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[2]
[DFN[延寿]] ([[旧字体]]: [DFN[延壽]]) や[DFN[大政]]は、
[[奥羽越列藩同盟]]の[[元号]]だったといわれる[[私年号]]です。
[3]
[[奥羽越列藩同盟]]が[[改元]]したとする確実な根拠は見つかっていません。
実在の[[公年号]]か、
[[改元デマ]]から生じた[[私年号]]か、
判断が難しいものです。
[4]
しかし当時一部でこうした[[元号]]が使われたことは事実のようです。
* 元号名
[328]
[[延寿]]は「えんじゅ」と[[読み][元号の読み方]]ます。
[SRC[>>326 >>243 >>251]]
[329] [[現代日本語]]では他に妥当な読み方がないとはいえ、
根拠を明示したものは見つかりません。
* 紀年法
[278] 実利用例があるもの:
- [279] [[延寿]] [TIME[慶応3(1867)年][1867]]が[[元年]]
- [280] [[延寿]] [TIME[慶応4(1868)年][1868]]が[[元年]]
[281] [[改元]]されたという日付の記述例があるもの:
- [282] [[大政]] [TIME[慶応4(1868)年][1868]]が[[元年]]
[283] [[改元]]されたという伝聞があるもの:
- [282] [[大化]] [TIME[慶応4(1868)年][1868]]が[[元年]]
* 新元号候補の延寿
[207]
[[日本の元号]]の候補として中世頃に[[延寿]]はたびたび提案されていましたが、
一度も採用はされませんでした。
* 慶応3年12月 入間の延寿
[219]
[[日本国]][[埼玉県]][[入間市]]に[[延寿]]銘墓石が2基確認されています。
[SRC[>>217]]
[220]
[DFN[私年号「延寿」を刻む墓石(1)]]
は、
[[日本]][[武蔵国]][[入間郡]][[黒須村]] [WEAK[(現在の[[入間市]])]]
の[[医師]]・[[寺子屋]]師匠の[RUBYB[[[小嶋一斎]] ([[小島一斎]])][[TIME[1811]]-[TIME[1867]]]]
の墓石です。
[SRC[>>218]]
[[平成時代]]の[[市史]]は子と弟子が[[蓮花院]]に建てたと説明していました [SRC[>>218]]
が、[[令和時代]]の資料では[[黒須公民館北側]]の旧[[大行寺]]の墓地にあったものが[[蓮花院]]に移転されて無縁塚の中にある、
となっています [SRC[>>217]]。
[222]
[[私年号「延寿」を刻む墓石(1)]]
の左側面に「延寿元年」の文字があります。
[SRC[>>217]]
[221]
[DFN[私年号「延寿」を刻む墓石(2)]]
は、
[[入間市]]の[[鍵山墓地]]の繁田家の墓域にある[[森田みつ]]の墓石です。
[SRC[>>217]]
[223]
[[私年号「延寿」を刻む墓石(2)]]
に「延寿元年」の文字があります。
[SRC[>>217]]
[224]
[[森田みつ]]がどのような人物かは情報がなくよくわかりません。
両墓石とも銘文の詳細も不明です。
[225]
[[小嶋一斎]]は[TIME[延寿元(1867)年11月28日][kyuureki:1867-11-28]]没とされます。
[SRC[>>218]]
「延寿元年」までは銘文にあるようですが、月日も銘文にあるのか、
それとも[[過去帳]]など他の情報から補っているのかはわかりません。
また、延寿元年を[TIME[西暦1867年][1867]]に比定した理由も不明です。
しかし[[平成時代]]の市史と[[令和時代]]の資料のどちらもこれを断言していて、
一切の疑問を挟んでいません [SRC[>>218, >>217]]。
[[干支年]]があるのか、あるいは他にも確実な情報源があるのでしょうか。
[226]
墓石がいつ作られたのか、つまり「延寿元年」
が使われたのが死去の日からどれだけ経過していたのかも不明です。
(同じ地域の慶応3年、慶応4年銘の墓石が他にあるのか知りたいですね。)
[227]
この2つの墓石のうち、[[私年号「延寿」を刻む墓石(1)]]は[TIME[平成6(1994)年][1994]]の
[CITE[入間市史]]
に掲載されていて、[[平成時代]]初期に少なくてもこちらは再発見されていたことがわかります。
[[延寿]]が[[私年号]]であるとも明記されています。
ところがこれらの墓石は[[令和時代]]に至るまで[[元号]]関係の[[論文]]や[[ウェブサイト]]で一切紹介されてこなかったようです。
[228]
つまり[[元号研究]]者らはこの発見を見落としてきたのであり、
[[入間市]]側にも[[元号]]に詳しい人がおらず持て余してきたようなのです。
[[平成時代]]の
[CITE[入間市史]]
の「延寿」の解説はどう見ても ([[私年号]]としてでなく) 一般論としての「延寿」という語の説明に、
[[私年号]]全般の説明を足したもので [SRC[>>218]]、
「私年号の延寿」の説明として頓珍漢なことになっています。
[[令和時代]]の審議会も、
よくわかっていない人達同士で議論になっていません [SRC[>>217]]。
[229]
令和3年の審議会では、調査が不十分であるとして継続審議になり、
文化財には指定されませんでした。
[SRC[>>217]]
そして令和5年の第1回審議会までの時点で文化財指定の再提案は行われていないようです。
[230]
令和3年の審議会で委員長は、
>
私年号の研究が進んでいった際に珍しいものではなくなること
も考えられるため、詳細な調査をしていくべきだと思います。
とまとめています。 [SRC[>>217]]
一般論としてはまあその通りですし、詳細な調査は是非とも行っていただきたいのですが、
