央線から。
]BOX]
]FIG]
- [26] [CITE[@nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」]],
[TIME[2011-07-28]], [TIME[2013-05-24]]
<http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/2.htm>
- [27] [CITE[@nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」]],
[TIME[2011-07-28]], [TIME[2013-05-24]]
<http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/3.htm>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[28]
[CITE[奥多摩工業を巡る鉄道たち]],
[TIME[2012-12-09]], [TIME[2014-08-11]]
<http://hkuma.com/rail/okutetsu02.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
- 石灰石列車 -
「青梅線 石より人が 安く見え」
これはその昔沿線で詠まれた川柳だそうですが、石灰石輸送が主目的で建設された青梅線の性格を良く現している名句ですね。
その青梅線を支えて来た石灰石の採掘現場は、鉱床の枯渇と共に日向和田、二俣尾と奥地へ移動して行き、その後日原が主産地となりました。
これを、鉱山開設期から一貫して運び出す役割を果たして来たのが、青梅線の石灰石輸送列車です。
最盛期には ED16機関車が 16~18両編成のホキを連ね、日に 9本もの列車が立川を経て浜川崎へと向かっていましたが、当時南武線にはまだ単線区間も多く線路容量が足りないため、一部は新宿を経由して山手貨物線ルートでも運び出されていました。
そんな中1967年、新宿駅構内でこの貨物列車と米軍燃料輸送のタンク車が衝突し、炎上するという事故も発生しました。
それが契機になったのかも知れませんが、奥多摩からの石灰石輸送は翌年より青梅線+南武線に一本化され、以後石灰石ルートとして定着する事になったのです。
ところが近年、氷川鉱山の地盤崩落により今後の大規模な採掘は見込めなくなり、奥多摩山中からの石灰石搬出は北海道・上磯へとシフトし、大幅にその規模を縮小する事態となりました。
また、沿線の宅地化も急速に進んで貨物列車が旅客輸送に支障をきたすようになり、これらに連動する形で列車での石灰石輸送は中止される事となったのです。
それは 1998年8月13日。過去にお別れ列車の類を見送りに行ったという経験のあまりない私は、その日も特段行動を起こす予定はしていませんでした。
もちろん数ヶ月前からこの日の来るのはわかっており心残りな気持ちは持っていましたが、あまりにも日常に溶け込み過ぎていたその風景がある日を境になくなってしまう事が、実感としてわかなかったのです。
また日を追って沿線に繰り出して来る俄かファンの姿に、我ながら勝手ですが地元民の立場で少々辟易していたという気持ちも多少あったかも知れません。
しかしその時刻が近づくにつれ私は落ち着きを無くし、「ちょっと出て来る」と家人に言い残して結局いそいそと出掛けました。
車を走らせ急ぎ線路端に到着してみると、既にたくさんの人達がフェンスに沿って並んでいます。
報道陣やいわゆる鉄道マニアと見られる人々も多かったようですが、家族連れなど地元の住民も結構な数がお別
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[CITE[平山城址・絹の道散歩 - 時空散歩]],
[TIME[2015-04-01]], [TIME[2015-04-03]]
<http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2009/09/post-63.html>
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先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。 そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。 行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。
本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅 平山城址公園駅 平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。 さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。
宗印寺から丘陵に上る が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。 お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とり
