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344
* 清末の諸紀年法
[SEE[ [[干支年]], [[孔子紀元]], [[黄帝紀元]], [[共和]], [[亡国紀年]], [[西暦]], [[仏暦]] ]]
[8]
[[清国]]時代の末期にはたくさんの[[紀年法]]が提案され、利用されました。
[4]
20種類以上の[[紀年法]]が存在するとされます。
[SRC[>>30]]
[7]
しかしそれらを一覧にした[[日本語]]のウェブサイトは見当たりません。
せいぜい主要な4,5個程度しか紹介していません。
[9]
各[[紀年法]]はその背景に政治思想がありました。
従来の[[中華王朝]]の伝統的な[[紀年法]]の体制からの脱却を狙いながらも、
[[紀年法]]が思想を体現するという[[東洋]]の伝統
[SEE[ [[紀年法の選択]] ]]
を色濃く受け継いでいました。
[10]
現代の[[中華人民共和国]]や[[日本]]では[[清末]]・[[辛亥革命]]期の政治思想研究などの分野で、
思想としての[[紀年法]]が研究されています。
[SEE[ [[黃帝紀元]], [[民国紀元]] ]]
[11]
従来の[[東アジア]]では中央勢力の支配を好ましからざるものと思っていて、
しかし対抗勢力を樹立するまでには至らぬような場合、
[[元号]]のかわりに[[干支年]]を使う伝統がありました。
[[干支年]]のみの[[紀年]]は必ずしも政治色が付かないので
(反抗的な意志がなくても使われ得る)、
[[清]]の時代にも普通に使われていて、
[[清末]]にもやはり使われ続けていました。
[[干支年]] (ないし[[太歳紀年法]]) の利用からその思想を読み解こうとする研究もあります。
[SEE[ [[干支年]] ]]
[12]
古い時代に[[元年]]を置いた[[紀年法]]は、
[[欧米]]の[[キリスト紀元]]や[[日本]]の[[皇紀]]に触発されたものと考えられています。
といっても[[キリスト紀元]]はそれこそ[[明]]や[[清]]初の頃から接触はあったのですから、
やはり直接的には清末の[[日本]]留学生が[[皇紀]]を体感したことが大きかったのでしょう。
[SEE[ [[黃帝紀元]] ]]
;; [14]
[[黃帝紀元]]のようなものは[[道教]]でそれ以前からの歴史があり、
[[宋]]末の頃には出現していたとされます。
また[[暦法]] (や[[占い]]) の世界では太古の昔に[[暦元]] ([[上元]])
を設定していました。
従って中華世界にもこうした[[紀年法]]の素地はあったのですが、
それが一般の[[日時表示]]のための[[年]]の表示法として普及はしていなかったのです。
[REFS[
-[30]
[CITE[[V[中国近代と「二十世紀」[BR[]]⸺中国人の時間意識 (三) ⸺]]]],
[[[V[遊佐徹]]]],
[TIME[2020-09-14T03:02:13.000Z]], [TIME[2021-08-30T09:16:45.756Z]] <https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/53863/20160528123545957362/jfl_032_(109)_(122).pdf#page=12>
]REFS]
** 章炳麟の紀年法
[17]
[[辛亥革命]]期に活動した[RUBYB[[[章炳麟]]][[TIME[1869]]-[TIME[1936]]]]
([[章太炎]])
はいろいろな[[紀年法]]を使っていました。
-*-*-
[20]
[[著書]]
[CITE[訄書]]
は[TIME[西暦1900年][1900]]版、
[TIME[西暦1904年][1904]]版など、
その原稿含めいくつかの版が知られています。
[26]
[CITE[訄書]]
初刻版目次後の跋文には、
辛丑後238年とあります (>>25)。
辛丑とは、
[[明]]の[[皇帝]]家の最後の政権が[[清]]によって滅ぼされた、
[[南明]][[桂王]][TIME[永暦15(1661)年辛丑][1661]]を指します。
[SRC[>>19, >>6]]
[27]
辛丑後238年とは、
[TIME[辛丑(1661)年][1661]]の次の[TIME[清康煕元(1662)年壬寅][1662]]を第1年としたときの第238年で、
[TIME[西暦1899年][1899]]に当たります。
[SRC[>>19, >>6]]
[SEE[ [[亡国紀年]] ]]
[29]
これを[TIME[辛丑(1661)年][1661]]を第1年と数えて[TIME[西暦1898年戊戌][1898]]に当たるとする
[CITE[章太炎年譜長編]], [TIME[1979]]
