/
152.txt
1868 lines (1244 loc) · 126 KB
/
152.txt
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
160
161
162
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
183
184
185
186
187
188
189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241
242
243
244
245
246
247
248
249
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
260
261
262
263
264
265
266
267
268
269
270
271
272
273
274
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285
286
287
288
289
290
291
292
293
294
295
296
297
298
299
300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335
336
337
338
339
340
341
342
343
344
345
346
347
348
349
350
351
352
353
354
355
356
357
358
359
360
361
362
363
364
365
366
367
368
369
370
371
372
373
374
375
376
377
378
379
380
381
382
383
384
385
386
387
388
389
390
391
392
393
394
395
396
397
398
399
400
401
402
403
404
405
406
407
408
409
410
411
412
413
414
415
416
417
418
419
420
421
422
423
424
425
426
427
428
429
430
431
432
433
434
435
436
437
438
439
440
441
442
443
444
445
446
447
448
449
450
451
452
453
454
455
456
457
458
459
460
461
462
463
464
465
466
467
468
469
470
471
472
473
474
475
476
477
478
479
480
481
482
483
484
485
486
487
488
489
490
491
492
493
494
495
496
497
498
499
500
501
502
503
504
505
506
507
508
509
510
511
512
513
514
515
516
517
518
519
520
521
522
523
524
525
526
527
528
529
530
531
532
533
534
535
536
537
538
539
540
541
542
543
544
545
546
547
548
549
550
551
552
553
554
555
556
557
558
559
560
561
562
563
564
565
566
567
568
569
570
571
572
573
574
575
576
577
578
579
580
581
582
583
584
585
586
587
588
589
590
591
592
593
594
595
596
597
598
599
600
601
602
603
604
605
606
607
608
609
610
611
612
613
614
615
616
617
618
619
620
621
622
623
624
625
626
627
628
629
630
631
632
633
634
635
636
637
638
639
640
641
642
643
644
645
646
647
648
649
650
651
652
653
654
655
656
657
658
659
660
661
662
663
664
665
666
667
668
669
670
671
672
673
674
675
676
677
678
679
680
681
682
683
684
685
686
687
688
689
690
691
692
693
694
695
696
697
698
699
700
701
702
703
704
705
706
707
708
709
710
711
712
713
714
715
716
717
718
719
720
721
722
723
724
725
726
727
728
729
730
731
732
733
734
735
736
737
738
739
740
741
742
743
744
745
746
747
748
749
750
751
752
753
754
755
756
757
758
759
760
761
762
763
764
765
766
767
768
769
770
771
772
773
774
775
776
777
778
779
780
781
782
783
784
785
786
787
788
789
790
791
792
793
794
795
796
797
798
799
800
801
802
803
804
805
806
807
808
809
810
811
812
813
814
815
816
817
818
819
820
821
822
823
824
825
826
827
828
829
830
831
832
833
834
835
836
837
838
839
840
841
842
843
844
845
846
847
848
849
850
851
852
853
854
855
856
857
858
859
860
861
862
863
864
865
866
867
868
869
870
871
872
873
874
875
876
877
878
879
880
881
882
883
884
885
886
887
888
889
890
891
892
893
894
895
896
897
898
899
900
901
902
903
904
905
906
907
908
909
910
911
912
913
914
915
916
917
918
919
920
921
922
923
924
925
926
927
928
929
930
931
932
933
934
935
936
937
938
939
940
941
942
943
944
945
946
947
948
949
950
951
952
953
954
955
956
957
958
959
960
961
962
963
964
965
966
967
968
969
970
971
972
973
974
975
976
977
978
979
980
981
982
983
984
985
986
987
988
989
990
991
992
993
994
995
996
997
998
999
1000
[1]
[DFN[[RUBY[多摩][たま]]]], [DFN[[RUBY[三多摩][さんたま]]]]
[FIG(map)[
[LAT[35.6440752550049]] [LON[139.44637298584]]
]FIG]
* Webページ
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2]
[CITE[多摩 - [[Wikipedia]]]]
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
多摩(たま)は、本来は、多摩郡が範囲とする地域である。 おおよそ、現代で言う多摩地域(東京都のうち区部・離島以外)を中心とするが、若干広く、区部の一部(中野区全域・杉並区全域・世田谷区の一部)を含む。また、中世までの多摩郡を基準とした場合は神奈川県川崎市多摩区の一部をも含み、区名にそれが残っている。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3]
[CITE[多摩ニュータウン - Wikipedia]],
[TIME[2014-05-19]], [TIME[2014-05-25]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%9A%E6%91%A9%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%B3>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
戦後の高度経済成長期、東京区部での深刻な住宅難にともなって地価は著しく上昇し、その結果として地価の安かった市部が急速に宅地造成されることになった__&&[&&__5__&&]&&__。しかし民間主導の無計画な開発は劣悪なスプロール化をもたらすことになる。当時は民間による違法な宅地造成が56%を占める状況で、このような乱開発を防止するとともに居住環境の良好な宅地を大量に供給することを目的として1965年(昭和40年)に多摩ニュータウンが計画された__&&[&&__6__&&]&&__。
計画決定の当初段階では、開発主体者が全区域の土地を全面買収する新住宅市街地開発事業で進められることになっていたが、1966年(昭和41年)、既存住民らの請願により土地区画整理事業区域が設けられた。そのため、街づくりの基本概念となる後述の近隣住区理論を実践するに当たり、歩行者専用道路網などが一部途切れて空間構成に矛盾を生じることになったが、他方、街の形成に自由度を残した多様性をもたらすこととなった。
