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996
997
998
999
1000
* 太和 (魏)
[15]
[CITE@zh[三國史記/卷29 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-04-16T02:22:41.000Z]], [TIME[2023-04-30T05:43:42.787Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B729>
>大和元年
* 太和 (東晋)
[16]
[[太和]] [TIME[y~868]]
[17] [[元年]] [TIME[西暦366年][366]]
[6]
[CITE[張今:出土[[六朝]]磚銘文字校訂十五則]], [[先秦秦漢史]],
2022-07-13 19:00,
[TIME[2022-07-17T01:44:01.000Z]], [TIME[2022-07-24T08:40:02.377Z]] <https://mp.weixin.qq.com/s/fbRyDAKiUaleE1FovJ3TTg>
東晉馮慶地券
「[V[泰和元年十一月乙丑朔八日壬申[SNIP[]]]]」
[152]
かつては[[太和]]と[[泰和]]の表記違いは十分に理解されていませんでした。
[[泰□]]の解釈でも[[太和]]と[[泰和]]は同じで音通だとわざわざ説明が必要で [SRC[>>100]]、
反論されやすい当該説の弱点でもありました。
[205]
[[喜田貞吉]]は、
[[太]]と[[泰]]が通用することを指摘し、
[CITE[晋書]]武帝泰始元年条に[[改元]]とともに
「改景初暦為太始暦」
とあることを紹介しました。
[SRC[>>197]]
[[七支刀]]の[[泰□]]の文脈でこの通用を紹介したのはこれが初めてと思われます。
[166] >>165 /319
* 泰□ (七支刀)
[102]
[[日本国]][[奈良県]][[天理市]]の[[石上神宮]]所蔵[[七支刀]]に
「泰□四年」
とあります。
[126]
この刀は[[百済]]から[[日本]]に贈られたものとされています。
[SRC[>>100]]
[123]
[TIME[明治6(1873)年][1873]]に[[石上神宮]]大宮司で歴史研究者の[RUBYB[[[菅政友]]][[TIME[1824]]-[TIME[1897]]]]が再発見し公表し、
以来研究が続いています。
[SRC[>>121 #page=6]]
** 銘文の解読
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [125]
[DATA(.label)[[DATA(.addr)[[[日本国]][[奈良県]][[天理市]]]][[石上神宮]]所蔵[[七支刀]]]]
-- [124]
「[DATA(.text)[泰[和]四年[五]月十六日丙午正陽[SNIP[]]]]」
[SRC[>>121 #page=8]]
]ITEMS]
[115]
銘文は損傷が酷く判読困難なところが多く、多くの研究者が解読を試みてきました。
実見が困難で先行説を頼りに推測を重ねた説も出されてきました。
[TIME[平成8(1996)年12月][1996-12]]に[[村山正雄]]が
[CITE[石上神宮七支刀銘文図録]] [SRC[>>140]]
を出版したことで、
精巧な実写真とレントゲン写真を利用できるようになって、
研究環境は著しく向上しました [SRC[>>121 #page=7]]。
;; [139] 従って、それ以前で実見せずに提出された説は慎重に扱う必要があります。
[127]
1文字目は「泰」と読むのが通説です。
-
[117]
初期より「泰」と読まれています [SRC[>>121 (菅政友1907)]]。
以後ほとんどの研究者が賛同しています。
- [167]
[[菅政友]]は、
「[V[__&&swc540&&__]]」と模写しています
[SRC[>>165 /320]]。
「泰」と解釈しました [SRC[>>165 /199, >>165 /280]]。
-- [171]
本文の[[明朝体]]では「[V[泰󠄂]]」 (本人が確認したものか不明)。
[SRC[>>165 /280]]
- [186]
[[星野恒]]は、
「[V[奉]]」と模写し
[SRC[>>184 /145]]、
「泰」
と読んでいます
[SRC[>>184]]。
- [198]
[[高橋健自]]は、
「[V[__&&swc540&&__]]」
に近く模写しています [SRC[>>197]]。
-
[137]
20世紀後期の[[朝鮮人]][[延敏沫]]は、
「奉」
と読むと主張しました。
[SRC[>>85 #page=6]]
--
[138]
他の研究者はこの読み方を支持していません。
[SRC[>>85 #page=6]]
[CITE[石上神宮七支刀銘文図録]]
では字形は「泰」であること明らかで、「奉」と読むのは無理だと指摘されています。
[SRC[>>85 #page=6, >>121 #page=8]]
--
[235]
初期研究者の模写で下部の横線が縦線を貫くように描かれていたため、
そのような解釈が生じたようですが、
精巧な写真だと横線は縦線の左右で途切れていることがわかるようです。
[118]
2文字目は「和」や「始」と読む説が多いです。
[SRC[>>85]]
-
[128]
最初に読んだ[[菅政友]]は、「始」としました [SRC[>>121 #page=8 (菅政友1907)]]。
-- [168]
[[菅政友]]は、
「[V[__&&swc541&&__]]」と模写しています
[SRC[>>165 /320]]。
「始」と解釈しました [SRC[>>165 /199]]。
--- [172] 本文の[[明朝体]]では「[V[__&&swc547(亻〔〕)&&__]]」
(本人の確認したものか不明)。 [SRC[>>165 /280]]
--
[199]
[[高橋健自]]は、
「始」
