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[1]
[[日本]]では[[紀年法]]として[[元号]]が使われています。
[3]
現在の[DFN[日本の元号]]は[[令和]]です。
* 概要
[SEE[ 元号一般、表記、読み、用法などについては[[元号]] ]]
[SEE[ 改元の一般的事項については[[改元]]、[[改元手続き]] ]]
[25] [[日本の元号]]は[[大化]]に始まり、現在まで200個以上、
1400年近くにわたり使われています。
[26] 現在[[日本の元号]]は[[日本政府]]の[[内閣府]]の所管となっています [SRC[>>8]]。
[SEE[ [[日本の元号法制]] ]]
[REFS[
- [8] [CITE@ja[元号について - [[内閣府]]]] ([TIME[2019-05-15 16:56:26 +09:00]]) <https://www.cao.go.jp/others/soumu/gengou/index.html>
]REFS]
-*-*-
[28] 古代から現代まで[[天皇]]を中心とする政府が存続している[[日本]]では、
王朝交代に伴う[[元号]]の混乱や独自[[元号]]の[[建元]]はほとんど見られません。
[29] ただし、[[南北朝時代]]には[[北朝]]の[[元号]]の他に[[南朝]]の[[元号]]が並立しました。
また[[中世]]や[[幕末]]の戦乱の時代には地方政権の独自の[[元号]]らしきものがあったことが知られています。
その他中央政府の[[改元]]を無視したとみられる[[延長年号]]の例がいくつか知られています。
[30] そのようないくつかの例外を除けば、
[DFN[日本の私年号]] (中央政府の[[正式な元号][公年号]]ではない[[元号][私年号]])
は反政府的な意味が薄く、
制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。
- [SEE[ 分類や他国との比較は[[異年号]] ]]
- [SEE[ 古代のものは[[日本古代の日時]] ]]
- [SEE[ 中世 [WEAK[(平安時代後期から安土桃山時代)]] のものは[[日本の中世私年号]] ]]
- [[江戸時代]]のものは >>173
- [SEE[ 幕末のものは[[幕末維新期の私年号]] ]]
- [SEE[ 近現代のものは[[近現代日本の私年号]] ]]
[REFS[
- [58] [CITE[[[古事類苑]]>歳時部四>年號下>逸年號]] ([TIME[2011-10-22 21:38:04 +09:00]]) <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000340.html>
- [352] [CITE[[[元号―年号から読み解く日本史―]]]]
]REFS]
* 古代
[4] [[日本]]の古代には[[干支年]]などが使われていましたが、
やがて[[元号]]制度が導入されました。
最古の[[元号]]は[[大化]]でした。
現在まで途切れず続く流れの最初は[[大宝]]でした。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[7] 現在のいわゆる「[[和暦]]」では[[大化]]以降の[[元号]]を用いるのはもちろん、
[[元号]]の建てられなかった期間は[[天皇即位紀年]]を[[元号]]風に扱う慣習となっています。
[SEE[ [[天皇即位紀年]] ]]
[31] [[中世]]には、[[古代]]の出来事を記述するため[[元号]]を[[大宝]]以前に遡って設定することもありました。
[SEE[ [[古代年号]] ]]
[59]
[[大宝律令]]制定後[[奈良時代]]にかけて[[元号]]制度が定着しおおむね[[代替わり]]ごとに[[祥瑞改元]]がありました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
-*-*-
[FIG(short list)[ [1027] [[日本の元号]] ([[奈良時代]])
- [[和銅]]
- [[霊亀]]
- [[養老]]
- [[神亀]]
- [[天平]]
- [[天平感宝]]
- [[天平勝宝]]
- [[天平宝字]]
- [[天平神護]]
- [[神護景雲]]
- [[宝亀]]
- [[天応]]
- [[延暦]]
]FIG]
[1029]
[[元号]]の使われ方に特に注意を要するもの:
[[養老]]、
[[白亀]]、
[[正法]],
4文字元号
* 平安時代
[266]
[[私年号]]
- [[大同]]年間 [[大道]] ([[追建]])
- [[大同]]年間か [[大筒]] ([[偽文書]])
- [TIME[天慶3(940)年][940]] [[太政]] ([[説話]]内[[改元]]指示)
- [[堀河天皇]]時代 [[長嘉]] ([[追建]])
- [[平安時代]]から[[鎌倉時代]] [[歓喜]]
[183] [CITE@ja[菅原道真と二つの改元]], [TIME[2021-02-23T03:13:06.000Z]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakugogaku/227/0/227_52/_article/-char/ja>
[62] [CITE@ja[ノート:東武天皇 - Uyopedia]], [TIME[2014-01-29T08:22:37.000Z]], [TIME[2023-04-12T09:24:49.214Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
>[SNIP[]]一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。[SNIP[]]
** 源平合戦期
[150] [[平安時代]]末期には、[[関東]]の[[源頼朝]]勢力や[[西国]]の[[平氏]]勢力が中央の[[改元]]に従わない時期がありました。
[145] 対応表等では、[[源平合戦]]期の[[元号]]について、併記するか、
