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750
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753
754
755
[31]
[DFN[天靖]] ([[旧字体]]: [DFN[天靖]])
* 元号名
[23]
[[読み][元号の読み方]]は「てんせい」とされます。
[SRC[>>1 /82, >>5, >>11, >>12]]
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE@ja[天靖(てんせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク]], [[精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]], [TIME[2023-01-24T10:14:46.000Z]] <https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E9%9D%96-1374298>
]FIGCAPTION]
>
てんせい【天靖】
>私年号の一つ。嘉吉三年(一四四三)に当たる。この年、南朝の遺臣日野有光らが後亀山天皇皇子金蔵主を擁して宮中に乱入し、神璽宝剣を奪って延暦寺に拠ったが敗死した事件(禁闕の変)があり、彼らの使用した年号。
>
出典 精選版 日本国語大辞典[SNIP[]]
>【異年号】より
>[SNIP[]]1443年(嘉吉3)天靖の年号が南朝の遺臣の間で用いられ,15世紀後半には関東公方足利成氏の治下で享正・延徳の年号が現れる。いずれも正年号を拒否することで室町幕府に反抗する政治意思がこめられている。…
>【元号】より
>[SNIP[]]南北朝合一後に南朝の遺臣の間に天靖という私年号が用いられたことが知られる。[SNIP[]]
>出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
]FIG]
]REFS]
* 紀年法
[120]
ほとんどすべての資料が、嘉吉3年を[[元年]]としています。
-*-*-
[119]
[[昭和時代]]初期の
[CITE@ja-JP[最新日本歴史年表]]
は、
嘉吉3年と[TIME[宝暦3(皇紀2111, 西暦1451)年][1451]]の両方に
「[V[天靖[BR[]]元]]」
と書いています。
索引でも両方を掲載しています。
[SRC[>>118 /142, >>118 /143, >>118 /12]]
しかし[[年表]]という性質上、その根拠は記載がありません。
[SRC[>>69]]
[121]
[CITE[日本私年号の研究]]は、
この資料だけが両説を挙げることを紹介しつつ、
根拠がないため通説通りに嘉吉3年としています。
[SRC[>>69]]
[REFS[
-
[118]
[CITE@ja-JP[最新日本歴史年表]], [[大森金五郎, 高橋昇造 共著]], [TIME[1934]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T11:33:00.023Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1908814/1/142> (要登録)
]REFS]
* [CITE[武家功名記]]
[43]
[CITE[武家功名記]] ([CITE[本朝武家高名記]])
の上島、下島両家の章に、
「[V[[SNIP[]]天靖元[LINES(smaller)[北ハ嘉吉][三年ナリ]]年[SNIP[]]]]」 ([[楷書]])
とあります。
[[南北朝時代]]の[[南朝の元号]]と同じ書き方です。
[SRC[>>42]]
[44]
[[後醍醐天皇]]の5世の正統の主を奉じて南朝を再興したとの記事です。
[SRC[>>42]]
[REFS[
- [42] [CITE@jp[[[本朝武家高名記]]15]], [[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]], [TIME[2024-02-11T14:18:28.000Z]] <https://www.digital.archives.go.jp/img.pdf/4186157>
]REFS]
-*-*-
[50]
[[江戸時代]]以来多くの研究者がこれを直接または間接に参照しました。
[56]
[[江戸時代]]の[[水戸学]]者[RUBYB[[[小山田与清]]][[TIME[1783]]-[TIME[1847]]]]の
[CITE[松屋叢話]]
は、
[CITE[武家功名記]]
に[[天靖]]元年と書いて嘉吉3年と注釈されており、
[[後南朝]]がこの頃まで[[年号]]を建てていたと考えられるとしていました。
[SRC[>>53]]
(また、中世[[私年号]]全般を[[後南朝]]に関係づけていました。 [SEE[ [[日本南北朝時代の元号]] ]])
[33]
[[江戸時代]]の研究者[[伴信友]]によると、
[[忠義王]]が[[嘉吉]]の頃に[[私][私年号]]に[[天靖]]と[[建元]]したことがあり、
上島下島両氏の古家牒に記されているといいます。
[SRC[>>208, >>66]]
明記されていませんが、
[CITE[武家功名記]]
を直接または間接の出典としている可能性があります。
[51]
[[江戸時代]]から[[明治時代]]に一部で主張された[[私年号]]
([[中世東国私年号]]を含む。)
を[[後南朝]]の[[元号]]とする説の中でも、
[CITE[武家功名記]]
が引かれました。