の説がありました。
しかし時期や本文記述等の検討により否定されています。
[TIME[辛丑(1661)年][1661]]は明永暦帝の治世の最終年で、
[[漢民族]]が無主となった「辛丑後」時代に含めるべきものではないのだとされます。
[SRC[>>19]]
[28]
また、同年12月とありますが、[[農暦]]によるものとされます。 [SRC[>>19]]
[41]
[CITE[訄書]]
重訂本に収録された文章の初稿に当たるものには、
辛丑後240年とありました (>>40)。
[TIME[西暦1901年][1901]]に当たります。
[SRC[>>19]]
しかしこの表現は刊行された重訂本にはありません。
[HISTORY[
[16]
この[[紀年]]を紹介したとある[[日本]]の[[平成時代]]の論文は
「[L[明が亡びた「辛丑」 (1661[BR[]]年) 後の「第二百三十八年」(1899年)]]」
と表現しました。
[SRC[>>6]]
この説明的な表現は日本語の文章としては悪くはないのでしょうが、
当該論文が[[紀年法]]の利用と思想の分析を目的としたものなのですから、
原文のニュアンスが失われるこのような表現の仕方は適切ではなかったように思われます。
]HISTORY]
[45]
[CITE[訄書]]
重訂本には序文部分に共和2741年と[[共和紀年]]の年表記があります (>>39, >>42)。
これは[TIME[西暦1900年][1900]]に当たります。
重訂本が出版された[TIME[西暦1904年][1904]]までに[[共和紀年]]を使うようになったことがわかります。
同書[[奥書]]も[[共和紀年]]で (>>43, >>44)
[TIME[西暦1904年][1904]]、
[TIME[西暦1907年][1906]]に当たります
[SRC[>>19]]。
[46] 不明瞭ですが、[[共和紀年]]も[[農暦]]と共に使っていたのでしょうか。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [25]
[DATA(.label)[[CITE[訄書]] 初刻本]],
[[章炳麟]],
[DATA(.addr)[[[清国]][[上海]]]]
--
[31] [DATA(.label)[目次後]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]辛丑後二百三十八󠄂年[BR[]]十二月[SNIP[]]]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>23 p.[V[六]]]]
-
[37]
[DATA(.label)[[CITE[訄書]] 重訂本]],
[[章炳麟]]
--
[38]
[CSECTION(.label)[[V[訄書前󠄁錄]]]]
---
[40]
[DATA(.label)[上海図書館所蔵作者自校初刻本に書き入れられた初稿]]
「[DATA(.text)[[V[辛丑後二百四十年章炳麟曰[SUP[[YOKO[:]]]]]][SNIP[]]]]」
([[明朝体]])
[SRC[>>24 p.[V[一二〇]]]]
---
[39]
「[DATA(.text)[[V[共和二千七百四十一年[SUP[[YOKO[[ASIS[,][中央]]]]]]章炳麟曰[SUP[[YOKO[:]]]]]][SNIP[]]]]」
([[明朝体]])
[SRC[>>24 p.[V[一一九]], p.[V[一二三]], >>36]]
--
[42] [DATA(.label)[目次後]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]共和二千七百四十[BR[]]一年[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>24 p.[V[一二八󠄂]]]]
--
[43]
[DATA(.label)[重訂本 西暦1904年初版本]],
[DATA(.addr)[[[日本国]][[東京府]][[東京市]]]]
「[DATA(.text)[共和二千七百四十五年夏四月出版]]」
[SRC[>>19]]
--
[44]
[DATA(.label)[重訂本 西暦1906年再版本]]
「[DATA(.text)[共和二千七百四十七年秋九月再版]]」
[SRC[>>19]]
]ITEMS]
[32]
[TIME[西暦1900年][1900]]の
[CITE[解弁髪]]
が共和2741年と[[共和紀年]]を使っていました。
[SRC[>>32]]
[33]
>>21
によると[[章炳麟]]は
[CITE[客帝匡謬]],
[CITE[分鎮匡謬]]
で
「共和年号 (黄帝紀元)」
を使用しました。
この括弧はどういう意味なのでしょうか?
