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994
995
996
997
998
999
1000
[2112]
[[鬼室集斯]]は、
[[百済]]の[[貴族]]でしたが、
[[唐]]と[[新羅]]の侵略により[[百済]]が滅亡
[WEAK[([[白村江の戦い]]、[TIME[天智天皇2(663)年][year:663]])]]
した後[[日本]]に[[渡来][渡来人]]しました。
[[日本]]では[[近江国]][[蒲生郡]]に居住しました。
[SRC[>>2102]]
* 鬼室神社
[3] [[日本国]][[滋賀県]][[日野町]]に[[鬼室神社]]があります。
[[鬼室集斯]]が合祀されています。
** 大内蔵人時頼墓
[1]
[TIME[文亀元(1501)年][year:1501]]の絵図の複写だとされる
[CITE[興福寺領近江国蒲生郡長寸郷奥津野保左久良十七郷摠絵図]]
によると、
当地には
「[[大内蔵人時頼]]墓」
がありました [SRC[>>2114]]。
[8]
これがその後どうなったのか、
[[鬼室集斯墓]]と同じものか、
不明です。
[85]
本絵図は [[Web]] では検索しても文亀元年と説明しているページしか出てきませんが、
書写されたのは[[江戸時代]]です。
本絵図は[[椿井文書]]です。
** 伝鬼室集斯墓
[2113]
[[鬼室集斯]]墓とされる八角石柱があります。
[SRC[>>2102, >>2114]]
[126]
かつては墓碑は風雨に晒されていました。
[SRC[>>90 (>>95 写真)]]
[128]
[TIME[明治41(1908)年][1908]]、
石祠が建てられて墓碑が収納されました。
[SRC[>>90]]
[129]
なお石祠には紀年銘がなく、
[CITE[近江蒲生郡志]] 巻八
[WEAK[([TIME[大正11(1922)年][1922]])]]
p.三八三
は、明治36年石祠造立としていました。
石祠と同じく地元石小山産の玉垣に
「[V[明治四十一年八󠄂月]]」
などとあります。
したがって明治41年造立と考えられます。
[SRC[>>90]]
;;
[39]
なお[[鬼室集斯]]墓と記録されるものは他にもあるようです。
*** 八角形石柱
[130]
墓碑の形状は、
- [131]
八角柱状で、上方より下方がやや深い形でした。
[SRC[>>90]]
- [132]
高さは 48.0cm、
一面の上部の幅は 8.0cm、
下部は 9.5cm
でした。
[SRC[>>90]]
- [133]
頂上は三角形に刻まれて隆起し、
頂上から下方 12.5cm 程度の位置に、
幅 4.0cm、深さ 1.5-1.8cm 程度のくびれのような溝が刻まれていました。
[SRC[>>90]]
[147]
この奇妙な形状は[[日本]]にはあまり例が知られておらず、
注意を惹かせることになったようです。
-*-*-
[134]
明治36年、
[[蒲生郡]]教育会長の[[遠藤宗義]]は、
墓碑等に造詣が深いという[[京都]]の[[松井淳風]]に鑑定を依頼しました。
その結果は、
正しく[[朝鮮石]]で、
形状は[[唐土]]の方式によるものであり、
従来未だ曽て見ない古物で珍重するべき、
とのことでした。
[SRC[>>90 (>>95)]]
[137]
[[国立科学博物館]]地学研究部の鑑定によると、
[[流紋岩質凝灰岩]]でした、
[TIME[昭和54(1979)年][1979]]、
[[胡口靖夫]]は論文でこの鑑定結果を採用しました。
[SRC[>>90]]
[136]
その後の鑑定によると、[[小野]]の[[石小山]]産の[[黒雲母花崗岩]]でした。
[TIME[平成8(1996)年][1996]]、
[[胡口靖夫]]は著書でこの鑑定結果を採用して論旨を修正しました。
[SRC[>>90]]
[138]
[[黒雲母花崗岩]]は[[日本列島]]、[[朝鮮半島]]に広く分布し珍しくないもので、
朝鮮石との鑑定結果の根拠は不明です。
[SRC[>>90]]
-*-*-
[139]
[[西生懐忠]]は、
くびれを指して、
結縛の痕跡があって、
繋牲の形を表したものではないかという、
と書いていました。
[SRC[>>90]]
[140]
[CITE[礼記]] の祭儀によると、
宗廟の門内には碑があって、
生贄を繋ぐもので、
紐を通す孔がありました。
[SRC[>>90]]
[146]
あるいは[[漢土]]の[[唐]]・[[宋]]間には[[八角経幢]]と呼ばれる、
八角柱状で記念碑的機能を持ったものが多数作られました。
[SRC[>>90]]
[141] こうしたものが[[漢土]]との関係性を指摘する根拠とされるようです。
[142]
朝鮮開城郡松都面満月町双瀑洞の高麗温鞋陵の周囲にあった欄杆石が、
同じように八角柱で上面中央が高く、くびれが入っていました。
[SRC[>>90 (>>144)]]
これが[[朝鮮半島]]との関係性として指摘されるようです。
ただし時代と地域のずれには注意が必要です。
[REFS[
- [145] [CITE[高麗諸陵墓調査報告書]], [[今西龍]], [TIME[大正5(1916)年][1916]]度
-- [143] [CITE@ja[[[古蹟調査報告]]. 大正5年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[朝鮮総督府]], [TIME[大正8-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T09:26:51.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976583/194>
