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[1] [CITE@ja[ビルマ暦 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-11 11:08:52 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E6%9A%A6>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE[日本財団図書館(電子図書館) 「ライト&ライト-生活情報誌-」2/15号]]
([TIME[2016-03-12 23:46:22 +09:00]] 版)
<https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00755/contents/008.htm>
]FIGCAPTION]
> 仏教関係では、シャカが亡くなったといわれる年から数え始める国もあり、タイで使われている仏暦(太陰太陽暦)では、今は仏滅紀元2542年になっています。同じ仏教国でもミャンマー(ビルマ)では、同国に始めて仏教が伝えられた年を元年としており、今はコウザー(ビルマ紀元)1361年です。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE[タイ暦・ランナー暦]]
( ([TIME[2011-03-24 16:51:00 +09:00]]))
<http://thaistory.web.fc2.com/worldheritage.html>
]FIGCAPTION]
> 古い歴史書などには「大暦(マハッサカラート)」や「小暦(チュンラ・サカラート)」の年号が出てきますが、「大暦」は、西暦78年、「小暦」は、西暦638年がそれぞれ0年に当たります。「アユタヤ時代」の公用紀年だった「小暦」は、「ミャンマー」の公用紀年をそのまま使っていたもののようです。「ミャンマー」の歴史書は、小暦で記載されているものが多いようです。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[日本占領期のビルマにおける「ビルマ化」政策]]
([TIME[2007-05-24 16:06:02 +09:00]])
<http://lib1.kyokyo-u.ac.jp/kiyou/kiyoupdf/no110/bkue11003.pdf>
]FIGCAPTION]
> 本章の「Ⅰ」で見たビルマ語の使用に付随したのが,ビルマ暦[SUP[注 10)]]の使用だった。文書が英語で書
かれている限り,そこでビルマ暦が使われることはまずあり得なかったが,ビルマ語の使用範囲が広
がると,ビルマ暦が前面に現れる機会も増えた。先の『バーマ・ガゼット』の日付は,イギリス植民
地時代には西暦のみで記されていたが,1942 年以後は,西暦とビルマ暦が併用されるようになった。
『バマ・キッ』も,西暦とビルマ暦と仏暦の 3 つを使用した。また,戦前にタキン勢力や学生運動グ
ループが発行していた雑誌『ナガーニー』でさえ,日付については西暦だったが,日本占領期の『サー
イェーサヤー・マガジン』になると,発行日がビルマ暦で記されるようになった。その発行母体の作
家協会が,事務連絡のために載せた記事も,ビルマ暦で記されるようになった。同誌の 1-4 号などは,
レイアウトに問題がない限り,全頁の下部にビルマ暦の年月を記していた(ただし 5 号では密度が減
り 6 号以後は消滅)。また,1943 年のバ・モオ行政府の布告書類と,8 月以後の「政府」のそれを見比
べても,明確な変化がある。先に述べたように,行政府の布告書類は英語とビルマ語を併用していた。
その際,日付についても西暦とビルマ暦が併用されていた。それがバ・モオ「政府」になると,ビル
マ暦に一本化したのである。
> とはいえ,一般的な事務文書のレベルでは,ビルマ暦は必ずしも大規模な「進出」はできなかった
> ようである。本章の「Ⅰ」で紹介した 1942 年 8 月~ 12 月の行政府長官会議の報告書は,第 1 回と第
> 2 回の会議については,西暦の日付に括弧内でビルマ暦を補足する記載法がとられていた。これが,第
> 3 回から第 6 回には,ビルマ暦に括弧内で西暦を補足する形式になった。ところが,第 7 回以後は西暦
> だけの形になった。この逆転の理由はよくはわからないが,西暦とビルマ暦の変換が煩瑣にすぎたか
> らだろうか。ビルマの国立公文書館が保存する当時の公文書でも,先の行政用語の「ビルマ化」に関
> するファイルでさえ,6 箇所(6 頁分)の日付の中で,ビルマ暦を使っているのは 1 箇所だけだった。
> それも西暦との併記である。また,内務省を中心とした官吏再教育に関する文書ファイル(10/1 158),
> ピャーポウン地区の保健関係の文書ファイル(1/15(D) 3876)のように,ビルマ暦が 1 箇所も使われ
> ていないものも存在する。
> このように,ビルマ暦の「進出」は不徹底ではあった。それでも,少なくとも戦前よりは使われる機
> 会が増えたことは事実である。また,先行研究との関係でいえば,このようなビルマ暦の「進出」が確
> 認できこそすれ,日本の元号や皇紀の押しつけが一般になされていたわけではなかったようである注11)。
> 管見の限り,ビルマ側の公文書や公的な刊行物で,元号や皇紀が使われた例は見出せない。英字紙の
> Greater Asia で皇紀が併用されたことは認められるが,同紙は読売新聞社が発行しており(読売新聞 100
> 年史編集委員会,1976,pp.456-460),むしろ日本側の出版物というべきものである。
> 注 11)「アジアの日本観・日本のアジア観」(内海,1995,p.269)では,「占領地では,年号の皇紀使
用や,日本時間の使用が決められ」たとされる。「近代植民地の展開と日本の占領」(早瀬・深見,
1999,p.354)も,対象地域をはっきりさせないまま,「西暦が廃止され皇紀が用いられた」としている。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE[中野文庫 - 「シャン」地方等ニ於ケル「ビルマ」国領土ニ関スル日本国「ビルマ」国間条約]]
([TIME[2016-09-07 22:58:28 +09:00]])
<http://www.geocities.jp/nakanolib/joyaku/js18-11.htm>
]FIGCAPTION]
> 昭和十八年九月二十五日即チ「ビルマ」暦千三百五年「トゥザリン」月下弦十二日「ラングーン」ニ於テ本書二通ヲ作成ス
]FIG]
[6] [CITE@ja[定番カレンダー!の旅: 第1回:ミャンマーの巻 ● type.center]]
([TIME[2018-11-22 01:46:07 +09:00]])
<https://type.center/articles/11265>