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[40] [[漢]]の[[武帝]]の時代に[[元号]]制度が成立するまでは、
[DFN[支那式即位紀年]]が使われていました。
基本的に[[君主]]の[[即位]]の後に新たな[[元期]]を設定 ([[称元]]) するものでした。
[SEE[ 他の文化圏との比較は[[即位紀年]] ]]
* 紀年法
[95]
中華文化圏の[[在位紀年]]は、
同時代に使われたものも後世の歴史家に使われたものも、
基本的には[[暦年]]の名称となっています。
つまり ([[改元]]のあった[[年]]を別にすれば) [[暦年]]の初日に始まり、
[[暦年]]の末日に終わる[[年]]の呼称となっています。
[34]
当時はともかく、現在では区別のため君主名を[[疑似元号]]として用いて[[年番号]]と併記します。
[[君主]]名に揺れがあるときは、
[[即位紀年]]の表記にも揺れが生じています
(この点、揺れがそれほど大きくない真の[[元号]]とは異なります)。
[SEE[ [[元号年]]、[[元号スロット]] ]]
[23] [[周]]で[[王]]が不在となった時代は[[共和]]○年と表記されることがあります。
[[在位紀年]]に分類されたり、[[元号]]に分類されたりすることがありますが、
[[君主]]不在なのに在位というのもおかしな話ですし、
[[元号]]の成立と一般的に理解されているものより遥かに古い時代でもあり、
不思議な位置付けがされています。
;; [[共和]]、[[元号]]も参照。
[41] [[周]]の[[文王]]の即位後を[[受命]]○年と表記することがあります。
[[文王]]崩御後も[[殷]]の滅亡頃まで使うことがあるようです。
こちらも通常の[[在位紀年]]とも[[元号]]とも異なる不思議な扱いの[[紀年法]]です。
;; [[受命]]、[[元号]]も参照。
[45] [[秦]]の[[始皇帝]]の時代は、[[皇帝]]となる前は秦王政○年と表し、
[[皇帝]]即位後は秦始皇○年と表しますが、[[改元]]はなく年番号は連続しています。
[SEE[ [[秦の即位紀年]] ]]
[42] 在位中に年を[[元年]]に戻す ([[改元]]する) 例がいくつかありました。
(後世には) 「後」などを付けて区別しています。 [SRC[>>17]]
[FIG(list)[
- [43] 魏惠王36年(紀元前334年)に[[改元]]があり、後元年とされています
- [44] 秦惠文王14年(紀元前324年)に[[改元]]があり、後元年や更元年とされています。
- [1] 漢文帝, 漢景帝, 漢武帝 [SEE[ [[漢の元号]] ]]
]FIG]
[49] 漢武帝は四元から[[元鼎]]に[[改元]]すると共に、一元-四元に名前を与えました。
これが[[元号]]の始まりとされています。
[SEE[ [[漢の元号]] ]]
-*-*-
[52] [[中国]]の一部を支配した次の勢力は[[元号]]ではなく[[在位紀年]]を使って表記されます。
[FIG(list)[
- [[秦の即位紀年]]
- [79] [[漢]]の[[高祖]] - [[武帝]]
[SEE[ [[漢の元号]] ]]
- [63] 朔寧王隗囂○年、朔寧王隗純○年 [SRC[>>62]]
- [36] [[後趙]]の[[石勒]]の時代、
[TIME[319年][year:319]]に[[称元]]して
[TIME[趙王元年][year:319]]とされました。
[TIME[趙王10(328)年][year:0328]]2月に[[太和]]に[[改元]]されました。
[SRC[>>66, >>118]]
- [20] 西魏廃帝元年-2年 (西暦552年-西暦553年) [SRC[>>14, >>18]]
- [58] [[北周]][[孝閔帝]]元年 (557年)、[[明帝]]元年 (557年) - 3年
-- [[北周]]の[[明帝]] [SRC[>>14, >>19]]
- [59] [[唐]][[肅宗]] [SEE[ [[肅宗]] ]]
- [57] [[遼]][[太祖]]元年 (907年) - 10年
- [55] [[モンゴル帝国]] ([[元]]となる前)
[SEE[ [[蒙古王即位紀年]] ]]
- [[呉元年]]
- [53] [[監国魯]]
- [54] [[呉三桂]]の[[周]] - 周王○年
- [25] 前燕 [SRC[>>21, >>37, >>38]]
]FIG]
[3] [[彝泰]]は[[元号]]説と[[即位紀年]]があります。
[SEE[ [[チベット王即位紀年]] ]]
[51] [[明]]、[[清]]は[[一世一元]]としており、
[[元号]]による紀年が実質[[在位紀年]]となっています。
[7] [[後金]]の[[天命]]、[[天聰]]は[[即位紀年]] ([DFN[汗号紀年]]) と[[元号]]の中間的な使われ方をしています。
[77] [[革除紀年]]
[48]
[[先秦時代]]には、
名目上[[周王]]を尊重しつつも[[諸侯]]が自立していました。
[[周王]]の[[即位紀年]]の他に各[[諸侯]]の[[即位紀年]]が使われました。
[[諸侯]]の[[即位紀年]]は[[漢]]の時代になってもなお[[漢の元号]]の他に[[諸侯]]領内で使われていました。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[66] [CITE@ja[プロジェクト:紀年法/共有ウォッチリスト - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-20 11:22:27 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E5%85%B1%E6%9C%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88>