-- [144] [CITE@ja[[[古蹟調査報告]]. 大正5年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[朝鮮総督府]], [TIME[大正8-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T09:29:55.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976583/199>
]REFS]
*** 銘文
[148]
八角柱のうち正面と左右の計3面に、
1行ずつ碑文が陰刻されていました。
[SRC[>>90]]
[2117]
この石柱に、
「朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八日□」
([[縦書き]])
とありました [SRC[>>2124]]。
最後の1字は摩耗しており、
「殂」「歿」「殞」
などと解されています
[SRC[>>2124, >>2102]]。
[155]
発見者の[[西生懐忠]]は銘文が不鮮明だと書いていました。
[156]
[[伴信友]]の [CITE[鬼室集斯墓考]] [SRC[>>41]],
[CITE[西州投化記]] 第一稿本 (>>108),
[CITE[日本書紀通釈]] [SRC[>>149]],
[CITE[大日本金石史]] [SRC[>>113]],
[CITE[近江蒲生郡志]] [SRC[>>150]],
[CITE[尚古年表]] (>>154)
ほか諸書に銘文が掲載されました。
[SRC[>>90]]
[154]
[CITE[尚古年表]] の[[大正時代]]の刊本は、
>
[VRL[
[ASIS[朱][亅]]鳥三年[SUP[戊]][SUB[子]]十一月八󠄂日殞
鬼室集斯墓
[[ ]]庶󠄂孫美成造󠄄
]VRL]
(「戊子」は8割位の文字サイズで左右に寄せられ、
縦方向の中央軸付近には空間なく配置。)
... としていました。
[SRC[>>151]]
[157]
[[胡口靖夫]]は、
[[昭和時代]]に実見し (>>158)、
[[遠藤宗義]]の [CITE[鬼室集斯墳墓考]] [SRC[>>95]]
の銘文が正しいとしました。 [SRC[>>90]]
>
[VRL[
(右) 朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八日[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]
(正面) 鬼室集斯墓
(左) 庶孫美成造󠄃
]VRL]
[159]
[[胡口靖夫]]は、
[[干支]]は、
[CITE[日本書紀通釈]] の「[V[戊子]]」、
[CITE[尚古年表]] の「[V[[SUP[戊]][SUB[子]]]]」
(8割位の文字サイズで行の中央軸から左右に、
縦方向に重ならないように配置。)
ではなく
「[V[[LINES[戊][子]]]]」
が正しいとしました。
[SRC[>>90]]
[160]
右面の最後の文字は、
[[西生懐忠]]、
[CITE[西州投化記]]、
[CITE[尚古年表]] が「殞」、
[CITE[鬼室集斯墓碑考]] ([[伴信友]])、
[CITE[日本書紀通釈]]、
[CITE[大日本金石史]] が「殂」、
[CITE[近江蒲生郡志]] が「歿」
としていました。
[SRC[>>90]]
[163]
[[伴信友]]は、
字形が不鮮明なので推測したと書いていました。
[[西生懐忠]]が「殞」としたことについて、
字形がそうは見えないとしました。
[SRC[>>90]]
[161]
[[遠藤宗義]]は、
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
は「殂」「殞」「歿」のいずれかだが判定できないとしていました。
[SRC[>>90]]
[162]
[[胡口靖夫]]は、
偏ははっきりしているが旁は下半分が書けていて
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
としか判読できないとしました。
[SRC[>>90]]
[164]
[[胡口靖夫]]は、
[[伴信友]]の検討を引いて、
発見当初から
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
としか読めなかったと推測しました。
[SRC[>>90]]
[2120]
朱鳥3年[LINES[戊][子]]は[TIME[持統天皇2(688)年][kyuureki:688-11-08]]に当たります。
[[延長年号]]ですが、一応
[CITE[日本書紀]]
とは矛盾しません。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[62]
この石柱は偽作とされますが、
地元民などに真作説が[[江戸時代]]から現在まで続いているようです。
話をややこしくしているのは、
死亡直後の真作説と新しい時代の偽作説の中間の、
[[中世]]に子孫 (と主張する人々) が供養のために作った本物だとする折衷案的主張があるのに、
本物か偽物かの2分論で語られることが多いことのようです。
つまり「中世 (ないし近世) に作られた」という主張でも、
その背景の理解により真作説とも偽作説とも分類し得るのです。
また、
本物の墓なのかどうか、
本物の墓碑なのかどうか、
