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734
735
736
[2]
[DFN[延寿]]や[DFN[大政]]は、
[[奥羽越列藩同盟]]の[[元号]]だったといわれる[[私年号]]です。
[3]
[[奥羽越列藩同盟]]が[[改元]]したとする確実な根拠は見つかっていません。
実在の[[公年号]]か、
[[改元デマ]]から生じた[[私年号]]か、
判断が難しいものです。
[4]
しかし当時一部でこうした[[元号]]が使われたことは事実のようです。
* 慶応4年5月 江戸の延寿改元の噂
[71]
[TIME[慶応4(1868)年5月17日][kyuureki:1868-05-17]]付
[CITE[中外新聞]]
第37号に、
> 年號延壽と改元ありしとの風聞盛なりと雖も未確証を得ず
とあります。 [SRC[>>64]]
[78]
そしてその直前の段落には仙台藩関係の記事が、
直後の段落には5月1日の[[白河城]]方面の戦況の噂の記事があります。
[SRC[>>64]]
[72]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、この3つの記事と、その直前に
>
[VRL[
元号を延寿に改めらるゝとの噂󠄁
]VRL]
と[[見出し]]があるのを引いています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
[79] >>64 の本にはこの見出しがなく、3つの段落となっています。
[SRC[>>64]]
一方[CITE[日本私年号の研究]]の引用には見出しがあって、
仙台藩記事と改元噂記事が合わせて1つの段落になっています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
[CITE[日本私年号の研究]]
の引用元がどの本なのかは定かではありませんが、
その参照した写本または刊本でそのようなものがあったのでしょうか。
[73]
[CITE[中外新聞]]
は[TIME[慶応4(1868)年2月24日][kyuureki:1868-02-24]]に幕臣により[[江戸]]で創刊された日本初の民間新聞でした。
[CITE[別段中外新聞]]
は[[号外]]のはじまりとされています。
しかし[TIME[慶応4年6月8日][kyuureki:1868-06-08]]に[[明治政府]]により発禁となりました。
(翌年復刊。)
[74]
[[江戸]]の開城が4月、
[[上野戦争]]が[TIME[5月15日][kyuureki:1868-05-15]]のことでした。
5月は未だ[[明治政府]]の[[江戸]]の民政を掌握しきっていない時期ゆえに発行が続けられていたということでしょうか。
[75]
[[改元]]の噂が掲載されたのは[TIME[5月17日][kyuureki:1868-05-17]]付号で、
[[上野戦争]]で[[彰義隊]]が敗北して軍事的に[[明治政府]]が[[江戸]]を制圧したまさに直後となります。
「噂」が広まったのは[[上野戦争]]の前後、どちらのことだったのでしょう。
噂の「改元」の主体はどこだったのでしょう。
[80]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[CITE[中外新聞]]
を引いて、
[TIME[5月17日][kyuureki:1968-05-17]]以前に改元の風説が仙台方面にあったものか、と推測しています。
[SRC[>>56 pp.[V[四五七]]-[V[四五八󠄃]]]]
これは直前の仙台藩記事の続きと判断してのことと思われます。
しかし >>64 のように仙台藩記事と改元噂記事が別段落だと、
改元の噂と仙台藩の関係は不明ということになります。
[81]
仙台藩記事の冒頭は[TIME[慶応4年5月12日][kyuureki:1868-05-12]]付[CITE[遠近新聞]]を引いています。
参照されている[CITE[遠近新聞]]記事 [SRC[>>77]]
には[[改元]]に繋がりそうな記述はありません。
[CITE[中外新聞]]はそこから話を展開していて、
すべてが[CITE[遠近新聞]]からの引用ではないようですから、
断定はできませんが、
しかし話のつながりからも改元の噂は独立した記事のようにも読めます。
[82]
直後の段落が5月1日の白河方面の戦況の風聞の記事です。
時代が時代、しかも内戦中で、遠隔地の正確な情報は伝わりにくいことには注意が必要です。
前段の仙台藩記事も噂の出所は江戸の藩屋敷です。
仮に仙台方面から改元の噂が伝わってきたとするなら、
それもかなり日が経っているとみなければなりません。
[70]
早稲田大学がウェブ公開している
[CITE[中外新聞]]
資料のほとんどはこの日と同じように[[慶応]]の[[年月日]]を書いていますが、
[[上野戦争]]翌日の
[CITE[別段中外新聞]] [SRC[>>69]]
の1件だけ
「戊辰五月十六日」
と[[干支年]]表記になっています。
これはたまたまでしょうか、あるいは「別段」なので他と違うのでしょうか。
それとも思う所あってのことでしょうか。
[REFS[
- [66] [CITE[中外新聞]]
-- [63]
[CITE@ja[[[中外新聞]] 第31号~第43号 別段中外新聞 江戸東京博物館デジタルアーカイブス]], [[江戸東京博物館]], [TIME[2023-12-11T13:29:28.000Z]] <https://www.edohakuarchives.jp/detail-32730.html>
--- [65] 第三十七號 慶応四年五月十七日
---- [64]
[CITE[1069697-L.jpg (JPEG 画像, 1000 × 709 px)]], [TIME[2023-03-05T01:35:50.000Z]], [TIME[2023-12-11T13:29:57.851Z]] <https://www.edohakuarchives.jp/image_files/1070/1069697-L.jpg>