]FIGCAPTION]
> 後趙※「趙王元年(319年) - 10年(328年)」を正統元号と併記
]FIG]
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[67] [CITE@ja[プロジェクト:紀年法/共有ウォッチリスト - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-20 11:22:27 +09:00]] 版)
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]FIGCAPTION]
> 前燕※「文明王4年(337年) - 15年(348年)」及び「燕王元年(349年) - 4年(352年)」を正統元号と併記
]FIG]
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[68] [CITE@ja[プロジェクト:紀年法/共有ウォッチリスト - Wikipedia]]
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]FIGCAPTION]
> 南燕: (燕平※「燕王元年 (398年) - 3年 (400年)」の在位紀年を立てる
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[69] [CITE@ja[プロジェクト:紀年法/共有ウォッチリスト - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-20 11:22:27 +09:00]] 版)
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]FIGCAPTION]
> 西魏※「元欽」「恭帝」在位紀年を置く
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[70] [CITE@ja[プロジェクト:紀年法/共有ウォッチリスト - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-20 11:22:27 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95/%E5%85%B1%E6%9C%89%E3%82%A6%E3%82%A9%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88>
]FIGCAPTION]
> 北周※「閔帝」「明帝」在位紀年を置く
]FIG]
- [117] [CITE[年号と東アジア―改元の思想と文化―]]
-- [118] 3 [CITE[東アジアにおける四~六世紀の「治天下大王」と年号]],
[[甘懐真]],
pp.265-284
]REFS]
- [17] [CITE@zh[[[帝王紀年]] - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-01-10 00:31:07 +09:00]] 版)
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[22] [CITE@zh[前元 - 维基百科,自由的百科全书]], [TIME[2021-04-24T01:43:58.000Z]], [TIME[2021-05-08T02:13:53.888Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E5%85%83>
[35] [CITE@zh[中元 - 维基百科,自由的百科全书]], [TIME[2021-04-24T01:44:11.000Z]], [TIME[2021-05-08T02:14:01.740Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%85%83>
[60] [CITE@zh[後元 - 维基百科,自由的百科全书]], [TIME[2021-04-24T01:44:13.000Z]], [TIME[2021-05-08T02:14:09.676Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E5%85%83>
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[19] [CITE@ja[明帝 (北周) - Wikipedia]], [TIME[2021-06-06T16:06:57.000Z]], [TIME[2021-06-21T09:21:39.137Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E5%B8%9D_(%E5%8C%97%E5%91%A8)>
>在位期間 明帝元年9月28日 - 武成2年4月20日
(557年11月5日 - 560年5月30日)
[18] [CITE@ja[廃帝 (西魏) - Wikipedia]], [TIME[2021-06-07T09:23:34.000Z]], [TIME[2021-06-21T09:24:18.154Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%B8%9D_(%E8%A5%BF%E9%AD%8F)>
>元欽の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では552年・553年を「西魏廃帝元年・2年」と呼んでいる。
[21] [CITE@ja[前燕 - Wikipedia]], [TIME[2021-06-07T09:32:19.000Z]], [TIME[2021-06-21T09:33:51.826Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%87%95#%E5%85%83%E5%8F%B7>