銘文がいつ作られたのか、
銘文がいつ彫られたのか、
本当の子孫なのかどうか、
祭祀が途切れず続いたのかどうか、
など論点が多い上に
(真の子孫ではないが本当だと信じて中世に作った、
という「真作」もあり得ます)、
[[日朝関係]]や観光利用のような[[政治的思惑][政治的理由]]が交錯しています。
[2121]
かつては
「ほんとうの朝鮮石」
という説があった [SRC[>>57]] ようですが、
実は近くの石切場のものとみられています [SRC[>>2124]]。
しかも11世紀以降の[[石]]だとされます [SRC[>>2102]]。
[80]
[[鬼室集斯]]の死去の日は、この碑以外の根拠が見当たりません。
従って真偽不明というほかありません。
-*-*-
[2115]
[[江戸時代]]、
八角柱は人魚塚 (人魚墓)
として知られていました [SRC[>>2102, >>2114, >>2]]。
中世に建てられた[[不動堂]]
(現在の神社)
のそばにありました。
[9]
[RUBYB[[[村井古巌]]][[TIME[寛保元(1741)年][year:1741]]-[TIME[天明6(1786)年][year:1786]]]]は、
[CITE[古廟陵并埴物図]]
[WEAK[(天明年間頃成立 [SRC[>>2]])]]
に
[CSECTION[人魚墓]] ([[縦書き]])
として[[不動堂]] (現在の[[神社]])
とこの墓の絵を描いて紹介しました。
八角石柱らしき絵 (銘文なし) の横に、
「人𩵋墓
文字在
不見」
([[縦書き]])
とありました。
([[江戸時代]]中期-末期の写本 [SRC[>>5]])
[12]
[[司馬江漢]]は、
[TIME[天明8(1788)年8月12日][kyuureki:1788-08-12]]に訪問し、
[CITE[西遊旅譚]]
[WEAK[(序文日付「寛政甲寅五月戊申」 ([[縦書き]]) = [TIME[寛政6(1794)年][year:1794]])]]
に絵を描いてその様子を記録しました。
不動堂と八角石柱 (銘文なし) らしきものを描いた絵には、
石柱横に
「人𩵋墳
是なり」
「文字
不[SUB[レ]]見」
([[縦書き]])
とありました。
石柱のみ (銘文なし) の絵には、
「人魚墳
八方なり
文字
あれども
見えず」
([[縦書き]])
とありました。
[SRC[>>10]]
[14]
同じ[[司馬江漢]]の
[CITE[江漢西遊日記]]
[WEAK[([TIME[文化12(1815)年][year:1815]]成立 [SRC[>>13 コマ6]])]]
にもこのときの記述がありました。
本文に
「人魚塚は八角にして文字見えず」 ([[縦書き]])
とありました。
絵は2種とも掲載されましたが、
描き直されたもののようです。
石柱の側には
「文字ナシ」
([[縦書き]])
とありました。 [SRC[>>13]]
[18] [CITE[江漢西遊日記]]
は「鬼室集斯墓」報告 (>>4) 後に整理された日記ですが、
この時既に報告されていた (>>4)
[[鬼室集斯]]説には一切触れていませんでした。
整理した時点でもまだ知らなかったのか、
知ってても不審に思って何も書かなかったのか、
新しい知見をわざわざ追記しない編集方針だったのか。
文字があっても読めなかったと書いていたのが、
文字がなかったと改められたのは不審です。
本文も図も文字なしと書くのではなく、
混在しているということは、
そこに強い主張はないと見るべきでしょうか。
(前著を執筆時の材料にできたはずですから、
記憶の劣化により誤ったとは考えにくいでしょう。)
[64]
さて、
この文字なしという記述が、
[[江戸時代]]後刻説の根拠の1つとなっているようです。
この2人の記述を総合すれば、
文字らしきものはあったものの読み取れなかったと解するのが適切と思われます。
わざわざ書いているのにその文字が何かまったく言及していないということは、
文字らしい形跡というだけで、その一部すら読み取れなかったと考えるべきでしょうか。
*** 西生懐忠による碑文の発見
[4]
[TIME[文化2(1805)年][year:1805]] [SRC[>>2124]]
または[TIME[文化3(1806)年][year:1806]] [SRC[>>2124, >>2127]]、
[[仁正寺藩]]の藩医[[西生[RUBY[懐忠][あつただ]]][西生懐忠]] [SRC[>>90]]
が当地の八角柱を調査し、
「鬼室集斯墓」
であると報告し、
有名になりました [SRC[>>2114]]。
これをきっかけに真贋論争も起きました [SRC[>>2102]]。
-*-*-
[91]
[TIME[文化2(1805)年][1805]]、
[[西生懐忠]]が、
藩主の[RUBYB[[[市橋長昭]]][[TIME[1773]]-[TIME[1814]]]]
[WEAK[(在位[TIME[1785]]-[TIME[1814]])]]
の
[CITE[蒲生郡誌]]
編纂に際して発見したとされます。
[SRC[>>95]]
これは[[西生懐忠]]が
「[V[我君侯、将修郡誌、召余。]]」
と書いたこと [SRC[>>96]]
に基づくとされます [SRC[>>90]]。
[92]
[[西生懐忠]]は、
里人林蔵の話を聞いて本碑を知り、
[[市橋長昭]]の閲覧に供するため[[仁正寺]]の藩庁に持ち出しました。
[SRC[>>95]]
[93]
藩庁で[[市橋長昭]]以下一同は、苔を取り除き水洗いするなど散々手を尽くし、
銘文を発見しました。
[SRC[>>95]]
[42]
[TIME[文化3(1906)年][1806]]、