[SEE[ [[日本南北朝時代の日時]] ]]
[71]
[[昭和時代]]の[CITE[日本私年号の研究]]は、
[[伴信友]]の[CITE[逸年号表補考]]から[CITE[武家功名記]]を引いています。
[SRC[>>69 [V[資料[YOKO[1]]]]]]
[REFS[
- [53] [CITE[松屋叢話]]
-- [54] [CITE@ja-JP[[[近古文芸温知叢書]] 第3編]], [[内藤耻叟, 小宮山綏介 標註]], [TIME[明治24-44][1911]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T01:59:48.249Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1088008/1/30>
-- [55]
[CITE@ja-JP[[[國學院雜誌]] 5(13)(61)]], [[國學院大學]], [TIME[1899-11]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T02:51:20.294Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3364702/1/27> (要登録)
-
[66]
[CITE@ja-JP[[[伴信友]]全集 第3]], [[国書刊行会]], [TIME[明治40][1907]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T06:56:42.521Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991314/1/78>
左下
-- [67] [CITE[残桜記]]
-
[207]
[CITE[[[年号の論]]]]
--
[208]
[CITE@ja-JP[[[伴信友全集]] 第4]], [[国書刊行会]], [TIME[明治40][1907]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-07T13:38:36.011Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991315/1/304>
]REFS]
* 後南朝史書
[30]
[[江戸時代]]の研究者[RUBYB[[[飯田忠彦]]][[TIME[1799]]-[TIME[1860]]]]の
[CITE[野史]]は、
嘉吉3年に天靖元年と[[私][私年号]]に[[建元]]したと書いています。
続正統記、
紀伝、
上月記を出典としています。
[SRC[>>2]]
[57]
[[江戸時代]]から[[明治時代]]の研究者[RUBYB[[[菅政友]]][[TIME[1824]]-[TIME[1897]]]]の
[CITE[南山皇胤譜]]
は、
[CITE[松屋叢話]] (>>56)
を引いた上で、
それを時代から[[尊秀王]]に比定しました。
[SRC[>>58]]
;; [64] [[干支年]]についても記述があり、[[日本南北朝時代の日時]]参照。
[REFS[
-
[2] [CITE@ja-JP[[[野史]] : 291巻首1巻 卷1-64]], [[飯田忠彦]], [TIME[明治37 再版][1904]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:06:26.469Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3438463/1/148> (要登録)
- [52]
[CITE@ja-JP[菅政友全集]], [[国書刊行会]], [TIME[明40.11][1907]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T05:49:40.796Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/898703/1/102>
-- [59] [CITE[南山皇胤譜]]
--- [58] [CSECTION[[V[卷五]]]], [V[明治廿五年五月廿五日稿了]]
]REFS]
** [CITE[南朝遺史]]
[21]
[[明治時代]]の研究者[[林嘉三郎]]による史書[CITE[南朝遺史]]は、
「[V[[LINES(smaller)[南][帝]][RUBY[天][テン]][RUBY[靖][セイ]]元年]]」 ([[楷書]])
から
「[V[[LINES(smaller)[南][帝]]天靖十三年]]」 ([[楷書]])
までで編年しています。
[SRC[>>1]]
[29] 嘉吉3年9月までは、[[南朝の元号]]と合一後は[[北朝の元号]]で編年されています。
[24]
天靖元年条に、嘉吉3年を天靖と改元したとあり、
嘉吉3年10月から長禄2年までとあります。
[SRC[>>1 /82]]
[25]
吉野の奥十津川を御所とし天靖と改元したとの記事があります。
続正統記、
南方紀伝、
上月記、
野史、
上島下島家牒、
残桜記が出典とあります。
[SRC[>>1 /83]]
[NOTE[
[114]
うち、
[CITE[続神皇正統記]] [SRC[>>116]],
[CITE[史籍集覧]]本[CITE[南方紀伝]] [SRC[>>115]],
[CITE[上月記]] [SRC[>>112, >>113]]
には[[改元]]関係の記述がありません。
他の記述に関する出典と思われます。
[REFS[
- [116]
