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998
999
1000
[1] 現在の[[南西諸島]]では、
他の地域と同じ[[日本の暦]]や[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] が使われています。
* 時刻の変遷の概略
[SEE[ [[日本の標準時]] ]]
* 琉球暦と元号
;; [28]
[[平安時代]]頃までに、[[奄美群島]]や[[吐噶喇列島]]が[[日本]]の統治下に入りました。
;; [17]
[[琉球王国]]の[[正史]]によると、
12世紀、
[[日本]]で失脚した[[源為朝]]が[[琉球]]に渡り、
王家の祖となりました。
;; [29]
14世紀頃、[[奄美群島]]南部が[[沖縄本島]]の[[北山]]王朝の統治下に入りました。
;; [18]
[TIME[1372年][year:1372]]、
[[琉球]]の[[中山]]王朝が[[明]]に[[朝貢]]しました。
[79] [[琉球王国]]は[[朝貢]]以来、[[中国]]の[[暦]]
([[支那の元号]]、[[農暦]])
を使っていました。 [SRC[>>22]]
;; [31]
[TIME[1416年][year:1416]]、
[[北山]]王朝は滅亡し、[[中山]]王朝の統治下に入りました。
;; [19]
[TIME[1429年][year:1429]]、
[[中山]]王朝が[[沖縄本島]]を統一しました。
これが[[琉球王国]]の成立とされています。
[[奄美群島]]南部の[[与論島]]と[[沖永良部島]]も[[琉球王国]]の統治下に入りました。
その後[[徳之島]]も統治下に入りました。
;; [32]
[TIME[1447年][year:1447]]、
[[奄美大島]]が[[琉球王国]]の統治下に入りました。
[21] [TIME[1465年][year:1465]]、
[[琉球]]人が[[福建]]で[[造暦]]法を学び、
以後[[琉球]]国内で[[暦]]が作られるようになりました。 [SRC[>>22]]
;; [33]
[TIME[1466年][year:1466]]、
[[喜界島]]が[[琉球王国]]の統治下に入り、
[[奄美群島]]全体が[[琉球王国]]領となりました。
;; [20]
[TIME[1469年][year:1469]]、
[[琉球王国]]で[[クーデター]]があり、
[[第二尚氏]]の王朝が成立しました。
;; [23]
[TIME[1500年][year:1500]]に[[石垣島]]、
[TIME[1522年][year:1522]]に[[与那国島]]が[[琉球王国]]の統治下に入りました。
;; [25]
[TIME[1609年][year:1609]]、
[[日本]]の[[薩摩藩]]が[[琉球王国]]に進攻しました。
[[奄美諸島]]は[[薩摩藩]]に編入されましたが、
形式的に[[琉球王国]]の管轄下にも置かれました。
その他の地域は[[琉球王国]]領土として存続しましたが、
[[琉球王国]]は[[薩摩藩]]の[[属国]]となりました。
ただし[[支那]]への[[朝貢]]も継続されました。
[432] [[琉球]]最古の歴史書である[CITE[[[中山世鑑]]]]
([TIME[1650年][year:1650]]成立) は、
[[源為朝]]の伝説を[[日本の元号]]を使って記述していますが、
全体的には[[南宋]]、[[元]]、[[明]]と[[支那の元号]]を使っています。
最初の年号は「南宋淳煕十四年丁未」
([TIME[1187年][year:1187]]、[[源為朝]]の[[子]]とされる[[舜天]]の即位) です。
[SEE[ [[中山世鑑]]、[[中山世譜]] ]]
;; [469] 実際には[[中国]]に初めて[[朝貢]]した頃より前は[[支那の元号]]が使われていたわけではないでしょうし、
歴史書の記述自体も史実かどうか疑わしいとされています。
[437] [[薩摩藩]]直接統治下の[[奄美諸島]]では、
[[日本の元号]]が使われていたようです。
(例えば >>468 参照)。
[[元号]]なしで[[十二支]]だけで[[年]]を表記することもありました。
[14] 1682年から1879年/明治12年まで[[琉球王国]]で発行されていた[[暦]]は[DFN[[RUBY[[[琉球暦]]][りゅうきゅうれき]]]]と呼ばれています。
1718年以降は[DFN[[CITE[選日通書]]]]という題名で発行されています。
正式には[[清]]の[[時憲暦]]を用いることとなっていましたが、
その到着までの便宜用という名目で[[琉球暦]]を発行して用いていたようです。
内容は[[時憲暦]]と同じで、[[北京]]の時刻により計算されていました。 [SRC[>>22]]
-*-*-
[234] [[明]]から[[清]]への交代期には、[[琉球]]はしばらく[[南明]]政権と交流しています。
その時期はまだ[[清]]の[[暦]]ではなく[[明]]の[[暦]]を使っていたと思われます。
(1648年の両者の[[閏月]]の配置が異なっています。)
[503] [[明]]滅亡で[[清]]が[[中国]]主要部を占拠した後も、
しばらくは[[南明]]と交流があり、その[[元号]]を使っていたようです
[SRC[>>484, >>485, >>486, >>487]]。次のような例がみられ、
すっきり一度で切り替わったわけではなさそうです。
- 隆武五年二月 [SRC[>>485]]
- 順治六年十一月十三日 [SRC[>>486]]
- 隆武八年 [SRC[>>624]]
-*-*-
[438] [TIME[1854年][year:1854]]の[[琉球王国]]と[[米国]]の[[条約]]では、
[[琉球]]の日付として[[支那の元号]]が、
[[米国]]の日付として[[西暦]]が示されていました [SRC[>>439]]。
[REFS[
- [146] [CITE@ja[琉球王朝の頃、どのような暦を使っていたか知る手掛かりとなる資料があるか。また、その暦は薩摩藩と関係が... | レファレンス協同データベース]] ([[国立国会図書館]] 著, [TIME[2015-11-21 19:01:06 +09:00]] 版) <http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085357>
- [439] [CITE@ja[琉米修好条約 - Wikisource]] ([TIME[2014-08-05 03:56:41 +09:00]] 版) <http://ja.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[442] [CITE@ja[琉蘭修好條約 - Wikisource]]
([TIME[2015-12-24 00:28:25 +09:00]] 版)
<https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E8%98%AD%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%A2%9D%E7%B4%84?uselang=ja>
]FIGCAPTION]
> 天主降生千八百六十九年七月初六日,以荷蘭書漢書立字,應遵執據。
> 咸豐九年己未六月初七日,在那霸公館,鈐蓋關防。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[445] [CITE[古琉球の元号: 目からウロコの琉球・沖縄史]]
([TIME[2016-01-24 00:05:26 +09:00]] 版)
<http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/06/post-72ef.html>
]FIGCAPTION]
> 明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。
> 洪武 こうぶ (1368~1398)
> 建文 けんぶん (1399~1402)※
> 永楽 えいらく(1403~1424)
> 洪煕 こうき(1425)
> 宣徳 せんとく(1426~1435)
> 正統 せいとう(1436~1449)