-- [67] [CITE[古典籍総合データベース]], [TIME[2023-12-11T13:39:01.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/search.php?cndbn=%E4%B8%AD%E5%A4%96%E6%96%B0%E8%81%9E>
--- [69] [CITE[[[別段中外新聞]]. 戊辰五月十六日 / '''['''柳川春三''']''' [編]]], [TIME[2023-12-11T13:40:13.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko10/bunko10_07330/index.html>
---- [68] [CITE[bunko10_07330_p0002.jpg (JPEG 画像, 2592 × 1724 px) — 表示倍率 (33%)]], [TIME[2011-10-28T07:30:27.000Z]], [TIME[2023-12-11T13:39:49.136Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko10/bunko10_07330/bunko10_07330_p0002.jpg>
- [76]
[CITE[[[遠近新聞]]. 第1-20号]], [TIME[2023-12-12T12:39:42.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i08/i08_00017/index.html>
-- [77]
[CITE[i08_00017.pdf]], [TIME[2010-03-17T01:41:06.000Z]], [TIME[2023-12-12T12:39:53.487Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/i08/i08_00017/i08_00017.pdf#page=81>
]REFS]
[83]
[TIME[明治2(1869)年][1869]]に編纂され[TIME[明治16(1883)年][1883]]に刊行された[[編年史書]]
[CITE[嘉永明治年間録]]
の[TIME[慶応4(1868)年][1868]]5月条の[[日]]あり記事の後の日なし記事で、
>
[VRL[
奧羽ニ於テ攺元ノ說
年號延󠄅壽と攺元ありしとの風聞盛なりと雖も未だ確證を得𛁏゙
]VRL]
とあります。
[SRC[>>57, >>58]]
[86]
本書は明治2年に稿本が成立しましたが、
明治3年に編者が死去しました。
明治4年に勅命により浄書献上されたものの、[[宮城]]の火災により焼失。
草稿の写本がいくつかあったといいます。
そして唯一刊行されたのが、後に昭和43年に再刊されたものだとのことです。
[SRC[>>62]]
それが[[国会図書館デジタル]]所蔵の明治16年本 [SRC[>>57]] ということになります。
[84]
[TIME[昭和43(1968)年][1968]]に再刊された際の[[解題]]は、
本書が原資料をできるだけそのまま収録していることを指摘し、
しかも偏向なく幅広く採録していることを称賛しています。
その具体例として、この[[延寿]]の記事を紹介しています。
[SRC[>>62]]
;; [96] 偏っていないというのは、
敗者の旧[[江戸幕府]]側、[[奥羽越列藩同盟]]側の資料が残りにくい、残しにくい状況下で、
公式記録が残っていない列藩同盟の[[改元]]のような情報までしっかり拾っていてすばらしい、
ということを言っているのでしょう。
[88]
[[著者]]の[[吉野真保]]は[[日本]][[武蔵国]][[埼玉郡]]の生まれで、
資料を収集と本書の編纂に人生を費やしました。
[SRC[>>62]]
[[吉野真保]]が[TIME[慶応4(1868)年][1868]]当時どこで何をしていたのかは定かではありません。
少なくても[[江戸]]の情報をよく入手できる環境にあったのは確かですが、
[[改元]]の噂に自ら接したのか、資料によってのみ知り得たのかはわかりません。
[89]
本書の[[改元]]噂記事のうち、
本文は
[CITE[中外新聞]] (>>71)
とまったく同じです。
従って、
本書には明記されていませんが、
[CITE[中外新聞]]
が本文の出典と考えて間違いないでしょう。
[90]
見出しは
[CITE[中外新聞]]
にはありません。
「奥羽において」
とはいかなる根拠で書かれたものでしょうか。
[CITE[中外新聞]]
以外の資料にあったのでしょうか。
あるいは編者が自ら聞いた噂なのでしょうか。
それとも
[CITE[中外新聞]]
の記事から奥羽の話だと推測したのでしょうか。
[87]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
「[V[吉野真保の『嘉永明治年間録』一七]]」
から次の文章を引用しています。
[SRC[>>56 p.[V[四五七]]]]
>
[VRL[
慶応四年五月二十四日奥羽ニテ改元セリトノ風説アリ
]VRL]
[91]
ところが >>87 は
[CITE[嘉永明治年間録]]
と明らかに違います。
同趣旨ですが短く要約された形になっています。
そして
[CITE[嘉永明治年間録]]
には月までで日がありません。
[93]
[CITE[嘉永明治年間録]]
には日が明記された記事と、そうでない記事があります。
改元噂記事の場合は月末ですが、日あり記事と日あり記事の間でも日がない記事があります。
同じ日が書かれた記事がないように見えるので、
日なし記事は直前の日あり記事と同じ日の記事であるとも考えられますが、
どうもそうとばかり言えなそうな記事もあります。