多摩ニュータウンの最初の入居としては、別の開発計画として存在し、早期から買収が進んでいた公団の「聖蹟桜ヶ丘地区」が計画に組み入れられる形で、多摩ニュータウンの「諏訪・永山地区」として1971年(昭和46年)に入居が始められた__&&[&&__7__&&]&&__。この地区を中心にオイルショックまでの3年間で約8千5百戸余りもの画一的な住宅が供給され、その後種々の問題を引き起こすことになる__&&[&&__8__&&]&&__。当時はまだ鉄道は開通しておらず、住民は多摩市北部の聖蹟桜ヶ丘駅などへバスやタクシーでの移動を強いられていた__&&[&&__9__&&]&&__。乗り入れ認可を受けていた当時の京王帝都電鉄・小田急電鉄は、新線建設の費用のほか多摩ニュータウン方面からの輸送量増加に伴う在来区間の複々線化の費用が掛かるとなると、とても採算が取れないとしていて、多摩ニュータウン内の開発益を得る余地も少ないことから、国や都に用地の無償提供などを求めて建設を中断していたためである__&&[&&__10__&&]&&__。最終的には、日本鉄道建設公団が私鉄事業者の鉄道施設を建設し、完成後に25年の割賦で事業者に譲渡するという方策がとられることとなり、小田急線が1974年(昭和49年)6月に小田急永山駅まで、続いて京王線が同年10月に京王多摩センター駅まで開通し、小田急も翌1975年(昭和50年)に小田急多摩センター駅まで開通した。
1974年(昭和49年)のオイルショックでは社会情勢が大
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4]
[CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=4>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
東京都羽村市の羽村取水堰。ここから玉川上水に分岐する。現在は東京都の水源は利根川水系が8割で多摩川水系は2割となっている
]BOX]
]FIG]
- [5] [CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=2>
- [6] [CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/?df=3>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7]
[CITE[吉祥寺・町田は昔、神奈川県だった 知事が捨てた街 :日本経済新聞]],
[TIME[2013-09-06]], [TIME[2013-09-06]]
<http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21022_R20C13A8000000/>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
町田市は神奈川県だと勘違いする人もいるが、東京都だ。東急田園都市線「すずかけ台」駅の近くに境界を示す看板があった。看板の手前は神奈川県横浜市緑区
大学時代、友人に「東京を出て多摩川を越えたら神奈川県」と教えられたことがある。西日本出身者としては素直に信じていたのだが、実際に当てはまるのは一部だけ。中流域では「多摩川を越えても東京都」だ。しかしかつては違った。八王子や町田、多摩川の手前にある調布や成城、吉祥寺も神奈川県だった。なぜ東京になったのか。事情を探っていくと、長年の課題である水源問題と、複雑な政治事情が浮かび上がってきた。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8]
[CITE[八王子の廃なもの]],
[TIME[2013-09-27]], [TIME[2015-04-03]]
<http://www5b.biglobe.ne.jp/~a-uchi/haibutu/index5b.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
中央線の前身である甲武鉄道が新宿〜立川間で開通したのは
八王子誕生のとき、明治22年4月のことです。そしてこの先の八王子に向って多摩川を渡
るために橋脚を造る必要があり、日野宿字下川原、現在の日野警察署北側付近で「日野煉瓦
製造所」が創業しました。
「日野煉瓦製造所」は明治21年から稼動し、そこで造られた煉瓦が橋脚に使われま
した。そして4ヶ月後の明治22年8月に八王子まで開通したのです。もちろん開通当初は
現在の上り線のみの単線で、そこには今でも開通当初の煉瓦橋脚を見ることができます。
ところが「日野煉瓦製造所」は明治23年に創業者の死亡で廃業してしまいました。
そのあとの明治30年になって「八王子煉瓦製造株式会社」
ができたのです。甲武鉄道の八王子〜上野原間は明治34年に開通していますのでその区間
に多く見られる煉瓦構造物(例えば水路や道路を跨ぐ橋、
湯の花トンネル、小仏トンネルなど)はこの工場の製品が
使われたものと勝手に想像しています。(根拠資料はありません)
京王線の八王子駅から上りの電車に乗って何気なく窓の外を見ていると、地上部に出
てすぐの右手に妙な構造物があるのに気づきます。あっという間に通過してしまいますが、
これが「煉瓦工場への引込線」の橋脚なのです。
現在の打越中学校の南で京王線と湯殿川に挟まれた地域に「八王子煉瓦製造株式会社
」が存在したということです。当時の住所では南多摩郡由井村北野ということになっていま
す。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[9]
[CITE[悲劇の都営三田線 大手町駅が「大手町」にない理由 |エンタメ!|NIKKEI STYLE]],
[TIME[2014-04-25]], [TIME[2016-07-08]]
<http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2301E_T20C14A4000000?channel=DF280120166608&style=1>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。 ■千代田線との場所取り合戦に敗れる まずは各駅の住所を見てみよう。 東京メトロによると、丸ノ内線・千代田線・半蔵門線の大手町駅の住所は「大手
東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。 ■千代田線との場所取り合戦に敗れる まずは各駅の住所を見てみよう。 東京メトロによると、丸ノ内線・千代田線・半蔵門線の大手町駅の住所は「大手町1―6―1」、東西線は「大手町2―1―1」だ。これに対して三田線は「丸の内1―3―1先」。三田線だけは、道路を挟んで丸の内側に位置しているのだ。 ちなみにこの住所、メトロは駅事務所の位置、都営地下鉄はホームの中心地点に最も近い出口付近の住所だという。出口が道路上の場合、住所がないため最後に「先」が付く。
乗り換え距離も長い。ホーム上の表示を確認したところ、丸ノ内線から三田線に乗り換える場合、最大595メートルも離れている。これは東京の地下鉄で、同じ駅名間の乗り換えとしては最も長い。 なぜ、三田線大手町駅だけ「丸の内」なのか。一駅だけ離れているのか。「今だから話せる都営地下鉄の秘密」(洋泉社)の著者で、東京都交通局で40年間、地下鉄に関わってきた篠原力さんに裏話を聞いた。 「実は、東京都としては三田線の大手町駅をもっと北側に造りたかったんです。でも千代田線との場所取り合戦に敗れてしまった」
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10]
[CITE[「所沢と多摩」で30代が急減した深刻な事情 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準]],
[TIME[2016-12-20]], [TIME[2016-12-20]]
<http://toyokeizai.net/articles/-/149342?page=5>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
三浦 展
__&&:&&__カルチャースタディーズ研究所主宰
三浦 展 Atsushi Miura
カルチャースタディーズ研究所主宰
1958年生まれ。1982年に一橋大学社会学部卒。パルコに入社し、マーケティング誌『アクロス』編集室。90年に三菱総合研究所入社。99年に「カルチャースタディーズ研究所」を設立。消費社会、家族、若者、階層、都市などの研究を踏まえ、新しい時代を予測し、社会デザインを提案している。 著書に、80万部のベストセラー『下流社会』のほか、『第四の消費』『データでわかる2030年の日本』『日本人はこれから何を買うのか?』『東京は郊外から消えていく!』『富裕層の財布』『日本の地価が3分の1になる!』『格差固定』などがある。
]BOX]
]FIG]
- [11] [CITE[「所沢と多摩」で30代が急減した深刻な事情 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準]],
[TIME[2016-12-20]], [TIME[2016-12-20]]
<http://toyokeizai.net/articles/-/149342?page=2>
- [12] [CITE[「所沢と多摩」で30代が急減した深刻な事情 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準]],
[TIME[2016-12-20]], [TIME[2016-12-20]]
<http://toyokeizai.net/articles/-/149342?page=3>
- [13] [CITE[「所沢と多摩」で30代が急減した深刻な事情 | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準]],
[TIME[2016-12-20]], [TIME[2016-12-20]]
<http://toyokeizai.net/articles/-/149342?page=4>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14]
[CITE[隧道レポート 都立長沼公園の明治隧道捜索作戦]],
[TIME[2015-04-03]], [TIME[2015-04-03]]
<http://yamaiga.com/tunnel/naganuma/main.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
