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* 神門神社
[2]
[[奈良時代]]創建の神社には、
[[飛鳥時代]]に滅亡したはずの[[百済]]の王家が[[奈良時代]]に亡命してきて祀られている、
という[[江戸時代]]の伝承が残されているそうです。
[SRC[>>1]]
[3]
[CITE[続日本紀]]など日本側の史書にも[CITE[三国史記]]など朝鮮側の史書にも記録がありません。
[4]
[[江戸時代]]の記録には[[百済]]と[[新羅]]の混同がみられるようです。
[SRC[>>1]]
[6]
[[平成時代]]の人達も[[百済]]と[[新羅]]の区別がついていないみたいです。
[SRC[>>5]]
;; [7]
そういえば[[平成時代]]の[[鬼室神社]]方面の人達も[[百済]]と[[新羅]]の区別がついていなかったみたいです。
[SEE[ [[鬼室神社]] ]]
不思議な偶然もあるものです。
[1] [CITE@ja[神門神社 - Wikipedia]], [TIME[2022-04-13T00:07:56.000Z]], [TIME[2022-04-20T05:30:44.513Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E9%96%80%E7%A5%9E%E7%A4%BE>
* 南郷村神門神社綾布墨書
[11]
[DFN[[CITE[記国号]]]]
と題した[[墨書]]があって、
>
帝泉帝皇明雲廿六年(為)[BR[]]福智帝皇白雲元年
... などと書かれているそうです。
[SRC[>>10]]
[12]
[[帝泉帝]]は[[百済]]の[[禎嘉王]]、
[[福智帝]]は[[百済]]の[[福智王]]で、
帝位継承に伴う[[代始改元]]を表しているのだそうです。
[SRC[>>10]]
[13]
「百済の分国であった周防にいた百済王の直系の子孫は、百済滅亡とともに自動的に本家本元百済王の位を継ぎ、「定居」と改元し、さらに「倭京」と改元した。それから13代周防にいたが、新羅派の攻勢にたえきれず、日向の国に落ち延びた」
とかいう(誰の?)解釈が示されています。
[SRC[>>10]]
[14] [[周防]]というのは[[大内氏]]の[[偽系図]]の[[琳聖太子]]の関係でしょうか。
[[分国]]というのは[[朝鮮民主主義人民共和国]]の研究者が提唱した[[分国論]]
[WEAK[([[三韓]]各国がそれぞれ[[日本列島]]内に[[植民地]]を有していたという根拠のない妄想。)]]
のことでしょうか。
[15]
[[定居]]と[[倭京]]は中世に流布された[[古代年号]]
[WEAK[([[大宝]]より前に実在したと考えられていた[[元号]])]]
ですが、
この説では[[百済]]の[[元号]]らしいです。
[10] [CITE[南郷村綾布墨書]], [TIME[2005-06-17T12:05:18.000Z]], [TIME[2022-04-20T09:22:42.254Z]] <https://geolog.mydns.jp/www.geocities.jp/cahierdusud/history/np-nango.html>
[649] [[九州年号]]説を信じる人達は、同様の[DFN[百済年号]]として[[明雲]]、[[白雲]]を挙げています
[SRC[>>648]]。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[648] [CITE[百済年号の発見]]
([TIME[2016-12-10 11:18:30 +09:00]])
<http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga20.html>
]FIGCAPTION]
> 読みや解釈は難しく、今後の課題としたいが、いくつかの注目すべき点がある。一つは「明雲廿六年」「白雲元年」という年号である。文脈から改元を意味していることから、年号であることは間違い無い。同村に伝わる百済王伝説からすれば百済年号である可能性が高い。
]FIG]
* 百済の館
[5] [CITE@ja[百済の館 / 宮崎県美郷町ホームページ]],
最終更新日:2021年3月12日,
[TIME[2022-01-29T15:21:12.000Z]], [TIME[2022-04-20T05:37:30.927Z]] <https://www.town.miyazaki-misato.lg.jp/kiji00384/index.html>
>
「百済の館」は、百済最後の王都となった大韓民国の古都「扶餘」の王宮跡に建つ、(元)国立博物館の「客舎」をモデルに、日韓交流のシンボルとして造られました。
>
韓国大使館や総領事館などの協力を得て建てられ、屋根の反り返りや色使いがとても鮮やかな美しい建物です。
>
瓦や敷石は、韓国から取り寄せられ、梁や軒を埋め尽くす赤、青、緑といった極彩色の丹青(タンチョン)は、本場韓国の名工によるもの。
[8]
[[李朝]]風の建築で[[百済]]関係ないやん。
[[ユダヤ教]]のシンボルとして[[コーラン]]展示するようなものでは??
[9]
>>5 写真見る限り建物だけでなく展示内容も[[百済]]関係なさそうなんだが
* メモ