月初から日なし記事の月もあります。
従って日なし記事が直前に書かれた日と同じかどうかはケースバイケースで判断が必要と思われます。
そして改元噂記事の場合、直前が24日です。ということは
>>87
は
[CITE[嘉永明治年間録]]
の改元噂記事を直前の日付である24日の出来事と判断した結果の可能性が高いといえます。
[92]
果たしてこれはどういうことでしょう。
[CITE[日本私年号の研究]]
は昭和42年の刊行なので、
[[久保常晴]]はその時点で昭和43年の再刊本を見れていません。
昭和43年以前は明治刊本といくつかの写本があったようですが、
入手は困難だったと思われます [SRC[>>62]]。
しかし[[久保常晴]]が在籍していた[[立正大学]]の図書館 [[OPAC]]
によると同館は現在、明治刊本を所蔵しています。
昭和42年当時も所蔵していたかは不明ですが、
他の大学等にも所蔵はありますから、
存在を知っていればいずれかは閲覧できた可能性が高いといえます。
ところがそこには >>87 はないのです。
では明治刊本と内容が違う >>87 のような写本(抄本?)があったのでしょうか。
[8]
この >>87 の文章は、現在の所[[国会図書館デジタル]]、
[[Google検索]]、
[[Google Books]]
のいずれで検索しても
[CITE[日本私年号の研究]]
の[[孫引き]]以外を発見できません。
[94]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
>>87
を紹介し、それに「[V[この件については]]」
[SRC[>>56 p.[V[四五七]]]]
と付け加える形で
[CITE[中外新聞]]
を紹介しています。
そして5月17日の
[CITE[中外新聞]]
と5月24日の
>>87
を踏まえて5月17日以前に風説があったとみています。
[SRC[>>56 p.[V[四五八󠄃]]]]
両者をよく関係する別の情報と考えたのではないでしょうか。
両者の文章が完全に一致することを知っていれば、
もう少し違った書き方になっていそうなものです。
[95]
[CITE[日本私年号の研究]]
が仙台方面で改元の噂があったと判断した (>>80) のは、
>>87 の影響も大きいと考えられます。
しかし記事本文の出典は明らかで見出しの出典は不明となると、
見出しにしかない「奥羽で」改元という情報を信頼して良いのかどうか、
不安が出てきます。
「改元あり」の噂が慶応4年の[[江戸]]にあったという所まではよいとして、
「仙台ないし奥羽で改元あり」の噂があったのかは他の材料を加えて慎重に判断した方が良さそうです。
[107]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
この[[延寿]]の発生の理由を、
- [109] [[戊辰戦争]]の混乱で[[改元]]の噂が生まれた。
- [108] [[明治天皇]]の[[践祚]]翌年、慣例から[[代始改元]]が予想されたことが、
朝廷に対抗するものにも[[元号]]を建てることを考えつかせた。
と2つ挙げています。 [SRC[>>56 p.[V[四六一]]]]
;; [106] [[孝明天皇]]が[[崩御]]し[[明治天皇]]が[[践祚]]したのは慶応2年の12月
([[グレゴリオ暦]]だと翌年1月) なので、厳密に言えばこれは誤りで、
慶応4年は[[践祚]]から2年もたっています。
[105]
理由の1つ目は「噂」であるとしており、
2つ目は[[奥羽越列藩同盟]]が[[建元]]したと言っているので、
両立しません。これについては、
>
[VRL[
これは単なる噂󠄁であって、しかも噂󠄁発生のもとは東北地方である。しかしもし事実であれば、[SNIP[]]
]VRL]
とある [SRC[>>56 p.[V[四六五]]]] ため、
架空説と実在説の両方を想定していたようです。
ただ後の節では
>
[VRL[
「延寿」は奥羽地方で建元された噂󠄁に止まるが、その建元者は明治維新の際の旧幕府軍であり、[SNIP[]]
]VRL]
とまとめられ
[SRC[>>56 p.[V[四六九]]]]、
更に後の節では
>
[VRL[
「延寿」は明治維新の際、官軍と一戦を交えんとした幕府方=奥羽諸藩の同盟軍の指導者たちの間で採択され[BR[]]
たもので、[SNIP[]]
]VRL]
とまで書かれていて
[SRC[>>56 p.[V[四七一]]]]、
かなり実在説側に傾いています。
[111]
これは
>
[VRL[
[SNIP[]]資料的にはあくまで噂󠄁の域を出ないことは留意すべきである。[SNIP[]]
]VRL]
と釘を差しつつも、
>
[VRL[
[SNIP[]]ただ、敗者の資料は隠滅される場合が[BR[]]
多いこと、榎本武揚らによる共和国宣言のことや戊辰の役の諸事情を考えるとき、会津藩を中心とうる奥州諸藩の連[BR[]]
盟軍の間に年号改元のことがあったとしても、無理なく理解されるのである。
]VRL]
という理由から来る判断のようです。
[SRC[>>56 p.[V[四七二]]]]
[1]
[CITE[日本私年号の研究]]
は実在説を取る場合に、
[[東北地方]]での噂ゆえ、
[[建元]]し利用したのは[[奥羽越列藩同盟]]と推定してほぼ誤りあるまいとしています。
[SRC[>>56 pp.[V[四六五]]-[V[四六六]]]]
[110]
[CITE[日本私年号の研究]]
はまた、
[[江戸時代の元号]]で「延」は4回も使用されているのに対し、
「寿」は1回もないことから、
「延」は慣用例を受けたものとも考えられるのに対し、
「寿」は建元者の理想を率直に示したものと受け取れると分析します。
そして「延寿」には
「徳川幕府の寿命を伸ばす」、
「幕府の永続」、
「徳川幕府の永続・延命」 [SRC[>>56 p.[V[四六九]]]]、
「徳川の天下永続」 [SRC[>>56 p.[V[四七二]]]]
といった[[奥羽越列藩同盟]]の願望が表れているとしています。