>元々は東晋の元号を使用していたが、慕容皝は345年に元号を廃止し、この年を燕王12年(燕王慕容皝の治世になってから12年目という意味である。燕王というのは元号では無い)と称した。349年(燕王16年)、後を継いだ慕容儁はこの年を燕王元年(燕王慕容儁の治世1年目)と改めた。そして352年に帝位に即くと、初めて元璽という独自の元号を用いるようになった。
[37] [CITE@zh[慕容儁 - 维基百科,自由的百科全书]], [TIME[2021-06-16T16:43:28.000Z]], [TIME[2021-06-21T09:35:57.667Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%85%95%E5%AE%B9%E5%84%81#%E8%99%8E%E8%A6%96%E4%B8%AD%E5%8E%9F>
>次年(349年)稱元年,仍不用東晉年號。
[38]
[CITE@ja[慕容儁 - Wikipedia]], [TIME[2021-06-06T21:17:40.000Z]], [TIME[2021-06-21T09:37:14.123Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%95%E5%AE%B9%E5%84%81#%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E3%82%92%E7%B6%99%E3%81%90>
>349年1月、この年を燕王元年と定め、父の時代同様に東晋の元号は用いなかった。但しこれは東晋との従属関係を否定した訳ではなく、周王朝に従属しながらも独自の暦を用いていた春秋時代の列国の故事に倣ったものである。
[39] [CITE@zh[燕元 - 维基百科,自由的百科全书]], [TIME[2021-06-07T09:38:47.000Z]], [TIME[2021-06-21T09:39:34.997Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E7%87%95%E5%85%83>
[46] [TIME[2021-06-21T09:44:37.500Z]]
<https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download&item_id=37019&item_no=1&attribute_id=21&file_no=1>
- [146]
[CITE[建元[ASIS[与][G]]改元:西汉新莽年号研究]],
[[辛德勇]],
2013年7月北京第1[ASIS[版][G]],
2020年5月北京第4次印刷
-- [144]
[CITE[建元与改元:西漢新莽年号研究]],
[[辛徳勇]]
-- [145] [CITE@es-us[[[Amazon]].com: 中华学术文库·建元与改元:西汉新莽年号研究: Books]], [TIME[2021-06-21T08:50:39.000Z]] <https://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/B00DXL94NC/wakaba1-22/>
[47]
[[前燕]]の[[慕容儁]]「初立未建元号,但称燕元年,燕二年」
[SRC[>>146 p.72 ([CITE[重校訂紀元編]], [[羅振玉]]の巻頭自序)]]
* 日本
[10] [[日本]]の[[元号]]導入前・中断期は在位中の[[天皇]] (または[[神功皇后]])
による[[紀年法]]を用います。
[SEE[ [[天皇即位紀年]] ]]
[81] [[日本]]では[[中央政府]]の勢力の弱い時期も[[中央政府]]の[[元号]]が使われており、
地方勢力の[[在位紀年]]を使ってはいないようです。
[50] [[琉球王国]]の歴史の記述では普通は[[中国]]の[[元号]] (場合により[[日本]]の[[元号]])
を使い、[[在位紀年]]はあまり使わないようです。
(使うこともないわけではない: [[琉球王即位紀年]])
* 朝鮮半島
[11] [[朝鮮半島]]は大部分の期間に[[中国]]の[[元号]]を使っていました。
正史では[[朝鮮半島]]の王の在位による紀年法を用いています。
歴史書や百科事典等でもそれに従っていることがあります (し、本来の[[中国]]の[[元号]]を使うこともあります)。
[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]] ]]
* 蒙古
[SEE[ [[蒙古王即位紀年]] ]]
* 君主以外によるもの
[4]
[[皇帝]]や[[国王]]が空位で、
その代理を称する事実上の君主の[[即位紀年]]を用いる場合もあります。
[SEE[ [[称制紀元]] ]]
* 追号説
[9]
[[即位紀年]]に後世、[[追号]]したものや、
[[追号]]が疑われているものがあります。
[FIG(short list)[ [33] [[追号]]説のある[[元号]]
- [[大化]]
- [[白雉]]
- [[朱鳥]]
- [[天命]]
- [[天聰]]
]FIG]
* メモ
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE[西周代陝東出自者「周化」考 ―西周中期改革考(1)―]]
([TIME[2010-10-19 16:34:40 +09:00]] 版)
<http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/617/617PDF/tani.pdf>
]FIGCAPTION]
> 中期改革期以前の器銘である段簋銘(中期[4208])15)に、