[[平氏]]側の[[改元]]も[[源氏]]側の[[元号]]も採用しているようです。
[CITE[日本年号史大事典]]は併記していますが、
[[国立天文台]]の[CITE[日本の暦日データベース]]は一方 (新しい方) のみ記載しています。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[FIG(table)[
:西暦: [[西暦]]
:時期: 時期
:平氏: [[平氏]]
:京都: [[京都]]
:源氏: 関東
:備考: 備考
:西暦: 1181年
:平氏: 治承5年
:京都: 治承5年
:源氏: 治承5年
:西暦: 1181年
:時期: 治承5年7月14日
:平氏: 養和元年
:京都: 養和元年
:源氏: 治承5年
:備考: [[養和]]に[[改元]]
:西暦: 1182年
:平氏: 養和2年
:京都: 養和2年
:源氏: 治承6年
:西暦: 1182年
:時期: 養和2年5月27日
:平氏: 寿永元年
:京都: 寿永元年
:源氏: 治承6年
:備考: [[寿永]]に[[改元]]、
寿永2年7月[[平家]][[都落ち]]・[[源義仲]]入京
:西暦: 1183年
:平氏: 寿永2年
:京都: 寿永2年
:源氏: 治承7年
:西暦: 1183年
:時期: 寿永2年10月14日
:平氏: 寿永2年
:京都: 寿永2年
:源氏: 寿永2年
:備考: [[寿永二年十月宣旨]]
:西暦: 1184年
:平氏: 寿永3年
:京都: 寿永3年
:源氏: 寿永3年
:西暦: 1184年
:時期: 寿永3年4月16日
:平氏: 寿永3年
:京都: 元暦元年
:源氏: 元暦元年
:備考: [[元暦]]に[[改元]]
:西暦: 1185年
:平氏: 寿永4年
:京都: 元暦2年
:源氏: 元暦2年
:西暦: 1185年
:時期: 元暦2年3月24日
:平氏: 寿永4年
:京都: 元暦2年
:源氏: 元暦2年
:備考: [[壇ノ浦の戦い]]で[[平家]]敗退
:西暦: 1185年
:平氏: 元暦2年
:京都: 元暦2年
:源氏: 元暦2年
:西暦: 1185年
:時期: 元暦2年8月14日
:平氏: 文治元年
:京都: 文治元年
:源氏: 文治元年
:備考: [[文治]]に[[改元]]
]FIG]
[121] [[Wikipedia]] は治承5年7月14日
([[ユリウス暦]]1181年8月25日) に[[治承]]から[[養和]]に[[改元]]したとしています。
[122] 一方で、[[源氏]]は[[元暦]]の[[改元]] (寿永3年4月16日/[[ユリウス暦]]1184年5月27日) まで[[平氏]]政権の[[元号]]
([[養和]]、[[寿永]]) を使わなかったとしています。
[148] 寿永2年10月14日の[[宣旨]]を期に[[源氏]]も[[寿永]]を使うようになったともあります
[SRC[>>146]]。
[123] [[平氏]]も[[元暦]]の[[改元]]を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで[[寿永]]を使ったとしています。
[[寿永]]の項には[[文治]]に[[改元]]したのも無視したとありますが [SRC[>>146]]、
[[改元]]は[[壇ノ浦の戦い]]より後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。
[53]
[[源頼朝]]が[[寿永]]を使うのは2年以降でした。
[SRC[>>13 (平泉澄 1917)]]
[54]
動乱のため関東に改元の詔書が届かなかったため
[SRC[>>13 普及版 p.349 (>>55)]]、
あるいは国衙を通じた地方への情報伝達が機能不全を起こしたため
[SRC[>>13 普及版 p.349]] とする説もあります。
[205] なお、地方勢力が旧[[元号]]を使い続ける例は他にもありますが、
南北朝期と本期間が特別に両[[元号]]を列挙される (ことがある) のは、
[[天皇]]が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。
[375] この時期の前後には、[[私年号]]として[[保寿]]、[[和勝]]、[[迎雲]]といったものが使われていました
[SRC[>>373]]。
[REFS[
- [55] [CITE@ja[[[元号と武家]]]]
-- [56]
北爪真[ASIS[知]]夫 [SRC[>>13 普及版 p.349]] とするのは誤り。
- [146] [CITE@ja[寿永 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-11 20:42:41 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8>
- [147] [CITE@ja[寿永二年十月宣旨 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-11 20:43:26 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[373] [CITE@ja[[[迎雲]](げいうん)とは - コトバンク]]
([[,世界大百科事典内言及]] 著, [TIME[2016-01-23 22:33:14 +09:00]] 版)
<https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471>
]FIGCAPTION]
> まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。
]FIG]
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[149] [CITE[1987_2/解法のヒント]]
([TIME[2009-03-09 17:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu872.html>
