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* 元号以前
[1]
[[北魏]]の歴史を記述した[[史書]][CITE[[[魏書]]]]は、
[[北魏]]の[[建国]]より前の[[拓跋部]]の歴史も書いていました。
[2]
最古の[[年]]から、君主の[[即位紀年]]が使われました。
[[拓跋部]]の[[大人]]、
[[代国]]の[[代王]]の[[即位]]からの年数を数えていました。
[3]
[[干支年]]や[[魏の元号]]との対応が書かれている[[年]]があり、
治世年数を足し合わせていくとちょうど合致します。
[4]
初期は[[即位]]の翌年を[[元年]]としていました。
[5]
[[代国]]の中期以降は「以[VAR[何]]年為元年」のような[[改元]] ([[称元]])
起事があり、[[即位]]年から[[元年]]をしていたことがわかります。
[6]
[[退位]]や[[重祚]]による不規則な王位継承があったのも一因でしょうが、
あるいはこの時期は実際に[[即位紀年]]が使われていた記録が残っていたのかもしれません。
逆に初期の、漢化が進んでいない時期の改元記事のない綺麗に整った即位翌年改元は、
史書の編集時に決められたものかもしれません。
[7]
[[代国]]の後期には、
「後元年」
のような[[後元]]方式の[[即位紀年]]が2回ありました。
[[漢]]などの[[後元]]とは違って、
在位中の[[改元]]ではなく、
[[重祚]]の2回目の[[即位紀年]]が後[VAR[何]]年とされました。
* 代の元号
[8]
[[代国]]は最後の王の時代にだけ、
[[建国]]という[[名前][元号名]]の[[元号]]がありました。
[[漢]]風の国家制度が整えた時代で、
[[元号]]制定もその一環とされます。
[9]
いかにも[[建国紀元]]風な[[元号名]]ですが、
[[代国]]は[[王位継承]]がないまま滅亡したため、
代替わりの[[改元]]を想定していたのかは不明です。
同時代にも前の時代にもこの周辺で[[建国紀元]]を用いた[[国]]は
([[新]]の[[始建国]]を除けば)
見当たらないので、
単なる[[元号名]]に過ぎないとも思われます。
[10]
[[北魏]]の最初の[[元号]]は[[登国]]で、
[[建国]]を意識しつつ少し変えてきた感があります。
* 代と北魏の間
[12]
[CITE[魏書]]は[[代国]]の滅亡の翌年を ([[拓跋珪]]紀の)
[[元年]]とし、
9年まで数える[[即位紀年]]的なものを置いていました。
[SRC[>>11]]
その次が[[代王]]に即位した登國元年で、
10年に当たります。
([[即位紀年]]のような書き方ですが、
その9年間、何かに[[即位]]していたとは書かれていません。)
[REFS[
- [11] [CITE@zh[[[魏書]]/卷2 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2021-11-13T07:28:48.000Z]], [TIME[2021-11-27T09:07:30.927Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E9%AD%8F%E6%9B%B8/%E5%8D%B72>
]REFS]
* 北魏の元号
[13]
[[北魏]]は建国以来[[元号]]を使いました。
[14]
[[北魏]]の時代の後期には、3人の[[皇帝]]が乱立し、それぞれの[[元号]]を使いました。
[15]
いったん統一されたものの、再び[[東魏]]と[[西魏]]に分裂しました。
[16]
[[東魏]]は、独自の[[元号]]を使いました。
[17]
[[西魏]]は、その最初の[[皇帝]]の時代、独自の[[元号]]を使いました。
[FIG(short list)[ [70] [[北魏]]の[[元号]]
- [[普泰]]
-- [[普嘉]]
-- [[普太]]
]FIG]
* 西魏と北周の即位紀年
[18]
[[西魏]]は、その2代目、3代目の[[皇帝]]の時代、
[[元号]]を建てませんでした。
[19]
[[禅譲]]によって[[西魏]]にかわって成立した[[北周]]の初代と2代目の[[皇帝]]も、
はじめ[[元号]]を建てませんでした。
[[北周]]の2代目の[[皇帝]]の第3年目に、
最初の[[元号]]が建てられました。
[SEE[ [[北周の元号]] ]]
[201]
[[西魏]]は[[宇文氏]]の後見で成立していた[[王朝]]で、
とりわけその2代目、3代目の時代は完全な[[傀儡政権]]だったとされています。
[[北周]]はその[[宇文氏]]の[[王朝]]でしたが、
初代は傀儡だったとされています。
[[西魏]]から[[北周]]の初期は事実上[[宇文氏]]が統治した一連の時代と見なせます。
