/
518.txt
4818 lines (3743 loc) · 250 KB
/
518.txt
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
160
161
162
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
183
184
185
186
187
188
189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241
242
243
244
245
246
247
248
249
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
260
261
262
263
264
265
266
267
268
269
270
271
272
273
274
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285
286
287
288
289
290
291
292
293
294
295
296
297
298
299
300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335
336
337
338
339
340
341
342
343
344
345
346
347
348
349
350
351
352
353
354
355
356
357
358
359
360
361
362
363
364
365
366
367
368
369
370
371
372
373
374
375
376
377
378
379
380
381
382
383
384
385
386
387
388
389
390
391
392
393
394
395
396
397
398
399
400
401
402
403
404
405
406
407
408
409
410
411
412
413
414
415
416
417
418
419
420
421
422
423
424
425
426
427
428
429
430
431
432
433
434
435
436
437
438
439
440
441
442
443
444
445
446
447
448
449
450
451
452
453
454
455
456
457
458
459
460
461
462
463
464
465
466
467
468
469
470
471
472
473
474
475
476
477
478
479
480
481
482
483
484
485
486
487
488
489
490
491
492
493
494
495
496
497
498
499
500
501
502
503
504
505
506
507
508
509
510
511
512
513
514
515
516
517
518
519
520
521
522
523
524
525
526
527
528
529
530
531
532
533
534
535
536
537
538
539
540
541
542
543
544
545
546
547
548
549
550
551
552
553
554
555
556
557
558
559
560
561
562
563
564
565
566
567
568
569
570
571
572
573
574
575
576
577
578
579
580
581
582
583
584
585
586
587
588
589
590
591
592
593
594
595
596
597
598
599
600
601
602
603
604
605
606
607
608
609
610
611
612
613
614
615
616
617
618
619
620
621
622
623
624
625
626
627
628
629
630
631
632
633
634
635
636
637
638
639
640
641
642
643
644
645
646
647
648
649
650
651
652
653
654
655
656
657
658
659
660
661
662
663
664
665
666
667
668
669
670
671
672
673
674
675
676
677
678
679
680
681
682
683
684
685
686
687
688
689
690
691
692
693
694
695
696
697
698
699
700
701
702
703
704
705
706
707
708
709
710
711
712
713
714
715
716
717
718
719
720
721
722
723
724
725
726
727
728
729
730
731
732
733
734
735
736
737
738
739
740
741
742
743
744
745
746
747
748
749
750
751
752
753
754
755
756
757
758
759
760
761
762
763
764
765
766
767
768
769
770
771
772
773
774
775
776
777
778
779
780
781
782
783
784
785
786
787
788
789
790
791
792
793
794
795
796
797
798
799
800
801
802
803
804
805
806
807
808
809
810
811
812
813
814
815
816
817
818
819
820
821
822
823
824
825
826
827
828
829
830
831
832
833
834
835
836
837
838
839
840
841
842
843
844
845
846
847
848
849
850
851
852
853
854
855
856
857
858
859
860
861
862
863
864
865
866
867
868
869
870
871
872
873
874
875
876
877
878
879
880
881
882
883
884
885
886
887
888
889
890
891
892
893
894
895
896
897
898
899
900
901
902
903
904
905
906
907
908
909
910
911
912
913
914
915
916
917
918
919
920
921
922
923
924
925
926
927
928
929
930
931
932
933
934
935
936
937
938
939
940
941
942
943
944
945
946
947
948
949
950
951
952
953
954
955
956
957
958
959
960
961
962
963
964
965
966
967
968
969
970
971
972
973
974
975
976
977
978
979
980
981
982
983
984
985
986
987
988
989
990
991
992
993
994
995
996
997
998
999
1000