と解釈しました。
[SRC[>>197 (模写あり)]]
--
[129]
しかし現在では「始」と読むには旁が不鮮明です [SRC[>>121 #page=8]]。
--
[131]
[[昭和時代]]後期、[[宮崎市定]]はこんにち不鮮明であるからこそ、
発見当初の判読「始」を尊重するべきだとしました
[SRC[>>121 #page=8 (宮崎市定1982, 1983)]]。
-
[130]
[[昭和時代]]中期の研究者は「和」または「[和]」と判読した人もいます
[SRC[>>121 #page=8 (福山敏男1951, 榧本杜人1952)]]。
-- [204]
[[近代日本]]の研究者[[喜田貞吉]]は、
[[高橋健自]]の模写から「和」にも似ていると指摘しました
[SRC[>>197]]。
--- [206] 「和」と読むのを提唱したのはこれが初めてかもしれません。
--- [207] しかし[[干支]]から「初」と読む説を取りました (>>204)。
--
[141]
[[平成時代]]の研究者[[濱田耕策]]は
[CITE[石上神宮七支刀銘文図録]]
より左は「禾」の蓋然性が高く、
右は不明瞭ながらも「口」が読み取れると判読しました
[SRC[>>121 #page=8]]。
-
[132]
[[近代日本]]の研究者は「初」と判読した人もいます
[SRC[>>121 #page=8 (星野恒1892, 喜田貞吉1919)]]。
-- [187]
[[星野恒]]は、
亻が読めるとし、
「始」
より
「初」に近いと判断しました
[SRC[>>184]]。
-- [204]
[[喜田貞吉]]は、
[[高橋健自]]の模写でより一層この判断が尤もらしくなったと判断しました
[SRC[>>197]]。
[182]
3文字目と4文字目は「四年」と読まれています。
諸研究者の見解が一致しています。
- [183]
[[菅政友]]は、
「[V[四󠄂__&&swc545(年)&&__]]」
と模写しています
[SRC[>>165 /320]]。
- [185]
[[星野恒]]は、
「[V[四く̇]]」と模写し [SRC[>>184 /144]]、
「四□」
と読んでいます。
[SRC[>>184]]
[142]
5文字目以後は「[五]月十六日」と読まれていますが、
当初より判読困難で、諸説ありました。
- [169]
[[菅政友]]は、
「[V[__&&swc542&&__月十__&&swc543&&__日]]」と模写しています
[SRC[>>165 /320]]。
-
[196]
[[星野恒]]は、
「[V[一月十一日]]」と模写しています [SRC[>>184 /144]]。
- [188]
[[星野恒]]は、
「□□月十一日丙午」
と読んでいます。
(年の「四」の後に2文字、「月」の前に「□」としています。)
[SRC[>>184]]
- [143]
[[近代日本]]では[[高橋健自]]以来「六月十一日」と読まれていました
[SRC[>>197, >>121 #page=8 (高橋健自1914)]]。
- [145]
[[昭和時代]]中期の研究者[[福山敏男]]は、数度の実調査により、
「正月」「四月」「五月」 / 「十一日」「十六日」
の可能性を指摘しました
[SRC[>>121 (福山敏男1951)]]。
-- [146]
これに基づき、[[吉日]]かつ盛夏で火勢の強い「五月十六日」と判読されてきました
[SRC[>>121]]。
-
[219]
[TIME[昭和56(1981)年][1981]]に [[NHK]]
が撮影したX線写真で、
「年」と「月」
の間に
「十」が確実に見えるとされます [SRC[>>218]]。
- [147]
こんにちではまったく[[月]]番号の文字の痕跡がありません
[SRC[>>121]]。
- [148]
[[平成時代]]の研究者[[木村誠]]は、
[CITE[石上神宮七支刀銘文図録]]
のレントゲン写真から「十一月」と判読しました
[SRC[>>121 #page=9 (木村誠2000)]]。
-- [4]
字間の錆の中から「十」を、従来「五」と読まれた部分から「一」を読み取りました
[SRC[>>121 #page=7 (木村誠2000)]]。
-- [149]
[[平成時代]]の研究者[[濱田耕策]]は
[CITE[石上神宮七支刀銘文図録]]
より、
[[木村誠]]の指摘通り他より間隔は広いものの、
2文字を収めるには狭いと指摘しました。
レントゲン写真から
「┤」
型の痕跡を確認できるものの、
「十」
とも、「年」の下部とも、誤刻とも理解し得るとしました。
[SRC[>>121 #page=9]]
[189]
「[[日]]」に続いて「丙午」と読まれています。
- [190]
[[菅政友]],
[[星野恒]]は、
「丙午」
と読んでいます。
[SRC[>>165, >>184]]
[122]
「正陽」は[[正午]]とされます [SRC[>>100]]。
- [170]
[[菅政友]]は、
「[V[𠤭__&&swc544(陽)&&__]]」と模写しています
[SRC[>>165 /320]]。
- [191]
[[星野恒]]は、
「[V[正□]]」
と読んでいます。
[SRC[>>184]]
□は解し難い字形を模写しています [SRC[>>184 /144]]。
;; [150]
[CITE[Wiktionary]] は[[日本語]]の「正陽」は陰暦4月、
[[朝鮮語]]の「正陽」は日中、真昼の時間または陰暦正月と解説しています。
[SRC[>>151]]
文脈より明らかに[[月名]]ではありません。
[REFS[
-
[165]
[CITE@ja-JP[[[菅政友全集]] : 全]], [[国書刊行会]], [TIME[1907]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-17T04:52:45.364Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991239/1/320>
-
[184]
