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[5]
[DFN[法興]]は、[[古代日本]]で使われた[[元号]]の1つでした。
[6]
[[日本]]初の[[公年号]]、[[大化]] ([TIME[西暦645年][year:645]][[建元]])
より古く、[[日本]]で定められた最古の[[元号]]の可能性があります。
[SEE[ 他の元号との関係は[[日本古代の日時]] ]]
* 古い用例
[38] 当時またはそれに近い時代とみられる古い用例が2例知られています。
うち1例は[[金石文]]として現物が残ります。
もう1例は碑文が引用されて伝わるのみです。
** 法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘
[296]
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[斑鳩町]])]]
に、
「法興元丗一年歳次辛巳十二月」
とありました。
その次の「鬼」まで[[日付]]部分とする説もあります。
[SRC[>>297]]
[301]
その釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框に、
「辛巳年八月九月」
の墨書がありました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[1897]
[[伴信友]] (>>4)
は、
[[法隆寺]]釋迦佛光後銘文に
「法興元世一年歳次辛巳十二月」
などとあり、
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]
にも掲載されていることを指摘し、
湯岡碑文の[[法興]] (>>1896)
の第31年[LINES[辛][巳]]に當たると指摘しました
[SRC[>>1731]]。
[HISTORY[
[20] 東野の研究や辛巳年墨書の発見以前の[[昭和時代]]の研究者には後刻説もありました
[SRC[>>297]]。
[24]
[[福山敏男]]は、
[[天武天皇]]の時代以後、
[[推古天皇]]の時代に擬して作られたものと主張していました
[SRC[>>502 ([CITE[法隆寺の金石文に関する二、三の問題]], [CITE[夢殿]]第十三冊)]]。
像と銘が作られた時期が異なり、
銘文は法興31年 (推古天皇29年) を降るとしました
[SRC[>>50 ([CITE[法隆寺の金石文に関する二、三の問題]], [CITE[夢殿]]第十三冊)]]。
銘文に「上宮法皇」とあることから、
「[[天皇]]」が普通に用いられるようになった後に[[聖徳太子信仰]]が盛んになってから書かれたものである、
としました
[SRC[>>50]]。
]HISTORY]
[300] [[東野治之]]らの調査で、
銘文は造像当時のものであって、
後刻ではないとされました。
[SRC[>>297, >>246 普及版 p.338 ([CITE[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘文再読]], [[北康宏]], [CITE[博物館学年報]] 27, [TIME[1995][year:1995]]、[CITE[法隆寺金堂釈迦三尊像の光背銘]], [[東野治之]], [CITE[日本古代金石文の研究]], [TIME[2004][year:2004]])]]
[HISTORY[
[39]
「法興」「元」「丗」の解釈には諸説ありました
(>>7)。
]HISTORY]
[298]
現在では「法興」を[[私年号]]と解し、
「法興元丗一年歳次辛巳」と「辛巳年」を
[TIME[621年][year:621]]、
「癸未年」を[TIME[623年][year:623]]と解するのが定説となっています。 [SRC[>>297]]
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[297] [CITE@ja[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-13 18:28:25 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98>
]FIGCAPTION]
> 法興(ほうこう)とは、私年号で、法興元年は崇峻天皇4年(591年)にあたる。大矢透の説では、591年を仏法興る元年においている。また、『釈日本紀』所収の「伊予国風土記逸文」に、「法興六年」(596年)と見える'''['''26''']'''。
]FIG]
]REFS]
** [CITE[伊予湯岡碑]]碑文
[306] [CITE[伊予湯岡碑]]碑文に
「法興六年十月歳在丙辰」
とあり、[TIME[596年][year:596]]と解されています。
ただし原碑は行方不明となっています。
[SRC[>>305]]
[1896]
[[伴信友]] (>>4) は、
[CITE[釋日本紀]]
所引
[CITE[伊豫風土記]]
の大分速見湯の碑文に
「法興六年十月歳在丙辰」
とあることを引いて、
碑文の文意より法王は[[聖徳皇子][聖徳太子]]であるとし、