[165]
この時代の[[年]]は、
いろいろな表現がありました。
-*-*-
[134]
[[北京圖書館]]所蔵[CITE[周故柱國大將軍雍州刺史河內戾公墓誌]]拓本に、
「[SNIP[]]以周」之元年歲維星紀三月己酉薨於長安。[SNIP[]]四月壬申葬於石安之北原。[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>133]]
[[星紀]]は[[丑]]、[TIME[西暦557年][557]]。
[152]
21世紀の[[中華人民共和国]]の文化財保護当局の文書は、
ある碑について、
「[L[北周元年 (公元 557[BR[]]年)]]」
と書いていました。
[SRC[>>151]]
碑文での表記は不明。
[155]
21世紀に[[中華人民共和国]]で発行された墓誌集に、
「拓跋宁墓志 北周二年九月廿二日」
が収録されました。
[SRC[>>154]]
原表記は不明。
[113]
[[中華人民共和国]]の[[浙江大學]]が購入し所蔵する[[墓誌]]の[[拓本]]に、
「魏後三年正月封燕郡公,元年二月十八日薨,二年九月卅曰窆于小陵原陵谷。」
とありました。
[SRC[>>114]]
[115]
21世紀の[[浙江大學]]のデータベースは、
これを
「魏後二年」
のものとし、
[[公元]]は空欄としました (不明を表すものでしょうか)。
また、内容に史書と齟齬があるとして、偽造が疑われるとしました。
[SRC[>>114]]
[116]
「魏後」の[[元号名]]と「二年」を組み合わせたものでしょうか。
「三年」はどう理解してのものでしょうか。
[117]
仮に[[北周]]の建国直後に[[元号名]]なしの[[即位紀年]]が用いられていたとするなら、
魏後3年から元年に[[改元]]されて死去し、
次の2年になって葬られたとなります。
だとすると、
北周2年に当たります。
[118]
後世の偽造品なら敢えてこのようなわかりにくい紀年を選ぶ必然性がなく、
「周元年」
なり、
他の時代の[[元号]]なりを書けば良さそうなものです。
むしろ当時の紀年を記した貴重な遺物である可能性を考えるべきかもしれません。
[84]
[[北周]]の時代、
[[庾信]]による碑が多数作られました。
いくつかは実物が現存しています。
また[CITE[庾子山集]]に碑文が収録されました [SRC[>>83, >>57]]。
[85]
[[中國哲學書電子化計劃]]本[CITE[庾子山集]]によると、
[CITE[陜州弘農郡五張寺經藏碑]]
に
「後魏二年」 (「後魏一年」 とするのは [[OCR]] 誤読 [SRC[>>88]])
「周元年」
とありました。
[SRC[>>83]]
[86]
[[中國哲學書電子化計劃]]本[CITE[庾子山集]]によると、
[[庾信]]の[CITE[周太將軍崔說神道碑]]
に
「魏前元年」
「[V[後魏二年]]」 (「役魏一年」とするのは [[OCR]] 誤読 [SRC[>>87]])
「[V[前魏元年]]」 ([SRC[>>89]])
とありました。
[SRC[>>83]]
[90]
[[中國哲學書電子化計劃]]本[CITE[庾子山集]]によると、
[[庾信]]の[CITE[周車騎大將軍婁公神道碑]]
に
「[V[周元年]]」 ([SRC[>>91]])
「[V[後魏元年]]」 ([SRC[>>92]])
とありました。
[SRC[>>83]]
[65]
[[庾信]]の[CITE[豆卢恩墓碑]]は、
[TIME[北周天和元(566)年][566]]のものとされますが、
ある[[Webサイト]]によると
「保定二年」
「普太二年」 [SEE[ [[普太]] ]]
「大统三年」「十六年」
「魏前元年」「三年」
「后魏元年」「三年」
「周元年」
「二年」
「保定元年」
とありました。
[SRC[>>64]]
[66]
その[[Webサイト]]によると、
[CITE[文苑英华]]
所収の碑文は現物に照らして誤りが多く、
「魏元年」とされたのは実際「魏前元年」だとされました。
[SRC[>>64]]
-
[75]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]が[CITE[文苑英华]]から引用した
[CITE[周陇右总管长史赠少保豆卢公神道碑]]
に、
「[SNIP[]]大统三年。[SNIP[]]十六年,[SNIP[]]魏前元提,[SNIP[]]三年,[SNIP[]]魏后元年,[SNIP[]]三年,[SNIP[]]周元年[SNIP[]]二年[SNIP[]]武成元年,[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>62]]
-
[68]
[[中國哲學書電子化計劃]]本[CITE[全後周文]]
