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341
342
[1]
[[日本]]の[[江戸時代]]の[[東北地方]]北部の[[藩]]には、
12月が[[小の月]]のとき、
[[大の月]]に変更する[DFN[[RUBY[私][わたくし]][RUBY[大][だい]]]]という[[制度][日時制度]]がありました。
本来の1月1日が12月30日とされました。
1月のいずれかの日を省いて調整していました。
;; [165] [[''私''立''大''学]]とは無関係。
[392]
[[南部藩]]では、
12月が小の月のとき、
大の月に変更する、
つまり本来の元日を大晦日とし、元日をその翌日とすることがありました。
これを[RUBY[私大][わたくしだい]]といいました。
[SRC[>>393]]
[394]
藩祖が戦陣からの帰途、
12月小の月の29日に移動中で[[年末年始]]の儀式に間に合わなかったため、
大の月に変更し、滞りなく新春を迎えました。
これを吉例とし、
その後の年にも行われたといわれます。
異説もありますが、似たような動機とされます。
[SRC[>>393]]
[395]
[[日本国]][[岩手県]][[盛岡市]]の[[県立図書館]]所蔵の公務記録に、
[TIME[正徳4(1714)年][year:1714]]12月に先例に従い大の月とし晦日戊戌、
[TIME[正徳5(1715)年][year:1715]]正月朔日己亥となり、
正月18日丙辰、正月20日丁巳と19日を飛ばすことで調整したと書き残されていました。
[SRC[>>393]]
[REFS[
- [393] [CITE[暦と時の事典]] p.304 [CSECTION[[RUBY[私大][わたくしだい]]]]
]REFS]
[540]
[CITE[[[南部絵暦を読む]]]],
pp.14-20
に概要がある。
- [541]
[CITE[南部の私大について]],
[RUBY[[[斎藤潔]]][さいとうきよし]],
[CITE[歴史研究]] 第二八五号,
昭和六十年
[SRC[>>540]]
-- [543] [CITE@ja[[[歴史研究]] (285)|書誌詳細|国立国会図書館オンライン]], [TIME[2021-01-03T00:57:22.000Z]], [TIME[2021-02-20T03:33:16.632Z]] <https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000003-I7938995-00>
- [544] [CITE@ja[[[南部の私大]]について ('''['''斎藤潔''']'''): 1997|書誌詳細|国立国会図書館サーチ]], [TIME[2021-02-20T03:34:04.000Z]] <https://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002644262-00>
- [542]
[CITE[南部の私大]],
[RUBY[[[工藤紘一]]][くどうこういち]],
[CITE[岩手県立博物館研究報告]],
第十九号,
二〇〇二年
[SRC[>>540]]
-- [547] [CITE@ja[南部の私大|書誌詳細|国立国会図書館オンライン]], [TIME[2021-01-03T00:57:22.000Z]], [TIME[2021-02-20T03:54:42.090Z]] <https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300000002-I6319419-00>
-- [545] [CITE@ja-jp[田山暦・盛岡暦を読む | 工藤 紘一 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2021-02-20T03:36:33.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4877202722/wakaba1-22/>
--- [546] に私大の節がある。論文と同じものかは不明。
- [14] [CITE[日刊☆こよみのページ]], 2015/09/05 号 (No.3262),
[[M.Suzuki]], [TIME[2021-06-26T07:07:50.000Z]] <http://koyomi.vis.ne.jp/cgi/magu/index.php?date=20150905>