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[CITE[八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩]],
[TIME[2015-09-07]], [TIME[2015-09-10]]
<http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html>
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八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る
八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。
その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。
で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。
搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。
本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅
JR高尾駅
集合
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[CITE[八高線 - Wikipedia]],
[TIME[2016-07-08]], [TIME[2016-07-14]]
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%AB%98%E7%B7%9A>
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[BOX[
八王子駅 - 高麗川駅間 __&&[&&__ 編集 __&&]&&__
中央本線 上りホームの反対側1番線から 八王子駅 を発車すると、右手に 横浜線 が分岐し 京王線 を跨ぐ。左へカーブし中央本線から分かれ、 浅川 を渡り、 国道16号 ( 八王子バイパス )を跨いで勾配を上っていく。 国道20号 (甲州街道)を潜って巨大な倉庫や工場の林立する 北八王子駅 に到着する。北八王子を発車すると勾配を下り、 中央自動車道 を潜ると間もなく 小宮駅 に到着し、勾配を下りながら 1945年 に 八高線列車正面衝突事故 のあった 多摩川橋梁 にかかる。多摩川両岸に向き合う 東京都下水道局 の二つの 下水処理場 を右手に見ながら鉄橋を渡ってしばらく直線に進むと 青梅線 を跨ぎ、青梅 電留線 、 米軍横田基地線 、 保線 基地などを大きく抱き込む形で左にカーブし、右手から 西武 拝島線 が寄り添ってきて 拝島駅 に到着する。
拝島駅を出るとすぐ国道16号の武蔵野橋を、 五日市線 、青梅線とともにくぐり、両線を左に分けながら住宅街の間のゆるい勾配を直線で上り、 東福生駅 に到着。東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の路線は 横田基地 拡張にともない付け替えられたが、基地を完全に迂回したわけではなく、駅を出るとしばらく基地内の住宅やスーパーマーケットの間を走る。基地内を出て右に並行していた国道16号が、 瑞穂バイパス となり下をくぐって左に分かれていくと、コンクリート壁の間を抜ける。この部分は 滑走路 からすぐの延長線上にあり、未電化時代は トンネル となっていた部分である。これは昔、 飛行機 からの部品落下などが時おりあったためだが、飛行機の安全性向上もあり、電化の際に 架線 を張る邪魔になるため上部が取り壊された。 新青梅街道 を跨いですぐに、 箱根ケ崎駅 に到着。箱根ケ崎駅は拝島方面からの折り返し列車もある。以前は待避線もあったが撤去された。
箱根ケ崎駅を出ると、かつては本線の右側を複線のように貨物線が並走していた。撤去された現在は草に覆れ面影が乏しい。ゆるい登り勾配を進むと、瑞穂バイパスの跨線橋をくぐる。ここで、八王子駅から当線の左右を並行して走ってきた国道16号と一旦別れ、 川越市 までは、当線と 川越線 とは全く別ルートを走る。 埼玉県 入間市 に入り、 狭山茶 の 茶畑 の中を走り標高158メートルの八高線最高
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[CITE[石神井川 - Wikipedia]],
[TIME[2013-06-02]], [TIME[2013-06-17]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%B7%9D>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
地理 __&&[&&__編集__&&]&&__
東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する。東京都小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区の各自治体を経る。