前段は重大な認識ミスと言わざるを得ません。
[231]
なぜなら、[[延寿]]の[[金石文]]用例は令和5年末時点でもこの2件だけです。
この報告以前はまったく知られておらず、[[延寿]]の[[私年号]]の実在も疑われていました。
この2件の墓石はそれを実証する貴重な史料です。
[232]
しかもこの2例の[[延寿]]は従来説の[TIME[西暦1868年][1868]]ではなく[TIME[西暦1867年][1867]]とされています。
[[紀年法]]が[[1年ずれる][1年ずれ]]のは、
それ単体でも重大な新発見であるのは言うまでもないのですが、
[[延寿]]についてはとりわけ重要な意味を持ちます。
[TIME[慶応3(1867)年10月14日][kyuureki:1867-10-14]]の[[大政奉還]]の奏上、
[TIME[慶応3年12月9日][kyuureki:1867-12-09]]の[[王政復古]]、
[TIME[慶応4(1868)年1月3日][kyuureki:1868-01-03]]という時代の流れの中で、
慶応3年11月に既に[[延寿]]が使われていたとすると、
慶応4年5月成立の[[奥羽越列藩同盟]]と関係づけた従来説は全面的な見直しを迫られます。
ひいては[[戊辰戦争]]や[[東北政権]]の政治思想史的解釈にも新たな材料を提供することになりそうです。
[233]
こうした「延寿」研究史上の転換点となり得るこの2件の墓石の重要性は、
たとえこの先新たな資料が追加されていくとしても、
決して減じるものではないはずです。
;; [236] なのでこれを文化財指定候補に選んだセンスはとてもよくて、
[[私年号]]をよくわかっていないのにいい勘をしているのです。
[234]
[[入間市]]の関係各位におかれましては、
この貴重な文化財の保護と本格的な学術調査のため適切な措置を講じられるよう、
よろしくお取り計らい願いたいものです。
;; [237]
また、[[入間市]]域に限らず周辺地域に「延寿」
銘の[[金石文]]が現存する可能性が出てきたということでもあります。
周辺の自治体でも是非とも調査していただきたいところです。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[218]
[CITE@ja-JP[[[入間市史]] 通史編]], [[入間市史編さん室]], [TIME[1994.8][1994]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-16T11:02:35.602Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644772/1/332> (要登録)
]FIGCAPTION]
>
[VRLBOX[
[SNIP[]][RUBY[延][*]]寿[BR[]]元年(一八󠄃六七)十一月二十八󠄃日亡くなった。[SNIP[]]
:延寿:
寿命を延ばすことの意。[BR[]]朝廷で正式に制定され[BR[]]た年号に対して、私的[BR[]]に用いられた私年号。[BR[]]金石文、社寺縁起など[BR[]]にみられる。嘉祥の文[BR[]]字を使ったものが多い。
]VRLBOX]
[CSECTION[[L[[B[写真5―52]] 小嶋一斎墓石]]]]:
墓石の白黒写真。正面の字形がある程度読み取れるが、
[[紀年]]部分はみえない。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[217] [CITE[会 議 録 - 2021-1kaigiroku.pdf]], [TIME[2022-12-26T05:26:46.000Z]], [TIME[2023-12-16T10:47:15.964Z]] <https://www.city.iruma.saitama.jp/material/files/group/86/2021-1kaigiroku.pdf#page=4>
]FIGCAPTION]
>
[BOX(center)[
[B[会 議 録(1)]]
]BOX]
>
,会 議 の 名 称, 令和3年度 第1回入間市文化財保護審議委員会
,開 催 日 時, 令和3年10月1日(金)[BR[]]午前10時開会・ 午前11時45分閉会
,開 催 場 所 ,入間市博物館 会議室
,議 長 氏 名 ,鹿島 英明
,出席委員(者)氏名 ,鹿島 英明 枝窪 邦茂 栁澤 かほる 梅津 久昭 [BR[]]荒牧 澄多 小峰 孝男 児玉 俊雄
,[SNIP[]],[SNIP[]]
,説明者の職氏名 ,博物館主幹 大久保 卓
,[SNIP[]],[SNIP[]]
,事 務 局 職 員[BR[]]職 氏 名,・教育部部長 浅見 嘉之 ・教育部次長 片寄 貴之[BR[]]・博物館館長 加藤 保夫 ・博物館副館長 澤田 和也[BR[]]・同主幹 大久保 卓 ・同主事 中村 祐太
>
,決 定 事 項,3 議 題[BR[]](1)新規指定文化財の候補について[BR[]]前回の書面開催の際に推薦のあった4件の候補に、新たに2件を加え[BR[]]た計6件の文化財について審議を行った。継続審議となっている「出雲[BR[]]祝神社本殿」と併せて、引き続き調査を行っていくこととなった。
>
№2「私年号「延寿」を刻む墓石(1)」[BR[]]
№3「私年号「延寿」を刻む墓石(2)」
>
[TALK[ 事務局
(1)は元々黒須公民館北側の旧大行寺の墓地にあったものですが、蓮花[BR[]]
院に移転され、今は無縁塚の中にあります。墓石は、小島一斎という人[BR[]]
物のもので、左側面に延寿元年の文字が確認されます。(2)は鍵山墓地の[BR[]]
繁田家の墓域の中にあり、森田みつという人物の墓石に延寿元年の文字[BR[]]
が確認できます。繁田家と森田みつとの関係性は今のところ分かってお[BR[]]