推古天皇4年を指すとしました。
従って[[元年]]は崇峻天皇4年[LINES[辛][亥]]としました。
[SRC[>>1731]]
[25] [[福山敏男]] (>>24) は、
[[奈良時代]]初期頃、
[[推古天皇]]の時代に擬して作られたものとしました [SRC[>>502]]。
[CITE[懐風藻]]
序文と比べて銘文が流麗なので、
[[天智天皇]]の頃に至って雕章麗筆盛んになった頃作られたとしました
[SRC[>>50]]。
また
[CITE[伊予国風土記]]
には
[CITE[日本書紀]]
成立後の用語が使われているため、
[CITE[日本書紀]]
以前に成立していたなら
[CITE[日本書紀]]
編纂者が温泉碑にも言及したはずだ、
と指摘しました [SRC[>>50]]。
[49]
[[久保常晴]]は、
[[歳在]]と[[歳次]]の分布から、
架空又は後世に書かれたものなら[[歳在]]ではなく[[歳次]]とあってしかるべきではないか、
[CITE[伊予国風土記]]
が書かれた時代の造作とは考えにくい、
としました。
[SRC[>>48 p.[V[八三]]-[V[八六]]]]
[SEE[ [[歳在]] ]]
[REFS[
- [48] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
- [50]
[CITE[[V[「歳次」と「歳在」]]]],
[CITE[続仏教考古学研究]],
pp.[V[三一二]]-[V[三二八]]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[305] [CITE@ja[伊予湯岡碑 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-13 18:32:30 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E6%B9%AF%E5%B2%A1%E7%A2%91>
]FIGCAPTION]
> 碑文冒頭の「法興」は私年号で、法興寺(飛鳥寺)建立開始年(西暦591年)を元年とし、法興6年は西暦596年になる'''['''2''']'''。
]FIG]
]REFS]
* 中世以後の用例
[36]
[CITE[源平盛衰記]]
に、
>
P0972
>
[SNIP[]]、仮初に三間の堂を造覆給けり。武が作れる寺なれば、武作寺と云けるを、法興元世二十一年、〈 壬子 〉二月十八日、太子と妃と相共に、彼寺に御幸して、手自地を引柱を列ね、金堂法堂鐘楼僧堂を建闊、太子自彼以白檀后高橋妃の等身に千手の像を造て宝石の上に安置し、法華、維摩、勝鬘等の三部の大乗を籠られつゝ、武作寺を改て長光寺と定らる。 [SNIP[]]
... とありました。
[SRC[>>35]]
[REFS[
- [35] [CITE[『[[源平盛衰記]]』(国民文庫)]], [TIME[2020-01-07 03:10:31 +09:00]] <http://www.kikuchi2.com/seisui/gsall.html>
]REFS]
-*-*-
[43] [[伴信友]]の指摘によると:
[SRC[>>1731]]
- [1900]
存覺が報恩記、壒嚢鈔などに、
[[聖徳太子]]の善光寺如來に賜へる御消息なり、
という文書の奥付に、
法興元世一年辛巳十二月五日、
法興元世二歳壬午八月十三日、
とある。
-- 前者の文は太子の磯長の御墓の窟内の碑の文、現存する。
-- それに仏光後銘の日付を書いて、
壬午の文を作って妄説するものだ。
- [1901]
[CITE[古代年號]]
に推古4年丙辰を法興元年とする。
湯岡の碑文の干支によるもので誤り。
- [1904]
[CITE[源平盛衰記]]
の近江國長光寺の縁起を語るところで
「法興元世廿一年壬子、二月十八日」
とある。
壬子は崇峻天皇5年。
温泉碑文の法興2年に当たる。
法隆寺銘文を法興元世の1年としても21年は合わない。
書いている内容も古い文書と合わない。
此の寺の僧の造言。
法興元世と読んだ説に従って干支を考えずに作ったものだ。
* 元号名
[7]
「法興元丗一年」の解釈は諸説ありました。
[HISTORY[
[9]
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]は、
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]文を
「法興元世一年」
としていました [SRC[>>502]]。
[40]
このため古くから[DFN[法興元世]]の4文字[[元号]]と解されてきました。
[CITE[塵添壒囊抄]]巻十七や、
[CITE[源平盛衰記]]巻三十九には、
法興元世何年の用例がみえました
[SRC[>>502 ([CITE[上宮聖徳法王帝説の研究]], [[家永三郎]], 増補再版昭和四十七年刊, p.349)]]。
[10] 「法興元世」は古代中国の造像銘で少なからず用いられた例がありました。
そのため[[薮田嘉一郎]]は、
碑文を偽造としました。
[SRC[>>502 ([CITE[法隆寺金堂薬師・釈迦光背の銘文について]], [CITE[仏教芸術]]第七号)]]