小平市花小金井南町の小金井カントリー倶楽部西側付近に源を発している。かつての源流はさらに西に遡っていた(後述)。同ゴルフ場内を大部分暗渠で流れ、嘉悦大学の南側で開渠の川になる。同大裏門から小金井公園通りまで蓋がけされた後、小金井公園沿いは柵渠となる。西東京市の南を流れ、練馬区に入る__&&[&&__2__&&]&&__。西東京市では、1980年度に芝久保調整池および南町調整池、1983年度に向台調整池が設けられ、増水時に川の水を貯留する__&&[&&__3__&&]&&__。小平市・西東京市に含まれる上流部は湧水のみによって涵養される小河川であり、流量は少ない。
練馬区に入ると、武蔵関公園の富士見池、石神井公園の三宝寺池、豊島園池などの湧水や河床からの湧水を合わせ、流量を増してくる。現在、富士見池や三宝寺池は湧水が減少し、地下水の揚水などによって池の水が維持されている。三宝寺池と石神井池は石神井川に接続していないが、富士見池はわずかな溢水が石神井川に流入している。富士見池は調整池の役割も果たしている__&&[&&__2__&&]&&__。水害防止のため、富士見池調整池(練馬区関町北三丁目)が1973年度に建設された__&&[&&__3__&&]&&__。
城北中央公園で板橋区に入り、桜川一丁目で田柄川を合わせて、川越街道、東武東上線、中山道を横断し、JR埼京線を潜って北区に入る。その後、王子駅の下を抜けて北区堀船三丁目で隅田川に注ぐ。石神井川は金沢橋付近(埼京線の上流約200m)から音無橋にかけて音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていた。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっていて、屈曲部の直線化や飛鳥山隧道建設などの改修によって流路も大きく変わっている。直線化の結果残った旧流路の一部は、氷川町つりぼり公園、音無もみじ緑地、音無さくら緑地などとして整備されている。
変遷 __&&[&&__編集__&&]&&__
上流域(小平市、小金井市、西東京市) __&&[&&__編集__&&]&&__
水源
現在は小平市花小金井南町にある小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、一級河川起点は「左岸:小平市花小金井南町三丁目1218番地先、右岸:同市同町三丁目1217番地先」__&&[&&__4__&&]&&__(住居表示では「小平市花小金井南町三丁目2番地先」__&&[&&__1__&&]&&__)である。かつてはさらに西に遡り、小平市鈴木町
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[CITE[江東区 - Wikipedia]],
[TIME[2013-08-17]], [TIME[2013-08-21]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%B1%E5%8C%BA>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
昼夜間人口__&&[&&__編集__&&]&&__
2005年に夜間人口(居住者)は420,827人であるが、区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は490,708人で昼は夜の1.166倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』平成20年発行126,127ページ 国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め、昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)
地理__&&[&&__編集__&&]&&__
河川
隣接する自治体
中央区、港区、墨田区、品川区、大田区、江戸川区
※ 隣接する自治体とはすべて陸続きでもある。
地勢__&&[&&__編集__&&]&&__
かつて地下水の汲み上げにより地盤沈下したことで、区の大部分がゼロメートル地帯となっている。また、運河と橋が多く、区では“水彩都市”と呼んでいる。道路と水路が連なって作られており、住宅地のそばを船が行き交うことも多い。区内には東京都から副都心に指定されている臨海副都心と錦糸町・亀戸副都心があり、二つの副都心を包括している。この事もあり、区内には観光客や会社員も多くやって来る。
臨海副都心は品川区・港区にも跨っているが、実際には江東区が大部分を占めており、近年__&&[&&__いつ?__&&]&&__急速に開発が進められた新興開発地域であり、街の景観は非常に近代的である。 錦糸町・亀戸副都心のほうは昔からあった大繁華街で、古くから下町として栄えた。1990年代後半から、東京の新スポットとしても急速に開けており、下町情緒と近代的な再開発地域の同居する街並みへと変貌した。臨海副都心部には埋立地が多く、ゴミ埋立て「東京ゴミ戦争」で有名な夢の島や青海、有明などは観光地区としても賑わっている。 また、臨海部にある湾岸地域は港区、江戸川区と海岸線を連ねてつながっており、台場や東京ディズニーリゾートへの交通の便が良い。なお、東日本大震災の際に、一部液状化した地区もあり、団地が浮き上がったり、道路など地面が沈み込んだ地区もあるが、2013年現在、簡易な補修または放置されている場所もある。