[CITE@ja-JP[[[史学叢説]] 第1集]], [[星野恒 稿, '''['''星野幹, 星野彬 共編''']''']], [TIME[明治42][1909]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-17T06:38:10.174Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1026757/1/135> (要登録)
-
[140]
[CITE@en-us[[[Amazon.co.jp]]: 石上神宮 七支刀銘文図録 : 村山 正雄: Japanese Books]], [TIME[2023-06-17T03:28:47.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4642023003/wakaba1-22/>
- [151] [CITE@ja[[[正陽]] - ウィクショナリー日本語版]], [TIME[2023-06-14T03:30:29.000Z]], [TIME[2023-06-17T03:57:18.870Z]] <https://ja.wiktionary.org/wiki/%E6%AD%A3%E9%99%BD>
]REFS]
** 年代の特定
[608]
[TIME[西晋泰始4(286)年][year:286]]、
[TIME[東晋太和4(369)年][year:369]]、
[TIME[劉宋泰始4(468)年][year:468]]なとの説があります。
[SRC[>>100]]
現在では[TIME[東晋太和4(369)年][year:369]]説が有力視されているようです。
[192]
[[星野恒]]は、
当時[[日本]]にも[[韓土]]にも当時[[元号]]がないとして、
[[漢土]]の[[元号]]に候補を求めました。
[SRC[>>184]]
[193]
[[星野恒]]は、
「泰[ASIS[□][亻□]]」
と読んでいましたが、
[[前漢]]の[[武帝]]の[[泰初]]、[[泰始]]を候補に挙げつつも、
様式からこれを否定しました。
[SRC[>>184]]
[[太初]] ([TIME[y~503]]),
[[太始]] ([TIME[y~1486]])
を指すと思われます。
[208]
[[喜田貞吉]]は、
[[前漢]]、[[前秦]]、[[南凉]]、[[西秦]]の[[太初]]、
[[魏]]、[[後趙]]、[[成漢]]、[[東晋]]、[[北魏]]「等」の[[太始]]を、
[[日干支]]から否定しました。
[SRC[>>197]]
[229]
[[福山敏男]]は、
[TIME[東晋太和4(369)年][369]]と[TIME[魏太和4(230)年][230]]を候補としました。
[SRC[>>228]]
[194]
他の研究者も、明記せずとも同様の検討を経ていると推測されます。
[233]
[[李進煕]]は、
「五月十一日丙午」
と読んで、
[[日干支]]が[TIME[東晋太和4(369)年][369]]では合わず、
[TIME[北魏太和4(480)年][480]] ([TIME[y~1355]]) なら合うと主張しました。
[SRC[>>228]]
[REFS[
- [228]
[CITE@ja[[[七支刀]]の銘文 (No.151)/藤井寺市]], [TIME[2023-06-16T16:13:17.000Z]], [TIME[2023-06-17T08:51:58.396Z]] <https://www.city.fujiidera.lg.jp/soshiki/kyoikuiinkai/bunkazaihogo/koramukodaikaranomemessezi/wanogoozidai/1387511038569.html>
]REFS]
*** 東晋太和説
[1249]
[CITE[日本書紀]]
[TIME[神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子][kyuureki:252-09-10]]条の
「七枝刀」
との関係が指摘されます。
[TIME[西暦252年][year:252]]に当たりますが、
干支2巡繰り下げが通説となっており、
[TIME[西暦372年][year:372]]となります。
[TIME[東晋太和4(369)年][year:369]]
([TIME[y~868]])
ならちょうど時期が合います。
[232]
[[福山敏男]]は[TIME[東晋太和4(369)年][369]]などを候補に挙げましたが、
そのうち
[CITE[日本書紀]]2巡繰り下げと時期があうこの説が通説化しました。
[SRC[>>228]]
[120]
[[昭和時代]]の研究者[[坂元義種]]は、
「泰[和]四年□月十六日丙午正陽[SNIP[]]」
と読まれていると引いて、
[[百済]]が[[東晋の元号]]を使った、
[TIME[西暦369年][369]]としました。
[SRC[>>119]]
[153]
この時期[[百済]]が[[泰和]]を使ったかには疑問があります。
- [154] [TIME[東晋咸安2(372)年][372]]正月、百済は東晋に初めて遣使しました。
[SRC[>>121 #page=11]]
- [155] [TIME[東晋咸安2(372)年][372]]6月、百済王が
「鎮東将軍領楽浪太守」
の冊封されました。
[SRC[>>121 #page=11]]
[156]
従ってこれより前に[[百済]]が[[東晋]]の[[元号]]を使い、
倭王に贈ることはあり得ないとの理解が強いです。
しかも[[百済]]ではこれ以前も以後も、
[[東晋]] (や他王朝) の[[元号]]を使った形跡がありません
([SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]] ]])。
[SRC[>>121 #page=11]]
[157]
[[百済]]王権に仕える中国系の文筆担当者が[[東晋]]を尊崇して使ったとする説もあります