> 景泰 けいたい(1450~1456)
> 天順 てんじゅん(1457~1464)
> 成化 せいか(1465~1487)
> 弘治 こうじ(1488~1505)
> 正徳 せいとく(1506~1521)
> 嘉靖 かせい(1522~1566)
> 隆慶 りゅうけい(1567~1572)
> 万暦 ばんれき(1573~1619)
> ※建文帝は永楽帝のクーデターにより皇位を奪われたので、その存在を抹消されていた。琉球側の記録では建文年号の使用は見られないが、当時の状況から言えば建文帝存命当時には使用されていた可能性が高い。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[444] [CITE[琉球新報新聞博物館]]
([TIME[2016-01-19 13:21:59 +09:00]] 版)
<http://page.freett.com/aienar/main/sinbunmuse.htm>
]FIGCAPTION]
> 来館した時、明治27年12月16日付と同年12月28日付の琉球新報のコピーがおいてありましたので、頂いて参りました。年号が明治の元号、西暦の他に、神武暦が書かれているのは時代的なものでしょうが、中国の清暦の記載まであるのは沖縄の地域的なものなのでしょう。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[443] [CITE@ja[沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目-]]
([TIME[2016-01-24 00:09:21 +09:00]] 版)
<http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2007/2007_0629_Okinawa_02/2007_0629_01.html>
]FIGCAPTION]
> 一方、スポンサーの懐具合についてはどうだろう。そのヒントは由緒書に隠されている。
> 天久宮の創建は "成化年間"とあるが、実は日本の元号に "成化" というのはなく、琉球にもない。これは中国の元号である。当時の王朝は明で、成化年間は1465~1487年に相当する。
> 一国が自国の歴史を刻むとき、自前の暦(こよみ)を使うか外国の暦を使うかで、国家間の力関係を読み解くことができる。この場合、もちろん琉球は明に柵封される立場であり、強い影響下にあったので暦も明暦を使っているのである。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[484] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [二九七 中山王世子尚賢より隆武帝あて、登極を賀し、朝廷の恩を謝す奏文]
> 隆武二年三月初九日
> 琉球国中山王世子臣尚賢、謹んで上奏す
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[485] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [三〇二 中山王世子尚質より福建布政使司あて、未だ帰国しない進香および慶賀使節の安否を問う咨文]
> 右、福建等処承宣布政使司に咨す
> 隆武五年二月 日
> ※本項の記年の隆武五年は順治六年(一六四九)に相当するが、隆武
は二年までで、その年に清に亡ぼされている(なお鄭成功は「隆武
四年暦」を出している)。当時の琉球の情報は隆武帝の即位までで
あり、隆武二年の金正春らの慶賀使派遣、同年冬の毛大用の帰国以
後、情報はとだえており、この間の金正春らの探訪船の派遣も福州
に達していない。まして、清軍による福州制圧の情報は未だもたら
されていなかった可能性が強い。なお、本項への中国側(魯監国)
からの返書は二九六項にあるので、項注ともに参照されたい。]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[486] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [三〇四 中山王世子尚質より巡撫福建都察院捉あて、金思徳らの送還の際の尽力に感謝する咨文]
> 右、巡撫福建都察院捉に咨す
> 順治六年十一月十三日
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[487] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [二九一 中山王世子尚賢より中国あて、先帝毅宗への進香使の派遣についての符文]
> 弘光元年四月十五日給す
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[488] ([TIME[2001-02-07 21:10:20 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%97%f0%91%e3%95%f3%88%c4%91%e6%88%ea%8fW%83e%83L%83X%83g/03.txt>
]FIGCAPTION]
> 一集 巻三
> 勅詔集
> 起順治四年
> 歴代宝案
> 至康熈三十四年
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[624] ([TIME[2013-03-30 13:59:04 +09:00]])
<http://rekibun.jp/201212tyousa.html>
[6] ([TIME[2018-11-25 20:17:54 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20170408100324/http://rekibun.jp/201212tyousa.html>
]FIGCAPTION]
> 『比嘉春潮全集』(第一巻 歴史篇Ⅰ)の後のグラビアに「のろの辞令書」として掲げてあり、本文に「のろ辞令書」についての説明が見つからない。「中国の三藩動乱と沖縄」(201頁)の琉球のスタンスを示すものとしてのものであろう。そのことについて、島袋源一郎は『補遺伝説 沖縄の歴史』(317頁)の「明・清の乱と琉球の態度」でこの辞令書を挙げている。「承応二年(1653)王尚質より今帰仁間切中城のろくもいに賜はりし辞令に、隆武八年と記されている。是れ即ち靖南王の称へた年号で清の福臨の順治十年に当たっているのから考えれば、あるいは順治を称へ、あるいは隆武を用い、その間日和見的態度にいたと推定することが出来る」とある。
> 伊波普猷は「その頃から進貢使は空道と称する琉球国王の印璽を押した白表を携帯していて、万一支那の革命の時は直ちに之に表文を認めることにしていたという。以て当時如何に事大主義なりしかを察知すべきである」と。
> 隆武年は動乱で1年しかないが、琉球では隆武八年(順治10年:1653)まで架空の年号を用いたことになる。中城のろ辞令書であるが、架空の年号を7年も使っていたわけである。動乱中の弘光元年(1645)の辞令書、それと隆武三年の辞令書があるが(辞令書等古文書調査報告書:沖縄県文化財調査報告書)、二点については動乱中、動乱間もない頃なので、当時の情報の流れからすると致し方ないのかもしれない。
]FIG]
- [468] [CITE[徳之島における三平所と手々村神役の継承システム : 琉球と薩摩藩の影響を受けた文書とシマの運営を含め]]
([[弓削政己]],
[TIME[2015-03-31]],
[TIME[2018-11-25 20:13:45 +09:00]]) <https://hdl.handle.net/10114/9940>
-- 旧:
([TIME[2015-04-01 16:09:36 +09:00]] 版)
<http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/9940/1/15_oki_41_yuge.pdf>
]REFS]
* 明治維新後の内地化
;; [24]
[TIME[明治4年][year:1871]]、
[[廃藩置県]]により[[鹿児島藩]] ([[薩摩藩]]) は[[鹿児島県]]となりました。
[[奄美群島]]・[[吐噶喇列島]]は[[鹿児島県]]管轄となり、
