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[34] [DFN[[[在位紀年]](法)]]は、[[君主]]の[[即位]](またはその翌年)を[[元年]]とし、
以後2年、3年と[[年]]を数えていく[[紀年法]]です。
洋の東西を問わず古くから使われていました。
* 表記
[35] [[君主]]名に続けて年数を記述するのが普通です。
[EG[
[36] 例えば[[神武天皇]]元年、[[神武天皇]]2年、[[神武天皇]]3年などとします。
]EG]
[37] [[君主]]名には[[国]]名、[[王朝]]名等を冠することもあります。
[38] 現役当時には[[君主]]名は付けず、後世の[[歴史書]]等が区別のために[[君主]]名をつけていることもあります。
[39] [[君主]]には本名、[[諡]]、敬称有無などの表記のバリエーションがあるかもしれません。
「○○王の4年」のように[[君主]]名と年の間に[[助詞]]を挟むこともあります。
* 中華文化圏における在位紀年
[1] [[元号]]についてはそちらの項を参照。
[10] [[日本]]の[[元号]]のない期間については[[元号]]を参照。
[11] [[朝鮮半島]]については[[朝鮮半島の紀年法]]を参照。
[23] [[共和]]、[[受命]]も参照。
* メモ
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE@ja[カロリング朝 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-07 20:59:34 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AD%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E6%9C%9D>
]FIGCAPTION]
> 教皇レオ3世のカール大帝への外交文書は東ローマ皇帝への書式に従い、教皇文書はカールの帝位在位年を紀年とするようになった。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE@ja[モンゴル帝国 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-07 21:42:09 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%B4%E3%83%AB%E5%B8%9D%E5%9B%BD>
]FIGCAPTION]
> 『元史』巻3・憲宗本紀 憲宗元年辛亥 夏六月条
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE@zh[蒙哥 - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-02-07 23:04:59 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%92%99%E5%93%A5>
]FIGCAPTION]
> 元太祖三年十二月三日(1209年1月10日)
]FIG]
[FIG(quote)[
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[5] [CITE@ja[8月11日 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-06 00:46:25 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%8811%E6%97%A5>
]FIGCAPTION]
> 1259年(蒙哥9年7月27日) - モンケ、モンゴルのハーン(* 1209年)
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE[朝元宪宗孛儿只斤蒙哥(附阿里不哥汗)]]
([TIME[2016-01-05 05:49:16 +09:00]] 版)
<http://www.1-123.com/article/m/meng/mengge1/117509.html>
]FIGCAPTION]
> 出生:元太祖成吉思汗三年(1208)
> 卒年:元宪宗蒙哥汗九年(1259)
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] [CITE[世界战争史上的奇迹之地钓鱼城,死蒙哥,抗蒙古30年!_汗青集萃 飞扬军事-中国军迷原创第一站 中国军迷原创第一站 - Powered by www.fyjs.cn!]]
([[Discuz! Team and Comsenz UI Team]] 著, [TIME[2016-02-07 23:51:27 +09:00]] 版)
<http://www.fyjs.cn/thread-1268568-1-1.html>
]FIGCAPTION]
> 南宋宝佑六年至开庆元年(蒙古帝国蒙哥汗八年至九年,1258年-1259年)
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] [CITE@ja[1259年 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-14 06:58:42 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1259%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
> 中国周辺
> モンゴル帝国* : 憲宗(モンケ)9年
> 朝鮮
> 高麗 : 高宗46年
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[9] [CITE@ja[1257年 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-14 06:35:20 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1257%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
>
> 11月4日(蒙哥7年9月4日) - 元好問、金の文人(* 1190年)
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12] [CITE@ja[始皇帝 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-06 15:31:09 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D>
]FIGCAPTION]
> 廿六年 皇帝盡并兼天下 諸侯黔首大安 立號為皇帝 乃詔丞相狀綰 法度量則 不壹嫌疑者 皆明壹之
> 始皇26年、始皇帝は天下を統一し、諸侯から民衆までに平安をもたらしたため、号を立て皇帝となった。そして丞相の状(隗状)と綰(王綰)に度量衡の法を決めさせ、嫌疑が残らないよう統一させた。
> — 青銅詔版'''['''70''']''''''['''69''']'''
>
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE@ja[始皇帝 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-06 15:31:09 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D>
]FIGCAPTION]