[SRC[>>121 #page=11 (鈴木靖民1983)]]。
[159]
しかし外交上重要な贈呈品に外交上重要な[[元号]]を担当者が勝手に使うかには疑問があります。
そこで、
元々[[東晋]]から[[百済]]が与えられたものを、
[[東晋]]との外交関係を[[倭]]とも共有する意図で、
[[百済]]で仿製して[[倭]]に贈ったとする説があります
[SRC[>>121 #page=12]]。
[217]
現在の[[大韓民国]]でもこの説が通説となっています。 [SRC[>>216]]
[REFS[
-
[119]
[CITE@ja-JP[百済史の研究]], [[坂元義種]], [TIME[1978.7][1978]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-14T09:33:04.216Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12173013/1/195> (要登録)
- [85] [CITE[[[百済紀年考]]]], #page=4 ... #page=6
-
[121]
[CITE[[L[4世紀の日韓関係]]]],
[[[L[濱田耕策]]]], [TIME[2019-11-05T07:32:43.000Z]], [TIME[2023-06-16T13:16:09.508Z]] <https://www.jkcf.or.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/11/1-01j.pdf>
-
[216]
[CITE@ko[한국의 연호 - [[위키백과]], 우리 모두의 백과사전]], [TIME[2022-03-06T12:24:38.000Z]], [TIME[2022-04-17T09:07:21.240Z]] <https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD%EC%9D%98_%EC%97%B0%ED%98%B8#%EA%B8%B0%ED%83%80>
]REFS]
*** 西晋泰始説
[238]
[[西晋]]の[[泰始]] ([TIME[y~910]]) とする説がありました。
[175]
[[菅政友]]は「[V[□月十□日丙午]]」と読みましたが、
[[長暦]]から
- [176] 6月11日
- [177] 8月12日
- [178] 9月13日
を候補に挙げました [SRC[>>165 /280]]。
[179]
現在の研究者の見解と合わせると「11日」はあり得ますが、
「6月」は合わず、該当する日がなくなります。
[180]
[[五月丙午]]の[[吉日]]と解釈するなら、これは問題とはならなくなります。
[203]
[[那珂通世]]はこの説を取りました。 [SRC[>>197]]
[144]
[[近代日本]]では[[高橋健自]]以来「六月十一日」と読まれ
[SRC[>>197, >>121 #page=8 (高橋健自1914)]]、
[CITE[三正綜覧]]によると西晋泰始4年6月11日は丙午であることから [SRC[>>197, >>121]]、
有力視されました。
*** 南朝宋泰始説
[158]
[TIME[劉宋泰始4(468)年][year:468]]
([TIME[y~777]])
とする説があります。
[160]
[TIME[宋大明元(457)年][457]]に[[百済王]]は[[宋]]の[[鎮東大将軍]]に[[冊封]]されています
[SRC[>>121 #page=12]]。
[161]
[[百済]]で[[宋]]の[[元号]]を使った例も知られていませんから、
[[百済]]で[[宋]]の[[元号]]を使ったとするのは難しいです
[SRC[>>121 #page=12]]。
[173]
[[菅政友]]は「[V[□月十□日丙午]]」と読みましたが、
[[長暦]]で合致する日はなく、
この説は否としました
[SRC[>>165 /280]]。
[174]
[[五月丙午]]の[[吉日]]と解釈するなら、これは問題とはならなくなります。
*** 泰初説
[239] [DFN[泰初]]と読む説がありました。
- [133] [[星野恒]]は、「泰初」と読んで、[[魏]]の[[元号]]
([TIME[y~4161]])
と解釈しました
[SRC[>>184, >>121 #page=8 (星野恒1892)]]。
-- [134] 「三国魏文帝ノ世ニ泰初アリ」としましたが、実際にはなく、
[[文帝]]の[[黄初]]、[[明帝]]の[[太和]]、[[景初]]との混同とされます
[SRC[>>121 #page=8]]。
-- [195]
[TIME[西洋紀元230年][230]]とされており [SRC[>>184 /139]]、
[TIME[魏太和4(230)年庚戌][230]] ([TIME[y~1389]])
を意図していたようです。
[[太和]]を[[泰初]]と誤ったものです [SRC[>>197]]。
- [135] [[喜田貞吉]]は、「泰初」と読んで、
[TIME[西晋泰始4(286)年][year:286]]と解釈しました
[SRC[>>121 #page=8 (喜田貞吉1919)]]。
-- [136] [CITE[日本書紀]]神功皇后摂政66年条所引[CITE[晋起居注]]に
「武帝泰初二年」
とあることから、[[西晋]]の[[泰始]]は「もと泰初とあった」と考えたものです
[SRC[>>121 #page=8 (喜田貞吉1919)]]。
--- [209]
なぜ改めたかについて、次のように推測しました。 [SRC[>>197]]
----
[210]
[[唐]]の[[高宗]]の「治」の[[避諱]]で、
「治」のみならず「台」が付く[[字]]を避けた例が知られます。
----
[211]
そこで「始」が「初」に書き換えた時期があったかもしれません。
----
[212]
その後「初」を「始」に書き換えるようになったとき、
「泰初」を「泰始」に過剰修正し、
[[元号名]]が「泰始」と考えられるようになったのかもしれません。