[1898]
[[伴信友]] (>>4)
は、
「世」は「卅」の[[異体字]]であって、
古い本に用例があり、伴の時代にもそう書くことがあると指摘しました。
[CITE[聖徳法王帝説]]
釋は
「世」
と読んで無理な解釈をしたものとしました。
[SRC[>>1731]]
]HISTORY]
[41]
2つの用例のうち、
1つは「法興」
で、
もう1つは「法興元」
です。
この「元」の解釈が問題となります。
[1899]
[[伴信友]] (>>4)
は、
[DFN[法興元]]の3文字[[元号]]だった説 [SRC[>>1731, >>502]] と、
2文字[[元号]]に「元」が挿入された説 [SRC[>>1731]] を示しました。
どの解釈が良いか結論は下しませんでした。
- [42] 3文字とすると、原初に「法興元」とあったのを書写時に脱字したものと考えられます。
[SRC[>>1731, >>502]]
- [12] そうでないとすると、
元年から数えるの意味なのか [SRC[>>1731, >>502]]、
[[漢]]の初期の[[元号がない時代][支那式即位紀年]]に中元、後元と言ったのに倣ったものか、
それともたまたま自然にそれと意味が似たものか、
と考えられます。
[SRC[>>1731]]
[8]
[[佐藤誠実]] [SRC[>>502 ([CITE[白鳳朱雀并法興元考]], [CITE[史学雑誌]]第十一編第十一号, [TIME[明治33年11月][1900-11]])]]、
[[金子長吾]] [SRC[>>502 ([CITE[上宮聖徳法王帝説新注]], [TIME[明治三十四年][year:1901]]刊)]]
は、
3文字[[元号]]説を唱えました。
[11]
[[田中豊蔵]]は、
「法興元」を法興[[紀元]]の意味としました
[SRC[>>502 ([CITE[宝馬盧雑筆(二)]], [CITE[画説]]第五三号, 昭和十六年五月)]]。
[299] [[大矢透]]は「法興元」を[[仏法]]興る元年 (から31年) の意と解しました [SRC[>>297]]。
大矢は、
[[朱鳥]]がアカミトリと訓まれることから、
「法興元年」はノリノオコリシハジメノトシと読みたがるが故、
それに文字を当てて3文字の[[元号]]のようになった、
と推測しました [SRC[>>502 ([CITE[仮名源流考]], 明治四十四年, p.42)]]。
[13]
[[所功]]は、3文字や4文字では碑文と矛盾するので、
2文字の[[元号]]に[[紀元]] (>>11) やハジメノトシより (>>299)
の意味の「元」がついたものと解するべきと主張しました。
[SRC[>>502]]
* 建元理由
[14]
この[[元号]]の意味、[[建元]]の理由については、
古くから[[法興寺]]の建立と関連付けられてきました。
[15]
[[伴信友]] (>>4)
は、
崇峻天皇4年に[[法興寺]]の造営を始めるのに合わせ、
[[法興]]と[[建元]]し、
やがて[[寺号]]も[[法興寺]]と名付けられたとしました。
[SRC[>>502]]
次のように指摘しました [SRC[>>1731]]。
- [1902]
[CITE[聖徳法王帝説]]
始興大寺といっているのは法興寺のことで、
[[法興]]をこれと関連付けるのは正しい。
4年に造営をはじめるにつき、
元号を法興と建元することにし、
寺號も法興を称した。
-
[1903]
[CITE[色葉字類抄]]
所引
[CITE[寺家縁起]]
に
「崇峻天皇第二年己酉」
に法興寺を建てるとあるのは造営の事始めをいい、
4年に建て始めたときに[[法興]]と[[建元]]した。
[16]
[[藤原猶雪]]は、
崇峻天皇4年を[[法興寺]]の起工の年で、
これを「法興の元始と見たもの」だと推測しました。
[SRC[>>502 ([CITE[聖徳太子全集]]巻三 (藤原猶雪解題), p.82)]]
[[大矢透]]も同説でした [SRC[>>502 ([CITE[仮名源流考]], 明治四十四年, p.42)]]。
[[会田範治]]も、[[日本]]最初の寺、
[[法興寺]]の建立という重大な年だったので[[法興]]元年とした、
と推測しました
[SRC[>>502 ([CITE[法隆寺金堂坐薬師釈迦弥陀三尊、光背銘文考]], [CITE[夢殿]]第十三冊九三頁)]]。
[17]
[[佐藤誠実]]は、
完工後に[[法興寺]]と命名し、
やがてその年を[[元年]]とするようになった、
と推測しました [SRC[>>502 ([CITE[白鳳朱雀并法興元考]], [CITE[史学雑誌]]第十一編第十一号, [TIME[明治33年11月][1900-11]])]]。
[34]
[[家永三郎]]は、
[[法興]]は[[法興寺]]造立関係者で行われた一種の[[私年号]]と推測しました
[SRC[>>502 ([CITE[上宮聖徳法王帝説の研究]], [[家永三郎]], 増補再版昭和四十七年刊, p.331)]]。
[44]
[[所功]]は、
[CITE[日本書紀]]
には崇峻天皇4年に[[法興寺]]に関係する記事がなく、
[CITE[日本書紀]]以外に[[法興寺]]とこの年を結びつける根拠が見られないため、
この説には無理があるとしました。
[SRC[>>502]]
