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995
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997
998
999
1000
[1]
[[江戸時代]]末期から[[明治時代]]初期にかけ、
西洋式[[日時制度]]の影響を受け、
日本の[[日時制度]]には大きな変革がもたらされました。
[SEE[ 現行制度については[[日本の暦]]、[[日本の標準時]] ]]
* 洋学
;;
[59]
[[江戸時代]]、
[[欧州]]との交流は[[和蘭]]に限定され、
直接的接触も一部の役人や商人にのみ許されていましたが、
西洋文化は少しずつ取り入れられていきました。
[60]
[TIME[文化4(1807)年][year:1807]]、
[[仙台藩]]の[[大番士]]の[[遠藤[RUBY[曰人][わつじん]]][遠藤曰人]]は、
[CITE[誰彼集]]
を出版しました。
[CSECTION[夕暮集蘭序]]
として、
[[アルファベット]]の影響を受けた奇抜な書体、奇抜な表記の文章を掲載しました。
そこには、
「文化[RUBYB[4][四]]年[RUBY[Herfst][ヘルフスト]]」 ([[左横書き]])
とありました ([[Herfst]] = [[秋]] ([[オランダ語]]))。
[SRC[[CITE[[[横書き登場]]]] p.34]]
[[左横書き]]や[[アルファベット]]を利用した早い例として知られますが、
この時代にはまだ一般的な表記とはなりませんでした。
[[日付]]表記としては、
[[アラビア数字]]を用いたことが注目されます。
;; [61]
<http://eichi.library.pref.miyagi.jp/eichi/detail/3-60373-0>
とみられますが、
[[Web]] では公開されていません。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[70] [CITE@ja[[[オランダ正月]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-12-14 01:27:44 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E6%AD%A3%E6%9C%88>
]FIGCAPTION]
> ただし、当時使用されていた寛政暦などの太陰太陽暦と西洋のグレゴリオ暦とのずれは毎年異なっていたため、便宜上、翌年以降は冬至(太陽暦では毎年ほぼ同じ日であり、太陽太陰暦の計算にも使用される)から数えて第11日目にオランダ正月の賀宴を開催するのが恒例となった。
]FIG]
* 京都暦
[55]
[[旧暦]]は、
元々[[支那]]のものをそのまま使っていましたが、
[[江戸時代]]に[[日本]]独自の[[暦法]]が開発され、
[[日本]]の[[経度]]に合わせて計算されるようになりました。
[[貞享暦]]、[[宝暦暦]]、[[寛政曆]]、[[天保暦]]は[[京都]]の[[経度]]、
[[時刻]]を使っていました。
[32]
[[渋川春海]]は、
はじめ[[授時暦]]採用を働きかけましたが、
失敗しました。
渋川は[[里差]] ([[経度差]])
がずれの原因と気付き、
[[大和暦]]を完成させました。
[TIME[貞享元(1684)年][year:1684]]3月、
[[日本政府]] ([[朝廷]])
は[[大統暦]]の採用を決定しましたが、
渋川は[[里差]]問題を指摘し、
[[大統暦]]ではなく[[大和暦]]改め[[貞享暦]]へと[[改暦]]されることになりました。
[SRC[>>31]]
[33]
渋川は、
[[マテオリッチ]]の世界図
([CITE[坤輿万国全図]]、
[TIME[1602年][year:1602]]成立)
に基づき、
[[北京]]と[[京都]]の[[里差]]を
15度としました。
[SRC[>>31]]
[37]
[TIME[1800年][year:1800]]頃、
[[伊能忠敬]]は全国測量を行い、
[[経度]]の測定も試みました。
[34]
[[高橋至時]]は、
その
[CITE[[RUBY[暗入利亜][あんげりあ]]暦考]]
によると、
[[カラッパ暦]]を参照したり、
[[英国航海暦]]から計算したりと、
大変苦労して[[里差]]測定を試みました。
[TIME[享和2(1802)年][year:1802]]、
[[ロンドン]]・[[京都]]間を [TZ[+09:03]] としました。
[TIME[享和3(1803)年][year:1803]]、
[[ロンドン]]・[[京都]]間を [TZ[+09:01:30]] としました。
[SRC[>>31]]
[35]
[[渋川景佑]]の[CITE[新巧暦書]]
[WEAK[([TIME[文政9(1826)年][year:1826]]成立)]]
の序は、
[[パリ]]・[[京都]]間を8時54分27秒、
[[グリニジ]]・[[パリ]]間を9分16秒 ([[ラランデ]]の値)、
従って [TZ[+09:03:43]]
としました。
[SRC[>>31]]
[36]
[[ロシア人]]の[[クルーゼンシュテルン]]
[WEAK[([[長崎]]に来航)]]
は、
[TZ[+09:02:40]]
([ASIS[[LON[134.40E]]][>>31 ママ]])
としました。
[[シーボルト]]は[[日本]]から持ち出した[[伊能忠敬]]日本図にこの値を使いました。
[SRC[>>31]]
[27]
[[江戸幕府]]の[[天文方]]の[[渋川]]家は[TIME[嘉永七甲寅歳 (= 安政元年)][year:1854]]
から
[CITE[万国普通暦]]として[[旧暦]]、[[グレゴリオ暦]]、
[[ユリウス暦]]の対照表を毎年発行していました。
[SEE[ [[万国普通暦]] ]]
[28] [[朔望]]や[[二十四節気]]などについて、
[[日本]]の[[京都]]の[[平時]]と、
[[グレゴリオ平時]] ([[旧天文時]]) が併記されていました。
[29] [[京都]]は [TZ[+09:03:43]] としていました。
[30] [[時刻]]は[[24時間制]]で記述されました。
[[分]]と[[秒]]は[[漢数字]]2桁、
[[時]]は「初」(= 0) または「一」から「二三」の[[漢数字]]で表されました。
[FIG(railroad)[
= [VAR[時]]
= [CODE[時]]
= [VAR[数]]
= [CODE[分]]
= [VAR[数]]
= [CODE[秒]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [VAR[時]]
= |
== [CODE[初]]
== [VAR[一-九]]
== [CODE[一〇]]
== =
=== [CODE[一]]
=== [VAR[一-九]]
== [CODE[二〇]]
== [CODE[二一]]
== [CODE[二二]]
== [CODE[二三]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [VAR[数]]
= |
== [CODE[〇]]
== [CODE[一]]
== [CODE[二]]
== [CODE[三]]
== [CODE[四]]
== [CODE[五]]
= |
== [CODE[〇]]
== [VAR[一-九]]
]FIG]
[REFS[
- [31]
[CITE[暦と時の事典]] pp.290-291 [CSECTION[[RUBY[里差][りさ]]]]
]REFS]
* 条約締結
[75] [[幕末]]、
[[日本政府]] ([[江戸幕府]])
は[[欧米諸国]]と[[条約]]を締結しました。
[[条約]]では両国の[[暦法]]・[[紀年法]]が併用されました。
[SEE[ 一般的事情は[[外交文書の紀年法]] ]]
[SEE[ 琉球の事情は[[南西諸島の日時]] ]]
[SEE[ 函館政府の事情は[[北日本の日時]] ]]
[77]
[CITE[日仏修好通商条約]]