----
[213]
[[金石文]]で「泰始」が発見されない限りは、こう考えておきたい。
--- [214] 参考: [[避諱元号]]
-- [237]
「泰始」銘[[金石文]]が発見されたため、この説は成り立たないことがわかりました。
[SRC[>>236]]
;; [215] 現在となっては[[荒唐無稽]]な説にも思われますが、
史書の表記が同時代の[[金石文]]で訂正されることはままあります。
[1]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[[銘文]]を
「[V[[RUBY[泰初][(ママ)]]四年六月一日平午[SNIP[]]]]」 ([[明朝体]])
と引いた上で、
[[百済]]元号説、
西晋[[泰始]]説、
東晋[[泰和]]説などを紹介しています。
独自の判断は避けていますが、
東晋泰和説が定説化してきた、
独自説は否定されていると紹介されています。
[SRC[>>1543]]
[REFS[
- [197]
[CITE[[[喜田貞吉]] 石上神宮の神宝七枝刀]], [TIME[2020-07-02T18:06:34.000Z]], [TIME[2023-06-17T07:28:58.947Z]] <https://www.aozora.gr.jp/cards/001344/files/49790_71268.html>
- [1542] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [1543] [CSECTION[第四章 朝鮮半島の公年号と僭竊年号・私年号]], p.[V[六四]]
]REFS]
*** 百済独自元号説
[857]
[[百済]]独自の[[元号]]とする説もありましたが、
当時[[百済]]では[[干支年]]が用いられたとして否定されています。
[SRC[>>100]]
[226]
[[朝鮮民主主義人民共和国]]や[[大韓民国]]で繰り返し独自[[元号]]説が提唱される
(そして一部の人々から支持される) 背景には、
純粋な歴史学的興味だけでなく、植民地統治の反動という政治的動機があるようです。
[[朝鮮民主主義人民共和国]]や[[大韓民国]]には、
[[百済]]や[[高句麗]]が[[元号]]を持っていたことを独立の証とみなし、
過剰な主張をする人々がいます。
[[七支刀]]については特にその銘文の解釈を巡って[[近代日本]]の通説の[[百済]]献上説と[[朝鮮]]の通説の[[百済]]下賜説の対立があり
([[現代日本]]の通説は対等的な贈与説か)、
[[神功皇后]]や[[任那日本府]]と絡めて、
古代と近現代が接続した[[政治][政治的]]問題と化しているのです。
;; [181] [[百済]]や[[高句麗]]の[[元号]]諸説については[[朝鮮半島の紀年法]]参照。
**** 百済泰和説
[87]
[TIME[西暦1963年][1963]]、
[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[金錫亨]]は、
[[三韓]]各国が[[日本国]]内にそれぞれ[[植民地]]を持っていたとする[[珍説][分国論]]を発表しました
[SRC[>>86]]。
[[皇国史観]]への「意趣返し」のようなもので学問といえるレベルにないものですが、
[[皇国史観]]バリアで穴だらけでもスルーされてきた日本古代史の基礎を固めるいい契機にはなったのかもしれません。
[SEE[ [[分国論]] ]]
[95]
[[金錫亨]]は、次のように主張しました
[SRC[>>86]]。
- [89]
[[七支刀]]銘文は
「[泰]和四年[五]月[十]六日丙午正陽[SNIP[]]」
- [90]
[[日本]]の学者のいう[[東晋]]の「太和」 ([TIME[西暦369年][369]]) ではない。
あり得ない。
- [91]
[[日本]]の学者は[[百済]]の[[元号]]の可能性を考えたことさえない。
- [92]
[[百済]]の[[元号]]以外にあり得ない。
- [93]
いつかは今後の研究。
[[七支刀]]は3世紀から5世紀頃のもの。
[94]
論証なく[[百済]]の[[元号]]とする説は論外だと評されています。
[SRC[>>85 #page=4]]
[REFS[
-[86]
[CITE@ja-JP[三韓三国の日本列島内分国について]], [[金錫亨]], [[村山正雄]], [[都竜雨]] 共訳, [TIME[1964]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-14T07:50:34.957Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2994674/1/18> (要登録)
-- [96]
原文初出:
[CITE[歴史科学]] [TIME[1963年][1963]]第1号 ([[朝鮮民主主義人民共和国]])
]REFS]
**** 百済泰惣説
[97] [[大韓民国]]の歴史研究者[RUBYB[[[李丙燾]]][[TIME[1896]]-[TIME[1989]]]]は、
次のように主張しました。
[SRC[>>85 #page=4, #page=5, >>121 #page=12]]
- [98]
[[七支刀]]銘文は
「泰△四年△月十六日丙午」
- [99]
[CITE[日本書紀]]神功皇后摂政52(252)年'''壬申秋9月'''丁'''卯朔''''''丙'''子条
([[七枝刀]]献上)
→
干支2巡繰り下げ:
西暦372年'''壬申秋9月'''辛'''卯朔'''。
丙子日はない。16日丙'''午'''。
- [103]
[CITE[日本書紀]]はこれの誤りで、作刀日を献上日として編纂したもの。
- [105]
[[元年]]は[TIME[西暦369年][369]]。
- [104]
△は「惣」。
[DFN[泰惣]]は[[百済]]が[[馬韓]]を統合したことを表す。
-- [109]
[CITE[三国史記]]によると西暦369年9月に[[高句麗]]撃退。
