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998
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1000
[1]
[[李氏朝鮮]]時代末期から[[大韓帝国]]時代は、
旧来の[[支那]]式[[日時制度]]から西洋式の[[日時制度]]や独自の[[日時制度]]へと移行していく激動の時代でした。
[SEE[ 他の時代も含めた事項は[[朝鮮半島の紀年法]]、[[朝鮮半島の旧暦]]、[[朝鮮半島の標準時]] ]]
* 高麗国時代まで
[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]]、[[朝鮮半島の旧暦]] ]]
* 李氏朝鮮時代
[262]
[[高麗国]]にかわって成立した[[朝鮮国]] ([[李氏朝鮮]])
も、[[支那王朝]] ([[明国]]、のち[[清国]])
の[[属国]]でした。
政治や文化の諸制度と同様、[[日時制度]]も[[支那]]の制度をベースとしていました。
[415] [[李氏朝鮮]]は、
[[紀年法]]として[[支那の元号]]や[[干支]]を使っていました。
[263]
しかしすべての場面で[[支那の元号]]をそのまま用いていたわけではなく、
例えば[[明国]]滅亡後[[清国]]の[[属国]]となってからも、
旧[[宗主国]]の[[明国]]の[[元号]]を使い続けました。
[SEE[ [[崇禎紀元]] ]]
[264]
[[正史]]の[CITE[朝鮮王朝実録]]では、
[[干支]]や[[支那の元号]]だけでなく[[在位紀年]]が用いられました。
現在でも[[李氏朝鮮]]時代の記述では[[在位紀年]]がしばしば用いられています。
[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]] ]]
[331]
[[日本]]との外交文書では、[[干支年]]を用いました。
[[日本]]側は当初[[干支年]]、のちに[[日本の元号]]を用いました。
[SEE[ [[元号の選択]] ]]
[73] [[李氏朝鮮]]や[[支那]]では、
当時[[近代的標準時制度]]は未実施でした。
各地の[[真太陽時]]が用いられました。
[118] [[tzdata]] は元の [[LMT]] を
[CODE[Asia/Seoul]] は [TZ[+08:27:52]]、
[CODE[Asia/Pyongyang]] は [TZ[+08:23:00]]
としています [SRC[>>116]]。
[HISTORY[
[364]
[[朝鮮民主主義人民共和国]]政府の[[朝鮮社会科学院]]歴史研究所長の[[黄明哲]]は、
[TIME[2017年][year:2017]]の[[論文]]で、
「朝鮮では当代
国家の都の地(首都)に位置する子午線を本初子午線にして標準時を定め、1日を12時
間とする時間制を制定して使用してきた」 [SRC[>>360]] とし、
[[李氏朝鮮]]やそれ以前の王朝が[[標準時]]を制定していたと主張しました。
1日を12分割するというのは、[[十二支の時法]]のことでしょう。
[265]
首都の時刻を全国で標準的に用いていたとすると、
[[時刻]]を[[朝鮮半島]]全体に[[送信][報時]]できる技術を[[朝鮮国]]が保持していたことになりますが、
その根拠は示されていません。
]HISTORY]
-*-*-
;; [427] [[ソウル]] ([[漢陽]]、[[漢城]]、[[京城]]) は、
[[朝鮮半島]]中央部西岸の[[都市]]です。
[[明国属国朝鮮]]、[[清国属国朝鮮]]、[[大韓帝国]]、
[[大日本帝国朝鮮]]の[[首都]]として栄えました。
[[李氏朝鮮]]時代には[[王宮]]の[[景福宮]]がありました。
現在は[[大韓民国]]の[[首都]]となっています。
[309] [[明国属国朝鮮]]の[[国王]]の[RUBYB[[[世宗]]][[[在位]][TIME[1418年][year:1418]]-[TIME[1450年][year:1450]]]]は、
[[日時計]]や[[水時計]]を作らせました。
[[昼]]は[[日時計]]が、[[夜]]は[[水時計]]が用いられました [SRC[>>410, >>411]]。
[413] [TIME[1434年6月][1434-06]]、
[[蒋英実]]は[[水時計]]の[[自撃漏]]を製作し、
[[景福宮]]南側の[[報漏閣]]に設置しました。
[[自撃漏]]は[[標準時計]]となりました。 [SRC[>>412]]
[414] [TIME[1434年11月2日][1434-11-02]] [SRC[>>37]]、
[[蒋英実]]は[[日時計]]の[[仰釜日晷]] ([[앙부일구]], [[Angbu Ilgu]])
を製作し、王宮に設置しました。
これが[[漢陽]]の[[標準時]]となりました。 [SRC[>>410, >>411]]
[266] [[仰釜日晷]]が設置されたのは[[惠政橋]] ([[혜정교]]) と[[宗廟]] ([[종묘]])
だった [SRC[>>39]] といいます。
[267] [[韓国語]]版 [[Wikipedia]] の過去の版は、
これを [LON[126°58′41″][126.58.41E]] = [TZ[+08:27:55]] であるとしていました。
現在の版や[[英語]]版 [SRC[>>410, >>411]] では [TZ[+08:28]] としています。
変更の理由は不明です。
-*-*-
[74] [DFN[李氏朝鮮の暦]]は、正式には[[宗主国]]の[[明国]]や[[清國]]の[[農暦]]であり、
[[支那]]の[[地方時]]に基づき計算されたものでした。
[2] [TIME[1442年][year:1442]]以後、
[[朝鮮国]]の[[地方時]]に基づき計算した[[七政算]]を独自に運用するようになりましたが、
[[宗主国]]の[[暦]]と一致させるため、何度も[[改暦]]や本来の計算結果と異なる修正が行われました。
(それでも[[清国]]と異なる[[日付]]となったことが何度かあったようです。)
[SEE[ [[朝鮮半島の旧暦]] ]]
;; [4]
[[琉球国]]も[[清国]]の[[曆][農暦]]を採用しつつ、
実際には自国で計算していました。
[SEE[ [[琉球暦]] ]]
[87]
[[京城]]には[[天文台]]がありました。
[[高さ]]は20[[呎]]でした。
[[天体]]に異状があるときは
[[国王]]に奏上し、
[[国王]]は[[北京朝廷][清国]]に報告していました。
[SRC[>>81]]
[84]
