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[31]
[DFN[天靖]] ([[旧字体]]: [DFN[天靖]])
* 元号名
[23]
[[読み][元号の読み方]]は「てんせい」とされます。
[SRC[>>1 /82, >>5, >>11, >>12]]
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE@ja[天靖(てんせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]], [TIME[2023-01-24T10:14:46.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E9%9D%96-1374298>
]FIGCAPTION]
>
てんせい【天靖】
>私年号の一つ。嘉吉三年(一四四三)に当たる。この年、南朝の遺臣日野有光らが後亀山天皇皇子金蔵主を擁して宮中に乱入し、神璽宝剣を奪って延暦寺に拠ったが敗死した事件(禁闕の変)があり、彼らの使用した年号。
>
出典 精選版 日本国語大辞典[SNIP[]]
>【異年号】より
>[SNIP[]]1443年(嘉吉3)天靖の年号が南朝の遺臣の間で用いられ,15世紀後半には関東公方足利成氏の治下で享正・延徳の年号が現れる。いずれも正年号を拒否することで室町幕府に反抗する政治意思がこめられている。…
>【元号】より
>[SNIP[]]南北朝合一後に南朝の遺臣の間に天靖という私年号が用いられたことが知られる。[SNIP[]]
>出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
]FIG]
]REFS]
* 文書
[33]
[[江戸時代]]の研究者[[伴信友]]によると、
[[忠義王]]が[[嘉吉]]の頃に[[私][私年号]]に[[天靖]]と[[建元]]したことがあり、
上島下島両氏の古家牒に記されているといいます。
[SRC[>>208]]
[REFS[
-
[207]
[CITE[[[年号の論]]]]
--
[208]
[CITE@ja-JP[[[伴信友全集]] 第4]], [[国書刊行会]], [TIME[明治40][1907]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-07T13:38:36.011Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991315/1/304>
]REFS]
* 後南朝史書
[30]
[[江戸時代]]の研究者[RUBYB[[[飯田忠彦]]][[TIME[1799]]-[TIME[1860]]]]の
[CITE[野史]]は、
嘉吉3年に天靖元年と[[私][私年号]]に[[建元]]したと書いています。
続正統記、
紀伝、
上月記を出典としています。
[SRC[>>2]]
[REFS[
-
[2] [CITE@ja-JP[[[野史]] : 291巻首1巻 卷1-64]], [[飯田忠彦]], [TIME[明治37 再版][1904]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:06:26.469Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3438463/1/148> (要登録)
]REFS]
-*-*-
[21]
[[明治時代]]の研究者[[林嘉三郎]]による史書[CITE[南朝遺史]]は、
「[V[[LINES(smaller)[南][帝]][RUBY[天][テン]][RUBY[靖][セイ]]元年]]」 ([[楷書]])
から
「[V[[LINES(smaller)[南][帝]]天靖十三年]]」 ([[楷書]])
までで編年しています。
[SRC[>>1]]
[29] 嘉吉3年9月までは、[[南朝の元号]]と合一後は[[北朝の元号]]で編年されています。
[24]
天靖元年条に、嘉吉3年を天靖と改元したとあり、
嘉吉3年10月から長禄2年までとあります。
[SRC[>>1 /82]]
[25]
吉野の奥十津川を御所とし天靖と改元したとの記事があります。
続正統記、
南方紀伝、
上月記、
野史、
上島下島家牒、
残桜記が出典とあります。
[SRC[>>1 /83]]
[26]
残桜記によると[[改元]]は神器を犯擁したためとされます。
[SRC[>>1 /83]]
[27]
天靖13年乙亥条には、
「[V[[SUP(smaller)[乙]][SUB(smaller)[亥]]七月十八日]]」
や
「[V[[SUP(smaller)[乙]][SUB(smaller)[亥]]八月六日]]」
の文書が示されています。
南帝天靖十三年にあたるものの、
綸旨などに年号を書いたものがないとあります。
按語には、勢力弱まり[[天靖]]の[[元号]]は廃棄して[[干支年]]としたのではないかと考察があり、
残桜記にもその旨あるとしています。
(なお筆者はこうした文書を実見したと書いています。)
[SRC[>>1 /95]]
[28] 翌年は「[V[康正二年[SUP(smaller inline)[丙]][SUB(smaller inline)[子]]]]」
となっており、以後[[北朝]]の元号で編年されています。
[SRC[>>1 /96]]
[REFS[
- [1] [CITE@ja-JP[[[南朝遺史]] 追加之2 自天王碑]], [[林嘉三郎]], [TIME[明27.3][1894]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:04:29.547Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/772453/1/82>
-- [22] 序文: [V[明治二十五年一月]] [SRC[>>1 /23]]
]REFS]
-*-*-
[16] [CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:38:05.829Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/104> (要登録)
小倉宮と尊義王を擁立して南山で蜂起、
嘉吉3年改元して天靖、
記録に残っている、
吉野あたりの古文書は合一後も北朝元号を使っていない
[14]
[CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-22T08:55:14.878Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/137> (要登録)