このレポートは、私が東京都日野市に移住してきてからの7年間で最も自宅に近い場所での廃道探索となった。
(ミニレポ202回で紹介した下久保バス停も同じくらい近いが、あれは廃道探索ではないので除外)
私が住む日野市平山から直線距離で1.5kmも離れていない、八王子市長沼(マピオン)を舞台とした探索である。
しかも表題の通り、こんな家のすぐ近くで、ガチの明治隧道捜索を行った。
言っておくが、私の家の周りは隧道が少しも珍しくない千葉や大分のような“トンネル王国”ではない。むしろ、一般にそれらが少ないとされるエリアだ。
しかもこれは有名物件ではない。ネット上では情報を少しも見付けられていない(あったらぜひ教えて欲しい)。
ここに引っ越してきてから7年間、この隧道の存在を意識したことは、一度もなかった。
なお、予めお断りしておくが、このレポートもまた机上調査が未了の状態で執筆を始めている。
これは例によって、公開することで情報が集まることを期待しての事であるから、お心当たりの情報がある方は、ぜひ一報ください。
あまり前置きが長くなるのも興醒めだろう。
早速、今回のレポートを行った唯一の情報源を、お目にかけよう。
今のところ、これだけが、隧道捜索の根拠。
この独特の風合いを持った地図に見覚えがある読者もいるだろう。
当サイトでも時折登場するこの地図は、迅速測図と呼ばれる、縮尺2万分の1を持つ本邦最初の地形図である。
関東地方分の測量時期は、明治14年から18年までであり、全国の5万分の1地形図が整備される20年以上も前の詳細な地図として極めて価値が高い。
まず、最初にツッコミを受けそうなので書いておくが、図の左下の「神奈川県南多摩郡」は誤記ではない。
同郡が東京都の前身である東京府に編入されたのは明治26年であり、この図が調製された時期には、北多摩郡、西多摩郡と共に、神奈川県に所属していた。
また、本編に関係するいくつかの地名を赤字で表記したが、当時は市制や町村制の施行以前である。左上の「八王子驛」は、近代の八王子宿を継承した固有の地名であり、鉄道の八王子駅とは関係が無い。(八王子に甲武鉄道が開通するのは明治22年である)
この小縮尺図では、とりあえず八王子と今回紹介する隧道の位置関係を大雑把に把握していただけれ十分だ。
補足説明として、明治1
]BOX]
]FIG]
- [15] [CITE[隧道レポート 都立長沼公園の明治隧道捜索作戦]],
[TIME[2015-04-03]], [TIME[2015-04-03]]
<http://yamaiga.com/tunnel/naganuma/main4.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[16]
[CITE[平山城址・絹の道散歩 - 時空散歩]],
[TIME[2015-04-01]], [TIME[2015-04-03]]
<http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2009/09/post-63.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。 そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。 行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。
本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅 平山城址公園駅 平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。 さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。
宗印寺から丘陵に上る が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。 お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とり
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[17]
[CITE[多摩の古城: 伝鎌倉街道 - (九道の辻~鎌倉橋)②]],
[TIME[2013-05-01]], [TIME[2013-05-01]]
<http://tama-oldcastle.blog.ocn.ne.jp/blog/2009/04/post_acff.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
交通:西武国分寺線小川駅から徒歩5分又はたかの台駅から徒歩15分
所在地:小平市小川東町~津田町~上水本町付近 地図
小平市内を通る鎌倉街道は、九道の辻から現在のブリジストン工場内を通り、小川東町から津田町へと直線で抜けていたと推測されます。この部分は現在も道筋が残されています。(耕地区画により若干道が食い違っている部分があり)小平市により鎌倉街道の説明板や標柱も建てられていて、判り易くなっています。久米川宿(東村山)から恋ヶ窪までの間、当時は無人の荒野であったと考えられ、水も容易には得られず旅人はひどく難儀したことでしょう。現代の風景からは想像も出来ませんが。。)だだっ広い荒野であったため、江戸初期(寛永年間)から小平市一帯は徳川将軍家・ 尾張徳川家の鷹狩場に指定され、現在も幕張り(鷹狩の際の陣場)や鷹の街道などの呼び名が残されています。一面荒野の小平市(小川村)の開発が始まったのは、玉川上水・野火止用水が完成した後の明暦2年(1656)小川九朗兵衛(武蔵村山の岸村出身。玉川上水より分水を願い出て許可される。祖先は小田原北条氏の家人で武蔵七党のうち西党小川氏の末裔。鷹場の鳥見役も務める。)により開墾が開始され、青梅街道の宿場が作られた事に始まります。(この時、最初に開墾を始めた地が石塔ヶ窪と伝わる。江戸末期までこの地に秩父青石の大きな石碑が在ったことに由来する。現在もわずかに低地となっている。)新編武蔵風土記稿の小川村の項に”村内古街道あり道幅二間許・・・”とあります。
津田町に出た鎌倉街道は、玉川上水を鎌倉橋(昭和52年に架けられた)を渡り、上水本町へと入ります。その後は五日市街道にぶつかり、住宅地となり道は途切れてしまいます。五日市街道に交差する少し手前辺りを二ツ塚と呼び、道の左右に一対の塚があり鎌倉街道の一里塚であったと伝えられています。(塚は昭和の初め頃まで存在していたという。但し、鎌倉街道に一里塚が存在したかどうかは疑問。)鎌倉街道の道筋が再び現れるのは、府中街道西武国分寺線の踏切(東恋ヶ窪)手前になります。
玉川上水(鎌倉橋)
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[18]
[CITE[東急玉川線 - Wikipedia]],
[TIME[2014-05-03]], [TIME[2014-06-03]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%80%A5%E7%8E%89%E5%B7%9D%E7%B7%9A>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
下記のデータは特記なければ路線廃止時点(溝ノ口線については大井町線編入前)のもの。
路線距離(営業キロ):
玉川線:渋谷 - 二子玉川園間 9.1km
砧線:二子玉川園 - 砧本村間 2.2km
溝ノ口線:二子読売園 - 溝ノ口間 2.1km
軌間:1372mm
駅数:(起終点駅含む)
玉川線:15駅
砧線:5駅
溝ノ口線:4駅
複線区間:
玉川線:全線
砧線:なし(全線単線)
溝ノ口線:二子 - 溝ノ口間
電化区間:玉川線・砧線・溝ノ口線とも全線(直流600V)
閉塞方式:スタフ閉塞(砧線)
歴史__&&[&&__編集__&&]&&__
玉電(玉川線)は、1896年(明治29年)、玉川砂利電気鉄道により、二子多摩川付近の砂利を東京都心に輸送することを主目的として、東京市麹町区の三宅坂と玉川の間の路線開設が出願されたことを起源とする。1902年(明治35年)に渋谷 - 玉川間の軌道敷設が許されると、1903年(明治36年)玉川電気鉄道が設立され、1907年(明治40年)、玉川電気鉄道の手により渋谷 - 玉川間が開業した__&&[&&__1__&&]&&__。
玉川から運んできた砂利を都心に輸送するため、渋谷では、都心に線路を伸ばしていた東京市電と軌道が接続され、渋谷には砂利運搬車両の留置線も設置された。1922年(大正11年)、玉川電気鉄道により渋谷 - 渋谷橋の間に天現寺線が開通すると、玉川線と天現寺線は直通運転された。 1924年(大正13年)には玉川 - 砧(のちの砧本村)間に砧線が開業し、二子橋の上流にあたる大蔵付近(東京府北多摩郡砧村)の砂利の輸送を開始した。このように、砂利輸送を主目的とした性格から、「ジャリ電」と呼ばれることもあった。関東大震災後の市内補修の砂利運搬には威力を発揮した。
玉川電気鉄道は路線を拡張してゆく。1925年(大正14年)、三軒茶屋-下高井戸間に下高井戸線(のちの世田谷線)を開業。1927年(昭和2年)には天現寺線渋谷橋より中目黒に至る中目黒線を、同年溝ノ口線(玉川 - 溝ノ口)を開業した。溝ノ口線の開業時には、多摩川を渡る二子橋の建設費の一部を玉川電気鉄道が負担し、二子橋は橋の中央に線路が敷設された形態の道路・軌道の併用橋となった。
1934年(昭和9年)、二子橋より下流での砂利採取が全面禁止され、さらに玉川電気鉄道の経営権が東京横浜電鉄や目黒蒲田電鉄を経営していた五島慶太らに移って以降は、
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[19]
[CITE[玉川上水 - Wikipedia]],
[TIME[2014-11-02]], [TIME[2014-12-03]]
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E5%B7%9D%E4%B8%8A%E6%B0%B4>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
