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[32]
[DFN[法徳]]は、
[[近世]]初期の[[日本]][[能登国]]で[[偽造][偽文書]]されたとみられる中世文書に出現する[[元号]]です。
[1] [CITE@ja-JP[能登志徴 : 森田平次遺稿 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-22T03:53:37.771Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536040/1/158>
[2] [CITE@ja-JP[[[能登志徴]] : 森田平次遺稿 下編 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-22T03:54:21.672Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9536040/1/169>
[3]
「法德九年八月六日」付けの郡界を定める文書の古写本があったそうです。
[SRC[>>1]]
[5]
>>2 にはその写本についてもう少し詳しいことが書かれています。
そして「法德」の正体が考察されています。
[33]
この[[元号]]がいつなのか、誰もわからずみな頭を悩ませていました。
[SRC[>>2]]
[6]
[[宝德]] (3年まで) の誤記で、山中ゆえの[[延長年号]]ではないかという説があったようです。
[SRC[>>2]]
[7] >>2 の著者は「法」の字のある[[元号]]([[公年号]])はないのだから、
[[偽年号]]に違いないとしています。
ここでいう[[偽年号]]は、[[中世私年号]]の類を指しているようです。
何年に相当するものかは何も言っていません。
[34] >>2 の[[著者]]は[[偽文書]]だとまでは疑っていないようです。
;; [4] しかし境界を決める文書の写本というのが既に怪しい...
[44]
[CITE@ja-JP[能登珠洲志]], [[和田文次郎]], [TIME[明43.11][1910]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T02:22:47.794Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/764645/1/16>
□徳九年八月六日の文書。1文字目は磨滅とのこと。徳がつき9年続いた元号はないと不審がっている (が偽文書とはしていない)。
内容からして法徳9年文書と同じ。
- [30] [CITE[jii_1.pdf]], [TIME[2015-03-28T15:00:00.000Z]], [TIME[2022-12-22T13:44:18.207Z]] <https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/jii/jii_1.pdf>
--[8] [CITE[jii_22.pdf]], [TIME[2015-03-28T15:00:00.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:31:55.298Z]] <https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/reference/jii/jii_22.pdf>
-- [43] [CITE@ja-JP[加能郷土辞彙]], [[日置謙]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:34:28.861Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1123720/1/32>
[9] >>8 は文書の著者は架空の人物で、写本も[[山論]]のためのもので言うまでもない([[偽書]]だ) としています。
[15]
これに従うなら「法徳」が具体的にいつかはどうでもよくて、
「とにかく昔からそう決まっていたのだ」と言いたかっただけということに。
[SEE[ 類例: [[清保]] ]]
[41] [CITE@ja-JP[石川県史 第壹編]], [[石川県]], [TIME[昭和2][1927]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:31:07.875Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1921042/1/503>
[[異年号]]、[[私年号]]だとし、当該文書の真贋は来歴から察せと書いている。
>>43 と同文
-[22] [CITE@ja-JP[珠洲市史 第4巻 (資料編 神社・製塩・民俗) - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-22T13:05:18.918Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537865/1/586>
-[24] [CITE@ja-JP[珠洲市史 第4巻 (資料編 神社・製塩・民俗) - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-22T13:07:00.785Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537865/1/590>
[23] >>22 宝徳の改元を知らなかったのだとしても、と宝徳説に触れつつも、
山論に使われたことから上限も定まる、と否定的 (しかしいつとは断言していない)。
[25] >>24 白黒写真あり、低解像度で文字の判読は難しい