[7]
歴史的に[DFN[改元の期日]]にはこれといった決まりはなく、
その時々の政治的指導者が適切と考える時期に、
その時代に最適と思われるスケジュールで[[改元手続き]]が進められてきました。
[358] 従って[[改元]]がいつ行われた (と解釈する) かの処理は、
かなり複雑で込み入った問題のようです。
[187]
[[現代日本]]人にとってはある日、ある瞬間に旧元号から新元号に変更されるという意識が強いようで、
事務処理上もある日がどの元号だったのか自動的に決まる方が便利なのであります。
ところが実際には旧元号と新元号の期間は互いに重なり合っているのであって、
[[改元日]]の含まれる[[年]]のはじめから[[無限]]の未来まで、
グラデーション状に移り変わるとでもいうべきものです。
[SEE[ 改元一般は[[改元]]、手続きは[[改元手続き]] ]]
* 改元の段階
[210] [[改元]]実施の時期に関する議論にはいくつかの要素があって混乱しやすく注意が必要です。
- [6001] ㋑ 改元事由発生の日時
- [6002] ㋺ 新元号の制定の日時
- [6003] ㋩ 新元号の発表の日時
- [6004] ㋥ 新元号の利用開始の日時
- [6005] ㋭ 新元号の対象となる最速の日時
[213] 改元事由発生㋑は主として[[代始改元]]・[[称元]]に関係します。
先代の年号から今代の年号に切り替えるに当たり、
先代の退位の年から新年号とするか、
その翌年を新年号とするか、
2つに大別できます。
[SEE[ 改元事由については[[改元]] ]]
[211] 制定㋺、発表㋩、利用開始㋥については、
日時制度、法制度、交通・通信と情報技術の発達に伴い、
互いに明確な区別が求められるようになり、
しかも利用開始㋥の精密化・同時化が進みました。
伝統と革新、利便性といったそれぞれの思惑で現在でもいろいろな議論があります。
利用開始㋥は厳密には法令の施行、書類やシステムの更新など段階を分けることができ、
議論はいくらでも複雑になります。
なお[[即位紀年]]に㋺㋩はありません。
[214] 対象日時㋭については利用開始㋥と同時とするのが直感的には自然でありますが、
改元は年の呼称が改められるのだから年始に遡及するという説が古くから唱えられていました。
代替わり㋑とそれ以後の手続きの時間的配置の問題とも影響してきます。
近現代に至っても、
制定㋺が利用開始㋥の日の途中だったときどう理解するべきか、
代替わり㋑と改元が一致しなければならないのではないかという議論があります。
利用開始㋥は「施行」と呼ばれますが、
対象日時㋭も「遡って施行」のように呼ばれるため混乱の元となっています。
-*-*-
[318]
改元時期について、次のような用語がありますが、
定義が曖昧で、同じ語でも人によって違うものを指していることがあります。
対になっているような語でも、意味が対になっていないこともあります。
誤用から生じたとみられる語もあります。
(詳しくは >>10):
[DFN[即時改元]]
[DFN[即日改元]]
[DFN[践祚同年同日改元]]
[DFN[践祚同日改元]]
[DFN[即位同時改元]]
[DFN[翌日改元]]
[DFN[踰日改元]]
[DFN[踰月改元]]
[DFN[踰年改元]]
[DFN[越年改元]]
[DFN[翌年改元]]
[DFN[明年改元]]
[DFN[次年改元]]
[DFN[踰年正月改元]]
[DFN[践祚踰年改元]]
[DFN[立年改元]]
[DFN[当年改元]]
[DFN[立年即日改元]]
[DFN[立年踰日改元]]
[319] 誤解を防ぐため、こうした語は'''できるだけ避け'''、
何から何までの時期か説明的に記述するべきです。
[235] 説明的に時期を表す言葉にも混乱の要素があります。
「即位翌年の改元」が、
「即位翌年年始の改元」を表す場合と「即位翌年中の改元」を表す場合があり得ます
(「即位よりも後の年のいつかの改元」を表す場合すらあります)。
「即位」の時点も、
先帝崩御、
皇位継承発生、
[[践祚]]儀式、
[[即位]]儀式、
皇位継承の発生した日全体 (のいずれかの時点)、
皇位継承の一連の行事全体 (のいずれかの時点)
のどれを指す場合もあり得ます。
冗長になってしまいますが、記述したい対象を正確に説明する他ありません。
* 代始改元の時期
[17]
[[即位紀年]]や[[代始改元]]は、
代替わり㋑から改元㋺㋩㋥までの時期が問題となります。
改元によって先代の最終年を途中で終わらせることを好ましくないとしたり、
逆に元号と在位時期が完全に一致することを好ましいとしたり、
いろいろな考え方があります。
;; [18] [[代始改元]]以外の理由の[[改元]]は、
おおむね改元事由㋑が生じ次第すぐに実施する趣旨のものですから、
あまり問題とされることはありません。
[19] 先代退位、[[称制]]・[[摂政]]、[[践祚]]、[[即位]]といった時代と地域によって異なり複雑な代替わりの過程も話を複雑にしています。
[56] 次のように分類できます。
- [57] 代替わりのあった年のうちに新元号を実施する
- [58] 代替わりの翌年以後に新元号を実施する
-- [59] 代替わりの次の年に新元号を実施する
-- [60] 代替わりの次々年かそれ以後に新元号を実施する
- [61] 代替わりの改元を実施しない
[20] 代替わりのあった年を当日、翌日、翌月などと細分することもあります。
ただし改元の諸段階㋺㋩㋥㋭の議論が交わり複雑になっています。
[21] 翌年(以後)に実施することを[[踰年改元]]ということが多いようです。
翌年といっても時期は様々で、元日でないことのほうが多いです。
「[[踰年改元]]」という言葉も使う人によって少しずつ意味が違っています。
-*-*-
[11] [[改元]]の実施時期は長年明確な定めを欠いていました。
[[日本]]の旧[[皇室典範]]時代は[[即位]]後ただちに[[改元]]すると定めていました。
[SEE[ [[日本の元号法制]] ]]
[146] 現在の[[法令][日本の元号法制]]は[[即位]]後どのタイミングで[[改元]]するべきかを定めていません。
[CITE[元号法]]制定当時の[[国会]]では翌年の新[[元号]]実施の是非も議論されました。
[[日本政府]]はその可能性を排除せず、
実際[[平成改元]]では仮に[[皇位継承]]が[[年末]]なら翌[[年始]]から新[[元号]]とすることが[[政府]]内で密かに検討されたといわれています。
[[令和改元]]でも[[年始]]からの新[[元号]]実施を提案する人はいました。
現実には、どちらも新年を待たずに[[皇位継承]]に近いタイミングで[[改元]]されました。
-*-*-
[48]
[CITE[旧唐書]]によると、
[[唐]]の[[代始改元]]の19例中、
10例は「踰年正月改元」であって、
うち9例は正月、
うち5例は元日から新元号が使用開始されました。
[[漢]]から[[清]]の時代まで、
約100例、6割が「踰年正月改元」でした。
[SRC[>>49 普及版 p.16, p.23]]
㋑ - ㋥
;; [357] [CITE[Wikipedia]] の説 >>65
[50]
[[日本]]では、
[[奈良時代]]には7例中4例が[[祥瑞][祥瑞改元]]を伴う「践祚同年同日改元」、
3例が「踰年改元」でした。
[[平安時代]]、[RUBYB[[[弘仁]]改元][[TIME[810年][year:810]]]]以来