の
[CITE[藝文類聚]]
および
[CITE[文苑英華]]
から引いた
[CITE[周隴右總管長史贈少保豆盧公神道碑]]
に、
「魏前元提」「三年」
「魏後元年」「三年」
「周元年」「二年」「武成元年」
とありました。
[SRC[>>67]]
このテキストはなぜか[[片仮名]]が複数混入しており、
[[OCR]] の低品質なデータと思われます。
-
[93]
[[中國哲學書電子化計劃]]本[CITE[庾子山集]]によると、
[CITE[周隴右總管長史贈太子少保豆盧公神道碑]]
に、
「魏元年」「三年」 ([SRC[>>94]])
「後魏元年」「三年」
「周元年」「二年」「武成元年」 ([SRC[>>95]])
とありました。
[SRC[>>83]]
-
[101]
[CITE[维基文库]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[後周文紀]]所収の[[庾信]]の
[CITE[周隴右總管長史贈太子少保豆盧公神道碑]]
に、
「[V[魏元年]]」
「[V[三年]]」
「[V[後魏元年]]」
「[V[三年]]」
「[V[周元年]]」
「[V[二年]]」
「[V[武成元年]]」
とありました。
[SRC[>>99]]
-
[107]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[周隴右總管長史贈少保豆盧公神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]魏元年[SNIP[]]三年[SNIP[]]後魏元年[SNIP[]]三年[SNIP[]]周元年[SNIP[]]二年[SNIP[]]武成元年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
[79]
[CITE[文苑英华]]を引いた[[中文]]版[CITE[维基百科]]記事には、
「魏废帝元年(552年)」
「魏废帝三年(554年)」
「魏恭帝元年(554年)」
「魏恭帝三年(556年)」
とありました。
[SRC[>>62]]
[63]
[[中國哲學書電子化計劃]]本[CITE[庾子山集]]によると、[[庾信]]の
[CITE[周車騎大將軍贈小司空宇丈顯墓詰銘]]
に、
「[V[[ASIS[魏][ノなし]]後元年]]」
とありました。
[SRC[>>96, >>57]]
[97]
[[中國哲學書電子化計劃]]本[CITE[庾子山集]]によると、[[庾信]]の
[CITE[周大將軍上開府廣饒公鄭常墓誌銘]]
に、
「[V[[ASIS[魏][ノなし]]後二年]]」
とありました。
[SRC[>>98]]
[111]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[周兗州刺史廣饒公鄭常神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]魏後三年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
[120]
[[中文]]版[CITE[維基百科]]は、
[CITE[文苑英華]]
を引いて、
「魏後三年(553年)」
と書きました。
[SRC[>>119]]
[100]
[CITE[维基文库]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[後周文紀]]所収の[[庾信]]の
[CITE[普屯威神道碑]]
に、
「[V[周元年]]」
とありました。
[SRC[>>99]]
[52]
[[日本]]の[[昭和時代]]の論文が
[CITE[文苑英華]]
から引いた[[庾信]]の
[CITE[周柱国大将軍拓跋儉神道碑]]
に、
「[V[(恭帝の) 三年、[SNIP[]]]]」
とありました
[SRC[>>50 PDF p.6, p.27 ③]]。
[109]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[周柱國大將軍長孫儉神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]後魏二年[SNIP[]]三年[SNIP[]]維周革命光宅欽明作貳天官允諧邦治元年授小冢宰保定二年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
[69]
[CITE[Chinese Text Project]]
本
[CITE[全後周文]]
が
[CITE[文苑英華]]
から引いた
[CITE[周兗州刺史廣饒公宇文公神道碑]]
には、
「魏後三年」
とありました。
[SRC[>>67]]
(この碑文にも[[片仮名]]が混入。)