の署名の[[日付]]は、次のようにありました。
[SRC[>>76 (5) PDF 4ページ]]
- [86] [TIME[1858-10-09]]
-- カタカナ文「一千八百五十八年十月九日 日本安政五戌午年 九月三日」
-- 漢字かな混じり文「安政五午年九月三日」
-- フランス語文
「neuf Octobre mil huit cent cinquante huit, correspondant au troisième jour du neuvième mois de la cinquième année du Nengo-Anchaï dite l’année du Cheval」
--- 日本語訳: 「年号安政の5年いわゆる馬の年の9月3日にあたる1858年10月9日」
[77]
[CITE[日仏修好通商条約]]
の第3条 [SRC[>>76 (3) PDF 7ページ]]、
第20条 [SRC[>>76 (5) PDF 3ページ]]、
第22条 [SRC[>>76 (5) PDF 4ページ]]
には、
両国が同意した期日が記載されていました。
- [78] [TIME[1859-08-15]]
-- カタカナ文「一千八百五十九年八月十五日」
-- 漢字かな混じり文「安政六未年七月十七日 [SUB[西洋紀元一千八百五十九年八月十五日]]」
-- フランス語文「15 Aout 1859」
- [79] [TIME[1860-01-01]]
-- カタカナ文「一千八百六十年正月朔日」
-- 漢字かな混じり文「午八月より凡十五ヶ月の後より [SUB[一千八百六十年一月一日]]」
-- フランス語文「premier Janvier 1860」
- [80] [TIME[1863-01-01]]
-- カタカナ文「一千八百六十三年正月朔日」
-- 漢字かな混じり文「午八月より凡五十一ヶ月の後より [SUB[一千八百六十三年一月一日]]」
-- フランス語文「1er Janvier 1863」
- [81] [TIME[1862-01-01]]
-- カタカナ文「一千八百六十二年正月朔日」
-- 漢字かな混じり文「一千八百六十二年一月一日」
-- フランス語文「premier Janvier dix huit cent soixante deux」
- [83] [TIME[1863-01-01]]
-- カタカナ文「一千八百六十三年正月朔日」
-- 漢字かな混じり文「一千八百六十三年一月一日」
-- フランス語文「premier Janvier dix huit cent soixante trois」
- [84] [TIME[1872-08-15]]
-- カタカナ文「一千八百七十二年八月十五日」
-- 漢字かな混じり文「今より凡十四ヶ年の後」
-- フランス語文「quinze Aout mil huit cent soixante douze」
- [85] [TIME[1859-08-15]]
-- カタカナ文「一千八百五十九年八月十五日」
-- 漢字かな混じり文「安政六未年七月十七日 [SUB[西洋紀元一千八百五十九年八月十五日]]」
-- フランス語文「quinze Aout dix huit cent cinquante neuf」
[87]
[CITE[日仏修好通商条約]]
に基づく
[CITE[貿易章程]]
には、
[[時間の長さ]]が次のようにありました。
[SRC[>>76 (5) PDF 6ページ]]
- [88] 48時間
-- カタカナ文「四十八トキ [SUB[ニツポンノニジフシトキニアタル]]」
-- 漢字かな混じり文「第二十四時中 [SUB[佛蘭西の四十八時]]」
- [89] 24時間
-- カタカナ文「二十四トキ [SUB[ニツポンノジフニトキニアタル]]」
-- 漢字かな混じり文「十二時 [SUB[佛蘭西の二十四時]]」
- [90] (日曜日を除き)
-- カタカナ文「「ニチエウビヲ ノゾキ」」
-- 漢字かな混じり文「[SUB[但日曜日を除く]]」
;;
[91]
[CITE[日仏修好通商条約]]
には[[漢字かな混じり]]版、
[[カタカナ]]版、
[[フランス語]]版、
[[オランダ語]]版があり、
相違ある場合は[[オランダ語]]版によるとされていました。
[REFS[
- [76] [CITE[[[日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過 ~日仏外交・通商交渉の草創期~]]]]
]REFS]
* 歌川国芳のオーパーツ
[111]
[[日本]]の[[江戸時代]]の画家[RUBYB[[[歌川国芳]]][[TIME[1797][kyuureki:1797-11-15]]-[TIME[1861][kyuureki:1861-03-05]]]]が[RUBYB[[[天保]]年間][[TIME[1831][year:1831]]-[TIME[1845][year:1845]]]]初期に描いた[[浮世絵]]
[CITE[[[[V[[ASIS[東][亅]]都[ASIS[御][<https://glyphwiki.org/wiki/gyo-ty-00020>彳は|(上辺は缶横線1)、卩上辺は缶横線2]][ASIS[厩󠄌][<https://glyphwiki.org/wiki/hkcs_u53a9>]]川岸之図]]][東都御厩川[ASIS[岸][干は午]]之図]]]]
に描かれた[[和傘]]に、
「[V[千八百六十一畨]]」
と書かれていました。
[SRC[>>112]]
[113]
この番号は貸し傘の整理番号に過ぎませんが、
[[歌川国芳]]の没年の[[西暦]]と一致していることから、
未来予知ではないかと[[オカルト]]の世界では言われています。
[116]
[[西暦]]は[[戦国時代]]に既に[[日本]]に伝来していましたし、
禁教により使われなくなったとはいえ、
[[蘭学]]の勃興により[[江戸時代]]後期の知識人なら、
知っていてもおかしくありません。
[WEAK[([[歌川国芳]]は西洋の絵画の影響も受けていたとされます。)]]
しかし日常生活のほとんどは[[元号年]]や[[干支年]]を使っていたのですから、
[[西暦年]]が書かれたとするのは不自然です。
[117]
また、[[自死]]ならともかく、没年を生前に知っていたとか、
描いた数字が没年を定めたとかいう[[トンデモ]]説を一々論評する必要もありますまい。
傘の番号と年番号を関係付ける根拠も何もありません。
[REFS[
- [112] [CITE[C0020898 [[東都御厩川岸之図]] - [[東京国立博物館]] 画像検索]], [TIME[2021-01-03T03:43:27.000Z]] <https://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0020898>
]REFS]
[115]
現在知られている最古の言及は[TIME[2011-01-18]]の
[[2ch]] [[ニュー速VIP]]板への投稿 [SRC[>>114]]。
その筆者は与太話的に紹介したに過ぎないようで、
何かを信じているわけではなさそうです。
これが筆者のオリジナルの発見なのか、
他で既に言及されているのを紹介したものなのかは不明。
;; [120] 現代では絵の紹介に生没年の[[西暦]]を添えるのは普通に行われますから、
この絵を掲載した本やパンフレットを眺めていた人達が独立して着想してもおかしくありません。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[114]
[CITE[自然現象が描かれた[[浮世絵]]画像を貼ってみる]], [TIME[2021-01-03T05:25:31.000Z]] <https://raicho.5ch.net/test/read.cgi/news4vip/1295358621/23>
]FIGCAPTION]
>23 :1:2011/01/18(火) 23:40:13.81 ID:XJ7Z+hXk0
> 右の男が差す、貸し傘の番号である「千八百六十一」という番号は何と、国芳自身が死去した西暦1861年(文久元年)と符合する!