「踰年改元」が慣例となりました。
[RUBYB[[[明治改元]]][[TIME[1868年][year:1868]]]]まで、
7割近くが「踰年改元」でした。
ただし正月以外の実施例が多くありました。 [SRC[>>49 普及版 p.17]]
㋑ - ㋥
[51]
[CITE[日本後紀]]の[RUBYB[[[大同]]改元][[TIME[806年][year:805]]]]
([[践祚]]と同年) の記事は、
踰年せずの改元は1年に2君を持ち、
新帝が旧帝の年の残りを奪うことになるため非礼だ、
と批判しました。
次の[RUBYB[[[弘仁]]改元][[TIME[810年][year:810]]]]
([[践祚]]の翌年) でこれが主張されたと考えられています。
以後これが先例とされ、
[[平安時代]]中期の[CITE[新儀式]] (逸文) や[[平安時代]]末期の[[大外記]]の[[清原頼業]]
([CITE[玉葉]] 治承4年12月4日条)
も同年の改元は不吉で、翌年の改元が慣例だとしていました。
[SRC[>>49 普及版 p.18, p.23]]
[REFS[
- [49] [CITE[日本年号史大事典]]
]REFS]
-*-*-
[FIG(short list)[ [521] [[代始改元]]の時期
- [[西夏の元号]]
]FIG]
[522] [CITE@zh[晉書/卷028 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2022-01-28T05:16:01.000Z]], [TIME[2022-02-11T05:20:34.189Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7028>
[583] [CITE@ja[即位 - Uyopedia]], [TIME[2020-01-22T05:25:01.000Z]], [TIME[2023-09-27T06:22:24.501Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E5%8D%B3%E4%BD%8D#.E7.A7.B0.E5.85.83>
>立年称元はまた当年称元、エジプト式紀年法、アンチデートシステム(antedate (時前)system)、などという。 踰年称元はまた越年称元、メソポタミア式紀年法、ポストデートシステム(postdate (時後)system)、などともいう。 古代イスラエル王国(北王国)では後者、ユダ王国(南王国)では前者が用いられた。 日本でも中国でも、古くは前者が用いられたが、中国では戦国時代から後者になり、歴史記録がそれに合わせて溯って改訂再編された。 日本でも『古事記』は前者のまま、『日本書紀』は後者に合わせた編集がされている。 後者の方が明らかに合理的ではるかに便利であり伝統もあったにかかわらず、明治以降、日本の代替わり改元では前者に従うようになった。愚かしいことではなかろうか。
** 越南の代始改元
[567]
[[越南の元号]]の[[改元]]の時期も、
[[皇帝]]の[[即位]]の翌年とする事例が多く、
[CITE[春秋]]
以来の望ましい方式と認識されていました。
[SRC[>>565]]
-
[569]
[CITE[大越史記全書]]において著者[[呉士連]]は、
前帝崩御の翌年の[[改元]]が「春秋の法」であるとし、
1年に2君あるのは不適切とする[CITE[書経]]を引いて説明しました。
[SRC[>>568, >>565]]
-
[570]
[[阮朝]]編纂の
[CITE[欽定大南会典事例続編]]
によると、
[[建福帝]]は即位時に翌年を建福元年とすることを定めましたが、
その即位の詔では、
古から帝王が践祚する際は翌年に改元するのが正しい礼だと述べていました。
[SRC[>>565]]
[571]
しかし実際には[[即位]]と同年に[[改元]]した例も少なくありません。
簒奪など特別な事情がある例だけでなく、
[[李聖宗]]の[TIME[龍瑞太平元(1054)年][1054]]のように、
皇位争いがない平穏な即位でも年内に[[改元]]されています。
[SRC[>>565]]
[572]
[[李朝]]は、[[李太宗]]が[[三王の乱]]で兄弟を殺して即位改元しましたが、
これが即位同年内の改元の先例となりました。
[SRC[>>565]]
[573]
[[黎朝]]の時代に[[儒教]]が重視されるようになり、
[[呉士連]]のように[[儒教]]的観点から同年中の[[改元]]を批判し、
翌年の[[改元]]を良しとする風潮が生まれました。
[SRC[>>565]]
[574]
[[陳朝]]の時代には[[譲位]]が多く、
同年中の[[改元]]が多く行われました。
先代 ([[上皇]]) の指名による新帝の即位改元であるため、
非礼には当たらないと解釈されたものと考えられます。
[SRC[>>565]]
;; [575] [[日本]]では8世紀の譲位では同年中の[[改元]]が多いですが、
[[院政期]]には原則通りの翌年の[[改元]]が普通になります。
[SRC[>>565]]
[REFS[
-
[568]
[CITE@zh[[[大越史記全書]]/本紀卷之二 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-03-19T07:38:22.000Z]], [TIME[2023-04-02T07:38:46.517Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%B6%8A%E5%8F%B2%E8%A8%98%E5%85%A8%E6%9B%B8%2F%E6%9C%AC%E7%B4%80%E5%8D%B7%E4%B9%8B%E4%BA%8C>
-
[566]
[CITE[[[年号と東アジア―改元の思想と文化―]]]]
--
[565]
[[[CSECTION[[V[ベトナムの年号史試論 [WEAK(smaller)[―丁・前黎・李・陳朝期[WEAK(smaller)[(十世紀〜十四世紀)]]の事例を中心に―]]]]]]]]
]REFS]
** 朝鮮半島の代始改元
[SEE[ [[朝鮮半島の即位紀年]] ]]
* 改元日
[45]
[[改元]]の日、[DFN[改元日]]に言及されることは多いですが、
[[改元手続き]]のどのタイミングを指すかは自明ではありません。
[52]
[[日本の元号]]の[[改元]]の大多数は[[改元日]]に一応の定説があります。
複数説がある場合でも、
そのうちの1つが多くの[[一覧表の類][元号一覧]]で共通して採用されているようです。
[SEE[ [[日本の元号]]、[[元号一覧]] ]]
[72]
[[昭和]]までの[[日本の元号]]は[[詔書]]㋺に記入された日付、
[[平成]]以降は[[政令]]の[[施行]]の日
(理論上は㋥、実態は㋭) を[[改元日]]とみなすのが一般的なようです。
;; [SEE[ 具体的な日付は[[元号一覧]]のデータファイル ]]
[76]
ただし、[[流布されている一覧表の類][元号一覧]]の中には、
[[旧暦]]、[[グレゴリオ暦]]、[[ユリウス暦]]の[[換算][暦の換算]]に失敗したもの、
[[西暦]]への[[換算][暦の換算]]時に[[暦法]]による[[年始]]の違いの処理に失敗したものもあります。
[[西暦]]が[[グレゴリオ暦]]か[[ユリウス暦]]か明記されず一見しただけではわからないものもあります。