面積は39.94km²だが、この数字には大田区と帰属係争中の中央防波堤地区は含んでいない。
自然環境__&&[&&__編集__&&]&&__
区の臨海方面にあるかつてのゴミ埋立地である夢の島一帯は大規模な公園が作られ、市街開発にあたって並木や草木が大量に植えられ、東
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[CITE[船橋駅 - Wikipedia]],
[TIME[2013-08-26]], [TIME[2013-08-28]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E6%A9%8B%E9%A7%85>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
この項目では、東日本旅客鉄道(JR東日本)、東武鉄道の船橋駅について説明しています。
隣接する京成電鉄の駅については「京成船橋駅」をご覧ください。
東京都世田谷区にある小田急電鉄の駅については「千歳船橋駅」をご覧ください。
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[CITE[大阪の梅田が近未来都市になってる件 : あじゃじゃしたー]],
[TIME[2013-09-05]], [TIME[2013-09-05]]
<http://blog.livedoor.jp/chihhylove/archives/7910892.html>
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1: 以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします 2013/06/06(木) 08:37:00.81 ID:pCAqcDc40
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[36]
[CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/>
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町田市は神奈川県だと勘違いする人もいるが、東京都だ。東急田園都市線「すずかけ台」駅の近くに境界を示す看板があった。看板の手前は神奈川県横浜市緑区
大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。
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[37]
[CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=2>
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移管を決めた「東京府神奈川県境域変更ニ関スル法律案」には、神奈川県知事も不便を感じている、という記述があった(国立公文書館所蔵)
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- [38] [CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=3>
- [39] [CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=4>
[FIG(quote)[
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[40]
[CITE[秋葉原 - Wikipedia]],
[TIME[2013-09-10]], [TIME[2013-09-11]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
概要__&&[&&__編集__&&]&&__
第二次世界大戦後の日本において、高度経済成長とともに多様な電子機器や部品(ハードウェア)およびソフトウェアを取り扱う店舗が建ち並ぶ世界有数の電気街として発展した。世界的な観光地の顔も有する。秋葉(あきば)・アキバ・AKIBAの略称で呼ばれる。
当初はジャンク品の商店とそこから発展した家電量販店が中心の電気街だったが、高度経済成長を経て音楽ブームを背景としてレコードやCDを取り扱う専門店が軒を連ね、その後は電子ゲームブームの到来とともにゲームショップが繁盛した。この電子ゲームブームが本格化すると仮想空間を嗜好する需要に着眼したホビーショップやアニメショップも建ち並ぶようになった。近年では都市再開発により秋葉原駅を中心に多くの複合ビルが建設され、訪れる年齢・客層も様々になっている。
地理__&&[&&__編集__&&]&&__