…という、なんともミステリーな作品だったりします。
>
無論、偶然ではありましょうが…。
]FIG]
]REFS]
[121]
[TIME[2011-02-22]]、
[CITE[東京新聞]]
が[[歌川国芳]]の別の絵に[[東京スカイツリー]]
[WEAK[([TIME[2012-02-29]]完成)]] が描かれていたという記事を掲載しました [SRC[>>122]]。
この記事は同日の[[ワイドショー]]でも紹介されました。
その絵の謎の塔は以前から知られていたようですが、
[[東京スカイツリー]]と結び付けられたのは、
現在見つかっている中ではこの記事が最初のようです。
現在 [[SNS]] に残されている投稿を見る限り、
この新聞記事とテレビ番組はこの「スカイツリー」説の普及にかなり貢献したようです。
[REFS[
- [122] [CITE@ja[可寝たさんは[[Twitter]]を使っています 「今朝の東京新聞から。歌川国芳の浮世絵にスカイツリーが描かれているらしい。 - http://twitpic.com/42dgq6」 / Twitter]], 午前8:45 · 2011年2月22日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-03T05:57:28.000Z]] <https://twitter.com/tomoyukix/status/39833107377037314>
-- [123] [CITE@en[Twitpic]], [TIME[2021-01-03T05:58:18.000Z]], [TIME[2021-01-03T06:01:26.305Z]] <https://twitpic.com/42dgq6>
]REFS]
[124]
[TIME[2011-02-28]]頃、
同じ[[歌川国芳]]によって描かれた没年の傘と[[東京スカイツリー]]を結びつけた
[CITE[Twitter]]
への投稿がありました
[SRC[>>125]]。
現在見つかっている中ではこれが両者を関連付けて語った最初です。
(この「だそうですよ」と語っている [[Twitter]]
アカウント
[CODE[[[@]]warkure]]
は現在凍結されており、どのような人物か不明。
[[VIP]] の投稿 (>>114) を見た者か、
別の典拠ないし独立に発見した者か不明。)
[REFS[
- [125] [CITE@ja[いつきさんは[[Twitter]]を使っています 「あわわ... RT @warkure: 番傘に書かれている「千八百六十一番」も、国芳の西暦没年(1861年)だそうですよ。未来が見える浮世絵師だったのでは?⇒ RT @i_tanaka: @warkure ネットで見ました.気味が悪いです→「東都三ツ股の図」」 / Twitter]], 午後6:30 · 2011年2月28日 [TZ[+09:00]], [TIME[2021-01-03T05:42:38.000Z]] <https://twitter.com/i_tanaka/status/42154629835784192>
]REFS]
[126]
[TIME[2011-03-04]]、
[CITE[毎日新聞]]
は、
[[日本国]][[神奈川県]][[川崎市]][[川崎区]]の[[砂子の里資料館]]の
「幕末浮世絵界の奇才 歌川国芳 没後150年展」
[WEAK[([TIME[2011-03-07]]開始)]]
を紹介する記事を掲載しました。
[SRC[>>119]]
[WEAK[(同名の展覧会が全国各地の美術館で開催されたようで、巡回していたのでしょうか。)]]
[127]
記事は[[東京スカイツリー]]と死去年を話題にしており、
「作品が話題になっている」
としていました。どこでどう話題になっているのか明記されていませんが、
[[Web]] 上での予言説を指していると解するのが自然でしょう。
記事は館長の[[斎藤文夫]]が
「東京スカイツリーを予想したような恐るべき独創性に驚く」、
死去年については
[WEAK[(誰の発言か明記されていないが普通の新聞の書き方なら同じく館長の発言として)]]
「国芳だけに偶然とは思えぬ」、
と述べたことを書きました。
記事の地の文は
「自身が他界する年を予想するだけに、存在しない巨大な塔をも描く独創があったのか。」
と書きました。
このように館長と毎日新聞記者は、
[[東京スカイツリー]]状の塔を空想を描いたものとし、
死去年は未来予知だとの見解を示したのでした。
;; [128] 塔については「江戸城より高い建物は建てられない決まりがあった」
と一応根拠らしきものを示していますが、
死去年は「思えぬ」という個人の感想しか根拠がありません。
[129]
館長や記者がこうしたことを信じていたのかどうかは定かではありませんが
(信じていなかったとしたら捏造記事ですから、
信じていたのだということにしておきましょう。)、
ちょうど没後150年に当たり記念の展覧会を開催するタイミングで、
完成間近の[[東京スカイツリー]]との類似性や没年との一致が話題になっていたので、
それに乗っかって話題作りをしようとしたとみるべきでしょう。
[130]
その目論見は成功したようで、この記事はずいぶん拡散されたようです。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[119] [CITE[スカイツリーと[[浮世絵]]エクシオプレミアム]], [TIME[2021-01-03T05:38:30.000Z]] <https://www.exeo-premiumparty.com/skytree_about/knowledge_ukiyoe.html>
]FIGCAPTION]
>
川崎市川崎区の砂子の里資料館が7日から開く「幕末浮世絵界の奇才 歌川国芳 没後150年展」(前期)に展示される作品が話題になっている。
[SNIP[]]
>[SNIP[]]また、展示される「東都御厩川岸之図」にある貸し傘に書かれた「千八百六十一番」は、国芳の西暦没年と同じ数字で「国芳だけに偶然とは思えぬ」とも。
自身が他界する年を予想するだけに、存在しない巨大な塔をも描く独創があったのか。
斎藤館長は「絵を見てそれぞれに想像を膨らませてほしい」と言う。
>
[BOX(right)[
記事参照:[毎日新聞]2011年3月4日
]BOX]
]REFS]
]FIG]
* 地方時の時代
[729] [[江戸時代]]の状況については、[[江戸時代の時刻]]も参照。
;; [515] [TIME[1867年][year:1867]]の[[大政奉還]]と[TIME[1868年][year:1868]]の[[王政復古]]により、
[[幕府]]は廃止され、[[幕府]]領は[[朝廷]] ([[明治政府]]) の管理下に入りました。
;; [562] [TIME[1869年][year:1869]]の[[版籍奉還]]により、
諸[[藩]]は[[明治政府]]の管理下に入りました。
;; [563] [TIME[1871年][year:1871]]の[[廃藩置県]]により、[[藩]]は[[廃止]]され、[[本土]]全域が[[明治政府]]の直接統治下に置かれました。