[SEE[ [[ユリウスグレゴリオ暦]] ]]
-*-*-
[97] [[日本の公年号][日本の元号]]のうち、唯一[[文中]]への[[改元]]だけ、
[[改元日]]に定説すらありません。
[77] [[一覧表の類][元号一覧]]は[[月]]までで[[日]]不明としており、
[[変換ソフトウェア][元号一覧]]は仮に月初を改元日として扱うのが主流のようです。
ただし西暦換算が原因の揺れが存在します。
[SEE[ [[日本の元号]]、[[元号一覧]] ]]
-*-*-
[265] [[日本の公年号][日本の元号]]のうち、
[[白雉]]と[[朱鳥]]は、
次の[[元号]]が定められずに使われなくなりました。
[78] 次の[[天皇]]の[[即位]]までが旧[[元号]]の期間とされていますが、
それを過ぎても旧[[元号]]が一部で使われた記録があります。
[79] 一覧表の類は無[[元号]]期間について[[天皇即位紀年]]によるもの、
空白期間と明記するもの、
明記しないが前後期間に含めないもの、
旧元号の期間に含めるもの、
架空の元号的なものを置いて代用させるものと対応が分かれています。
境界は前[[天皇]]の[[崩御]]の日とするもの、
新[[天皇]]の即位の日 (または前日) とするもの、
年末とするものがあります。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
-*-*-
[150]
[CITE[日本年号史大事典]]は[[改元]]の日のほか、
各手続きの日程も判明しているものは記載しています。
異説も掲載しています。
[SEE[ [[元号一覧]>>401] ]]
[153] 巻末一覧表は[[文応]]欄に誤植があります。
[154] [[平成]]について、本文、巻末とも[[政令]]の[TIME[1月7日][1989-01-07]]を改元日とし、
[[施行]]の[TIME[8日][1989-01-08]]は注記に示しています。
* 元号の期間
[491]
[[改元]]から始まり[[改元]]で終わる[[元号]]の[[期間]]は、
本項で挙げた通り諸説諸流儀があります。
実用上どう取り扱うのが良い (便利) でしょうか。
-*-*-
[492]
[[日]]単位で扱う場合、
[[改元日]]から[[改元日]]までを[[元号]]の[[期間]]とみなすのが、
[[現代日本]]の主流の扱い方と思われます。
[493]
[[日]]を更に細かく区分したり、
ある[[日]]が複数の[[元号]]に属すると考えるのは一般的でなく、
扱いにくいものです。
もちろん詳細に説明したいこともありますが、
基本となるべきはある[[日]]が1つの[[元号]]にだけ属するという簡単なモデルでしょう。
[494]
[[改元日]]は旧元号に属する日とも新元号に属する日とも解釈し得ますが、
どちらかを選ぶとなると新元号とするのが適切でしょう。
[[改元日]]とそれ以降の日は、
「当初旧元号の予定だったが新元号に変わった日」
という性質が共通しています。
[FIG[
- [495] 新元号開始日: 新元号が適用開始された最初の日。
- [496] 新元号開始日前日: 新元号開始日の前日。
]FIG]
[498] 適用開始の日が決定の日、発表の日と違うこともあるので注意。
-*-*-
[497]
[[年]]単位で扱う場合、
新旧元号を併記する場合もありますが、
都合上1つに決めたいこともあります。
その場合新元号に統一するのが優勢に見えますが、
旧元号に統一する場合もあり、
適宜選択するものというべきです。
[499]
新元号に統一する場合、
新元号の最初の日は[[年始]]に遡及します。
普通は[[改元日]]の属する[[年始]]ですが、
例外的に2年以降から始まる場合は前年以前に遡ります。
旧元号最終日はその前年末になります。
[FIG[
- [500] 新元号初年始: 新元号開始日の属する年の初日。
- [501] 新元号初年前日: 新元号初年始の前日。
]FIG]
[502]
旧元号に統一する場合、
旧元号の最終日は[[改元日]]の属する年末まで延長されます。
新元号の最初の日は[[改元日]]後の最初の年始まで遅延します。
[FIG[
- [503] 旧元号末年翌日: 旧元号末年末の翌日。
- [504] 旧元号末年末: 新元号開始日前日の属する年の末日。
]FIG]
[505] 新元号開始日が年始のとき注意。
[506]
ある元号の期間を年単位で決めたいとなると、
初年始から末年末までとするのが妥当でしょう。
前後の元号の期間を重複が生じ得ることに注意が必要です。
* 改元時期の特殊例
[94] [TIME[西暦749年][year:0749]]、
[[天平]]21年から[[天平感宝]]元年 ([TIME[4月14日][kyuureki:0749-04-14]])、
[[天平勝宝]]元年 ([TIME[7月2日][kyuureki:0749-07-02]])
と1年に2回[[改元]]されました。正式改元が2回あったのは日本史上この年だけです。
[35] 一覧表の類で[[天平感宝]]が欠落していることがあります。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
-*-*-
[151] [TIME[西暦781年][year:0781]]、
[TIME[宝亀12年正月1日に天応元年正月1日][kyuureki:0781-01-01]]に[[改元]]されました。
[[元日]]改元は日本史上このときだけです。
[331] 一覧表の類では宝亀12年を含めているものも省いているものもあるようです。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
-*-*-
[152]
[[延長]]元年への[[改元]]は[TIME[閏4月11日][kyuureki:0923-04'-11]]でした。
[[閏月]]の[[改元]]は日本史上このときだけです。
* 事前の準備
[85]
[[計算機システム]]など[[元号]]を扱う機構は、
[[改元]]がいつ発表㋩されいつ[[施行]]㋥㋭されるかまったく予期不能であることを想定し、
[[改元]]決定後可及的速やかにこれを実施できる備えが必要となります。
[SEE[ [[ロケールの更新]] ]]
一方で[[改元]]の実施によって即時すべての元号の表記を改めるべきとの考え方は存在してこなかった
(物理的にも存在できなかった) 歴史的事実を踏まえ、
[[計算機システム]]が即時新元号に改まらなかったとしても、
ただちにこれを不適切としない寛容性が今後も受け継がれることが望ましいといえます。
[144]
[[日本]]の[[代始改元]]のほとんどは皇位継承の翌年の改元でしたが、
[[践祚]]の翌年というだけで時期は様々でした。
[[改元]]されないこともありました。
[[即位]]により[[改元]]が予期されるものの、
[[改元日]]が大々的に事前発表されることはなく、
新元号決定後に徐々に[[施行]]されていきました。
全国各地への情報伝達の時間差に加え、
[[公家]]、[[武家]]それぞれの改元儀式の時間差などもありました。
[SEE[ [[改元手続き]] ]]
[62]
[[日本の元号]]のうち、
[[大正]]への[[改元]]、
[[昭和]]への[[改元]]は、
皇位継承と同じ日の改元でした。
新帝[[即位]]後ただちに[[改元]]の[[詔勅]]が[[公布]]され、