秋葉原と呼称される区域の明確な定義はないが、東京都が策定した都心等拠点地区における秋葉原地区の範囲は、東は昭和通り、西は昌平橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通りに囲まれた区域、すなわち東京都千代田区外神田一丁目・外神田三丁目・外神田四丁目・神田佐久間町一丁目・神田花岡町・神田相生町・神田練塀町・神田松永町・台東区秋葉原を指す__&&[&&__1__&&]&&__。秋葉原電気街とサブカルチャー関連の店舗は主にJR秋葉原駅周辺および中央通りの万世橋北詰から東京メトロ銀座線末広町駅のある外神田五丁目交差点までを中心に広がっている。
JR秋葉原駅には東西に総武線、南北に山手線・京浜東北線(東北本線)が通り、東京メトロ日比谷線秋葉原駅やつくばエクスプレス秋葉原駅とも接続するターミナル駅として多くの人に利用されている。住居表示では電気街口前が外神田一丁目、その北の中央通り東側が外神田四丁目、西側が外神田三丁目となっている。
秋葉原電気街の外側は主にオフィス街だが、古くから建っている民家も見ることができる。前述のように鉄道各線の駅が近く、都心の一等地として地価・家賃ともに高価になる傾向がある。
歴史__&&[&&__編集__&&]&&__
前史__&&[&&__編集__&&]&&__
現在でいう秋葉原にあたる地域は、徳川家康入国後、神田川が現在の流路を通るように開削されると、川沿いに材木商が集まり、神田佐久間町が起立したほか、大部分は大名屋敷・旗本屋敷などで占められた。しかし、江戸の人口が拡大するにつれ、大名や旗本は大火等を契機に次々に郊外へ移転し、跡地にはより中心の町民が
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[CITE[大津の大観覧車「イーゴス108」がラストラン-びわ湖からベトナムへ - びわ湖大津経済新聞]],
[TIME[2013-09-12]], [TIME[2013-09-12]]
<http://biwako-otsu.keizai.biz/headline/908/>
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かつて世界一の高さを誇った高さ108メートルの大観覧車「イーゴス108」。雨上がりの空に映える虹色のゴンドラから琵琶湖大橋(左下)を望む
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2001年に閉園した遊園地「びわ湖タワー」跡地(大津市今堅田)に現在もそのままになっている大観覧車「イーゴス108」がベトナムへ売却されることとなり、9月4日、営業時と同じ1周15分ペースでの最終稼働を終えた。
イーゴス108を「娘を嫁にやる思い」と話す前田元社長
1992年4月26日の完成当時、高さ108メートルで世界最大級を誇った。「すごーい」を逆さに読んだネーミングも話題を呼んだ。園内には長蛇の列がとぐろを巻き、6人乗り64基のゴンドラが満杯で、1日最高1万3500人を乗せたこともあった。
同観覧車が点検も兼ねた最後の稼働を始めた途端、空からは大粒の涙のような雨が降り出した。「閉園後も月1回は稼働させてきたが、海と違い塩分を含まないびわ湖のほとりで、比良山から吹き下ろすイオンの風も功を奏し、閉園から21年たっても動かすことができた。まさに娘を嫁にやる親心。ベトナムでも再び多くの人を乗せて喜ばせてほしい」と前田茂元社長。嫁ぎ先のベトナムの会社の要請を受けて来日しているドイツ人技師でプロジェクトマネジャーのアルフレッド・ルーベルグさんも「さびもサンドで拭いて補修するが、強度に問題はなく部品もすべて使う。頑丈なので観覧車として絶対大丈夫」と太鼓判を押す。
閉園後、メンテナンスに携わってきた小林電気商会の小林正義社長は「先代から21年間、この観覧車を見守ってきた。びわ湖のシンボルがなくなってしまうのは寂しいが再び活躍することを期待する」と観覧車を見上げる。観覧車のラストランを見届けようと駆け付けた大津市役所真野支所長の岡本光夫さんは「通勤で観覧車を毎日見てきた。風景とともに残しておきたいと昨年から1000枚以上の写真を撮りためてきた。みんなが観覧車との思い出を持っているからこそ喪失感は大きい。ベトナムまで追いかけて見に行きたい」と寂しげに話していた。
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[FIG(quote)[
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[CITE[千葉駅 - Wikipedia]],
[TIME[2013-09-29]], [TIME[2013-09-30]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E9%A7%85>
]FIGCAPTION]
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[BOX[
概要__&&[&&__編集__&&]&&__
千葉県の県庁所在地・千葉市の中心駅である。東京都心方面からの緩急分離運転区間の終点であり、千葉県内各地へ向かう各路線が集結するジャンクションでもある。千葉市内を走る千葉都市モノレールも乗り入れており、千葉県内最大のターミナル駅となっている。