『玉川上水起元』(1803年)によれば、承応元年(1652年)11月、幕府により江戸の飲料水不足を解消するため多摩川からの上水開削が計画された。工事の総奉行に老中で川越藩主の松平信綱、水道奉行に伊奈忠治(没後は忠克)が就き、庄右衛門・清右衛門兄弟(玉川兄弟)が工事を請負った。資金として公儀6000両__&&[&&__2__&&]&&__が拠出された。
幕府から玉川兄弟に工事実施の命が下ったのは1653年の正月で、着工が同年4月、四谷大木戸までの本線開通が11月15日とされるが、1653年2月10日着工、翌年8月2日本線開通とする史料もある__&&[&&__3__&&]&&__。
羽村から四谷までの標高差が約100メートルしかなかったこともあり、引水工事は困難を極めた。当初は日野から取水しようとしたが、開削途中に試験通水を行ったところ“水喰土”(みずくらいど; 浸透性の高い関東ローム層)に水が吸い込まれてしまい、流路を変更(「かなしい坂」参照)。2度目は福生を取水口としたが岩盤に当たり失敗した。こうした事情を受けて、総奉行・松平信綱は家臣の川越藩士安松金右衛門を設計技師に起用。安松は第1案として「羽村地内尾作より五ノ神村懸り川崎村へ堀込み-」、第2案として「羽村地内阿蘇官より渡込み-」、第3案として「羽村前丸山裾より水を反させ、今水神の社を祀れる処に堰入、川縁通り堤築立-」を立案した。
この第3案に従って工事を再開し、約半年で羽村・四谷大木戸間を開通し、承応2年(1653年)11月に玉川上水はついに完成。翌承応3年(1654年)6月から江戸市中への通水が開始された__&&[&&__4__&&]&&__。しかし、工費が嵩んだ結果、高井戸まで掘ったところでついに幕府から渡された資金が底をつき、兄弟は家を売って費用に充てたという__&&[&&__5__&&]&&__。
庄右衛門・清右衛門は、この功績により玉川姓を許され、玉川上水役のお役目を命じられた。
なお、玉川上水の建設については記録が少なく、よく分かっていないことも多い__&&[&&__6__&&]&&__。安松金右衛門については三田村鳶魚の『安松金右衛門』に詳しく記されている。
給水地域__&&[&&__編集__&&]&&__
玉川上水の給水地域は『御府内備考』に簡略で分かり易く説明されている。
玉川上水 (中略)今、此上水、流末広大にして四谷・麹町より御本城へ入、西南は赤坂・西の久保・愛宕下・増上寺の辺、これ松平豊後守屋敷の辺、金杉左右海手すべて北手、南東方は外桜田・西丸下・大名小路一円、虎御門外、数寄
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[20]
[CITE[白丸鉱山]],
[TIME[2014-06-11]], [TIME[2015-08-13]]
<http://www8.ocn.ne.jp/~nari2/m/m/MnZeoH/shiromaruTOKYO.htm>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
産状 高温沸石相の層状マンガン鉱床
付加コンプレックスである秩父帯南帯の前期ジュラ紀(1億8000万年前, 180 Ma)の大平山ユニットに含まれるチャートブロック中の層状マンガン鉱床。
白亜紀中頃(1億年前, 100 Ma)に三波川変成作用による弱いぶどう石パンペリー石相から沸石相の広域変成を受けている。
チャートは、ペルム紀(2億7000万年前, 270 Ma)から三畳紀(2億年前, 200 Ma)のもの。
ブラウン鉱を主要鉱とするが、BaやSrが濃集している特殊な鉱床。
また、鉱床と接する付加コンプレックスのマトリックスである前期ジュラ紀(1億8000万年前, 180 Ma)の砂岩中に重土十字沸石の脈が見られる。
堆積年代は放散虫化石、変成年代は白雲母のK-ArまたはAr-Ar放射年代による。
多摩石と東京石の模式産地。
細かい赤鉄鉱とキュムリ石が含まれる大平山ユニットのチャートの露頭。
茶色の母岩は細かい赤鉄鉱とキュムリ石を含むチャート。
白色脈の中に含まれるオレンジ色から黄色の部分がマースター石。
脈の白色部は曹長石、重土長石と石英の集合。
大平山ユニットの、ブラウン鉱を主とするマンガン鉱床の露頭。
下半分の黒い部分はブラウン鉱。コインの周囲の赤茶の部分は、細かい赤鉄鉱とキュムリ石を含むチャート。
方解石などの白色脈がいくつか見られるが、コインの下を左右に切る赤い脈は、ストロンチウム紅簾石を含む。
産出鉱物
銅
ブラウン鉱 辰砂
ストロンチアン石
マースター石
ガノフィル石
エグレトン石
多摩石
キュムリ石
重土長石 ハイアロフェン バナルシ石
紅簾石-Sr
セラン石 ?
東京石 エディトン沸石
重土十字沸石
鉱物組み合わせ
石英 - 赤鉄鉱 - キュムリ石 - 重土長石
ブラウン鉱 - 重土長石 - ハイアロフェン - バナルシ石 - マースター石 - ガノフィル石 - 多摩石
ブラウン鉱 - 紅簾石-Sr
重土長石 - セラン石 - 銅
石英 - 赤鉄鉱 - 重土長石 - 東京石
砂岩(母岩) - 重土十字沸石
沿革
1942年(昭和17年): 採掘開始。
1945年(昭和20年): 休止。
1955年(昭和30年): 閉山。
1967年(昭和42年): 白丸ダム完成、湖底に沈む。
1974年9月(昭和49年): 大雨により放水。
1998年(平成10
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[21]
[CITE[八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩]],
[TIME[2015-09-07]], [TIME[2015-09-10]]
<http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る
八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。
その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。
で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。
搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。
本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅
JR高尾駅
集合
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[22]
[CITE[法政大学 軽登山サークルSPRINGのブログ : 3月21,22日 日向林道・寸又川左岸林道調査 南ア深南部]],
[TIME[2016-10-26]], [TIME[2016-10-26]]
<http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/7864692.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
高尾山から槍ヶ岳まで登るインカレ軽登山サークルのブログです♪
2014年度新規メンバー募集についてはこちら→→【http://blog.livedoor.jp/spring_climbing/archives/7220709.html】
【メンバー】 粂田 力 2015年3月21~22日 南アルプス深南部 寸又川山域の林道を調査 __&&[&&__1日目__&&]&&__寸又峡温泉-飛龍橋-寸又川右岸林道-千頭ダム-天地吊橋分岐-日向林道出合い-寸又橋-寸又川側から逆河内側に乗越すコル上-寸又橋-日向林道出合い-お立ち台-寸又川左岸林道-お立ち台▲ __&&[&&__2日目__&&]&&__お立ち台-1367.6-1670-1367.6-お立ち台-日向林道出合い-天地吊橋分岐-天地第一吊橋-千頭ダム-寸又川右岸林道-夢の吊橋-寸又峡温泉 夕食:手造りの店さとう 日帰り入浴:翠紅苑 今回の山行の目的は、不動岳ヒコーキ平尾根からアプローチをするために日向林道が通行が(完全に)不可能かどうかを調査しにいくこと 本記事と合わせて4ヶ月前の 丸盆岳東尾根 黒法師岳 前黒法師岳 周回 をご覧いただくとこのあたりの最近の状態がわかってくるかと思います 時期的には丸盆岳東尾根の方が紅葉も川の水の色も綺麗でした 私自身、学生生活最後の山行、記事になりますので寂しい限りです 林道情報気になる方のため写真を多めに またブログをご覧になっている新入生の方!この記事は個人山行と言って個人企画の登山です 全体登山でこんなにマイナーな山域へは入りません あくまで個人の趣味の世界ですのでそのへん心配しなくても大丈夫です 3月21日 今日明日は土日で観光の車も多いので、温泉街下の水車のある駐車場に駐車 1時間仮眠 おにぎり食べて、準備して 千頭林鉄の機関車をみる 作業員客車をみる カモシカを通り過ぎてゲート横のおばちゃんにあいさつして出発 天子トンネル手前に落石 まだ片づけてないところをみると最近落ちたのか 往きは体力温存するため飛龍橋をゆく 左に曲がれば前黒法師岳登山口や青薙沢、釜滝へ向かう大間川林道 沢屋さんたちの記録をみる限り最近は山犬の段から無理矢理、沢におりている人ばかりで大間川林道は通れるのだろうか?崩壊地は気合いで突破したとしていくつか朽ちかけた橋があったはず、、、 今日も起点は千頭ダムなので右岸林道を進む 尾崎坂展望台で休憩 また林鉄の機関車の
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[23]
[CITE[甲州街道 - Wikipedia]],
[TIME[2017-05-21]], [TIME[2017-05-22]]
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
概要 __&&[&&__ 編集 __&&]&&__
元は「古甲州道」であり、甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。 江戸 ( 日本橋 )から 内藤新宿 、 八王子 、甲府を経て 信濃国 の下諏訪宿で 中山道 と合流するまで38の 宿場 が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、 正徳 6年( 1716年 )4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。 中馬 による陸上運送が行われた。江戸の町において 陰陽道 の 四神相応 で言うところの 白虎 がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。