[[官報]]や[[新聞]]などの[[年号]]は[[詔勅]]の[[公布]]の後直ちに改められました。
[63]
[[平成への改元][平成改元]]は、
新帝[[即位]]後ただちに[[改元]]の[[政令]]が[[公布]]されましたが、
[[施行]]は翌日とされました。
[[昭和天皇]]の[[崩御]]による[[譲位で行われた改元][代始改元]]だったため、
直前の連日の深刻なご容態の発表を[[改元]]の予告と捉えることは可能でしたが、
[[改元]]の手続きやシステム変更などの準備を行っていると公言するのはとても憚られる状況でした。
[64]
[[令和への改元][令和改元]]は、
[[譲位]]であり[[改元]]される見込みであることが1年以上前に示されつつも、
直前まで法的措置はとられませんでした。
新[[元号]]は[TIME[1ヶ月前][2019-04-01]]に[[政令]]で[[公布]]されました。
あくまで今回限りのスケジュールであって恒久的制度ではありませんが、
今後の事前予告ありの[[改元]]は
1ヶ月前には発表されるとの前例になると期待したいところです。
[120] しかし[[令和改元]]では事前予告ありの[[改元]]ゆえの問題も指摘されました。
- [121] [[改元]]されることが発表された後肝心の[[元号名]]が長く未発表だったため、
[TIME[平成31年5月][2019-05-01]]以後の[[日付]]の表記が不安定となった。
-- [126] 「平成32年」のような表記を誤りと考える者や、
[[西暦]]を用いるべきと考える者が出現した。
-- [127] 「(新元号)元年5月」のような恒久的に通用しない暫定表記も現れた。
- [145] しかも[[改元日]]も暫定的なもので、
わずか4ヶ月前まで政治的な争いが続けられていた。
-- であるなら初めから[[改元日]]が未定であることを明確に発表するべきだった。
- [122] [[施行]]日を[[改元]]日としたため、
発表から[[改元]]までの1ヶ月間新元号の利用可否に法的な不安定性を生じた。
-- [123] [[改元]]日を明記して即日施行の政令とするべきだった。
-- [124] [[平成改元]]を踏襲したためか、
あるいは[[退位特例法]]と[[元号法]]との整合性のためそうするしか選択肢がなかったか。
-- [125] 政府は[[将来の日時]]の表記も[[改元]]後切り替えるとしたが、
民間では発表後既に利用開始した。
--- [129] 政府は[[公布]]以外の準備は始めて構わないという見解を[[地方公共団体]]に送付しました
[SRC[>>128]]。
--- [136] 民間から政府に提出する書類ではどちらの表記でも構わないという見解を示しました
[SRC[>>135]]。
--- [147] 実際は政府も一部下部組織で[[改元]]前から[[公布]]以外の事務に[[令和]]を使用し始めました。
[SEE[ [[令和改元]] ]]
- [133] つまり
1年以上の準備はできるが不完全な時期、
1ヶ月の準備はできるが実施はできない時期が生じ、
国民、特に事務担当者やシステム担当者の不安を招いた。
- [134] 実務上の影響の大きい[[年度]]名の呼称に疑義が生じることが明らかだったにも関わらず、
取り扱いを[TIME[新元号発表当日][2019-04-01]]まで決定すらしなかった
([SEE[ [[元和元年度]] ]])。
[148] [[令和]]発表から[[令和改元]]までの1ヶ月で、
政府機関や学術機関だけでも
「令和2年」「令和3年」「令和4年」
の利用例が少なからず見られました。数年先を取り扱う事務の量が少なくないことは明らかで、
「[[改元]]されるが新元号は不明」
という時期を十数ヶ月も継続させたことは実務上でも[[元号]]というシステムへの信用の面でも致命的な失策でした。
新旧元号の併存が新旧天皇の「二重権威」化につながるなどとする主張が政府・与党方面でなされていたようですが
([SEE[ [[令和改元]] ]])、そのような意味不明で実務無視の態度が[[元号]]と[[天皇]]家の権威全般を貶めていることを知るべきです。
[23] その一方で、
発表から約半月新元号に沸き、
約半月[[平成最後]]の時代の終わりを感じながら新元号の最終準備を済ませ、
改元を迎え約1週間の寿ぎに包まれた連休を過ごし、
新元号の仕事始めとなる、
という[[令和改元]]前後のスケジューリングは非常によくできていて、
国民こぞっての祝賀行事に最適だったとも思えます。
この令和の改元ノウハウが失われず、
現場経験者が各業界で現役のままの時期に次の改元が
(おなじく祝賀ムードで)
迎えられると良いのではないでしょうか。
[REFS[
- [128] [CITE@ja[総務省|「元号を改める政令等について」の発出について]] ([TIME[2019-04-02 16:06:10 +09:00]]) <http://www.soumu.go.jp/menu_kyotsuu/important/kinkyu02_000318.html>
- [135] [CITE[改元に 伴う情報システムの 改修等を進めていく 上でよくご 質問いただく 事項]] ([TIME[2019-04-03 11:54:04 +09:00]]) <https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/kaigen/20190403_kaigen_faq.pdf>
]REFS]
* 施行手続き
[170]
歴史的には[[改元]]にいろいろな手続があり、
[[施行]]は同時ではありませんでした。
[SEE[ [[改元手続]] ]]
[172]
[[改元]]の[[詔書]]㋺は[[覆奏]]を経て全国へ発送されました。
[[覆奏]]まで何日か、各地の到着まで更に何日かかかっていました。
[31] [[京都]]の[[朝廷]]では、それを待たずにすぐ㋺に新元号が使われた㋥とされています。
といっても新元号を決める[[改元定]]は[[改元日]]㋺当日のことが多く、
ときには夜明け近くまでもつれ込んだとされています。
すると[[改元日]]㋺当日にリアルタイムで新元号を使った㋥人が皆無だったこともあるかもしれません。
[185]
[[武家]]は[[吉書始]]の後新元号を利用開始㋥しました。
[[吉書始]]まで何日かかかっており、
[[公家]]と時間差がありました。
[[幕府]]から各地の到着まで更に何日かかかっていました。
[28] [[朝廷]] → [[幕府]] → [[藩]] → 庶民の正式な伝達には時間がかかり、
庶民が別ルートで新元号を知ることもありましたが、
フライングして新元号を使うと正式な元号を使うよう指導されることもあったようです。
[340]
[[前近代]]には新元号の利用開始は全国同時ではあり得ず、しかもそれが当然とされていたのです。
[24]
[[大正]]と[[昭和]]の[[改元]]は、
皇位継承㋑のその日のうちに[[詔書]]が発され㋺㋩、
実施されました㋥㋭。
[[施行]]手続きとしては最も簡単な形だったといえます。
[68] この時代でもまだ離島には[[改元]]が伝わるのが何ヶ月もかかることがありました。
当然ながら利用開始は情報が伝わった後になり㋥、
それまで㋺-㋥は旧元号を使い続けたことになります ([SEE[ [[延長年号]] ]])。
といっても法的な[[施行]]は全国共通なので、
情報がひとたび伝われば[[改元日]]以後の日付㋺-㋥は新元号で表すことになったはずです㋭。