[TIME[1894年][year:1894]]まで、
[[李朝]]の星学家は毎年[[支那]]から取り寄せた[[暦本]]を理解し応用する程度でした。
天文台は[[暦本]]発行の義務を有していましたが [SRC[>>81]]、
天文台長が[[支那]]の原本と異なる[[暦本]]を発行したときは、
遠島の流刑の厳罰に処されていました。
にも関わらず天文学は“旧来の星學や魔法の範囲”に留まり未発達でした。
[SRC[>>80]]
-*-*-
[182]
[[李朝]]時代末期の記録によると、
[[子供]]が生まれるとその[[出生]]の[[時刻]]を正確に記録し、
将来を占っていました。
[[年齢]]は[[数え年]]を使っていました。 [SRC[>>9]]
[183]
「正確」がどの程度のものかは不明ですが、
それなりの[[時刻]]を知る方法があったということになります。
[186]
官衙や高等行政官 (郡長知県など) の住宅は、
市内北壁付近の高台にあり、
周囲に高さ一丈一尺の壁と門がありました。
門の上には四方に開いた瓦葺きの櫓があり、
朝夕は[[太鼓]]で[[報時]]していました。
[SRC[>>12]]
[230]
現在でも[[ソウル]]には[[鍾路]]と呼ばれる道路があり、
繁華街で周辺の地域名ともなっています。
[[鍾路]]の由来は[[李氏朝鮮]]時代の[[普信閣]]の[[時鐘]]とされています。
4時に33回、
19時に28回鳴らして城門の開閉の合図としていました。 [SRC[>>214]]
-*-*-
[185]
[[休日]]もいくつかありました。 [SRC[>>184]]
[HISTORY[
[313] [[李氏朝鮮]]が
[TZ[+08:00]] を[[標準時]]として採用した [SRC[>>189]]
とする説があります。
かつて[[韓国語]]版 [[Wikipedia]] は[[李氏朝鮮]]中後期に[[北京]]の [TZ[+08:00]]
が[[標準時]]となったとしていましたが、削除されました
[SRC[>>327]]。
いずれも根拠は不明です。[[清国]]の[[属国]]であったことから、
[[清国]]末期以降の[[支那海岸時]] [TZ[+08:00]]
を類推したものでしょうか。
[269] あるいは[[李氏朝鮮]]が
[TZ[+09:00]] を[[標準時]]として採用した [SRC[>>304]]
とする説もあります。
後述の通り[[鉄道時]]などとして採用されたものが[[国家標準時]]と誤認されたのでしょうか。
]HISTORY]
[REFS[
- [594] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2018-09-29 23:50:18 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/id/nh_027_0020_0020_0040_0010>
- [595] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2018-09-29 23:51:24 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/id/nh_027_0020_0020_0040_0020>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] ([TIME[2005-04-18 15:21:30 +09:00]])
<http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4638/kankoku.html>
]FIGCAPTION]
> 「笠山日時計」は今から約350年前、第4代王である世宗が製作した「仰釜日晷」(韓国宝物845号)の複製である。17世紀半ばに西洋式時間測定法が加わり、それまでの「十二時百刻法」が「十二時九六刻法」に修正された後のもので、17世紀後半・李朝時代の宮廷内外で公衆時計として使用されていた日時計である。日時計の本体は韓国で玉石と呼ばれる黒御影石でつくられている。黒御影石は結晶が光を受けて反射し、近くに寄ると見る角度によっては光の輝きが宝石のように美しく変化する。また、熱膨張係数がきわめて小さいので、測定用の定盤や精密機器の台座として利用されている。15分間間隔の「真太陽時」と季節(二十四節季気)を知ることができる。
]FIG]
- [116] [[tzdata]]
([TIME[2016-04-19 01:50:32 +09:00]]) <https://www.ietf.org/timezones/data/asia>
-- [133] [CITE['''['''tz''']''' [PATCH] * asia (Asia/Seoul) correct DST.]] ([TIME[2014-10-31 16:01:06 +09:00]]) <http://mm.icann.org/pipermail/tz/2014-October/021831.html>
- [410] [CITE@en[Time in South Korea - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-20 01:19:32 +09:00]]) <https://en.wikipedia.org/wiki/Time_in_South_Korea>
- [411] [CITE@en[Time in North Korea - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-18 22:55:12 +09:00]]) <https://en.wikipedia.org/wiki/Time_in_North_Korea>
- [412] [CITE@ja[蒋英実 - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-11 22:51:11 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E8%8B%B1%E5%AE%9F>
- [39] [CITE@ko[한국 표준시 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]]
([TIME[2015-08-22 09:20:48 +09:00]] 版)
<https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C>