りません。延寿元年は慶応3年(1867年)だと考えられます。なお、[BR[]]
私年号の研究はそれほど進んでいないため、現時点で「延寿」という私[BR[]]
年号がどの程度波及していたのかも分かっていません。
]TALK]
[TALK[ 枝窪委員
私年号の位置づけを教えてください。
]TALK]
[TALK[ 事務局
私年号とは国家とは違った思想を持っていた人が使っていたと考え[BR[]]
られますが、延寿はそもそも研究自体進んでおりません。一説には幕末[BR[]]
から明治にかけての奥羽列藩同盟の支持者が刻んでいたという説もあ[BR[]]
りますが、明確なことは分かっておりません。
]TALK]
[TALK[ 小峰委員
中世、特に南北朝時代の金石文には私年号が散見することもあります[BR[]]
が、近世ではあまり例が多くないため、近隣地域の研究や例をもう少し[BR[]]
調べてみてはどうでしょうか。
]TALK]
[TALK[ 鹿島委員長
後に私年号の研究が進んでいった際に珍しいものではなくなること[BR[]]
も考えられるため、詳細な調査をしていくべきだと思います。
]TALK]
]FIG]
;; [235] >>230 以外にもこれらの発言には問題があって、
「国家とは違った思想を持っていた人が使っていた」
というのは古典的理解で、今ではそうとも限らないといわれています。
また、[[南北朝時代]]の[[金石文]]に[[私年号]]はそこまで多くなく、
用例数が圧倒的なのは[[戦国時代]]です。
]REFS]
* 慶応4年3月 広島藩神機隊の延寿
[253]
[[広島藩]]の公認武装グループで[[戊辰戦争]]に[[明治政府]]側で参戦した[[神機隊]]の構成員[[清原源作]]の
[CITE[関東征日記]]
の表紙に、
>
[VRLBOX[
干時 延寿元年
関東征旧記
戊辰 三月十五日
]VRLBOX]
と書かれていました [SRC[>>248, >>240]]。
[254]
この資料は[TIME[令和2(2020)年][2020]]に再発見されたとされ [SRC[>>250]]、
[[日本国]][[広島県]]の郷土史家が所蔵するとされています [SRC[>>248]]。
[[表紙]]、[[裏表紙]]と思われる写真が [[Web]] で公表されています [SRC[>>248, >>240]]。
一般公開されたことがあるかは不明で、
少なくても令和5年現在[[ウェブ]]上で内容の詳細な情報は見当たりません。
[CITE[ウィキペディア]]でこれを参考文献に挙げる記事もありますが、
入手方法は記載がありません。
[255]
この
[CITE[関東征旧記]]
に関するウェブ上の情報は、
専ら小説家の[RUBYB[[[穂高健一]]][[TIME[1943]]-]]や、
[[穂高健一]]と親密な[[広島]]の歴史愛好家グループの関連サイト・[[SNS]]
にあります。
[[神機隊]]についての情報も、[CITE[ウィキペディア]]のものも含め、
このグループの関係者によるか、その著作を参考にした記述と思しきものが大量に見つかります。
([CITE[国会図書館デジタル]]で検索すればそれより古い、
他の研究者によると思われる記述も見つかりますが。)
[256]
このグループは[[戊辰戦争]]前後の[[広島藩]]関係者の活躍の顕彰に強い関心を持っているようです。
そしていわゆる[[薩長史観]]と[[明治政府]]に対してはあまり好ましく思ってはいないようです。
かといって[[江戸幕府]]や[[奥羽越列藩同盟]]に心を寄せるわけではなく、
[[薩長]]の影に隠された[[広島]]の活躍を良しとするのを基本に、
そのため必要なら[[佐幕派]]にも注目し[[薩長]]は非難するという立ち位置にみえます。
[[穂高史観]]と称する[[穂高健一]]の独創的な世界観の[[歴史小説]]は、
このグループの活動を精神的に取りまとめているようです。
[CITE[関東征旧記]]
を所蔵するという郷土史家も、このグループのメンバーなのでしょうか。
[330]
[[穂高健一]]らはなぜか[[元号名]]を[[旧字体]]の[[延壽]]表記にしています。
[[ウェブページ]]だけでなく[[小説]]でもです。
他の語は[[新字体]]なのに、[[延寿]]だけを[[旧字体]]にする理由は不明です。
[CITE[関東征旧記]]
表紙の「延寿」の「寿」は[[楷書]]よりやや崩れた[[字形]]ですが、
あえて言うなら[[新字体]]の「寿」に近いように思われ、
わざわざ[[旧字体]]にする必要性は感じられません。
[257]
[CITE[関東征旧記]]
は貴重な史料と見受けられ、
このグループもそれは認識しているようです [SRC[>>247, >>238, >>249]] が、
内容が写真などの形で広く一般公開されていないとすると、
第3者が独立に検証できません。
この史料が活用されないまま埋もれていくのはこのグループの活動目的にもそぐわないでしょうから、
早期の状況改善を期待したいものです。
[259]
さて、
[CITE[ウィキペディア]]によると[[神機隊]]は慶応4年の3月15日ないし17日に[[広島]]を出発し、
5月の[[上野戦争]]に参戦しました。
[SRC[>>258]]
先述 (>>255) の通り[CITE[ウィキペディア]]の記事の内容が他の独立した史料で確認し得るものなのかは不明ですが、
一応件の日記表紙の紀年はこの出発の日を表しているとみなせます。
この表紙の日付が出陣の際に書かれたものなのか、
それともその後のいつかの時点で遡って書かれたものなのかはわかりません。
ともかく慶応4年のある時期が延寿元年だという認識が、
[[明治政府]]側勢力の中に一時は存在していたということにはなります。
(日記の内容が分析できれば、もう少し断定的なことも言えるでしょうか?)