[25]
[[平成改元]]は皇位継承㋑の日のうちに[[政令]]が制定㋺・公表㋩されましたが、
[[施行]]㋥㋭は翌日とされました。
従来の即日施行では当日が旧元号か新元号か安定して定められなくなるため、
翌日施行することとされました
[SRC[>>396]]。
(仮に[[政令]]の決定が遅れて皇位継承㋑当日中に[[官報]]によって[[公布]]㋩できない場合、
皇位継承㋑の翌日に[[公布]]㋩し翌々日に[[施行]]㋥㋭することが想定されました
[SRC[>>396]]。)
[26]
[[令和改元]]は、皇位継承が事前の特例法制定により予告され、
新元号の発表と施行も首相談話として予告された上で、
1ヶ月前に[[政令]]が制定㋺、公表㋩され、
皇位継承㋑と同時に[[施行]]㋥されました。
[27]
ここで法的に新元号の利用開始㋥は[[政令]]の[[施行]]のはずで、
政府もそのような方針を採りましたが、
一般には公表㋩の時点で使われ始めました。
しかもそれ以前の皇位継承の日が内定した段階で、
[[延長年号]]となることが確実な改元予定日以後の旧元号表記に疑念が持たれる状態となってしまっていました。
(>>120)
これを回避するには皇位継承㋑の日取り決定を新元号施行㋥と揃えるしかありませんが、
[[令和改元]]の経緯をみるに現実的とは思えません。
[30] 現代でも、全国共通の正式な改元とは別に、
例えば[[計算機システム]]の切り替えの都合による別の利用開始日時㋥が設定されることがあります。
[527]
[[長享]]:
[528] [CITE@ja[元号一覧 (日本) - Wikipedia]], [TIME[2022-05-20T22:00:01.000Z]], [TIME[2022-05-21T08:48:29.097Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#cite_note-10>
>ただし改元後も幕府側の準備不足の為、8月9日(8月27日)まで公家も武家も「文明」の年号を使用した。
* 改元伝達
[640]
[[新元号]]が定められると、全国に伝達され、施行されます。
([SEE[ [[改元手続]] ]])
諸国、諸階層の人々へと[[新元号]]を伝える[DFN[改元伝達ルート]]の様相は断片的な記録が残るのみで、
[[平成時代]]に研究が進んでいますが、まだまだ不明な点が多いです。
[617]
新[[元号]]が定まると、
[[朝廷]]で[[改元詔書]]が作成され、
その内容が[[太政官符]]に添えられて諸官司、諸国に伝達されました。
[SRC[>>440]]
[362]
[[律令制]]下では[[朝廷]]から[[国衙]]を介して各地に通達されていました。
[SRC[>>49 普及版 p.415]]
[363]
[[平安京]]の役所は[[覆奏]]より前から新元号を使っていました。
諸国は[[太政官符]]が到着してから新元号を使いました。
[SRC[>>361 pp.118-119 ([CITE[江家次第]])]]
[364]
[[菅原道真]]は、
[[讃岐国]]や[[太宰府]]で[[寛平]]や[[延喜]]の[[改元]]の詔書を受け取ったことについての詩を残しました。
当時中央から地方への[[改元]]の伝達が確かに行われていたことを伝えています。
[SRC[>>49 普及版 p.185]]
[REFS[
- [440] [CITE[[[中世の元号]]]]
]REFS]
-*-*-
[365]
[[鎌倉時代]]半ば頃から、
[[六波羅探題]]から[[鎌倉幕府]]に通達されるようになりました。
[[鎌倉幕府]]は[[政所]]で[[吉書始]]の儀を行いました。
おそらく[[守護]]や[[寺社]]を介して各地に通達されました。
[SRC[>>49 普及版 p.415]]
[618]
[[鎌倉時代]]には、
[[改元詔書]]は[[外記局]]から[[六波羅探題]]を経由して[[鎌倉]]に届けられました。
[[外記]]から私的に、[[改元]]に至る詳細の報告も添えられました。
[SRC[>>440 ([CITE[師守記]] 貞和元年10月29日条)]]
[619]
[[鎌倉幕府]]の[[政所]]では[[改元吉書始]]の儀式を行い、全国に「施行」しました。
[CITE[吾妻鑑]]には[[安貞]]度 ([TIME[西暦1227年][1227]])
から[[改元吉書始]]の記事があり、
制定手続きへの介入 ([SEE[ [[改元手続き]] ]]) も含めてこの頃に慣行が定まったと考えられます。
[SRC[>>440]]
[366]
[CITE[吾妻鏡]]にある[[京都]]の[[六波羅探題]]から[[鎌倉]]への[[改元]]の詔書の伝達記事などから、
[[改元日]]から[[鎌倉]]まで約10日
(10日から20日程度 [SRC[>>440 ([CITE[延慶改元・改暦への鎌倉幕府の関与について]])]])、
そこから一般で通用するまで約1ヶ月かかったとされています。
[SRC[>>49 普及版 p.395 (千々和到 1995、峰岸純夫 1979)]]
(c.f. >>360。>>49 の各元号の項にも[CITE[吾妻鏡]]の伝達記事の日付の記載あり。)
[612]
諸国は[[鎌倉幕府]]の[[吉書始]]の後に新元号を使い始めたと考えられています。
[SRC[>>777]]
[[鎌倉幕府]]の統制下に組み込まれた武士は、ということでしょう。
;; [613]
史料的検証がどれだけなされているのかは不明。
[[元弘]]のときの研究があったはず。
[367]
[[鎌倉時代]]の[[九州]]の文書 5507通の分析から、
改元後約2ヶ月で[[九州]]全域に新元号が広がったことが確認されています。
[SRC[>>49 普及版 p.395 (瀬野精一郎 1968)]]
[[文永の役]]の蒙古襲来が[[博多]]から[[京都]]まで約12日で伝わったのと比較すると、
かなりの速度で広がっており地域社会も[[改元]]に敏感だった
[SRC[>>49 普及版 p.395]]
と評されています。
[620]
[[暦応]]度 ([TIME[西暦1338年][1338]]) は制度が整っていなかったためか、
[[武家]]への伝達が遅れました。
[[京都]]の[[武家]]は7日ほど旧元号[[建武]]を使っていました
[SRC[>>440 ([CITE[実夏公記]] 暦応元年8月28日条)]]。
[[大外記]]から[[足利尊氏]]と[[足利直義]]に[[改元詔書]]が送られ、
[[執事]]の[[高師直]]に「一通」が送られたとされます。
「一通」は[[鎌倉時代]]に添えられた[[外記]]からの注進に相当するものかと推測されます。
[SRC[>>440]]
[621]
[[室町幕府]]は[[政所]]で[[改元吉書始]]を行い、
諸国に施行しました。
[SRC[>>440]]
[622]
[[応安]]度 ([TIME[西暦1368年][1368]])
は、
[TIME[応安元年2月28日][kyuureki:1368-02-28]]に[[朝廷]]で[[改元]]され、
[TIME[応安元年3月1日][kyuureki:1368-03-01]]に[[室町幕府]]で[[改元吉書]]が施行され、
[[政所]]執事代[[齋藤基兼]]から[[関東]]に伝えられました。
[SRC[>>440 ([CITE[花営三代記]])]]
[368]
[[室町幕府]]も[[鎌倉府]]へ通達を行っており、