[[西生懐忠]]は、
経緯を
[CITE[[V[祭鬼室集斯墓詩幷序]]]] (文化三年丙寅二月二十九日)、
[CITE[[V[鬼室集斯墓考]]]] (文化三年丙寅二月)
としてまとめました。
[SRC[>>41, >>40, >>90]]
[135]
[[西生懐忠]]は[[漢詩]]
[CITE[[V[吊鬼室集斯墓]]]]
に、
「[V[残碑拠韓典、事跡判然知。]]」
と書きました。
[SRC[>>90 (>>95)]]
[50]
[[江戸時代]]後期に[[伴信友]]が聞いた話によると、
石柱は境内の草が茂っている中に埋もれていたところ、
[[西生懐忠]]が探し出したものだ、
とされました。
[SRC[>>41]]
[94]
[[昭和時代]]後期の文献によると、
一説に、
子供が碑をもて遊んでいたところ、
[[西生懐忠]]が通り合わせ、
文字が刻まれているが明らかではないので、
拓本のようなことをして読み取った、
とされました。
[SRC[>>97]]
-*-*-
[99]
[[鬼室集斯]]墓の発見は話題になり、
遠方からも当時の知識人らが見学弔問に訪れたといいます。
[SRC[>>95]]
[100]
訪問客らが記念に書き残した詩歌は数巻にも達しました。
[SRC[>>95]]
[[小野]]の[[辻久太郎]]家には[[昭和時代]]に至っても「その二巻」が残っていました。
[SRC[>>90]]
[98]
[[平戸藩]]の藩主だった[RUBYB[[[松浦静山]]][[TIME[1760]]-[TIME[1841]]]]
[WEAK[(在位[TIME[1785]]-[TIME[1806]])]]
は、
[CITE[甲子夜話]] [WEAK[([TIME[1821]]-[TIME[1841]]執筆)]]
巻六十一に、
次のように書きました。
[SRC[>>90 (注釈は >>90 にあるまま)]]
>
[VRL[
曰人は諸国を巡歴せし者にて、その語に近江の蒲生西宮と云所にて見しは、原野
の叢中に[RUBY[六角][(ママ)]]なる石塔あり彫て曰、
[BOX(indent)[
朱鳥[RUBY[元][(ママ)]]年[LINES[此下に何とかあらん][語れるは此ごとし]]
鬼室集斯墓
]BOX]
朱鳥は天武帝の年号。今に至て千百四十年。鬼室とは何人ぞ。若くは異邦人の来帰せしにや
]VRL]
-*-*-
[43]
[[西生懐忠]]によると、
はじめ鬼室が
「田冖」 ([[縦書き]])
と見えている程度だったものが、
持ち帰って綺麗にしたところ銘文がはっきりわかるようになったといいます。
[SRC[>>41, >>40]]
[44]
「朱鳥三年」
は[[なく][延長年号]]、持統天皇2年に当たります。
朱鳥元年の[[天武天皇]]の[[崩御]]後に[[持統天皇]]が[[称制]]し、
翌年が称制元年、
4年が天皇元年となっていて、
それまで[[朱鳥]]を使っていたのが、
後に称制元年を持統天皇元年としたものと解しました。
[CITE[愚管抄]]、
[CITE[皇代略記]]
が天武天皇没後7年まで[[朱鳥]]を使っていたとすることも言及していました。
[SRC[>>41, >>40]]
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[45]
発見前から近くに住んでいた[[坂本林平]]は、
[CITE[楓亭雜話]]
([CITE[平安記録 楓亭雑話]]、[CITE[平安記録楓亭雑話]])
で、
人魚塚のことはよく知っているが、
文字は絶対になかったとしました。
[[鬼室集斯]]墓だとするのは[[西生懐忠]]の妄言だと厳しく非難しました。
[SRC[>>40]]
[77]
文字があったとする証言とは矛盾しますが、
読み取りが困難で判別できないほどのものだったとすれば、
文字がないと認識していてもおかしくないでしょう。
[63]
読めない文字がはっきり読み取れるまでに至った発見過程は極めて不審ですが (>>46)、
[[西生懐忠]]の捏造だとすると特別に説明が必要な
「朱鳥三年」
という表記を敢えて使い、自ら解説を加えるという手間をかけているのが気になります。
捏造なら最後の1文字を敢えて剥落させはしないように思えます。
完全な捏造よりは、強引に読み取ろうとして改変された可能性を想定するべきでしょうか。
*** 江戸時代の否定説
[111]
[[江戸時代]]の研究者の言及がいくつか残されていますが、
多くは当墓碑に否定的な見解を示していました。
[101]
[CITE[以文会筆記抄]]
[V[第十八册]] ([V[文化十三年四月⸺六月]] = [TIME[文化13(1816)年][1816]])
は、
「[V[江州日野近󠄁在の鬼室]]
[V[集斯の墓は後に立てたるもの也]]」
としていました。
[SRC[>>102, >>90]]
[REFS[
- [102] [CITE@ja[[[以文会筆記抄]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[三宅米吉]], [TIME[昭和4][year:1929]], [TIME[2021-03-27T05:47:53.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187041/104>
]REFS]
[105]
研究者の[[狩谷棭斎]]が[[金石文]]を集成した
[CITE[古京遺文]]
[WEAK[([TIME[文政元(1818)年][1818]]序)]]
の目録に、
「近世所出田道碑、鬼室福信碑、皆係後人為託今亦不存録」
とありました。
[SRC[>>90]]
