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674
[76]
[DFN[延徳]]は、[[日本の元号]]の2つです。29年の間を置いて[[私年号]]と[[公年号]]の2種類があります。
[REFS[
- [75]
延徳の元号年と干支年
<https://data.suikawiki.org/e/419/kanshi>
]REFS]
* 延徳 (日本私年号)
[1] [DFN[延徳]]は、[[日本の私年号]]の1つです。
[8]
[CITE[日本私年号の研究]]に詳しい。
[4]
[TIME[寛正2年][year:1461]]12月、
[[日本]]の[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]の供僧[[香蔵院珍祐]]は、
「当年寛正二年十一月より改元なり、
延徳元年十二月日」
と記しました。
[SRC[>>3]]
- [62]
[CITE[[[戸田市史]] 資料編一]] 所収 [CITE[香蔵院珍祐記録]]
「当年寛正二年十一月ヨリ改元也」
(寛正元年十二月)
[SRC[>>37]]
-[94] >>444 [CITE[[[神道体系]] 神社編]] 所収[[鶴岡八幡宮]][CITE[香蔵院珍祐記録]]
--
[FIG(quote)[ [95] 寛正2(1461)年11月条
>
[VRL[
一 当年寛正二年十一月ヨリ改元也、延徳元年十二月日此記を彼籠ニ納ル也、
]VRL]
]FIG]
--
[FIG(quote)[ [96] 寛正3年7月条
>
[VRL[
一 年号ノ事、旧冬ヨリ改元アリテ延徳ト申ス説アル、
当年延徳二年ト、皆コレヲ記ス、シカリトイエドモ豆州
様(足利政知=堀越公方)□京方ハ寛正三年タル由申ス
間、又寛正[ASIS[□][冂]]
]VRL]
]FIG]
[97]
[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]には、
寛正2年11月に[[改元]]の情報が[[伝わり][改元伝達]]ました。
[SRC[>>444 (>>95)]]
[98]
[[鶴岡八幡宮]]はその後半年間[[延徳]]を使っていました。
ところが寛正3年7月に[[改元]]が誤りだったと判明し、
元の[[寛政]]に復しました。
[SRC[>>444 (>>96)]]
[5]
[TIME[翌年][year:1461]]7月、
「延徳二年」
としていたところ、
[[堀越公方]]の[[足利政知]]から[[延徳]]と[[改元]]されてはおらず、
[[京都]]では引き続き[[寛正]]が使われていると知らされ、
[[寛正]]に復しました。
[SRC[>>3, >>7]]
[6]
つまり[[延徳]]の[[私年号]]は[[改元デマ]]で広まったものだったようです。
[99]
[[千々和到]]が「寛正3年を延徳と改元したとする風説に半年間従ったが、
豆州様から京都では延徳と改元していないことを知り寛正3年に復した」
と解釈して[[私年号]]をそうと知らずに主張した
[SRC[>>492 ([CITE[金石文から見た中世の東国]])]]
のに対し、[[平成時代]]初期には異説もありました。
[100]
「京方は寛正3年を使うべきだとの堀越公方からの命令で、また寛正3年に復した」
と解釈するべきで、[[私年号]]と認識しながら使っていたとの説です。
[SRC[>>101, >>492 (>>101)]]
それは当時[[京]]と[[東国]]で人の往来は頻繁だったことと、
[CITE[香蔵院珍祐記録]]
寛正3年6月条に
「寛正[RUBY[□][(三ヵ)]]延徳二年比」
とあることを根拠にしています。
[SRC[>>101]]
[102]
そしてこれらは[[私年号]]呪術説の根拠 (呪術説を否定する
「私年号は公年号と誤認された」説を成り立たせない根拠)
に使われています。
しかしその後の研究者にこうした解釈はあまり指示されていないようです。
[SEE[ [[中世私年号]] ]]
[103]
「寛正三延徳二年」と併記するのは理由があるはずだ (それは[[私年号]]の呪術性だ)
[SRC[>>101]] と論じられていますが、単純に[[改元]]の年だったから新旧を併記した、
で十分説明がつきます。この事例が特殊だと主張するなら、
例えば前後の他の時代や他の寺社では通常どう表記されるものか、
など材料を揃える必要がありそうです。
特殊例が特殊であると示すには、まず通常例を知らなければなりません。
[104]
また、寛正への復帰については、[[千々和到]]の解釈の方が原文に忠実に感じられます。
[105]
情報伝達についての指摘は重要です。
戦乱の時代とはいえ[[鎌倉]]という要所、
[[鶴岡八幡宮]]という重要神社に人の往来が途切れるとは考えられません。
「延徳」への改元もそこから入ってきた情報の1つだったのでしょうが、
その後半年間もそれと矛盾した情報が入ってくることがなかったのか、
入ってきたらどう処理していたのかは、よくよく考える必要があるでしょう。
[106]
これは豆州様にも言えることです。
[[鶴岡八幡宮]]が「延徳」紀年文書を[[堀越公方]]に発給するか何かの機会があって問題が発覚したのでしょうが、
それまで半年間両者のやり取りが何もなかったとは考えにくいことです。
[[堀越公方]]はその間どうしていたのでしょうか。
[[京都]]に使者を派遣して確認でもしていたのでしょうか。
[107]
[[平成時代]]の歴史研究者[[勝俣鎮夫]]は、
[[命禄]]の事例 ([SEE[ [[命禄]] ]])
から類推して、
[[延徳]]も通常得ていた確かな根拠に基づき[[改元]]情報を得たに違いなく、