-- [110]
西暦369年9月に[[建元]]。
[106]
[CITE[日本書紀]]紀年については、元の日付はそれ自体誤ったものではないので、
恣意的に誤りとみなすことは不適切といわれます。 [SRC[>>85 #page=5]]
[107]
[TIME[西暦369年5月16日][kyuureki:0369-05-16]]が丙午でないことについは、
[[五月丙午]]説が有力とされます。 [SRC[>>85 #page=5]]
[108]
また、[[馬韓]]統一も推測に過ぎず、記録にはありません [SRC[>>85 #page=5]]。
この年に[[建元]]したとする根拠が見つかりません [SRC[>>121 #page=12]]。
[162]
「泰□」が「泰和」だとすると東晋泰和4年が百済泰和元年だったことになり、
無理が生じます。
[SRC[>>121 #page=12]]
;; [163]
ただ、[[魏晋南北朝時代]]には近隣国が同時期に同じ[[元号]]を違う[[元年]]で使った例がないわけではありません。
**** 百済奉□説
[111]
20世紀後期の[[朝鮮人]]の[[延敏沫]]は、次のように主張しました。
[SRC[>>85 #page=5]]
- [112]
[[七支刀]]銘文は
「奉□四年」
[SRC[>>85 #page=5, >>121 #page=13]]
- [113] 「奉」は[[中国の元号]]にないので、[[百済の元号]]
[SRC[>>85 #page=5]]
- [114]
[[七子鏡]]様式から武寧王の時代、5世紀後半から6世紀前半
[SRC[>>85 #page=5]]
- [164] [TIME[百済武寧王4(504)年][504]]に当たる [SRC[>>121 #page=13]]
[116]
[[七子鏡]]から[[七支刀]]の年代を決定するのは無理があるとされます。
[SRC[>>85 #page=6]]
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[100] [CITE@ja[[[七支刀]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-08 08:58:53 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80>
]FIGCAPTION]
> 1963年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした'''['''8''']'''。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され'''['''9''']'''、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした'''['''2''']'''。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真'''['''10''']'''による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された'''['''2''']'''。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし'''['''2''']''''''['''11''']'''、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない'''['''2''']'''。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない'''['''2''']'''。
> 銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「太和(泰和)四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる'''['''2''']'''。「泰」は「太」と音通するため'''['''2''']'''。
]FIG]
]REFS]
**** 百済[TIME[西暦408年][408]]説
[220]
[[大韓民国]]の研究者[RUBYB[[[홍성화]]][[TIME[1965]]-]]は、
「11月16日丙午」
の[[日干支]]と一致する日から、
[TIME[百済腆支王4(408)年][408]]に比定し、
[[泰○]] ([[태○]]) は[[百済]]の独自[[元号]]と主張しました。
[SRC[>>218, >>224]]
[227]
[[日干支]]が一致し、しかもそれが[[即位紀年]]の4年とも一致するのは、
大変興味深いところであります。
しかし[[百済]]が独自の[[元号]]を制定し利用していた根拠はこんにちまでまったく見出されておらず、
その事情が説明されなければならないでしょう。
[REFS[
- [218]
[CITE@ko[“한·일 고대사 뇌관 ‘칠지도’ 제작연도 369년 아닌 408년” - [[경향신문]]]],
2009.10.13 17:54,
[TIME[2023-06-17T08:11:05.000Z]] <https://www.khan.co.kr/culture/scholarship-heritage/article/200910131754261>
-
[223]
[CITE[Korea Open Access Journals]], [TIME[2023-06-17T08:34:06.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/landing/article.kci?arti_id=ART001413444>
-- [224]
[CITE[石上神宮 七支刀에 대한 一考察]],
[[홍성화]]
(全文[[PDF]]あり)
-
[225]
[CITE@ko[石上神宮 七支刀에 대한 一考察 :: 기초학문자료센터]],