[52] [TIME[明治6年/1873年1月1日][1873-01-01]][[施行]]の[CITE[改暦ノ布告]] [SRC[>>53]]
により、[[グレゴリオ暦]]と[[定時法]]が実施されました。
それまでは[[不定時法]]だったといいます ([[江戸時代の時刻]]参照)。
[[日の出]]と[[日の入]]により時刻が決まるため、季節と位置によって変動がありました。
;; 主要都市では[[鐘]]などがあった ([[報時]]参照。) 他、[[和時計]]も作られていました。
[140] [[Time Changes]] の [[JAPAN]] は、[TIME[1873年1月1日][1873-01-01]]に[[グレゴリオ暦]]が採用されたが、
庶民は[[太陰暦]]を使い続けた、としていました [SRC[>>139]]。
[4]
[TIME[明治7年][year:1874]]、
各地の[[郵便局]]に運送時刻管理のための[[時計]]が設置されました。
[[正午計]]によって[[地方真太陽時]]に[[合わせ][測時]]られていました。
[SRC[>>1031]]
[223] 明治時代初期には、各地の[[地方時]]が用いられていました。
[[気象台]]では[[京都時]]、[[電信局]]や編暦では[[東京時]]と、
分野ごとに異なる“標準時”も使われていました。
[334] この時期の時刻について、色々な (相互に矛盾する) 情報があります。
そのほとんどは、根拠が定かではありません。
[FIG(list)[
- [489] 「明治初期は東京時を用いていた」 [SRC[>>194, >>263, >>262, >>267, >>330, >>397]]
-- やや正しい
-- 明治6年-明治20年の編暦には東京時が用いられていた (>>57)
-- 明治6年-明治20年の[[暦]]には東京時との時差が記載されていた [SRC[>>273]]
-- 明治11年/1878年に電信局が東京時[[報時]]開始 (>>266)
- [490] 「明治6年改暦で東京時が標準時となった」 [SRC[>>446]]
-- 暦は[[東京時]]を用いるようになった
-- それを[[標準時]]と言えるのなら正しいが...
- [491] 「明治9年秋に [TZ[+09:00]] が標準時となった」 [SRC[>>118, >>209]]
-- 明治19年の誤り? (ただし7月なので秋ではない)
- [484] 「明治12年/1879年に東京時が標準時となった」 [SRC[>>330]]
-- そのような情報は見つかっていない
- [485] 「明治13年/1880年に東京時が標準時となった」 [SRC[>>271]]
-- そのような情報は見つかっていない
- [486] 「電信局は東京時を用いていた」 [SRC[>>249, >>331]]
-- 正しい
-- 明治11年/1878年に電信局が東京時[[報時]]開始 (>>266)
- [487] 「関東の鉄道は東京時を用いていた」 [SRC[>>248, >>336, >>1031]]
-- おそらく正しい
-- >>255
- [488] 「明治以前は京都時を用いていた」 [SRC[>>263, >>267, >>271]]
-- 暦のことなら、正しい
-- [[改暦]]以前の[[編暦]]は[[京都]]の[[真太陽時]]を採用していた (>>55)
-- それ以外でそのような情報は見つかっていない
- [478] 「明治11年/1878年に京都時が標準時となった」 [SRC[>>321, >>322, >>323, >>332]]
-- そのような情報は見つかっていない
- [479] 「明治12年/1879年に京都時が標準時となった」 [SRC[>>325, >>377]]
-- そのような情報は見つかっていない
- [476] 「気象台は京都時を用いていた」 [SRC[>>249]]
-- ほぼ正しい
-- [TIME[明治15年][year:1882]]以後、明治21年/1888年の[[中央標準時]]施行以前は、京都時を標準として観測していた (>>225)
-- 明治18年/1885年頃、京都時に統一された (>>261)
- [480] 「明治20年まで政府機関は京都時を用いていた」 [SRC[>>331]]
-- 気象台に限れば正しい
-- それ以外でそのような情報は見つかっていない
- [481] 「関西の鉄道は京都時を用いていた」 [SRC[>>252]]
-- おそらく誤り
- [482] 「明治初期に関西では大阪時を用いていた」 [SRC[>>262, >>263]]
-- [[大阪]]市内と[[関西]]圏の[[鉄道]]に限れば正しい
-- それ以外でそのような情報は見つかっていない
- [483] 「関西の鉄道は大阪時を用いていた」 [SRC[>>248, >>1031]]
-- おそらく正しい
-- >>255
- [477] 「明治11年/1878年まで真太陽時、明治12年/1879年より平均太陽時を用いた」 [SRC[>>325, >>326]]
-- [[暦]]のことなら、正しい
-- 明治11年までの[[暦]]は真太陽時、明治12年以後の[[暦]]は平均太陽時を用いていた [SRC[>>327, >>329]]
]FIG]
[393] [[中央標準時]]制定時点で各地の[[地方時]]が用いられていてばらばらだった旨が政府内で述べられているので
([SEE[ [[中央標準時]] ]])、(分野を限定しない) 標準時が定められたというのは明らかに誤りです。
[474] [[京都時]]は[DFN[京都標準時]]とも呼ばれますが、
当時からそのように呼ばれていたという資料は見つかっておらず、後の時代の俗称でしょう。
;; [619] なお、[[東経135度子午線]]は[[京都府]][[京丹後市]]も通過しています。
[[日本標準時]]のことを俗に[[明石標準時]]ともいいますが、
それならばある意味で[[京都標準時]]でもあるわけです。
もちろんここでいう[[京都時]]は[[東経135度子午線]]時ではなく[[京都市]]の[[地方時]]であり、
数分の差があります。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1031]
[CITE[今年は日本標準時制定130周年!]],
[[明石市立天文科学館]],
[CITE[星空のレシピ]] VOL. 331, [TIME[2016 7 July][2016-07-07]]
([TIME[2017-01-06 09:32:17 +09:00]])
<http://www.am12.jp/kankouhoushi/pdf/hoshipi331.pdf#page=2>
]FIGCAPTION]
> 明治の初めの頃、東京・横浜間の鉄道は東京の
地方時を、京阪神の鉄道は大阪の地方時を使っていました。また、
全国の気象台は、京都の地方時で一斉に気象観測をしていました。
[SNIP[]]
> 1873年(明治6年)に太陽暦が導入されると、暦面上は東京の
地方時が使われるようになります。旧江戸城の天守台を経緯度の
基準とし、各地の時差(経度差)が掲載されていました。また、