-- [396] [CITE[南部の私大]] ([[M.Suzuki]]著, [TIME[2016-05-08 11:36:04 +09:00]]) <http://koyomi.vis.ne.jp/doc/mlwa/201509050.htm>
--
[FIG(quote)[ [15]
>私大を行う場合、藩の日記には
>> 旧臘雖為小月依御佳例以小為大故以二日為元日
>[SNIP[]]
> 私大の暦の正月の十九日をとばして、二十日とすることで、これから以降は
本来の暦と日付を一致させたようです(盛岡藩の支藩、八戸藩では、二十一
日をとばして二十二日としたそうです)。
>[SNIP[]]
> ちなみに、盛岡藩領内であっても、一般庶民はもう少し早く、十五日以前に
私大の日付から普通の暦の日付に戻していたとのこと。
正月十五日は小正月。古くから小正月は満月(十五夜の月。現在の天文学的
な満月の意味ではない)の日と考えられていましたから、この考えを私大よ
り優先して、小正月が十五夜の日となるように、それ以前に暦を戻していた
のでしょう。
>[SNIP[]]
> 伝説には、南部盛岡藩の南部氏の家祖とされる、南部光行(平安時代末~鎌
倉時代始めの武将)の城下への入部の日が正月二日(前月十二月は小の月)
となったことから、元日を一日遅らせ、入部の日に合わせて新年の祝いを行
ったという伝説がありますが、あくまでも伝説の域を出ない話で、本当の御
佳例が何であったのかは、はっきりしません。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[397] [CITE@ja[[[南部氏]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-08-15 05:51:21 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F#%E9%8E%8C%E5%80%89%E6%99%82%E4%BB%A3>
]FIGCAPTION]
>初代・光行の奥羽入部の日が12月30日で、正月への準備不足のため、やむなく12月を特に大の月として1日延ばし、正月2日をもって元旦としたという故事に由来する「[B[南部の私大]](わたくしだい)」が入部以来の伝統行事であったが、南部重直の代に不合理だとして正規の元旦に戻した[SUP[__&&[&&__6__&&]&&__]]。
>6. ^ 南部藩 参考諸家系図 第3巻(国書刊行会) 解題 南部重直の家臣大政策 加藤章 P.575
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[398] [CITE@ja[わたくしだい([[私大]])―暦を動かす|「800字文学館」|作品の閲覧|企業OBペンクラブ]],
[[大月和彦]],
16.4・14,
[TIME[2019-08-23 15:45:04 +09:00]] <http://www.obpen.com/eight_hundred/20160420_01.html>
]FIGCAPTION]
> 江戸時代の旅行家菅江真澄は、寛政年間に滞在していた南部領の下北半島大畑の歳末の様子を「三十日、わたくしだいなどという習慣が今年はなく、暦のとおり行った…」と書き、その2年後に年末を過ごした田名部で「今年は、一月一日に当たるきょうを去年に数える習慣が行われ…、暦の上では元日だが外は歳末気分で商人が行きかっている」と記している。
>[SNIP[]]
> 南部藩ではこのきまりを変え、12月が小の月に当たる場合は大の月に扱い、12月は30日までとし、暦の上の元日を大晦日に、1月2日を元日とする習慣が行われていた。
> 先送りした1日分は正月18日から19日を飛ばして正月20日とすることによって調整した。
> この習慣は、藩祖の南部光行が甲斐の国から盛岡に入った年から始まった。[SNIP[]]
> 苦肉の策として小の12月を大の月にした故事に由来し、以来ずっと行われていた。
> 藩が私的に暦を動かして小の月を大の月としたのが「わたくしだい」だった。
> 真澄は、土地の人たちが暦の上での元日に逝く年を惜しみ、2日に初詣でや若水汲みなどの元日行事を行っている情景を見て、この習慣は領内で武士や商人などの間に行きわたっていたと書いている。
>「わたくしだい」について南部藩家老の日誌に「正徳元年辛卯歳旧臘雖為小月、旧例佳規以小為大由故、以暦乃二日為元日」の記録があり、寛政6年正月19日の条には「御旧例之通今日廿日ニ御直被成也」と19日を20日に直したと記している。
