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[2]
[DFN[孝明天皇]]は、
[[幕末]]時代の[[天皇]]でした。
お名前は[DFN[統仁]]でした。
* 即位紀年
[21]
[[欧州]]と[[ロシア帝国]]に滞在していた[[森有礼]]の[[日記]]に[[孝明天皇]]の[[即位紀年]]の用例があります。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [9]
[CITE[航魯紀行]],
[[森有礼]]
--
[10]
[DATA(.label)[表紙]]
「[DATA(.text)[[V[統仁貳拾年[SUP(normal)[丙寅]]七月初]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>8]]
--- [11] >>8 に白黒写真
--- [12] >>8 翻刻「[V[統仁貳拾年 [WEAK(quarter)[丙寅七月初]]]]」
--
[14]
「[DATA(.text)[[V[統仁貳拾年丙寅六月廿一日頃[BR[]]西洋千八百六拾六年八月朔]]]]」
[SRC[>>8]]
--- [15] >>8 に翻刻あり
--- [18] [TIME(.value)[1866-08-01]]
--
[16]
「[DATA(.text)[[V[八月二日]]]]」
[SRC[>>8]]
--- [19] [TIME(.valur)[1866-08-02]]
--
[SNIP[]]
--
[17]
「[DATA(.text)[[V[九月十日]]]]」
[SRC[>>8]]
--- [20] [TIME(.value)[1866-09-10]]
-- [25]
[DATA(.label)[九月二日条所収文書]]
「[DATA(.text)[[V[丙寅七月[BR[]]九月三日]]]]」
[SRC[>>8]]
--- [26] [TIME[1866-09-03]]
]ITEMS]
[22]
表紙には[[即位紀年]]・[[旧暦]]と[[キリスト紀元]]・[[グレゴリオ暦]]が併記されています。
[23]
本文は[[英国]][[ロンドン]]から[[ロシア帝国]]へと往復した過程が記されています。
[24]
最初の日には[[即位紀年]]・[[旧暦]]と[[キリスト紀元]]・[[グレゴリオ暦]]が併記され、
それ以降は[[グレゴリオ暦]]の[[月日]]だけが書かれています。
[27]
初日には[[旧暦]]の6月21日と併記されていますが、「頃」となっています。
換算に不安があったのでしょうか。
それ以後[[旧暦]]がないのは、換算が容易でなかったのでしょうか、
それとも煩を避けただけでしょうか。
[28]
表紙には7月とありますが、実際には6月末に始まって7月に続いています。
表紙は後から付けられたのでしょうか。
[29]
本文所収9月3日付文書は単に「丙寅」とだけ書いています。
[31]
[[グレゴリオ暦]]の1日が「[V[朔日]]」と書かれています。
[[グレゴリオ暦]]では[[天文学]]的[[朔]]ではないのですが、
[[旧暦]]の慣習通り1日を[[朔日]]と書いたようです。
[HISTORY[
[272]
[[幕末]]に海外留学した[[森金之丞]]の旅行記
([CITE[森有礼全集]]第二巻所収 [SRC[>>275]]、
[CITE[航魯紀行]] (慶応二年六月ー同年九月)、
[TIME[1866年][year:1866]]) の表紙には、
「統仁弐拾年丑寅七月」
とあり、[[統仁]] ([[孝明天皇]]) 即位紀年を用いていた
[SRC[>>273]]
とする解説もあります。
[30]
「丑寅」は[[干支]]でなく[[十二支]]を並べただけです。
>>8 掲載の写真とは一致しません。誤植でしょうか。
]HISTORY]
[13]
この[[日記]]を[[翻刻]]した >>8 は、
「統仁」は[[孝明天皇]]の[[名前]]であり、
西洋流儀で「孝明天皇二十年」と書いたもので慶応2年を意味すると推定しています。
[276] [[孝明天皇]]が[[践祚]]した[TIME[弘化3年2月13日 (西暦1846年3月10日)][1846-03-10]]
の[TIME[翌年][year:1847]]で[[即位]]の[TIME[弘化4年9月23日 (西暦1847年10月31日)][kyuureki:1847-09-23]]
の[TIME[年][year:1847]]が[[元年]]だとすると、
20年は、
[TIME[慶応2年丙寅 (1866年)][year:1866]]
となります
[5]
[[英国王即位紀年]]のような欧米の[[即位紀年]]の影響が指摘されています。
[SRC[>>273]]
[4]
[[改元]]が頻発した[[孝明天皇]]の時代にあって、
[[海外]]留学中に[[日本]]の情報を得るのは困難だったでしょうから、
[[元号]]によらない[[紀年][紀年法]]の必要性を認識したのかもしれません。
[7]
当時[[西洋]]では日常で[[キリスト紀元]]が既に普及していたはずですが (実際本書でも併記しているわけですが)、
それに対応する[[日本]]の[[紀年]]として[[即位紀年]]を使ったことが注目されます。
[SEE[ 他の時代の事例は[[天皇即位紀年]] ]]
[SEE[ 同時代の他の紀年法の状況は[[幕末維新期の日時]] ]]
[REFS[
- [8]
[CITE@ja-JP[[[月刊ロシヤ]] 7(4)(70)]], [[日蘇通信社]], [TIME[1941-04]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-20T10:50:25.236Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1593659/1/81> (要登録)
- [273] [CITE[日本年号史大事典]] 普及版 p.78
-- [274] 参照: [CITE[明治改元と維新の大精神]],
[[荒川久寿男]],
[CITE[元号―いま問われているもの]], [TIME[昭和52年12月][1977-12]]。
- [275] [CITE@ja[森有礼全集 第2巻/1972]] ([TIME[2019-06-21 18:12:12 +09:00]]) <https://rnavi.ndl.go.jp/mokuji_html/000001235326-2.html>
[6] 全集では
>
統仁二十年は孝明天皇のお名によったもので西洋風に孝明二十年、すなわち慶応二年に該当する。
と解説されているらしい
[SRC[[CITE[Google Books]]]]。
]REFS]
* 関連
[3] 次の[[天皇]]は[[明治天皇]]です。
* メモ
[1] [CITE@ja[孝明天皇 - Wikipedia]]
([TIME[2019-06-22 11:42:29 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87>