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [47]
[CITE(.label)[解弁髪]],
[[章炳麟]]
--
[48]
「[DATA(.text)[共和二千七百四十一年秋七月、年三十三才[SNIP[]]]]」
[SRC[>>32]]
- [34]
[CITE(.label)[沈藎]],
[[支那漢族黄中黄]]([[章士釗]]),
[TIME[西暦1903年][1903]]
-- [35] 「[DATA(.text)[共和二千七百四十四年]]」
[SRC[>>74]]
]ITEMS]
[REFS[
-
[18]
[CITE[[[章太炎全󠄃集]] (三)]]
--
[19]
[CSECTION[[V[前󠄁言]]]] ([[明朝体]]),
[[[V[朱維錚]]]],
[TIME[一九八󠄂二年十月][1982-10]],
pp.[V[一]]-[V[二二]]
--
[23]
[CITE[訄書]] 初刻本
--
[24]
[CITE[訄書]] 重訂本, p.[V[一一三]]-
-- [22] [[ページ番号]]は部ごと。初刻本と重訂本のページ数は連続。
-
[36]
[CITE@zh-TW[[[訄書]] : 訄書 - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-03-10T05:01:33.000Z]] <https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=711971>
-
[21] [CITE@ja-JP[清末政治史研究 : 改革から革命への接点をさぐって]], [[朴鍾玄]], [TIME[1992]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-30T14:24:29.408Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3063652/1/67> (要登録)
- [6]
[TIME[2021-05-04T05:43:43.000Z]]
<https://researchmap.jp/read0068043/published_papers/8235011/attachment_file.pdf>
#page=3
--
[5] [CITE@en[(PDF) Zhang Taiyan and the Late Qing Discourse on ‘South China’ 「章炳麟と清末における「南」言説」 | Shaoyang Lin - Academia.edu]], [TIME[2021-05-04T05:36:33.000Z]] <https://www.academia.edu/13040857/Zhang_Taiyan_and_the_Late_Qing_Discourse_on_South_China_%E7%AB%A0%E7%82%B3%E9%BA%9F%E3%81%A8%E6%B8%85%E6%9C%AB%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B_%E5%8D%97_%E8%A8%80%E8%AA%AC_>
- [74] [CITE[雑誌の黄帝紀年[BR[]]――旧暦新暦問題]],
[[樽本照雄]],
[TIME[2016-07-17 19:40:14 +09:00]]
<http://shinmatsu.main.jp/k7101.html>
-- [75]
[CITE[2dan.pdf]], [TIME[2017-09-04T23:23:00.000Z]], [TIME[2023-03-03T11:12:43.059Z]] <http://shinmatsu.main.jp/2dan.pdf#page=386>
]REFS]
* 民国紀元制定
[SEE[ [[民国紀元]], [[黄帝紀元]] ]]
[15]
[[太平天国]]の前例を[[孫文]]が意識したものとする説があります。
[SRC[>>302 #page=8]]
[REFS[
-
[302]
[CITE[[V[民初紀年考]]]],
[[[V[竹内弘行]]]],
[TIME[1989-06-15]],
[TIME[2023-03-08T09:49:59.000Z]] <https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61000/cks_007_021.pdf>
]REFS]
* グレゴリオ改暦
[SEE[ [[グレゴリオ改暦]], [[民国紀元]] ]]
[SEE[ [[農暦]], [[干支年]] ]]
[1]
清末の[[雜誌]]の[[日付]]は基本的に[[農暦]]で、
[[辛亥革命]]後は[[グレゴリオ暦]]に変わっていきますが、
[[農暦]]のままのものもあります。
[SRC[>>13]]
[2]
この時代を扱う文学研究者は、[[暦法]]の違いにあまりこだわっていないそうです
[SRC[>>13, >>3]]。
小説目録だと[[換算][暦の換算]]して新旧併記したりもします。
編纂方針によって[[清の元号]]や[[西暦]]に統一するものもあれば、
原表記に近い[[日時表示]]を採用するものもあります。
[SRC[>>13]]
[6] >>5 奥付に[[中華民国][民国紀元]] ([[グレゴリオ暦]])
と[[干支年]] ([[農暦]]) を併記した書籍の例
[REFS[
- [13] [CITE[雑誌の黄帝紀年[BR[]]――旧暦新暦問題]],
[[樽本照雄]],
[TIME[2016-07-17 19:40:14 +09:00]]
<http://shinmatsu.main.jp/k7101.html>
-- [3] [CITE[お知らせ]], [TIME[2021-09-23T06:30:00.000Z]], [TIME[2023-03-03T11:40:18.675Z]] <http://shinmatsu.main.jp/jm15.html#:~:text=新補近代小説書目>
-- [5]
[CITE[お知らせ]], [TIME[2021-12-24T23:27:00.000Z]], [TIME[2023-03-03T11:53:40.601Z]] <http://shinmatsu.main.jp/jm21.html#:~:text=車中毒針>
]REFS]
* 標準時制定
[SEE[ [[中国大陸の標準時]], [[滿洲の標準時]] ]]
* 中華帝国
[SEE[ [[洪憲]] ]]
* 中華民国における清室
[SEE[ [[宣統]] ]]
* メモ