[CITE@ja[[[続神皇正統記]] - Wikisource]], [TIME[2024-02-12T08:28:40.000Z]], [TIME[2024-02-12T10:08:22.447Z]] <https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%B6%9A%E7%A5%9E%E7%9A%87%E6%AD%A3%E7%B5%B1%E8%A8%98>
- [115] [CITE@ja-JP[[[史籍集覧]] 第3冊]], [[近藤瓶城]], [TIME[明治39][1906]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T10:06:33.248Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3431170/1/167>
- [112] [CITE@ja-JP[[[群書類従]] 第495-497冊(巻397上-398)]], [[刊]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T09:56:54.174Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2576263/1/125>
- [113] [CITE@ja-JP[[[和気郡史]] 資料編 上巻]], [[和気郡史編纂委員会]], [TIME[1981.11][1981]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T09:57:24.891Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9575013/1/76> (要登録)
]REFS]
]NOTE]
[26]
残桜記によると[[改元]]は神器を犯擁したためとされます。
[SRC[>>1 /83]]
;; [27] [[干支年]]についても記述があり、[[日本南北朝時代の日時]]参照。
[102] 天靖13年乙亥条まであります。
[28] 翌年は「[V[康正二年[SUP(smaller inline)[丙]][SUB(smaller inline)[子]]]]」
となっており、以後[[北朝]]の元号で編年されています。
[SRC[>>1 /96]]
[REFS[
- [1] [CITE@ja-JP[[[南朝遺史]] 追加之2 自天王碑]], [[林嘉三郎]], [TIME[明27.3][1894]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:04:29.547Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/772453/1/82>
-- [22] 序文: [V[明治二十五年一月]] [SRC[>>1 /23]]
]REFS]
-*-*-
[73]
[[明治時代]]後期に編纂された地誌
[CITE[大日本地名辞書]]
の[[近江国]][[甲賀郡]]の
[CSECTION[[V[長野]]]]条に、
>
[VRL[
[SNIP[]]南朝󠄃遺󠄃史󠄃云、嘉吉三[BR[]]
年、楠二__&&swc626(郎)&&__は空因法親王を奉し甲賀郡に忍󠄄び、攺元し[BR[]]
て天靖の號󠄂を建󠄁つ、信樂谷小川村大光寺は法親王の暫[BR[]]
く留まらせ給ふ所󠄃歟云々。
]VRL]
とあります。
[SRC[>>72]]
[75]
[[大正時代]]の[CITE[甲賀郡志]]に、
>
[VRL[
〔南朝󠄃遺󠄃史󠄃〕 嘉吉三年、楠二__&&swc626(郎)&&__は空因法親王を奉し甲賀郡に忍󠄄び[BR[]]
改元して天靖の號󠄂を建󠄁つ。信樂谷小川村大光寺は法親王の暫く[BR[]]
留まらせ給ふ所󠄃歟云々。
]VRL]
とあります。
[SRC[>>74]]
[76]
[[昭和時代]]中期の[CITE[日本私年号の研究]]に、
>
[VRL[
資料[YOKO[2]] 『南朝遺文』にも、その根拠となる資料はあげていないが、嘉吉三年に楠正儀の子孫の二郎という者が、
[BOX(indent)[
空因法親王を奉じ甲賀郡に及び、改元して天靖の号を建つ。信楽谷小川村大光寺は法親王の暫く留まらせ給ふ[BR[]]
所歟
]BOX]
と、述べている。
]VRL]
とあります。
[SRC[>>69]]
[84]
[CITE[南朝遺史]]
について、
[[国会図書館デジタル]],
[[Google検索]],
[CITE[国書データベース]]のいずれでも、
>>1
と異なる本の存在は確認できません。
[85]
[CITE[南朝遺''文'']]
について、
[[国会図書館デジタル]],
[[Google検索]],
[CITE[国書データベース]]のいずれでも、
該当しそうな書籍は確認できません。
[[昭和時代]]の[[詩]] [SRC[>>86]] は明らかに異なります。
[[平成時代]]の文化財報告書に引用があります [SRC[>>87]]。
他は
[CITE[日本私年号の研究]]
の孫引きと思われるものしかありません。
[88]
>>73 >>75 >>76 は細部が違いますが、明らかに同系統の文章です。
これらに一致する部分は
>>1
に見い出せません。
が、その構成要素は >>1
に含まれています。
>>73 は「南朝遺史云」で文を始めていますが、
原文のそのままの[[引用]]ではなく要約だったりするのでしょうか。
[89]
>>73 >>75 >>76
は互いに参照していませんが、
[[国会図書館デジタル]]の全文検索の範囲では
>>73
が初出と思われます。
[REFS[
- [72]