-- [327] [CITE@ko["한국 표준시"의 두 판 사이의 차이 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]] ([TIME[2018-01-20 01:15:44 +09:00]]) <https://ko.wikipedia.org/w/index.php?title=%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C&type=revision&diff=14591410&oldid=14588527>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[37] [CITE@ko[韓国時間 - ウィキペディア、私たちのすべての百科事典]]
([TIME[2016-02-12 17:59:27 +09:00]] 版)
<https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C>
]FIGCAPTION]
> 1434年(世宗16年)11月2日(旧暦10月2日):世宗大王が日時計(アンブイルグ)を作成ソウルヘジョン校(現光化門郵便局の北)と宗廟の前に設置する。時間という概念が必要なかった時代に漢城(ソウル)の時刻は、今日のUTC +08:28。
]FIG]
- [359] [CITE[北東アジア研究]] 第28号 ([TIME[2017年3月][2017-03]])
-- [360] [CITE[最近の朝鮮民主主義人民共和国の歴史学学会の研究動向と成果について]]
([[黄明哲]], [TIME[2017-04-06 16:32:18 +09:00]])
<http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu28.data/hokutou28_4_hwan.pdf>
-- [361] [CITE[朝鮮社会科学院研究者の 論文投稿の経緯と掲載に寄せて]]
([[福原裕二]], [TIME[2017-04-06 16:32:13 +09:00]])
<http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu28.data/hokutou28_3_fukuhara.pdf>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[214] [CITE@ja[韓国旅行、韓国ツアー | 韓国観光公社公式サイト :韓国観光公社公式サイト]]
([TIME[2019-02-11 21:27:04 +09:00]])
<http://japanese.visitkorea.or.kr/jpn/TMC/TE_JA_7_1_1.jsp?cid=281246>
]FIGCAPTION]
> 宝物第2号に指定された「普信閣(ポシンカク)」は、ソウルの繁華街・鍾路(チョンノ)の交差点にあります。この普信閣の鐘は朝鮮時代、時を知らせる役目をした鐘で、当時ソウルには人々が出入りする4つの大きな門があり4時に33回打てば城門を開き、午後7時に28回打つと閉め、都への出入りを規制するといった役割を果たしていました。
]FIG]
]REFS]
* 西洋式日時の流入
;; [284]
[TIME[1860年][year:1860]]、
[[清国]]は[[露西亜帝国]]に[[外滿洲]]東部を[[割譲]]しました
([[北京条約]])。これによって[[露西亜帝国]]と[[李朝]]は[[国境]]を接するようになりました。
;; [285]
[TIME[1861年][year:1861]]、
[[露西亜帝国]]は[[朝鮮半島]]に南接する[[日本]]の[[対馬]]に進攻しましたが、
撤退しました ([[ロシア軍艦対馬占領事件]])。
;; [405]
[TIME[1871年6月][1871-06]]、
[[米国]]は[[江華島]]に進攻しました ([[辛未洋擾]])。
;; [286]
[TIME[明治4年7月14日][1871-08-29]]、
[[日本]] ([[明治政府]]) は[[廃藩置県]]を実施し、
[[厳原藩]]は[[厳原県]]となりました。
対[[李朝]]外交は[[明治政府]]に移管されました。
;; [289]
[TIME[明治6年1月1日][1873-01-01]]、
[[日本]]は[[太陽暦に改暦][明治改暦]]しました。
[SEE[ [[明治改暦]] ]]
;; [399]
[TIME[1873年11月][1873-11]]、
[[大院君]]は失脚し、
[[閔氏政権]]が成立しました。
[162]
[TIME[1876年2月26日][1876-02-26]]、
[[大日本帝国]]と[[朝鮮国]]は[CITE[日朝修好条規]]に[[調印]]しました。
[[日本]]側は
「大日本國紀元二千五百三十六年明治九年二月二十六日」、
[[朝鮮]]側は
「大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日」
とされました。
[SRC[>>161]]
[167] これが[[開国年号]]の始まりとされています [SRC[>>13]]。
[270]
[CITE[日朝修好条規]]は[[朝鮮國]]を[[独立国]]と定めているため、
[[支那の元号]]を使うのは不適切だったのでしょう。
;; [200]
[TIME[1876年11月10日][1876-11-10]]、
[[釜山]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。
;; [377] [TIME[1877年][year:1877]]、
[[釜山]]に[[日本租界]]が設置されました。
;; [201]
[TIME[1880年][year:1880]]、
[[元山]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。
[165]
[TIME[1882年5月22日][1882-05-22]]、
[[大朝鮮國]]と[[大美國]]は[CITE[朝美修好通商條約]]に[[調印]]しました。
[[正文]]である[[漢文]]版には、
[[朝鮮]]側は
「大朝鮮國開國四百九十一年
即中國光緖八年四月初六日」、
[[米国]]側は
「大美國一千八百八十二年五月二十二日」
とありました。 [SRC[>>163]]
[[英文]]版には、
「May the 22[SUP[nd]], A.D. 1882」
とありました。 [SRC[>>164]]
[271]
[CITE[朝美修好通商條約]]は[[清国]]と[[米国]]によって起草され、
[[清国]]立会の元[[朝鮮国]]と[[米国]]が[[調印]]しました。
