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710
* 得江文書
[51]
[[得江文書]]に「白鹿二年」付[[文書]]があります。
また、文中に「中院右中将」の名がある点など共通する興国2年付[[文書]]があります。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [49] [DATA(.label)[[[得江文書]]]]
-- [48] 「[DATA(.text)[[V[興國二年三月二日]]]]」
[SRC[>>46 /381, >>6 /196]]
-- [53] >>46 /382 に白黒写真あり、不鮮明
- [49] [DATA(.label)[[[得江文書]]]]
-- [50] 「[DATA(.text)[[V[白鹿二年卯月廿日]]]]」
[SRC[>>46 /381, >>6 /197]]
-- [54] >>46 /382 に白黒写真あり、不鮮明
]ITEMS]
[52]
[TIME[明治40(1907)年][1907]]の
[CITE[大日本史料]]は、
南朝興国2年北朝暦応4年の3月2日己酉条にこの2文書を掛けています。
[SRC[>>46 /381]]
[[白鹿]]の[[年号]]は他に徴証なく何年に当たるか定かではないため、
関連すると思われる興国2年文書と共に掲載したと注釈があります。
[SRC[>>46 /383]]
[REFS[
- [46]
[CITE@ja-JP[大日本史料 第6編之6]], [[東京大学史料編纂所]],
[V[明治四十年三月十五日印刷]],
[V[明治四十年三月十六日發行]] [WEAK[([TIME[1907-03-16]])]],
[TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:54:02.306Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/782844/1/381>
/382
/383
-
[6] [CITE@ja-JP[[[石川県史]] 第1編]], [[石川県]],
[V[昭和十三年三月二十五日印刷]],
[V[昭和十三年三月三十一日發行]] [WEAK[([TIME[1938-03-31]])]],
[TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:32:52.724Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1184419/1/412>
]REFS]
* 竜安寺本[CITE[太平記]]
[59]
[[竜安寺]]本[CITE[太平記]]卷廿五の[[奥書]]に、
>
[VRL[
京方貞和元年乙酉、南方號白鹿元年、同京方貞和二年丙戌、南方移正平、
]VRL]
とあります。 [SRC[>>18, >>13]]
[88] >>17 /40 に白黒写真があります。
[60]
つまり[TIME[北朝貞和元(1345)年乙酉 (通説では南朝興国6年)][1345]]
が[[南朝]]では白鹿元年で、
[TIME[北朝貞和2(1346)年丙戌][1346]]が[[南朝]]では正平元年に[[改元]]された[[年]]とのことです。
[86]
この部分の後には「天龍寺焼失」の日付が3つ
(延文3年戊戌正月4日夜、
貞治6年丁未3月29日夜、
応安6年癸丑9月28日夜)
書かれています。
[SRC[>>17 /40]]
[89]
似たような記述は他の巻末にもあります。
- [90]
19巻末
「[V[京方年號曆應二年己卯、南方年號興國元年也、[SNIP[]]]]」
[SRC[>>18 /638]]
-- [93] 興国は旧説。現行説では興国0年 = 延元4年
- [91]
21巻末手前
「[V[京方年號康永改元壬午、宮方興國五年也、]]」
[SRC[>>18 /696]]
-- [94] 興国旧説なら興国4年、現行説なら興国3年のはず
- [92]
28巻末手前
「[V[京方年號觀應改元庚寅、南方年號正平󠄃五年也、]]」
[SRC[>>18 /868]]
-- [95] [TIME[1350]]
[96]
なお、「延元」「正平」は本文中にも用例あるのに対して「興国」「白鹿」は本文中に出現しません。
[73]
[[昭和時代]]初期の翻刻本出版時の解説によると、
これら巻末の記述は[CITE[太平記]]作者ではなく後人の注記と推測されながら、
本文と[[同筆]]であり、
西源院本の原本たる応永本に既に存在したと考えられます。
[SRC[>>18 /21]]
[70]
[TIME[1913-11-01]]から[TIME[1913-11-03]]に[[東京帝国大学]]資料編纂掛が開催した第六囘史料展覧會で、
竜安寺所蔵西源院本[CITE[太平記]]が展示されました。
[CITE[考古学雑誌]]の報告では、
25巻奥書が「[V[殊に研究に資すべき條項]]」だと特に言及されました。
[SRC[>>12]]
[72] [[西源院]]は[[竜安寺]]の[[塔頭]]で、
かつて[[西源院]]所蔵だったことから西源院本といわれていました。
[SRC[>>12]]
[87] この写本は火災により周辺が損失していますが、該当部分は焼け残った部分にあります。
[SRC[>>17 /40]]
[REFS[
-