[[琉球王国]]は[[鹿児島県]]の[[属国]]となりました。
[80] [TIME[明治12年3月11日][1879-03-11]]に[[琉球藩]]を廃して[[沖縄県]]が設置されたことで、
以後公式には[[選日通書]]は発行されなくなりました。
しかしその後も[[石垣島]]では[CITE[選日通書]]という[[時憲暦]]による[[略暦]]が発行されていたようです。
[SRC[>>22]]
[433] 1872年~1879年の[[琉球藩]]時代には、
形式的には[[日本]]国内ですから[[日本]]の[[元号]]が使われているべきですが、
まだ[[中国の元号]]が使われていたと思われます。
[404] 明治8年に[[日本政府]]は[[琉球藩]]に対し、[[明治]]の[[元号]]を使うよう求めています。
当時の[[沖縄]]では日本に対しては[[日本]]の[[元号]]を使い、
[[清國]]に対しては[[清國]]の[[元号]]を使っているようで、
そのような慣習を改めなければならない、と述べられていました。 [SRC[>>403]]
[434] 1879年の[[沖縄県]]設置により、本格的に[[明治]]が使われるようになりました。
[REFS[
- [22] [CITE[Amazon.co.jp: 暦の大事典: 岡田 芳朗, 神田 泰, 佐藤 次高, 高橋 正男, 古川 麒一郎, 松井 吉昭: 本]] ([TIME[2014-09-10 13:46:09 +09:00]] 版) <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4254102372/wakaba1-22/>
- [403] [CITE[国立公文書館 アジア歴史資料センター 標題:明治ノ年号遵奉及藩制改革等ヲ令ス附松田内務大丞ノ説明書]] ([TIME[2016-01-26 01:38:20 +09:00]] 版) <http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03022995500>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[302] [CITE@ja[琉球王国 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-13 13:48:35 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD>
]FIGCAPTION]
> 1872年には琉球藩を設置し、琉球国王尚泰を琉球藩王に「陞爵」して華族に列した。明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。そのため1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ'''['''10''']'''、沖縄県令として前肥前鹿島藩(佐賀藩の支藩)主の鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[303] [CITE@ja[琉球藩 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-18 18:59:54 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E8%97%A9>
]FIGCAPTION]
> 明治政府は翌1875年、琉球に対して清との冊封と朝貢関係の廃止、ならびに明治年号の使用などを命令するが、琉球は清との朝貢関係を継続する意向を表明。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[447] [CITE@ja[台湾出兵 - Wikipedia]]
([TIME[2015-07-09 08:34:24 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E5%87%BA%E5%85%B5>
]FIGCAPTION]
> 明治政府は翌1875年(明治8年)、琉球に対し清との冊封・朝貢関係の廃止と明治年号の使用などを命令した。しかし琉球は清との関係存続を嘆願、清が琉球の朝貢禁止に抗議するなど外交上の決着はつかなかった。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[446] [CITE@ja[琉球王国 - Wikipedia]]
([TIME[2015-07-03 12:09:44 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E7%8E%8B%E5%9B%BD>
]FIGCAPTION]
> 明治政府は、廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三にわたり迫ったが、琉球は従わなかった。
]FIG]
]REFS]
* 標準時
** 沖縄諸島
;; [721] [[琉球王国]]は、[[薩摩藩]]の[[属国]]でしたが、[[清国]]にも[[朝貢]]していました。
[342] [[琉球王国]]時代には、[[首里城]]の[[日時計]]と[[水時計]]に基づき[[太鼓]]で城内に時刻を知らせ、
更に[[鐘]]により城下にも[[報時]]していました。
;; [[報時]]参照。
;; [68] [TIME[明治4年][year:1871]]、[[廃藩置県]]により[[鹿児島藩]]は[[鹿児島県]]となりました。
[TIME[明治5年][year:1872]]、[[琉球藩]]が設置され、[[明治政府]]の管理下に入りました。
[722] 理論上は[[本土]]と同じく[TIME[明治6年][year:1873]]より[[太陽暦]]が実施されたと考えられます。
[4] ただ[TIME[明治12年][year:1879]]まで[[琉球藩]]は引き続き暦 ([[時憲暦]])
を発行していたといいます ([[琉球暦]]) [SRC[>>27]] し、
中央政府から[[清]]の[[元号]]をやめて[[明治]]の[[元号]]を使うようわざわざ要求されている状況でしたから、
実態としては[[琉球王国]]時代と変わっていなかったのかもしれません。
;; [30] 暦の計算上は[[北京]]時間が使われていました。
日常的には沖縄の[[地方時]]が使われていたのでしょう。
;; [723] [TIME[1879年4月4日][1879-04-04]]、[[琉球藩]]が[[廃止]]され、
[[沖縄県]]が設置されました。
[407] [[琉球藩]]が廃止され[[沖縄県]]が設置して数年経過してから、
[TIME[明治21年1月1日][1888-01-01]]の[[中央標準時]]の実施となるので、
こちらはすぐに[[沖縄]]でも実施されたものと思われます。
ただし[[沖縄]]までの海底[[電信]]線が開通したのは[TIME[明治29年][year:1896]]なので、
それまでは[[中央標準時]]に同期された[[時計]]はなかったと思われます。
[736] 以後の状況は日本本土の項も参照。
-*-*-
[40] 昭和21年/1946年から昭和47年/1972年5月14日まで[[米国]]の支配下にありましたが、
引き続き[[中央標準時]]が用いられていたものとみられます。
[41] [[夏時刻]]も実施されていたようですが、
本土の[[夏時刻法]]は適用されておらず[[米軍]]の指示で実行したもので、
期間も異なっていました。
[SEE[ [[昭和のサンマータイム]] ]]
[759] [TIME[1966年][year:1966]]の[[米国]]の書籍は、
RYUKYU ISLANDS
の[[標準時]]を [TZ[+09:00]] としています [SRC[>>761]]。
[FIG[ [2160] [[沖縄]]の[[太陽]]
- [[那覇]] [[標準時]] [TZ[+09:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[夏至]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[秋分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+09:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetbefore=02:00