[SRC[>>56 p.[V[四六六]]]]
[HISTORY[
[85]
昭和再刊本の[[解題]]は、
奥羽2州では慶応4年に延寿の年号を使用していたとの高い風聞があることが記載されているとしています。
そして[[延寿]]は短期間の[[私年号]]にせよ、奥羽諸藩が朝命に抗拒する意思はなく、
君側の奸を除いた暁には奏請して[[公年号]]にしようと考えていたのかもしれない、
または[[明治]]は薩長および同調諸藩が奏請して採用されたものとしか考えていなかったのかもしれない、
との見解を示しています。
[SRC[>>62]]
[97]
面白い説ですが、
[[私年号]]を勝手に使い始めて[[公年号]]採用を目指すというのは[[東アジア]]の歴史上前例がないのではないでしょうか。
なお、[[明治]]は9月の[[改元]]なので[[延寿]]の噂の時点では存在せず、後段は成り立ちません。
]HISTORY]
[REFS[
- [59]
[CITE[嘉永明治年間録]], [[吉野真保]]
-- [57]
[CITE@ja-JP[[[嘉永明治年間録]] 巻17下 明治紀元戌辰]], [[吉野真保]], [TIME[明16.12][1883]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-11T12:33:50.723Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/772621/1/18>
右
-- [58]
[CITE@ja-JP[[[嘉永明治年間録]] 下]], [[吉野真保]], [[布施弥平治]] [[解題]], [TIME[1968]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-11T12:40:23.575Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2990564/1/457> (要登録)
右
-- [62]
[CSECTION[[V[解題]]]],
[[[V[布施弥平治]]]]
--- [61]
[CITE@ja-JP[嘉永明治年間録 上]], [[吉野真保]], [[布施弥平治]] [[解題]], [TIME[1968]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-11T12:41:16.030Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2987953/1/21> (要登録)
左
- [54] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [55] [CSECTION[[V[本論]]]]
--- [56] [CSECTION[[V[第六章 江戸時代以降の私年号]]]]
]REFS]
-*-*-
[99]
慶応4年閏4月末頃の時点で、[[上野]]の[[彰義隊]]の方面では[[輪王寺宮]]を[[擁立][東武皇帝]]する構想があったとされます
[SRC[>>98]]。
[100]
[[改元]]の噂がちょうど[[上野戦争]]と同時期に流れているのは、
[[輪王寺宮]]の即位の噂とも無関係ではないかもしれません。
[101]
逆に、未だ[[輪王寺宮]]が[[上野]]にいる5月初めの段階で[[仙台]]なり[[奥羽]]なりで[[改元]]するというのも、
何の大義名分もなく不審です。
まあ「噂」なのですから細かい辻褄は合っていなくてもいつの間にか流れているものなのかもしれませんが、
噂の信憑性を高める背景が整っている方が広がりやすそうなものです。
[REFS[
- [98] [CITE@ja[[[北白川宮能久親王]] - Wikipedia]], [TIME[2023-12-08T23:12:49.000Z]], [TIME[2023-12-13T13:50:28.606Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E7%99%BD%E5%B7%9D%E5%AE%AE%E8%83%BD%E4%B9%85%E8%A6%AA%E7%8E%8B#cite_note-kaishu-6>
]REFS]
* 慶応4年5月 下総の延寿
[6]
[[下総国]][[相馬郡]][[柴崎村]]で慶應4年閏4月から5月にかけて領主の新見氏の役人に宛てられた願書4通に、
「延寿元年」
とありました。
[[高木繁吉]]は、
[[延寿]]への[[改元]]という風聞を基に使用されたと考えました。
[SRC[>>60]]
[REFS[
-[60]
[CITE[「亀光元年」を彫る墓石に関する調査報告]] ([TIME[2017-08-31 14:45:43 +09:00]]) <https://www.city.koga.fukuoka.jp/uploads/files/somu/222.pdf#page=8>
]REFS]
* 慶応4年8月 大館戦争の延寿改元説
[112]
大正6年に編纂された
[CITE[大館戊辰戦史]]
は、
[[戊辰戦争]]中、[[奥羽越列藩同盟]]を裏切った[[秋田藩]] ([[久保田藩]])
領の[[大館]]に[[盛岡藩]] ([[南部藩]]) 軍が侵攻した[[大館戦争]]を記述した箇所で、
[[大館城]]落城
[WEAK[(慶応4年8月22日)]]
の際に城内にいたという[[秋田藩]]兵[[山本八十吉]]の話
[WEAK[(おそらく本書編纂時の聞き取り)]]
によると、
[[盛岡藩]]将[[楢山佐渡]]は[[扇田村]]において、
今より延壽元年と年号が改まるなどと伝達した(という情報が流れてきた?)のだそうです。
[SRC[>>20]]
[113]
[RUBYB[[[楢山佐渡]]][[TIME[1831]]-[TIME[1869]]]]は[[南部藩]]の[[家老]]で、
[[戊辰戦争]]では[[南部藩]]軍の指揮を取り、