> 唯王十又四祀十又一月丁卯、王在畢、烝。戊辰、曾。王 段暦、念畢仲孫子、令龔 、 大則于段。・・
> これ王の十又四祀十又一月丁卯、王 畢に在り、烝す。戊辰、曾す。王 段の暦を わし、畢仲の孫子を念いて、龔 を令い、大則を段に らしむ。・・
> とあり、「畢仲孫子」である段が殷式紀年法を用いているのであるが、畢仲は周族出自であると考えられる 16)。そうだとすれば、周族出自者によっても殷式紀年法が用いられる事があり得たという事になり 17)、殷式紀年法の使用有無のみを根拠として陝東出自であるか否かを判断する事は危険であるという事になるのである。
> 咸井叔が右者を担当していた前掲 䋢銘は共王 2 年の器銘であるが、共王 7 年の 曹鼎一銘(中期
> [2783]、Ⅱ B)と懿王元年の師虎簋銘(中期[4316]、Ⅱ B)では、
> 隹七年十月既生覇、王在周般宮。旦王格大室。井伯入右塇曹、位中廷、北郷。・・
> これ七年十月既生覇、王 周の般宮に在り。旦に王 大室に格る。井伯 入りて塇曹を右け、中
> 廷に位して、北郷す。・・
> 隹元年六月既望甲戌、王在杜 、格于大室。井伯内右師虎、即位中廷、北郷。・・
> これ元年六月既望甲戌、王 杜 に在り、大室に格る。井伯 内りて師虎を右け、位に中廷に即き、北郷す。・・
> というように井伯が右者に任じられており、懿王 12 年の走簋銘(後期[4244])では、
> 隹王十又二年三月既望庚寅、王在周。格大室、即位。 〓馬井伯[入]右走。・・
> これ王の十又二年三月既望庚寅、王 周に在り。大室に格り、位に即く。 〓馬井伯 入りて走
> を右く。・・
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[16] [CITE@ja[逸周書 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-05 11:27:02 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B8%E5%91%A8%E6%9B%B8>
]FIGCAPTION]
> 『春秋左氏伝』文公2年に『周志』からの引用があり、これは現行の『逸周書』大匡解第三十七にも見える。また、襄公11年に『書』の引用として「安きに居りて危うきを思う」というが、これが『逸周書』程典解の「安きに於て危うきを思う」とほぼ一致し、襄公25年の『書』の引用も常訓解に見える'''['''3''']'''。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[24] [CITE@ja[携王 (周) - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-10 01:13:44 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%90%BA%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)>
]FIGCAPTION]
> 紀元前759(平王12年)年、多くの有力諸侯が与する平王は圧倒的な戦力で携王勢力を打倒し、
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[28] [CITE[元号-2200年前に生まれて、今使っているのは日本だけ: ことのはくりえーと]]
([TIME[2016-02-11 00:13:52 +09:00]] 版)
<http://adekalifecreate.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_99db.html>
]FIGCAPTION]
> 「このめでたい日を境に、元号を後元(こうげん)としよう」
> といったのでこの年が後元元年とされました。それまでは皇帝の即位から単純に元年、弐年と数えていたので(在位紀年法といいます)、この文帝の改元をもって中国正史では元号のはじめてとされています。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[29] [CITE@ja[昭武 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-11 00:26:46 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E6%AD%A6>
]FIGCAPTION]
> 呉三桂は1673年(康熙12年)旧11月に叛して周王を称し、その翌年旧正月よりこれを在位紀年として用いた。1678年(康熙17年)旧3月に皇帝の位に即き、改めて昭武と建元した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[30] [CITE@ja[1678年 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-11 00:33:39 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1678%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
> 呉三桂 : 周王5年、昭武元年3月 - 8月
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[31] [CITE@ja[1677年 - Wikipedia]]
([TIME[2016-01-14 06:14:17 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/1677%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