]FIG]
[[冬至]]
- [[那覇]] [[夏時刻]] [TZ[+10:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[夏至]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[秋分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+10:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetafter=01:00 offsetbefore=01:00
]FIG]
[[冬至]]
- [[那覇]] [[夏時刻]] [TZ[+11:00]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-03-20 offsetafter=02:00
]FIG]
[[春分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-06-21 offsetafter=02:00
]FIG]
[[夏至]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-09-23 offsetafter=02:00
]FIG]
[[秋分]]
--
[FIG(suntime)[
tz=+11:00 lat=26.213083 lon=127.678056 day=2000-12-21 offsetafter=02:00
]FIG]
[[冬至]]
]FIG]
[REFS[
- [761] [CITE[Time Changes in the U.S.A.]] ([TIME[1966][year:1966]])
- [27] [CITE[Amazon.co.jp: 暦の大事典: 岡田 芳朗, 神田 泰, 佐藤 次高, 高橋 正男, 古川 麒一郎, 松井 吉昭: 本]] ([TIME[2014-09-10 13:49:48 +09:00]] 版) <http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4254102372/wakaba1-22/>
]REFS]
** 大東諸島
[75] 明治28年/1885年には[[北大東島]]・[[南大東島]]が、
明治33年/1900年には[[沖大東島]]が (明治33年沖縄県告示第95号)
[[沖縄県]]に編入されています。
昭和21年/1946年から昭和47年/1972年5月14日まで[[琉球]]の一部として[[米国]]支配下にありました。
[10] いずれの期間も[[沖縄諸島]]と同じ[[標準時]]、[[夏時刻]]が実施されていたと思われます。
;; [737] 沖縄諸島の項も参照。
** 八重山列島と宮古列島
[81] [[琉球国]]の[[先島諸島]] ([[八重山列島]]と[[宮古列島]])
でも[[本土]]と同じく[TIME[明治6年/1873年][year:1873]]より[[太陽暦]]、
その後[[標準時]]が実施されたと考えられます。
[69] 明治29年/1896年1月1日から昭和12年/1937年9月30日まで[[西部標準時]]が適用されていました。その後[[中央標準時]]に戻っています。
[83] 昭和21年/1946年から昭和47年/1972年5月14日まで[[米国]]の支配下にありましたが、
引き続き[[中央標準時]]が用いられていたものとみられます。
[[沖縄諸島]]と同じく[[夏時刻]]も実施されていたようです。
;; [738] 沖縄諸島の項も参照。
** 尖閣諸島
[2146]
[[尖閣諸島]]は[[江戸時代]]以前から[[先島諸島]]と人の行き来があり、
実質的に[[琉球]]の一部でした。[[沖縄県]]設置後も、
その[[行政]]的な管理下にありましたが、
[TIME[明治28年1月14日][1895-01-14]]、
[[日本政府]]の[[閣議決定]] (明治28年内甲第2号閣議決定) [SRC[>>72]]
により、
正式に[[日本]]の領土に編入されました [SRC[>>71]]。
[70] 編入より後に新設された[[西部標準時]]の適用範囲に[[尖閣諸島]]は明記されませんでしたが、
元より[[尖閣諸島]]は[[八重山]]の行政機関の管理下にあり、正式編入後
[[八重山郡]] [WEAK[([TIME[明治29年4月1日][1896-05-01]]設置 [SRC[>>73]])]]
[[石垣村]] [WEAK[([TIME[大正3年4月1日][1914-04-01]]設置 [SRC[>>74]] = 旧[[八重山村]]・[TIME[明治41年][year:1908]]設置 [SRC[>>74]]、現[[石垣市]])]]
に所属したことから、[[八重山]]の一部として[[西部標準時]]の適用範囲内だったと思われます。
[82] 昭和21年/1946年から昭和47年/1972年5月14日まで[[米国]]の支配下にありましたが、
引き続き[[中央標準時]]が用いられていたものとみられます。
[[沖縄諸島]]と同じく[[夏時刻]]も実施されていたと思われます。
;; [739] 八重山列島の項も参照。
-*-*-
[985] [[尖閣諸島]]は[[日本国]]の[[実効支配]]下にありますが、
他に[[中華民国]]および[[中華人民共和国]]が[[領有権]]を主張しています。
[[中華人民共和国]]はしばしば周辺海域に[[軍艦]]を派遣しています。
[[中華民国]]や[[中華人民共和国]]の[[法令]]上は、
両国の[[標準時]] [TZ[+08:00]] (あるいは時期によっては[[夏時刻]] [TZ[+09:00]])
が適用されていると推測されます。
;; [[台湾の標準時]]、[[中華人民共和国の標準時]]を参照。
[REFS[
- [71] [CITE@ja[尖閣諸島情勢に関するQ&A | 外務省]] ([TIME[2014-06-18 06:21:09 +09:00]] 版) <http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/qa_1010.html#q2>
- [72] [CITE[標杭建設に関する閣議決定]] ([TIME[2014-08-29 16:11:41 +09:00]] 版) <http://www.tanaka-kunitaka.net/senkaku/2a11rui715-1895/1895-01-14.html>
- [73] [CITE[中野文庫 - 沖縄県ノ郡編制ニ関スル件]] ([TIME[2014-08-29 16:19:39 +09:00]] 版) <http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/rm29-13.htm#%E6%B2%96%E7%B8%84%E7%9C%8C%E3%83%8E%E9%83%A1%E7%B7%A8%E5%88%B6%E3%83%8B%E9%96%A2%E3%82%B9%E3%83%AB%E4%BB%B6(%E6%98%8E%E6%B2%BB29%E5%B9%B4%E5%8B%85%E4%BB%A4%E7%AC%AC13%E5%8F%B7)>
- [74] [CITE@ja[八重山村 - Wikipedia]] ([TIME[2014-08-22 11:58:54 +09:00]] 版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E6%9D%91>
]REFS]
* 西部標準時
[9] [DFN[[[西部標準時]]]]は、明治29年/1896年1月1日 [SRC[>>8]] から昭和12年/1937年9月30日
[SRC[>>59]] まで、[[大日本帝国]]の西部地域で用いられていた[[標準時]]です。
[212] 次のように呼ばれることがあります。
[FIG(middle list)[ [974] [[西部標準時]]の呼称
- [[西部標準時]]
- [DFN[Western Standard Time]]
- [DFN[Western S. T.]]