[18]
[[所功]]は、
[[蘇我馬子]]の私寺から[[元号名]]が採られるとは考えにくい (逆はあり得る)、
[[法興寺]]造営に関する[CITE[日本書紀]]記事の史料価値を疑う[[福山敏男]]説がある、
[[飛鳥寺]] ([[法興寺]]・[[元興寺]]) 縁起類に[[法興]]の[[元号]]が見えない、
といった理由から[[法興寺]]との関係を否定しました。
[SRC[>>502]]
-*-*-
[19]
[[田村圓澄]]は、
唯一の用例たる銘文、碑文とも[[聖徳太子]]に焦点を当てたもので、
[[聖徳太子]]は [WEAK[(敏達天皇2年誕生説によれば)]] 19歳が崇峻天皇4年に当たることから、
これを記念したものだとの新説を提唱しました。
[[釈迦]]が仏道に進んだのが19歳とされ、
[[聖徳太子]]は[[日本]]の[[釈迦]]、[[法王]]と仰がれたことから、
仏法興隆にゆかりの深い19歳を[[法興]]の年とした、
というものでした。
[SRC[>>502 ([CITE[「法興」私年号考]], [CITE[日本歴史]]第二四三号, 昭和四十三年八月)]]
[[所功]]は、
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]を収録する
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]
が[[聖徳太子]]誕生を[TIME[甲午年][year:574]]とし、
その場合元年が[[聖徳太子]]18歳となることから、
無理があると評しました。
[SRC[>>502]]
[23]
[[岡田芳朗]]は、
[[新羅]]最初の[[元号]]を[[建元]]した[[法興王]]の治績と[[聖徳太子]]の事績の類似性を指摘しました
[SRC[>>502 ([CITE[日本の暦]], 昭和四十七年刊, [CSECTION[年号の始行]] pp.98-99)]]。
[[所功]]は、
類似といっても[[干支年]]などの対応関係が成立しているとはいえず、
元年が崇峻天皇4年となる理由を説明できないと指摘しました
[SRC[>>502]]。
[22]
[[所功]]は、
唯一の用例たる銘文、碑文とも[[聖徳太子]]に焦点を当てたもので、
しかも銘文の[[聖徳太子]]死後が
「癸未年」
と[[干支年]]のみの表記たることに着目し、
[[聖徳太子]]没年までにしか適用されなかったと推測しました。
[[所功]]は「聖徳太子のために作られ使われた年号とみて大過ないであろう」
と結論付けました。
[SRC[>>502]]
ただ[[所功]]は元年が崇峻天皇4年となる理由は
「依然不明というにとどめておかざるをえない」
としました。
[[建元]]理由を説明できない以上、
[[聖徳太子]]に因んだとする説も十分な説得力を持つとはいえません。
* 用法
[355]
[CITE[日本書紀]]に記録されておらず[[聖徳太子]]に関係する記録にのみ残されています。
[26]
用例が2つしかないことから、
広く使われたとは考えられない [SRC[>>502]]
とされています。
[302]
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]にあることから、
「法興」元号は当時ある程度使われていたものとみられます。
[[法隆寺]]周辺など仏教信仰との関係の中で利用されていたと推測されます
[SRC[>>246 普及版 p.338 ([[田村圓澄]], [TIME[1968][year:1968]])]]。
-*-*-
[28]
[[伴信友]] (>>4)
は、
「一時の嘉号の如く」で重視されなかった[[元号]]で、
しかも[[蘇我馬子]]らが使ったものだったため、
史書にも載せられなかったとしました。
[SRC[>>1731, >>502]]
;;
[37]
「一時の嘉号の如く」
とは、
[[伴信友]]説における[[大宝]]以前の[[元号]]の位置付けでした。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[1905]
[[伴信友]] (>>4)
は、
31年の[[聖徳太子]]没まで使われ、
その後自然に廃止されたものと推測しました。
[SRC[>>1731]]
[29]
[[久保常晴]]は、
[[帰化人]]が本国の知識により使ったものだと推測しました。
[SRC[>>502 ([CITE[[[日本私年号の研究]]]])]]
[30]
[[田村圓澄]]は、
[[聖徳太子]]が[[法王]]として仰がれた時期に、
[[法隆寺]]の僧が使った[[私年号]]としました。
[SRC[>>502 ([CITE[「法興」私年号考]], [CITE[日本歴史]]第二四三号, 昭和四十三年八月)]]
[31]
[[岡田芳朗]]は、
[[天武天皇]]の時代
[WEAK[([[新羅]]との国交回復)]]
より後に、
[[聖徳太子]]と[[法興王]]が意図的に結び付けられ、
[[聖徳太子]]が[[日本]]の最初の[[元号]]の[[建元]]者に比定され、
[[法興]]の[[元号]]が創作された、
と推測しました
[SRC[>>502 ([CITE[日本の暦]], 昭和四十七年刊, [CSECTION[年号の始行]] pp.98-99)]]。