[102]
[CITE[维基文库]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[後周文紀]]所収の[[庾信]]の
[CITE[[V[周兗州刺史廣饒公宇文公神道碑]]]]
に、
「[V[魏後三年]]」
とありました。
[SRC[>>99]]
[141]
[[北周]]時代まで生きた[[田弘]]の記録がいくつか残されています。
-
[103]
[CITE[维基文库]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[後周文紀]]所収の[[庾信]]の
[CITE[[V[周柱國大將軍紇干𢎞神道碑]]]]
に、
「[V[前魏元年]]」
とありました。
[SRC[>>99]]
-
[110]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[周柱國大將軍紇干𢎞神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]前魏元年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
-
[142]
[CITE[百度百科]]
が
[CITE[庾子山集注]]
から引いた
[CITE[周柱国大将军纥干弘神道碑]]
に、
「魏前元年」
とありました。
[SRC[>>140]]
[143]
[CITE[百度百科]]
が引いた
[CITE[大周使持节少师柱国大将军大都督襄州总管襄州剌史故雁门公墓志]]
に、
「魏前元年」
とありました。
[SRC[>>140]]
[144]
[CITE[百度百科]]
は他に、
[CITE[周書]]
に
「魏废帝元年」
とあるのを引いて、
「西魏废帝元年」
と書いていました。
[SRC[>>140]]
[138]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は、
「《周書》《北史》作魏废帝元年。墓誌作魏前元年、神道碑作前魏元年。即公元552年。」
と書きました。
[SRC[>>139]]
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は、
「『周書』『北史』では、魏廃帝元年。墓誌では魏前元年、神道碑では前魏元年とする。いずれも西暦552年を指す。」
と書きました。
[SRC[>>137]]
[112]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[周柱國楚國公岐州刺史慕容寧神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]後魏元年[SNIP[]]三年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
[73]
[[北周]]の時代の
[CITE[大周使持節大將軍故濟北公墓誌]]
銘文に、
「[SNIP[]]普大元年,[SNIP[]]魏後二年,[SNIP[]]天和六年,[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>71, >>72]] [SEE[ [[普太]] ]]
[CITE[開府治小司寇濟北郡公拓拔迪夫人故宇文氏墓誌]]
銘文に
「[SNIP[]]大統十三年,[SNIP[]]魏後元年,[SNIP[]]保定二年[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>71, >>72]]
[74]
それを紹介した[[Webサイト]]は
「大统十三年封济北郡王。后二年,降为公。保定二年后[SNIP[]]」
と書いていました。 [SRC[>>72]]
「后二年」は魏後2年の意でしょうか。
2つの墓誌の
「魏後二年」
と
「魏後元年」
のどちらにも
「降为公」
のようなことが書かれていました。
なぜ2年の方を選んだのかは書かれていません。
[59]
その[[墓]]に葬られた[[拓跋迪]]についての[[中文]]版[CITE[维基百科]]の記事には、
「魏恭帝元年(552年)」
「魏後二年(555年)」
「魏恭帝三年十二月庚子(557年2月14日)」
と書かれていました。
[SRC[>>58]]
[78]
[[北周]]の時代の
[CITE[北周驃騎大將軍高唐縣侯乙弗紹墓誌]]
に、
「普大元年」 [SEE[ [[普大]] ]]
「魏二年」
「魏后元年」「二年」
「武成元年」
とありました。
[SRC[拓本画像 >>76, >>77、釈文 >>76]]
拓影によれば大は「大」。
魏は「[ASIS[魏][ノなしコ]]」。
后は「後」。
年はいずれも[[異体字]]。