[260]
[[神機隊]]が慶応4年3月に延寿を使ったとすると、
これは何を意味するでしょうか。
このとき[[広島藩]]は[[戊辰戦争]]に直接参戦しませんでしたが、
藩が設立した[[神機隊]]が私費で参戦することは認めました。
5月に[[神機隊]]は[[明治政府]]側と連携して[[上野戦争]]に参戦しました。
この間[[神機隊]]が[[明治天皇]]を奉じて[[明治政府]]に賛同する立場で公然と活動したのは明白で、
[[佐幕派]]の[[私年号]]を使ったり、独自の[[私年号]]を建てたりするとは考えられません。
[261]
[[穂高健一]]の歴史小説とブログでは、
[[即位礼]]も[[元服]]もしていない[[明治天皇]]は正式な[[天皇]]として認められず、
その間に[[東日本]]で[[東武皇帝]]が[[即位]]し[[延壽]]の[[元号]]が使われており、
[[明治政府]]はこの歴史的事実を隠蔽した、
ということになっています。
[[穂高健一]]の歴史小説
[CITE[紅紫の館]]
の
[CSECTION[あとがき]]
では、
[[穂高健一]]のウェブサイト記事とほぼ同内容の執筆の経緯等がまとめられています。
[SRC[>>326]]
[327]
これは作中設定ではなく史実だと主張しているように見えます。
[[奥州]]、[[関東]]、[[広島]]で使われていたのだから、
全国に共通する[[元号]]だったと主張しています
[SRC[>>326]]。
[[明治政府]]側で参戦した[[広島]]の[[神機隊]]ですら[[延壽]]を使っているのがその証拠となっています
[SRC[>>248]]。
そして[[明治時代]]に意図的に[[延寿]]が消されたことに
「[V[私はそこに歴史の捏造をおぼえた]]」
のだといい、
「[V[官製幕末史という歴史が軍国教育に使われた事実がある]]」
ので
「[V[歪曲された歴史は事実に戻したい]]」
のが小説の
「[V[強い執筆の動機]]」
だったのだそうです
[SRC[>>326]]。
[262]
この独創的な歴史観の中で[[延寿]]と[[東武皇帝]]や[[奥羽越列藩同盟]]を結びつけた根拠はよくわかりません。
[[奥羽越列藩同盟]]が[[延寿]]と[[改元]]した(噂がある)という従来説だけがその根拠だとすれば、
[[歴史小説]]の設定の根拠には十分でも、
学説の根拠というには脆弱です。
[263]
[[鳥羽伏見の戦い]]の後とはいえ、[[江戸城]]もまだ開城するかしないかの3月というタイミングで既に[[広島]]に[[延寿]]があったなら、
例えば慶応3年の[[私年号]] ([[改元デマ]]) の[[天政]]のように[[京都]]が発信源の可能性すら出てきます。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[242]
[CITE@ja[芸州藩の幕末史|[[幕末芸州広島藩研究会]]]],
2020年2月8日 18:39,
[TIME[2023-12-16T12:39:39.000Z]] <https://note.com/geisyuhiroshima/n/n47bb93ebb290>
]FIGCAPTION]
>[B[慶応2年 芸州藩ダイジェスト]]
>[SNIP[]]
>[B[慶応4年 芸州藩ダイジェスト]]
>[SNIP[]]
>・神機隊が一旦芸州に帰還
>・神機隊が自費で関東征討に出発
>
[B[延寿元年 芸州藩ダイジェスト]]
>・神機隊が上野戦争・飯能戦争・甲府警固に参加
>[SNIP[]]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[247]
[CITE@ja[【新事実】(上)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2020年9月27日,
[TIME[2023-12-16T12:54:48.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/09/27075539.php>
]FIGCAPTION]
> 孝明天皇の崩御(慶応2年12月25日)のあと、睦仁(むつひと)親王は践祚(せんそ)しているが、元服していない。つまり、天皇ではない。摂政として二条斉敬(にじょうなりゆき)がついていた。摂政は天皇の代行ができる。
>
> ところが、慶応3年12月9日の小御所会議で「王政復古の大号令」が出された。天皇親政をうたう。かたや、摂政・関白が廃止されたのだ。
> なぜ、廃止したのか。これでは京都において天皇の執務がまったくなくなる。
>
> *
>
> 東日本の叡智ある人物たちは、ここに目をつけたのだ。「天皇親政ならば、われわれは輪王寺宮(りんのうじのみや)を天皇に擁立しよう」と動きだしたのだ。
> 睦仁親王は元服するまで天皇になれないのだから。
>[SNIP[]]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[248]
[CITE@ja[【新事実】(下)幕末の元号は、慶応・延壽・明治だった=西軍の従軍日記にも表記|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2020年9月27日,
[TIME[2023-12-16T12:57:56.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/09/27190335.php>
]FIGCAPTION]
> 江戸の元幕臣と奥州列藩は、ここに手を結び、慶応4年3月15日に、「東武天皇」として奉り、元号を慶応から『延壽』(えいじゅ)として布告したのである。
> かつて孝明天皇は八月十八日の変で、これまでの勅書、詔書は毛利家による偽書であり無効とした。これと同様に、睦仁親王が天皇の即位するまで、すべてが無効である、とした。
> こうなると、東征軍としては、江戸侵攻の大義が無くなる。
>
> 上野山にこもる彰義隊を撃つ。それは名目であり、輪王寺宮をいっしょに葬る必要があったのだ。それが刻々と近づいてきた。
>京都で、明治天皇が即位したのが慶応年4年8月27日で、大嘗祭は11月18日である。延壽は同年9月7日で終わっている。
>
> 慶応時代、延壽時代、明治時代、と歴史の順番のなかに書き加えても、別に問題ないのではないか。延壽時代は約半年間だが、幕末には一年未満の元号は他にもある。
>
> その方が戊辰戦争はわかりやすい。
> 後醍醐天皇のときに南北朝時代があり、幕末の延壽に東西朝時代があった、とすればよい。
>
> 広島・神機隊の隊士の「関東征日記」の表紙には、延壽元年・3月15日と表記されている。いま広島の郷土史家の手元にある。
> 西側の資料からでも、『延壽元年』が出てくるのである。
>
> 鎌倉時代の年号が変わったり、聖徳太子の像が紙幣になりながらも違っていたりする。
> 戊辰戦争が従来の「新政府と旧幕府の戦い」とするのはご誤認であり、延壽元年の東西朝時代に関東・奥羽越の広い範囲を戦場にした大戦争が起きたとしても、決して不合理ではない。すべて人間がやることだから。