[[大館戦争]]でも[[大館城]]へと進軍していました。
([[戊辰戦争]]の敗戦後に処刑されました。)
[114]
[[秋田藩]]領[[扇田村]]は[[南部藩]]領から[[大館城]]へ向かう途中にあり、
[[南部藩]]軍は[TIME[慶応4年8月20日][kyuureki:1868-08-20]]に占領したとされます。
するとその[[改元]]の布告があったのも、その頃ということになるのでしょうか。
[115]
本書は現在知られている中で[[延寿]]の[[東北地方]]における初出です。
そして現在知られている唯一の[[大日本帝国]]期の[[東北地方]]における[[延寿]]への言及です。
東北諸藩を裏切って[[明治政府]]側に付き勝者となった[[秋田藩]]側の戦史が最古で唯一の記録というのは、
考えさせられる点であります。
[REFS[
-
[20] [CITE@ja-JP[[[大館戊辰戦史]] : 附・沿革史]], [[紫峰笹島定治]], [TIME[大正7][1918]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:19:05.487Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/953170/1/77> (要登録)
-
[16] [CITE@ja-JP[大館市史 第2巻]], [[大館市史編さん委員会]], [TIME[1978.3][1978]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:08:38.955Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537567/1/210> (要登録)
--
南部藩布告書
-
[19] [CITE@ja-JP[比内町史]], [[比内町史編さん委員会]], [TIME[1987.3][1987]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:12:37.602Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9571867/1/211> (要登録)
--
南部藩布告書、高札
-
[15] [CITE@ja-JP[比内町史こぼればなし]], [[比内町史資料編さん室]], [TIME[1987.6][1987]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:42:02.361Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9571933/1/18> (要登録)
--
歴史小説(?)。沿道に「南部領地」と大書きした
「延寿元年八月十一日」付け標木が打ち立てられていた。
]REFS]
* 慶応4年6月 奥羽越列藩同盟大政改元(案)説
[104] たいせい [SRC[>>28]]
[24] [CITE@ja-JP[宮城県の昭和史 : 近代百年の記録 上]], [[毎日新聞社]], [TIME[1983]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:23:30.321Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9570947/1/40> (要登録)
[25] [CITE@ja-JP[東北史の新研究]], [[古田良一博士還暦記念会]], [TIME[1955]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:24:42.221Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2997467/1/159> (要登録)
[26] [CITE@ja-JP[川越街道 : 宿場をいろどる歴史の残照]], [[笹沼正巳 '''['''ほか''']'''著]], [TIME[1984.3][1984]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:25:28.215Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643063/1/79> (要登録)
[27] [CITE@ja-JP[郷土史事典宮城県]], [[佐々久]], [TIME[1982.9][1982]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:26:27.784Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539038/1/88> (要登録)
[28] [CITE@ja-JP[郷土史事典秋田県]], [[国安寛, 柴田次雄]], [TIME[1982.10][1982]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:27:23.350Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9539039/1/85> (要登録)
[29] [CITE@ja-JP[紙碑・東京の中の会津]], [[牧野登]], [TIME[1980.12][1980]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:28:35.727Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538489/1/38> (要登録)