[105]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[周上柱國齊王憲神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]後魏二年[SNIP[]]周元年[SNIP[]]武成二年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
[106]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[華夏周上柱國宿國公河州都督辛威神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]周元年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
[108]
[CITE[維基文庫]]本[CITE[四庫全書]]本[CITE[漢魏六朝百三家集]]
所収
[CITE[[V[周大將軍司馬裔神道碑]]]]
に、
「[V[[SNIP[]]魏前元年[SNIP[]]]]」
とありました。
[SRC[>>104]]
[124]
[CITE[周故开府仪同贺屯公墓志]]
に,
「魏前二年十二月中」
とありました。
[SRC[>>123, >>127, >>133, >>136]]
[160]
[[中華民国]][[台湾]]のある論文には、
[CITE[[L[[U[周]][U[故開府儀同]][U[賀屯公󠄃墓誌]]]]]]
を引いて、
「[L[[U[後魏]]前󠄁二年十月中]]」
とありました。
[SRC[>>159]]
[128]
[CITE[周故开府仪同贺屯公之墓志]]を引いた[CITE[百度百科]]の記事には、
「西魏恭帝元年」
「西魏恭帝三年」
ともありました。
[SRC[>>127]]
[135]
[[中華人民共和国]]の[[陝西省博物館]]所蔵
[CITE[大周使持節少傅大將軍大都督恆夏靈銀長五州諸軍事恒州刺史普安壯公墓誌]]
に,
「魏前二年八月廿五日」
とありました。
[SRC[>>133]]
[244]
[[中國哲學書電子化計劃]]所収[CITE[八瓊室金石補正]]刊本所収
[CITE[[V[周驃騎將󠄄軍鞏賓墓誌]]]]
に、
「[V[周元年󠄂]]」
とありました。
[SRC[>>245]]
[CITE[八瓊室金石補正]]
は周2年は[[元号]]がなかった明帝2年を表すと書いていました。
[SRC[>>246]]
[44]
[[隋]]の時代の[[墓誌]]に、
[[元号年]]や「[L[[VAR[元号]][VAR[何]]年歳次[VAR[干支]]]]」に混じって
「[L[魏後元年]]」
「[L[周元年]]」
「[L[二年]]」
がありました。
[SRC[>>43]]
[45]
[TIME[平成29(2017)年][2017]]の論文の注釈によると、
それぞれ[TIME[西暦554年][554]]、[TIME[西暦557年][557]]、[TIME[西暦558年][558]]を表すとされました。
[SRC[>>43]]
[46] まだ同論文の注釈には、他に
「[L[西魏廃帝三(554)年]]」
([CITE[周書]]の「[L[廃帝三年正月]]」条を参照)、
「[L[北周明帝二(558)年]]」
の記述がありました。
[SRC[>>43]]
[122]
[CITE[大隋使持節上大將軍四州八鎮諸軍事蘭州刺史海安公之墓誌]]
拓本に、
「[SNIP[]]魏前三年,[SNIP[]]魏後二年,[SNIP[]]周二年,[SNIP[]]武成二年[SNIP[]]」
とありました。
[SRC[>>121]]
[126]
その[[墓誌]]の[[耿雄]]に関する[[中文]]版[CITE[维基百科]]の記事は、
「[SNIP[]]魏前三年(554年),[SNIP[]]魏后二年(555年),[SNIP[]]北周二年(558年),[SNIP[]]武成二年(560年)[SNIP[]]」
と書きました。
[SRC[>>125]]
[61]
[CITE[隋書]]
に
「《魏後元年甲子曆》一卷」
とありました。
[SRC[>>60]]
[150]
[CITE[百度百科]]
のある記事は、
[CITE[隋书]]
に
「周元年」
とあるのを引いて、
「北周元年(557年)」
と書いていました。
[SRC[>>149]]
[53]
[[唐]]の時代の初め頃、
[[西魏]]や[[北周]]の時代が描かれた[CITE[周書]]が編纂されました。
[164]
[CITE[周書]]
は、
「魏大統元年」
「十七年」
「魏廢帝元年」
「三年」
「魏恭帝元年夏四月」
「三年」
[SRC[>>161]]
(孝閔帝) 「元年春正月辛丑」
「九月庚申」
[SRC[>>162]]
(明帝)
「秋九月癸亥」
「二年春正月乙未」
「武成元年春正月己酉」
[SRC[>>163]]
と書いていました。