歴史 __&&[&&__ 編集 __&&]&&__
甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年であり、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。
近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は 徳川家康 の江戸入府に際し、 江戸城 陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、 甲府城 を有する 甲府藩 が 親藩 であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。
参勤交代 の際に利用した 藩 は 信濃 高遠藩 、 高島藩 、 飯田藩 である。それ以外の藩は 中山道 を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。
近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『 甲州道中分間延絵図 』や『 甲州道中図屏風 』が知られる。また、 宇治採茶使 は甲州街道を利用した。
宿場 __&&[&&__ 編集 __&&]&&__
多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くと
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[24]
[CITE[五宝つつじヶ丘住宅 : URBANSPRAWL -限界ニュータウン探訪記-]],
[TIME[2018-02-28]], [TIME[2018-02-28]]
<http://blog.livedoor.jp/yuwave2009/archives/6698897.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
香取郡の多古町は、成田空港の東側にある、人口およそ15000人の小規模な自治体だ。町域は広く、千葉県内の町村では2位の広さを誇る。千葉は稲作が盛んだが、東北産に比べると千葉産の米は、茨城産と同様、関東ではスーパーなどにおける安売り米というイメージが強い中、多古町は皇室への献上米としての「多古米」(コシヒカリ)のブランド化に成功している。 成田空港も近いので、空港やその周辺の会社へ勤務する町民も多いが、多古町には鉄道駅がない。京成の東成田駅から芝山鉄道が開通し、最寄り駅が成田空港駅から芝山千代田駅となったものの、多古中心部から徒歩や自転車で気軽に利用できる距離ではないことに変わりはなく、元々実現性が疑問視される芝山鉄道の延伸計画にも多古町は含まれていない。町の規模から考えても今日では鉄道駅の新設はほぼ絶望的な状況にある。
成田空港第2ターミナルの13番バス乗場。千葉交通の空港シャトルバス多古線はここから発着する。 そのため、多古町は昔も今も公共交通としてバスが重要な位置を占めている。もちろん、多くの地方都市同様、自家用車が普及した昨今ではその利用率も減少し、沿線自治体が運行経費を補填するなど厳しい状況に置かれているものの、町内には今もジェイアールバス関東と千葉交通の、2つの路線バス会社の営業所が存在し、町営のコミュニティバスも運行されている。ただでさえ不便な総武本線にアクセスする路線バスは、空港や都心方面とは真逆の方角に向かう横芝駅や八日市場駅行きのみだが、空港行きの路線バスはそれなりの本数が確保されている。
旧市街にはジェイアールバス関東、千葉交通の路線バスの他に、町営のコミュニティバスも乗り入れる。多古町はバスの町だ。 さて、そんな多古町では現在、旧市街地からほど近い高台の上に「マストシティ多古アトリエヒルズ(多古台)」という名の住宅団地の建設事業が行われている。『広報たこ』2013年2月号によれば、事業の計画自体は70年代から存在していたようだが、当初の開発業者が事業の継続を中止してしまい、造成もされないままの未利用地として長く放置された状態が続いていた。その後2006年になって、町当局が開発業者から土地を譲渡され、事業再開に向けていくつもの別の開発業者に打診してみたものの、当初はその交通の便の悪さから事業者の参入には難航したようだが、空港行きのバス便が
]BOX]
]FIG]
- [25] [CITE[いずみ台ローズタウン : URBANSPRAWL -限界ニュータウン探訪記-]],
[TIME[2018-02-18]], [TIME[2018-02-18]]
<http://blog.livedoor.jp/yuwave2009/archives/6493510.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[26]
[CITE[EU離脱で頭の体操、町田市が東京を“離脱”するとしたらどんな手続が必要? (THE PAGE) - Yahoo!ニュース]],
[TIME[2016-07-08]], [TIME[2016-07-08]]
<http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160706-00000011-wordleaf-soci>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
EU離脱の是非を問い、「離脱賛成」が過半数を占めたイギリスの国民投票。このニュースを受けて、ネットでここぞとばかりにネタにされたのが「町田市の東京都離脱」だ。神奈川県に食い込むように存在するその形、市内を走る主要バス「神奈中(神奈川中央交通)バス」の存在、神奈川県相模原市や川崎市と同じ市外局番など、日頃から「神奈川県町田市」と言われてしまう要素に事欠かない町田市だが、本当に「東京都離脱」が実現するようなことはあるのだろうか。
現在の町田市を含む多摩地区の大半は、1871(明治4)年の廃藩置県後、神奈川県に所属していた。その後「東京府」に移管されたのは22年後の1893(明治26)年。東京の水源である多摩川の上流を管理するためという理由だったが、その水源があるのは北多摩郡と西多摩郡で、町田がある南多摩郡まで移管する必要はなかった。
『あなたの知らない神奈川県の歴史』(2012年)によると、南多摩郡も含めた移管には、政治的思惑があったという。北多摩郡・西多摩郡・南多摩郡の「三多摩」で勢力の強かった自由党に手を焼いた当時の神奈川県知事・内海忠勝が、彼らの影響力を削ごうと南多摩を切り離さぬよう主張したのだ。
東京府への移管当時は、甲武鉄道(現JR中央線)の開通で東京への親近感が強まっていた北多摩の住民には移管賛成が多かったものの、西多摩と南多摩では激しい反対運動が起こった。しかし、後に三多摩だけでなく現在の大田区、世田谷区、豊島区、足立区、江戸川区も含めた地域を一つの県とする「武蔵県」構想や三多摩を神奈川県に戻す案、「多摩県」として独立する計画が持ち上がると、東京の経済発展の恩恵を受けていた多摩の住民は、一転して東京からの離脱に反対した。
町田市が市制を施行したのは1958年。以降これまで、河川改修などに合わせて、隣接する神奈川県相模原市や大和市と、何度も境界変更を行っている。相模原市との境界変更は、主に飛び地を解消して生活や土地利用上の不便をなくすためのもので、今後も段階的な実施を予定している。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[27]
[CITE[杉山淳一の時事日想:なぜ北総線の運賃は高いのか “円満解決”の方法を考える (3/6) - Business Media 誠]],
[TIME[2014-02-07]], [TIME[2014-02-07]]
<http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1304/05/news007_3.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
多摩ニュータウンになれなかった千葉ニュータウン
同じ千葉県のニュータウン開発では、規模が小さいとはいえ、山万のユーカリが丘が成功している。山万は新交通システムのユーカリが丘線を運行している。この路線は不動産事業の付帯事業で、収支は明らかにされていないが利用客は多い。大阪では大阪府都市開発が泉北ニュータウンの開発に合わせて泉北高速線を運行している。この路線は成績優秀で、大阪府は民営化を検討し、接続路線を運行する南海電鉄が名乗りを上げている。
多摩ニュータウンの場合は、小田急電鉄と京王電鉄が支線として新線を建設している。これらの新線は単独会計ではなく、鉄道事業全体のひとつに位置付けられている。運賃も本線とほぼ同じ水準だ。新線の開業当初は赤字かもしれないが、本線の乗客増加が見込めるし、将来は乗客が増えるから先行投資といえる。さらに、グループ企業によって、本線分岐駅から多摩センターに至るまでの沿線開発やバス事業も実施できた。これと多摩ニュータウンとの相乗効果で、小田急電鉄と京王電鉄はさらに先への延伸も達成している。
千葉ニュータウンも当初は多摩センター方式で鉄道を誘致した。当初は京成電鉄が中心となって運営する計画だった。しかし、京成電鉄にはそれができない事情があった。成田空港アクセス路線を建設したものの、成田新幹線計画に阻まれて空港ターミナルに到達できず、空港敷地内に駅(現在の東成田駅)を造った。そこで初代スカイライナーを走らせようとしたものの、空港反対運動によって6年間も開業が伸ばされ塩漬けとなり、車両に放火までされてしまう。他の沿線開発事業も進まず、経営危機に陥っていた。
京成電鉄が単独で千葉ニュータウン路線を建設できないため、この路線は千葉県や地元自治体が出資して北総開発鉄道として発足した。京成が50%の株を持っているため第三セクターではないが、京成電鉄とは別の会社となった。北総鉄道は新規建設区間単体で収支を算出しなくてはいけない。また、新しい北総鉄道には、沿線開発事業や付帯事業がなかった。コストはすべて運賃に反映させるしかなく、グループ会社による相乗効果もない。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[28]