[[鎌倉時代]]同様に伝達されたと考えられています。
[SRC[>>49 普及版 p.415]]
(>>777 ではおそらく[[鎌倉公方]]が[[吉書始]]を行い、管下の諸国に伝達したと考えられる、
としていますが、[[鎌倉時代]]からの類推による推測調で根拠は示していません。
史料的根拠が見つかっているのかは不明。)
[[関東]]に到着し、あるいは[[関東]]でも[[吉書始]]が行われて施行されるまで、
早くても1ヶ月はかかったと推測されます [SRC[>>440]]。
[623]
15世紀に周防[[大内氏]]が[[改元吉書始]]を実施した例があります。
[SRC[>>440 ([CIT[防長寺社証文]] 巻一一)]]
[624]
[[室町幕府]]から[[五山]]の寺院には、
[[室町幕府]]の[[吉書始]]の後に[[蔭凉職]]から諸寺院へと通達されました。
[[長享]]度、
[[延徳]]度、
[[明応]]度には[[改元]]翌日に情報を得ているものの、
[[室町幕府]]の[[吉書始]]まで使用しないように命じられました。
[SRC[>>440 ([CITE[蔭凉軒目録]] 長享元年7月21日条、延徳元年8月23日条、明応元年7月24日条)]]
[EG[
[637]
[[明応]]度の[[改元]]と[[吉書始]]の間の将軍誕生日の法文では、
旧元号の[[延徳]]が使われました。
[SRC[>>440 ([CITE[蔭凉軒目録]] 明応元年7月24日条)]]
]EG]
[638]
[[南都]]の寺院には[[改元]]から1週間程度で伝達されました。
[SRC[>>440 ([CITE[大乗院寺社雑事記]], [CITE[政覚大僧正記]]など)]]
[[室町幕府]]の[[吉書始]]より前に新元号を使用している例もみられます。
[SRC[>>440]]
[639]
[[応仁]]度 ([TIME[西暦1467年][1467]])
に[[興福寺]]の[[経覚]]は、
7日後に情報を聞いて、文字等は不分明と書いています。
音のみで伝わることがあったようです。
[SRC[>>440 ([CITE[経覚私要抄]])]]
本来の通常の[[改元伝達]]は[[文書]]によるでしょうから、
正式な[[改元伝達]]以前に非公式な噂で口頭で伝わってきたということなのでしょう。
[369]
[[南朝]]は[[改元]]を[[綸旨]]により直接諸国に伝達しました。
[SRC[>>777 ([[五条文書]]などから推測), >>49 普及版 p.415 (峰岸純夫 1979、千々和到 1990)]]
[644]
[[室町幕府]]の[[吉書始]]は伝達後間を置かずに行われることが多かったものの、
特に[[室町時代]]後期になると遅延が目立つようになりました。
政治的な対立関係がなくても、[[京]]内でも[[元号]]の切り替えの時期に違いが出ていました。
[[改元伝達ルート]]の先では更に遅延していくことになり、
[[改元]]後1年以上も新元号が用いられない事例もままありました。
[SRC[>>440]]
[615]
[[戦国時代]]に入る頃の[[東国]]では[[改元伝達]]の仕組みも変質し、
[[私年号]]の伝搬にも影響したことがわかっています。
[SEE[ [[中世私年号]] ]]
[614]
中世の[[在地領主]]層が[[改元]]時にどうしたかはよくわかっていません。
[[在地領主]]の[[吉書]]は[[年頭]]のものが残るだけで、
[[代替わり]]の[[吉書始]]も想定されますが、
[[改元]]に関するものは検出されていません。
[SRC[>>777 ([CITE[祝儀・吉書・呪符]], [[中野豈任]])]]
[370]
中世の庶民に[[改元]]がどう伝わったかは十分明らかではありません。
[[鎌倉時代]]以後東国などの[[板碑]]に[[元号年]]が記されていることから、
ある程度普及していたことはわかっています。
[SRC[>>361 pp.130-131]]
[371]
[CITE[[[紀伊国阿弖河荘百姓訴状]]]]
には
「ケンチカン子ン十月廿八日」
とあり (4月25日[[改元]])
[SRC[>>361 pp.130-131]]、
[[農民]]も[[元号]]を使うことができ、しかも[[改元]]が数ヶ月以内に伝わっていたことがうかがえます。
[471]
[[中世]]の[[多摩川]]流域近辺の[[板碑]]の紀年から、
[[改元伝達]]に数ヶ月かかる場合もあったこと、
海沿いより山間部ほど遅れる傾向が見られることが指摘されています。
[SRC[>>519]]
- [462]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]南品川3丁目海晏寺板碑
「[V[暦応五年七月日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三四九]]]]
-- [463]
[TIME[日本北朝暦応5(1342)年][1342]]7月,
[[延長年号]] +約2ヶ月, [TIME[康永元(1342)年4月27日][kyuureki:1342-04-27]][[改元]]
-- [464] +約1ヶ月、5月27日改元とする
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
は誤りか。
- [465]
海岸を離れた[[多摩川]]沿い鵜ノ木光明寺板碑
文和五年六月
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [466]
[TIME[日本北朝文和5(1356)年][1356]]6月,
[[延長年号]] +約2ヶ月, [TIME[延文元(1356)年3月28日][kyuureki:1356-03-28]][[改元]]
- [454]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑3, 4, 5
「[V[延文六年二月 日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三四]]]]
-- [455]
[TIME[日本北朝康安元(1361)年3月29日][kyuureki:1361-03-29]][[改元]]
-- [456]
約1ヶ月の[[延長年号]]とする
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
のは誤認か。
- [458]
三多摩、入間郡延文板碑
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [459]
1ヶ月以上の[[延長年号]]が11基
-- [467]
[[日本国]][[東京都]][[大田区]]尾山伝乗寺板碑
延文6年11月
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
--- [468]
[[延長年号]] +7ヶ月
-- [460]
南多摩郡、入間郡に8ヶ月以上遅れるものあり。
- [450]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑11
「[V[応安八󠄂年三月二十九日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三四]]]]
-- [451]
[TIME[日本北朝応安8(1375)年3月29日][kyuureki:1375-03-29]]、[[延長年号]] +約1ヶ月.