[32]
[[所功]]は、
[[聖徳太子]]生前から顕彰する[[元号]]があったとは考えにくいとし、
死後[[法興王]]に比すべき英主であると「追慕する一部の人々(法隆寺僧などか)」
が作った[[私年号]]と推測しました。
[SRC[>>502]]
* 研究史
[1]
[[法興]]は、
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]と[CITE[伊予湯岡碑]]碑文に残されていますが、
[[六国史]]や[[年代記]]類にはまったく記録されていませんでした [SRC[>>502]]。
[2]
[[古代年号]]の一覧にも、古いものにはまったく[[法興]]は触れられていませんでした。
そのため[[法興]]と[[古代年号]]はまったく別個に成立し発展したとみられています。
[[九州王朝]]説支持者はこれを説明するため、
[[九州王朝]]勢力が分裂していたなど強引な理論を展開しているようです。
[SEE[ [[古代年号]] ]]
[33]
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]釈文は、
「建[SUB[二]]-立三宝[SUB[一]]始興[SUB[二]][RUBY[大寺][(法興寺)]][SUB[一]]故曰[SUB[二]]法興元世[SUB[一]]也。」
と[[法興寺]]と関連付けて解釈していました。
しかし[[元号]]とは考えていませんでした。
[SRC[>>502]]
[4]
[[江戸時代]]の研究者[[伴信友]]は、
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]] (>>296)
と
[CITE[伊予湯岡碑]] (>>306)
から、
崇峻天皇4年[LINES[辛][亥]]が[[元年]]の[[元号]]としました。
[SRC[>>1731, >>502 (>>1731)]]
これには異論がなく、定説となりました。
[SRC[>>502]]
[21]
[[明治時代]]から[[昭和時代]]にかけて、
この[[元号]]の性質について様々な学説が提示されました。
[51]
[[福山敏男]]は、
古代の2つの遺物をいずれも時代が降ってから作られたものとしました
(>>24, >>25)。
[[法興]]は[[元号]]が使われるようになった後に生まれたものとしました。
[SRC[>>50]]
[REFS[
- [1731] [CITE[[[年号の論]]]]
- [461] [CITE[[[年号の歴史]]]]
-- [502] [CITE[大宝以前の公年号――諸説の再検討――]]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE@ja[私年号 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-13 18:25:40 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]
> 「法興」だけは例外で、法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘・『伊予国風土記』逸文といった信用すべき史料に実例が見られる。これが年号か否かの解釈については議論の余地があるものの、聖徳太子を讃仰する僧侶によって使用されたものとみて間違いなかろう。
]FIG]
- [246] [CITE[[[日本年号史大事典]]]]
- [352] [CITE[[[元号―年号から読み解く日本史―]]]]
]REFS]
* メモ
[27]
2つも用例があるというのは、
考えようによっては[[大化]]や[[白雉]]よりも実在性がはっきりしているともみられますよね。
[45]
[CITE[東京国立博物館デジタルライブラリー / [[上宮太子拾遺記]];1~7・裏書 : 第五]], [TIME[2020-07-31 18:13:25 +09:00]] <https://webarchives.tnm.jp/dlib/detail/1727>
1547/00220, 224, 225
[46]
[CITE[【[[上宮太子拾遺記]]】]], [TIME[2020-08-01 10:33:54 +09:00]] <http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=KSRM-109802&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E4%B8%8A%E5%AE%AE%E5%A4%AA%E5%AD%90%E6%8B%BE%E9%81%BA%E8%A8%98%E3%80%91&REQUEST_MARK=null&OWNER=null&BID=null&IMG_NO=326>
[47] [CITE@ja[大日本仏教全書. 112 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-08-01 14:16:19 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952816/200>