[TIME[2010]],
[TIME[2023-06-17T08:36:01.000Z]] <https://www.krm.or.kr/krmts/search/detailview/research.html?dbGubun=SD&m201_id=10021762>
-
[222]
[CITE@ko[백제가 왜국에 준 ‘칠지도’ 놓고 한·일 ‘토론 배틀’ : 문화일반 : 문화 : 뉴스 : [[한겨레]]]],
등록 2016-10-19 14:37,
수정 2016-10-19 20:48,
[TIME[2023-06-17T08:23:31.000Z]] <https://www.hani.co.kr/arti/culture/culture_general/766377.html>
-- [221]
[CITE[百済が倭国に贈った「七支刀」めぐり韓国と日本が“討論バトル” : 文化 : [[hankyoreh japan]]]], [[한겨레]],
登録:2016-10-19 22:06,
修正:2016-10-20 06:55,
[TIME[2023-06-17T08:21:55.000Z]] <https://japan.hani.co.kr/arti/culture/25437.html>
]REFS]
- [234]
[CITE@ja-JP[日本文化と朝鮮]], [[朝鮮文化社]], [TIME[1973]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-18T05:33:25.651Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12211650/1/61> (要登録)
** メモ
[236] [CITE@ja-JP[日本美術工芸 (434)]], [[日本美術工芸社]], [TIME[1974-11]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-18T08:26:54.614Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2281903/1/18> (要登録)
* □和 (高句麗)
[68]
[DFN[□和]]は[[高句麗の元号]]の1つとされるものです。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [69]
[DATA(.label)[[[朝鮮民主主義人民共和国]][[咸鏡南道]][[新浦市]]梧梅里寺廟遺址裡出土[CITE[新浦市寺谷金銅板銘文]]]]
-- [70]
「[DATA(.text)[[太]和三年歲次丙寅二月廿六日[甲]戌朔記首]]」
[SRC[>>66]]
]ITEMS]
[73]
[[元号名]]は発見後に「太和」と読まれましたが、
現在見られる写真では損傷が酷く1文字目は判読不能とされています。
[SRC[>>1717]]
[71]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は[[元号名]]を[[太和]]としています。
[SRC[>>66]]
根拠不明ですが、参考文献に >>67 があり、それに従ったのでしょうか。
[65]
[[太和]]は[[高句麗の元号]]とされるがその可能性は低い
[SRC[>>1555 (姜賢淑2015など)]]
というのが近年の評価のようです。
おそらく□和を指すのでしょう。
太はもう候補とも考えられないのでしょうか。
-*-*-
[75]
[[渤海]]文化層から出土したとされますが、
[[渤海の元号]]で合致するものがありません。
[SRC[>>1717]]
;; [76] が、[[渤海の元号]]も未解明部分が多いです。
[[元号]]が伝わらない後期も含め王の治世年代に合わないことから[[渤海]]ではないとされている
[SRC[>>1717]] ようですが、治世途中での[[改元]]の[[逸年号]]が1例既に知られているので、
これだけの検討では不十分ではないでしょうか。
[77]
[[中国の元号]]でも□和3年丙寅に合致するものはなく、[[高句麗の元号]]とされます。
[SRC[>>1689, >>1717]]
[78]
[CITE[[[조선유적유물도감]] 4]],
[[조선유적유물도감편찬위원회]],
[TIME[1990]]
はこれを
「[太]和三年歲次丙寅二月廿六日[甲]戌朔」
と読んで、[TIME[西暦546年][546]]
([TIME[y~4136]])
としました。
多くの研究者がこれに従いました。
[SRC[>>1717]]
[72]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は[TIME[西暦546年][546]]説
([TIME[y~4136]])
により、
[[元年]]は[TIME[西暦544年][544]]としています。
[SRC[>>66]]
根拠不明ですが、参考文献に >>67 があり、それに従ったのでしょうか。
[81]
[[임기환]]は、
日付から 426 486 546 606、銘文から長寿王 (426 486) は難しい。
[TIME[西暦606年][606]]
([TIME[y~4135]])
の可能性が高いとしました。
[SRC[>>1689]]
[80]
[[이승호]]は銘文や他の[[高句麗の元号]]との関係から[TIME[西暦606年][606]]
([TIME[y~4135]])
としました。
[SRC[>>1717]]
[REFS[
-
[1689]
[CITE@ko[高句麗의 年號에 대한 小考 | [[국회도서관]]]],
[[임기환]],
[TIME[1997-03-01]],
