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[1]
[DFN[[CITE[日本書紀]]改刪説]]は、
[[養老]]時代に成立したとされる
[CITE[日本書紀]]
が、実はその後またはその前に改定されていたとする説です。
[15]
現存
[CITE[日本書紀]]
は、その内容に不審な点、自己矛盾した記述などが含まれています。
それは一旦完成したものが、
その後大幅に改変され、
その時に不整合が残ったためだ、
と主張するのが改刪説です。
* 後世改刪説
[2]
[[養老]]の
[CITE[日本書紀]]
成立より後に改変があったとする説は、
[[江戸時代]]の研究者[[伴信友]]が提唱し、
[[平田篤胤]]、
[[飯田武郷]]、
[[木村正辭]]、
[[斎藤励]]らが支持しました。
[6]
[CITE[日本書紀]]
に
[CITE[日本紀]]
の呼称があることが、
改刪説と結び付けられていました。
[7]
[[壬申の乱]]の頃の紀年の乱れや、
[[朱鳥]]時代の [CITE[万葉集]]
との不整合などが改刪説と絡めて語られました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[3]
[[昭和時代]]の研究者[[坂本太郎]]は、
[[昭和時代]]初期の論文で[[伴信友]]らの主張を検討し、
否定しました [SRC[>>833]]。
[5]
[[坂本太郎]]によると、
改刪説は当時既に忘れ去られた状態で、ただ完全に否定はされていなかったといいます。
坂本の主張に対しても[[友田吉之助]] (>>4)
までしばらく賛否いずれも反応がなかったようです。
現在でも坂本の主張が通説とみなされているようです。
ただ坂本は後にして思えばなお論証が不十分だったと振り返っていました [SRC[>>883]]。
[REFS[
- [882]
[CITE[[[日本古代史の基礎的研究]]]] 上 文献篇
-- [883]
[CITE[日本書紀の後世改删説について]], pp.八七-一二二,
昭和十八年二月初出
]REFS]
* [CITE[和銅日本紀]]説
[4]
[[昭和時代]]の研究者[[友田吉之助]]は、
友田は坂本の主張を検討し、[[養老]]時代の成立以後の改変がなかったことには同意しました。
しかし、
[[和銅]]時代に一旦完成した史書があり、
[[養老]]時代にそれを改変したのが現在の[CITE[日本書紀]]だと主張しました。
[SEE[ [[友田吉之助]] ]]
[12]
[[昭和時代]]の[[友田吉之助]]の著書では、
[[江戸時代]]から[[近代]]に入るまでは改刪説が通説で、
昭和10年代に[[坂本太郎]]らがそれを否定したのだとしていて、
しかもそれは[[国体明徴運動]]の時代的背景によるものだと説明されています。
;;
[16]
[[友田吉之助]]は[[坂本太郎]]論を否定して改刪説を主張する立場だ、ということには注意。
また、[[坂本太郎]]らの主張の背景に戦前史学を見るなら、
[[友田吉之助]]の主張の背景にも[[記紀]]をとかく否定的に捉える戦後史学の風潮の影響を指摘しておかねば不公平でしょう。
[13]
[[友田吉之助]]の行論は強引な点が多く、これをそのまま受け入れるのは難しいと思われますが、
古代史に関して独創的な見解を有するアマチュア愛好家の一部には都合がいいようです。
[SEE[ [[友田吉之助]] ]]
[18]
[[友田吉之助]]は[[[CITE[古事記]]偽書説]]にも極めて近い立場にあったようです。
[CITE[古事記]]序文に[[和銅]]の[[紀年]]があることを、
[[友田吉之助]]は[CITE[和銅日本紀]]の痕跡だと主張していました。
[17]
[[友田吉之助]]の[CITE[和銅日本紀]]説に対しては複数の研究者が懐疑的な見解や、
疑問を呈した論文を発表しています。
[SEE[ [[友田吉之助]] ]]
その後この説を継承する研究者もほとんどなく、
現在では (独創的な見解を持つ一部アマチュア古代史愛好家を除いて)
忘れ去られているようです。
* メモ
[14]
[[坂本太郎]]の論文以後今日に至るまで、[CITE[日本書紀]]の成立過程で
([[和銅]]時代ないし[[養老]]時代以後に)
[[日本政府]]の事業として大規模な改定作業があった、
とする学説はほとんど賛同を得られていないようです。
[CITE[日本書紀]]が複雑な成立過程を経ていることは間違いないようですし、
成立後の伝来過程での変形も加わっているのかもしれませんが、
それは
「正史に残されなかった隠された政治的な改刪」
が1回劇的に行われたというような刺激的なものではなく、
地道な検討の積み重ねで解き明かしていくべきことなのでしょう。
[19]
[CITE[日本書紀]]
には確かに不自然な点が多いのですが、
それを全部改删のせいとしてしまうのも、
別の不自然の詰め合わせを作るだけで、
こちらを立てればあちらが立たず、
全体としては問題の解決になっていないというのが、
改刪説が成り立たないということなのでしょう。
[8] [CITE@ja[大友皇子即位説 - Wikipedia]]
([TIME[2020-02-12 10:47:49 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E7%9A%87%E5%AD%90%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E8%AA%AC#%E5%A4%AA%E6%AD%B3%E8%A8%98%E4%BA%8B%E3%81%A8%E3%80%8E%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80%E3%80%8F%E6%94%B9%E5%88%AA%E8%AA%AC>
[9] [CITE@ja[資料編 日本紀私記序(弘仁私記序) - 竹取翁と万葉集のお勉強]]
([TIME[2020-02-27 12:04:22 +09:00]])
<https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/c15b16871d53143c23f5a61c1f6064e6>
[10] [CITE@ja[万葉集 朱鳥の年号から神亀の年号について考える - 竹取翁と万葉集のお勉強]]
([TIME[2020-02-27 12:05:38 +09:00]])
<https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/0e8eaf159eac2ad167ef17127334043e>
[11] [CITE@ja[万葉雑記 色眼鏡 五十一 養老八年から万葉集を鑑賞する - 竹取翁と万葉集のお勉強]], [TIME[2020-02-27 12:14:29 +09:00]] <https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/460dbfec8b315288abfb27dad3be2fca>