]FIGCAPTION]
> 設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。
> 問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。
]FIG]
[241] [CITE@ja[志水426714〜🌿🇺🇦🕊さんはTwitterを使っています: 「#源希義由縁の地を辿る #源希義 没年考④-4 希義死去が「寿永元(1182)年」であるというのは、『#吾妻鏡』元暦2(1185)年3月27日 #琳猷上人 #源頼朝 に対面時の記事にある(一部加工) が、鎌倉方では「治承」の年号を7(1183)年まで使用([[北爪真佐夫]] 氏 ) …となれば、本来「治承六」と記すべきところ https://t.co/1vmS4w1dBq」 / [[Twitter]]]], [TIME[2022-04-21T04:55:49.000Z]], [TIME[2022-04-21T05:49:07.082Z]] <https://twitter.com/yoshitaka1197/status/1232983898117656576>
* 鎌倉時代
@@
* 南北朝期
[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの[[元号]]が用いられました。
両勢力の複雑な争いにより、[[元号]]の廃止や復活もあって複雑になっています。
[SEE[ [[日本南北朝時代の日時]] ]]
* 室町時代
[20]
[[明徳]]
* 関東の延長年号
[300]
[[改元]]に従わずに従前の[[公年号]]の[[利用を継続][延長年号]]したものを[[不改年号]]といいます。
[[不改年号]]という術語は[[昭和時代]]後期に使われ始めました。
典型例として
- [303] [[源頼朝]]が[[治承]]を使い続けた例
- [304] [[足利持氏]]が[[正長]]を使い続けた例
- [305] [[足利成氏]]が[[享徳]]を使い続けた例
が挙げられます。 [SRC[>>288]]
[306]
これらやその他の[[不改年号]]は、[[公年号]]とそれを奉じる勢力への反感、
反抗を意味するものと理解されていました。 [SRC[>>288]]
[350]
しかし[[治承]]は[[源頼朝]]が積極的に使ったというよりも、
[[平氏政権]]下で[[朝敵]]となり[[改元伝達]]がなされなかったためと近年ではいわれています。
[351]
[[享徳]]は確かに[[京都]]の[[足利幕府]]との対立によって使われたものの、
普段は年表記をできるだけ使わず、やむを得ない場合だけ[[延長年号]]を使ったことがわかっています。
[353]
その他の事例もそれぞれ個別の事情があり、反中央政府 = [[延長年号]]という単純な図式で語れたのはもはや過去のこととなっています。
[307] 詳細は各項参照。
** 足利成氏と享徳
[308]
[[享徳]]の[[延長年号]]は、[[日本]]における[[延長年号]]の代表的事例です。
[[足利成氏]]の[[室町幕府]]からの独立的志向の根拠の1つとされています
[SRC[>>288]]。
[354]
[[昭和時代]]頃までは、
中央政府と対立した[[足利成氏]]やその勢力圏で[[不改年号]]を使っていたのであり、
[[不改年号]]こそ対立を実証するものだと素朴に理解されていました。
[355]
[[平成時代]]になるとより精密な理解が進み、そう単純な話でもないことがわかってきました。
[309]
[[足利成氏]]発給文書は、[[足利将軍]]発給文書や[[鎌倉府]]の[[足利持氏]]発給文書と比較して特殊な傾向がみられます。
それは、
- [310] 無年号文書が多く有年号文書が少ないこと
- [311] 有年号文書のうち[[奉書]]の割合が極めて小さく、[[御判御教書]]が多いこと
- [312] 有年号文書のほとんどが享徳4年2月より前の発給であること
- [313] [[足利成氏]]発給でほぼ間違いない有年号文書45通 (うち[[町野成康]]による奉書2通)
-- [314] 宝徳2(1450)年5月から享徳4(1455)年2月の有年号17通 (すべて[[御判御教書]])、
無年号5通
--- [315] 享徳4年正月・2月 9通 うち無年号2通、
有年号: 軍勢催促状4、願文1、安堵状1、成氏加判申状1
-- [316] 享徳4年3月 少なくても12通、うち有年号2通
-- [317] 享徳4年4月 11通、うち有年号0通
-- [318] 享徳4年閏4月 8通、うち有年号1通
-- [320] その後 有年号28通、無年号120通
-- [319] ただし年未詳133通
と享徳2年の2月と3月を境に文書の形式が[[御判御教書]]主体から[[書状]]主体に変化しています。 [SRC[>>288]]
[321]
[[足利成氏]]発給文書を分析すると、
[[足利成氏]]が[[鎌倉]]を出て[[古河]]に移るのとちょうど時期を同じくして形式が変化していることがわかります。
そして[[古河公方]]期に明らかに意図的に有年号文書を減らし、
かわりに[[成氏加判申状]]や[[不改年号]]のような特異な形式を出現させています。
[SRC[>>288]]
[322]
[[古河]]時代の[[足利成氏]]は文書に[[元号]]を書くのをできるだけ避けており、
それでも[[不改年号]]を書くのは、
[[足利成氏]]自身が書いていないものや、表に出てこない性質のものが目立ちます。
積極的に[[不改年号]]を使ったのではなく、
やむを得ない場合にのみ書いたといえます。
(なお、同時期の[[公年号]]を使った例は皆無です。)
[SRC[>>288]]
[340]
このように[[足利成氏]]の文書形式と元号表記の変化は享徳3年12月からの[[享徳の乱]]が契機となっているのですが、
享徳3年7月25日の[[改元]]を知ったのがどの時点だったのかは気になります。
>>326
の問題とも関係してきます。
;; [341]
[[室町時代]]の[[関東]]でも[[吉書始]]や[[御判始]]のような儀式を経てから新元号を使っていたのですかね?