>写真(2枚)=広島・神機隊 二番中隊 伍長・清原源作さんの従軍日記 (上野戦争に参加)
>>240 と同じ「日記」の写真
]FIG]
- [239]
[CITE@ja[Xユーザーの幕末芸州広島藩研究会広報室さん: 「干時 延寿元年 関東征旧記 戊辰 三月十五日 https://t.co/JFdwktzUbA」 / [[X]]]], [TIME[午後0:22 · 2020年12月10日][2020-12-10T03:22:16.000Z]], [TIME[2023-12-16T09:00:54.000Z]] <https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1336873843651067904>
-- [241] [CITE@ja[Xユーザーの幕末芸州広島藩研究会広報室さん: 「神機隊 三百弐拾四人人数 弐百拾弐人外五人 弐百拾七人帰国 (英文) 清原源作 神機隊二番中隊 https://t.co/KzDbNNp6kC」 / [[X]]]], [TIME[午後0:22 · 2020年12月10日][2020-12-10T03:22:18.000Z]], [TIME[2023-12-16T09:00:54.000Z]] <https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1336873849569198081>
-- [240] >>239, >>241 にそれぞれ写真
- [238] [CITE@ja[Xユーザーの幕末芸州広島藩研究会広報室さん: 「@geihanshi 今回の執筆中に出てきた神機隊の延寿元年と明記された関東征旧記が出てきたのは奇跡だった。と 穂高先生は言われてました。」 / [[X]]]], [TIME[午後11:31 · 2020年12月27日][2020-12-27T14:31:33.000Z]], [TIME[2023-12-16T09:00:42.000Z]] <https://twitter.com/geisyuhiroshima/status/1343202867021135876>
- [325]
[CITE[紅紫の館]],
[[[V[穂高健一]]]],
[V[二〇二〇年十二月二十五日印刷]],
[V[二〇二一年一月十五日発行]] [WEAK[([TIME[2021-01-15]])]],
-- [252] [CITE@ja-jp[[[紅紫の館]] | [[穂高健一]] |本 | 通販 | [[Amazon]]]],
2020/12/23,
[TIME[2023-12-16T13:09:58.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4896426282/wakaba1-22/>
-- [326]
[CSECTION[[V[あとがき]]]],
pp.[L[265]]-[L[268]]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[251]
[CITE@ja[【新刊】 穂高健一著「紅紫の館」(郷士・日比谷健次郎の幕末)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2020年12月25日,
[TIME[2023-12-16T13:08:02.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/Novelist/2020/12/25172931.php>
]FIGCAPTION]
>発売日 = 2020年12月25日
>
>【あらすじ】
>[SNIP[]]
> 新政府軍が上野戦争を仕掛けてきた。戦火のなか、日比谷健次郎たち三家は命がけで、寛永寺貫主の輪王寺宮を救出する。奥州に逃げ延びた輪王寺宮は『東武天皇』として即位し、『延壽』(えんじゅ)という元号を発布した。
>
> 西側の幼帝と東側の東武天皇という、南北朝に似た国家分断の戦いになった。新政府軍が勝利し、元号『延壽』が歴史から消された。
> 戊辰戦争が終わると、桜田門外の変で消えた5段ひな人形が、悲劇の皇女・和宮にからむ意外な展開をみせた。
>
> 薩長政権がねつ造した幕末史を暴く歴史小説である。
]FIG]
- [249]
[CITE@ja[「紅紫の館」は幕末史を変えるか。新発見の連続は偶然の出会いから生まれた (上)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2020年12月27日,
[TIME[2023-12-16T13:03:23.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/12/27122629.php>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[250]
[CITE@ja[「紅紫の館」は幕末史を変えるか。新発見の連続は偶然の出会いから生まれた(下)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2020年12月27日,
[TIME[2023-12-16T13:03:55.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2020/12/27191420.php>
]FIGCAPTION]
> 東武天皇が慶応3(1868)年3月に、元号として「延壽」を発布していたのだ。(明治の元号は慶応4年9月8日からである。この間は「延壽」であった)。
> こうした新発見の連続になった。
>
> *
>
> 日比谷健次郎を追求するほどに、德川側の視点からみた幕末歴史小説が斬新な作品になっていく。執筆中に、芸州広島藩・新機隊の隊士の史料から、えっと驚くべき、歴史的事実が出てきた。
> 東武天皇が発布した元号「延壽」が一般にも使われていたのだ。それも西側の、広島からである。こんな偶然は、神がかりにしか思えなかった。
> 歴史的な事実として認めれば、慶応、延壽、明治と元号の書き換えが起きるかもしれない。
>
>「紅紫の館」の「あとがき」を書く段になり、神機隊の隊員が記した「関東征旧記・延壽元年」を証拠(エビデンス)写真として載せた。
> 思うに、明治時代の薩長政権とすれば、徹底して抹消した元号『延壽』だったはずだろうが、こんな偶然から令和2(2020)年によみがえるとは口惜しいだろう。政治上の巧妙な隠ぺい策はどこかで残っているものだ。
>
>「穂高健一ならば、掘り下げた取材をするから、とてつもない掘り出し物がでてくるよ。きっと」
>(高橋克典さんという作家の勘が当たったな)
> この仕事を当初は断ったという経緯が、私の脳裏によみがえってきた。これはエッセイとして書き残しておこうと考え、ここに記した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[244]
