/
771.txt
1887 lines (1415 loc) · 100 KB
/
771.txt
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
160
161
162
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
183
184
185
186
187
188
189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241
242
243
244
245
246
247
248
249
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
260
261
262
263
264
265
266
267
268
269
270
271
272
273
274
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285
286
287
288
289
290
291
292
293
294
295
296
297
298
299
300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335
336
337
338
339
340
341
342
343
344
345
346
347
348
349
350
351
352
353
354
355
356
357
358
359
360
361
362
363
364
365
366
367
368
369
370
371
372
373
374
375
376
377
378
379
380
381
382
383
384
385
386
387
388
389
390
391
392
393
394
395
396
397
398
399
400
401
402
403
404
405
406
407
408
409
410
411
412
413
414
415
416
417
418
419
420
421
422
423
424
425
426
427
428
429
430
431
432
433
434
435
436
437
438
439
440
441
442
443
444
445
446
447
448
449
450
451
452
453
454
455
456
457
458
459
460
461
462
463
464
465
466
467
468
469
470
471
472
473
474
475
476
477
478
479
480
481
482
483
484
485
486
487
488
489
490
491
492
493
494
495
496
497
498
499
500
501
502
503
504
505
506
507
508
509
510
511
512
513
514
515
516
517
518
519
520
521
522
523
524
525
526
527
528
529
530
531
532
533
534
535
536
537
538
539
540
541
542
543
544
545
546
547
548
549
550
551
552
553
554
555
556
557
558
559
560
561
562
563
564
565
566
567
568
569
570
571
572
573
574
575
576
577
578
579
580
581
582
583
584
585
586
587
588
589
590
591
592
593
594
595
596
597
598
599
600
601
602
603
604
605
606
607
608
609
610
611
612
613
614
615
616
617
618
619
620
621
622
623
624
625
626
627
628
629
630
631
632
633
634
635
636
637
638
639
640
641
642
643
644
645
646
647
648
649
650
651
652
653
654
655
656
657
658
659
660
661
662
663
664
665
666
667
668
669
670
671
672
673
674
675
676
677
678
679
680
681
682
683
684
685
686
687
688
689
690
691
692
693
694
695
696
697
698
699
700
701
702
703
704
705
706
707
708
709
710
711
712
713
714
715
716
717
718
719
720
721
722
723
724
725
726
727
728
729
730
731
732
733
734
735
736
737
738
739
740
741
742
743
744
745
746
747
748
749
750
751
752
753
754
755
756
757
758
759
760
761
762
763
764
765
766
767
768
769
770
771
772
773
774
775
776
777
778
779
780
781
782
783
784
785
786
787
788
789
790
791
792
793
794
795
796
797
798
799
800
801
802
803
804
805
806
807
808
809
810
811
812
813
814
815
816
817
818
819
820
821
822
823
824
825
826
827
828
829
830
831
832
833
834
835
836
837
838
839
840
841
842
843
844
845
846
847
848
849
850
851
852
853
854
855
856
857
858
859
860
861
862
863