[CITE[奥多摩、日原鍾乳洞へ行く(前編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜]],
[TIME[2014-08-13]], [TIME[2014-08-13]]
<http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51863867.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
今回のライドは奥多摩の日原鍾乳洞。 武蔵五日市に続き奥多摩鍾乳洞めぐりだ。 何でも今節電ブームで鍾乳洞が流行ってるらしい。 奥多摩駅から日原方面へ10キロ走る。 まずは多摩サイ。 ここは最近完成した福生の自転車道。 ご覧のように未舗装で路面はデコボコだ。 ここを走ると自転車が汚れるし デコボコにタイヤがとられて危なっかしい。 おまけに車止めが連発する。 自転車は脇の狭いスペースを抜ける。 「歩行者に注意」ってあるけど すぐ右が歩行者専用道で、左側が駐車場に続く車道だ。 歩行者は歩行車道を歩いている。 そもそも車やバイクが侵入する場所じゃないし あの車止めは何の役目を果たしているのか・・・。 自転車の事故を防ぐために 無理やり速度を落とそうとしてるんだろうが あれだけデコボコで、なおかつ狭いスペースを 抜けさせる方が、事故が多発すると思うんだけどね。 チャリは単独なら事故ってもかまわないという事なのかな? そもそも自転車専用道なら無理にスピードを 落とさせる必要もないと思うんだけどなぁ。 ブツクサいいながら多摩サイを抜ける。 いつものように青梅駅からは青梅街道で奥多摩を目指す。 「イクラあります 380円」 「なるほど。イクラがあるのか・・・」 山に住み人に海鮮は貴重なのであろう(違) 古里駅近くにあるこの商店の自販機は ドリンク100円均一でお得なのだ。 白丸ダム 家からさくっと60キロ。奥多摩駅についた。 奥多摩に来たのも鋸山アタック以来かな。 実は奥多摩に来るのも久々だったりする。 ここからは204号日原鍾乳洞線を行く。 鍾乳洞までは約10キロで 多少のアップダウンはあるが基本登り勾配。 緩い勾配を予想していたが序盤は結構ガッツリ登る。 しばし走ると、大増鍾乳洞。 ここは非常に珍しい白い鍾乳石が見れる。 しかしフラッシュから白い鍾乳石を 守るために内部は撮影禁止だ。 写真が撮れないとブログのネタにならないので 今回はスルーする。また次の機会に行けたらいい。 増水気味の日原川。 奥多摩駅からは日原川沿いに走るんだけど 川を横目に走るのは非常に気持ちがいい。 日原鍾乳洞は奥多摩駅からバスが 出ているんだけど、こんな細い道を走る。 歪んだつり橋を発見。 奥多摩工業曳鉄線。 採石運搬用の無人トロッコが走る。 う〜む。こういうのも非常にいい味わいだ。 この辺りはシャッター
]BOX]
]FIG]
- [29] [CITE[【奥多摩ポタ】水根貨物線廃線遺構めぐり(前編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜]],
[TIME[2014-08-13]], [TIME[2014-08-13]]
<http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51979304.html>
- [30] [CITE[【奥多摩の絶景!】日原街道で日原鍾乳洞へ(後編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜]],
[TIME[2014-08-13]], [TIME[2014-08-13]]
<http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51989818.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[31]
[CITE[(多摩丘陵)長沼公園【散策】 __&&[&&__山行記録__&&]&&__ - ヤマレコ]],
[TIME[2008-08-03]], [TIME[2015-04-03]]
<http://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-58901.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
トイレ:京王堀之内駅、永林寺、長沼公園、京王長沼駅 食べ物の調達:長沼公園内には自販機はなかった気がする。途中、永林寺から野猿峠に向かうまでに大きなコンビニあり。休憩できそうな店は京王堀之内駅付近以外はなし。長沼駅前は殆ど店がない。 ハイキング入門者が歩くコースとして市販のガイドブックで推奨されていたので行ってみた。本当は長沼公園から平山城址公園まで「野猿の尾根道」は続いており、往時、その尾根道は生活道路として使われていたそうだ。 しかし今、その間は一部私有地で立ち入り禁止のため、長沼公園から一度下山して住宅街を通り平山城址公園にいかなければならず、非常な遠回りだ。 本来予定していたルートは平山城址公園からまた住宅街を少し歩いて、南平丘陵(多摩動物公園の裏山?)を経、高幡不動駅をゴールとするコースだったが、永林寺見学など案外時間を食ったことから時間が足りず、このコースは京王長沼駅で終了。そこから先は長沼駅→平山城址公園駅と電車を使い、平山城址公園から更に先を目指したが住宅街の中で迷ったので、結局多摩動物公園駅まで歩いてゴールとなった。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[32]
[CITE[構造に欠陥がある駅wwwwwwwwww:哲学ニュースnwk]],
[TIME[2015-07-10]], [TIME[2015-07-10]]
<http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4856388.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
1: 風吹けば名無し@\(^o^)/ 2015/04/13(月) 10:13:48.77 ID:6syUqxmV0.net
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[33]
[CITE[日本経済新聞 印刷画面]],
[TIME[2015-07-19]], [TIME[2015-07-19]]
<http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASFK2301E_T20C14A4000000&uah=DF120120126021>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[34]
[CITE[第一京浜から高輪橋架道橋のトンネルを通る | デフよん]],
[TIME[2015-07-25]], [TIME[2015-07-25]]
<http://def4.ikt-s.com/takanawabashikadoukyou/>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
品川駅や目黒方面から芝浦ふ頭方面に行くときに、Google MapやNavitimeで経路を調べると、泉岳寺駅の脇辺りからJRの線路や新幹線を横切って進む道をナビされることがあります。それが 高輪橋架道橋 という聞き慣れない道です。通称で 高輪トンネル とも呼ばれます。
日本一高さ制限(1.5m)が厳しすぎる架道橋ということで有名です。
�
スマホのgoogle mapでの徒歩経路
あれ?こんな道あったっけ?と思いながら走って泉岳寺駅まで来ても、どこが入口かわかりずらいため、初めての場合は通り過ぎてしまいます。
�
第一京浜の上り車線を走っていると、確実に見逃します。
�
Google Mapではこの辺です。
�
映像では、このように進みました。
�
第一京浜から一方通行を走る
第一京浜の下りから入ります。 高輪大木戸跡 という信号を越えて、 泉岳寺 の信号までの間にあります。
�
� 自転車を降りて進むように注意看板があります。しかし、この絵から判断するに歩道を通る場合のようです。車道を走る自転車はどうすればいいのでしょうか?車道の標識から判断すると、自転車通行禁止の標識は見当たりません。
�
150㎝制限です。下ハン握って走ります。ちょっと怖いです。通ったのを後悔します。
�
昼12時くらいに通った映像です。下向いてるのであまり上手くとれませんでした。
�
�帰りは降りて押して歩く
帰りの泉岳寺方面に行くには、 架道橋 は車両進入禁止です。自転車は、降りて押して歩けば歩道を通れます。
自転車は降りて通行しましょう。
�
歩くと天井の低さがよくわかります。
�
のんびり歩いて帰りました。
�
最後にひとこと
ここにJR山手線の新駅が2020年完成予定です。その工事が始まると、この 高輪橋架道橋 は通れなくなる可能性が高いので通るなら今のうちです。
�
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[35]
[CITE[鉱物マニア(9)|石さまざま]],
[TIME[2015-08-13]], [TIME[2015-08-13]]
<http://ameblo.jp/jjr1712/entry-11263606445.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
今回は「 鉱物マニア 」の9回目です。
場所は、奥多摩の 白丸鉱山跡 です。松原先生に付き添うのは、以前ご紹介した 伊藤剛 さんです。
ダムには水が張られていない状態ですので、露頭がよく確認できます。
丁寧に露頭の観察をします。
伊藤さんが堅い露頭岩石を割りとります。
ブラウン鉱 (黒い部分)などが認められます。
採集した鉱物を、2重にした新聞紙などで梱包します。
露頭の岩脈を観察します。
白丸鉱山跡で確認できた鉱物は…。
そして、1999年、新鉱物として認可された 多摩石 です。
この時は、数年に一度のダムのメンテナンスのために水が抜かれていますが、普段は満水状態なので採集は不可能です。限られた期間内に採集・観察を行わざるを得ません。
多摩石 に続く新鉱物発見か?(2003年3月現在!)
