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[1]
[[北魏]]の歴史を記述した[[史書]][CITE[[[魏書]]]]は、
[[北魏]]の[[建国]]より前の[[拓跋部]]の歴史も書いていました。
[2]
最古の[[年]]から、君主の[[即位紀年]]が使われました。
[[拓跋部]]の[[大人]]、
[[代国]]の[[代王]]の[[即位]]からの年数を数えていました。
[3]
[[干支年]]や[[魏の元号]]との対応が書かれている[[年]]があり、
治世年数を足し合わせていくとちょうど合致します。
[4]
初期は[[即位]]の翌年を[[元年]]としていました。
[5]
[[代国]]の中期以降は「以[VAR[何]]年為元年」のような[[改元]] ([[称元]])
起事があり、[[即位]]年から[[元年]]をしていたことがわかります。
[6]
[[退位]]や[[重祚]]による不規則な王位継承があったのも一因でしょうが、
あるいはこの時期は実際に[[即位紀年]]が使われていた記録が残っていたのかもしれません。
逆に初期の、漢化が進んでいない時期の改元記事のない綺麗に整った即位翌年改元は、
史書の編集時に決められたものかもしれません。
[7]
[[代国]]の後期には、
「後元年」
のような[[後元]]方式の[[即位紀年]]が2回ありました。
[[漢]]などの[[後元]]とは違って、
在位中の[[改元]]ではなく、
[[重祚]]の2回目の[[即位紀年]]が後[VAR[何]]年とされました。
[8]
[[代国]]は最後の王の時代にだけ、
[[建国]]という[[名前][元号名]]の[[元号]]がありました。
[[漢]]風の国家制度が整えた時代で、
[[元号]]制定もその一環とされます。
[9]
いかにも[[建国紀元]]風な[[元号名]]ですが、
[[代国]]は[[王位継承]]がないまま滅亡したため、
代替わりの[[改元]]を想定していたのかは不明です。
同時代にも前の時代にもこの周辺で[[建国紀元]]を用いた[[国]]は
([[新]]の[[始建国]]を除けば)
見当たらないので、
単なる[[元号名]]に過ぎないとも思われます。
[10]
[[北魏]]の最初の[[元号]]は[[登国]]で、
[[建国]]を意識しつつ少し変えてきた感があります。
[12]
[CITE[魏書]]は[[代国]]の滅亡の翌年を ([[拓跋珪]]紀の)
[[元年]]とし、
9年まで数える[[即位紀年]]的なものを置いていました。
[SRC[>>11]]
その次が[[代王]]に即位した登國元年で、
10年に当たります。
([[即位紀年]]のような書き方ですが、
その9年間、何かに[[即位]]していたとは書かれていません。)
[REFS[
- [11] [CITE@zh[[[魏書]]/卷2 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2021-11-13T07:28:48.000Z]], [TIME[2021-11-27T09:07:30.927Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8/%E5%8D%B72>
]REFS]