ただしこの箇所は[[大正時代]]に出版された本にはありますが [SRC[>>104]]、
[[明治時代]]に出版された本では少し表現が違い鬼室への言及が抜けていました
[SRC[>>103]]。
この文の成立過程は検証が必要と思われます。
[106] ここで[[鬼室福信]]碑とありますが、
「近世」がちょうど[[鬼室集斯]]墓発見の時期を指すと見られること、
[[百済]]で殺された[[鬼室福信]]の墓碑が[[日本]]にあるのは不自然なことから、
[[鬼室集斯]]の誤りとされます。
[SRC[>>90]]
[REFS[
- [103]
[CITE@ja[[[古京遺文]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[狩谷望之]], [TIME[明26.5][year:1893]], [TIME[2021-03-27T06:28:22.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/780580/3>
- [104]
[CITE@ja[[[古京遺文]] - Google Books]], [TIME[2021-03-27T06:28:14.000Z]] <https://www.google.co.jp/books/edition/%E5%8F%A4%E4%BA%AC%E9%81%BA%E6%96%87/UlvOltJhG74C?hl=ja&gbpv=1&pg=PP65&printsec=frontcover>
]REFS]
[108]
[[水戸藩]][[彰考館]]の研究者[RUBYB[[[小宮山昌秀]]][[TIME[1764]]-[TIME[1840]]]]の
[CITE[西州投化記]] 第九巻に、
拓本の模写、
[CITE[[V[祭鬼室集斯墓詩并序]]]]、
[CITE[[V[鬼室集斯墓考]]]]
が収録されました。
[SRC[>>107]]
[109]
拓本横には、
「[V[右摺本立原先生借示]]
[V[宣戦云信シカタキモノナリ]]」
とありました。
[SRC[>>107, >>90]]
[[水戸藩]][[彰考館]]の研究者[RUBYB[[[立原翠軒]]][[TIME[1744]]-[TIME[1823]]]]が偽銘と考えていたことがわかります。
[SRC[>>90]]
[110] なお本書第一稿本 ([[国立国会図書館]]所蔵) には摺本およびそれに関する記述がありましたが、
第二稿本および第三稿本 ([[国立国会図書館]]所蔵) では削られていました。 [SRC[>>90]]
[REFS[
- [107] [CITE@ja[[[西州投化記]] 11巻. '''['''4''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-03-27T06:51:37.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2560445/63>
]REFS]
*** 伴信友の肯定説
[48]
[TIME[弘化3(1846)年][year:1846]]9月、
研究者の[RUBYB[[[伴信友]]][[TIME[1773]]-[TIME[1846]]]]は、
拓本と
[CITE[[V[祭鬼室集斯墓詩[SUP[幷]]序]]]]、
[CITE[[V[鬼室集斯墓考]]]]
を入手し、
事情を調べて考察しました。
銘文と両稿を全文引用した論考
[DFN[[CITE[鬼室集斯墓碑考]]]]
を発表しました。
[SRC[>>41]]
[1820] [[伴信友]]は、
近江國蒲生郡小野村の西宮の境内に
「鬼室集斯墓」
と彫られた古碑の右面に
「朱鳥三年戊子十一月八日殂」
と彫られていたとし、
持統天皇2年に当たるとして[[朱鳥]]が[[持統天皇]]時代に使われた根拠の1つとしました。
[SRC[>>1731]]
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[49]
[[伴信友]]の知る所によると、
西宮 (現在の神社)
は[[不動明王]]を本地仏として祭るため不動と言われるものの、
実は元々の祭神は[[鬼室集斯]]だとされており、
毎年11月8日に例祭がありました。
[SRC[>>41]]
伴の時代には毎年恒例行事となっていたようですが、
それがいつから続くものか、
墓碑発見以前からのものか、
明確ではありません。
[REFS[
- [1731] [CITE[[[年号の論]]]]
- [47] [CITE[[[比古婆衣]]]]
-- [41] [CITE@ja[[[伴信友全集]]. 第4 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-17 20:22:33 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/177>
---
「[V[弘化三年丙午九月稿]]」
<https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_991315.pdf?pdfOutputRanges=177-180&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
]REFS]
[152]
[[江戸時代]]後期の[[金石文]]研究者[[山本隠倫]]の
[CITE[尚古年表]]
は、持統天皇2年 (= 朱鳥3年) の欄に[[鬼室集斯]]墓の銘文を掲載していました。
[SRC[>>151]]
[153]