[CITE@ja-JP[[[大日本地名辞書]] 上巻 二版]], [[吉田東伍]], [TIME[1907/10/17][1907-10-17]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T07:55:37.933Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2937057/1/264>
左下
- [74]
[CITE@ja-JP[[[甲賀郡志]] 上]], [[滋賀県甲賀郡教育会]], [TIME[1926]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T08:12:45.664Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1876772/1/275> (要登録)
- [86]
[CITE@ja-JP[一去集]], [[石倚しろし, 神田俊子]], [TIME[昭和13][1938]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T08:40:22.205Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1111059/1/117> (要登録)
- [87]
[CITE@ja[Adobe Photoshop PDF - 15708_1_曲古墓群-1.pdf]], [TIME[2024-02-12T08:35:23.000Z]], [TIME[2024-02-12T08:41:05.058Z]]
<https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/21/21009/15708_1_%E6%9B%B2%E5%8F%A4%E5%A2%93%E7%BE%A4.pdf>
#page=39
]REFS]
-*-*-
[61]
[[昭和時代]]の
[CITE[南山遺響]]
は、
[CITE[松屋叢話]] (>>56) を引用して[[天靖]]を使っています。
[SRC[>>60 /88]]
[62]
編年には[[公年号]]を使っていますが、
[[天靖]]も併記しています。
[63]
巻末まで併記は続き、最後は「[V[南方天靖十六年]]」です。
[SRC[>>60 /103]]
;; [65] [[干支年]]についても記述があり、[[日本南北朝時代の日時]]参照。
[REFS[
- [60] [CITE@ja-JP[南山遺響]], [[石井一幸]], [TIME[昭和8][1933]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T06:10:48.644Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1191491/1/88> (要登録)
]REFS]
-*-*-
[16] [CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:38:05.829Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/104> (要登録)
小倉宮と尊義王を擁立して南山で蜂起、
嘉吉3年改元して天靖、
記録に残っている、
吉野あたりの古文書は合一後も北朝元号を使っていない
[14]
[CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2023-12-19T01:59:10.000Z]], [TIME[2023-12-22T08:55:14.878Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/137> (要登録)
嘉吉3年10月 天靖建元
[17] [CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:45:15.447Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/122> (要登録)
嘉吉3年10月 天靖元年 建元 自天王 川上村の奥三之公
[18] [CITE@ja-JP[吉野川上村史]], [[福島宗緒]], [TIME[昭和16][1941]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:48:01.145Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1042199/1/95> (要登録)
嘉吉3年10月 南方、天靖と建元
* その他の後南朝史記述
- [199] [CITE@ja-JP[[[未刊国文古註釈大系]] 第7冊]], [[吉沢義則]], [TIME[昭和12][1937]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-12-07T13:26:52.766Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1707635/1/122> (要登録)
-- [200] [CITE[嘉喜門院御歌卷證註]],
[[谷森善臣]]
[201] >>200 [[南朝]]史が説明されている。
- [202] [[天靖]] : [[尊秀王]], 北朝嘉吉3年が[[元年]]
- [203] [[大道]] : [[西陣南帝]], 北朝文明3年辛卯が[[元年]], 4年壬辰が2年
-*-*-