1874年(明治7年)より各地の郵便局には、運送時刻の管理のた
めに時計が備え付けられ、時計の時刻あわせには正午計が使わ
れました。正午計は、それぞれの場所での南中時刻により時計の
針をあわせるもので、離れた地域間では経度差による時刻のず
れがありました。
]FIG]
]REFS]
-*-*-
[226] その後明治21年/1888年1月1日より[[中央標準時]]が実施されました。
[218] 実施に先立つ明治20年/1887年7月4日には、各府県庁所在地の[[地方時]]との[[時差]]一覧が[[官報]]の[[觀象]]欄に掲載されています [SRC[>>217]]。
;; [328] 他に、[[暦]]にも主要都市の[[地方時]]との[[時差]]一覧が掲載されています。
[HISTORY[
[141] [[Time Changes]] の [[JAPAN]] は[TIME[188[ASIS[9]]年1月1日][1889-01-01]]に
[TZ[+09:00]] が採用されたものの、[[政府]]のみで庶民は用いなかった
[SRC[>>139]] としていました。根拠は不明です。
[144] [[Time Changes]] の [[JAPAN]] は
[TIME[1896年1月1日][1896-01-01]]に
[[Formosa]],
[[Pescadores]] group,
[[Yaeyama]] group,
[[Miyako]] group
は [TZ[+08:00]]、
それ以外は [TZ[+09:00]] が[[庶民]]にも施行された [SRC[>>139]] としていました。
根拠は不明です。
[157]
[TIME[明治21年][1888-01-01]]以後、
各都市の[[報時]]機構は[[中央標準時]]ベースに切り替えられました。
地域により多少の移行の遅れはあったかもしれませんが、
庶民が用いなかったと全国的にいえるほど普及しなかったということはないはずです。
]HISTORY]
-*-*-
[730] 以後の状況については、[[中央標準時]]、夏時刻の項を参照。
[REFS[
- [53] [CITE[改暦ノ布告]]
- [270] [[Shanks & Pottenger]] [CITE@en[The International Atlas]] (2003)
- [54] [CITE@ja[旧暦 - Wikipedia]] ([TIME[2014-08-25 01:37:34 +09:00]] 版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E6%9A%A6#.E3.80.8C.E6.97.A7.E6.9A.A6.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.A8.88.E7.AE.97>
- [56] [CITE@ja[暦Wiki/時刻/日本の本初子午線 - 国立天文台暦計算室]] ([TIME[2014-06-25 06:18:53 +09:00]] 版) <http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBFEB9EF2FC6FCCBDCA4CECBDCBDE9BBD2B8E1C0FE.html>
- [222] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1883年07月02日]] ([TIME[2015-11-19 21:29:00 +09:00]] 版) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2943205>
- [217] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1887年07月04日]] ([TIME[2015-11-19 03:22:50 +09:00]] 版) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2944437/6>
- [340] [CITE@ja[暦象年表に採用される経緯度について]] ([TIME[2015-05-01 17:40:15 +09:00]] 版) <http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/topics/html/topics2010_3.html>
- [118] [CITE[本邦の現行時制]] (地学雑誌 Vol. 41 (1929) No. 3 P 187, [TIME[2016-05-02 17:52:27 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jgeography1889/41/3/41_3_187/_article/-char/ja/>
- [209] [CITE[Kyoto University Research Information Repository: 時計雜話 : 夏と冬とで時間が狂ふ]] ([TIME[2013-01-10 18:03:10 +09:00]]) <http://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/168011>
- [446] [CITE[満鉄史余話]]
[FIG(quote)[ [221] [[官報]] 第壹貳〇三號 明治二十年七月四日 [[觀象]] [SRC[>>217]]
>
[BOX(vertical)[
○標準時ト各地方時トノ差
昨明治十九年七月十二日勅令第五十一號ヲ以テ来ル明治二十一年一月一日ヨリ英國綠威ノ東經百三十五度ノ子午線時ヲ以テ本邦一般ノ標準時ト定メラレタルニ就テハ明年一月一日ヨリハ本暦ヲ初メ其他凡テ時刻ヲ記スルモノハ全國皆此標準時ニ依ラサルヘカラス故ニ各地方ニ於テ從來用ヒ來レル其他ノ時刻(地方時)ト此度定メラレタル標準時トノ差ヲ知ラサレハ百時差支ヲ生スルヿアルヘシ依テ左ニ各地方廳(根室函館ノ如キハ即今地方廳所在ノ地ニアラスト雖モ昨年マテ縣廳所在ノ地タリシヲ以テ特ニ之ヲ附記ス)ニ於ケル時差ヲ掲ケ以テ地方時ヲ改テ標準時トナシ或ハ標準時ヲ知リテ地方時ヲ求ムルノ便ニ供ス(内務省)
[BOX(indent)[
減ノ部
]BOX]
,* 府縣廳所在地 ,* 時差
,和歌山,三十三秒
,兵庫,三十四秒
,大阪,一分五十五秒
,京都,三分〇〇秒
,滋賀,三分十七秒
,福井,四分四十九秒
,三重,五分五十三秒
,石川,六分三十三秒
,岐阜,六分五十一秒
,愛知,七分三十三秒
,富山,八分四十九秒
,長野,十二分四十一秒
,靜岡,十三分二十九秒
,山梨,十四分十三秒
,新潟,十六分十秒
,群馬,十六分十七秒
,埼玉,十八分三十三秒
,神奈川,十八分三十五秒
,東京,十九分〇八秒
,栃木,十九分三十四秒
,秋田,二十分十七秒
,千葉,二十分二十九秒
,山形,二十一分〇九秒
,福島,二十一分三十七秒
,茨城,二十一分五十七秒
,函館,二十二分五十三秒
,靑森,二十二分五十九秒
,宮城,二十三分二十九秒
,岩手,二十四分二十五秒
,札幌,二十五分三十一秒
,根室,四十二分二十秒
[BOX(indent)[