[331]
[[足利成氏]]の勢力圏でも必ずしも[[延長年号]]が使われたわけではありません。
[332]
[[岩松持国]]は、
時に[[足利成氏]]方で戦い、
時には[[足利成氏]]と戦うこともありましたが、
[[足利成氏]]と密接な関係を持っていました。
その[[正木文書]]によれば[[享徳]]の[[不改年号]]を積極的に使った形跡は極めて薄いとされます
(>>324)。
[SRC[>>288]]
[333]
[[金石文]]では、
- [334] 平成9年時点で知られていた[[不改年号]]は数個の[[板碑]]だけです。
[SEE[ [[享徳]] ]]
- [335]
[[埼玉県]]域の[[板碑]]を可能な限り集成した[CITE[埼玉県板石塔婆調査報告書]]掲載2万2千基あまりのうち、
明らかに[[不改年号]]とわかるのは享徳6年10月10日銘板碑 (板19-12-1) 1基だけです。
-- [336] [[足利成氏]]の明白な勢力圏とはいえない地域ではありますが。
- [337]
[CITE[[[古河市史]] 資料 中世編]]によれば、
[[古河公方]]の本拠地を含む[[古河市]]域とその隣接地に現存する板碑125基、
うち紀年銘のあるもの83基、
[[不改年号]]は0基です。
逆に[[不改年号]]と同時期の[[公年号]]のものが5基
(長禄2年4月6日、
寛正4年□、
応仁2年正月13日、
応仁2年7月17日、
文明2年2月15日)
あります。
- [338]
[[日本国]][[栃木県]][[日光市]][[板挽町]]浄光寺鐘銘には[[足利成氏]]を
「当将軍源朝臣成氏」
と書いていますが、
「干時長禄三年[LINES(smaller)[己][卯]]十二月九日[LINES(smaller)[敬][白]]」
とあります。
-- [339]
「当将軍」とまで書きながら[[不改年号]]は使っていません。
と[[不改年号]]の用例は稀にしかありません。
[SRC[>>288]]
[REFS[
- [180] [CITE@ja-JP[[[歴史民俗資料学研究]] = History and folk culture studies (2)]], [[神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科]], [TIME[1997-02]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-09T12:29:51.807Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4428956/1/22> (要登録)
-- [288]
[DFN[[CITE[[V[足利成氏文書と不改年号]]]]]]
--- [299] 関連: [[不改年号]], [[中世私年号]]
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[74] [CITE@ja[足利持氏 - Wikipedia]]
([TIME[2015-10-25 22:18:38 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F>
]FIGCAPTION]
> 元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[75] [CITE@ja[永享の乱 - Wikipedia]]
([TIME[2015-10-25 22:20:51 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1>
]FIGCAPTION]
> 1429年に元号が正長から永享に改元されても持氏は正長の元号を用い続ける
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[76] [CITE@ja[県指定文化財・古文書:久喜市ホームページ]]
([[Kuki City]] 著, [TIME[2015-11-24 00:04:04 +09:00]] 版)
<https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/kenshitei/komonjo.html>
]FIGCAPTION]
> 元号は幕府の主導により改元されて康正2年(1456)となっていますが、願文では改元をせずに享徳5年を使用していることから、成氏が幕府に強く反発していたことがうかがえます。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[189] [CITE@ja[足利成氏 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-12 01:03:19 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F>
]FIGCAPTION]
> 京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す'''['''27''']''''''['''5''']''''''['''19''']''''''['''28''']'''。
> 成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。
]FIG]
*** 正木文書の康正改元
[323]
[[岩松]]氏の残した文書群である[[正木文書]]のほとんどの[[足利成氏]]文書には、
[[年付]]が付けられていません。
文書を受け取った[[岩松]]氏が到来の年月日を書き加えたものは少なからずあります。
[SRC[>>288]]
[324]
[[岩松]]氏の書き加えた到来の[[年号]]のほとんどは[[享徳]]ではなく[[公年号]]です。
[SRC[>>288]]
[344]
しかし、[[正木文書]]の[[到来書]]には「享徳四年」や[[延長年号]]の
「享徳五年」も複数確認されています。
[SRC[>>342]]
[356]
享徳5年の事例として、
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [325] [DATA(.label)[[[正木文書]] 168号]]
-- [369] [DATA(.label)[日付]] 「[DATA(.text)[[V[正月十六日]]]]」
[SRC[>>367 /155]]
-- [360] [DATA(.label)[到来書]] 「[V[到来 [DATA(.text)[享徳五 正月十七日]]]]」
[SRC[>>288, >>367 /155]]
]ITEMS]