> 始皇35年(前212年)、始皇帝は皇帝の居所にふさわしい宮殿の建設に着手し、渭水南岸に広大な阿房宮建設に着手した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE@ja[文帝 (漢) - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-08 10:26:58 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%87%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)>
]FIGCAPTION]
> 文帝の16年、「人主延寿」と瑞兆ともいうべき文字が彫られていた玉杯が発見され、その記念に改元して再び元年と称した。2度目の改元以降は「後元年」、「後2年」と呼称している。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE[西周代陝東出自者「周化」考 ―西周中期改革考(1)―]]
([TIME[2010-10-19 16:34:40 +09:00]] 版)
<http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/617/617PDF/tani.pdf>
]FIGCAPTION]
> 中期改革期以前の器銘である段簋銘(中期[4208])15)に、
> 唯王十又四祀十又一月丁卯、王在畢、烝。戊辰、曾。王 段暦、念畢仲孫子、令龔 、 大則于段。・・
> これ王の十又四祀十又一月丁卯、王 畢に在り、烝す。戊辰、曾す。王 段の暦を わし、畢仲の孫子を念いて、龔 を令い、大則を段に らしむ。・・
> とあり、「畢仲孫子」である段が殷式紀年法を用いているのであるが、畢仲は周族出自であると考えられる 16)。そうだとすれば、周族出自者によっても殷式紀年法が用いられる事があり得たという事になり 17)、殷式紀年法の使用有無のみを根拠として陝東出自であるか否かを判断する事は危険であるという事になるのである。
> 咸井叔が右者を担当していた前掲 䋢銘は共王 2 年の器銘であるが、共王 7 年の 曹鼎一銘(中期
> [2783]、Ⅱ B)と懿王元年の師虎簋銘(中期[4316]、Ⅱ B)では、
> 隹七年十月既生覇、王在周般宮。旦王格大室。井伯入右塇曹、位中廷、北郷。・・
> これ七年十月既生覇、王 周の般宮に在り。旦に王 大室に格る。井伯 入りて塇曹を右け、中
> 廷に位して、北郷す。・・
> 隹元年六月既望甲戌、王在杜 、格于大室。井伯内右師虎、即位中廷、北郷。・・
> これ元年六月既望甲戌、王 杜 に在り、大室に格る。井伯 内りて師虎を右け、位に中廷に即き、北郷す。・・
> というように井伯が右者に任じられており、懿王 12 年の走簋銘(後期[4244])では、
> 隹王十又二年三月既望庚寅、王在周。格大室、即位。 〓馬井伯[入]右走。・・
> これ王の十又二年三月既望庚寅、王 周に在り。大室に格り、位に即く。 〓馬井伯 入りて走
> を右く。・・
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[16] [CITE@ja[逸周書 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-05 11:27:02 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B8%E5%91%A8%E6%9B%B8>
]FIGCAPTION]
> 『春秋左氏伝』文公2年に『周志』からの引用があり、これは現行の『逸周書』大匡解第三十七にも見える。また、襄公11年に『書』の引用として「安きに居りて危うきを思う」というが、これが『逸周書』程典解の「安きに於て危うきを思う」とほぼ一致し、襄公25年の『書』の引用も常訓解に見える'''['''3''']'''。
]FIG]
[17] [CITE@zh[帝王紀年 - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-01-10 00:31:07 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%9D%E7%8E%8B%E7%B4%80%E5%B9%B4>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[18] [CITE@zh[上元 (唐肅宗) - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-01-10 13:02:18 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%85%83_(%E5%94%90%E8%82%85%E5%AE%97)>
]FIGCAPTION]
> 上元二年九月二十一日去年号,称元年,以建子之月为岁首。'''['''1''']'''
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[19] [CITE@zh[宝应 (年号) - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-01-10 13:12:10 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E5%BA%94_(%E5%B9%B4%E5%8F%B7)>
]FIGCAPTION]
> 宝应元年四月十六日乙丑改元,并恢复寅正。(参看上元)。四月二十日唐代宗即位沿用。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[20] [CITE[守常ブログ データー集]]
([TIME[2016-02-10 13:16:50 +09:00]] 版)
<http://www.u4ren6.com/Moritsune/Moritsune.html>
]FIGCAPTION]
> ところが同じ『新唐書』巻二十七下、暦志第十七下の最後に、
> 至粛宗時、山人韓穎上言、大衍暦或誤・帝疑之、以穎為太子宮門郎、直司天台。
> 又搊益其術。毎節増二日。更吊至徳暦。起乾元元年用之、訖上元三年。
> とあり、至徳暦が乾元元年(758)から上元三年(762)まで用いられたとしている。
> ところが同じ『新唐書』巻六本紀第六では、上元二年に、上元の号を去ってただ元年と称し、十一月を以って歳首となし、(上元2年11月を)元年建子月、(同12月を)建丑月、(以下順に)建寅月、建卯月、建辰月、建巳月とよんだが、建巳月の甲寅(5日)に聖光天帝(玄宗)が崩じ、乙丑(16日)に宝応元年と改元し、再び正月を歳首とし、建巳月を四月とした。そして丙寅(17日)夜皇帝(粛宗)が崩じたと記しながら、すぐ次の代宗の伝記では、粛宗は丁卯(18日)に崩じ、代宗が己巳(20日)に即位したと記す等、同じ書物の連続した2ぺ一ジでありながら矛盾がある。
> 『旧唐書』では粛宗は2ヵ所にわたって丁卯に崩じたと記してあるから、こちらが正しいと思う。
> 大分脱線したが、いずれにしても上元三年という年紀はないので、先の記述はあまり正しい表現ではないが、八暦の中に至徳暦が入らなかったのは、大衍暦と比べてあまり変りばえがしないからか、実際には使われなかったのかのどちらかだと思う。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[21] [CITE@ja[天聡 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-08 22:19:24 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%81%A1>
]FIGCAPTION]