そのため[[支那の元号]]も併記されたのでしょう。
;; [398]
[TIME[1882年7月23日][1882-07-23]]、
[[軍事クーデター]]が発生し、
[[親日派]]が追放され[[大院君]]が復権しました ([[壬午軍乱]])。
[[大日本帝国]]と[[清国]]が進攻しました。
その後再び[[大院君]]は失脚し、[[閔氏政権]]が復活しました。
これらの事件を通じて[[清国]]による[[属国]]の[[李氏朝鮮]]への支配が強化されることになりました。
;; [193]
[TIME[1882年11月][1882-11]]、
[[清国]]の[[電信]]線[[京城]] - [[義州]]間が開通しました。
;; [379] [TIME[明治16年1月][1883-01]]、
[[仁川]]が[[開港]]し、[[日本租界]]が設置されました。
[[仁川]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。
[159]
[TIME[朝鮮開國四百九十二年癸卯未十月初一日][1883-10-30]]、
[[朝鮮政府]]の[[統理衙門博文局]]が初の近代的[[新聞]]である
[CITE[漢城旬報]]
を創刊しました。
第1号では欄外に「中國光緒九年」と併記されていました。
第4号以後[[支那の元号]]は欄内に併記されるようになり、欄外には
「西歴一千八百八十三年十一月三十日」
と[[西暦]] ([[グレゴリオ暦]])
が併記されるようになりました。
[SRC[>>160]]
;; [191]
[TIME[明治16年][year:1883]]、
[[大北電信会社]]の海底電信線[[呼子]] ([[佐賀県]]) - [[壱岐]] - [[対馬]] - [[釜山]]間が開通しました。
([[釜山]]陸揚地 - [[釜山]]日本人居留地間は[[日本政府]]設置、
[[呼子]] - [[対馬]]間は後に[[日本政府]]が買収。)
;; [278] [TIME[1883年12月][1884-12]]、
[[仁川]]に[[清国租界]]が設置されました。
;; [192]
[TIME[明治17年2月][1884-02]]、
[[釜山]]に日本電信局が設置されました。
電信局では[[気象観測]]も行いました。
;; [378] [TIME[1884年][year:1884]]、
[[釜山]]に[[清国租界]]が設置されました。
;; [387] [TIME[1884年][year:1884]]、
[[仁川]]に[[各国租界]]が設置されました。
;; [195]
[TIME[1884年11月18日][1884-11-18]]、
[[朝鮮政府]]は[[郵征総局]]を設置しました。
;; [400]
[TIME[1984年12月4日][1984-12-04]]、
[[清国]]からの独立を試みた[[親日派]]による[[軍事クーデター]]が発生しましたが、
[[清国]]の介入により失敗に終わりました ([[甲申政変]])。
暴徒により[[京城]]の[[日本公使館]]が襲撃されました。
[[大日本帝国]]と[[清国]]はこの後撤兵しましたが、
[[清国]]は[[袁世凱]]を派遣し事実上[[李氏朝鮮]]を直接統治するようになりました。
クーデターの舞台となった[[郵征総局]]は閉鎖されました。
;; [376] [TIME[1885年4月][1885-04]]、
[[巨文島]]に[[英国]]が進攻しました。
;; [291]
[TIME[1885年12月][1885-12]]、
[[日本]]が[[仁川]]に進攻したとの[[デマ]]が流れました。
;; [401] この頃、[[清国]]は[[朝鮮]]域内の都市間の[[電信線]]の整備を進めました。
既に[[京城]]と[[清国]]の間に[[電信]]が開通していました。
[649]
この頃[[朝鮮半島]]に滞在していた[[欧米人]]や[[日本人]]は、
日常生活では自国の[[日時制度]]
([[西暦]] ([[日本人]]は[[日本の元号]])、
[[グレゴリオ暦]] ([[露国人]]は[[露暦]])、
[[西洋式時刻]])
を使っていたとみられます。
[[時刻]]は[[地方時]]が一般的だったのでしょうか。
[397] [TIME[1886年2月][1886-02]]以後、
在[[漢城]]日本[[公使館]]では定時の[[気象観測]]が行われていました
[SRC[>>395, >>393, >>207]]
([TIME[6時][06:00]]、[TIME[12時][12:00]]、[TIME[18時][18:00]] [SRC[>>207]])。
[[時刻]]が何であったのかは不明です。
(これ以前にも観測が行われたことがありますが、記録は残っていません [SRC[>>207]]。)
[458]
[TIME[1887年][year:1887]]頃から、
在[[朝鮮]][[ロシア帝国]][[公使]]の[[ウェベル]]
([[Karl Ivanovich Weber]],
[[Carl von Waeber]]) による[[京城]]での定時の[[気象観測]]が行われていました [SRC[>>207]]。
また[[朝鮮海関]]により[[元山]]、[[仁川]]、[[釜山]]での観測も行われていました
[SRC[>>207]]。
観測に用いた[[時刻]]が何であったのかは不明です。
;; [194]
[TIME[1887年2月][1887-02]]、
[[英国]]が[[巨文島]]から撤退しました。
;; [277]
[TIME[明治20年4月30日][1887-04-30]]、
[[日本政府]]の[[釜山電信局]]と[[釜山郵便局]]が合併し[[釜山郵便電信局]]となりました。
;; [290]
[TIME[明治21年1月1日][1888-01-01]]、
[[日本]]は[[中央標準時]] [TZ[+09:00]] を採用しました。
[SEE[ [[中央標準時]] ]]
;; [314]
在[[仁川]]日本領事館内には簡易的な郵便局が設置されていましたが、
正式に仁川郵便局となりました。
その後間もなく[TIME[明治21年7月][1888-07]]、
在[[京城]]日本領事館内に仁川郵便局の出張所が設置されました。
この郵便局は[[日本人]]のみならず[[欧米人]]も利用するようになりました。
[SRC[>>315]]
;; [292]
[TIME[明治21年7月9日][1888-07-09]]、
[[朝鮮政府]]の[[京城]]・[[釜山]]間の[[電信]]線が開通しました。
(しかし1年のうち4分の1ほどは不通と言われるほど不安定なものでした。)
仁川郵便局の京城出張所が[[電信]]取扱を開始しました。
[SRC[>>315]]