加ノ部
]BOX]
,* 府縣廳所在地 ,* 時差
,德島,一分四十七秒
,鳥取,三分十一秒
,岡山,四分二十七秒
,高知,五分五十五秒
,島根,七分五十一秒
,愛媛,八分五十八秒
,廣島,十分十二秒
,大分,十三分三十六秒
,山口,十四分十五秒
,宮崎,十四分二十三秒
,熊本,十七分十二秒
,鹿兒島,十八分〇四秒
,福岡,十八分二十七秒
,佐賀,十八分四十九秒
,長崎,二十分三十一秒
,沖繩,二十九分十九秒
地理局觀象臺ニ於テハ毎日標準時ノ正午ヲ全國各電信局ニ電報スルカ故ニ電信局所在ノ地ハ同局ニ至リ精密ナル標準時ヲ聞知スルヲ得ヘシ然レ𪜈電線未タ接セサル地方即沖縄等ニ於テハ暫ラク從來用ヒ來レル地方時ニ就キ前記ノ分秒ヲ加減シテ標準時ヲ求メサルヘカラス即加ノ部ニ列セル地方ハ其地ノ時刻ニ前記ノ分秒ヲ加ヘ減ノ部に列セル地方ハ其地ノ時刻ヨリ前記ノ分秒ヲ減スレハ即チ標準時ヲ得ルモノトス若シ既ニ標準時ヲ知リテ地方時ヲ求メントスルモノハ右加減ヲ相反シ加ト書スルモノハ標準時ヨリ此差ヲ減シ減ト書スルモノハ標準時ニ此差ヲ加フレハ即地方時ヲ得ヘシ
]BOX]
]FIG]
;; [274] [[東京]]の[[時差]]が >>57 とは異なりますが、
こちらの表では[[浅草司天台]] (現[[浅草橋]]3丁目) との[[時差]]を採用していると思われます。
;; [314] [[京都]]の[[時差]]は、当時の[[京都府庁]]があった[[二条城二の丸御殿]]付近と思われます。
[[朝廷]]で[[暦]]を担当していた[[土御門家]]に縁のある[[晴明神社]]や、
その屋敷や天文台があった現梅小路公園付近、
あるいは[[西三條台改暦所]]といった[[暦]]に関係する歴史的な施設がほぼ同経度上に存在していますが、
少しずつずれています。
;; [369] >>333 に写真が掲載されている明治時代か大正時代の携帯[[日時計]]には、
各地の[[時差]]一覧表があり、この[[官報]]の表と同じもののように見えます。
[[官報]]または[[暦]]の時差一覧表に基づき作成したものと思われます。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12]
[CITE[讀賣新聞]] [TIME[明治二十年十二月廿二日][1887-12-22]], 一面
]FIGCAPTION]
;; [[旧字]][[旧仮名]]、[[変体仮名]]は新表記に改め、[[ルビ]]は省略した。
[[送り仮名]]も現代風とし一部漢字から仮名や数字に改めた。
[[句読点]]を補った。
>
◎時刻改正の注意
>
標準時施行のことはしばしば記載せしが、今その要領を挙げれば、
従来時刻を定むるには各国とも太陽を標準とし太陽その地の子午線に南中する時を正午12時
(開明国にてはすべて平太陽時を用ゆ)
と定むる例なり。
故にその地異なれば時刻もまたしたがって異なりて各地の時刻まちまちにしてしばしば不都合を感じたることありき。
現に本邦のごときも根室の1時は長崎の11時過ぎなるが故に例えば根室にて午後1時に電信を発するに長崎において午前11時過ぎに受け取る訳にして商業上には往々行き違いを生ずべく実に不都合千万なる訳なり。
また東京の正午は神戸の11時42分なり。
故に東京にて時計を改めて乗船し神戸に着しそれより汽車にて大阪に至らんとするに鉄道局の時計とは18分余の相違あり為に汽車の出発を停車場にて待ち合わせもしくは油断して汽車に乗り遅るる等の不都合もまた往々これあり。
しかり故に電信局にては右の不都合を除かんがため夙に東京の時を各電信局一般に用いしがその他は不便ながらも皆その地その地の時を用いたり。
されど本邦の如きは国土甚だ広からざればしたがって国内時刻の差もまたはなはだ大からざるをもって不都合ながらもその害やや少なき方なるがアメリカのごとく東西経度の差数十度に連亘する国に在りてはしばしばはなはだしき不都合を生じたることありき。
[SNIP[]]
;; [SEE[ 続きは[[中央標準時]] ]]
]FIG]
]REFS]
** tzdata
[338] [[tzdata]] の [CODE[Asia/Tokyo]] は、
[TIME[明治21(1888)年][1888-01-01]]の[[標準時]]施行までの
[[LMT]]
を、
[TZ[+09:18:59]] としています。[TIME[1998年][1998-11]]付けの注記によれば、
[[理科年表]][TIME[1996年][year:1996]]版の[[東京]]の座標[LON[東経135度44分40秒90][135.44.40.90E]]に基づく値です
[SRC[>>159, >>277]]。
;; [339] 正確には [TZ[+09:18:58.727]] です [SRC[>>159]] が、 [[tzdata]]
は[[秒]]精度なので[[四捨五入]]されているようです。ちなみに[LAT[北緯35度39分16秒0][35.39.16.0N]]で、
旧[[東京天文台]]の位置です。
[63]
[TIME[1999年][1999-02-02]]の
[[tzdata]]
の改訂以前は、
[TZ[+09:19:04]]
としていました
[SRC[>>62]]。
[[Shanks]] (2003) [SRC[>>270]] は、 [[Tōkyō]] を
[LAT[35N42][35.42.0N]] [LON[139E46][139.46.0E]] [TZ[+09:19:04]] としています。
これは[[湯島聖堂]]の位置を表しているようです。
[341] この[[理科年表]]由来の[[東京]]の座標は、
大正7年/1918年9月19日文部省告示號外の値に基づき[[理科年表]]/[[暦象年表]]や[[暦]]
[WEAK[(いずれも[[東京天文台]]/[[国立天文台]]編集)]]
において大正9年/ 1920年版から採用され、
平成14年/2003年版まで用いられていました。
[WEAK[(その翌年から[[世界測地系]]に移行しました。)]]
[64]
[[東京天文台]]は明治21年/1888年設立で、
明治24年/1891年版の[[暦]]からその位置が[[暦]]計算に用いられていました。
[SRC[>>340]]
[65]
ということは
[TIME[平成11(1999)年][year:1999]]時点の[[東京]]の代表点として適切な値でしたが
[WEAK[(他に[[日本経緯度原点]]でもよかったかもしれませんが)]]、
明治20年/1887年以前の[[東京]]の位置として妥当な値とは言いきれません。
[SEE[ [[東京]] ]]
[23]
そのため
[[tzdata]]
を誤りだと主張する人達がいますが
[SRC[>>194, >>348, >>349, >>350, >>153, >>276]]、
修正を提案した人はなぜかいないようです。
;; [68]
伝言ゲーム(?)で[CITE[理科年表]]が「天文台」と「天守台」を取り違えたことになっていますが
[SRC[>>350, >>153]]、そんなわけないでしょう。
[66]
[[標準時]]制定以前、
[[日本]]全国の唯一の[[時刻]]といえるものはありませんでした。
[[東京]]に限っても単一の代表[[時刻]]といえるものを確定させることはできません。