> 呉三桂 : 周王4年
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[32] [CITE[学位論文要旨詳細]]
([TIME[2016-02-11 00:38:22 +09:00]] 版)
<http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/gakui/cgi-bin/gazo.cgi?no=213133>
]FIGCAPTION]
> 史記東周紀年の再編について
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[56] [CITE@ja[年号うんちく]]
([TIME[2004-04-28 23:34:03 +09:00]] 版)
<http://www002.upp.so-net.ne.jp/ayuta/rekisi/syoji/nen.html>
(消滅確認 [TIME[2021-01-29T06:38:20.00Z]])
[CITE@ja[年号うんちく]], [TIME[2021-01-29T06:38:11.000Z]], [TIME[2003-12-17T01:50:48.340Z]] <https://web.archive.org/web/20031217015047/http://www002.upp.so-net.ne.jp/ayuta/rekisi/syoji/nen.html>
]FIGCAPTION]
> 元号(年号)が初めて正式に定められたのは、漢の文帝の後元元年(紀元前168年)であるようです。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[61] [CITE[過立齋日進譚 - 学術筆記]]
([TIME[2015-10-14 22:54:11 +09:00]] 版)
<http://www.karitsu.org/column/000505sk8.htm>
]FIGCAPTION]
> 『春秋』を読もうとする時、隠公元年の冒頭でいきなり厄介な問題に直面します。
> 隱公元年、春王の正月…
> 『左伝』にしろ『公羊伝』にしろ『穀梁伝』にしろ、ここで必ず「王の正月」という表現が問題にされます。「王の正月」とは一体何なのでしょうか。同所の『左伝』には「元年春、王の周の正月」とあり、また『公羊伝』には次のようにあります。
> 元年とは何ぞや、君の始年なり。春とは何ぞや、歳の始なり。王とは孰れの謂か、文王を謂ふなり。
> すなわち、「王の正月」とは、周王朝の正月を指し(『公羊伝』ではより具体的に、周の文王が受命に際して奉じた正朔とする)、魯公の正月と区別されているのが分かる訳です。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[62] [CITE@ja[漢復 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-11 11:08:52 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%BE%A9>
]FIGCAPTION]
> 柏楊はこの年(30年)から33年までを「朔寧王隗囂元年」から「4年」まで、34年を「朔寧王隗純元年」とする在位紀年を立てている。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[65] [CITE@ja[漢復 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-20 11:24:05 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BC%A2%E5%BE%A9>
]FIGCAPTION]
> 柏楊はこの年(30年)から33年までを「朔寧王隗囂元年」から「4年」まで、34年を「朔寧王隗純元年」とする在位紀年を立てている。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[71] [CITE@zh[周懿王 - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-02-28 21:19:29 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%87%BF%E7%8E%8B>
]FIGCAPTION]
> 《竹書紀年》記載:「懿王元年,天再旦於鄭」,指的是周懿王元年,在一天之內,接連出現兩次天亮的現象,當時在陝西華縣的鄭國一帶可見到這個奇景。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[72] [CITE@zh[周康王 - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-03-04 06:03:35 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%BA%B7%E7%8E%8B>
]FIGCAPTION]
> 康王十二年六月,周康王亲自由镐京步行至丰京(今陕西省西安市西南、沣河以西)祭祀先祖,沿途由毕公高率军护卫。周康王在祭祀时作《毕命》,督促毕公高要好好教化商朝的遗民。'''['''10''']'''
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[73] [CITE@zh[周宣王 - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-03-06 15:16:21 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E5%AE%A3%E7%8E%8B>