[[大正時代]]の刊本によると、底本には朱書で
「三香筆記云」として所在地が書き込まれていました。 [SRC[>>151]]
[REFS[
- [151] [CITE@ja[[[尚古年表]]. 1 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[山本隠倫 著入田整三 補]], [TIME[大正12-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T10:06:29.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1183047/47>
]REFS]
@@
[149] [CITE@ja[日本書紀通釈 : 70巻. 第5 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[飯田武郷]], [TIME[明治36][year:1903]], [TIME[2021-03-27T09:55:17.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992404/185>
[REFS[
- [52] [CITE@ja[[[近江蒲生郡志]]. 巻6 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[滋賀県蒲生郡]], [TIME[大正11][year:1922]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965735/394>
]REFS]
@@ [150] [CITE@ja[近江蒲生郡志. 巻8 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[滋賀県蒲生郡]], [TIME[大正11][year:1922]], [TIME[2021-03-27T09:58:08.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965737/221>
*** 近代の否定説
[46]
[TIME[大正4(1915)年][year:1915]]秋、
[[喜田貞吉]]が現地調査し、
[[鬼室集斯]]墓ではないと発表しました。
その理由は、
墓の規模が小さすぎること、
碑文が摩滅して判読できなかったものが数日持ち出した間に明瞭になったのは不審であることでした。
喜田が刷り写した碑文を見せると[[内藤湖南]]も笑って否定説に賛同しました。
[SRC[>>40]]
書風などから一見して当時のものでないとわかるほどの違いを感じたのでしょうか。
@@
[113] [CITE@ja[[[大日本金石史]]. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[木崎愛吉]], [TIME[大正10][year:1921]], [TIME[2021-03-27T07:34:44.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960208/149>
[67]
[[井上通泰]]は、
[CITE[万葉集]]
所引日本紀の[[朱鳥]]と1年のずれがあるとし、
「二」か「三」か判別しがたいものを[[西生懐忠]]が[[干支年]]から
「三」
と解した可能性をも提示しました。
[SRC[>>2104]]
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[70]
[TIME[昭和13(1938)年5月7日][1938-05-07]]、
[[井上通泰]]は現地調査しました。
石柱は[TIME[明治36(1903)年][year:1903]]頃から祠にしまわれており、
それ以来閉じられていたらしく扉を開けるのに一苦労したようです。
[SRC[>>2104]]
;; [71]
この頃には神社に合祀もされて崇められていたであろう (>>2126)
はずですが、貴重すぎて大事にし過ぎていたのでしょうか。
それにしても30年間、確認や手入れもせずまったく開帳の機会がなかったのでしょうか。
11月8日の例祭はこの時代も続いていたのでしょうか。
そのときに特に何か儀式はなかったのでしょうか。
[72]
石は地元のものではないとされていました (誰の情報か不明ですが、
文脈上、地元民でしょうか)。
井上は、
他所で作って運んできたものと解しました。
墓が小さいのもそのためだとしました。
[SRC[>>2104]]
[73]
石には小さな穴がありました。
地元民によると以前はそこに髪が入っていたようです。
井上は[[西生懐忠]]が何も言及しなかったことを不審に感じました。
[SRC[>>2104]]
[112]
[CITE[寧楽遺文]]
[WEAK[([RUBYB[[[竹内理三]]][[TIME[1907]]-[TIME[1997]]]], [[昭和時代]])]]
や
[CITE[日本の古代金石文]]
[WEAK[([RUBYB[[[岡崎敬]]][[TIME[1923]]-[TIME[1990]]]], [TIME[昭和46(1971)年][1971]])]]
は、
本墓碑を収録していませんでした。
否定的な見解を暗に示したものと解されています。 [SRC[>>90]]
[114]
[CITE[日本古代人名辞典]] [WEAK[([TIME[昭和36(1961)年][1961]])]]
は、
[CITE[大日本金石史]]
の墓碑銘文を引いていました。
[SRC[>>90]]
[115]