があります。
[[康正]]への[[改元日]]は[TIME[享徳4(1455)年7月25日][kyuureki:1455-07-25]]ですから、
半年以上の[[延長年号]]です。
[SRC[>>288]]
[HISTORY[
[357] かつてはこれが唯一享徳5年の[[延長年号]]と説明されていました [SRC[>>288]]
が、実際には享徳5年のものが複数ある [SRC[>>342]] ようです。
見逃されていたのでしょうか、それとも数え方が違うのでしょうか。
]HISTORY]
[326]
[[改元]]を知らずに享徳5年1月を迎えたとすると、
康正元年 (= 享徳4年) は存在しないはずです。ところが、
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [327] [DATA(.label)[[[正木文書]] 238号]] (写本)
-- [131] [DATA(.label)[到来書]] (追記)「[V[[DATA(.text)[康正元 卯月八日]]到来]]」
[SRC[>>288, >>342 ([CITE[群馬県史]]資料編5), >>367 /167]]
-- [329] [DATA(.label)[文書の日付]]「[DATA(.text)[[V[卯月七日]]]]」
[SRC[>>288, >>342 ([CITE[群馬県史]]資料編5), >>367 /167]]
]ITEMS]
があります。これに関連して
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [328] [DATA(.label)[[[川島恂二所蔵文書]]二号[CITE[足利成氏書状包紙]]]] (封紙)
[SRC[>>288 ([CITE[群馬県史]])]]
-- [522] [DATA(.text)[到来書]]「[V[到来 [DATA(.text)[康正元年卯八󠄂日]]]]」
[SRC[>>342, >>367 /174]]
]ITEMS]
は[[正木文書]]238の包紙で原本であること疑いなしとされます。
[SRC[>>288]]
従って「康正元」は書写時の書き加えとは考えられません。 [SRC[>>288, >>342]]
[343]
従来これは[TIME[康正元(1455)年][1455]]とされてきました。
しかし[[康正]]への[[改元日]]は[TIME[享徳4(1455)年7月25日][kyuureki:1455-07-25]]ですから、
これは[[遡及年号]]です。
[SRC[>>342]]
[330]
[[改元]]前に新元号を知ったとは考えられないので、
[[改元]]後のある時期に書き加えられたことになります。 [SRC[>>288]]
ただ、
到来書は到着してそれほど間を開けずに書くのが普通でしょうから [SRC[>>342]]、
最低でも3ヶ月以上は置いてから書き加えたとすると不自然さが否めません。
;; [368]
[[正木文書]] 151 [SRC[>>367 /152]]
は日付が4月6日、到来書が享徳4年4月7日と、[[月日]]だけみればちょうど1日違いです。
こちらでは普通に享徳4年になっているので、その翌日だけ違う扱いになっているのはやはり不自然です。
[345]
ところで、
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [358]
[DATA(.label)[[[正木文書]] 二四一号 成氏御内書写]]
-- [372]
[DATA(.label)[日付]]
「[DATA(.text)[[V[九月十八日]]]]」
[SRC[>>367 /168]]
-- [359]
[DATA(.label)[到来書]]
「[V[[DATA(.text)[康正元 九月十八󠄂日]]到来]]」
[SRC[>>342, >>367 /168]]
- [370]
[DATA(.label)[[[正木文書]] [V[二四二]] [CITE[[V[足利成氏書狀案]]]]]]
-- [371]
[DATA(.label)[日付]]
「[DATA(.text)[[V[三月五日]]]]」
[SRC[>>367 /168]]
-- [374]
[DATA(.label)[到来書]]
「[V[[DATA(.text)[康正元 六月六日]][BR[]]到来]]」
[SRC[>>367 /168]]
]ITEMS]
があります。[TIME[康正元(1455)年][1455]]とありますが、
内容と他の史料からこの[[文書]]の[[日付]]は[TIME[康正2(1456)年9月17日][kyuureki:1456-9-17]]と確定されています。
[SRC[>>342]]
[361]
正木文書241 (>>358) の「元」年は従来誤記と考えられていました。
[SRC[>>342]]
これが実は[TIME[西暦1456年][1456]]のことを「康正元年」扱いしているのだとすると、
正木文書238 (>>327) の「元」年も[TIME[西暦1456年][1456]]の可能性があります。
[346]
[[正木文書]]の「康正元年」
が[TIME[康正2(1456)年][1456]]を指すと仮定すると、
= 「享徳四年」 (西暦1455年) →
= 「享徳五年」 (西暦1456年) →
= 「康正元年」 (238号、241号、242号) →
= 「享徳五年」 (147号 西暦1456年9月)
となって文書の順序関係に矛盾は生じません。
[SRC[>>342]]
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [376]
[DATA(.label)[[[正木文書]] [V[一四七]] [CITE[[V[足利成氏感狀案]]]]]]
-- [377]
[DATA(.label)[日付]]
「[DATA(.text)[[V[[RUBY[九月][(正カ)]]十九日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
-- [378]
[DATA(.label)[到来書]]
「[DATA(.text)[[V[到来享徳五 [RUBY[九月][(正カ)]]廿日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
- [380]
[DATA(.label)[[[正木文書]] [V[一四八]] [CITE[[V[足利成氏書狀案]]]]]]
-- [379]
[DATA(.label)[日付]]
「[DATA(.text)[[V[二月二日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