> 後世になってからホンタイジの在位紀年に命名したものだとする説もある。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[22] [CITE@ja[天命 (後金) - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-08 22:19:24 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%91%BD_(%E5%BE%8C%E9%87%91)>
]FIGCAPTION]
> 実際に使用された元号でなく、後に制定されたという学説もある。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[24] [CITE@ja[携王 (周) - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-10 01:13:44 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%90%BA%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)>
]FIGCAPTION]
> 紀元前759(平王12年)年、多くの有力諸侯が与する平王は圧倒的な戦力で携王勢力を打倒し、
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[25] [CITE@ja[始皇帝 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-08 11:22:17 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A7%8B%E7%9A%87%E5%B8%9D>
]FIGCAPTION]
> 秦が戦国時代に幕を引いたのは秦王政26年(前221年)39歳であった。
]FIG]
[26] [CITE@ja[前漢文景帝時の改元について。 - 漢の文帝、景帝は改元を行っ... - Yahoo!知恵袋]]
([TIME[2016-02-10 23:57:13 +09:00]] 版)
<http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1039855000>
[27] [CITE[前元_百度百科]]
([TIME[2016-02-11 00:08:09 +09:00]] 版)
<http://baike.baidu.com/view/6148266.htm>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[28] [CITE[元号-2200年前に生まれて、今使っているのは日本だけ: ことのはくりえーと]]
([TIME[2016-02-11 00:13:52 +09:00]] 版)
<http://adekalifecreate.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_99db.html>
]FIGCAPTION]
> 「このめでたい日を境に、元号を後元(こうげん)としよう」
> といったのでこの年が後元元年とされました。それまでは皇帝の即位から単純に元年、弐年と数えていたので(在位紀年法といいます)、この文帝の改元をもって中国正史では元号のはじめてとされています。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[29] [CITE@ja[昭武 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-11 00:26:46 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%AD%A6>
]FIGCAPTION]
> 呉三桂は1673年(康熙12年)旧11月に叛して周王を称し、その翌年旧正月よりこれを在位紀年として用いた。1678年(康熙17年)旧3月に皇帝の位に即き、改めて昭武と建元した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[30] [CITE@ja[1678年 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-11 00:33:39 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1678%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
> 呉三桂 : 周王5年、昭武元年3月 - 8月
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[31] [CITE@ja[1677年 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-14 06:14:17 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1677%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
> 呉三桂 : 周王4年
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[32] [CITE[学位論文要旨詳細]]
([TIME[2016-02-11 00:38:22 +09:00]] 版)
<http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/gakui/cgi-bin/gazo.cgi?no=213133>
]FIGCAPTION]
> 史記東周紀年の再編について
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[33] [CITE@ja[プロジェクト‐ノート:紀年法 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-11 10:54:55 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95#.E5.9C.B0.E5.9F.9F.E6.A6.82.E5.BF.B5.E3.81.A8.E3.81.97.E3.81.A6.E3.81.AE.E3.80.8C.E7.90.89.E7.90.83.E3.80.8D.E8.BF.BD.E5.8A.A0.E3.81.AB.E3.81.A4.E3.81.84.E3.81.A6>
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> 1187年(舜天元年)から1872年(尚泰24年)、もしくは1879年(尚泰31年)までは、日本、中国、朝鮮とならび、地域疑念としての琉球を追加するべきだと思います。 朝鮮と同様、「国名:国王○年」例えば「琉球国:尚巴志4年」などと記述するのがよろしいでしょうか。 --Franz Rekio(会話) 2012年12月18日 (火) 16:20 (UTC)
> 日本や中国、朝鮮と異なり、琉球の場合は独自の紀年法を採用していませんので地域概念としての追記は不要と考えます。これを言い出すと世界中のあらゆる地域を記載して○○王○年、○○侯○年のような記載が可能となってしまします。日本人からすれば琉球というのは特殊な地域かもしれませんが、紀年法で見れば日本と中国のいずれかの紀年法で記述可能なので、あえて追記する必要性はないと判断しています。--Yonoemon(会話) 2013年1月25日 (金) 04:25 (UTC)
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