- [DFN[[[日本西部標準時]]]]
- [DFN[[[JWT]]]]
- [DFN[[[Japan Western standard Time]]]]
- [DFN[Western Standard Time]]
]FIG]
[SEE[ 利用事例については[[日本の標準時]] ]]
[62] [LON[東経120度子午線][120E]] [SRC[>>8]] の時刻で、 [[GMT]] よりも8時間進んでいました
([TZ[+08:00]])。[[夏時刻制]]が実施されたことはありません。
[64] [[台湾]]・[[澎湖列島]]と[[八重山列島]]・[[宮古列島]]に適用されていました [SRC[>>8]]。
[227] [[関東州]]および[[満鉄附属地]]でも[[西部標準時]]が採用されていました (>>212)。
更に、[[満州国の標準時]]や[[支那]]の[[北京]]、[[南京]]、[[上海]]等を含む地域の標準時とも一致していました。
[586] [[西部標準時]]実施中は[[沖縄県]]の区域の中に[[時間帯]]の境界があったことになります。
現代からみると不便そうに思えます
[WEAK[(実際末期には不便だったようで廃止の理由の1つに挙げられています ([[大東亜の標準時]]参照))]]。
しかし同じ[[沖縄県]]とはいえ[[沖縄諸島]]と[[先島諸島]]は距離がありますし、
明治初期には[[沖縄諸島]]と[[先島諸島]]の間に[[国境]]を置く案すら[[清国]]と交渉が進められていたくらいです。
当時の[[交通]]と[[通信]]の状況や庶民への[[時計]]の普及の具合では、
ここに境界線を引くことにそこまで大きな障害は無かったのでしょう。
-*-*-
[366]
[[帝国大学]]総長の[[濱尾新]]が[[理科大学]]の協議をまとめ[TIME[明治28年6月20日][1895-06-20]]に[[西園寺公望]][[文部大臣]]に提出、
[TIME[29日][1895-06-29]]に[[伊藤博文]][[台湾事務局総裁]]に送付された[[文書]]は、次のように述べていました [SRC[>>228]]。
- [[中央標準時]]と新領地では1時間前後の[[時差]]があり、新領地では採用できない
- 現在新領地では様々な[[地方時]]が用いられていて不便である
- 新領地の標準時は、現在の[[地方時]]と大差なく、[[中央標準時]]との換算が容易であるべきだ
- すなわち [TZ[+08:00]] がよい
-- [[台湾島]]と[[澎湖諸島]]の間に [LON[120E]] がある
-- [[中央標準時]]とちょうど1時間の[[時差]]である
-- [[萬國普通子午線及計時法公會]]決議の精神や[[欧米]]の[[標準時]]と整合した [[GMT]]
と整数[[時差]]である
-- [[支那]]の東部でも[[標準時]]として用いられるべきものだ
- [[八重山列島]]と[[宮古列島]]でも用いるべきだ
- [[朝鮮國]]でもこれを使うのが便利だ
-- 東岸では30分以上の[[時差]]があるが、
[[中央標準時]]と[[北海道]]の[[時差]]と同程度なので問題なかろう
-- 在朝鮮の日本の機関ではもちろん用いるべき
-- [[朝鮮政府]]に[[朝鮮國]]の[[標準時]]として採用することを勧告するべき
- [[標準時]]の呼称を設けるべき
-- 内地標準時または中央標準時
-- 台湾標準時または西標準時
;; [381] 初代[[理科大学]]長だった[[菊池大麓]]は[TIME[明治26年9月][1893-09]]に退き、
かわって[[山川健次郎]]が[[理科大学]]長をつとめていました。
(山川は[[天文学]]者ではなく[[物理学]]者であり、議論に参加したかは不明。)
[378] 本案は[[台湾事務局]]委員の賛同を得て
[TIME[12月20日][1895-12-20]]に[[勅令]]案が[[内閣総理大臣]]に提出され、
[TIME[27日][1895-12-27]]に[[裁可]]されました [SRC[>>228]]。
[379] 当初[[勅令]]案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし[[内地]]と[[朝鮮国]]駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
[[朝鮮国]]の[[標準時]]となるわけではないので、
時期尚早であると[[台湾事務局]]で判断され、削除されました [SRC[>>228]]。
;; [[朝鮮半島の標準時]]も参照。
[REFS[
- [59] [CITE[標準時ニ關スル件中改正ノ件]]
- [228] [CITE[||| 臺灣大學深化臺灣研究核心典藏數位化計畫 |||]] (明治28年12月27日 [TIME[2017-11-26 16:58:13 +09:00]]) <http://dtrap.lib.ntu.edu.tw/DTRAP/item?docid=M052_02_0129_0136&corpus=%E4%BC%8A%E8%83%BD%E5%98%89%E7%9F%A9%E6%89%8B%E7%A8%BF&num=10&highprec=1>
]REFS]
-*-*-
[16] [[気象観測]]では[[中央標準時]]が用いられました。
[SEE[ [[日本の標準時]] ]]
[588] [TIME[1915年][year:1915]]に[[那覇]]で出版された[[八重山諸島]]に関する本は、
当時の[[諸島]]の様子を詳細に説明しているにも関わらず、[[時差]]や[[時計]]への言及が一切ありません。
[[大正時代]]であっても、[[著者]]が島内で[[時刻]]について特筆するべきことを見出さなかったということになります。
[REFS[
- [587] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 八重山の研究]] ([[比嘉徳]]著, [TIME[大正4][year:1915]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/932656>
]REFS]
-*-*-
[65] [TIME[1937年][year:1937]]には[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] が廃止され、
旧[[西部標準時]]地域には[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] が適用されました。[TIME[9月30日午後11時][1937-09-30T23:00+08:00]]をもって
[TIME[10月1日午前0時][1937-10-01T00:00+09:00]]とされました [SRC[>>101]]。
[98] [[中央標準時]]への統合は、国内の[[時差]]の不便を解消することを目的としていました。
同時期に[[南洋群島]]や[[満州国]]でも[[時差]]の解消が進められていました。
;; [[大東亜の標準時]]を参照。
[499] [[日本軍]]の[[台湾][大日本帝国台湾]]駐在部隊は[[標準時]]改正に先立つ
[TIME[8月15日][1937-08-15]]に[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] に移行していました [SRC[>>498]]。
[REFS[
- [984] [CITE@ja[国立国会図書館デジタルコレクション - 官報. 1937年10月02日]] 臺灣附近 標準時變更 ([TIME[2018-02-02 23:43:15 +09:00]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2959712/7>
- [498] [CITE[標準時改正に関する件]] ([TIME[2016-08-21 21:15:52 +09:00]]) <http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_C01001433800>
]REFS]
-*-*-
[106] [[大東亜戦争]]の停戦後の[TIME[1945年9月21日][1945-09-21]]、
[[台湾総督府]]により[[台湾の標準時]]が[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] に改正されました。
この時[[標準時]]が改められたのは、[[台湾総督府]]管下、
すなわち[[台湾]]本島の他に[[澎湖諸島]]と[[新南群島]]を含むと思われます。