-- [381]
[DATA(.label)[到来書]]
「[DATA(.text)[[V[到来享徳五 二月二日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
- [382]
[DATA(.label)[[[正木文書]] [V[一四九]] [CITE[[V[足利成氏書狀案]]]]]]
-- [383]
[DATA(.label)[日付]]
「[DATA(.text)[[V[正月十六日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
-- [385]
[DATA(.label)[到来書]]
「[DATA(.text)[[V[到来享徳五 正月十七日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
- [384]
[DATA(.label)[[[正木文書]] [V[一五〇]] [CITE[[V[足利成氏書狀案]]]]]]
-- [386]
[DATA(.label)[日付]]
「[DATA(.text)[[V[正月廿八日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
-- [387]
[DATA(.label)[到来書]]
「[DATA(.text)[[V[到来享[RUBY[徳 正][(五カ)]]月廿八日]]]]」
[SRC[>>367 /151]]
]ITEMS]
[388]
[[正木文書]]147 (>>376) は[CITE[群馬県史]]が「九月」を「正月」
の誤記かと注釈しています。根拠は不明です。内容でしょうか、
それとも時期が孤立しているからでしょうか。
記載通り9月だとすると、
[[正木文書]]241 (>>358) が9月18日、[[正木文書]]147が9月19日、20日で連続していて、
前者が「康正元」、後者が「享徳五」です。
このタイミングで[[岩松持国]]にどのような変化があったのか、
というのが問題になってきます。
[389]
[[正木文書]]中でこの[[到来書]]があるのは享徳4(1455)年、享徳5(1456)年、康正元年の[[足利成氏]]から[[岩松持国]]への[[文書]]に限られます。
[TIME[康正3(1457)年][1457]]に当たるものはありません。
長禄2年と推定される[[正木文書]] 158「[V[閏正月十七日]]」
[SRC[>>367 /153]]
がありますが、
[[岩松持国]]は[TIME[長禄2(1458)年][1458]]8月に[[室町幕府]]方に寝返ります。
到着日を書き入れる必要があった享徳4(1455)年 (正月ないし3月) から[TIME[西暦1456年][1456]]
(9月)、
という期間にも何か意味はあるのでしょうか。
[347]
[[丸島和洋]]は、
[[岩松持国]]に[[改元]]を伝えた人物が[TIME[西暦1455年][1455]]に[[康正]]と[[改元]]されたと伝えなかったとは考えにくいので、
[[改元]]は新年からという認識があったのだろうと考えました。
この認識は在地社会に留まらず[[国人]]クラスの有力者の間にも根付いた幅広いものだったとしました。
[SRC[>>342]]
[348]
[[丸島和洋]]は、
[[康正]]改元時の混乱に[[足利成氏]]の[[享徳]]の[[延長年号]]の影響を見る[[山田邦明]]の指摘を踏まえ、
「享徳五年」が復活する理由は不明であるものの、
[[足利成氏]]への配慮があったかもしれないと考えました。
[SRC[>>342]]
[349]
ここで[[丸島和洋]]が「改元は新年からという認識」
(= 西暦1455年が改元なのに西暦1456年を康正元年とする慣習)
があると考えたのは、
- [362] 改元情報はそれがいつのことか明確に伝えているという前提
- [363] [[元二年]]という概念があると主張する先行研究
が組み合わさってのことです。
[364] しかし[[元二年]]なる概念は、
本件を含めようが含めまいが、その指し示すものが曖昧で、根拠も不明瞭で危ういものと言わざるを得ません
([SEE[ [[元二年]] ]])。
[365]
また、改元がいつなのかが正確に伝わるとは限らないことは、
[[関東]]の多くの[[中世私年号]]の例を見れば明らかです。
[[改元伝達]]が混乱していたなら、[[改元]]して新元号になったことは伝わっても、
今が第何年なのかはわからないままばらばらの[[年数]]が同時に使われ始めてしまいます。
[366]
少し後 ([TIME[西暦1461年][1461]]頃) [[私年号]]の[[延徳]]がはじめ[[公年号]]の[[改元]]と信じられ、
後に[[改元デマ]]と判明した事例を鑑みると、
「享徳五年」
に復したのは
「康正」
の改元情報の信憑性が低いと判断されたため、という可能性もあります。
[[元二年]]のような未知の観念を想定するより、
まずは正しい
「康正元年」
の情報が伝えられなかった可能性を検討するべきではないでしょうか。
[REFS[
-
[367]
[CITE@ja-JP[[[群馬県史]] 資料編 5 (中世 1 古文書・記録)]], [[群馬県史編さん委員会]], [TIME[1978.12][1978]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-12T12:47:24.069Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9641586/1/152> (要登録)
- [342]
[CITE[[[岩松持国の改元認識―「正木文書」の到来書をめぐって―]]]]
]REFS]
** 足利義輝
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[77] [CITE@ja[足利義輝 - Wikipedia]]
([TIME[2015-11-12 09:54:27 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D>
]FIGCAPTION]
> 年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[80] [CITE@ja[困窮する朝廷 : fumi1202のブログ]]
([TIME[2015-11-25 22:55:04 +09:00]] 版)
<http://blog.livedoor.jp/fumi1202/archives/7480476.html>
]FIGCAPTION]