[18] [CITE@ja-JP[[[太平記]] : 西源院本]], [[鷲尾順敬 校訂]], [TIME[昭11][1936]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:43:13.113Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1230899/1/761> (要登録)
-
[12] [CITE@ja-JP[[[考古学雑誌]] = Journal of the Archaeological Society of Nippon 4(4)]], [[日本考古学会]], [TIME[1913-12]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:37:49.219Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3548186/1/35> (要登録)
-
[17]
[CITE@ja-JP[軍戦記展覧会目録]], [[石川県図書館協会]], [TIME[昭10][1935]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:42:12.554Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1218703/1/63>
/40
]REFS]
* 興国6年説
[55]
[CITE[日本百科大辞典]]
は、
白鹿2年を興国6年にあたる[[私年號]]とし、出典に[[得江文書]]、
[CITE[天寧寺本年代記]]、
[ASIS[淸]]源院本[CITE[太平記]]を挙げていました。
[SRC[>>45]]
;; [71]
[TIME[興国6(1345)年][1345]]は正確には白鹿元年に当たるべきで、
表の書き方がわかりにくいのです。
[57]
[TIME[昭和6(1931)年][1931]]、
歴史研究者として高名な[[黒板勝美]]は、
[[私年號]]の実例として[[得江文書]]の白鹿2年を紹介しました。
[ASIS[生]]源院本[CITE[太平記]]から正平元年と推定され、
従来の延元2年は誤りらしいと述べています。
なお、[[近世]]の研究者の[[私年号一覧][日本私年号一覧表]]に漏れていたことにも言及しています。
[SRC[>>8]]
[58]
[TIME[昭和13(1938)年][1938]]の
[CITE[石川県史]]
は、
白鹿2年が正平元年の[[異年號]]であるのは世に知られる所だと述べています。
[SRC[>>6 /412, >>7]]
[REFS[
-
[45]
[CITE@ja-JP[日本百科大辞典 第5巻]], [[三省堂編輯所]],
[V[明治四十四年十二月一日印刷]],
[V[明治四十四年十二月五日發行]] [WEAK[([TIME[1911-12-05]])]],
[TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:40:59.159Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898069/1/122> (要登録)
-
[8] [CITE@ja-JP[[[国史の研究]] 総説]], [[黒板勝美]], [TIME[昭和6][1931]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T03:49:56.980Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1075909/1/86>
-
[7]
[CITE@ja-JP[加能郷土辞彙]], [[日置謙]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:34:28.861Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1123720/1/32>
右
]REFS]
* 北陸朝廷説
[80]
[[北陸朝廷]]説は、
[[後醍醐天皇]]から[[譲位]]された[[恒良親王]]が[[北陸朝廷]]ともいうべき政権を樹立した、
またはその構想を持っていた、とする説です。
[81]
[[白鹿]]はその政権の[[元号]]とされ、[[北陸朝廷]]説の重要な根拠の1つとなっています。
[82]
[[北陸朝廷]]説は過去に有力研究者が主張してきたものの、
[[天皇]]への[[即位]]の事実があったかどうかは確証を欠いています。
[83]
また、[[白鹿]]がその[[元号]]であるかどうかは、[[即位]]の事実の有無とは別個に検証が必要な問題です。
** 延元元年北陸朝廷改元説
[74]
[[明治時代]]の歴史研究者[RUBYB[[[菅政友]]][[TIME[1824]]-[TIME[1897]]]]の
[CITE[南山皇胤譜]]
[CSECTION[恒良親王]]
条は、
末尾、延元2年3月の越前金ヶ崎落城よりも後に白鹿2年文書を掲載しています。
[SRC[>>27 /74]]
[75]
その按語および別稿で、
中院右中将は北国へ東宮[[恒良親王]]に随行の公卿で、
得江九郎は頼貞であり、
白鹿は他になくいつか不明ながら、
金崎城中で11月後に定められたもので、
白鹿を獲たようなことがあって[[白雉]]、[[朱鳥]]のような古例に倣ったものであろうかとしています。
[SRC[>>27 /74, >>27 /334]]
[76]
[[菅政友]]は[CITE[太平記]]の[[後醍醐天皇]]から[[恒良親王]]への[[譲位]]記事について、
[[綸旨]] (への言及) の存在や白鹿2年文書の存在から、