[SEE[ [[臺灣の標準時]] ]]
[REFS[
- [101] [CITE@ja[臺灣ノ標準時ヲ中央標準時ニ改正 (昭和十二年台湾総督府告示第二百七号) - Wikisource]] ([TIME[2014-07-30 06:58:13 +09:00]] 版) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E8%87%BA%E7%81%A3%E3%83%8E%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82%E3%83%B2%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82%E3%83%8B%E6%94%B9%E6%AD%A3_(%E6%98%AD%E5%92%8C%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8F%B0%E6%B9%BE%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C%E5%91%8A%E7%A4%BA%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%99%BE%E4%B8%83%E5%8F%B7)>
]REFS]
-*-*-
[269] [[Shanks]] (2003 [SRC[>>270]]) は[TIME[1896年1月1日][1986-01-01]]から[[日本]]の一部地域を
[TZ[+08:00]]、それ以外の地域を [TZ[+09:00]] とし、それ以前を[[地方時]]としています。
これは最初の[[(中央)標準時][中央標準時]]の制定を見落としたもので、誤りです。
-*-*-
[572] [TIME[1982年][year:1982]]に日本で出版された[[石原昌家]]
[CITE[大密貿易の時代: 占領初期沖繩の民衆生活]] [SRC[>>571]]
は、[[第二次世界大戦]]の前に[[台湾]]と[[与那国島]]が[[西部標準時]]を用いていたとし、
[[石垣島]]との間に1時間の[[時差]]があったと述べています。
また、当時[[与那国島]]では[[腕時計]]も普及しておらず、
[[時差]]のことを記憶している人は少ないと指摘しています。
;; [573] 原文未確認ですが、本書が現地住民の証言に基づき執筆されているのであれば
(そしてその記憶が正しいなら)、
公式な制度とは異なる実態があった可能性もあります。例えば、
[[西部標準時]]廃止前から[[沖縄諸島]]寄りの[[石垣島]]では[[中央標準時]]が非公式に用いられており、
[[台湾]]寄りの[[与那国島]]では[[西部標準時]]が用いられていた、
ほとんどの住民は時計を持たずそのような違いを意識しなかった、
ということもあるかもしれません。
[213] [[第二次世界大戦]]の[[終戦]]により[[西部標準時]]が[[廃止]]されたとするもの
[SRC[>>397, >>576]] もありますが、明確に誤りです。
[519] 1950年代の米国政府の地図を基に作られたのではないかと推測される地図 [SRC[>>570]]
では、[[先島諸島]]が [TZ[+08:00]]、それ以外の[[南西諸島]]が [TZ[+09:00]]
で塗られています。
[521] [[米国政府]]の[[時間帯]]の図では、[TIME[1985年][year:1985]]版から
[TIME[1995年][year:1995]]版まで、
[[先島諸島]] ([[尖閣諸島]]を含む。) が [TZ[+08:00]] で着色されていました。
[TIME[1997年][year:1997]]版以降は [TZ[+09:00]] となっています。 [SRC[>>520]]
[TIME[1968年][year:1968]]版を元に描かれたという[[日本]]の[[地図]]でも
[TZ[+08:00]] になっています [SRC[>>549]]。
[522] [[Shanks]] (1991 [SRC[>>150]], 2003) は、
[[先島諸島]]各地を [TZ[+08:00]] としており、標準時改正が無かったものとして扱っています。
([[Shanks]] (2003) では[[台湾の標準時]]も[[中央標準時]]に統一されていないことになっています。)
[149] [[tzdata]] は、[TIME[1993年][year:1993]]、 [[Shanks]] を出典に
[DFN[[CODE[Asia/South_Ryukyu]]]] を1896年以来現在に至るまで [TZ[+08:00]]
としていましたが、代表都市不明のため[[注釈]]にして保留にしていました [SRC[>>150]]。
[523] その後 [[tzdata]] は[[石垣島]]を代表都市として [DFN[[CODE[[[Asia/Ishigaki]]]]]]
という名前でこれを正式な項目としました。 [[tzdata]] を採用していた1990年代の [[OS]]
などでは、これに対応する[[時間帯]]を [DFN[[[south Ryukyu Islands]]]]
などとして[[日本]]本土と別に表示していました。 [SRC[>>150, >>151]]
[525] [TIME[1998年][year:1998]]の [CITE@en[UNIX USER]] 誌の連載記事[CITE[ルート訪問記]]
[SRC[>>524]] を契機に[[奈良女子大学]]の[RUBY[鴨浩靖][かもひろやす]]らの
[DFN[South Ryukyu Islands調査隊]]が事情を調査し、
[[西部標準時]]の誤伝であると結論付けて[TIME[翌年][year:1999]]同誌上で報告しました
[SRC[>>150]]。[TIME[1999年2月][1999-02]]、 [[tzdata]] からも
[WEAK[(1970年以後が異なる場合のみ収録するとの方針に反するとして)]]
[CODE[Asia/Ishigaki]] は削除されました [SRC[>>150, >>151, >>152, >>526]]。
[590] [CITE[ブリタニカ百科事典]]の[[地図]]は、[TIME[2017年][year:2017]]時点で未だに[[先島諸島]]を
[TZ[+08:00]] に着色しています [SRC[>>589]]。
[580] [[米国]]統治時代の[[先島諸島]]で、 [TZ[+08:00]] の旧[[西部標準時]]が復活していた
(そして[[米国]]政府の地図はそれを反映していた) 可能性も、
無いとは言い切れません。 琉球の[[夏時刻]]制の記録が現在ほとんど見られないように、
初期の一時期のみの実施なら、現在それを語る人がいないとしても、不自然ではありません。
しかし、[[米国]]の地図以外にこの説を支持する材料はありません。
[[右側通行]]から[[左側通行]]への切り替えのように[[沖縄返還]]時の話題として取り上げられることがないので、
返還当時は既に [TZ[+09:00]] だった可能性が高いです。
[REFS[
- [270] [[Shanks & Pottenger]] [CITE@en[The International Atlas]] (2003)
- [520] 1985年-2015年 [CITE@en[Standard Time Zones of the World (CIA World Factbook)]]
[[時差の表]]
- [570] 20世紀後半初期 時間帯図 [[時差の表]]
- [549] [TIME[1972年][year:1972]] [CITE[世界大百科事典]] [[時差の表]]
- [524] [CITE[第41回 ルートへの道はフリー・ソフトウェアのインストールから]] ([TIME[2015-08-10 14:36:19 +09:00]]) <http://tomo.gr.jp/root/9808.html>
- [150] [CITE[「South Ryukyu Islandsの謎」調査の中間報告 および 最終報告]] ([TIME[2008-01-25 08:07:00 +09:00]] 版) <http://www.tomo.gr.jp/root/9925.html>
- [152] [CITE[Asia/Ishigaki?]] ([TIME[2012-02-25 02:55:06 +09:00]] 版) <http://mm.icann.org/pipermail/tz/1998-November/010471.html>