したがって[TIME[明治21(1888)年][1888-01-01]]以前の
[CODE[Asia/Tokyo]]
の値は当時の[[東京]]中心のどこかでありさえすればよく、
それ以上の厳密性を求めても意味はありません。
(世界の他の都市でも同じようなものです。)
[67]
もし何らか根拠のある数値を採用するべきだとすれば、
当時[[東京時]]として[[電信]]などで使われていた[[時刻]] (の理論値) である、
[[日本政府の暦][暦本]]の[[東京]]の値が適切でしょう。
この値を知るのは[TIME[平成11(1999)年][year:1999]]時点では困難でしたが、
現在は[[国立天文台]]が [[Web]]
で公開しています [SRC[>>56]]。
[REFS[
- [139] [[Time Changes]] (1982)
- [277] [CITE[Asia/Ishigaki?]] ([TIME[2012-02-25 11:55:06 +09:00]]) <https://mm.icann.org/pipermail/tz/1998-November/010472.html>
- [62] [CITE@en[Eggert mods]], [[Arthur David Olson]], [TIME[1999-02-02 05:29:20 +09:00]] <https://github.com/eggert/tz/commit/019d53a61af40dacc2eac1150f7bfb81fec1fddb>
- [159] [[tzdata]]:
[CITE@en[tz/asia at master · eggert/tz]] ([TIME[2017-09-07 22:25:34 +09:00]]) <https://github.com/eggert/tz/blob/master/asia#L1440>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[194] [CITE[[[tz database]]の1888年以前の時差は2秒ずれてる? - きしだのはてな]]
([TIME[2015-10-02 20:39:27 +09:00]] 版)
<http://d.hatena.ne.jp/nowokay/20150109/1420772562>
(移転確認 [TIME[2019-12-12T09:10:56.100Z]])
[CITE@ja[[[tz database]]の1888年以前の時差は2秒ずれてる? - きしだのHatena]], [TIME[2019-12-12 18:11:04 +09:00]] <https://nowokay.hatenablog.com/entry/20150109/1420772562>
]FIGCAPTION]
> 問題は、それ以前の標準時です。9時間18分59秒というのは、東京天文台の位置を東経139度44'40".90を基準に算出したということが、tz databaseのコメントに書かれています。
> しかし、国立天文台のwikiによると、1888年以前の基準は元江戸城天守台で、東経139度45'17".0が基準にされ、時差は9時19分1.13秒となっていたことがわかります。
> 暦Wiki/時刻/日本の本初子午線 - 国立天文台暦計算室
> 次のサイトでも、「星の古記録」という本に1888年以前の時差は9時間19分1秒ということが書いてあったという記述があります。
> すのものの「いろいろ」(その4) <http://www5a.biglobe.ne.jp/~sunomono/iro0004.html>
>>斉藤国治「星の古記録」(岩波新書、1982)の 195 ページによれば、 現行の日本標準時が採用されたのは 1888 年 1 月 1 日だそうだ。 それまでは旧江戸城本丸跡中央気象台の地方平均太陽時を使っており、 両者の差は 19 分 1 秒、とのこと。
> ということで、どうやら1888年以前の時差を9時間18分59秒とするのは妥当ではなく、9時間19分1秒とするほうがいいように思います。
]FIG]
- [348] [CITE@ja[[[投機的実行]]《アクセラレーション・ブースト》さんのツイート: "tzdataの間違い見つけたかも。 1887年以前の日本時間を +09:18:59、東経にして139度44分40.9秒としていて日本の歴史上こんな位置を基準にしていたことはないんだけど、この地点は東京天文台だったんだ。麻布台。 1887年まで基準だったのは東京天「守」台。皇居。+09:19:01 が正しい。"]]
([TIME[2018-10-28 18:37:52 +09:00]])
<https://twitter.com/yuba/status/1050397530498818048>
- [349] [CITE@ja[きしだൠさんのツイート: "これ、当時[[Hideyuki Suzuki]]さんに連絡とってみたところ、だいぶ前の話なのでーみたいになってそこから先の攻め方がわからなくて放置してたんですよねぇ… "]]
([TIME[2018-10-28 18:37:52 +09:00]])
<https://twitter.com/kis/status/1052610012260925440>
- [350] [CITE@ja[tzdata の 1887 年以前の[[日本標準時子午線]]が間違っている話 - Okapies' Archive]]
([TIME[2018-10-28 18:41:18 +09:00]])
<http://okapies.hateblo.jp/entry/2018/10/12/123342>
- [153] [CITE@ja[18分59秒をめぐって日本標準時の歴史をひもとくことに - エムスリーテックブログ]]
([TIME[2019-01-18 10:47:32 +09:00]])
<https://www.m3tech.blog/entry/timezone-091859>
- [276] [CITE@ja[[[江戸城天守台]] | route127の日記 | スラド]]
([TIME[2019-01-18 10:52:18 +09:00]])
<https://srad.jp/~route127/journal/626946/>
]REFS]
* 東京暦
[69]
[[東京奠都]]により、
[[暦]]の基準も[[京都]]から[[東京]]に変更されました。
[57] [TIME[明治6年/1873年][1873]]から[TIME[明治20年/1887年][1887]]までの[[暦]]は[[東京]]の時刻に基づき計算されていました
[SRC[>>56]]。
[FIG(list)[
,*和暦,*西暦,*時差,*名称,*注記
,明治6年,1873年,[TZ[+09:19:01]],東京時刻
,明治7年,1874年,[TZ[+09:19:01]],東京時刻
,明治8年,1875年,[TZ[+09:19:01]],東京時刻
,明治9年,1876年,[TZ[+09:19:01]],東京時刻
,明治10年,1877年,[TZ[+09:19:01]],東京時刻