[[即位]]と[[改元]]があったのは疑いないと考えました。
[SRC[>>27 /334]]
[84]
[[改元]]は延元元年11月以降としていましたが、
これは延元元年11月12日付[[文書]]が延元を使っている
[SRC[>>27 /333]]
のでそれ以降ということと思われます。
[REFS[
-
[27] [CITE@ja-JP[菅政友全集]], [[国書刊行会]], [TIME[明40.11][1907]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:02:31.718Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898703/1/74>
/334
]REFS]
-*-*-
[69]
[TIME[大正4(1915)年][1915]]の[[新田義貞]]に関係した論考は、
白鹿2年文書に基づき、
中ノ院右中将は東宮随行の公卿であるから、
東宮[[恒良親王]]は疾くに即位して[[白鹿]]に[[改元]]していたのだと述べています。
[SRC[>>28]]
「疾くに」とは具体的には示されていませんが、
[[比叡山]]で[[後醍醐天皇]]から[[譲位]]されたとする[CITE[太平記]]の記述をベースにしていますから、
それとそう変わらない説と思われます。
明記されていませんが、
[[菅政友]]説そのものと思われます。
[REFS[
-
[28] [CITE@ja-JP[新田氏郷土史論]], [[日本歴史地理学会]], [TIME[大正4][1915]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:07:15.842Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/980720/1/132> (要登録)
]REFS]
** 興国6年北陸朝廷改元説
[61]
[TIME[大正11(1922)年][1922]]、
[[近代日本]]の歴史研究者[RUBYB[[[田中義成]]][[TIME[1860]]-[TIME[1919]]]]は、
[CITE[太平記]]と[[綸旨]]状[[文書]]の存在を根拠に[[後醍醐天皇]]が[RUBYB[[[恒良親王]]][[TIME[1325]]-[TIME[1338]]]]に[[譲位]]し、
[[恒良親王]]は[[北陸朝廷]]を立てることを視野に[[北国]]に向かったと主張しました。
[SRC[>>13]]
[62]
そして白鹿2年文書について、
[[中院定平]]かその系統の人と考えられる中院右中将から、
北国の人である[[得江九郎]]に宛てたもので、
北陸の[[文書]]と言えることから、
北陸の[[南朝]]方が[[白鹿]]を使ったものであるとしました。
[SRC[>>13]]
[63]
そして竜安寺本[CITE[太平記]]奥書より、
白鹿2年は[TIME[北朝貞和2年・南朝正平元年 (西暦1346年)][1346]] であるとしました。
[SRC[>>13]]
[64]
[[興国]]があるにも関わらず[[白鹿]]を使った理由については、
[[恒良親王]]は[[元号]]を建てられなかったものの、
その後[[宗良親王]]が北国に下ったのであり、
[[北陸朝廷]]の構想が継続していて[[宗良親王]]を擁する勢力が使ったのではないかと考えました。
[SRC[>>13]]
[77]
これは基本なロジックは[[菅政友]]説そのものですが、
白鹿の年次が修正されたために、
[[建元]]者を[[宗良親王]]に変更せざるを得なくなり無理が生じています。
[85]
>>15, >>16 は田中説を引いてそのまま踏襲しています。
[97]
[TIME[昭和11(1936)年]]に出版された西源院本[CITE[太平記]]の解説は、
[[白鹿]]は延元元年の[[恒良親王]]下向以後に北陸の宮方で用いられたものらしく、
白鹿2年文書があり、
西源院本[CITE[太平記]]にこれがあるのも根拠があるはずだと述べています。
[SRC[>>18 /21]]
出典は明記されていませんし、解説であって論考ではないため簡単な記述に留まっているのですが、
当時の新しい通説にそのまま従ったものと考えられます。
[REFS[
-
[13] [CITE@ja-JP[南北朝時代史]], [[田中義成]], [TIME[大正11][1922]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:38:49.828Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/965780/1/91>
-
[15] [CITE@ja-JP[綜合日本史大系 第6巻 (南北朝)]], [[魚澄惣五郎]], [TIME[1927]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:40:28.281Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1920188/1/179>
-
[16] [CITE@ja-JP[[[大日本史講座]] 第4巻]], [[雄山閣]], [TIME[昭和4][1929]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:41:25.569Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918152/1/85> (要登録)