;; [385] [TIME[1888年][year:1888]]、
[[元山]]に[[清国租界]]が設置されました。
[225] [[Shanks]] (2003) の [[KOREA, NORTH]] と [[KOREA, SOUTH]] は、
[TIME[1890年1月1日0時0分][1890-01-01T00:00]]から [TZ[+08:30]] (それ以前は[[LMT]])
としていました [SRC[>>226]]。
根拠は不明です。
1890年代の時期不明を表している可能性もあります。
[279]
[TIME[1892年][1892-10-15]]に[[仁川]]で出版された[[日本人]]著者の[[日本語]]書籍
[CITE[仁川事情]]は、[[奥付]]の出版の[[日付]]を
「明治廿五年十月十五日、朝鮮開國五百一年秋八月廿五日」としていました。
[SRC[>>280]]
([[朝鮮]]で発行された初の[[日本語]]書籍ではないかと言われています。)
[281]
[[仁川]]の[[朝鮮海関]]の執務時間は、
原則として[[日の出]]から[[日没]]までと定められていました。
時間外の手数料は「夜の12時」が境界とされていました。
[[公休日]]として[[日曜日]]の他、
[[陽暦]]の[[年末年始]]と[[陰暦]]のいくつかの日が定められていました。 [SRC[>>280 DjVu 16ページ]]
;; [402] [TIME[1894年][year:1894]]春、
大規模な[[農民反乱]]が発生しましたが、[[李氏朝鮮]]政府は鎮圧できませんでした。
([[甲午農民戦争]] = [[東学党の乱]])
;; [170]
[TIME[1894年6月8日 (清国暦5月5日)][1894-06-08]]、
[[清国]]が[[朝鮮]]に進攻しました。
;; [171]
[TIME[1894年6月10日 (清国暦5月7日)][1894-06-10]]、
[[日本]]が[[朝鮮]]に進攻しました。
;; [293]
[TIME[明治27年7月19日][1894-07-19]]、
[[朝鮮政府]]電信線の不安定さに不満を抱いていた[[日本政府]]は、
[[京城]] - [[釜山]]の軍用電信線の建設に着手しました。
;; [403] [TIME[1894年7月23日][1894-07-23]]、
[[日本軍]]は[[京城]]を制圧しました。
[[大日本帝国]]の支援の元[[大院君政権]]が復活し、
[[閔氏政権]]は崩壊しました。
;; [404] [TIME[1894年7月25日][1894-07-25]]、
[[大日本帝国]]と[[清国]]は[[戦争]]状態となりました。
[530]
[[李氏朝鮮]]の[[官報]]は、
[TIME[「甲午六月二十一日」][1894-07-23]]
と[[干支紀年]]で始まり、その次の年号が
[TIME[「開國五百三年六月二十九日」][1894-07-31]]
となり、以後[[開国年号]]となっていました。 [SRC[>>168]]
[172]
[[Wikipedia]] は、
[TIME[1894年7月27日][1894-07-27]]に[[李氏朝鮮]]が[[開国年号]]を採用したとしています
[SRC[>>173, >>174]]。
[177]
[TIME[1894年8月20日][1894-08-20]]の日朝両国の[[条約]]は、
[[調印]]を
[TIME[「大日本國明治二十七年八月二十日」すなわち「大朝鮮國開國五百三年七月二十日」][1894-08-20]]
としていました。
また本文中に
[TIME[「[LINES[日本暦明治二十七年七月二十三日][朝鮮暦開國五百三年六月二十一日]]」][1894-07-23]]
とありました。
[SRC[>>176]]
;; [169]
[TIME[1894年8月1日][1894-08-01]]、
[[日清戦争]]が開戦しました。
;;
[272]
[TIME[明治27年10月][1894-10]]、
[[京城]]の[[日本公使館]]の[[気象観測]]の[[時刻]]が
[TIME[6時][06:00]]、[TIME[14時][14:00]]、[TIME[22時][22:00]]に改められました。
[SRC[>>207]]
;; [72] [TIME[1895年][year:1895]]、
[[清国]]と[[大日本帝国]]の[[下関条約]]で、
[[清國]]は[[朝鮮国][清国属国朝鮮]]の[[独立]]を承認しました。
[275] [TIME[1895年6月][1895-06]]、
[[東京帝国大学]]は[[台湾の標準時]] (後の[[西部標準時]]) の検討にあわせて、
[[朝鮮国]]にある[[日本]]の官庁では[[西部標準時]] [TZ[+08:00]]
を採用するべきであり、[[朝鮮国]]の[[標準時]]も [TZ[+08:00]]
とするよう勧告するべきだ、と[[日本政府]]に提案しました。
これを受けた[[大日本帝国]]の[[勅令]]案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし[[内地]]と[[朝鮮国]]駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
[[朝鮮国]]の[[標準時]]はまた別であり時期尚早だとして、
削除されました。
[SEE[ [[西部標準時]] ]]
[276] [[東京帝国大学]]の検討では、
[[朝鮮半島]]の東岸では[[標準時]]と[[地方時]]の[[時差]]が30分以上となるものの、
[[北海道]]と[[中央標準時]]で[[時差]]があってもそこまで問題にはなっていないとしていました。
[650]
[[東京帝国大学]]や[[東京]]の[[日本政府]]の関係者が[[朝鮮国]]の事情にどこまで通じていたか不明ですが、
未だ[[近代的標準時]]を実施していないと認識していたことがわかります。
;; [196]
[TIME[1895年7月][1895-07]]、
[[朝鮮政府]]の郵便事業が再開されました。
;; [407] [TIME[1895年10月8日][1895-10-08]]、
[[閔妃]]が暗殺されました ([[乙未事変]])。
[155]
[TIME[開國五百四年十一月十五日][1985-12-30]]、
[[朝鮮国][李氏朝鮮]]は[TIME[開國五百五年][1986-01-01]]より[[太陽暦]]を採用し、
[[建陽]]と[[建元]]し、
[[一世一元]]とすることと定めました。 [SRC[>>154]]
;; [157]
翌日の[[官報]]は発行されなかったようで、
次は[TIME[建陽元年一月四日][1896-01-04]]でした。