乗り入れ路線__&&[&&__編集__&&]&&__
JR東日本の駅に乗り入れている路線は、線路名称上は総武本線と外房線の2路線であり、このうち総武本線を当駅の所属線とし__&&[&&__1__&&]&&__、外房線は当駅を起点としている。一方、当駅に乗り入れる運転系統は多岐にわたる。
総武本線は当駅から東京方面は錦糸町駅までが複々線となっており、快速線を走行する総武快速線、緩行線を走行する中央・総武線各駅停車がそれぞれ運転されている。総武快速線は一部列車が後述の各線へ直通しているが、中央・総武線各駅停車は当駅を運転系統の起終点としている。
房総地区各地への路線は次の4系統が発着する。
内房線 : 房総半島の東京湾側を経由する。正式には当駅 - 蘇我駅間は外房線への乗り入れ区間。
外房線 : 房総半島の太平洋側を経由する。大網駅から東金線に乗り入れる列車も発着する。
総武本線 : 当駅から東進し、成東駅経由で千葉県最東端の市である銚子まで伸びる。
成田線 : 成田駅経由で銚子まで伸びる。正式には当駅 - 佐倉駅間と松岸駅 - 銚子駅間は総武本線への乗り入れ区間。成田駅から成田空港駅へ向かう列車、香取駅から鹿島線へ直通する列車も発着する。
千葉都市モノレールの駅は1号線と、当駅を起点とする2号線の乗換駅となっている。モノレール同士の乗換駅は日本国内では当駅と大阪モノレールの万博記念公園駅のみである。
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[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[43]
[CITE[武蔵小杉 - Wikipedia]],
[TIME[2013-12-03]], [TIME[2013-12-11]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5%E5%B0%8F%E6%9D%89>
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武蔵小杉(むさしこすぎ)は、神奈川県川崎市の武蔵小杉駅を中心とした地域の通称である。
中原区の区役所が置かれ、同区における行政及び商業の中心地区となっている。地域の住所表記は小杉町を中心に、周辺の小杉陣屋町、小杉御殿町、新丸子町、新丸子東、中丸子、下沼部、市ノ坪などが含まれる。
概要__&&[&&__編集__&&]&&__
地域はおおむね国道409号・JR南武線・東急東横線に囲まれた地区が商業等施設の集積地、周囲は住宅地となっており、多摩川河川敷、等々力緑地、二ヶ領用水、中原平和公園、中原平和館などの施設もある。商業では、地元の法政通り商店街以外にも、大規模なスーパー(イトーヨーカドー、マルエツ、東急ストア、フーディアム、デリド)などがある。
江戸時代、この付近には中原街道の小杉宿が置かれていた。近代になると、多摩川の川べりである武蔵小杉一帯は工場や横浜正金銀行の大規模なグランドなどが立地し、かつての駅名は東京横浜電鉄では「工業都市」、南武鉄道では「グラウンド前」である。一方太平洋戦争以前、この一帯で商業の中心として栄えていたのは、中原街道に近い新丸子駅周辺であった。
後に__&&[&&__いつ?__&&]&&__日本電気(NEC)玉川事業場やキヤノン小杉事業所がおかれ、武蔵中原駅近隣には富士通本店・川崎工場があることから、関連企業も南武線以北にあるビルに事業所を多く構えるようになった。
2010年3月には、それまで通過していたJR横須賀線に駅が新設され、南武線との乗換連絡通路も設置された。鉄道網は今後、東急東横線(目黒線)は東京メトロ副都心線や西武池袋線(西武有楽町線経由)、東武東上線、相鉄本線(相鉄いずみ野線)との直通運転が予定され、川崎縦貫高速鉄道(川崎市営地下鉄)の乗り入れ計画もあるなど、更なる整備が見込まれている。
武蔵小杉では2011年までの10年間に7,431戸の新築マンションが供給されたが、これは首都圏の駅別に見たランキングでは川崎(7,803戸)、豊洲(7,620戸)に次ぐ第3位であった__&&[&&__1__&&]&&__。これは鉄道網の整備に加え、NECなどの工場跡地の開発がマンションの大量供給に繋がった結果であり、武蔵小杉では今後も高層マンションや商業施設建設が予定されている__&&[&&__1__&&]&&__。
地区構成__&&[&&__編集__&&]&&__
東西方向に走るJR南武線と南北方向に走る東急東横線・目黒線が十字に交差しており、十字に4分割される地区ごとで違った性格を持っている。
北
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[CITE[大須演芸場 - Wikipedia]],
[TIME[2014-02-03]], [TIME[2014-02-04]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%A0%88%E6%BC%94%E8%8A%B8%E5%A0%B4>
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概要__&&[&&__編集__&&]&&__