[19] [CITE@ja-JP[後南朝史論集 : 吉野皇子五百年忌記念]], [[後南朝史編纂会]], [TIME[1956]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T08:52:42.861Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006092/1/148> (要登録)
天靖も10年を数え (享徳元(1452)年)
* 作品
[11] [CITE[[[谷崎潤一郎]] 吉野葛]], [TIME[2019-12-18T12:42:19.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:46:11.810Z]] <https://www.aozora.gr.jp/cards/001383/files/56867_58205.html>
[79]
[[後南朝]]を題材にした作品ですが、単なる[[歴史小説]]ではなく、
作家の随筆の形を取っています。
[81]
時代背景として、[[南北朝正閏論]]があります。
[80]
[[現代日本]]において文学研究の題材にもなっています。
[4]
[TIME[2023-01-24T10:12:21.700Z]]
<https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00790001-0043.pdf?file_id=70361>
#page=16
[7] [CITE[和州探訪 ~いにしえの旅人とゆく深く美しい日本~]], [TIME[2019-02-03T11:16:00.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:43:26.483Z]] <http://www.enyatotto.com/yamato/sannoko/sannoko.htm>
[77] [CITE@ja[18.shibata_ronnbun.pdf]], [TIME[2019-02-21T05:35:29.000Z]], [TIME[2024-02-12T08:26:23.803Z]] <https://www.tufs.ac.jp/common/fs/ics//journals/2018ics22/18.shibata_ronnbun.pdf#page=12>
[78] >>11 は >>21 など信憑性の低い資料に依拠している [SRC[>>77]] とされます。
[NOTE[
[83] [[元号]]には言及がない関連文献:
[82] [CITE@ja[32_KJ00009971373.pdf]], [TIME[2024-02-12T08:32:28.000Z]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/32/9/32_KJ00009971373/_pdf/-char/ja>
]NOTE]
* 三河吉野朝
[104]
[[三河吉野朝]]説では[[楠木]]氏により[[三河国]]で擁立された[[南朝]]の[[中興天皇]]の[[元号]]が[[天靖]]であるとされます。
[105]
[[三河吉野朝]]は信頼できる史料にない独特の歴史を説いています。
[[昭和時代]]初期に提唱されました [SRC[>>106]]。
[108]
嘉吉3年12月25日に[[空因法親王]]が[[即位]]して[[中興天皇]]となり、
[[天靖]]と[[改元]]したとされます。
[SRC[>>106 /114, >>106 /144]]
[107]
「[V[天靖十三年(康正元年)二月五日]]」
に[[中興天皇]]は死去したとされます。
[SRC[>>106 /109]]
[110]
一部はなぜか[DFN[[V[天請󠄄]]]]となっています。
[SRC[>>106 /147]]
[[誤植]]でしょう。
[111]
[[天靖]]は13年まで、
[[天請󠄄]]は14年と15年の用例があります。
[109]
[CITE[南朝遺史]]
に従い[[吉野]]を調査しても遺跡が見つからないので、
[[三河]]が真の地だと主張しています。
[SRC[>>106 /145]]
[[天靖]]も
[CITE[南朝遺史]]
の説をそのまま転用したと思われます。
[REFS[
-
[106]
[CITE@ja-JP[大楠公秘史]], [[八板千尋]], [TIME[昭和17][1942]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-12T09:31:19.818Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1041757/1/109> (要登録)
]REFS]
* 美作後南朝
[34]
[[美作後南朝]]説では[TIME[西暦1443年10月29日][kyuureki:1443-10-29]]に[[美作]]の[[植月御所]]で[[尊義親王]]
([[高福天皇]])
が[[即位]]したとされます。
[SRC[>>12, >>37]]
[35]
[[美作後南朝]]説は信頼できる史料にない独特の歴史を説いています。
[36]
[[改元]]は西暦1443年12月 [SRC[>>15]] [TIME[25日][kyuureki:1443-12-15]] [SRC[>>37]] のことだとされます。
[SRC[>>15, >>37]]
[117]
嘉吉3年12月25日という日付は[[三河吉野朝]]説にも出現し (>>108)、
何らかの共通の元ネタがありそうに思われますが、不明です。
[REFS[
- [37]