[328]
[TIME[開国504年11月16日][1895-12-31]]の翌日が[TIME[建陽元年1月1日][1896-01-01]]となりました。
[158]
この頃既に[[官報]]掲載の[[郵便]]の[[時刻]]は[[「午前[VAR[○]]時」、「午後[VAR[○]]時」と記述][12時間制]]されていました。
[178]
[[李朝]]は
[TIME[1896年][year:1896]]分の[[曆]]として
[CITE[大朝鮮開國五百五年歳次丙申時憲曆]]
を発行しました。[[清国]]の[[曆]]の[CITE[時憲曆]]の名を引き継いでいました。
[76]
後に[[標準時]]が [TZ[+09:00]] となるまで、
[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]の[[日付]]は[[清国]]の[[農暦]]と同じままでしたし、
[[太陽暦]]を採用したにも関わらず[[曆]]は[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]しか扱っていませんでした。
;;
[406] [TIME[1896年2月][1896-02]]、
[[ロシア帝国]]が[[漢城]]に進攻、
親露派のクーデターにより[[国王]]の[[高宗]]は[[ロシア公使館]]に移転しました
([[露館播遷]])。
旧政権の改革的政策は破棄されました。
[179]
[[李朝]]は
[TIME[1897年][year:1897]]分の[[曆]]として
[CITE[大朝鮮建陽二年歳次丁酉時憲曆]]
を発行しました。
;; [409] [TIME[1897年2月20日][1897-02-20]]、
[[国王]][[高宗]]は[[王宮]]に戻りました。
[145]
[TIME[1897年8月14日][1897-08-14]]、
[[李氏朝鮮]]は新しい[[元号]]として[[光武]]を[[建元]]しました
[SRC[>>139, >>141, >>143]]。
[146]
その前後、[TIME[建陽二年八月十四日][1897-08-14]]までの[[官報]]定期分は、
旧[[元号]]の[[建陽]]を使っていました。
しかし[TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]]と[TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]]の号外は、
[[開国年号]]を使っていました。
[TIME[光武元年八月十六日][1897-08-16]]から[[光武]]となっていました。
その後の発行分の記事内でも、
[TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]]と[TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]]は[[開国年号]]でした。
- [TIME[建陽二年八月十二日][1897-08-12]] [SRC[>>142]]
- [TIME[建陽二年八月十三日][1897-08-13]] [SRC[>>138]]
- [TIME[建陽二年八月十四日][1897-08-14]] [SRC[>>139, >>140]]
- [TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]] [SRC[>>139, >>141, >>142]]
- [TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]] [SRC[>>141, >>143]]
- [TIME[光武元年八月十六日][1897-08-16]] [SRC[>>142]]
[126]
[[李氏朝鮮]]から[[日本政府]]への通知では、
[TIME[1897年8月14日][1897-08-14]]より[[光武]]に[[改元]]し[[太陽暦]]を用いる
[SRC[>>125]]、とされていました。
[147]
[[中文]]版 [[Wikipedia]] は
[TIME[1897年8月16日][1897-08-16]]から[[光武]]としています。 [SRC[>>132]]
[HISTORY[
[151] [[韓国語]]版 [[Wikipedia]] は
[TIME[1897年8月17日][1897-08-17]]から[[光武]]としています。 [SRC[>>150]]
]HISTORY]
[153] [[大韓帝国]]の[[官報]]には、
この頃でも依然として内容が[[旧暦][朝鮮半島の旧暦]]で記述された記事を少なからず掲載していました。
[[十二支時刻法]]もしばしば使われていました。
一方で[[郵便]]の[[時刻]]は[[「午前[VAR[○]]時」、「午後[VAR[○]]時」と記述][12時間制]]されていました。
[[太陽暦]]や[[西洋式時刻]]が使われ始めたものの、
王宮内をはじめ旧来の[[日時制度]]が公式に使われ続けていたようです。
;; [408] [TIME[1897年10月12日][1897-10-12]]、
[[朝鮮国][李氏朝鮮]]は[[大韓帝国]]に改称しました。
;; [380] [TIME[1897年][year:1897]]、
[[鎮南浦]]と[[木浦]]に[[各国租界]]が設置されました。
[HISTORY[
[233]
[TIME[1897年][year:1897]]に[[韓国標準時]] [TZ[+08:28]]
が制定されたとする [[Webページ]]もありますが、
出典も不明瞭で信用し難いものです。
[SRC[>>213]]
[[大韓帝国]]の成立年からの推測でしょうか。
]HISTORY]
[180]
[[大韓帝国]]は
[TIME[1898年][year:1898]]分の[[曆]]として
[CITE[大韓光武二年歳次戊戌明時曆]]
を発行しました。
この年から[[明時曆]]に改称されました。
[374] [TIME[1899年][year:1899]]にまとめられた [[Milne]] の[[時差の表]]では、
[[Korea]] は [TZ[+09:00:00]] とされていました。出典は[[英国政府]]や
[[International Telegraph Bureau]] とされていました。 [SRC[>>375]]
[273] [[電信]]では [TZ[+09:00]] が使われていたのでしょうか。
[[日本]]が[[大北電信会社]]に九州釜山線を敷設させたため、
[[釜山]]側 (や[[京城]]) でも[[中央標準時]]を用いることにした、
というような事情があったりするでしょうか?