それは[[三島神社]]からの[[改元]]情報だったと考えました。
[SRC[>>258]]
[108]
[[勝俣鎮夫]]は更に、[[堀越公方]]は[[延徳]]への[[改元]]の事実を否定したのではなく、
「京方ハ」とある通り[[京都]]の[[元号]]を用いることを要求したものだと主張しました。
[SRC[>>258]]
;; [109]
[[勝俣鎮夫]]は[[堀越公方]]が正式な[[京都]]の[[元号]]を
「[V[支配圏のものに使用を強制するのは当然であった]]」
としています。
[SRC[>>258]]
ということは[[堀越公方]]の目と鼻の先にある[[三島神社]]はよほど強力な勢力で[[堀越公方]]の支配に対抗していたのでしょうか。
[[堀越公方]]はなぜ敢えてそんな土地を拠点に選んだのでしょうか。
[REFS[
-
[101]
[CITE@ja-JP[[[栃木史学]] = The Tochigi journal of Japanese history (2)]], [[国学院大学栃木短期大学史学会]], [TIME[1988-03]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-03T09:02:19.898Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4424952/1/88> (要登録)
-
[259]
[CITE@ja-JP[[[信濃]] '''['''第3次''']''' 49(12)(575)]], [[信濃史学会]], [TIME[1997-12]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:25:20.525Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6070057/1/19> (要登録)
-- [492]
[CITE[[[[V[戦国期の私年号について[BR[]][WEAK(smaller)[―「福徳」「弥勒」「命禄」を中心として―]]]]]]]],
[[[V[渡部恵美子]]]],
pp.[L[889]]-[L[906]]
- [257]
[CITE[戦国時代論]], [[勝俣鎮夫]]
-- [258] [CSECTION[[[戦国時代東国の地域年号について]]]]
]REFS]
- [63]
[CITE[埼玉県板石塔婆調査報告書]]所収埼玉県上尾市領家 板碑
「延徳元年辛巳十一月五日」
[SRC[>>37]]
-- [64] >>37 時点で最古
- [65]
[CITE[[[千葉県史料]] 金石文篇二]] 六七二号 千葉県多古町 浄明寺 板碑
「延徳二年壬午正月六日」
[SRC[>>37]]
[13]
[CITE@ja-JP[香取文書纂 巻之1,2]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-22T00:15:36.918Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815200/1/10> (要登録)
[CSECTION[[V[凡例]]]], 三中
[74]
[CITE@ja-JP[香取文書纂 巻之17,18]], [[伊藤泰歳, 村岡良弼 校]], [TIME[明39-41][1908]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-20T12:50:40.122Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/815214/1/33> (要登録)
[69]
[[千々和到]]は、[[公年号]]の[[享徳]]の1字置き換えと考えました。
[SRC[>>68]]
[SEE[ [[中世私年号]] ]]
[REFS[
- [68] [CITE[[[中世東国の「私年号」]]]]
-
[444]
[CITE[[[改元と私年号]]]]
]REFS]
[12]
[CITE[[[板碑とその時代]]]]
[REFS[
- [3] [CITE[[[元号―年号から読み解く日本史―]]]] p.144
-
[7] [CITE[[[鶴岡八幡宮]]年表 - Google ブックス]], [TIME[2022-02-11T09:40:15.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=2NmdrPZwD-MC&pg=PA1678&lpg=PA1678>
]REFS]
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,延徳 ,- ,寛正元年(1460年) ,不明 ,『旧新福寺文書』(『香取文書』)、『本土寺過去帳』など
[14] [CITE@JA[ナ~ノ]], [TIME[2022-07-12T07:03:36.000Z]], [TIME[2023-01-27T02:23:32.579Z]] <http://saitama-myouji.my.coocan.jp/3-5na.html>
- [72] [CITE[[[中世東国と年号]]]]
[73] >>72 p.[L[29]]
えんとく
1461年。
[CITE[香蔵院珍祐記録]]
[22] [CITE@ja-JP[日光市史 上巻]], [[日光市史編さん委員会]], [TIME[1979]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-20T14:52:20.425Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641847/1/513> (要登録)