[CITE@ja-JP[[[植月御所]]の真相 : 三種の神器八咫の鏡と美作「後南朝」秘史]], [[田中千秋]], [TIME[1961]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T13:45:29.265Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006134/1/39> (要登録)
/101
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE@ja[null]], [TIME[2013-09-01T08:34:15.000Z]], [TIME[2024-02-11T07:33:27.905Z]] <http://pasocon-salon.floppy.jp/akihisa01.html>
]FIGCAPTION]
>小倉宮良泰親王の第四皇子尊義親王は美作後南朝初代天皇として嘉吉3年
> (1443)10月29日即位、高福天皇となり12月年号を天靖と改元した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12]
[CITE[[L[美作(後南朝と菅家)探訪記]]]],
[[[L[山崎泰二]]]],
[TIME[2015-07-20T08:22:01.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:49:10.195Z]] <http://www.hasukura.com/site/7yamasaki.pdf#page=4>
]FIGCAPTION]
>
[LEFT[
正史南朝最後の第 99 代後亀山天皇からそ[BR[]]
の孫の尊義(たかよし)親王は三種の神器を[BR[]]
奪回し美作の植月にて第 101 代高福(こうふ[BR[]]
く)天皇として 10 月 29 日即位します。年号[BR[]]
も嘉吉から天靖(てんせい)と改元(1443)[BR[]]
され美作後南朝初代であります。
]LEFT]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE[舞!組曲 <日本! 115 南朝( 義仁王、義有王、尊雅王、信雅王 )>]], [TIME[2023-01-24T10:27:09.000Z]] <http://www.photoland-aris.com/myanmar/near/n115/>
]FIGCAPTION]
>[SNIP[]]
> あるいは嘉吉3(1443)年に義有王は吉野新帝と称し、南朝の年号を天靖元年とした という[B[(※2)]]。
>[SNIP[]]
>尚、義有王には『美作南朝(津山市付近に存在した後南朝)』における異説が有る。 紀伊で戦死の報に接した美作の尊義王(高福天皇;美作南朝の初代天皇)は義有王の 6歳の遺児を猶子とし、美作南朝第二代天皇である尊雅天皇(興福天皇)としたとい う [B[(※3)]]。年号の「天靖」は美作南朝でも用いられている。
>[SNIP[]]
>[B[(※2)]]伊藤獨氏著『悲運の南朝皇胤並自天王祭祀について』
>[B[(※3)]]原三正氏著『美作天皇記』
]FIG]
-
[13] [CITE@ja[南朝(49)八咫鏡: 越天楽]], [TIME[2023-01-24T11:49:53.000Z]] <http://manoeriwagner.seesaa.net/article/482197599.html>
]REFS]
@@
[45]
[CITE@ja-JP[植月御所の真相 : 三種の神器八咫の鏡と美作「後南朝」秘史]], [[田中千秋]], [TIME[1961]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T14:23:00.562Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006134/1/42> (要登録)
/102
興福天皇 天靖九年辛未正月八日 (宝徳3(1451)年) 即位改元 大明 (譲位)
/45
大明八年戊寅 長禄2年 八月二十八日夜 死去
[46] [CITE@ja-JP[植月御所の真相 : 三種の神器八咫の鏡と美作「後南朝」秘史]], [[田中千秋]], [TIME[1961]], [TIME[2024-02-01T05:12:54.000Z]], [TIME[2024-02-11T14:28:32.823Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3006134/1/48> (要登録)
/102
忠義天皇 8月28日即位 10月1日 改元 明応 1458
[CITE[大乗院雑事記]]により実証される。
/50 文明元年は明応12年。
[47]
/49 /50 乙亥 七月十八日、乙亥八月八日 は続け字の誤読で応仁元年丁亥。
/51 /103
20年丁酉 文明9(1477)年 譲位
/103 以後後南朝年号不明
[48]
/97
[CITE[東作誌]]所収土居妹尾家 (本陣妹尾良之助家) 所蔵古文献
[CITE[仁田四郎忠常跨猪図]] [[落款]]
「[V[大明五年亥正月十三日]]」
* 天崝
[435] [[長慶天皇]]の[[落人伝説]]に関係して[DFN[天崝]]
([[新字体]]: [DFN[天崝󠄂]])
と[[大道]]を[[後南朝]]の[[元号]]とする[[江戸時代]]の元和8年付けの文書があり、
[[明治時代]]以後に出版されています。
[SEE[ [[日本南北朝時代の日時]] ]]
[49]
[[天崝󠄂]]は[[天靖]]の誤りではないかといわれています。
[SEE[ [[日本南北朝時代の日時]] ]]
* 天晴