(しかし[[清国]]所有の北行きの[[電信]]で[[中央標準時]]が使われた可能性はなさそうです。)
あるいはこの時既に[[日本]]から[[中央標準時]]が[[電信]]で転送
(>>635) されており、[[電信局]]で用いられていたのでしょうか。
;; [190] ただし [[Milne]] 当時[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] だった
[[Formosa]] の[[時刻]]を [[International Telegraph Bureau]]
出典で [TZ[+09:00]] としており ([SEE[ [[台湾の標準時]] ]])、
この情報をどこまで信用して良いものか不明です。
;; [381] [TIME[1899年][year:1899]]、
[[群山]]と[[城津]]と[[馬山]]に[[各国租界]]が設置されました。
;; [102]
[TIME[明治32年5月][1899-05]]、
[[京仁鉄道]]建設を[[日本]]企業が引き継ぎました。
;; [630] [TIME[1899年9月18日][1899-09-18]]、
[[京仁鉄道]]の[[仁川]] - [[鷺梁津]]
[WEAK[([[京城]]郊外)]]
間が開業しました。
この頃の乗客の8割は[[朝鮮人]]でした
[SRC[>>283 1ページ]]。
;; [287]
[TIME[1900年][year:1900]]、
[[露西亜帝国]]は[[内滿洲]]に進攻しました
([[北清事変]])。
;; [205] [TIME[1900年11月12日][1900-11-12]]、
[[京仁鉄道]]の[[鷺梁津]] - [[京城]]間が開業しました。
その後乗客比率は[[朝鮮人]]6割、
[[清国]]人2割、
その他2割となりました
[SRC[>>283 1-2ページ]]。
;; [382] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[馬山]]に[[露国租界]]が設置されました。
;; [390] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[日本]]の[[京城郵便局]]が設置されました。
;;
[197] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[大韓帝国]]は[[通信院]]を設置しました。
[206]
公式には[[太陽暦]]を採用し、[[西洋式時刻]]も使われるようになった一方で、
[[大韓帝国]]は依然[[支那]]由来の旧来の[[日時制度]]を運用していました。
[85]
[TIME[1905年][year:1905]]の[[日本政府]]の書籍によると、
[[大韓帝国]]には天文家と巫祝の育成のため天文学校が設置されていました。
次の三科がありました。 [SRC[>>81]]
- 天文科
-- 毎年10人入学
-- 入試: 天体測量詩の記憶が必要
- 気象科
-- 毎年4人入学
-- 入試: 墓地等の選定の吉方を指定する知識が必要
- 占術科
-- 吉日を選定する
-- 毎年4人入学
[86] [[京城]]には[[天文台]]がありました (>>87)。
[640]
また、[[漏刻官]]養成所が設置されていました。
この学校は
「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」
を測定する[[漏刻官]]を「養成スルノ装置」を有していました。
[SRC[>>33]]
[641]
つまりこの当時[[京城]]には未だ[[漏刻]] ([[水時計]])
が稼働しており、[[漏刻官]]が運用していたのでしょう。
言及されていませんが、[[日時計]]もまだ利用していたのでしょうか。
[[韓國]]の「唯一の標準時」とはいいますが、
従来通り[[時鐘]]や[[太鼓]]で[[報時]]していたのであれば、
通用範囲は[[京城]]市内と周辺程度だったでしょうか。
[208]
[[京城]]の[[地方時]]は、 [TZ[+08:28]] とされることが多いです。
かつて[[日時計]]があったとされる位置は
[TZ[+08:27:55]] に当たります (>>414)。
王城の[[景福宮]]は [TZ[+08:27:54]]、
城壁西側の[[京仁鉄道]][[京城駅]]は [TZ[+08:27:52]]、
[[京城郵便局]]は [TZ[+08:27:56]]
です。
[639]
[TIME[1904年][year:1904]]頃の[[米国海軍天文台]]の[[時差の表]]は、
[RUBYB[地方][country districts]]では[RUBYB[まだ][to some extent]][RUBYB[[[日時計]]][sundial]]が使われている
[SRC[>>724, >>725, >>726]]
としていました。
[260] [[Time Changes]] は、
[TIME[1904年][year:1904]]から[TIME[1932年][year:1932]]の変遷を示した後、
[RUBYB[地方の民衆は[[日時計]]を使っていた]@en[People in country districts used sun dials.]]との注釈を加えていました [SRC[>>1256]]。
同じ情報源によるものと思われます。
;; [384] [TIME[1902年][year:1902]]、
[[馬山]]に[[日本租界]]が設置されました。
;; [288]
[TIME[1902年][year:1902]]頃、
[[支那]]海岸部各所で[[支那海岸時]] [TZ[+08:00]]
が使われるようになりました。
[SEE[ [[中国大陸の標準時]] ]]
;; [631] [TIME[1902年10月1日][1902-10-01]]、
[[京釜鉄道]]北部 ([[京城]]側)
が一部開業しました。この後順次南進していきました。
また、南部 ([[釜山]]側)
も一部開業し、順次北進していきました。
[SEE[ [[京釜鉄道]] ]]
;; [632]
[TIME[1903年][year:1903]]、
[[京釜鉄道]]が[[京仁鉄道]]を買収しました。
[11]
[TIME[明治三十七年十一月十八日][1904-11-18]]の[[京釜鐵道]]の[[仁川]]の事業所からの報告によると、
当時[[鉄道時]]として、
[[內地中央標準時]]より 32分遅い
「仁川ニ於ケル韓國標準時」
を使っていました。 [SRC[>>134]]
つまり「仁川ニ於ケル韓國標準時」とは [TZ[+08:28]]