[24] [CITE@ja-JP[千葉県史料 金石文篇 3 補遺]], [[千葉県企画部県民課]], [TIME[1980.3][1980]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-22T09:20:53.296Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641996/1/79> (要登録)
[25]
[CITE@ja-JP[神奈川県史 通史編 1 (原始・古代・中世)]], [[神奈川県県民部県史編集室]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-22T09:24:38.148Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9522771/1/498> (要登録)
[26]
[CITE@ja-JP[戸田市史 資料編 1 (原始・古代・中世)]], [[戸田市]], [TIME[1981.5][1981]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-22T09:59:44.645Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9642301/1/214> (要登録)
[27] [CITE@ja-JP[品川区史料 10 (品川御殿山出土の中世石造物)]], [['''['''東京都''']'''品川区教育委員会]], [TIME[1997.3][1997]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-22T10:12:38.729Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644889/1/22> (要登録)
[71]
[[浅沼徳久]]は、[[私年号]]の[[延徳]]を記した石像祭祀物はなく、
[[公年号]]に紛れている可能性があるため[[板碑]]等は注意して観察する必要があると研究者に注意を促しました。
[SRC[>>289]]
当時の研究状況が知られます。
[31]
[[日光山輪王寺記録]]より [SRC[>>207]]:
- [32] 延徳2年 (寛正3年) [CITE[御忌日講師已役帳并提婆品講師]]
- [35] 延徳2年 (寛正3年) [CITE[御念仏所作配]]
- [33] 延徳2年 (寛正3年) [CITE[三摩耶式]]
[34] [[延徳]]および[[福徳]]は当時[[日光山]]全体で使われた ([[公年号]]は使われなかった)
と推測されています。 [SEE[ [[室町時代における日光山の私年号使用]] ]]
[REFS[
- [286] [CITE[[[日本の石仏]] 4号]],
[TIME[1977-12]]
-- [287]
[CSECTION[小特集 中世板碑]]
--- [289]
[CITE[[[[V[中世私年号と板碑[WEAK(smaller)[―私年号伝播者および足利成氏との関係を中心に―]]]]]]]],
[[[V[浅沼徳久]]]],
pp.[L[17]]-[L[23]]
- [204] [CITE[[[古文書研究]] 第12号]],
[TIME[昭和53(1978)年10月][1978-10]]
-- [206] [CSECTION[[V[日本古文書学会第十回学術大会発表要旨]]]]
--- [207] [CITE[[[[V[室町時代における日光山の私年号使用[BR[]][WEAK(smaller)[⸺下野に現存する私年号資料の紹介をかねて⸺]]]]]]]],
[[[V[浅沼徳久]]]],
pp.[V[一四〇]]-[V[一四一]]
]REFS]
-*-*-
[38]
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]], [[是沢恭蔵]]編所収
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
巻二ノ下第四紙表に、
>
[VRL[
[BOX(center)[
延徳二年正月八日開白同十日結願
]BOX]
[SNIP[]]
]VRL]
とあります。 [SRC[>>37]]
[52]
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
の原本は[[日本国]][[福島県]][[会津坂下町]]塔寺の[[心清水八幡神社]]に所蔵されています。
[TIME[貞和6(1350)年][1350]]から[TIME[寛永12(1635)年][1635]]までの記録があり (一部欠失)、
[TIME[応永9(1402)年][1402]]以降ほぼ1紙に1年ずつ記されています。
巻末ほど古くなります。
[SRC[>>37]]
[39]
この日付を記入したのは、
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
の内容の検討により、
その年の早い段階か前年末であるのがほぼ確実と考えられています。
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
には何年分も記録がありますが、
新元号はほとんどが2年から使われています。
[SRC[>>37]]
[40]