> 改元の知らせは長慶の許にも届けられたようだが、朽木の足利義輝には知らされなかった。 これに対し義輝は激怒し、改元を無視して弘治の年号を使い続けたという。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[81] [CITE[気まぐれ日記: 堺幕府]]
([TIME[2015-11-25 22:56:41 +09:00]] 版)
<http://1103ab.blog.eonet.jp/default/2015/06/post-4652.html>
]FIGCAPTION]
> この堺幕府論は今谷明氏が、改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目して、公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の堺幕府である、と提唱した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[82] [CITE@ja[堺公方 - Wikipedia]]
([TIME[2015-11-21 02:25:10 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%85%AC%E6%96%B9>
]FIGCAPTION]
> 8月、朝廷は大永8年を享禄元年に改めたが、この改元について近江の将軍とは協議しながら堺公方には相談がなかった。朝廷が将軍側ほどには堺公方側を信任していないことを示すものであり、義維の将軍任官も確実視できない。これに不満な堺公方側は、しばらくの間は発給文書に享禄年号を使用しなかった。
]FIG]
[240] [CITE[shirin_056_5_623.pdf]], [TIME[2021-09-06T06:47:16.000Z]], [TIME[2022-04-14T12:29:38.562Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238154/1/shirin_056_5_623.pdf#page=55>
[237] [CITE@ja[今谷明著『室町幕府解体過程の研究』]], [TIME[2022-03-17T09:27:32.000Z]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/96/9/96_KJ00003674362/_article/-char/ja/>
[238] [CITE[HNkeizai0003301710.pdf]], [TIME[2022-04-14T12:18:31.000Z]] <https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf#page=40>
[239] [CITE[ab40112880.pdf]], [TIME[2009-04-23T04:48:26.000Z]], [TIME[2022-04-14T12:25:14.639Z]] <https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD81112880/Body/link/ab40112880.pdf>
* 中世私年号
[235] [DFN[日本の中世私年号]]の利用例の多くは[[東国]] ([[関東地方]])
の[[板碑]]で見つかっています。
[279] 日本中世の[[異年号]]:
- [[万喜]] : [[清和天皇]]時代か ([[偽文書元号]])
- [[高喜]] : [[清和天皇]]時代か ([[偽文書元号]])
- [[太政]] : [TIME[天慶3(940)年][940]] ([[説話]]内[[架空][架空の元号]]改元案)
- [[長本]] : 一説[TIME[長保元(999)年][999]] ([[説話]]内[[架空][架空の元号]]か)
- [[平安時代]]末期か [[[ASIS[〓][⿸厂友]]治]]
- [[泰平]] ([[改元デマ]])
- [TIME[寛元元(1243)年][1243]] [[すんくえん]] ([[寛元]]誤か)
,建教元,1225 ,元仁2
- [TIME[正嘉元(1257)年][1257]] [[正喜]] (追建)
- [[正元]]年間 [[正見]]
- [TIME[弘長元(1261)年][1261]] [[ほうちやう]] ([[弘長]]か)
,永福元,1297 ,永仁5
,正久元,1319 ,元応元
- [TIME[元亨元(1321)年][1321]] [[こんこう]] ([[元亨]]か)
- [TIME[正中元(1324)年][1324]] [[正仲]] (異表記)
- [[元永]]年間 [[元禾]] ([[異体字]])
,真賀元,1356 ,
- [[応安]]頃 [[文徳]]
- [TIME[永和元(1375)年][1375]] [[永門]] (追建)
- [[弘徳]] : [TIME[至徳元(1384)年][1384]]
- [[好徳]] : 14世紀後期
- [[元真]] : [[南北朝時代]]
- [[品暦]] : [[南北朝時代]]
- [[至大]] : [[南北朝時代]]
- [[永幻]] : [[南北朝時代]]末期
- [[明悳]] : [[明徳]] (異表記)
- [[乾徳]] : [[室町時代]]初期
- [[善吉]] : 一説[TIME[嘉吉元(1441)年][1441]] (異表記か)
- [[福安]] : [TIME[文安元(1444)年][1444]]
- [[享高]] : [TIME[享徳元(1452)年][1452]]
- [[魚鳥]] : 一説[TIME[享徳元(1452)年][1452]] ([[作中元号]])
- [[天承]] : 一説[[東山時代]] (私年号か不明)
- [[享正]] : [[室町時代]]
- [[延徳]] : [[室町時代]]
- [[永楽]] : [[室町時代]]
- [[応享]] : [[室町時代]]
- [[福寿]] : [[室町時代]]後期
- [[正亨]], [[正享]], [[正京]] : [[延徳]]頃
- [[福徳]] : [[延徳]]年間
- [[王徳]] : [[延徳]]-[[大永]]頃
- [[永伝]] : [TIME[延徳2(1490)年][1490]]
- [[明翁]] : 一説[TIME[明応元(1492)年][1492]] ([[私年号]]か不明)
- [[徳応]] : [TIME[文亀元(1501)年][1501]]
- [[文鬼]] : [TIME[文亀元(1501)年][1501]]
- [[子平]] : [TIME[文亀2(1502)年][1502]]
- [[永章]] : [TIME[永正元(1504)年][1504]] (旧説)