でした。
[SEE[ [[アジア大陸の鉄道標準時]] ]]
[644]
「仁川における」の意味は不明ですが、
[[仁川]]の[[地方時]]は
[TZ[+08:26:28]]
で、[[京城]]の[[地方時]]
[TZ[+08:28]] と約2分の[[時差]]がありました。
[[京仁鉄道]]は[[首都]]である[[京城]]の[[地方時]]を[[仁川]]でも用いていたことがわかります。
[[仁川]]市内でもこの[[時刻]]が使われていたのでしょうか。
[[京釜鉄道]]一部開業、[[京仁鉄道]]買収以前の状況は不明ですが、
[[京仁鉄道]]開通当初から[[首都]]の[[時刻]]が採用されていたと考えるのが自然です。
[634] [TIME[1904年][year:1904]]頃の[[米国海軍天文台]]の[[時差の表]]は、
次のように説明していました。
- [635] [[東京時]] [TZ[+09:00]] [SRC[>>724, >>725]],
[[日本中央標準時]] [SRC[>>726]]
が毎日[RUBYB[[[ソウル]]][Seoul]]の
[[Imperial Japanese Post and Telegraph Office]]
へ電信で送信されている。
- [636] これを30分引いて [TZ[+08:30:30]] に修正されている [SRC[>>724, >>725, >>726]]。
-- [637] 30分引いたのが[[経度]]差に近い。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
-- [638] 修正したものが鉄道、路面電車、郵便電信局、
[RUBYB[上流階級][better classes]]のほとんどで使われている。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
[119]
これは現地駐在の[[米国人]]の報告によるのでしょうが、
[[日本]]の[[郵便電信局]]で [TZ[+08:30]]
が作成され、
[[鉄道]]などで使われているとあります。
しかし[[京仁鉄道]]は[[鉄道時]]を [TZ[+08:28]]
だとしていました (>>11)。
だとすれば[[郵便電信局]]も [TZ[+08:28]] を使っていたとするのが自然です。
ただし当時は2分程度は誤差のうちだったとも思われます。
[TIME[1908年][year:1908]]の[[大韓国標準時]] [TZ[+08:30]]
制定時も、
[[大韓帝国]]と[[韓国統監府]]のどちらも従来の[[京城時刻]]の標準化と認識しており、
2分の変更とは捉えていなかったようです (>>5, >>45)。
[294]
[[日本]]本国と直結された[[報時]]システムがいつ稼働したのかは不明ですが、
[TIME[1894年][year:1894]]の[[京城]]・[[釜山]]間の日本の軍用電線の架設後、
あるいはその後の[[日清戦争]]終戦の頃からでしょうか。
[WEAK[(それ以前の[[京城]]・[[釜山]]間電信線は[[朝鮮政府]]所有で、日常的に不通になる代物でした。)]]
この頃[[日本]]本国でも各地の[[郵便局]]に[[正午]]が[[電信]]で[[報時]]されていました。
[SEE[ [[幕末維新期の日時]] ]]
[295]
[[京城]]以外の[[日本]]の[[郵便電信局]]も、
同様の方法で[[報時]]していたのでしょうか。
その時刻は[[地方時]]か、[[京城慣用時]]のいずれだったのでしょうか。
[296]
[[日本]]の[[郵便電信局]]の[[報時]]開始以前や、
[[日本人]]以外がどのように[[時刻]]を得ていたのかは不明です。
[[米国]]の資料に何の言及もないことから、
[[朝鮮政府]]や欧米諸国は近代的報時機構を有していなかった可能性が高そうです。
[[朝鮮半島]]の外国人は[[日本人]]と[[清国人]]がほとんどだったようですから、
欧米諸国が専用の設備を有していなくても不思議ではなく、
また[[清国]]本国もこの時代には西洋式ではない旧来の[[日時制度]]を運用していました。
[[西洋式時刻]]を使っていた[[欧米人]]や[[日本人]]は、
[[李朝]]の[[鐘]]や[[太鼓]]の伝統的報時機構により、
あるいは[[日時計]]によって[[時刻調整][時刻同期]]していたのでしょうか。
[320]
[[釜山]]側で開業し北へと延伸していった[[京釜鉄道]]南部線が使っていた[[時刻]]も不明です。
[[釜山]]の[[地方時]]は [TZ[+08:36]] で、
[[京城]]の [TZ[+08:28]] より8分ほど進んでいます。
[[釜山]]でも[[電信]]で[[京城時]]を再現することは可能だったでしょうし、
いずれ南北連結全線開業することを睨んでこの時刻を使っていた可能性はありますが、
[[釜山]]市内で使われていたであろう[[地方時]]との
8分の[[時差]]は、さすがにこの時代でも誤差の範囲を超えていたはずです。
後の鐡道時改正時の新聞記事には、
南北線のダイヤ改正の説明に特記なく「約三十分」の鐡道時改正の旨が記載されています
[SRC[>>305]] から、
南線も[[中央標準時]]とは異なる時刻だった可能性が高そうです。
しかしどちらの[[地方時]]も「約三十分」の「韓時間」には違いありませんから、
南北線の時刻が同じだったかどうかは断定できません。
両線で時刻が違っていたため、全線開通で統一のための変更が必要になったと考える方が筋は通っています。
[HISTORY[
[89] 現代の文献で「[[日韓併合]]前」に [TZ[+08:28]]
が[[大韓帝国]]の[[標準時]]として[[朝鮮半島]]全域で使われており、
[[日本人]]は[[京城標準時]]と呼んでいた [SRC[>>88]] とするものや、
[[清国]]から[[大韓帝国]]が独立した際に[LON[東経126.97度][126.97]]で[[中央標準時]]より
32.12分遅い[[時刻]]が[[韓国標準時]]となった [SRC[>>36, >>221]]
([LON[126.97]] は [TZ[+08:27:52.8]]。32.12分は32分7秒。)
とするものもありますが、出典は不明です。
[34]
[[Wikipedia]] は[[漏刻官]]に関する「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」
という記述 (>>640) を根拠に
「[[首都]]・[[漢城]](現在の[[ソウル]])での[[平均太陽時]]が[[標準時]]とされており」[SRC[>>32]]
と説明しています。