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]]
には
- [43] 「長禄四年」 ([TIME[西暦1460年庚辰][1460]])
- [45] 「長禄五年」 ([TIME[西暦1461年辛巳][1461]]) [[延長年号]] +1y
- ([TIME[西暦1462年壬午][1462]])
- [46] 「寛正四年癸未」 ([TIME[西暦1463年][1463]])
- [47] 「寛正五年甲申」 ([TIME[西暦1464年][1464]])
- [SNIP[]]
- [41] 第五紙「長享四年庚戌」 ([TIME[西暦1490年][1490]] 公年号延徳2年) [[延長年号]] +1y
- [42] 第三紙「福徳二年辛亥」 ([TIME[西暦1491年][1491]] 公年号延徳3年)
があります。 [SRC[>>37]]
;; [67] 関連: [[中世私年号]]
[48]
第4紙の延徳2年が壬午年の錯簡とすると重複と欠落がちょうど解消されます。
記載内容もそれと矛盾しないことがわかっています。
[SRC[>>37]]
[49]
このことは[[平成時代]]の歴史研究者[[佐々木茂]]が示しましたが、[[私年号]]の[[延徳]]の存在が認識される前に既に[[太田晶二郎]]が指摘していました。
[SRC[>>37 (>>50)]]
[51]
第4紙をこの位置に置いた者は、おそらく庚戌年が重複していることに気づいてはいたと考えられます。
長享4年 ([[延長年号]]) も福徳2年 ([[公年号]]) も本来あり得ないもので、
[[干支年]]により排列したであろうからです。
しかし[[私年号]]の[[延徳]]を知らなかったために、
おそらく戸惑いながらも、ここに置く他なかったと推測されます。
[SRC[>>37]]
[53]
[[書誌学的]]な考察は
[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]], [[是沢恭蔵]]編の巻頭解説に詳しく、
それによると[TIME[昭和31(1956)年][1956]]の修復で8巻構成となる前は4巻構成で、
更に遡って近世中期の[CITE[新編会津風土記]]の頃には1巻構成でした。
[TIME[明治22(1889)年][1889]]から[TIME[明治24(1891)年][1891]]の修復で原構成がわからないほど散乱した状態から4巻構成に整理されたと推定されています。
[SRC[>>37]]
[54]
明治の修復は、[[帝国大学]]編年史編纂委員の[[星野恒]]が[[永徳]]以前の体裁に従ってそれ以後も整理したと記録されています。
「延徳二年」紙が現行の位置に置かれたのもこのときだったと推測されています。
[SRC[>>37]]
[55]
[[慈恩寺梅本坊文書]]に[[私年号]]の[[延徳]]の[[文書]]が2点あります。
[[慈恩寺梅本坊文書]]は現存しませんが、
[[東京大学史料編纂所]]の影写本と、
[CITE[[[山形県史]] 資料編五]] [CSECTION[梅本坊文書]]
に収録されています。
[SRC[>>37]]
;; [56] [CITE[山形県史]]は[[国会図書館デジタル]]にありますが、なぜか非公開です。
[TIME[2024-01-07T09:43:23.100Z]]
[57]
中世の[[慈恩寺]]は[[鎮護国家]]と領主の除災招福を祈る[[祈願寺]]的性格の寺院でした。
[[梅本坊]]はその有力な子房でした。
[SRC[>>37]]
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [58]
[DATA(.label)[[CITE[[[山形県史]] 資料編五]] [CSECTION[梅本坊文書]] 六号 [CITE[別当所犬房丸僧職坊地補任状案]]]],
[DATA(.text)[延徳元年辛巳十二月廿七日]]
[SRC[>>37]]
- [60]
[DATA(.label)[[CITE[[[山形県史]] 資料編五]] [CSECTION[梅本坊文書]] 七号 [CITE[大江真木遠江守広主・大輔元主連署副状]]]],
[DATA(.text)[延徳二秊[LINES(smaller)[壬][午]]正月廿日]]
[SRC[>>37]]
]ITEMS]
[61]
これらは[[佐々木茂]]まで[[私年号]]史料として紹介した者はなく、
[[私年号]]とこの地方が結びつかないというなんとなしのイメージがあったのではと指摘されています。
[SRC[>>37]]
[[平成時代]]初期まで[[私年号]]は中世関東のものと学界では思われていました。
[66]
[[佐々木茂]]は、当時知られていた最北端の慈恩寺 (>>57)
と最南端の[[鶴岡八幡宮]] (>>4)
でほぼ同時期に[[改元伝達]]があったことに注意を求めています。
[SRC[>>37]]
[SEE[ [[中世私年号]] ]]
[REFS[
- [50] [CITE[会津塔寺八幡宮帳に関する疑問]],
[[太田晶二郎]]
- [36]
[CITE[[[歴史民俗資料学研究]] 第7号]],
[TIME[2002.02][2002-02]]
--[37]
[DFN[[CITE[[V[東北の私年号[BR[]][WEAK(smaller)[⸺「延徳」の事例を中心に⸺]]]]]]]],
[[[V[佐々木茂]]]],
pp.[L[44]]-[L[59]]
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[152] [CITE@ja[出版物 | 神奈川大学院 歴史民俗資料学研究科]]
