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[1] [CITE@ja[午砲 - Wikipedia]]
( ([TIME[2014-07-29 11:03:07 +09:00]] 版))
<http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%88%E7%A0%B2>
[2] [CITE[本初子午線と標準時の制定]]
( ([TIME[2014-05-29 03:02:20 +09:00]] 版))
<http://uenishi.on.coocan.jp/m910shigosen.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] ([TIME[2014-04-14 08:16:47 +09:00]] 版)
<http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/download/pdf/leaflet_07.pdf>
]FIGCAPTION]
> 江戸時代に入り、初めは明け六
> つと暮れ六つの2回だけ、日本橋の本石町の鐘が鳴らされましたが、徳川秀忠の頃から12の時(とき、いっと
> きは今の約2時間)全部が知らされるようになりました。また初めは本石町だけでしたが、明治4年9月9日か
> ら毎日正午に大砲を一発撃って時報を行うようになりました。
> 明治12年からは日本各地の兵営所在地で午砲が撃たれ、お昼の「ドン」とよばれて親しまれた。
>
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[Himuro essay:200007hm.html]]
([TIME[2003-07-05 17:27:30 +09:00]] 版)
<http://homepage2.nifty.com/cat-fish/200007hm.html>
]FIGCAPTION]
>
> 一八七一(明治四)年九月九日から、旧本丸で大砲を正午に一発打って市民に時を知らせるよう
> になった。同じ方式が各地でも行われ、それを午砲(ドン)と呼んだ。この大砲は今は小金井公園
> にある。
]FIG]
[5] [CITE[明治時代の時報 | Y氏は暇人]]
([TIME[2015-11-22 15:57:36 +09:00]] 版)
<http://y-ta.net/zihou/>
[6] [CITE@ja[午砲 - Wikipedia]]
([TIME[2015-10-22 17:23:49 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%88%E7%A0%B2>
[7] [CITE@ja[午砲台 - Wikipedia]]
([TIME[2015-11-03 21:52:30 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%88%E7%A0%B2%E5%8F%B0>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] [CITE@ja[大阪市イベント・観光 青銅製大砲(お城のドン) 1門 附 砲架1台]]
([TIME[2015-11-22 00:43:47 +09:00]] 版)
<http://www.city.osaka.lg.jp/kyoiku/page/0000009195.html>
]FIGCAPTION]
> 大阪城小天守台にある幕末の青銅製大砲である。文久3年(1863)に美作津山藩の鋳工百済清次郎が幕府の命により製作し、天保山砲台の備砲であったと伝えられる。明治になって大阪城へ運ばれ、陸軍により明治3年(1870)から同7年(1874)まで朝昼晩の時報として、それ以降は正午の時報として号砲を轟かせた。「お城のドン」として市民に親しまれていたが、大正13年(1924)に中止された。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[9] [CITE@ja[明治時代の高松の午砲について | レファレンス協同データベース]]
([[国立国会図書館]] 著, [TIME[2015-11-22 17:30:25 +09:00]] 版)
<http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000126593>
]FIGCAPTION]
> 香川県告示 第二号
> 明治三十二年一月一日ヨリ毎日
> 高松市旧城内ニ於テ午砲発放ノ件
> 同市長ヨリ届出ニ付之ヲ許可セリ
> 明治三十二年一月一日
> 香川県知事 吉原三郎
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[福岡市史HP 福岡歴史コラム]]
([TIME[2015-11-06 09:48:23 +09:00]] 版)
<http://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/column_b11.html>
]FIGCAPTION]
> 大砲を大坂砲兵工廠(こうしょう)から購入し西公園の山上に設置し、砲手は黒田藩砲術家だった末永巴を雇い、21年7月22日より日の出と正午の2回発砲することにした。正午は福岡電信局が出すわが国の標準時を用いたが、日の出は季節によって変わるということで8月1日より払暁(ふつぎょう)の発砲は午前5時に決められた。
]FIG]
[11] [CITE[ひさしぶりに目に入った「午砲」:京男雑記帳:So-netブログ]]
([TIME[2015-11-22 17:32:26 +09:00]] 版)