[30] [CITE@ja-JP[会津史談会誌 (46)]], [[会津史談会]], [TIME[1972-05]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:29:42.140Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2260622/1/76> (要登録)
[31] [CITE@ja-JP[会津若松史 第5巻]], [[会津若松史出版委員会]], [TIME[1966]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:30:39.913Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3048620/1/87> (要登録)
[32] [CITE@ja-JP[新評 20(11)]], [[新評社]], [TIME[1973-11]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:31:40.519Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1807993/1/129> (要登録)
[35] [CITE@ja-JP[現代の眼 19(7)]], [[現代評論社]], [TIME[1978-07]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:34:18.259Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1771583/1/44> (要登録)
[33] [CITE@ja-JP[多賀城市史 第2巻 (近世・近現代)]], [[多賀城市史編纂委員会]], [TIME[1993.3][1993]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:32:34.747Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9540943/1/120> (要登録)
[34] [CITE@ja-JP[市史ふるさと登別 上巻]], [[登別市史編さん委員会]], [TIME[1985]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:33:33.129Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9571582/1/105> (要登録)
[37] [CITE@ja-JP[日本史の問題点]], [[日本歴史学会]], [TIME[1965]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:35:46.426Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2971978/1/147> (要登録)
[38] [CITE@ja-JP[与板藩史 下巻]], [[池上大一]], [TIME[1982]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:36:46.149Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538862/1/85> (要登録)
[39] [CITE@ja-JP[生駒藩史 : 讃岐・出羽]], [[姉崎岩蔵]], [TIME[1976.12][1976]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:37:18.369Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9569718/1/338> (要登録)
[40] [CITE@ja-JP[大郷町史]], [[大郷町史編纂委員会]], [TIME[1980.7][1980]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:37:58.990Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9570303/1/320> (要登録)
[41] [CITE@ja-JP[温海町史 上巻]], [[温海町史編さん委員会]], [TIME[1978.4][1978]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:38:45.586Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9537597/1/299> (要登録)
[42] [CITE@ja-JP[福岡県警察史 明治大正編]], [[福岡県警察史編さん委員会]], [TIME[1978.3][1978]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:39:29.702Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9770228/1/74> (要登録)
[43] [CITE@ja-JP[青森県市町村合併誌]], [[青森県総務部地方課]], [TIME[1961]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:40:11.325Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3027626/1/26> (要登録)
[21] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7947600> (非公開)
>60: 六月十六日於奥州改元大政元年ト成上野宮様御事御即位東武皇帝御諱睦運皇后光仙台慶邦公養女実ハ条関白ノ御女也九条殿関白大政