> [SNIP[]]、南部藩のこの習慣は黙認されていたらしい。
]FIG]
[399] [CITE@ja[南部の「私大」: suchowan's blog]] ([TIME[2019-08-23 15:46:17 +09:00]]) <https://suchowan.at.webry.info/201303/article_4.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[400] [CITE[近世こもんじょ館 QあんどA館]] ([TIME[2019-08-23 15:51:07 +09:00]]) <https://komonjokan.net/cgi-bin/komon/QandA/QandA_view.cgi?mode=details&code_no=260>
]FIGCAPTION]
>史料 7[BR[]]『篤焉家訓』九之巻
>
一、寛延二己巳年 [WEAK[(私大)]] 正月元日 [WEAK[(大殿様御在府)]] 信貞公、[SNIP[]]
;; 括弧書きは赤字。
]FIG]
-[401] [CITE@ja[盛岡タイムス Web News]] ([TIME[2016-12-26 10:00:25 +09:00]])
<http://www.morioka-times.com/news/2006/0612/29/06122904.htm>
-- 消滅確認 [TIME[2021-02-20T03:23:56.100Z]]
--[CITE@ja[盛岡タイムス Web News]], [TIME[2021-02-20T03:23:40.000Z]], [TIME[2011-03-19T22:13:31.185Z]] <https://web.archive.org/web/20110319221309/http://morioka-times.com/news/2006/0612/29/06122904.htm>
---
[FIG(quote)[ [13] [CITE[〈古文書を旅する〉工藤利悦 盛岡城中、正月元日に吉例あり]], 2006年 12月29日 (金)
> 南部家の故実は『奥南旧指録』による。初代光行が糠部に下る時を「承久元(一二一九)年十二月光行公御上下七十三人にて甲州を御発足。由井ケ浜より兵船に御乗り、同二十八日奥州糠部八戸浦に御着岸なる。しかれども御宿をまいらする人なければ相内村観音堂にて御越年なりたまう。月迫なる故、十二月小を大に直し御年越し、御祝いを遊せしより私大の始まりとなれり」。註・小月は二十八日、大月は二十九日。私大は、年末が二十八日の場合、翌年頭を前年末日とするしきたり。
>[SNIP[]]
> 一方、『参考諸家系図』は蛇沼左衛門政義の譜に「[SNIP[]]光行公建久二(一一九一)年十二月二十九日初めて御入部、相内村観音堂に在す。政義これを聞きて即ちあるところの鮭塩引二尺・濁酒瓶子一荷を斎して行在に至らんとす。辻窪の茶店に至りて憩う。時に相米村の住人小山弥左衛門と言う者、また行在に至らんとしてここ所に至る。すなわち相伴って観音堂に至る。この月小尽なり、命にいわく、遠方、早速の参礼祝着に思し召しなり。当朧(十二月)小尽(小月・二十八日)によって、明元日をもって私に晦日(みそか)とす。二日をもって元日となすべし。もって歳暮・年始の儀式を調はん。両人とも逗留すべしと。[SNIP[]]
>[SNIP[]]
> 相米弥左衛門親友の譜には「[SNIP[]]光行公建久二年十二月廿八日御入部、二十九日相内村に御着、観音堂に在す、親友これを聞きて瓶子二荷・雉子一番・兎叩き一苞を携えて行在に到らんとす。辻窪に千葉惣左衛門(蛇沼氏なり)に遇ふ。同道して観音堂に到る。御感ありて命に依て逗留す。明年二日を以て元日とし拝謁を賜ふべきの命あり。その日に至りて参上の前後を尋ねらる。[SNIP[]]以上みな後世不易の永式となる云々」。
> 註・『聞老遺事』は、南部氏の糠部の年について「『盛風記』建久二年とす。『旧指録』『南栄記』承久元年となす。これ皆非なり。『東鑑』を考るに「建久六年七月十日、今度御上洛の間、供奉の御家人等、多く身の暇を賜り国に帰る」とあれば、この年の十二月なること明けし。今年四月迄は公の御名『東鑑』に見えたり。『旧指録』に承久とするは、建の字形相似たるを以て誤るものならん。元と六とまた字形相似たり。これ皆伝写の誤りなるべし」と考証している。