[129]
[[唐]]の時代、[[北朝]]の時代が描かれた[CITE[北史]]が編纂されました。
[131]
[CITE[北史]]
に
「魏前二年」
とありました。
[SRC[>>130]]
[132]
[CITE[北史]]
を引用した[[中文]]版[CITE[维基百科]]に、
「西魏废帝元钦二年(552年)」
とありました。
[SRC[>>130]]
[158]
[CITE@zh[山西通志]]
の[[薛孝通]]の項に、
「[V[[ASIS[魏][ノなし]]前二年]]」
とありました。
[SRC[>>156, >>157]]
[48]
[[日本]]の[[昭和時代]]のある学術論文には、
「[V[廃帝元]]」
「[V[廃帝二]]」
「[V[廃帝三 (五五四) 年]]」
「[V[恭帝元]]」
「[V[恭帝二]]」
「[V[恭帝三 (五五六) 年]]」
「[V[孝閔󠄂帝 (五五七) 元年]]」
「[V[明帝元]]」
「[V[明帝二]]」
... の記載があり、その前後の時期は[[元号]]で書いていました。
[SRC[>>47]]
[51]
[[日本]]の[[昭和時代]]のある学術論文には、
「[V[西魏恭帝の二年 (五五五)]]」 [SRC[>>50 PDF p.5]]
「[V[五五三[BR[]]年 (西魏廃帝二年)]]」 [SRC[>>50 PDF p.6]]
「[V[五五[BR[]]八󠄂年 (北周明帝元)]] [SRC[>>50 PDF p.28]]」
とありました [SRC[>>50]]。
1つ目は[CITE[周書]]が出典で原文は
「[V[魏恭帝二年、[SNIP[]]」
と引かれていました [SRC[>>50 PDF p.27]]。
(c.f.
「[V[西魏文帝の大統一六年 (五五〇、梁簡文帝大宝元)]]」 [SRC[>>50 PDF p.1]]
「[V[明帝の武成元年 (五五九)]]」 [SRC[>>50 PDF p.4]]
「[V[西魏明帝の即位 (五五八󠄂)]]」 [SRC[>>50 PDF p.28]])
明帝の即位年が現在の通説より1年遅れていることに注意。
[55]
[[平成時代]]の[[日本]]のある学術論文には、
「[V[廢帝二年 (五五三)]]」と「[V[恭帝三年 (五五六)]]」
([CITE[周書]]関連) [SRC[p.7]]、
「[V[廢帝二年]]」 [SRC[p.10]]、
「[V[廢帝二年 (五五三)]]」 [SRC[p.13]]、
「[L[恭帝2 (555)]]」 [SRC[p.17]]、
「[L[廢帝2年春 (553)]]」や「[L[恭帝3年正月 (556)]]」 [SRC[p.20]]、
「[V[大統[V[[ASIS[〜][逆S]]]]廢帝年間 (五三五[V[[ASIS[〜][逆S]]]]五五三)]]」
[SRC[p.24]]、
「[L[廢帝1]]」 [SRC[p.26]] や「[L[恭帝2]]」 [SRC[p.27]]
のような表現がありました。
[SRC[>>54]]
[56]
ちなみに次のような指摘もありました。
[SRC[>>54 pp.33-34]]
>
[VRL[
現在の感覺でいえば、永熙は北魏の年號であり、大統は[BR[]]西魏の年號である。北魏と呼ばれる王朝があり、西魏と呼[BR[]]ばれる王朝があるわけだが、當事者達󠄃にとっては一連の[BR[]]「大魏」であったことは疑いなく、從って二つの別々の王[BR[]]朝と見做してはならない。
]VRL]
[23]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の[[西魏]]の[[元号]]第1[CSECTION[[[大统]] (西魏)]]の記事には、
>[SNIP[]]元宝炬死后废帝元钦和恭帝元廓都没有自己的年号,因此大统也是西魏唯一的一个年号。
>宇文觉取代西魏称帝后,也没有使用年号。直到宇文毓时,从559年八月重新开始使用年号武成。
... とあって、4代[[元号]]がなかったとされました。
その間何が使われたかには言及がありませんでした。
[SRC[>>22]]
[21]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の[[西魏]]2代[CSECTION[[[元钦]]]]の記事には、
>大統十七年(551年),文帝駕崩,太子元欽即位,沿用文帝年号,次年(552年)去年号,称元年。"
>登位第三年(554年)二月[SNIP[]]
>恭帝元年四月庚戌(554年),[SNIP[]]
... とありました。
[SRC[>>20]]
[33]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]の[[西魏]]3代[CSECTION[[[魏恭帝]]]]の記事には、
>554年即位,去年号称元年,[SNIP[]]