([TIME[2021-08-02 13:06:46 +09:00]])
<http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/publication/memories.html>
]FIGCAPTION]
>歴史民俗資料学研究 第7号(2002.02)
>[SNIP[]]
> 東北の私年号
> ―「延徳」の事例を中心に― 佐々木 茂
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[153] [CITE@ja[論文題目一覧 | 研究活動 | 神奈川大学院 歴史民俗資料学研究科]]
([TIME[2021-08-02 13:06:44 +09:00]])
<http://rekimin.kanagawa-u.ac.jp/activity/thesis.html>
]FIGCAPTION]
>平成7(1995)年度修士論文
>[SNIP[]]
> 私年号「延聴」の襲用について 佐々木 茂
]FIG]
[15] >>153 修士論文。入手困難?
[16] 「延聴」は他に情報が出てきません。
([[Google検索]]で1件発見される [[PDF]] は [[OCR]] の誤読。)
[17] いかにも字面が似ている「延徳」
についての7年後の論文 >>152 には前の論文について何の言及もなく、
「襲用」要素もないので、無関係でしょうか。
[18]
「延聴」で検索して内容を確認できるものは、
[[国会図書館デジタル]]でも [[Google Books]]
でも、みな「延應」か「延徳」の [[OCR]] 誤読のようで。
[19] [CITE@ja-JP[歴史民俗資料学研究 = History and folk culture studies (2)]], [[神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科]], [TIME[1997-02]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-02-15T11:28:39.542Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4428956/1/102> (要登録)
>[V[私年号「延󠄁徳」の使用について]]
[20] 平成7年度修士論文の題名が >>19 のように掲載されています。
>>153 のウェブ掲載論文リストはOCRの誤読か入力者の変換ミス?
-
[250] [CITE@ja-JP[[[板碑の総合研究]] 1 (総論編)]], [[坂詰秀一]], [TIME[1983.2][1983]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-14T08:15:37.343Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12226011/1/159> (要登録)
--
[251]
[CSECTION[[V[私年号板碑]]]],
[[[V[石村喜英]]]]
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [79]
[DATA(.label)[[[香取要害家文書]] [CITE[七郎左衛門入道譲状]]]]
延徳2年壬午2月22日
[SRC[>>148]]
-
[85]
[DATA(.label)[[[案主家文書]] [CITE[新部村麦畠検注取帳]]]]
延徳2年壬子5月6日
[SRC[>>148]]
-
[87]
[DATA(.label)[[[新福寺文書]] [CITE[多田延家契状]]]]
延徳2年壬子6月7日
[SRC[>>148]]
-
[88]
[DATA(.label)[[[新福寺文書]] [CITE[多田延家畠地安堵状]]]]
延徳2年壬子6月8日
[SRC[>>148]]
-
[86]
[DATA(.label)[[[案主家文書]] [CITE[佐原村司早田検注取帳断簡]]]]
延徳2年壬子9月13日
[SRC[>>148]]
- [80]
[DATA(.label)[[[香取要害家文書]] [CITE[大禰宜胤房田地売券]]]]
延徳2年壬午12月7日
[SRC[>>148]]
]ITEMS]
[89]
[[香取文書]]中、壬子年の文書はみな延徳2年表記で、
[[公年号]]の寛正3年表記のものはありません。しかし翌年にはみな寛正4年表記になります。
[SRC[>>148]]
[81]
[[色川三中]]による[CITE[香取検杖文書]] ([[静嘉堂文庫]]所蔵) 所収の
>>79 >>80 の影写には、
- [82] >>70 に「按、延徳元己酉ナリ、壬子ナシ、イカヽアヤマルカ可考、四十一丁可考合」
- [83] >>80 (= 四十一丁) に
「[V[按延[ASIS[徳][⿰彳⿱匕匕]]二ハ庚戌ナリ疑大永[BR[]]二壬子ナラン]]」 ([[楷書]])
と注釈があります。 (>>83 は >>148 に写真あり)
[SRC[>>148]]
[84]
つまり[TIME[大永2(1522)年壬午][1522]]と推測しました。理由は不明ですが、
[[元号年]]と[[干支年]]が一致するためかもしれません。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [90]
[DATA(.label)[[[案主家文書]] [CITE[田うりけん状]]]]
「[DATA(.text)[[V[延徳五年[LINES(smaller)[乙][酉]]十月二日]]]]」
[SRC[>>148]]