864
865
866
867
868
869
870
871
872
873
874
875
876
877
878
879
880
881
882
883
884
885
886
887
888
889
890
891
892
893
894
895
896
897
898
899
900
901
902
903
904
905
906
907
908
909
910
911
912
913
914
915
916
917
918
919
920
921
922
923
924
925
926
927
928
929
930
931
932
933
934
935
936
937
938
939
940
941
942
943
944
945
946
947
948
949
950
951
952
953
954
955
956
957
958
959
960
961
962
963
964
965
966
967
968
969
970
971
972
973
974
975
976
977
978
979
980
981
982
983
984
985
986
987
988
989
990
991
992
993
994
995
996
997
998
999
1000
[1]
[[李氏朝鮮]]時代末期から[[大韓帝国]]時代は、
旧来の[[支那]]式[[日時制度]]から西洋式の[[日時制度]]や独自の[[日時制度]]へと移行していく激動の時代でした。
[SEE[ 他の時代も含めた事項は[[朝鮮半島の紀年法]]、[[朝鮮半島の旧暦]]、[[朝鮮半島の標準時]] ]]
* 高麗国時代まで
[SEE[ [[朝鮮半島の紀年法]]、[[朝鮮半島の旧暦]] ]]
* 李氏朝鮮時代
[73] [[明国]]や[[清国]]の[[属国]]だった[[朝鮮国]] ([[李氏朝鮮]]) の時代やそれ以前の時代には、
[[朝鮮][清国属国朝鮮]]でもその[[宗主国]]の[[明国]]・[[清国]]でも[[近代的標準時制度]]はまだ実施されておらず、
各地の[[地方時]]が使われていました。
[118] [[tzdata]] は元の [[LMT]] を
[CODE[Asia/Seoul]] は [TZ[+08:27:52]]、
[CODE[Asia/Pyongyang]] は [TZ[+08:23:00]]
としています [SRC[>>116]]。
[415] [[明国]]や[[清国]]の[[属国]]だった[[朝鮮国]]は、
[[干支]]の他、[[明国]]や[[清国]]の[[元号]]を用いていました。
;; [[朝鮮半島の紀年法]]を参照。
[364] [[朝鮮民主主義人民共和国]]の歴史研究者[[黄明哲]]は、
「朝鮮では当代
国家の都の地(首都)に位置する子午線を本初子午線にして標準時を定め、1日を12時
間とする時間制を制定して使用してきた」 [SRC[>>360]] とし、
[[李氏朝鮮]]やそれ以前の王朝が[[標準時]]を制定していたと主張していますが、
根拠は示していません。1日を12分割するというのは、[[十二支の時法]]のことでしょう。
-*-*-
;; [427] [[ソウル]] ([[漢陽]]、[[漢城]]、[[京城]]) は、
[[朝鮮半島]]中央部西岸の[[都市]]です。
[[明国属国朝鮮]]、[[清国属国朝鮮]]、[[大韓帝国]]、
[[大日本帝国朝鮮]]の[[首都]]として栄えました。
[[李氏朝鮮]]時代には[[王宮]]の[[景福宮]]がありました。
現在は[[大韓民国]]の[[首都]]となっています。
[309] [[明国属国朝鮮]]の[RUBYB[[[世宗]][[国王]]][[[在位]][TIME[1418年][year:1418]]-[TIME[1450年][year:1450]]]]は、
[[仰釜日晷]] ([[앙부일구]], [[Angbu Ilgu]])
や[[自撃漏]]などを作らせました。
[[昼]]は[[日時計]]が、[[夜]]は[[水時計]]が用いられました [SRC[>>410, >>411]]。
[413] [TIME[1434年6月][1434-06]]、[[蒋英実]]が[[自撃漏]] ([[水時計]]) を完成させ、
[[景福宮]]南側の[[報漏閣]]に設置し、[[標準時計]]となりました [SRC[>>412]]。
[414] [TIME[1434年11月2日][1434-11-02]] [SRC[>>37]]、
[[蒋英実]]による[[仰釜日晷]] ([[日時計]]) が王宮に設置され、
[[漢陽]]の[[標準時]]となりました [SRC[>>410, >>411]]。
[[仰釜日晷]]が設置されたのは[[惠政橋]] ([[혜정교]]) と[[宗廟]] ([[종묘]])
だった [SRC[>>39]] といいます。
[[韓国語]]版 [[Wikipedia]] の記事の過去の版は、
これを [LON[126°58′41″][126.58.41E]] = [TZ[+08:27:55]] であるとしていました
(現在の版や[[英語]]版 [SRC[>>410, >>411]] では [TZ[+08:28]])。
-*-*-
[74] [DFN[李氏朝鮮の暦]]は、正式には[[宗主国]]の[[明国]]や[[清國]]の[[農暦]]であり、
[[支那]]の[[地方時]]に基づき計算されたものでした。
[2] [TIME[1442年][year:1442]]以後、
[[朝鮮国]]の[[地方時]]に基づき計算した[[七政算]]を独自に運用するようになりましたが、
[[宗主国]]の[[暦]]と一致させるため、何度も[[改暦]]や本来の計算結果と異なる修正が行われました。
(それでも[[清国]]と異なる[[日付]]となったことが何度かあったようです。)
[SEE[ [[朝鮮半島の旧暦]] ]]
;; [4]
[[琉球国]]も[[清国]]の[[曆][農暦]]を採用しつつ、
実際には自国で計算していました。
[SEE[ [[琉球暦]] ]]
[87]
[[京城]]には[[天文台]]がありました。
[[高さ]]は20[[呎]]でした。
[[天体]]に異状があるときは
[[国王]]に奏上し、
[[国王]]は[[北京朝廷][清国]]に報告していました。