- [526] [CITE@ja[日本の標準時]] ([TIME[2016-09-23 14:40:18 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20050307030437/http://www.sat.t.u-tokyo.ac.jp/~hideyuki/tzdatajp.html>
- [151] [CITE@ja[日本標準時 - Wikipedia]] ([TIME[2014-08-30 23:49:52 +09:00]] 版) <http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82#South_Ryukyu_Islands.E6.99.82.E9.96.93>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[397] [CITE@ja[占星術用語事典]]
([TIME[2015-03-08 09:10:10 +09:00]] 版)
<http://www.ffortune.net/fortune/astro/dict/na.htm>
]FIGCAPTION]
> 日本の標準時は江戸時代までは首都である京都の平均太陽時が使用されていた。しかし明治維新以降、天皇が東京に「移動」してしまったため、一時的に東京の平均太陽時を全国の標準時とした時期があった。しかし明治17年、国際会議によって各国はグリニッジ標準時から1時間の倍数異なる時刻を使おうということになったため、日本の標準時として、東経135度線、つまり明石の平均太陽時が使用されることになった。これを「日本標準時」という。
> その後、日本は一時期台湾を領有したため、台湾用に「西部標準時(JWT=Japan Western standard Time)」を定め、明石時刻は「中央標準時(JCT=Japan Central standard Time)」とした。しかし、太平洋戦争敗戦により台湾を失ったため、西部標準時は消滅し、中央標準時が、再び日本標準時と呼ばれることになった。
[211] [CITE@ja[日本標準時-Japan Standard Time]] ([TIME[2016-05-22 12:33:21 +09:00]]) <http://can.ifortune.net/wiki/wiki.cgi/astro/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%A8%99%E6%BA%96%E6%99%82>
も同内容。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[571] [CITE[大密貿易の時代: 占領初期沖繩の民衆生活 - 石原昌家 - Google ブックス]] ([TIME[2017-01-21 14:01:05 +09:00]]) <https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=hVNDAQAAIAAJ>
]FIGCAPTION]
> 22 ページ
> 台湾鬵圈內の与冒霸与那国鳥の諸特撖麵戦前、台湾と与那国島とは同一時間だった。
しかし与那国島から石垣島に行く場合は時計の針を一時間早めた。
つまり、与那国—石垣間には一時間の時差があった。両島間の距離は南北一二七キロ
にしかすぎず、現在、時差はなくなっているが、台湾と沖縛とには依然、一時間の時差が
ある。これは、戦前、与那国島も台湾同様、「西部標準時」を使っていたからである。
この事実を知っているひとは与那国出身といえども数少ない。戦前、腕時計を持ち歩いていたひと
は限られているからである。崎原永著氏(一九二-一卩大正一一年生。沖純療育園長)の
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[574] [CITE[与那国島民の台湾テレビ電波による東京オリンピック視聴の意味考察]]
([[坂田謙司]]、[TIME[2016-02-04 15:07:54 +09:00]]) <http://www.ritsumei.ac.jp/ss/sansharonshu/assets/file/2012/48-2_02-02.pdf#page=13>
]FIGCAPTION]
> 例えば,戦前には与那国島
と台湾は同一時間帯であり,石垣島とは1時間
の時差があったという点からも,同一生活圏に
あったことがわかる[SUP[42)]]。
42) 石原昌家『大密貿易の時代−占領初期沖縄の民衆生活−』晩声社,1982,p22。
]FIG]
- [589] [CITE@en[Greenwich meridian | Britannica.com]] ([TIME[2017-02-09 21:57:09 +09:00]]) <https://global.britannica.com/place/Greenwich-meridian/images-videos>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1050] [CITE@ja[日本統治時代から台湾には時差がありましたか? - 歴史 解決済み| 【OKWAVE】]]
(2017-11-23 23:01:52 oska2 [TIME[2018-05-10 23:12:26 +09:00]])
<https://okwave.jp/qa/q9400478.html>
]FIGCAPTION]
> 奄美諸島・琉球列島とともに、東京の標準時間よりも1時間の時差が存在しました。
> が、戦時体制になるに従って東京の標準時間に統一されました。
> 軍部としては、二重の時間は作戦上面倒だったのでしよう。
]FIG]
;; [1051] [[奄美諸島]]から[[台湾]]まで [TZ[+08:00]] だったと主張しているが、
そのような事実はない。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[576] [CITE@ja[知ってた?八重山は昔、台湾標準時間だった|観相師 ふかマン]]
([TIME[2017-01-21 14:43:07 +09:00]])
<http://ameblo.jp/fukaman-life/entry-12218513572.html>
]FIGCAPTION]
> 大東亜戦争が終わるまで
> 八重山は、日本からみて“時差”が1時間存在してました。
> 戦争が終わってからは
> ここ、八重山の時間は明石市の『日本標準時刻』に組み入れられました。
> 日本西部標準時刻
> ここに詳しいことが載ってます。
> 昔は沖縄までが、明石市を起点とする標準時刻。
> 宮古~西側が台湾標準時刻。
> いや、正式には日本西部標準時刻。
]FIG]
]REFS]
* 米国統治時代
;;
[8] [TIME[昭和20年9月2日][1945-09-02]]、
[[米国]]が[[奄美群島]]と[[吐噶喇列島]]のうち[[下七島]]を統治下に置きました。
[TIME[昭和21年2月2日][1946-02-02]]、
正式に[[日本政府]]から[[米軍]]に統治権が移行されました。
米国統治時代、[[奄美群島]]と[[下七島]]は同じ行政区に含められました。
[435]
[[米軍]]の統治下に置かれた地域では、
[[日本の元号]]ではなく[[西暦]]が原則として用いられました [SRC[>>440, >>441]]。
[451] [[法令]]については、[[米軍]]統治が開始されるまでの[[日本の法令]]と、
それ以後の[[米軍]]当局およびその下部の政府組織による[[法令]]が適用されました。
[[日本の法令]]を参照するときは、[[元号]]を使った[[法令番号]]が引き続き用いられました。
[[琉球政府]]等の[[法令番号]]は、[[西暦]]を使っていました。
[[法令]]中の[[日時]]も[[西暦]]で表記されていました。
;; [34]
[TIME[昭和27年2月10日][1952-02-10]]、
[[吐噶喇列島]]が[[日本]]に返還されました。
;; [35]
[TIME[昭和28年12月25日][1952-12-25]]、
[[奄美群島]]が[[日本]]に返還されました。
[5] [[米国]]統治下の[[琉球政府]]によって定められた[[祝祭日]]として、
[[お盆の日]]が[[旧暦]]の[[7月15日]]とされていました。
[7] [[琉球政府]]は正式な[[旧暦]]を決定していたのでしょうか?