>61: とし、年号も慶応から大政元年と改めるという戦略を誰が立案したのかである。輪王寺宮が榎本武揚の計らいで軍艦長
>62: 的だった。東武皇帝も大政元年も歴史の彼方に埋没した。輪王寺宮は戦争終了後、東京に戻り謹慎後、伏見
[22] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7947569> (非公開)
>43: 暦八月東武皇帝御守衛大政元年六月十〓御即位凍武帝御妃戯台女御慶邪養女御詳陸運孰拙〓ゴミー直九條関白大政大臣〓米案封醍醐澤右大
>23: 固なもので日をもって大政元年とし、輪王寺宮を東武皇帝とする構なかったともみられる。想などがあっ
[23] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7939172> (非公開)
>12: 武皇帝とし、元号も「大政元年」と改元しようとまでした。しかし、新政府軍に対し、幕藩制的秩序を守ろ
[7] [CITE@ja[大政 (私年号) - Wikipedia]], [TIME[2020-09-11T11:58:00.000Z]], [TIME[2020-09-25T11:58:28.579Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%94%BF_(%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7)>
[36] [CITE@ja-JP[会津若松史 第9巻]], [[会津若松史出版委員会]], [TIME[1967]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:34:55.065Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3015522/1/164> (要登録)
[9] [CITE@ja[奥羽越列藩同盟 - Wikipedia]]
([TIME[2020-09-15T03:49:45.000Z]], [TIME[2020-09-25T12:03:15.326Z]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E7%BE%BD%E8%B6%8A%E5%88%97%E8%97%A9%E5%90%8C%E7%9B%9F#%E7%9B%9F%E4%B8%BB%E3%83%BB%E8%BC%AA%E7%8E%8B%E5%AF%BA%E5%AE%AE>
[45] [CITE@ja[大政奉還 - Uyopedia]], [TIME[2019-11-22T07:24:14.000Z]], [TIME[2023-01-19T08:48:00.092Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E5%A4%A7%E6%94%BF%E5%A5%89%E9%82%84>
>[SNIP[]]それと異なり、Uyopediaでいう「大政奉還」は國體原理主義の用語であり、その大政は単に政権の意味ではなく、年号の大政(1868年~)である。
[51] [CITE[catalogue_rev2_R3.pdf]], [TIME[2021-11-15T09:58:23.000Z]], [TIME[2023-11-07T09:42:07.197Z]] <https://www.tulips.tsukuba.ac.jp/exhibition/2021/images/catalogue_rev2_R3.pdf#page=21>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE[歴史学者が語る“眞子さん騒動”と皇族の国際結婚…ドイツ人女性と婚約した北白川宮能久]]
([TIME[2022-01-29T03:03:11.000Z]], [TIME[2022-01-29T03:11:24.553Z]])
<https://biz-journal.jp/2022/01/post_276041.html>
]FIGCAPTION]
> この盟主就任にあたり、1868年(慶応4)6月16日を大政元年と改元し、公現を「東武(とうぶ)天皇」とする案もあったという。
]FIG]
* 慶応4年9月 奥羽越列藩同盟大化改元説
[12] [CITE[2018_kaigen_pamphlet.pdf]], [TIME[2021-04-28T12:00:55.000Z]], [TIME[2021-04-28T12:08:37.163Z]] <https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=19>
* 関連
[5]
この時代には他にも私年号が使われました。
[SEE[ [[幕末維新期の日時]] ]]
[10]
[[西国]]の「[[天政]]」との関係は一応気にした方がいいかもしれない。
[13]
[[延寿]]は他にもありました。
[SEE[ [[延寿 (高句麗)]] ]]
[11]
この[[私年号]]とは別に[[太政]]もありました。
* メモ
[REFS[
- [17] [CITE[[[近代諸元号現象]]]]
-- [18] [CITE@ja[奥羽越列藩同盟 - 木村 守一 | [[パブー]]]] ([TIME[2019-07-16 12:40:07 +09:00]]) <http://p.booklog.jp/book/126808/page/3626862>
]REFS]
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[50] [CITE@ja[ノート:東武天皇 - [[Uyopedia]]]],