]REFS]
-*-*-
[67]
[[平成時代]]の歴史研究者で[[南朝]]研究で有名な[[森茂暁]]は、
[TIME[延元3(1338)年][1338]]に[[恒良親王]]が殺害されたとする通説は疑問であるとしました。
そして、
白鹿2年文書より権威を持つ人物が北陸にいたことがわかるとして、
[[恒良親王]]と[[白鹿]]を関連付ける確証はないものの、
[[恒良親王]]が[[北陸]]で生存していたか威光が残っていた可能性があり、
[[北陸王朝]]がこの時期にはある程度実を結んでいた可能性があるとしました。
[SRC[>>66]]
;; [68] ただ、それだけの大物の動向が10年近く残っていないというのは不審ですよね。
[78]
[[恒良親王]]の死亡時期が曖昧な点を突いて[[建元]]者問題を解決していますが、
ならばなぜこのタイミングで[[恒良親王]]が[[建元]]したのかと新たな問題を発生させてしまっています。
また、
そもそもこの説は[CITE[太平記]]の譲位説の説明から始まっているのに、
[CITE[太平記]]に基づく[[恒良親王]]の死亡年をずらさなければならないという矛盾を抱えています。
;;
[79]
[CITE[太平記]]の中にも信用できる部分とそうでない部分があるし、[CITE[太平記]]に[[恒良親王]]の死亡が明記されているわけではないから、矛盾にはならない、というのはまあそうなのですが。
[REFS[
- [65]
[CITE@ja[[[恒良親王]] - Wikipedia]], [TIME[2024-01-31T01:46:24.000Z]], [TIME[2024-02-14T13:17:26.533Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%81%92%E8%89%AF%E8%A6%AA%E7%8E%8B>
-- [66]
引用:
[CITE[太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々]],
[[森茂暁]],
[TIME[2013-12-25]] (オリジナル: [TIME[1991-10-24]])
]REFS]
* 白鹿
[FIG(table)[
:ad:[[西暦]]
:k:[[干支年]]
:n:北朝
:s:南朝 (現行説)
:so:南朝旧説
:rn:竜安寺本[CITE[太平記]]京
:rs:竜安寺本[CITE[太平記]]南
:1:延元2年説
:2:興国6年説
:3:興国2年説
:e:出来事
:ad:[TIME[1336]]
:s:建武3/延元1
:k:丙子
:n:建武3
:e:[[恒良親王]]北行
:1:延元1/白鹿1
:ad:[TIME[1337]]
:k:丁丑
:s:延元2
:n:建武4
:e:[[金ヶ崎]]落城
:1:白鹿2
:ad:[TIME[1338]]
:k:戊寅
:s:延元3
:n:建武5/暦応1
:ad:[TIME[1339]]
:k:己卯
:s:延元4
:n:暦応2
:so:興国1
:rn:暦応2
:rs:興国1
:ad:[TIME[1340]]
:k:庚辰
:n:暦応3
:s:延元5/興国1
:so:興国2
:3:白鹿1
:ad:[TIME[1341]]
:k:辛巳
:n:暦応4
:s:興国2
:so:興国3
:3:白鹿2
:ad:[TIME[1342]]
:k:壬午
:n:暦応5/康永1
:s:興国3
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:rn:康永1
:rs:興国5
:ad:[TIME[1343]]
:s:興国4
:k:癸未
:n:康永2
:so:興国5
:ad:[TIME[1344]]
:s:興国5
:k:甲申
:n:康永3
:so:興国6
:ad:[TIME[1345]]
:s:興国6
:k:乙酉
:n:康永4/貞和1
:so:興国7
:rn:貞和1
:rs:白鹿1
:2:白鹿1
:ad:[TIME[1346]]
:k:丙戌
:n:貞和2
:s:興国7/正平1
:rn:貞和2
:rs:正平1
:2:白鹿2
:ad:[TIME[1347]]
:k:丁亥
:s:正平2
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:ad:[TIME[1348]]
:k:戊子
:s:正平3
:n:貞和4
:ad:[TIME[1349]]
:k:己丑
:s:正平4
:n:貞和5
:ad:[TIME[1350]]
:k:庚寅
:n:貞和6/観応1
:s:正平5
:rn:観応1
:rs:正平5
]FIG]
[14]
[TIME[2023-01-24T13:39:36.400Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/3566480>
(非公開)
>歴史地理 32(6)(231)
>雑誌
>日本歴史地理学会 編 (吉川弘文館, 1918-12)
>49: 方の軍を締率せし事、白鹿元年は即ち京方貞和元年に京都龍安寺常る。而して吉野朝廷は興國六年なり。之
[19]
[TIME[2023-01-24T13:43:55.800Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/11185302/1/31>
(非公開)
>上方 (107)
>雑誌
>(上方郷土研究会, 1939-11)
>31: た點が窺はれる。但し白鹿元年は比叡山偶想南朝正平元年北朝貞和二年に當るとも說かれるから、之を