前身は戦前から同地にあった中規模劇場だった『港座』であり、東京の有名喜劇劇団の公演が催されていた。
1962年に木造2階建ての建物としてつくられ、その3年後から演芸場になった。当時は、大須二十館と言われるほどに多数の演芸場が存在していたが、現在残るのはここのみである。名古屋に限らず中京地区唯一の寄席で、落語・漫才・手品などの演芸や、年2回のロック歌舞伎スーパー一座による公演が行われている。他、大須大道町人祭の会場としても使われている。一時神戸の樋口興行部が経営をしていた。その後樋口君子が席亭になる。
過去何度も閉鎖の危機に直面しながらも、その度に篤志家や支援者たちから救いの手が差し伸べられて延命し、「奇跡の寄席」と呼ばれる。その中にはミヤコ蝶々、古今亭志ん朝といった東西の大物がおり、劇場のためだけに独演会を開いている。芸で立つゆえ、金で動くのが決まりの社会で奇跡と呼べるこの偉業は芸能史に名高い。
席亭は1973年より足立秀夫。専属芸人の営業斡旋(「出張演芸」と称す)や席亭自らの講演料等によって、興行収入の減少を補っている。足立の著書『え〜泣き笑いを一席… -- 大須演芸場涙の20年』(1993年10月 郷土出版社 ISBN 4-87670-055-9)にそのあたりの事情が詳しく語られている。
2007年6月、テレビ番組『さまぁ〜ずげりらっパ』の企画でその窮状を知った落語家の笑福亭鶴瓶(過去、大須演芸場への出演歴あり)が無報酬で公演を引き受け、売り上げ金は施設の改修などに費やされた。
漫才コンビのB&Bが1972年にここで初舞台を踏んだ。またツービートはこの大須演芸場からの出演依頼がきっかけとなって誕生した。当初はビートきよしが他の相方とコンビを組んで出演する予定だったが立ち消えとなり、急遽誘ったのがビートたけしである。ビートたけしは現在でも下積み時代に大須演芸場で経験した思い出話を語ることが多い。(詳細はツービートの該当記事を参照)
楽屋化粧前の台の裏側には1975年に書かれたであろう明石家さんまの落書き(サイン)があり、そこには「今日も客なし 明日は?」と書かれている。
歴史__&&[&&__編集__&&]&&__
1965年8月 - 開場。
1973年8月 - 席亭交代。
1978年 - リストラ実施。従業員は席亭のみとなり、出演者に対する出演料に東京同様「割」制度を導入。その後
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[CITE[首都圏の主要道路の変遷メモ]],
[TIME[2014-03-09]], [TIME[2014-03-10]]
<http://anond.hatelabo.jp/20140309230249>
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■首都圏の主要道路の変遷メモ
明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。
■今昔マップ on the web 首都圏編
で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。
なお、情報源はこの今昔マップが主で、一部ウィキペディアからの情報で補足しているが、事実と異なる記述があったらご容赦。
自分の興味地域は、東京南部~神奈川なので、以下はそのエリアについてのみ。
【おもな放射道路編】
東海道(国道1号・15号)
日本橋~品川区間。
1900ごろ時点で現在の国道15号と同じルート。市電も敷設されていた。八ツ山橋が現在の道路形状になったのは1960ごろ。
品川~横浜間。
京急本線が1900ごろ時点ですでに敷設されているが、道路は現在の旧東海道のみ。
六郷橋は1900ごろ時点ですでに架橋されていた。
現在の国道15号品川~大森町駅間が開通したのが1930ごろ。川崎~新子安区間は1920ごろ。
横浜~平塚。1900ごろ時点で、おおよそ現在の旧東海道あるいは東海道に沿ったルート。
1900ごろ時点で、現在の横浜駅付近は鉄道以外は海で、当時の横浜駅は現在の桜木町駅付近にあった。
生麦~保土ヶ谷区間は、1930ごろには現在のルートになり、当時市電が走っていた。横浜駅も現在の位置へ移動。
狩場IC付近が現在のルートになったのは1960ごろ。
藤沢バイパス開通は1960ごろで、それまでは神奈川県道30号および藤沢本町駅付近を通るルートだった。
平塚駅付近の現ルートができたのは1960ごろで、それまでは旧道ルート。(現ルートの国道指定はタイミング遅れて1980ごろ?)
なお、1900ごろ時点で、浜離宮~平和島駅間は現在の山手線・京急本線がほぼ海岸線で、以東はその後の埋立地である。
現在の国道1号日本橋~横浜駅間について
日本橋~五反田間は、中原街道の原型として1900時点でおおよそ既にあった。
三田~高輪台駅区間は、1900ごろ時点では細い道しかなく、1930ごろまでにかけて大きな道として開通した。
ちなみに、三田慶應のT字路ができたのが1940ごろ、白金高輪駅から古川橋方面の区間が開通したのが1960ごろ。
なお、日本橋~札の辻と魚藍坂~五反田には市電が走っていた。
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