[40] [CITE@ja-JP[柳田村の集落誌]], [[原田正彰 編著]], [TIME[1977.10][1977]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:26:30.998Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537479/1/140> (要登録)
[[偽年号]]であると断定し、そのため[[偽文書]]かどうかが問題になるとする。
ここでいう[[偽年号]]がどういう意味かは不明ながら、真贋に寄与するものらしい。
[42] [CITE@ja-JP[柳田村の集落誌]], [[原田正彰 編著]], [TIME[1977.10][1977]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:29:13.946Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537479/1/171> (要登録)
こちらでは[[私年号]]と呼んでいる。
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,(法徳) ,宝徳 ,寛文元年(1661年) ,不明 ,『能登志徴』
[11]
[CITE[Wikipedia]] の >>10 の記述は何を根拠にしているのか謎です。
出典に[CITE[能登志徴]]が挙げられていますが、
[CITE[能登志徴]]のどこにそのような記述があるのか謎。
[12]
この表の「(」「)」が何を意味しているのか、がまず説明がなく謎です。
[13]
[CITE[能登志徴]]によれば 「(法徳)」こそが本来の[[元号名]]。
異説とされる「宝徳」は相当する[[公年号]]の1説。
[14]
相当年とされる「寛文」は、
寛文9年に初めて[[加賀藩]]当局に「法徳」文書が提出された [SRC[>>8]]
ことに由来するものでしょうか。
[45]
[CITE[Wikipedia]] 編集者が[CITE[能登志徴]]を見ていたならこのような間違いは起こるはずがなく、
継続年数は「9年以上」となるはずです。そうなっていないということは孫引きなのでしょうか。
-*-*-
[26] [CITE[歴史と民俗: 神奈川大学日本常民文化研究所論集 - Google ブックス]], [TIME[2022-12-22T13:14:11.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=kTMxAAAAIAAJ&dq=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>
>209 ページ
>... た「法徳九年八月阿部判官」の年紀を持つ「鈴々鳳至大堺之事」と題する文書として伝わっており、民俗班・文書班のともに大きな課題とすべき問題なので、この伝説・文書に見える「北山の木戸」と「言若の五輪塔」の実地調査を、今回、行うこととした。
- [38] [CITE[奥能登と時国家(神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会編)奥能登と時国家 調査報告編1(文書・書籍) 1996.5 - mqgqct00000007ki.pdf]], [TIME[2016-10-28T07:34:42.000Z]], [TIME[2022-12-22T14:11:02.766Z]] <http://jominken.kanagawa-u.ac.jp/publication/mqgqct0000000329-att/mqgqct00000007ki.pdf>
-- [39] 目次のみ
[27] [CITE[奥能登と時国家調査報告編 1: 文書・書籍 - Google ブックス]], [TIME[2022-12-22T13:14:45.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=b11MAQAAIAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>
>70 ページ
>...
和嶋俊二氏には、今回もまた、調査のすべての面にわたって御援助いただいたが、同氏の長年の御研究に基づいた御教示による、珠洲・鳳至両郡の境の確定に関わる阿部判官の伝説は、上時国家第二次採訪文書にも、寛文五年(一六六五)に書写された「法徳九年八月阿部判官」の年紀を持つ「鈴々鳳至大堺之事」と題する文書として伝わっており、民俗班・文書班のともに大きな課題とすべき問題なので、
この伝説・文書に見える「北山の木戸」と「言若の五輪塔」の実地調査を、今回、行うこととした。
>154 ページ
>文書・書籍 神奈川大学日本常民文化研究所奥能登調査研究会 154 ついで、和嶋氏は「私年号『鳳珠郡界文書』の一考察」と題し、鳳至郡と珠洲郡の郡界の定書として古くから知られ、宝徳(法徳)九年八月六日の年紀と阿部判官の署名を持ち、日置謙氏によって偽文書と断定されて以来、余り関心を持たれていなかった文書について、上時国家文書の中に見出された寛文五(一六六五)に書写されこの文書第三日(五月四日)はまず、田島氏が、昨年度に行った安部屋での調査をはじめ、能登と松前との関係を追究するため、史料の探索を続けていること、現在のところ、未だ適当な史料を見出していないことを率直に報告、今後を期しているとのべた。
>155 ページ
>の写、及び粟蔵の白山神社の瀬野宮司による同文書の写に関連して、あらためて注目され、試論を展開された。
そして「向谷賢治郎家文書」の延宝七年(一六七九)の山論に関する文書により、勝訴した大町泥木村の提出した境界文書の作成年代が天正初年であり、「下補正行家文書」の寛永二年の山出入文書に「天正元年之山堺証文」の見えること、さらに「久保宝二家文書」に山の堺に関連する天正九年(一五八一)八月六日の文書があり、これが元号の違いをのぞくと、さきの阿部判官の偽文書と一致する点など、きわめて興味深い推論を展開され、能登における私年号、阿部判官の墓と伝えられる近世の石塔などにも言及された。
... 岩倉山に鎮座する式内社石倉比古神社の別当寺岩倉寺は、中世、広い信仰圏を持つ寺院として繁栄した時期があったと伝えられ、日置謙編『加能 ...