嘉吉3年10月 天靖建元
[17] [CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:45:15.447Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/122> (要登録)
嘉吉3年10月 天靖元年 建元 自天王 川上村の奥三之公
[18] [CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:48:01.145Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/95> (要登録)
嘉吉3年10月 南方、天靖と建元
* その他の後南朝史記述
[43]
[CITE[武家功名記]] ([CITE[本朝武家高名記]])
の上島、下島両家の章に、
「[V[[SNIP[]]天靖元[LINES(smaller)[北ハ嘉吉][三年ナリ]]年[SNIP[]]]]」 ([[楷書]])
とあります。
[[南北朝時代]]の[[南朝の元号]]と同じ書き方です。
[SRC[>>42]]
[44]
[[後醍醐天皇]]の5世の正統の主を奉じて南朝を再興したとの記事です。
[SRC[>>42]]
[REFS[
- [42] [CITE@jp[[[本朝武家高名記]]15]], [[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2024-02-11T14:18:28.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/4186157>
]REFS]
-*-*-
- [199] [CITE@ja-JP[[[未刊国文古註釈大系]] 第7冊]], [[吉沢義則]], [TIME[昭和12][1937]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-07T13:26:52.766Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1707635/1/122> (要登録)
-- [200] [CITE[嘉喜門院御歌卷證註]],
[[谷森善臣]]
[201] >>200 [[南朝]]史が説明されている。
- [202] [[天靖]] : [[尊秀王]], 北朝嘉吉3年が[[元年]]
- [203] [[大道]] : [[西陣南帝]], 北朝文明3年辛卯が[[元年]], 4年壬辰が2年
-*-*-
[19] [CITE@ja-JP[後南朝史論集 : 吉野皇子五百年忌記念]], [[後南朝史編纂会]], [TIME[1956]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:52:42.861Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006092/1/148> (要登録)
天靖も10年を数え (享徳元(1452)年)
* 作品
[11] [CITE[[[谷崎潤一郎]] 吉野葛]], [TIME[2019-12-18T12:42:19.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:46:11.810Z]] <https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56867_58205.html>
[4]
[TIME[2023-01-24T10:12:21.700Z]]
<https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00790001-0043.pdf?file_id=70361>
#page=16
[7] [CITE[和州探訪 ~いにしえの旅人とゆく深く美しい日本~]], [TIME[2019-02-03T11:16:00.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:43:26.483Z]] <http://www.enyatotto.com/yamato/sannoko/sannoko.htm>
* 美作後南朝
[34]
[[美作後南朝]]説では[TIME[西暦1443年10月29日][kyuureki:1443-10-29]]に[[美作]]の[[植月御所]]で[[尊義親王]]
([[高福天皇]])
が[[即位]]したとされます。
[SRC[>>12, >>37]]
[36]
[[改元]]は西暦1443年12月 [SRC[>>15]] [TIME[25日][kyuureki:1443-12-15]] [SRC[>>37]] のことだとされます。
[SRC[>>15, >>37]]
[35]
[[美作後南朝]]説は信頼できる史料にない独特の歴史を説いています。
[REFS[
- [37]
[CITE@ja-JP[[[植月御所]]の真相 : 三種の神器八咫の鏡と美作「後南朝」秘史]], [[田中千秋]], [TIME[1961]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T13:45:29.265Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006134/1/39> (要登録)
/101
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE@ja[null]], [TIME[2013-09-01T08:34:15.000Z]], [TIME[2024-02-11T07:33:27.905Z]] <http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa01.html>
]FIGCAPTION]
>小倉宮良泰親王の第四皇子尊義親王は美作後南朝初代天皇として嘉吉3年
> (1443)10月29日即位、高福天皇となり12月年号を天靖と改元した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12]
[CITE[[L[美作(後南朝と菅家)探訪記]]]],
[[[L[山崎泰二]]]],
[TIME[2015-07-20T08:22:01.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:49:10.195Z]] <http://www.hasukura.com/site/7yamasaki.pdf#page=4>