[CITE@ja[【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(上)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2021年1月18日,
[TIME[2023-12-16T12:45:36.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2021/01/18113323.php>
]FIGCAPTION]
> ところが新政府を快く思わない旧幕臣、関東一円、奥羽越列藩同盟の諸藩は、小御所会議で決まった「天皇親政」を逆手に取った。
>「ならば、天皇による東日本政府をつくろう」
> 上野寛永寺の貫主・輪王寺宮能久(よしひさ)を東武天皇として奉じ、元号・延壽(えんじゅ)を発布したのだ。
>
> 輪王寺宮は孝明天皇の義弟で、21才であり、皇位継承権がある。江戸市中では、もともと東叡山(上野)の人柄のよい親王だと評判だった。
>
> 東武天皇とは、東の武(やまとたける)から命名したのかもしれない。江戸から東北まで、東武天皇や元号・延壽がしだいに庶民にまで浸透してきた。
>[SNIP[]]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[245]
[CITE@ja[【歴史から学ぶ】日本人は既成事実に甘い。遷都のない首都・東京から考える。(下)|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2021年1月18日,
[TIME[2023-12-16T12:47:52.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/history/2021/01/18141037.php>
]FIGCAPTION]
> 慶応4(1868)年に、江戸城は無血開城し、德川慶喜が水戸に下った。
>
> 新政府は次なる攻撃目標として、東武天皇(輪王寺宮)と元号・延壽の抹殺だ。同年5月15日に上野戦争を仕掛ける。
> 危機一髪、巧妙に脱出した東武天皇は、江戸湾から榎本武揚海軍の軍艦で平潟(福島県)へ、そして仙台藩領・会津藩領に入っていく。
> 太平洋戦争をはさんで、天皇制は大きく変わった。皇室も変わった。一世一元も平成天皇の譲位で終わってしまった。
>
> 一千年の歴史から見れば、天皇制は親しみであったり、政略に使われたり、日本史には欠かせない存在であることだけは確かだ。
> 長い歴史のなかで、わずか半年だった東武天皇と元号・延壽(えんじゅ)がどう扱われていくのだろうか。
]FIG]
;; [246] この著者は歴史的概念の独創的な解釈が多いが、ここにも1つ。
[[譲位]]があると[[一世一元]]でないというのは[[漢土]]でも[[日本]]でも一般的な解釈ではない。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[243]
[CITE@ja[「広島藩・神機隊」 歴史は後からつくられる、真実は後から消される=上野戦争|穂高健一ワールド~書斎の小説家が街に飛び出した、気鋭のジャーナリストとして]],
更新日:2021年8月 7日,
[TIME[2023-12-16T12:43:45.000Z]] <http://www.hodaka-kenich.com/geisyu/2021/08/07182332.php>
]FIGCAPTION]
>[L[「幕末藝州広島藩研究会」広報室だより]]
>④ 上野戦争で、彰義隊は賊徒として壊滅された。その実、新政府軍は東武天皇(元号・延壽えんじゅ)に擁された輪王寺宮をつぶしたかったのだ。
> 私は近著「紅紫の館」(こうしのやかた)で、上野戦争の本来の目的が掘り起しができた。江戸城が無血開城したにもかかわらず、2か月後に、あえて東京・上野で大規模な戦争を仕掛けたのだ。幼帝(のちの明治天皇)を擁した大久保、西郷、岩倉たちの腹の底が鮮明にみえてきた。
> 薩長閥の明治御用学者らは、南北朝時代と同様に、京都に幼帝(のちの明治天皇)、東に東武天皇(輪王寺宮)とという国家分断があったと認めたくなかった。
> 南北朝時代の正当性はあいまいにし、慶応四年の延壽という元号、東武天皇の存在は歴史から抹殺して今日に至っている。
>[SNIP[]]
]FIG]
- [258]
[CITE@ja[[[神機隊]] - Wikipedia]], [TIME[2023-12-02T13:37:12.000Z]], [TIME[2023-12-17T01:17:46.525Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%A9%9F%E9%9A%8A>
]REFS]
* 慶応4年5月 江戸の延寿改元の噂
[71]
[TIME[慶応4(1868)年5月17日][kyuureki:1868-05-17]]付
[CITE[中外新聞]]
第37号に、
> 年號延壽と改元ありしとの風聞盛なりと雖も未確証を得ず
とあります。 [SRC[>>64]]
[78]
そしてその直前の段落には仙台藩関係の記事が、
直後の段落には5月1日の[[白河城]]方面の戦況の噂の記事があります。
[SRC[>>64]]
[72]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、この3つの記事と、その直前に
>
[VRL[
元号を延寿に改めらるゝとの噂󠄁
]VRL]
と[[見出し]]があるのを引いています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
[79] >>64 の本にはこの見出しがなく、3つの段落となっています。
[SRC[>>64]]
一方[CITE[日本私年号の研究]]の引用には見出しがあって、
仙台藩記事と改元噂記事が合わせて1つの段落になっています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
[CITE[日本私年号の研究]]
の引用元がどの本なのかは定かではありませんが、
その参照した写本または刊本でそのようなものがあったのでしょうか。
[73]
[CITE[中外新聞]]
は[TIME[慶応4(1868)年2月24日][kyuureki:1868-02-24]]に幕臣により[[江戸]]で創刊された日本初の民間新聞でした。
[CITE[別段中外新聞]]
は[[号外]]のはじまりとされています。
しかし[TIME[慶応4年6月8日][kyuureki:1868-06-08]]に[[明治政府]]により発禁となりました。
(翌年復刊。)
[74]
[[江戸]]の開城が4月、
[[上野戦争]]が[TIME[5月15日][kyuureki:1868-05-15]]のことでした。
5月は未だ[[明治政府]]の[[江戸]]の民政を掌握しきっていない時期ゆえに発行が続けられていたということでしょうか。
[75]
[[改元]]の噂が掲載されたのは[TIME[5月17日][kyuureki:1868-05-17]]付号で、