[TIME[永和元(1375)年2月27日][kyuureki:1375-02-27]][[改元]]
- [452]
[[入間郡]]高萩板碑 応安8年8月22日
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [453] [[延長年号]] +約5ヶ月
- [469]
[[日本国]][[東京都]][[大田区]]雪ヶ谷円長寺井旅
寛正7年7月
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [470]
[TIME[日本寛正7(1466)年][1466]]7月,
[[延長年号]] +約3ヶ月, [TIME[文正元(1466)年2月28日][1466-02-28]][[改元]]
[479]
[[改元日]]から1,2年ほど遅れた例も報告されていますが、
例外的です。
銘文誤読も疑われますが、
正しいとすれば相当に遅れていたことがわかります
[SRC[>>519 p.[V[三四八󠄂]]]]。
- [475]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑 (昭和7年[[服部清五郎]]調査) 1
「[V[正嘉五年]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三八󠄂]]]]
-- [476] [[延長年号]] +2, [TIME[正嘉5年 = 正元3年 = 文応2年 = 弘長元(1261)年][1261]]
- [477]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑 (昭和7年[[服部清五郎]]調査) 2
「[V[徳治五年]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三八󠄂]]]]
-- [478] [[延長年号]] +2, [TIME[徳治5年 = 延慶3(1310)年][1310]]
[474]
次の例は[[遡及年号]]で、銘文誤読が疑われます。
[SRC[>>519 p.[V[三四八󠄂]]]]
- [472]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑32
「[V[享徳元年七月五日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三六]]]]
-- [473]
[TIME[享徳元(1452)年7月25日][kyuureki:1452-07-25]][[改元]]
[641]
[[長享]]度 ([TIME[西暦1487年][1487]])
は[TIME[長享元年7月20日][kyuureki:1487-07-20]]に[[改元]]されました。
[[蔭凉職]]の[[亀泉集証]]は、
翌日に[[武家伝奏]]と[[政所執事]]の[[二階堂政行]]に使者を送って新元号情報を得ました
[SRC[>>440 ([CITE[蔭凉軒目録]])]]。
しかし長享元年8月9日の[[吉書始]]まで、旧元号の[[文明]]で[[文書]]を発給していました
[SRC[>>440 ([CITE[十輪院内府記]], [CITE[鹿苑日録]])]]。
[642]
[[延徳]]度 ([TIME[西暦1489年][1489]])
は、
[[足利義政]]の[[執奏]]で延徳元年8月に[[改元]]されました。
ところが[[足利義政]]の体調不良のため[[吉書始]]は延期を重ねました。
[[足利義政]]は延徳2年正月に死去し、
[[吉書始]]は行われませんでした。
[SRC[>>440 ([CITE[後法興院関白記]] 延徳元年10月11日条, [CITE[親長卿記]] 延徳元年6月8日条など)]]
[[蔭凉職]]では公帖の日付が問題となり、
[[武家伝奏]]の判断で[[新元号]]を使うものの[[吉書始]]前なので[[将軍]]の[[花押]]は据えず印判という異例の形式で発給することになりました
[SRC[>>440 ([CITE[蔭凉軒目録]] 延徳元年9月4日条)]]。
[643]
[[明応]]度は、
明応元年7月19日に[[朝廷]]で[[改元]]され、
明応元年8月28日に[[室町幕府]]で[[吉書始]]がありました。
[[吉書始]]前の朝鮮国書案は[[旧元号]]の[[延徳]]が使われました
[SRC[>>440 ([CITE[蔭凉軒目録]] 明応元年8月27日条)]]。
9月以降になって[[御判御教書]]や[[幕府奉行人連署奉書]]で[[明応]]が使われました。
[SRC[>>440]]
[REFS[
- [519]
[CITE[金石文より見た中世の品川]],
[CITE[[[続仏教考古学研究]]]], pp.[V[三二九]]-[V[三六八󠄂]]
- [777]
[CITE[[[改元と私年号]]]]
]REFS]
[481] [CITE[0618-P9-上から張り込み用‐これが最終データ.indd - almuseo128.pdf]], [TIME[2019-07-14T08:38:29.000Z]], [TIME[2021-06-10T08:08:56.553Z]] <http://www.fuchu-cpf.or.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/095/almuseo128.pdf>
[480] [CITE[cs6-129正.indd - almuseo129.pdf]], [TIME[2019-10-30T07:38:23.000Z]], [TIME[2021-06-10T08:05:51.827Z]] <http://www.fuchu-cpf.or.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/095/almuseo129.pdf>
[547] [CITE@ja-JP[東京都文化財調査報告書 第19 (西多摩文化財総合調査報告書 第1分冊)]], [[東京都教育委員会]], [TIME[1967]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-24T06:06:39.438Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2476882/1/85> (要登録)
[591] [CITE@ja-JP[青梅 : 定本市史]], [[青梅市史編さん実行委員会]], [TIME[1966]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-20T13:51:32.224Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3022484/1/129> (要登録)
[647]
[CITE@ja-JP[川越市史 第2巻 別巻 (中世編 板碑)]], [[川越市'''['''総務部''']'''庶務課市史編纂室]], [TIME[1985.3][1985]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-04T07:57:39.802Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643550/1/72> (要登録)