[124] 確かな情報は得られていませんが、当時の法令や議事録を検索する限り、
[[旧暦]]は自明なものとされていたようにみえます。
[[農暦]]ではなく[[旧暦]]ということでいいのでしょうかね?
(両者で違いが出る日付の琉球の出来事を扱った文献は現在のところ見つけられていません。)
[11] [SEE[ 休日について詳細は[[琉球の休日]] ]]
[REFS[
- [440] [CITE@ja[布令及指令の效力繼續 - Wikisource]] ([TIME[2014-08-05 12:57:02 +09:00]] 版) <http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B8%83%E4%BB%A4%E5%8F%8A%E6%8C%87%E4%BB%A4%E3%81%AE%E6%95%88%E5%8A%9B%E7%B9%BC%E7%BA%8C>
- [441] [CITE@ja[奄美、宮古、八重山支局管內の公證人の職務 - Wikisource]] ([TIME[2014-08-05 12:56:38 +09:00]] 版) <http://ja.wikisource.org/wiki/%E5%A5%84%E7%BE%8E%E3%80%81%E5%AE%AE%E5%8F%A4%E3%80%81%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E6%94%AF%E5%B1%80%E7%AE%A1%E5%85%A7%E3%81%AE%E5%85%AC%E8%AD%89%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%81%B7%E5%8B%99>
]REFS]
* 現代
[26] [[米国]]統治地域が[[日本]]に返還されてからは、
[[日本の法令]]の適用下となり、
本来の[[日本の暦]]や[[中央標準時]]が実施されるようになりました。
[502] 現在の[[日本]]の歴史書等では、
[[琉球]]の歴史的事項はすべて[[西暦]]で表したり、
[[日本の元号]]で表したりすることもあれば、
[[琉球王国]]時代は[[支那の元号]]で表すこともあります。
[36]
[[沖縄県]]では現在でも[[旧暦]]に基づく年間行事が盛んに行われています。
[[旧暦]]としては ([[農暦]]などではなく) [[日本の旧暦]]が用いられています。
* 琉球、支那、日本の旧暦の差異
[12] 中国の暦と日本の暦はどちらも中国式[[太陰太陽暦]]とはいえ、
[[時差]]など細部で違いがありますから、[[日本]]本土と[[琉球]]の間でも[[日付]]が異なることが度々あったと思われます。
[SEE[ [[旧暦]] ]]
* データファイル
[2] [SEE[ 元号一覧データファイルは[[元号]] ]]
[15] [SEE[ 旧暦と新暦の対応や日本・支那との比較は[[旧暦]] ]]
* 関連
[3] [SEE[ 日本と支那の元号名の衝突事例は[[元号]] ]]
* メモ
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[464] [CITE@ja[「癒しの島」から「冷やしの島」へ:琉球王国の測量技術と遺産「印部石」]]
([TIME[2016-02-05 17:32:11 +09:00]] 版)
<http://earthcooler.ti-da.net/e2559845.html>
]FIGCAPTION]
> 1609年に琉球王国を侵攻した薩摩藩が「慶長検地」を行い石高を定めた後、首里王府は1735年から1750年にかけて自主的に検地を実施した。これを「乾隆(注1)大御支配」(けんりゅうのおおごしはい)といい、その際に用いられた図根点(基準点)を「印部石(シルビイシ)」という。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[465] [CITE[小禄 -OROKU- うるく]]
([TIME[2015-01-20 11:28:12 +09:00]] 版)
<http://098oroku.net/haru.html>
]FIGCAPTION]
> その後、1737~50年(乾隆2~15)に王府は印部土手を用いた独自の測量法で両先島を除く沖縄島と周辺離島を検地した(乾隆大御支配=元文検地)。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[466] ([TIME[2009-09-11 15:01:00 +09:00]] 版)
<http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/50/06-09.pdf>
]FIGCAPTION]
> 図の左端の上に「嘉慶元年(一七九六)丙辰九月九日」と製作年月日と思われる日付を見ることができる。瓜二つの『薩摩藩調製図』も、これと同時に王府内で調製されたものと考えられる。
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[467] [CITE[奄美諸島のノロ(女性祭司)関係文書 ―16世紀から19世紀において]]
([TIME[2016-02-05 18:11:02 +09:00]] 版)
<http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/26342/1/cdats-hub2-17.pdf>
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> 萬暦十五年十月四日
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[13] [CITE@ja[白雪姫と七人の小坊主達 チベットゼミ in 沖縄(前半)]]
([[白雪姫]] 著, [TIME[2016-02-08 23:48:36 +09:00]] 版)
<http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-602.html>
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> 今日は沖縄三山時代の北山の王城の地、今帰仁城(ナキジングスク)に行く。むろん、世界遺産であーる。
> この城の上には乾隆14年の碑文があり、沖縄が薩摩の実効統治下にありつつも公式には中国元号を用いていたことがわかる。
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