]FIGCAPTION]
>
[LEFT[
正史南朝最後の第 99 代後亀山天皇からそ[BR[]]
の孫の尊義(たかよし)親王は三種の神器を[BR[]]
奪回し美作の植月にて第 101 代高福(こうふ[BR[]]
く)天皇として 10 月 29 日即位します。年号[BR[]]
も嘉吉から天靖(てんせい)と改元(1443)[BR[]]
され美作後南朝初代であります。
]LEFT]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE[舞!組曲 <日本! 115 南朝( 義仁王、義有王、尊雅王、信雅王 )>]], [TIME[2023-01-24T10:27:09.000Z]] <http://www.photoland-aris.com/myanmar/near/n115/>
]FIGCAPTION]
>[SNIP[]]
> あるいは嘉吉3(1443)年に義有王は吉野新帝と称し、南朝の年号を天靖元年とした という[B[(※2)]]。
>[SNIP[]]
>尚、義有王には『美作南朝(津山市付近に存在した後南朝)』における異説が有る。 紀伊で戦死の報に接した美作の尊義王(高福天皇;美作南朝の初代天皇)は義有王の 6歳の遺児を猶子とし、美作南朝第二代天皇である尊雅天皇(興福天皇)としたとい う [B[(※3)]]。年号の「天靖」は美作南朝でも用いられている。
>[SNIP[]]
>[B[(※2)]]伊藤獨氏著『悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について』
>[B[(※3)]]原三正氏著『美作天皇記』
]FIG]
-
[13] [CITE@ja[南朝(49)八咫鏡: 越天楽]], [TIME[2023-01-24T11:49:53.000Z]] <http://manoeriwagner.seesaa.net/article/482197599.html>
]REFS]
@@
[45]
[CITE@ja-JP[植月御所の真相 : 三種の神器八咫の鏡と美作「後南朝」秘史]], [[田中千秋]], [TIME[1961]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T14:23:00.562Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006134/1/42> (要登録)
/102
興福天皇 天靖九年辛未正月八日 (宝徳3(1451)年) 即位改元 大明 (譲位)
/45
大明八年戊寅 長禄2年 八月二十八日夜 死去
[46] [CITE@ja-JP[植月御所の真相 : 三種の神器八咫の鏡と美作「後南朝」秘史]], [[田中千秋]], [TIME[1961]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T14:28:32.823Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006134/1/48> (要登録)
/102
忠義天皇 8月28日即位 10月1日 改元 明応 1458
[CITE[大乗院雑事記]]により実証される。
/50 文明元年は明応12年。
[47]
/49 /50 乙亥 七月十八日、乙亥八月八日 は続け字の誤読で応仁元年丁亥。
/51 /103
20年丁酉 文明9(1477)年 譲位
/103 以後後南朝年号不明
[48]
/97
[CITE[東作誌]]所収土居妹尾家 (本陣妹尾良之助家) 所蔵古文献
[CITE[仁田四郎忠常跨猪図]] [[落款]]
「[V[大明五年亥正月十三日]]」
* 天晴
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[20] [CITE@ja[麒麟が来るが終わって マムシの道三は三人いた | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。]],
2021年02月10日 10時30分32秒,
[TIME[2024-02-11T11:11:51.000Z]] <https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12655765321.html>
]FIGCAPTION]
>そして六年後の嘉吉三年(南朝年号天晴元年一四四三)九月二十三日には、「楠木二郎」の率いる河内の武者共が、皇居の北門より入って清涼殿を占領。
> 神器を取り返し後村上帝の玄々孫の尊秀王の即位の儀をおこない、京をでて叡山の根本中堂によって幕軍を迎えうった。しかし南風競わず尊秀王以下楠本二郎も包回されて殺された。
]FIG]
[38] この[[天晴]]は明らかに[[天靖]]の誤りです。
* 研究史
[41]
[[天靖]]は[[江戸時代]]に[[後南朝]]や[[元号]]の研究者の知る所となりました。
[[後南朝]]史の記述には必ずといっていいほど登場する有名な[[私年号]]でした。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,天靖 ,- ,嘉吉3年(1443年) ,15 ,『武家功名記』などの二次史料。後南朝関係者が使用。
]FIG]
* メモ
- [3] [CITE@ja-JP[[[姫路城史]] 上巻]], [[橋本政次]], [TIME[1973]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:07:39.947Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9572950/1/125> (要登録)
-- [32] なぜか非公開に変わっています [TIME[2024-02-11T12:49:32.00Z]]
- [8] [CITE[古事類苑]], [CSECTION[歳時部四]], [CSECTION[年號下]], [CSECTION[逸年號【入】]], [TIME[2014-08-09T14:32:04.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:44:40.018Z]] <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000371.html>, 第 1 巻 371 頁
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