[23] [CITE@ja-JP[南朝正統皇位継承論 : 日本史の盲点南北朝時代の謎を解く]], [[南朝史学会]], [TIME[1966]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:57:02.691Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3044313/1/16> (要登録)
/37
[20] [CITE@ja-JP[北畠親房文書輯考]], [[横井金男]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:44:56.240Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1043626/1/242> (要登録)
[30] [CITE@ja-JP[日本文学講座 苐三巻]], [[新潮社]], [TIME[1927-1928][1928]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-05T09:03:41.251Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1884955/1/269> (要登録)
[24] [CITE@ja-JP[敦賀市史 通史編 上巻]], [[敦賀市史編さん委員会]], [TIME[1985.6][1985]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:59:47.240Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539789/1/185> (要登録)
[25] [CITE@ja-JP[世紀 40(463)]], [[世紀編集室]], [TIME[1988-12]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:00:31.289Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2346210/1/46> (要登録)
[26] [CITE@ja-JP[東京歴史及地理講義録 国史講義]], [[歴史及地理講習会]], [TIME[明35.8][1902]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:01:44.886Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/768417/1/187> (要登録)
[32]
[CITE@ja-JP[三河に於ける長慶天皇伝説考 : 民族学の視点から南朝の史蹟と伝説を探る 本編]], [[藤原石山, 南朝史学会]], [TIME[1979]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-09T13:38:44.461Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537843/1/41> (要登録)
右
[47] [CITE[越前の新田義貞考(上): ~歴史研究学習資料~ - 福井・新田塚郷土歴史研究会 - Google ブックス]],
[TIME[2013]],
[TIME[2024-02-13T13:11:27.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=Sa1EAgAAQBAJ&pg=PT68>
[CITE[日本私年号の研究]]から3資料を紹介。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja[北陸朝廷 - Wikipedia]]
([TIME[2016-10-14 15:24:57 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%99%B8%E6%9C%9D%E5%BB%B7>
]FIGCAPTION]
> 1346年に私年号「白鹿2年」が用いられた越前国司中院良定から得江九郎頼員へ当てられた「感状」が残っている(得江文書・白鹿二年行貞奉執達状)。これらのことから、当時北陸・東北に南朝方武将の擁立する「朝廷」が存在したとされる。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE@ja[つ]]
([TIME[2016-02-06 09:40:00 +09:00]])
<http://www2s.biglobe.ne.jp/~tetuya/REKISI/taiheiki/jiten/tu.html>
]FIGCAPTION]
> しかし建武政権は足利尊氏の反乱により短期で崩壊、後醍醐側は比叡山に立てこもって足利軍とたたかったが、建武3年(延元元、1336)10月に和睦が成立し後醍醐は比叡山を降りた。このとき全く蚊帳の外に置かれていた新田義貞が和睦に抗議して後醍醐に詰め寄ったため、後醍醐は12歳の皇太子・恒良に皇位を譲って異母兄・尊良や義貞と共に北陸へ向かうよう指示する。これが後醍醐の深謀遠慮だったのか、義貞に詰め寄られての一時の急場しのぎだったのか、あるいは義貞が事実上のクーデターを起こして恒良を奪い取ったのか(そう記す史料もある)明確ではない。またこのとき後醍醐が三種の神器を恒良に渡して皇位を継承させたことが事実なのかどうかについても議論があるが、少なくとも義貞たちは恒良が「天皇」になったと認識し、「白鹿」という独自年号を使った「北陸王朝」を一時的に樹立したことは間違いない。恒良自身が天皇として「綸旨」を発行していることも確認されている。