- [[徳昌]] : [[室町時代]]後期
- [[加平]] : [TIME[永正14(1517)年][1517]]
- [[永喜]] : [TIME[大永6(1526)年][1526]]
- [[宝寿]] : [[天文]]年間
- [TIME[弘治元(1555)年][1555]] [[弘洛]] (追建)
- [[室町時代]]頃 [[則吉]]
- [[室町時代]]頃 [[門守]]
- [[中世]]後期 [[立徳]]
- [[中世]] [[弥勒]], [[命禄]], [[令禄]]
-[[天正]]年間 [[光永]]
-[[天正]]年間 [[天王]]
- [[中世]]頃 [[しうくわん]]
- [[中世]]頃 [[ほうへ]]
- [[中世]]頃 [[門元]]
- [[中世]]頃 [[元喜]]
- [[中世]]頃 [[永延]] (私年号か不明)
- [[中世]]頃 [[清保]], [[清水]] ([[偽文書元号]])
- [[中世]]頃 [[法徳]] ([[偽文書元号]])
- [[永彭]] (誤認)
- [[徳寿]] (誤認)
- [[明翁]] (誤認か)
[2]
[[南北朝時代]]関係は[[日本南北朝時代の日時]]を参照。
-*-*-
[34] [[日本の私年号]]の研究は[[江戸時代]]に始まりました。
[[昭和時代]]に[[関東地方]]の[[板碑]]の網羅的な研究が進められたことで中世東国の私年号の性質が明確になりました。
[SRC[>>35]]
[[日本の私年号]]は他に[[古代のもの][日本古代の日時]]や近現代のものもあり、
西国でも若干数見つかっていますが、最も広く使われたとみられる中世東国のものが研究の中心となってきたようです。
[272]
近世、近代には、それらの[[年号]]を人々の願望の現れと理解し、
[[朝廷]]によって定められた[[公年号]]ではない、という程度の意味で[[私年号]]と呼んでいました。
[SRC[>>271]]
[274]
今では[[私年号]]という呼称が最も一般的ですが、
[[近代]]の文献ではむしろ[[異年号]]という方が多いようにも思われます。
[[私年号]]の語も元からありましたが、[[昭和時代]]に一般化し、
[CITE[日本私年号の研究]]によって決定的に優勢となりました。
[38] [[昭和時代]]初期、[[服部清道]]は[[板碑]]から[[私年号]]の実態を研究しました。
服部による[[私年号]]への理解 [SRC[>>37]] は当時の代表的な辞書である
[CITE[國史辭典]]
[WEAK[(四 pp. 756-758 [CSECTION[私年號]], [[日野一郎]])]]
にも反映されました。
[SRC[>>35]]
-*-*-
[39] [[昭和時代]]中期、
[[久保常晴]]は古代から近世までの[[日本の私年号]]について大量の史料を収集、検討し、
[[私年号]]の利用状況や時代背景などの総合的な研究を行いました。
従来若干の混乱が見られた[[私年号]]に関連する用語を整理し、
[[古代年号]]や中世の[[私年号]]の性格を明らかにしました。
久保の研究は[CITE[日本私年号の研究]]としてまとめられました。
[SRC[>>40]]
[CITE[日本私年号の研究]]はその後の若干の研究の進展によってやや古びているものの、
[[日本の私年号]]の「今日の研究水準を導き出す原動力」 [SRC[>>35]]
と高く評価されており、
現在でも[[日本の私年号]]をメインテーマとした唯一の研究書です。
[SEE[ [[久保常晴]] ]]
-*-*-
[49]
歴史研究者の[[佐藤進一]]は、
[[異年号]]は国家の正年号を否定する性格を持つと主張しました。
[SRC[>>60]]
-*-*-
[290]
[[浅沼徳久]]は、[[私年号]]資料に占める[[板碑]]の多さにより、
[[板碑]]を中心に[[中世私年号]]を考察しました。
ただし[[板碑]]に偏った検討となることや、
改刻を想定した[[史料批判]]が必要である (が不十分な) ことには注意を促しています。
[SRC[>>289]]
[291]
[[浅沼徳久]]は[[私年号]]の伝播への[[順礼]]が寄与したと考えました。
当時知られた[[板碑]]36件のうち、
板東三十三番札所の7箇所に24個があり、残りのほとんども順礼行路から10キロメートル以内にあります。
また、[[弥勒]]の文書・経典・板碑などの分布もこれと一致します。
実際に[[順礼]]の遺物で[[私年号]]を使った例も残されています。
[SEE[ [[延徳]], [[福徳]], [[弥勒]] ]]
[SRC[>>289]]
[293]
[[私年号]]は民間で私的に創作されてひそかに伝えられ広まったものであり、
その伝播も公然たる方法によれなかったため、
戦乱激しく社会の混乱した関東で自由にかつ広域で通行する者の力が必要だったと考えました。
すなわち、社会の不安と混乱を神仏に祈って救われようとし、各地を巡り歩いた順礼は、
社会不安、苦難の原因たる権力者の[[公年号]]に反感を持ち、ひそかに民福を希求し創作された[[私年号]]の伝播に相応しい存在だったとしました。
[SRC[>>289]]
;; [294]
社会不安 → 反権力 → 反[[公年号]] = 強く生きる庶民、のこの図式は、
ちょうどこの発表と同じ時代に[[天皇制]]や[[自民党]]に反感を持ち、それに紐づけて[[元号制度]]そのものに反対した[[日本共産党]]等の[[左翼団体]]や[[学界]]に巣食っていた[[極左活動家]]グループらの[[元号廃止論]]や、
その「素材」としての[[私年号]]の過大評価の論理そのものであることに注意が必要です。
[[浅沼徳久]]がそのような思想の持ち主だったかどうかは定かではありませんし、
少なくても現在知られている[[私年号]]関連論文で[[浅沼徳久]]は学術研究の域を逸脱してはいません。
しかし知ってか知らずか時代の思想の色眼鏡を通して過去を観察してしまっていたのかもしれませんし、
逆にこうした研究成果がそのような思想の人々の理論的根拠に使われるという負のループに陥っていたこの時代の[[私年号研究]]を象徴する考察といえます。
[295]
[[私年号]]が[[公年号]]への反感から民福を希求して創作されたものであることは、
命名から窺えるとし、[[福徳]]や[[命録]]は[[福禄寿思想]]に基づく、
[[弥勒]]は[[弥勒菩薩]]待望からの発想、と説明しました。
[SRC[>>289]]
[296]
そして[[公年号]]の[[改元]]で歳運の転換を願うのが常識化しており、
[[私年号]]もそれに準じたものだとしました。
[SRC[>>289]]
[297]
[[私年号]]の発生は公権力の与える苦難に反感を覚えた庶民の自然な希求が原因だとしました。