[TIME[2023-06-05T12:15:07.000Z]] <https://dl.nanet.go.kr/search/searchInnerDetail.do?searchType=INNER_SEARCH&resultType=INNER_SEARCH_DETAIL&searchMehtod=L&searchClass=S&controlNo=KINX2007120506&queryText=&zone=&fieldText=&prevQueryText=KINX2007120521%3AALL_NI_TOC%3AAND&prevPubYearFieldText=&languageCode=&synonymYn=&refineSearchYn=&pageNum=&pageSize=&orderBy=&topMainMenuCode=&topSubMenuCode=&totalSize=1&totalSizeByMenu=1&seqNo=&hanjaYn=Y&knowPub=&isdb=&isdbsvc=&tt1=&down=&checkedDbIdList=&baseDbId=&selectedDbIndexIdList=&caller=&asideState=&dpBranch=ALL&journalKind=&selZone=ALL_NI_TOC&searchQuery=KINX2007120521>
(全文画像閲覧可能)
p.15
-
[67]
[CITE@ko[新浦市 절골터 金銅板 銘文 검토]],
[[이승호]] ([[Lee, Seung-ho]]),
[TIME[2015]],
[TIME[2023-06-07T12:58:07.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002015548>
(先頭5ページのみ [[PDF]] 閲覧可能)
-
[1717]
[CITE@ko[고구려의 稱元法과 年號 운용]],
[[이승호]] ([[Lee, Seung-ho]]),
[TIME[2020]],
[TIME[2023-06-06T09:59:10.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002607784>
([[PDF]] 全文あり)
#page=26
-- 白黒写真あり
- [66] [CITE@zh[[[太和]] (高句麗) - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2023-05-31T11:01:55.000Z]], [TIME[2023-06-07T12:57:15.953Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%92%8C_(%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97)>
]REFS]
[84] 関連: [[開化]]
[1667] [CITE@zh[哪些帝王的「年号」「谥号」「庙号」及政权的「国号」史书阙载直到考古重新发现? - 知乎]], [TIME[2023-06-04T13:23:24.000Z]] <https://www.zhihu.com/question/319502342/answer/1622757434>
□和、カラー写真あるも低解像度で判読不可
-*-*-
[82]
[[高句麗]]では他に「[永]和十三年」銘が発見されていて、
東晋の永和とされています。 [SEE[ [[高句麗の元号]] ]]
[83]
[[高句麗]]では他に「大和十三年歳在己已」銘が発見されていて、
[[北魏]]の太和とされています。 [SEE[ [[高句麗の元号]] ]]
* 太和 (新羅)
[28]
[DFN[太和]]は、
[[新羅の元号]]の1つです。
[[新羅]]最後の独自[[元号]]です。
[26]
基本的に[[太和]]表記ですが、たまに[DFN[大和]]表記されています。
[27] 「大和」表記例:
[REFS[
- [25] [CITE@ja-JP[百済史研究]], [[今西竜]], [TIME[1934]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-15T10:04:47.773Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918347/1/142>
]REFS]
[61]
非常に平和な世を願ったものといわれます [SRC[>>1555]]
が、想像の域を出ません。
[REFS[
- [1553] [CITE[[[日本語学]]]]
-- [1554] [CSECTION[[[年号を考える]]]]
--- [1555] [CITE[[[韓国の年号]]]], [[吉本一]], p.[L[79]]
]REFS]
[29]
王即位年の[[改元]]とする[TIME[太和1(647)年丁未][647]]説 ([TIME[y~270]])
があります。
- [30] [CITE[三国史記]]本紀にそうあります。 [SRC[>>7862]]
[31]
王即位年の翌年の[[改元]]とする[TIME[太和1(648)年戊申][648]]説 ([TIME[y~3991]])
があります。
- [32] [CITE[三国史記]]年表にそうあります。 [SRC[>>7862]]
- [33] [CITE[三国遺事]]にそうあります。 [SRC[>>7862]]
[60]
[CITE[紀元編]]には[TIME[唐贞观19(645)年乙巳][645]]とあります ([TIME[y~4127]])。
[SRC[>>59]]
[36] [CITE[三国遺事]]に用例があります。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [35] [CITE(.label)[三国遺事]]
-- [37]
「[SNIP[]]後有崛山祖師梵日。[DATA(.text)[太和年中]]入唐。[SNIP[]]以[DATA(.text)[會昌七年丁卯]]還國。[SNIP[]]」
[SRC[>>34]]
--- [38] [TIME[唐会昌7(847)年丁卯][847]] ([TIME[y~616]])