[SRC[>>81]]
[84]
[TIME[1894年][year:1894]]まで、
[[李朝]]の星学家は毎年[[支那]]から取り寄せた[[暦本]]を理解し応用する程度でした。
天文台は[[暦本]]発行の義務を有していましたが [SRC[>>81]]、
天文台長が[[支那]]の原本と異なる[[暦本]]を発行したときは、
遠島の流刑の厳罰に処されていました。
にも関わらず天文学は“旧来の星學や魔法の範囲”に留まり未発達でした。
[SRC[>>80]]
-*-*-
[182]
[[李朝]]時代末期の記録によると、
[[子供]]が生まれるとその[[出生]]の[[時刻]]を正確に記録し、
将来を占っていました。
[[年齢]]は[[数え年]]を使っていました。 [SRC[>>9]]
[183]
「正確」がどの程度のものかは不明ですが、
それなりの[[時刻]]を知る方法があったということになります。
[186]
官衙や高等行政官 (郡長知県など) の住宅は、
市内北壁付近の高台にあり、
周囲に高さ一丈一尺の壁と門がありました。
門の上には四方に開いた瓦葺きの櫓があり、
朝夕は[[太鼓]]で[[報時]]していました。
[SRC[>>12]]
-*-*-
[185]
[[休日]]もいくつかありました。 [SRC[>>184]]
[REFS[
- [594] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2018-09-29 23:50:18 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/id/nh_027_0020_0020_0040_0010>
- [595] [CITE[한국사데이터베이스]] ([TIME[2018-09-29 23:51:24 +09:00]]) <http://db.history.go.kr/id/nh_027_0020_0020_0040_0020>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] ([TIME[2005-04-18 15:21:30 +09:00]])
<http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/4638/kankoku.html>
]FIGCAPTION]
> 「笠山日時計」は今から約350年前、第4代王である世宗が製作した「仰釜日晷」(韓国宝物845号)の複製である。17世紀半ばに西洋式時間測定法が加わり、それまでの「十二時百刻法」が「十二時九六刻法」に修正された後のもので、17世紀後半・李朝時代の宮廷内外で公衆時計として使用されていた日時計である。日時計の本体は韓国で玉石と呼ばれる黒御影石でつくられている。黒御影石は結晶が光を受けて反射し、近くに寄ると見る角度によっては光の輝きが宝石のように美しく変化する。また、熱膨張係数がきわめて小さいので、測定用の定盤や精密機器の台座として利用されている。15分間間隔の「真太陽時」と季節(二十四節季気)を知ることができる。
]FIG]
- [116] [[tzdata]]
([TIME[2016-04-19 01:50:32 +09:00]]) <https://www.ietf.org/timezones/data/asia>
-- [133] [CITE['''['''tz''']''' [PATCH] * asia (Asia/Seoul) correct DST.]] ([TIME[2014-10-31 16:01:06 +09:00]]) <http://mm.icann.org/pipermail/tz/2014-October/021831.html>
- [410] [CITE@en[Time in South Korea - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-20 01:19:32 +09:00]]) <https://en.wikipedia.org/wiki/Time_in_South_Korea>
- [411] [CITE@en[Time in North Korea - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-18 22:55:12 +09:00]]) <https://en.wikipedia.org/wiki/Time_in_North_Korea>
- [412] [CITE@ja[蒋英実 - Wikipedia]] ([TIME[2018-01-11 22:51:11 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%8B%E8%8B%B1%E5%AE%9F>
- [39] [CITE@ko[한국 표준시 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]]
([TIME[2015-08-22 09:20:48 +09:00]] 版)
<https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C>
-- [327] [CITE@ko["한국 표준시"의 두 판 사이의 차이 - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]] ([TIME[2018-01-20 01:15:44 +09:00]]) <https://ko.wikipedia.org/w/index.php?title=%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C&type=revision&diff=14591410&oldid=14588527>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[37] [CITE@ko[韓国時間 - ウィキペディア、私たちのすべての百科事典]]
([TIME[2016-02-12 17:59:27 +09:00]] 版)