,明治11年,1878年,[TZ[+09:19:00.5]],東京時刻,赤坂区溜池葵町内務省地理局測量課
,明治12年,1879年,[TZ[+09:19:00.5]],東京時刻
,明治13年,1880年,[TZ[+09:19:00.5]],東京内務省地理局測量課平時
,明治14年,1881年,[TZ[+09:19:00.5]],東京内務省地理局測量課平時
,明治15年,1882年,[TZ[+09:19:00.5]],東京内務省地理局測量課平時
,明治16年,1883年,[TZ[+09:19:00.5]],東京内務省地理局測量課平時,微修正が行われた
,明治17年,1884年,[TZ[+09:19:00.5]],東京内務省地理局測量課平時
,明治18年,1885年,[TZ[+09:19:01.13]],東京内務省地理局測量課平時,東京天主台
,明治19年,1886年,[TZ[+09:19:01.13]],東京内務省地理局測量課平時
,明治20年,1887年,[TZ[+09:19:01.13]],東京内務省地理局観象台平時
]FIG]
;; [TIME[明治6年][1873]]から[[旧暦]]にかわり[[グレゴリオ暦]]が採用されています。
;; [272] この時期の[[暦]]には、日本各地との時差も記載されています [SRC[>>57]]。
[259] [[標準時]]実施後は[[中央標準時]]により計算されていました。
;; [[旧暦]]も参照。
* 気象観測
[370] 気象観測結果の正確な記録には[[時刻]]が必要となりますし、
[[全国]]の結果を比較したり、[[天気図]]を作成したりするためには、
各地の観測時刻を揃える必要があります。
[225] 明治初期の気象観測は[[地方時]]に基いていましたが、
明治9年/1876年10月から[[京都時]]の観測も行うようになりました [SRC[>>252]]。
[260] [TIME[明治16年3月1日][1883-03-01]]には[[京都時]]による[[天気図]]が作成されました
(現存最古の[[日本]]の[[天気図]]) [SRC[>>251]]。
[[日時]]は [I[Thursday, March 1. 1883. 6 A.M. Kioto Time.]] と記載されていました
[SRC[>>973]]。
[224] 明治16年/1883年7月2日の[[官報]]第1号の「地理局報告」欄には、
「明治十六年七月一日京都時午前六時東京時午前六時十六分長崎時午前五時三十六分」
と注記があります [SRC[>>222]]。
;; [475] [[東京時]]が [TZ[+09:19]] だとすると、
[[京都時]]が [TZ[+09:03]]、[DFN[長崎時]]が [TZ[+08:39]] ということになります。
実際に気象観測に用いているのは[[京都時]]と各地の[[地方時]]ですから、
[[長崎時]]を示したのは単に西部の主要都市という意味に過ぎない
[WEAK[(九州の標準時のような意図のものではない)]] と思われます
([[東京時]]も[[標準時]]ではなく、東部の主要都市としてでしょう)。
[261] 明治18年/1885年 (?) 1月1日には[[地方時]]の観測を廃止し、
[[京都時]]に統一されました [SRC[>>253]]。
[208] >>207 によると、次の時刻が用いられました。
[FIG(list)[
- 明治5年-明治18年 [[地方時]]
- 明治15年7月1日-明治20年 [[京都時]]
- 明治20年中央氣象臺年報 [TZ[+09:00]]
- 明治21年- [TZ[+09:00]]
- 石垣島測候所 [TZ[+09:00]]
]FIG]
[371] [[中央標準時]]施行後は、そちらを採用しています。
[[西部標準時]]や[[夏時刻]]の実行中も、[[中央標準時]]を使っていたようです。
[2065]
[TIME[明治24年][year:1891]]-[TIME[明治28年][year:1895]]の[CITE[中央気象台年報]]には、
観測時は[[帝國標準時]] ([[英文]]では [[Japanese standard time]])
とありました [SRC[>>2064, >>2066]]。
[2067]
[TIME[明治29年][year:1896]]の[CITE[中央気象台年報]]には、
観測時は[[中央標準時]] ([[英文]]では [[Central standard time]])
とありました [SRC[>>2068]]。
[2069]
[TIME[明治30年][year:1897]]-[TIME[明治44年][year:1911]]の[CITE[中央気象台年報]]には、
観測時は[[中央標準時]] ([[英文]]では [[Central standard time]])、
ただし[[臺灣]]は[[西部標準時]] ([[Western S. T.]])
とありました [SRC[>>2070, >>2074]]。
[2071]
その後の年には、
[[石垣島]]、
[[大韓帝国]] (後に[[朝鮮][大日本帝国朝鮮]])、
[[関東州]]、
[[滿洲]]、
[[支那]]にも観測地点が増えていっていますが、
観測時の説明はほぼ変わりませんでした。
[2076]
[TIME[[LINES[明治45][大正元]]年][year:1912]]-[TIME[大正12年][year:1923]]の[CITE[中央気象台年報]]には、
観測時は[[中央標準時]] ([[英文]]では [[Central standard time]])、
ただし[[臺灣]]と[[滿洲]]は[[西部標準時]] ([[Western S. T.]])
とありました。
[[日照時数]]観測は[[真太陽時]]とありました。
[SRC[>>2075, >>2077, >>2078]]
[TIME[大正5年][year:1916]]以後、
[[日界]]は[[夜半]]、
[[二十四時制]]ともありました [SRC[>>2077, >>2078]]。
[2073] [TIME[大正13年][year:1924]]-[TIME[昭和11年][year:1936]]の[CITE[中央気象台年報]]には、
観測時は[[中央標準時]] ([[Central Standard Time]])、
ただし[[臺灣]]と[[滿洲]] ([TIME[昭和10年][year:1935]]と[TIME[昭和11年][year:1936]]は[[滿洲國]]) は[[西部標準時]] ([[Western S. T.]])、
ただし[[旅順]]は[[中央標準時]] ([[C. S. T.]]) とありました。
[[日界]]は[[夜半]]、
[[二十四時制]]、
[[日照時数]]観測は[[真太陽時]]とありました。 [SRC[>>2078, >>2080, >>2081, >>2072]]
[2083] [TIME[昭和12年][year:1937]]の[CITE[中央気象台年報]]には、
観測時は[[中央標準時]] ([[Central Standard Time]])、
ただし[[臺灣]]は[[西部標準時]] ([[Western S. T.]]) とありました。
[[日界]]は[[夜半]]、
[[二十四時制]]、