> ところがその年の暮に父・後醍醐は京を脱出して吉野に入り、恒良に渡した神器は偽物であり自身が本物を所持している、自身が正統な天皇であると主張し始める。これは北朝の否定と同時に「北陸王朝」の否定でもあった。それに対して恒良や義貞たちがどう思ったかは定かではない。
]FIG]
[21] [CITE@ja-JP[共立女子大学短期大学部紀要 (4)]], [[共立女子大学短期大学部]], [TIME[1960-12]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:46:20.578Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1776351/1/17> (要登録)
[22] [CITE@ja-JP[足利尊氏]], [[高柳光寿]], [TIME[1966]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T13:56:09.526Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3003475/1/151> (要登録)
[41]
[CITE@ja[書評|鳥影社]], [TIME[2024-01-09T02:26:09.000Z]], [TIME[2024-02-13T09:57:54.543Z]] <https://www.choeisha.com/kiji_4886299709.htm>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE[たんめん老人のたんたん日記 森茂暁『太平記の群像 南北朝を駆け抜けた人々』(4)]]
([[tangmianlaoren]]著, [TIME[2016-10-28 15:28:02 +09:00]])
<http://tangmianlaoren.blog.fc2.com/blog-entry-491.html>
]FIGCAPTION]
> 「北陸王朝」の拠点とされた金崎城はほどなく陥落し、義貞も戦死したが、少なくとも10年間は北陸地方に独立の勢力が存在し、一種の地域国家を存続させ、一時は「白鹿」という年号までも使用していたことが確認できるという。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[太平記について熱く語るスレ]]
[1] [CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第15巻 (ぬーひり)]], [[河出書房新社]], [TIME[1959]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T08:34:06.032Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2999852/1/61> (要登録)
白禄 白祿 はくろく
南北朝時代初期 南朝 私年号
[CITE[得江文書]] : 白禄元年 = 延元元年
([TIME[2016-10-28 15:29:48 +09:00]])
<http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1059646052/172>
]FIGCAPTION]
> ただ、恒良親王は「白鹿」だか「白禄」だかいう元号を使用していたって説もあるんですよね。
> その説がどれほど有力なのかは知らないけど、もし真実なら内定どころか明らかに一度は即位してたってことになる。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE[新田義貞 ――れきけん・とらっしゅばすけっと]]
([TIME[2008-02-01 15:44:13 +09:00]])
<http://www.geocities.jp/trushbasket/data/nf/yoshisada.html>
]FIGCAPTION]
> ところで、この時期に義貞が恒良を天皇とする北陸朝廷を擁立していたという説が唱えられている。現在となっては証拠は明らかでないが、南朝興国七年(北朝貞和二年、1346)に越前で「白鹿」元号を用いた南朝方と思われる文書が見られている事は「北陸朝廷」の名残である可能性を思わせ興味深い。
]FIG]
[40] [CITE[得江氏]], [TIME[2024-02-13T09:47:36.000Z]] <http://geo.d51498.com/CollegeLife-Labo/6989/TheTokues.htm>
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,白鹿 ,- ,興国6年/貞和元年(1345年) ,不明 ,『得江文書』、竜安寺蔵『太平記』奥書
[29] [CITE@ja-JP[群馬県史 資料編 8 (中世 4 金石文)]], [[群馬県史編さん委員会]], [TIME[1988.3][1988]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-24T14:08:43.403Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644240/1/298> (要登録)