[[上野戦争]]で[[彰義隊]]が敗北して軍事的に[[明治政府]]が[[江戸]]を制圧したまさに直後となります。
「噂」が広まったのは[[上野戦争]]の前後、どちらのことだったのでしょう。
噂の「改元」の主体はどこだったのでしょう。
[80]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[CITE[中外新聞]]
を引いて、
[TIME[5月17日][kyuureki:1968-05-17]]以前に改元の風説が仙台方面にあったものか、と推測しています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
これは直前の仙台藩記事の続きと判断してのことと思われます。
しかし >>64 のように仙台藩記事と改元噂記事が別段落だと、
改元の噂と仙台藩の関係は不明ということになります。
[81]
仙台藩記事の冒頭は[TIME[慶応4年5月12日][kyuureki:1868-05-12]]付[CITE[遠近新聞]]を引いています。
参照されている[CITE[遠近新聞]]記事 [SRC[>>77]]
には[[改元]]に繋がりそうな記述はありません。
[CITE[中外新聞]]はそこから話を展開していて、
すべてが[CITE[遠近新聞]]からの引用ではないようですから、
断定はできませんが、
しかし話のつながりからも改元の噂は独立した記事のようにも読めます。
[82]
直後の段落が5月1日の白河方面の戦況の風聞の記事です。
時代が時代、しかも内戦中で、遠隔地の正確な情報は伝わりにくいことには注意が必要です。
前段の仙台藩記事も噂の出所は江戸の藩屋敷です。
仮に仙台方面から改元の噂が伝わってきたとするなら、
それもかなり日が経っているとみなければなりません。
[70]
早稲田大学がウェブ公開している
[CITE[中外新聞]]
資料のほとんどはこの日と同じように[[慶応]]の[[年月日]]を書いていますが、
[[上野戦争]]翌日の
[CITE[別段中外新聞]] [SRC[>>69]]
の1件だけ
「戊辰五月十六日」
と[[干支年]]表記になっています。
これはたまたまでしょうか、あるいは「別段」なので他と違うのでしょうか。
それとも思う所あってのことでしょうか。
[REFS[
- [66] [CITE[中外新聞]]
-- [63]
[CITE@ja[[[中外新聞]] 第31号~第43号 別段中外新聞 江戸東京博物館デジタルアーカイブス]], [[江戸東京博物館]], [TIME[2023-12-11T13:29:28.000Z]] <https://www.edohakuarchives.jp/detail-32730.html>
--- [65] 第三十七號 慶応四年五月十七日
---- [64]
[CITE[1069697-L.jpg (JPEG 画像, 1000 × 709 px)]], [TIME[2023-03-05T01:35:50.000Z]], [TIME[2023-12-11T13:29:57.851Z]] <https://www.edohakuarchives.jp/image_files/1070/1069697-L.jpg>
-- [67] [CITE[古典籍総合データベース]], [TIME[2023-12-11T13:39:01.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E>
--- [69] [CITE[[[別段中外新聞]]. 戊辰五月十六日 / '''['''柳川春三''']''' [編]]], [TIME[2023-12-11T13:40:13.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko10/bunko10_07330/index.html>
---- [68] [CITE[bunko10_07330_p0002.jpg (JPEG 画像, 2592 × 1724 px) — 表示倍率 (33%)]], [TIME[2011-10-28T07:30:27.000Z]], [TIME[2023-12-11T13:39:49.136Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_07330/bunko10_07330_p0002.jpg>
- [76]
[CITE[[[遠近新聞]]. 第1-20号]], [TIME[2023-12-12T12:39:42.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i08/i08_00017/index.html>
-- [77]
[CITE[i08_00017.pdf]], [TIME[2010-03-17T01:41:06.000Z]], [TIME[2023-12-12T12:39:53.487Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i08/i08_00017/i08_00017.pdf#page=81>
]REFS]
[83]
[TIME[明治2(1869)年][1869]]に編纂され[TIME[明治16(1883)年][1883]]に刊行された[[編年史書]]
[CITE[嘉永明治年間録]]
の[TIME[慶応4(1868)年][1868]]5月条の[[日]]あり記事の後の日なし記事で、
>
[VRL[
奧羽ニ於テ攺元ノ說
年號延󠄅壽と攺元ありしとの風聞盛なりと雖も未だ確證を得𛁏゙
]VRL]
とあります。
[SRC[>>57, >>58]]
[86]
本書は明治2年に稿本が成立しましたが、
明治3年に編者が死去しました。
明治4年に勅命により浄書献上されたものの、[[宮城]]の火災により焼失。
草稿の写本がいくつかあったといいます。
そして唯一刊行されたのが、後に昭和43年に再刊されたものだとのことです。
[SRC[>>62]]
それが[[国会図書館デジタル]]所蔵の明治16年本 [SRC[>>57]] ということになります。
[84]
[TIME[昭和43(1968)年][1968]]に再刊された際の[[解題]]は、
本書が原資料をできるだけそのまま収録していることを指摘し、
しかも偏向なく幅広く採録していることを称賛しています。
その具体例として、この[[延寿]]の記事を紹介しています。
[SRC[>>62]]
;; [96] 偏っていないというのは、
敗者の旧[[江戸幕府]]側、[[奥羽越列藩同盟]]側の資料が残りにくい、残しにくい状況下で、
公式記録が残っていない列藩同盟の[[改元]]のような情報までしっかり拾っていてすばらしい、
ということを言っているのでしょう。
[88]
[[著者]]の[[吉野真保]]は[[日本]][[武蔵国]][[埼玉郡]]の生まれで、
資料を収集と本書の編纂に人生を費やしました。
[SRC[>>62]]
[[吉野真保]]が[TIME[慶応4(1868)年][1868]]当時どこで何をしていたのかは定かではありません。
少なくても[[江戸]]の情報をよく入手できる環境にあったのは確かですが、