美術研究者の[RUBYB[[[影山春樹]]][[TIME[1916]]-[TIME[1985]]]]の
[CITE[近江の金石文資料稿本]] [SRC[>>116]]
[WEAK[([TIME[昭和37(1962)年][1962]], [[謄写版]])]]
は、
「[V[西宮神社石造墓碑]]」
を挙げて、
「[V[朱鳥三年 六八[RUBY[九][(ママ)]] 日野町東桜谷小野 鬼室集斯の墓と伝へられる。銘は正面と左右]]
[V[に一行宛陰刻す。石は、八角型柱で頭部にクビレがある。日本金石史上有名なもの]]」
と説明していました。
[SRC[>>90 (注釈は >>90 にあるまま)]]
[117]
[TIME[昭和54(1979)年][1979]]、
[[胡口靖夫]]は、
[[江戸時代]]の見解
(否定: [[以文会]] (>>101), [CITE[古京遺文]] (>>105), [CITE[西州投化記]] (>>108)。
肯定: [[伴信友]] (>>48, >>1820)。)
と、
[[昭和時代]]の見解
(否定: [CITE[寧楽遺文]] と [CITE[日本の古代金石文]] (>>112)。
非否定: [CITE[日本古代人名辞典]] (>>114), [CITE[近江の金石文資料稿本]] (>>115)。)
を紹介し、[[江戸時代]]の「真偽論争」が[[昭和時代]]にまで持ち越され、
未だ歴史的評価が定まっていないとしました。
[SRC[>>90]]
[118]
こうまとめられると肯定派と否定派の論争が続いていたかのように感じられますが、
[[胡口靖夫]]の引用を見る限り、それは少し大げさな物言いのようです。
- [119] [[江戸時代]]に肯定意見を述べていたのは発見者の[[西生懐忠]]を除けば[伴信友]]のみしか示されていません。
賛否両論が交わされたというよりは、世を賑わせたが慎重な学者が多かった、
と評した方が実態に近そうに見えます。
-- [120] [[胡口靖夫]]が「[V[「真偽論争」]]」
とわざわざ括弧付きで書いているのも、厳密に論争があったと主張したいわけではないのでしょう。
- [121] 紙幅の都合かもしれませんが、[[明治時代]]・[[大正時代]]の経緯が示されていません。
- [122] [[昭和時代]]の否定派の実例として示されたのは、
いずれも当墓碑を掲載しないことによる暗示的な否定説です。
-- [123] つまり筆者が知らなかったか、
言及する価値すらも認めなかったか、
です。しかし先行する金石文集に掲載された本墓碑をまったく関知しなかったとは考えづらい。
言及するまでもないと評価していたと考えるべきでしょう。
- [124]
[[昭和時代]]の否定的でない例として示されたとみられる
[CITE[日本古代人名辞典]]
は、
[CITE[大日本金石史]]
から引用していたようです [SRC[>>90]]。
[CITE[大日本金石史]] は本墓碑を朱鳥時代のものかは疑わしいと明記していました。
[CITE[日本古代人名辞典]]
はどういう扱いで引いていたのかわかりませんが、
当論文 [SRC[>>90]] が何も書いていないことから、
積極的な主張はないと考えるのが自然です。
- [125]
[[昭和時代]]の否定的でない例として示されたとみられる
[CITE[近江の金石文資料稿本]]
は、
引用文を見る限り、
銘文をそのまま信用しただけで信憑性を検討したものではなさそうです。
(注記なく掲載したなら、消極的な肯定ではあるのでしょうが。)
[REFS[
- [116] [CITE@ja-jp[近江の金石文資料―稿本 (1962年) | 景山 春樹 |本 | 通販 | [[Amazon]]]], [TIME[2021-03-27T07:44:00.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000JAIJL8/wakaba1-22/>
]REFS]
-*-*-
[127]
明治時代に祠が作られる前の露天の写真 [SRC[>>95]]
がありました [SRC[>>90]]。
[19]
[TIME[平成2(1990)年][year:1990]]、
所在地の[[日野町]]が鬼室家と関係する[[大韓民国]]の町と[[姉妹都市]]締結しました (>>53)。
その後神社周辺が整備され、
看板やパンフレットが作られたようです。
関連して[TIME[平成6(1994)年][year:1994]]度に測定などの基礎的な調査が行われました。
(論文に正面の写真と3面の拓影が掲載されました (白黒)。)
[SRC[>>2124]]
[2130]
この墓碑を紹介するリーフレット
([TIME[2011-08-29]]時点で入手できたもの)
では、
銘文が紹介されており、
「[LINES[戊][子]]」
を
「[RUBY[⿰子戊][ぼし]]」
([[左横書き]])
と1文字で作字して書いて[[ルビ]]を上に振っていたようです。
「子」が水平画を斜め上に払う偏の形になっていて、
明らかに1文字になっていました。
([[漢字]]が右から左に書かれているので、
[[ルビ]]とは逆順になっています。)
また最後の□を
「⿰歹几」
(几の下に空白)
と作字していたようです。
[SRC[>>2129]]
(同じものかは不明ですが、
[TIME[2015-10-20]]時点で入手できたパンフレットの写真 [SRC[>>79]]、
[TIME[2019-05-13]]時点で入手できたパンフレットの写真 [SRC[>>33]]。
正面から撮られた写真です。
文字らしきものが書かれていることがわかりますが、