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[20] [CITE@ja[麒麟が来るが終わって マムシの道三は三人いた | 『日本史編纂所』・学校では教えてくれない、古代から現代までの日本史を見直します。]],
2021年02月10日 10時30分32秒,
[TIME[2024-02-11T11:11:51.000Z]] <https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12655765321.html>
]FIGCAPTION]
>そして六年後の嘉吉三年(南朝年号天晴元年一四四三)九月二十三日には、「楠木二郎」の率いる河内の武者共が、皇居の北門より入って清涼殿を占領。
> 神器を取り返し後村上帝の玄々孫の尊秀王の即位の儀をおこない、京をでて叡山の根本中堂によって幕軍を迎えうった。しかし南風競わず尊秀王以下楠本二郎も包回されて殺された。
]FIG]
[38] この[[天晴]]は明らかに[[天靖]]の誤りです。
* 研究史
[41]
[[天靖]]は[[江戸時代]]に[[後南朝]]や[[元号]]の研究者の知る所となりました。
[[後南朝]]史の記述には必ずといっていいほど登場する有名な[[私年号]]でした。
[103]
[[中世東国私年号]]を[[後南朝]]のものとする説のベースにもなりました。
[SEE[ [[日本南北朝時代の元号]] ]]
[70]
明治33年から昭和37年まで主要な辞典類はすべてこの[[私年号]]を収録し、
嘉吉3年に比定していました。
[SRC[>>69]]
[90]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
- [91] [CITE[武家功名記]] (>>71)
- [92] [CITE[南朝遺文]] (>>76)
- [93] [[伴信友]]が[[天靖]]の[[私年号]]の存在を肯定している
-- [94] 存在を前提に乙亥年文書を解釈している [SEE[ [[日本南北朝時代の日時]] ]]
- [95] 今日広く実在が公認されている (>>70)
- [96] [CITE[武家功名記]]以下諸書の典拠はその前後の文書からそれぞれ異なっているかに考えられる
-- [97] かつては少なくても2以上の資料が存在したと推測される
- [98] 諸書が一致して嘉吉3年とし南朝後裔の使用とする
ことから、現存するのはすべて二次資料であるとはいえ、
「[V[おおむねその実在を認めても誤りなかろう]]」
と判定しました。
[SRC[>>69]]
;; [122] 先行する同著者の[CITE[我が国の私年号に関する研究]]とほぼ同内容。
[99]
以後、[[平成時代]]の[[千々和到]]の表 ([SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]])
や[CITE[ウィキペディア]]の表 [SRC[>>10]]
などもこの[[私年号]]を嘉吉3年が[[元年]]の[[後南朝]]関係として掲載しています。
[100]
[[千々和到]]の表では[[元年]]が使われたとのみしています。 [SEE[ [[日本私年号一覧表]] ]]
[101]
[CITE[ウィキペディア]]の表は15年まで継続としています。
[SRC[>>10]]
根拠は不明です。
[REFS[
- [68]
[CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [69] pp.[V[二七六]]-[V[二七八󠄃]], p.[V[二九三]]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,天靖 ,- ,嘉吉3年(1443年) ,15 ,『武家功名記』などの二次史料。後南朝関係者が使用。
]FIG]
]REFS]
* メモ
- [3] [CITE@ja-JP[[[姫路城史]] 上巻]], [[橋本政次]], [TIME[1973]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T13:07:39.947Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9572950/1/125> (要登録)
-- [32] なぜか非公開に変わっています [TIME[2024-02-11T12:49:32.00Z]]
- [8] [CITE[古事類苑]], [CSECTION[歳時部四]], [CSECTION[年號下]], [CSECTION[逸年號【入】]], [TIME[2014-08-09T14:32:04.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:44:40.018Z]] <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000371.html>, 第 1 巻 371 頁
-- [39] 消滅確認 [TIME[2024-02-11T13:52:49.800Z]]
- [9] [CITE[古事類苑]], [CSECTION[歳時部四]], [CSECTION[年號下]], [CSECTION[逸年號【入】]], [TIME[2014-08-09T14:32:30.000Z]], [TIME[2023-01-24T11:45:04.954Z]] <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000364.html>, 第 1 巻 364 頁
-- [40] 消滅確認 [TIME[2024-02-11T13:52:52.600Z]]