言うまでもないことですが、この鉱物はこの年に新鉱物として承認された 東京石 なのです。
さて、次回は「 鉱物マニア 」の最終回となります。松原先生による、鉱物標本作成についてのアドバイス、そして今回も登場した伊藤さんの自慢のコレクションの紹介です。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[36]
[CITE[私設雑誌アーカイブ「大宅文庫」の危機【前編】 « マガジン航__&&[&&__kɔː__&&]&&__]],
[TIME[2015-08-27]], [TIME[2015-08-27]]
<http://magazine-k.jp/2015/08/27/crisis-of-oya-bunko-01/>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
「知らなかった、大宅文庫が経営の危機にあることを」――。
8月8日、このような一文から始まる書き込みをFacebookにアップした。すると瞬く間に「拡散」され、5日後には「いいね!」が497人、「シェア」が276件。Facebookと連動させているTwitterのほうは、「リツイート」が674件、「お気に入り」が272件……。正直、驚いた。こんなに話題になるとは思ってもいなかった。その一方で、「みんな本当に大宅文庫に関心があるの?」と訝る気持ちも生まれてきた。
公益財団法人・大宅壮一文庫 (以下、大宅文庫)は、東京都世田谷八幡山にある雑誌専門の私設図書館だ。その名の通り、ノンフィクション作家で評論家の大宅壮一(1900〜1970年)が蒐集した膨大な雑誌資料が元になっている。大宅壮一といえば「一億総白痴化 」や「駅弁大学」「男の顔は履歴書である」といった名言・語録でも知られているが、「本は読むものではなく引くものだ」という言葉も残している。事実、大宅の文筆活動は大量の資料に支えられており、終戦後まもなく意識的に本や雑誌を蒐集するようになったという。それらの資料は同業者や門下生にも開放され、没後の1971年、雑誌専門の私設図書館としてオープンした。
現在、大宅文庫が収蔵する雑誌は、約1万種類、約76万冊。これほど大量の雑誌をアーカイブし、一般公開している私設図書館は、国内では例がない。これに匹敵するのは、国立国会図書館と東京都立多摩図書館くらいだろう。
このような専門性を持った図書館なので、利用者はもっぱら放送・出版などのマスコミ関係者か、論文を執筆する大学生や研究者である。出版業界で20年近く糊口を凌いできた筆者も、これまでに何度も大宅文庫に出向き、資料を検索しては閲覧を申し込み、山積みにした雑誌のページを繰っては記事をコピーしてきた。○○さんのあの単行本も、△△さんのあの単行本も、「大宅文庫でコピーした記事から生まれた」と言っても過言ではない。
市区町村の公立図書館、あるいは大学図書館でも、雑誌のバックナンバーを保管しているところは少ない。長くても2〜3年、早いものでは1年も経たずに廃棄されてしまう。収蔵スペースに限りがあることもさることながら、古くなった雑誌を閲覧したいという需要があまりないからだろう。そのため、大宅文庫の利用者は、先に記したような特殊な雑誌資料を
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[37]
[CITE[殉節両雄の碑 高幡山金剛寺]],
[TIME[2007-02-21]], [TIME[2015-10-29]]
<http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/junsetutakuhon.htm>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
殉節両雄之碑
明治維新史談会2003年4月例会では前 田匡一郎 さんに、東京都日野市高幡観音境内の「殉節両雄之碑」について各種資料を御紹介頂いた。その上で松浦元治さんに読み下しをして頂いた。テキストは子母沢寛『新選組始末記』を用いたが、7ヶ所に誤りがあった。「亰」(けい)を「京」としたのが5ヶ所、ほかに「帥」を「師」、「二関」を「三関」、「昧」を「味」、「耶」を「郁」、「松本」を「松平」としている。とくに「商祚爰革」を「商詐変革」としている箇所は、まったく意味不明となっている。他に「輅之東軍」が「輅夫之東軍」となっている。下に碑文全文を掲げるが、 赤字 の部分が『新選組始末記』の誤字の部分である。
故幕府新選隊士近藤昌宜土方義豊碑
多摩之水発源武甲之境東流経青梅諸村川勢漸駛水清味甘在昔幕府堰為上水引之百里以養都下百万生霊其利用亦大矣哉而奇男子近藤
昌宜土方義豊実産於其両涯云昌宜小字勝太後改勇上石原宿人宮川久次三子養於近藤氏義豊称歳三石田村人善諄四子也二人天生忠勇
意気相投親如兄弟皆学剣法於近藤邦武先生各極其精妙文久三年春大将軍徳川家茂奉 詔上洛大募有志処士謂之新徴隊昌宜義豊踊躍
往帰焉与他応徴者無慮二百六十人以二月八日発江戸将軍以三月西上既而有命使新徴隊士皆東下昌宜慨然謂義豊曰吾察今之諸浪士大
率藉口勤王暴行恣議以排斥幕府物情洶洶変在不測為今之計者不如留 亰 師以警護輩下也乃与同志十三人連署以請為幕議可之更称曰新
選隊昌宜為之長義豊副之而隷守護職松平容保於是二人威名日著来属者甚多明年改元元治六月処士有古高俊太郎者潜居四条小橋西陰
謀火禁闕人偵知之逮捕以献焉為其夜与其党数十人闘三条街斬七人擒二十三人幕府嘉其功擬二人以上班騎士辞曰事君竭力臣之職也不
受七月長門老臣福原越後国司信濃益田衛門等託言控訴将兵数百人襲 亰 師飛丸及宮垣 亰 軍奮戦走之別将真木和泉屯天王山昌宜義豊進
撃敵自山上連砲扞之会会藩人西郷浅川等帥師至戮力攻撃甚急和泉知不可免自燔営与其党数人屠腹煙焔中福原等三将僅以身脱幕府大
賞其功特命昌宜為両番次班亦辞不受慶応二年前将軍家茂薨慶喜襲職三年十月上表辞職還政権於 朝退入大坂明治元年正月三日慶喜
奉 勅入覲先遣行人瀧川某請過伏見鳥羽二関戌兵不肯既而東兵大至 亰 軍発大熕輅之東軍応戦其時昌宜患銃創在大坂義豊独奮力戦銃
丸交注東兵遂敗慶喜自大坂駕回陽艦東帰昌宜義豊
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[38]
[CITE[井之口分水 __&&[&&__滋賀県米原市(旧坂田郡山東町)井之口__&&]&&__ ( その他趣味 ) - Yahoo!ブログ 道徒然話 - Yahoo!ブログ]],
[TIME[2016-11-27]], [TIME[2016-12-07]]
<http://blogs.yahoo.co.jp/kasuga_3z/14102754.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
2016/09/に実家に帰省した時、途中滋賀で泊まって1日滋賀湖東と三重伊賀をある人と一緒に車で徘徊した。去年の8月に原付借りて滋賀をうろついた際の残り物件等を、 クイックさん が「一緒にどないや」と誘って頂いたおかげで実現した。ある人とはそのクイックさんである。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[39]
[CITE[【マンション業界の秘密】売却したくても買い手いない 役割終えた「ニュータウン」 (1/2ページ) - 経済・マネー - ZAKZAK]],
[TIME[2014-05-18]], [TIME[2014-05-25]]
<http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20140518/ecn1405180830002-n1.htm>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
その昔、「ベッドタウン」という言葉がはやった。都心勤務者が寝に帰る街という少し揶揄(やゆ)を含んだ呼び方だ。 東京や大阪の郊外にある「ニュータウン」は典型的なベッドタウンで、多摩と千里がその代表格だろう。ともに高度経済成長期に計画され、1970年代から80年代にかけて最も活発に開発された。両方とも開発はまだ完成していないが、すでにその役割は実質的に終えている。 都市の人口が膨張し始めると、旧来の市街地だけでは収容しきれない。居住エリアは自然に郊外へと広がる。その流れを効率よく吸収しようというのが目的で、大きな成果を上げ、多くの世帯がそこにマイホームを得た。 70年代に開発されたニュータウンの集合住宅は、築40年を過ぎたものもある。 当初に入居した方は、今は大半が高齢者で、3世代目が子育てを始めるころだ。 その3世代目はどこに住んでいるのだろう。20代や30代の若い家族が築40年以上の老朽化した集合住宅に好んで住むとは思えない。自分の住みたい街に家を借りたり買ったりして暮らしているはずだ。 初代が鬼籍に入り、残された住まいを相続した人も多いだろう。この2世代目はどこに住んでいるのか。 年齢で言えば、だいたい50代から60代。多くは若いころに35年などのローンでマイホームを購入している。親のそばのニュータウン内で買った人もいるかもしれない。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[40]
[CITE[道路レポート 第二次 日原古道探索計画 ]],
[TIME[2007-03-01]], [TIME[2014-08-12]]
<http://yamaiga.com/road/nippara2/main.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
あの日、私は勝者ではなかったのか?