[31] [CITE@ja-JP[田山方南先生華甲記念論文集]], [[田山方南先生華甲記念会]], [TIME[1963]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-09T12:40:13.391Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3020249/1/394> (要登録)
[33]
[CITE@ja-JP[新釈日本文学叢書 第六巻]], [[日本文学叢書刊行会]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-10T03:29:33.908Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1884217/1/7> (要登録)
[34] [CITE@ja-JP[新釈日本文学叢書 第七巻]], [[日本文学叢書刊行会]], [TIME[昭和5][1930]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-10T03:30:46.524Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1884227/1/13> (要登録)
[35]
[CITE@ja[北陸朝廷について(串哲№19)|鈴木超世志]], [TIME[2024-02-11T08:10:19.000Z]] <https://note.com/quanro/n/nd5aaa6612b2e>
[[三浦天皇]]説
[36] [CITE@ja[三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』デジタル復刻版 出版のご案内|串呂哲学研究会]], [TIME[2024-02-11T08:22:07.000Z]] <https://note.com/shinpukanro/n/nae5406ab0b85>
>[SNIP[]]
>[RUBY[興国][こうこく]]天皇の富士の皇居と各地転戦
>南朝の[RUBY[白鹿][はくろく]]年号と北陸王朝
>[SNIP[]]
>後醍醐天皇の[RUBY[秘蔵子][ひぞっこ]]「守永親王」と[RUBY[九星気学][きゅうせいきがく]](干支学)
[37] [CITE@ja[三浦芳聖著『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』復刻版 №9 第三章 興国天皇顕彰の神風串呂(第1分冊)|串呂哲学研究会]], [TIME[2024-02-11T08:26:22.000Z]] <https://note.com/shinpukanro/n/n6821855e7910?magazine_key=m97d61c498c90>
(有料)
[42]
[CITE@ja[神風串呂入門-神皇正統家極秘伝(第4分冊) 発行 串呂哲学研究会|串呂哲学研究会]], [TIME[2024-02-13T10:00:25.000Z]] <https://note.com/shinpukanro/n/nff0b4716e85a?magazine_key=mbdba6945a6ca>
(有料)
[38]
[CITE@ja[『南北朝時代史』第四十三章 後醍醐天皇尊氏と御和睦|鈴木超世志]], [TIME[2024-02-12T11:04:42.000Z]] <https://note.com/quanro/n/n4b94f8a34ebc>
[39]
[CITE@ja[白河結城文書・白鹿二年行貞奉執達状(得江文書)|鈴木超世志]], [TIME[2024-02-12T11:05:19.000Z]] <https://note.com/quanro/n/n8d6a66ecb79b>
[43]
[CITE@ja[元号「白鹿」: 越天楽]], [TIME[2024-02-13T10:01:47.000Z]] <http://manoeriwagner.seesaa.net/article/483911887.html>
* 白禄
[56]
[TIME[明治41(1908)年][1908]]の
[CITE@ja-JP[国民百科辞典]]
は、
[[白祿]]を[[後醍醐天皇]]の時代の[[私年號]]としました。
[SRC[>>44]]
[REFS[
-
[44]
[CITE@ja-JP[国民百科辞典]], [[富山房編輯局]], [TIME[明41.12][1908]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-13T12:14:43.346Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/897520/1/417> (要登録)
]REFS]
[9] [CITE@ja-JP[日本歴史大辞典 第15巻 (ぬーひり)]], [[河出書房新社]], [TIME[1959]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T08:34:06.032Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2999852/1/61> (要登録)
白禄 白祿 はくろく
南北朝時代初期 南朝 私年号
[CITE[得江文書]] : 白禄元年 = 延元元年
[11]
[CITE[日本私年号の研究]]
* メモ