... とありました。
[SRC[>>32]]
[82]
[[中文]]版[CITE[維基百科]]はある人物 (c.f. >>219) について、
人物記事では
「西魏恭帝元年(554年)」
「西魏恭帝二年(555年)」
「西魏恭帝二年二月十七日(555年3月25日)」
「周明帝宇文毓二年(558年)十月十二日」
「西魏恭帝二年(555年)」
と書いていました。
[SRC[>>80]]
一覧記事では
「魏後二年(558年),降爵。周二年薨,諡思。」
と書いていました。
[SRC[>>81]]
「魏後二年(558年)」
とするのは西暦年の挿入位置を誤ったものでしょうか。
[148]
[[中文]]版[CITE[維基百科]]はある人物について、
「北周元年(557年)」
と書いていました。
[SRC[>>147]]
また別の人物について、
「北周二年(558年)」
と書いていました。
[SRC[>>153]]
[25]
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の[[西魏]]2代[CSECTION[[[廃帝]] (西魏)]]の記事には、
>元欽の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では552年・553年を「西魏廃帝元年・2年」と呼んでいる。
... とありました。
出典は不明です。
[SRC[>>24]]
[37]
[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]の[[西魏]]3代[CSECTION[[[恭帝]] (西魏)]]の記事には、
>恭帝の在位中には元号が建てられなかったため、後世の史書では554年・555年・556年を「西魏恭帝元年・2年・3年」と呼んでいる。
... とありました。
出典は不明です。
[SRC[>>36]]
[27]
[[韓国語]]版[CITE[위키백과]]の[[西魏]]の[[元号]]第1[CSECTION[[[대통]] (서위)]]の記事には、
>[SNIP[]]552년 이후 폐제(廢帝) 원흠과 공제(恭帝)는 연호를 사용하지 않고 즉위 후 원년을 선포하였기 때문에 552년에서 556년까지 서위에서는 연호가 사용되지 않았다.
... とあって、2代[[元号]]がなく[[即位]]後に[[称元]]したとされました。
出典は不明です。
[SRC[>>26]]
[29]
[[韓国語]]版[CITE[위키백과]]の[[西魏]]2代[CSECTION[서위 폐제]]の記事には、
[[即位紀年]]の表があって、
元年 ([TIME[西暦552年][552]]) から3年まで掲載されました。
[SRC[>>28]]
[39]
[[韓国語]]版[CITE[위키백과]]の[[西魏]]3代[CSECTION[서위 공제]]の記事には、
[[即位紀年]]の表があって、
元年 ([TIME[西暦554年][554]]) から3年まで掲載されました。
[SRC[>>38]]
[35]
[[韓国語]]版[CITE[위키백과]]の[[北周]]初代[CSECTION[북주 효민제]]の記事には、
[[即位紀年]]の表があって、
元年 ([TIME[西暦557年][557]]) が掲載されました。
更に、
>
효민제(孝閔帝) 원년 1월 1일[BR[]](557년 2월 15일)
>
서위 공제(恭帝) 3년 10월 5일[BR[]](556년 11월 22일)
>
효민제(孝閔帝) 원년 9월 24일[BR[]](557년 11월 1일)
... とありました。
[SRC[>>34]]
[41]
[[韓国語]]版[CITE[위키백과]]の[[北周]]初代[CSECTION[북주 명제]]の記事には、
[[即位紀年]]の表があって、
元年 ([TIME[西暦557年][557]]) から4年までが掲載されました。
3年と4年には「무성(武成)」の[[元号]]も併記されました。
[SRC[>>40]]
[31]
[[韓国語]]版[CITE[위키백과]]の[[元号]]記事の対照表には、
「폐제(廢帝)」の元年 ([TIME[西暦552年][552]]) から3年、
「공제(恭帝)」の元年 ([TIME[西暦554年][554]]) から3年、
「효민제(孝閔帝)」の元年 ([TIME[西暦557年][557]])、
「명제(明帝)」の元年 ([TIME[西暦557年][557]]) から2年がありました。
[SRC[>>30]]
[146]
[CITE[百度百科]]はある人物について、
「[SNIP[]]魏前元年,[SNIP[]]二年,[SNIP[]]北周元年,[SNIP[]]武成元年,[SNIP[]]」
と書いていました。
[SRC[>>145]]
出典は不明です。
[REFS[