「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。
旧道の終点で「あの道」を見るまでは。
私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。
決定的に時間が足りなかった。
それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。
そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。
全てが命がけだった。
しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右)
結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。
再訪ではなく、再攻略を誓って。
…以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。
撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。
その成果は前回のレポートで先取りして紹介した部分も多いが、以下に『日原風土記』という本から一節紹介する。今回目指すトボウ岩という地名の由来についてだ。なお、『日原風土記』は昭和43年に日原の開祖の血筋である原島氏が中心になって編纂された郷土誌で、前回紹介した奥多摩町史にある「日原みち」の記載もこの本が元となっている。以後、本レポートでは単に『風土記』と略す。
とぼう 奥多摩工業日原鉱山の基地になっているところで現在は「とぼう」または「とぼう岩」といわれているが以前は「とんぼうぐち」といっていた。「とんぼう」とは住家の出入口を指す方言で、この「とぼう」は日原部落の出入口ということなのである。
字地書 (作者注:明治期の字名を記した書) には「とんぼう口」とあり、一書には「蜻蛉宇トンボウ山」とあった。(中略)
日原村地誌草稿(地誌)には北岸の岩を「蜻蛉地トンボジ山」とし南岸の岩を「一の通り巌山」とし「これをもとぼう口といえり」と記している。
上記を受けて本レポートでは“とぼう岩”の表記を平仮名の「とぼう岩」で統一する。
また、前回レポート内での推測通り、とぼう岩は日原川の両岸にあったことが確かめられる。
私が目指す南岸のとぼう岩は特に「一の通り巌山」と言ったらしいが由来などは不明である。読みは「いちのとおりいわやま」であろうか?
次に、今回計画(予定)を地図上で簡単に紹
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote youtube)[
[FIGCAPTION[
[41]
[CITE[日原トンネル - YouTube]],
[TIME[2014-08-13]], [TIME[2014-08-13]]
<http://www.youtube.com/watch?v=oLb9gEq82d8&feature=youtu.be>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
heppoko1970 さんの動画に高評価を付けるには Google アカウント(YouTube、Google+、Gmail、Orkut、Picasa、または Chrome のアカウント)でログインする必要があります。
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[42]
[CITE[杉山淳一の時事日想:都心〜羽田「JR東日本の羽田新線」、新案で再浮上する「やっかいな問題」 (1/6) - Business Media 誠]],
[TIME[2014-08-23]], [TIME[2014-08-23]]
<http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1408/22/news017.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
1967年東京都生まれ。信州大学経済学部卒。1989年アスキー入社、パソコン雑誌・ゲーム雑誌の広告営業を担当。1996年にフリーライターとなる。PCゲーム、PCのカタログ、フリーソフトウェア、鉄道趣味、ファストフード分野で活動中。信州大学大学院工学系研究科博士前期課程修了。2008年より工学院大学情報学部情報デザイン学科非常勤講師。著書として『知れば知るほど面白い鉄道雑学157』『A列車で行こう9 公式ガイドブック』、『ぼくは乗り鉄、おでかけ日和。 日本全国列車旅、達人のとっておき33選』など。公式サイト「OFFICE THREE TREES」ブログ:「すぎやまの日々」「汽車旅のしおり」、Twitterアカウント:@Skywave_JP。
2014年8月19日、JR東日本が休止貨物線を再利用した新路線(以下「羽田アクセス線」と呼ぶ)の概要を正式に発表した。東京貨物ターミナルから羽田空港まで新しいトンネルを掘るという。これには心底から驚いた。これは再利用どころか、本気の新線計画だ。
都心〜羽田が20分! JR東日本が新路線3ルートを発表(関連記事参照)
JR東日本の羽田アクセス線構想は、当初より「貨物線の有効活用」が前提と思われた。だから鉄道ファンだけではなく、この計画に関心を持つ多くの人々は「東京貨物ターミナルから既存の東海道貨物支線のトンネルを使い、天空橋付近で分岐して国際線ターミナル、国内線ターミナルへ向かう」と予想していた。建設コストを考えれば、新規のトンネルは短い方がいい。
なぜ、いま「羽田空港関連の鉄道建設」が盛り上がっているのか(関連記事参照)
左:羽田アクセス路線の構想について、当時の報道各社の発表をまとめた当初の予想図。一部報道に「東京テレポートから新トンネル建設」とあったため、東京テレポートからJR東日本の色の線を引いていた(7月18日掲載の記事から一部修正して再掲) 右:一方、8月19日のJR東日本の発表を受けて羽田アクセス線を再作図した。東京貨物ターミナルと羽田空港は新しいトンネルで結ぶ計画だ(作図:筆者)
しかし、この予想には心配もあった。既存の貨物列車との兼ね合いだ。東京貨物ターミナルから羽田空港島を通り、川崎貨物ターミナルまでの路線は「東海道本線の貨物支線」である。「2014JR貨物時刻表(鉄道貨物協会刊)」によると、日中の運行本数は少な
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[43]
[CITE[杉山淳一の時事日想:都心〜羽田「JR東日本の羽田新線」、新案で再浮上する「やっかいな問題」 (2/6) - Business Media 誠]],
[TIME[2014-08-23]], [TIME[2014-08-23]]
<http://bizmakoto.jp/makoto/articles/1408/22/news017_2.html>
]FIGCAPTION]
>
[BOX[
関連記事
都心〜羽田が20分! JR東日本が新路線3ルートを発表
JR東日本は、東京オリンピック開催による利用者増加に備え、都心と羽田空港を結ぶ「羽田空港アクセス線構想」を発表した。東京、新宿、新木場の各駅と羽田を結ぶ3ルートで、それぞれ所要時間は既存路線の半分程度になる見込みだ。
なぜ、いま「羽田空港関連の鉄道建設」が盛り上がっているのか
羽田空港への鉄道整備計画が活発だ。JR東日本は貨物線を使う都心アクセス路線を計画。政府は都営浅草線の新線を構想し、東急蒲田駅と京急蒲田駅を結ぶ路線計画もある。しかし、どれも東京オリンピックに間に合いそうにない。そこで杉山氏が提案するのは……。
「上野東京ライン」成功のカギは、品川駅が握っている
JR東日本は上野駅と東京駅を結ぶ4つ目の路線を「上野東京ライン」として2015年3月に開業する。従来上野駅止まりだった東北本線(宇都宮線)、高崎線、常磐線の列車が東海道本線と直通する。ただし、この計画で重要な駅は上野駅や東京駅ではなく、品川駅だ。
線路はつながっていても――京葉線とりんかい線の直通運転はなぜ難しい?
森田健作千葉県知事が5月13日、JR東日本京葉線と東京臨海高速鉄道りんかい線の直通運転の実現を目指す意向を表明した。この二つの路線は新木場駅で接続しており、線路はすでにつながっている。直通運転の障壁は何か。解決に何が必要だろうか。
どうなる、こうなる首都圏の鉄道網――(4)東京駅周辺編
今後の首都圏での新線計画を運輸政策審議会答申第18号に基づいて予想する連載の4回目(全5回)。上野駅と東京駅との間に複線を設け、JR東北本線とJR東海道線を相互直通させる東京縦貫線計画など、東京駅に関わる新線計画を今回は紹介する。
どうなる、こうなる首都圏の鉄道網――(最終回)成田新線・新交通編
今後の首都圏での新線計画を運輸政策審議会答申第18号に基づいて予想する連載の最終回(全5回)。北総鉄道を延伸し、成田空港へ接続させる計画や、ゆりかもめ、多摩都市モノレール、千葉都市モノレールといった新交通の延伸計画を今回は紹介する。