>167 ページ
>こうした点を考慮すると、ここに記された年紀・元号の「伝承」は、平時忠に関わる「伝承」とはレベルの全く異なる「伝承」であり、それが事実であるか否かについて、追究することは十分に意味のあることと、われわれは考えていた。
>196 ページ
>また、池田周三家文書についても、前回の作業を継続し、一点一点を封筒に入れ、年号を確定するなどの仕事を進め、ダンボール箱十三箱中八箱を完了、全体の半分ほどの整理を終えたものと思われる。その過程で、明治期の私年号「征露」二年付の文書を発見したなどの副産物があった。同じく、井池光夫家においても、襖下張文書を一点ごとに封筒に入れる作業を前回に続けて進行させた。[補註 1 ]だくことになっている。(脱アルカ) (一七○○ )のそれの中 ...
[29] [[日置謙]]は >>8 の編者。
[36]
この調査によると[[偽文書]]確定ということで良さそう。
[37]
すると[[偽文書]]の「偽造」性の構成要素である「法徳」がいつであるか、というのはもう意味のない問ということに。
「中世のなんかよくわからん昔」という以上の答えはないだろう。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[28]
[CITE[奥能登の研究: 歴史・民俗・宗教 - 和嶋俊二 - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-22T13:41:27.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=3V1MAQAAIAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>
]FIGCAPTION]
>21 ページ
>「言若」とは宝立山の黒峰城主であったという伝説上の人物、阿部判官義宗が、法徳九年八月六日、珠洲・鳳至の郡境を定めたという文書に「言若の五輪」とあるもので、郡界を示す塚上に五輪の塔(近代になって古い ...
]FIG]
[35]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[31]
[CITE[日本歴史地名大系 - 平凡社. 地方資料センター - [[Google ブックス]]]], [TIME[2022-12-22T13:45:27.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=T_YUAQAAMAAJ&q=%22%E6%B3%95%E5%BE%B3%22>
]FIGCAPTION]
>902 ページ
>... 庁に提示されたという阿部判官文害に「鈴郡山さかひ、羽根のほほ内より、はなかけ堂、ごんしやくのごりん石、きりはたのとちの木を境」とあるというが( ^登志徴)、この文害の日付として記される法徳九年は偽年号もしくは私年号で、真偽は定かでない。
>903 ページ
>... 加賀籌に提出した「法徳九年八月六日阿部判 00 口」という私年号 8 年号)をもつ文害に、榜示の一として「ごんしやくのごりん石」(能 8 志徴)とあるとされるところから、少なくとも近世前期には中世以来の膀示としての認識があつたと推測される。
]FIG]
[16]
[CITE@ja[珠洲・鳳至郡境文書と現地【珠洲市】【能登町】 - 能登のうみやまブシ(西山郷史)]], [TIME[2022-12-22T12:46:59.000Z]] <https://umiyamabusi.hatenadiary.org/entry/20100924/1285337659>
[17] 現物カラー写真あり。解像度低めなので文字の読み取りはやや困難。
[18] [CITE[9f83c06041879f2a.pdf]], [TIME[2017-09-30T13:54:59.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:50:34.593Z]] <http://image01.wiki.livedoor.jp/i/i/iidamati/9f83c06041879f2a.pdf#page=4>
[19]
当該文書の所蔵者のエピソード、平成中期。 (紀年や内容には言及なし。)
[20]
[CITE[16kaetsunou.pdf]], [TIME[2012-03-13T15:00:00.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:54:03.339Z]] <https://www2.lib.kanazawa.ishikawa.jp/kinsei/16kaetsunou.pdf#page=18>
[CITE[阿部判官能登珠洲郡堺定書]]
というものが所蔵されている、昭和後期。
>>19 とは別のものがあるらしい。
[21] [CITE@ja[能登国阿部判官ノ古書等写 | SHOSHO | 石川県立図書館]], [TIME[2022-12-22T12:55:44.000Z]] <https://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/shosho/detail/orgn/B101001556>
カラー画像。 >>20 を撮影したもの?
>
:タイトル :能登国阿部判官ノ古書等写
:解説 :前半は,珠洲郡南方村の三杯助兵衛家所蔵で,法徳9年8月6日阿部某発給の珠洲郡分界の券書。後半は,山姥の手跡という「一盃一盃又一盃」の書を,嘉永7年4月29日,三杯助兵衛宅で,森田良見が写したもの。法徳なる公年号なく私年号である。印記●。落款●。
:出版/書写者 :森田良見手写
:出版/作成年(西暦) :嘉永7年4月 1854-04-01