> ただし最近の学説では、永和元(一三七五)年の六条八幡宮造営注文(筑波国立歴博所蔵文書)書中「建治元(一二七五)年造六条八幡新宮用途支配事」に甲斐国住人南部三郎が顕在する処などから、南部家の鎌倉期における糠部移住には慎重な意見が多い。
]FIG]
[402] [CITE@ja[[[福岡通りの三十年]]]]
[FIG(table)[
:y: [[和暦]]
:w: [[西暦]]
:k: [[干支年]]
:skip: 省略日
:note: [CITE[雑書]]
:y: 寛永21年/正保元年
:w: [TIME[1644]]
:k: 甲申
:note: 記事欠
:y: 慶安3年
:w: [TIME[1650]]
:k: 庚寅
:skip: 1/10
:note: [CITE[雑書]]現存最古の私大
:y: 慶安4年
:w: [TIME[1651]]
:k: 辛卯
:skip: 1/末
:y: 承応2年
:w: [TIME[1653]]
:k: 癸巳
:skip: 1/30
:y: 承応3年
:w: [TIME[1654]]
:k: 甲午
:skip: 1/10
:y: 明暦3年
:w: [TIME[1657]]
:k: 丁酉
:note: 欠本
:y: 万治3年
:w: [TIME[1660]]
:k: 庚子
:note: 欠本
:y: 寛文3年
:w: [TIME[1663]]
:k: 癸卯
:skip: 1/末
:note: 寅閏12小→大
:y: 寛文4年
:w: [TIME[1664]]
:k: 甲辰
:note: 欠本
:y: 寛文6年
:w: [TIME[1666]]
:k: 丙午
:note: 欠本
:y: 寛文7年
:w: [TIME[1667]]
:k: 丁未
:skip: 1/30
:y: 寛文8年
:w: [TIME[1668]]
:k: 戊申
:skip: 1/末
:y: 寛文9年
:w: [TIME[1669]]
:k: 己酉
:skip: 1/末
:y: 寛文10年
:w: [TIME[1670]]
:k: 庚戌
:skip: 1/末
:y: 延宝5年
:w: [TIME[1677]]
:k: 丁巳
:skip: 1/末
:y: 延宝6年
:w: [TIME[1678]]
:k: 戊午
:skip: 1/末
:y: 延宝7年
:w: [TIME[1679]]
:k: 己未
:skip: 1/29
:y: 貞享3年
:w: [TIME[1686]]
:k: 丙寅
:note: 欠本
:y: 貞享4年
:w: [TIME[1687]]
:k: 丁卯
:skip: 1/29
:note: 1/30あり
:y: 元禄2年
:w: [TIME[1689]]
:k: 己巳
:note: 記事欠
:y: 元禄3年
:w: [TIME[1690]]
:k: 庚午
:skip: 1/19
:y: 元禄7年
:w: [TIME[1694]]
:k: 甲戌
:skip: 1/19
:y: 元禄8年
:w: [TIME[1695]]
:k: 乙亥
:skip: 1/19
:y: 元禄9年
:w: [TIME[1696]]
:k: 丙子
:skip: 1/19
]FIG]
[2]
本書は大の月に替えた翌年を「私大」としていました。
[SRC[>>402]]
- [484] 慶安2年12月晦󠄂(30)日
「[V[今[BR[]]月小ニて元日之筈ニ候ヘ共御佳例ニ而如此]]」
[SRC[>>402 p.170]]
- [4] 延宝7年1月小28日
「[V[正月廿八󠄃日ヲ晦󠄂日ニナス]]」
[SRC[>>402 p.171]]
[12]
元禄3年以後1/19の省略が定例となりました。
[SRC[>>402 付紙]]
[5]
宝永3年
[SRC[>>402 p.171]]
- [6] 通例「[V[正ノ]]」と[[月名]]が書かれる所、
「[V[八󠄃日]]」
とだけありました。
- [7]
それを
「[V[正ノ九日]]」
と書き直していました。
- [8]
「[V[来ル十九日より暦之廿日[BR[]]御直被成候所今日より暦の九日ニ御直]]」
- [9]
「[V[向後[BR[]]旧臘小之時は右之通可仕旨被仰出]]」
- [10]
諸士・各代官所に通知しました。
- [11]
しかし翌年以後はそれが実施されず、従前通り19日が省略されました。
[3]
民間では1/10を省略する慣習が続いたともいわれます。
それが本来のしきたりだったのかもしれません。
[SRC[>>402 p.32, p.170]]
[485]
他に[[津軽]]でも行われました。
[SRC[>>402 p.170]]