[TIME[2014-01-29T08:22:37.000Z]], [TIME[2023-04-12T09:23:19.588Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
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>[SNIP[]]六月十五日には会津において奥羽越三十三藩に推戴され即位して「東武皇帝(また は東武天皇)」と称され、諱(いみな)も能久を改め陸運(むつとき)とした。この即位は明治天皇の 即位より2ヵ月早いものである。(明治天皇の即位は慶応四年八月二十七日即位(翌月八日「明治」改 元)。当時は践祚と即位は別であった。明治天皇は慶応三年正月九日践祚。陸運天皇は不明だが状況証 拠から慶応四年四月十一日の践祚と推測される。東武皇帝については即位と改元を十五日とする資料が 2種、十六日とする史料が1種存在するので、単純に十六日説は誤りとみるべきだが、あるいは即位が十 五日で改元が翌日だったのかも知れぬ。)この東武皇帝即位の慶応四年六月十五日とは、現行グレゴリ オ暦1868年8月3日となる。[SNIP[]]
>3)「大政」紀元
>
その年すなわち慶応四年四月の新聞で、奥羽で「延寿」の私年号が流布していることが報道された。中 山吉弘の説によればこの「延寿」年号も東武皇帝の年号だという。おそらく彰義隊の上野戦争やその時 に擁立された輪王寺宮の践祚に関係するのであろう。年号といえば、鎌倉幕府が独自の年号を建てなか ったのは、井沢元彦が「朝廷は会社の経営陣、幕府は労働組合」とたとえているようにもともと独立す るつもりがなかったからで、「鎌倉幕府東国独立王国論」はかなり苦しいように思われる。一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。(東武皇帝の政権は通俗的に「北日本政府 」または「東北朝廷」といわれる。これは正式名称ではないが以下通称として使用。)東北朝廷はすで に述べた通り勿論年号を立てている。明治改元より3ヵ月も早く改元して「大政」元年とした。ただ東 北朝廷の場合は即位改元でもあるので、彼らの頭の中では改元が当然のことだったろう。南朝年号と北 朝年号のようなものと思えばいい。ちなみに今年平成十七年(西暦2005年)は「延寿138年=大政138年 =明治138年」となる。
>(本稿は別名で平成10年(1998)にニフティサーブの「関曠野読書会パティオ」(パティオとはPC通信 時代のニフティ内部の会員制会議室のこと)に投稿したものと平成11年(1999)に鐵扇會の歴史認識板 (旧「時流」、現・鐵乃歩武)に投稿したものとを合成、リライトしたものである。前者は、平成11年 には憂国掲示板(http://www.ptweb.co.jp/〜outlaw/minibbs.cgi)に、平成12年には日本論・思想の十 字架(アドレスは前回紹介済み)の議論掲示板(現在なし)にと、毎年どこかの掲示板に転載した。当 時は東武皇帝の存在はほとんど知られていなかったからである。今でも知名度が高いとはいえないが、 それでも7年の歳月は情況をいくらか変えたらしく今ネットで検索すればかなりの件数がヒットする。慶 応四年六月十五日をグレゴリオ暦8月4日とするサイトが散見されるが、この誤りは平成10年〜13年の間 の私の各所での投稿が出所である。この日付の換算ミスを発見したのはつい数日前であった。伏してお 詫び申し上げたい。今回は8月3日に訂正したが、これで正しいはずである。)
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[44] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%AE%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,延寿 ,- ,慶応4年(1868年) ,1 ,『中外新聞』慶応4年5月17日付など。奥羽列藩同盟が使用。
,大政 ,- ,慶応4年(1868年)6月-9月 , 1 ,『蜂須賀家文書』、『菊池容斎所蔵文書』。奥羽列藩同盟が使用。
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[46] [CITE@ja[中には公式より有名なものも?日本史の非公認「私年号」8選を紹介! | 歴史屋]], [TIME[2023-01-27T08:49:14.000Z]] <https://rekishiya.com/shinengou/>
>延寿とは、幕府の滅亡を認めない、あるいはその復活を願っているのか、そして大政とは「幕府だ官軍だと争っていないで、政治の大義を取り戻すべき」という思いが込められているのでしょう。
>
しかし、新政府が新たに「明治」と改元するや、一気に世が改まったことを全国民が実感したのか、抵抗の機運も立ち消えてしまいました。
[47]
歴史の専門サイトを称しているのにどうしてこんな謎の歴史観を披露してしまうのかが謎。
[[戊辰戦争]]の顛末って義務教育の教科書レベルではないの?
[48]
地域によっては[[戊辰戦争]]の因縁が未だに解消してないのに、よくこんな無神経なこと平気で書けますね。
それも素人のチラ裏ではなく歴史サイトで。
[49] 記事中の他の[[私年号]]の解説もこれと似たりよったりレベル。
[52] 歴史というのは知識の羅列ではない。歴史になにを学ぶのか。
[102]
日本史真面目に学んだ人がこんなこと書くはずないし、
あえてやってるという可能性も。もし炎上したらPV増えてラッキーとか。
[[時事ネタ]]でそういう[[炎上商法]]やってるのが[[まとめサイト]]だから、
歴史ネタで対立煽りしようと思うのが出てきても不思議ではないわな。
[103]
でも[[大政]]の解釈が[[大河ドラマ]]にでてきそうな[[反戦平和]]史観なのが草
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[53] [[自由自治]]