]FIGCAPTION]
> 周宣王继位于共和之后,在位46年,有观点认为周宣王继位于共和元年,'''['''79''']'''而张培瑜根据逨鼎铭文推断周宣王元年为前826年,'''['''80''']'''朱鳳瀚認為宣王元年在哪一年仍須斟酌,但「如依宣王元年為公元前826年的方案,有至少11件銅器可排入宣王年曆中」'''['''81''']'''或者認為當時存在著兩個宣王紀年的體系。'''['''82''']'''下文列出史書及近人考証的看法:
]FIG]
[74] [CITE@zh[在位年與西曆對照表 - 搜索结果 - 维基百科,自由的百科全书]]
([TIME[2016-03-23 00:40:10 +09:00]] 版)
<https://zh.wikipedia.org/w/index.php?search=%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E8%88%87%E8%A5%BF%E6%9B%86%E5%B0%8D%E7%85%A7%E8%A1%A8&title=Special%3A%E6%90%9C%E7%B4%A2&go=%E5%89%8D%E5%BE%80>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[75] [CITE@ja[干支 - Wikipedia]]
([TIME[2016-03-24 21:47:06 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B2%E6%94%AF>
]FIGCAPTION]
> 現在のような順序数による紀日法がいつ始まったかはわかっていないが、現在のところ、山東省臨沂県(りんぎけん)から出土した銀雀山漢墓竹簡、および武帝7年(元光元年、紀元前134年)の暦譜竹簡の例が最古とされている。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[93] [CITE@ja[改元 - Wikipedia]]
([TIME[2019-02-15 12:57:56 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E5%85%83>
]FIGCAPTION]
> 元号使用以前について、正史では便宜上、「中元年」「後元年」など、「中」や「後」をつけて記録している。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE@ja[史記/卷015 - Wikisource]]
([TIME[2019-04-04 22:04:03 +09:00]])
<https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7015>
]FIGCAPTION]
> 初更元年
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[76] [CITE@ja[廃帝 (西魏) - Wikipedia]]
([TIME[2020-01-13 15:55:40 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E5%B8%9D_(%E8%A5%BF%E9%AD%8F)>
]FIGCAPTION]
> 元欽の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では552年・553年を「西魏廃帝元年・2年」と呼んでいる。
]FIG]
[5] [CITE@ja[佐藤 信弥 (Shinya Satō) - 年号以前――中国で年号制度ができるまで - 社会貢献活動 - researchmap]], [[Japan Science and Technology Agency]], [TIME[2020-10-03T03:08:56.000Z]] <https://researchmap.jp/satoshin257/social_contribution/2632600>
[6] 「[V[献帝二十五年]]」
[CITE[薮内清著作集]] 第二集 p. [V[二九〇]]
[8] [CITE[jor002_1_14.pdf]], [TIME[2015-11-02T04:58:07.000Z]], [TIME[2021-02-06T09:58:06.306Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/145574/1/jor002_1_14.pdf>
[78] [CITE[tani.pdf]], [TIME[2010-10-19T07:34:40.000Z]], [TIME[2021-05-03T10:27:32.677Z]] <http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/617/617PDF/tani.pdf>
[12] [CITE@ja[史記/卷015 - Wikisource]]
([TIME[2021-04-24T05:56:58.000Z]], [TIME[2021-05-08T05:57:18.517Z]])
<https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B7015>
[13] [CITE@ja[「漢字の成り立ち」を語る際、まず第一に『ある漢字の意味は、必ずしもその字の字形と関係があるわけではない』ことを明確に認識しなければならない|nkay|[[note]]]], [TIME[2021-05-25T03:39:39.000Z]] <https://note.com/nkay/n/n749b4ac54acb>
>睡虎地秦簡《語書》は冒頭に廿年(秦始皇20年=紀元前227年)とあり、秦統一前に書かれたものです。