何と書かれているかは知っていないと読むのが難しく、
知っていても完全にはわかりません。)
[61]
[TIME[1996年][year:1996]]、
[[胡口靖夫]]は自身の論文をまとめて出版しました [SRC[>>60]]。
(祠から取り出した墓碑の1面の白黒写真 [SRC[>>90 p.46]]。
何か書かれていることはわかるが読み取るのは困難。)
[2119]
それによると、[[胡口靖夫]]は、
「「朱鳥三年[LINES[戊][子]]」のような紀年銘の干支の位置の記載形式は、天慶9(946)年を最古の例とするが、平安時代にはまだこの形式のものはあまり多くはなく、鎌倉時代に入るとこの形式のものがもっとも多く普通であったようであり、室町時代になるとまた少なくなることである(p60)」
ことや銘文の表現が古い時代に見られないものであることから、
偽作の可能性が高いとしました。
[SRC[>>2, >>2118, >>2122]]
[65]
一方で[[胡口靖夫]]は、
[[字形]]の検討から[[江戸時代]]の偽作とは考えられず、
「古代まで遡及する可能性をあながち否定することはできないのではないか」
と主張し、
「墓碑は中世、なかんずく室町時代」
に鬼室の子孫が作ったものだと主張しました。
[SRC[>>2]]
[158]
[[胡口靖夫]]は、
[[昭和時代]]、
[[小野]]の[[辻久太郎]]を許可を得て墓碑を実見し、
拓本を取りました。
この拓本は著書に掲載されました。
[SRC[>>90]]
[35]
[TIME[1998年][year:1998]]発行の書籍に掲載された年号面の白黒写真と3面の
(うち[[胡口康夫]]の論文から転載した)
拓本
(をスキャンして画像データ化したもの)
[SRC[>>34]]。
写真の方は文字をいくつも読み取れますが、
何が書かれているか知っていないと完全に把握するのは難しいです。
[21]
[TIME[2006-01-09]]時点で現地案内看板に
「本殿裏の石祠に祀られている鬼室集斯の墓碑」
と題されたカラー写真がありました [SRC[>>20]]。
([TIME[2015-08-23]]時点の写真 [SRC[>>24]]: これが一番[[解像度]]が高いか。
[TIME[2016-04-08]]時点の写真 [SRC[>>22]]。
[TIME[2009-03]]時点の看板全体の写真 [SRC[>>25]]。
[TIME[2019-05-13]]時点の看板全体の写真 [SRC[>>32]]。)
正面から撮られた写真で、
[[Web]]
上にある写真の写真を見る限り、
文字があると意識して見ると何かあるように見えなくもない程度です。
[28]
[TIME[2008-11-05]]時点の写真 [SRC[>>27]]。
正面斜め上から撮られた写真で、
小さくて表面に何かあるのかどうか判断できません。
[37]
[TIME[2008-12-10]]付雑誌の白黒写真と3面の拓本 [SRC[>>36]]。
正面から撮られた写真で、小さく暗くて表面に何かあるのかどうか判断できません。
[26]
[TIME[2009-03]]時点の写真 [SRC[>>25]]。
正面から撮られた写真で、
暗くて表面に何かあるのかどうか判断できません。
[31]
[TIME[2017-12-09]]付[[ブログ記事]]のカラー写真 (撮影日不明) [SRC[>>30]]。
[[Web]] 上で見られる正面から撮られたカラー写真で一番大きいか。
文字らしきものが書かれていることがわかりますが、
何と書かれているかは知っていないと読むのが難しく、
知っていても完全にはわかりません。
[REFS[
- [6] [CITE@ja[[[池底叢書]] (第72冊) - 書陵部所蔵資料目録・画像公開システム]], [TIME[2020-06-16 19:32:11 +09:00]] <https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000040660072?searchIndex=175>
-- [7] [CITE[古廟陵並植物等之図]], [[村井古巌]]
--- [5] [CITE[新日本古典籍総合データベース]], [[国文学研究資料館 | National Institute of Japanese Literature]], [TIME[2020-04-03 14:26:18 +09:00]] <http://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100020573/viewer/3842>
- [11] [CITE[[[西遊旅譚]]. 巻之1-5 / '''['''司馬''']'''江漢 著]], [TIME[2020-06-16 20:38:39 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_00028/index.html>
-- [10] [TIME[2007-01-09 22:02:24 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00028/ru03_00028_0002/ru03_00028_0002.html>
- [13] [CITE@ja[[[西遊日記]] - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-16 20:59:52 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1194191/40>