[[改元]]の噂に自ら接したのか、資料によってのみ知り得たのかはわかりません。
[89]
本書の[[改元]]噂記事のうち、
本文は
[CITE[中外新聞]] (>>71)
とまったく同じです。
従って、
本書には明記されていませんが、
[CITE[中外新聞]]
が本文の出典と考えて間違いないでしょう。
[90]
見出しは
[CITE[中外新聞]]
にはありません。
「奥羽において」
とはいかなる根拠で書かれたものでしょうか。
[CITE[中外新聞]]
以外の資料にあったのでしょうか。
あるいは編者が自ら聞いた噂なのでしょうか。
それとも
[CITE[中外新聞]]
の記事から奥羽の話だと推測したのでしょうか。
[87]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
「[V[吉野真保の『嘉永明治年間録』一七]]」
から次の文章を引用しています。
[SRC[>>56 p.[V[四五七]]]]
>
[VRL[
慶応四年五月二十四日奥羽ニテ改元セリトノ風説アリ
]VRL]
[91]
ところが >>87 は
[CITE[嘉永明治年間録]]
と明らかに違います。
同趣旨ですが短く要約された形になっています。
そして
[CITE[嘉永明治年間録]]
には月までで日がありません。
[93]
[CITE[嘉永明治年間録]]
には日が明記された記事と、そうでない記事があります。
改元噂記事の場合は月末ですが、日あり記事と日あり記事の間でも日がない記事があります。
同じ日が書かれた記事がないように見えるので、
日なし記事は直前の日あり記事と同じ日の記事であるとも考えられますが、
どうもそうとばかり言えなそうな記事もあります。
月初から日なし記事の月もあります。
従って日なし記事が直前に書かれた日と同じかどうかはケースバイケースで判断が必要と思われます。
そして改元噂記事の場合、直前が24日です。ということは
>>87
は
[CITE[嘉永明治年間録]]
の改元噂記事を直前の日付である24日の出来事と判断した結果の可能性が高いといえます。
[92]
果たしてこれはどういうことでしょう。
[CITE[日本私年号の研究]]
は昭和42年の刊行なので、
[[久保常晴]]はその時点で昭和43年の再刊本を見れていません。
昭和43年以前は明治刊本といくつかの写本があったようですが、
入手は困難だったと思われます [SRC[>>62]]。
しかし[[久保常晴]]が在籍していた[[立正大学]]の図書館 [[OPAC]]
によると同館は現在、明治刊本を所蔵しています。
昭和42年当時も所蔵していたかは不明ですが、
他の大学等にも所蔵はありますから、
存在を知っていればいずれかは閲覧できた可能性が高いといえます。
ところがそこには >>87 はないのです。
では明治刊本と内容が違う >>87 のような写本(抄本?)があったのでしょうか。
[8]
この >>87 の文章は、現在の所[[国会図書館デジタル]]、
[[Google検索]]、
[[Google Books]]
のいずれで検索しても
[CITE[日本私年号の研究]]
の[[孫引き]]以外を発見できません。
[94]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
>>87
を紹介し、それに「[V[この件については]]」
[SRC[>>56 p.[V[四五七]]]]
と付け加える形で
[CITE[中外新聞]]
を紹介しています。
そして5月17日の
[CITE[中外新聞]]
と5月24日の
>>87
を踏まえて5月17日以前に風説があったとみています。
[SRC[>>56 p.[V[四五八󠄃]]]]
両者をよく関係する別の情報と考えたのではないでしょうか。
両者の文章が完全に一致することを知っていれば、
もう少し違った書き方になっていそうなものです。
[95]
[CITE[日本私年号の研究]]
が仙台方面で改元の噂があったと判断した (>>80) のは、
>>87 の影響も大きいと考えられます。
しかし記事本文の出典は明らかで見出しの出典は不明となると、
見出しにしかない「奥羽で」改元という情報を信頼して良いのかどうか、
不安が出てきます。
「改元あり」の噂が慶応4年の[[江戸]]にあったという所まではよいとして、
「仙台ないし奥羽で改元あり」の噂があったのかは他の材料を加えて慎重に判断した方が良さそうです。
[107]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
この[[延寿]]の発生の理由を、
- [109] [[戊辰戦争]]の混乱で[[改元]]の噂が生まれた。
- [108] [[明治天皇]]の[[践祚]]翌年、慣例から[[代始改元]]が予想されたことが、
朝廷に対抗するものにも[[元号]]を建てることを考えつかせた。
と2つ挙げています。 [SRC[>>56 p.[V[四六一]]]]
;; [106] [[孝明天皇]]が[[崩御]]したのは慶応2年の12月
([[グレゴリオ暦]]だと翌年1月)、
[[明治天皇]]が[[践祚]]したのが慶応3年1月9日で、
慶応4年が[[践祚]]翌年となります。
([[即位礼]]は慶応4年8月27日。)
[105]
理由の1つ目は「噂」であるとしており、
2つ目は[[奥羽越列藩同盟]]が[[建元]]したと言っているので、
両立しません。これについては、
>
[VRL[
これは単なる噂󠄁であって、しかも噂󠄁発生のもとは東北地方である。しかしもし事実であれば、[SNIP[]]
]VRL]
とある [SRC[>>56 p.[V[四六五]]]] ため、
架空説と実在説の両方を想定していたようです。
ただ後の節では
>
[VRL[
「延寿」は奥羽地方で建元された噂󠄁に止まるが、その建元者は明治維新の際の旧幕府軍であり、[SNIP[]]
]VRL]
とまとめられ
[SRC[>>56 p.[V[四六九]]]]、
更に後の節では
>
[VRL[
「延寿」は明治維新の際、官軍と一戦を交えんとした幕府方=奥羽諸藩の同盟軍の指導者たちの間で採択され[BR[]]
たもので、[SNIP[]]
]VRL]
とまで書かれていて
[SRC[>>56 p.[V[四七一]]]]、
かなり実在説側に傾いています。
[111]
これは
>
[VRL[
[SNIP[]]資料的にはあくまで噂󠄁の域を出ないことは留意すべきである。[SNIP[]]
]VRL]
と釘を差しつつも、
>
[VRL[
[SNIP[]]ただ、敗者の資料は隠滅される場合が[BR[]]
多いこと、榎本武揚らによる共和国宣言のことや戊辰の役の諸事情を考えるとき、会津藩を中心とうる奥州諸藩の連[BR[]]
盟軍の間に年号改元のことがあったとしても、無理なく理解されるのである。
]VRL]
という理由から来る判断のようです。
[SRC[>>56 p.[V[四七二]]]]
[1]
[CITE[日本私年号の研究]]
は実在説を取る場合に、
[[東北地方]]での噂ゆえ、
[[建元]]し利用したのは[[奥羽越列藩同盟]]と推定してほぼ誤りあるまいとしています。