]ITEMS]
[91]
[[香取文書]]でこの年は寛正6年とするものが多く、
延徳5年とするのはこの1例だけです。
[SRC[>>148]]
[92]
[[平成時代]]の歴史研究者[[山田邦明]]は、[[地域年号]]説を支持しており、
[[香取文書]]に現れる延徳2年の[[私年号]]をその1つとしました。
そして翌年寛正3年には使われなくなり、
寛正6年もほとんどは[[公年号]]が使われていたものの、
1例だけ延徳5年であることを、
「[V[その後もしばらく人々の[BR[]]意識の上に存在しつづけ、このような形で表面化することもあった]]」
と理解しました。
[SRC[>>148]]
[93]
その意図はいまいち測りかねるところもありますが、
いったん消滅して使われなくなったものの記憶には残っていてなにかのきっかけで再登場した
(記録が現存しないだけで細々と使われ続けた、というわけではない)
という考えでしょうか。
[REFS[
- [148]
[CITE[[[香取文書にみる中世の年号意識]]]]
]REFS]
* 延徳 (日本公年号)
[2] [DFN[延徳]]は、[[日本の元号]] ([[公年号]]) の1つです。
[11] [CITE@ja-JP[板碑概説]], [[服部清五郎]], [TIME[1933]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T08:28:34.344Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/384> (要登録)
延悳龍集庚戌霜月8日 延徳2年
[136] [CITE@ja-JP[郷土要録]], [[大分県師範学校郷土室]], [TIME[昭和10][1935]], [TIME[2023-01-06T06:14:39.000Z]], [TIME[2023-01-07T13:47:05.956Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1232609/1/29> (要登録)
大分県の板碑の私年号「延悳」、意識的に使用したかは不明 (具体例なし)
[9] [CITE@ja-JP[仏教考古学講座 第五卷]], [[雄山閣]], [TIME[1936-1937][1937]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-29T08:08:03.381Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1914064/1/82> (要登録)
延悳 延徳のこと
[23] [CITE@ja-JP[久喜市史 資料編 1 (考古・古代・中世)]], [[久喜市史編さん室]], [TIME[1989.3][1989]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-21T10:18:13.777Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644349/1/255> (要登録)
延長年号
[29] [CITE@ja-JP[川口市史 古代・中世資料編]], [[川口市]], [TIME[1978.12][1978]], [TIME[2024-01-04T10:11:04.000Z]], [TIME[2024-01-04T13:25:34.587Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641575/1/318> (要登録)
[[延長年号]]
[70]
[[中禅寺]]納札
「延徳五天[LINES(smaller)[癸][丑]]卯月十二日」
(同一人物によるもの [SEE[ [[福徳]] ]])
[SRC[>>289]]
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [77]
[DATA(.label)[[[香取要害家文書]] [CITE[直宗田地売券]]]]
延徳元年己酉12月25日
[SRC[>>148]]
- [78]
[DATA(.label)[[[香取要害家文書]] [CITE[某屋敷売券草案]]]]
延徳2年庚戌4月24日
[SRC[>>148]]
]ITEMS]
* メモ
[21] [CITE@ja-JP[町田市史 上巻]], [[町田市史編纂委員会]], [TIME[1974]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-20T14:16:35.209Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641034/1/386> (要登録)
改竄事例
[28] [CITE@ja-JP[板碑入門]], [[小沢国平]], [TIME[1967]], [TIME[2024-01-04T08:37:58.000Z]], [TIME[2024-01-04T09:01:51.935Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2980023/1/78> (要登録)
[30] [DFN[延真]] [SRC[>>117]]
- [116] [CITE[埼玉史談]] 13(2), [TIME[昭和41(1966)年7月][1966-07]]
-- [117] [CITE[[[[V[県内における私年号板碑]]]]]],
[[[V[中英夫]]]],
pp.[V[二四]]-[V[二六]]