<http://kyo-otoko.blog.so-net.ne.jp/2015-10-09-2>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12] [CITE@ja[城山の午砲(どん): 鹿児島ぶら歩き]]
([TIME[2015-11-22 17:33:33 +09:00]] 版)
<http://burakago.seesaa.net/article/407860418.html>
]FIGCAPTION]
> 正午の時報を告げる「午砲(どん)」が昭和12年まであったそうです。
> 据えられた午砲は、ずんぐり型の山砲であったそうです。
> 正午前になると、市役所の小使いさんが懐中時計を睨みながらマッチで点火。
> その瞬間、“ドーン”という轟音とともに、大砲に詰めてあった紙の玉が破裂、新聞紙の紙吹雪が舞うものでした。
> 午砲は城山の名物となり、広場は「ドン広場」と呼ばれるようになったそうです。
]FIG]
[13] [CITE@ja[江戸城 本丸御殿跡の午砲: 東京雑写]]
([TIME[2015-11-22 17:34:59 +09:00]] 版)
<http://zassha.seesaa.net/article/374289721.html>
[14] [CITE@ja[岡山市半田山午砲(ごほう)台設置式の見学会 岡山理科大学附属高等学校]]
([TIME[2015-11-22 17:36:11 +09:00]] 版)
<http://www.ridaifu.net/news/fuzoku_topics1259726220>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE[ENJOY SURF「長崎ぶらり散歩道」サーフィン 波乗り 長崎 九州 金持ち]]
([TIME[2015-11-22 17:37:15 +09:00]] 版)
<http://www.geocities.jp/southsweel/DON.html>
]FIGCAPTION]
> 歴史をさかのぼって明治11年、この風取山に国費によって初の地方測候所が設置されたそうです。
> そして、明治36(1903)年、長崎市の要請で測候所内に午砲台が設置されたそうです。
> それから、この測候所から正午をしらせる午砲が鳴り出した訳です。
> 午砲を鳴らすのは市役所の職員さん達だったらしく。
> うちの母親の実家が、この山の近くだったこともあり、毎日、午砲を鳴らすのを見に行ってたそうです。
> 昼近くに、山の頂上で待っていると、市の職員の方が、火薬を持って頂上まで毎日、登ってくるそうです。
> 当時、正午の時報は、東京にある天文台から電話で測候所に伝えられていたそうです。
>
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[16] [CITE[【岡山】全国唯一の遺構に「午砲」、高校生が復元 岡山市北区津島東の半田山''''''[''''''09/12/10'''''']'''''']]
([TIME[2015-11-22 17:39:52 +09:00]] 版)
<http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/femnewsplus/1260690672/>
]FIGCAPTION]
> 岡山市北区津島東の半田山にあった、明治時代から昭和初期にかけて
> 市民に空砲を撃って正午を知らせた「半田山午砲」が岡山理科大付属高
> (岡山市北区理大町)の生徒らによって復元され、遺構の台の上に設置された。
> 同校によると、午砲は明治政府が近代的な国家をつくるため、時間を管理しようと各地に設置。
> 現在、午砲は国内に7か所にあったと確認されているが、設置していた台などの遺構があるのは半田山だけだという。
> 同校によると、午砲は岡山に駐留していた陸軍第17師団が設置、1909~29年に使われた。
> 現在の岡山県総合グラウンド付近から手旗信号で正午の合図を送り、空砲を撃っていたという。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[17] [CITE[午砲 写真&雑記 -日々の出来事など-/ウェブリブログ]]
([TIME[2013-12-25 06:02:46 +09:00]] 版)
<http://ben-photos.at.webry.info/200912/article_6.html>
]FIGCAPTION]
> 青森市桂木の公園内にある午砲台、戦時の金属回収令のために当時のものは無く、これは復元されたものです。
> 正午に砲声を鳴らし、昼時を知らせていたといいます。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[18] [CITE[新潟市下町案内板.ドン山]]
([TIME[2004-10-04 17:47:56 +09:00]] 版)
<http://www.najiranet.com/1.shimo.html.f/shimo.donyama.html>
]FIGCAPTION]
> 江戸時代、新潟町民に時刻を知らせていた時の鐘にかわり、
> 明治六年(1873)大砲により正午を知らせる事となり、
> 寄居の砂山に午砲所がつくられたそうです。
> ここでは大正八年に旧制新潟高等学校の校舎が造られるまでの間、
> 午砲(ドンという音)により正午を告げていましたが、
> 西船見町の砂山(現二葉中学の近くの場所)に移動した後、
> 大正十三年(1924)に午砲が廃止されるまで、
> 午砲所のある砂山は「ドン山」と呼ばれ、長年新潟の名所の一つとされ、
> 親しまれたとの事です。
> 現在は午砲所と大砲が再現されているのでした。
]FIG]