<https://ko.wikipedia.org/wiki/%ED%95%9C%EA%B5%AD_%ED%91%9C%EC%A4%80%EC%8B%9C>
]FIGCAPTION]
> 1434年(世宗16年)11月2日(旧暦10月2日):世宗大王が日時計(アンブイルグ)を作成ソウルヘジョン校(現光化門郵便局の北)と宗廟の前に設置する。時間という概念が必要なかった時代に漢城(ソウル)の時刻は、今日のUTC +08:28。
]FIG]
- [359] [CITE[北東アジア研究]] 第28号 ([TIME[2017年3月][2017-03]])
-- [360] [CITE[最近の朝鮮民主主義人民共和国の歴史学学会の研究動向と成果について]]
([[黄明哲]], [TIME[2017-04-06 16:32:18 +09:00]])
<http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu28.data/hokutou28_4_hwan.pdf>
-- [361] [CITE[朝鮮社会科学院研究者の 論文投稿の経緯と掲載に寄せて]]
([[福原裕二]], [TIME[2017-04-06 16:32:13 +09:00]])
<http://hamada.u-shimane.ac.jp/research/organization/near/41kenkyu/kenkyu28.data/hokutou28_3_fukuhara.pdf>
;; [362] [[黄明哲]]は[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[朝鮮社会科学院]][[歴史研究所]]の所長
[SRC[>>361]]。
]REFS]
* 西洋式日時の流入
;; [405]
[TIME[1871年6月][1871-06]]、
[[米国]]は[[江華島]]に進攻しました ([[辛未洋擾]])。
;; [399]
[TIME[1873年][year:1873]]、
[[大院君]]は失脚し、
[[閔氏政権]]が成立しました。
[162]
[TIME[1876年2月26日][1876-02-26]]、
[[大日本帝国]]と[[朝鮮国]]は[[日朝修好条規]]に[[調印]]しました。
[[日本]]側は
「大日本國紀元二千五百三十六年明治九年二月二十六日」、
[[朝鮮]]側は
「大朝鮮國開國四百八十五年丙子二月初二日」
とされました。
[SRC[>>161]]
[167] これが[[開国年号]]の始まりとされています [SRC[>>13]]。
;; [200]
[TIME[1876年11月10日][1876-11-10]]、
[[釜山]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。
;; [377] [TIME[1877年][year:1877]]、
[[釜山]]に[[日本租界]]が設置されました。
;; [201]
[TIME[1880年][year:1880]]、
[[元山]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。
[165]
[TIME[千八百八十二年五月二十二日][1882-05-22]]、
[[大朝鮮國]]と[[大美國]]は[CITE[朝美修好通商條約]]に[[調印]]しました。
[[正文]]である[[漢文]]版には、
[[朝鮮]]側は
「大朝鮮國開國四百九十一年
即中國光緖八年四月初六日」、
[[米国]]側は
「大美國一千八百八十二年五月二十二日」
とありました。 [SRC[>>163]]
[[英文]]版には、
「May the 22[SUP[nd]], A.D. 1882」
とありました。 [SRC[>>164]]
;; [398]
[TIME[1882年7月23日][1882-07-23]]、
[[軍事クーデター]]が発生し、
[[親日派]]が追放され[[大院君]]が復権しました ([[壬午軍乱]])。
[[大日本帝国]]と[[清国]]が進攻しました。
その後再び[[大院君]]は失脚し、[[閔氏政権]]が復活しました。
これらの事件を通じて[[清国]]による[[属国]]の[[李氏朝鮮]]への支配が強化されることになりました。
;; [193]
[TIME[1882年11月][1882-11]]、
[[清国]]の[[電信]]線[[京城]] - [[義州]]間が開通しました。
;; [379] [TIME[1883年][year:1883]]、
[[仁川]]に[[日本租界]]が設置されました。
[[仁川]]に[[日本]]の[[郵便局]]が設置されました。
[159]
[TIME[朝鮮開國四百九十二年癸卯未十月初一日][1883-10-30]]、
[[朝鮮政府]]の[[統理衙門博文局]]が初の近代的[[新聞]]である
[CITE[漢城旬報]]
を創刊しました。
第1号では欄外に「中國光緒九年」と併記されていました。
第4号以後[[支那の元号]]は欄内に併記されるようになり、欄外には
「西歴一千八百八十三年十一月三十日」
と[[西暦]] ([[グレゴリオ暦]])
が併記されるようになりました。
[SRC[>>160]]
;; [191]
[TIME[明治16年][year:1883]]、
[[大北電信会社]]の海底電信線[[呼子]] ([[佐賀県]]) - [[壱岐]] - [[対馬]] - [[釜山]]間が開通しました。
;; [192]
[TIME[明治17年2月][1884-02]]、
[[釜山]]に日本電信局が設置されました。
電信局では[[気象観測]]も行いました。
;; [378] [TIME[1884年][year:1884]]、
[[仁川]]と[[釜山]]に[[清国租界]]が設置されました。
;; [387] [TIME[1884年][year:1884]]、
[[仁川]]に[[各国租界]]が設置されました。
;; [195]
[TIME[1884年11月18日][1884-11-18]]、
[[朝鮮政府]]は[[郵征総局]]を設置しました。
;; [400]
[TIME[1984年12月4日][1984-12-04]]、
[[軍事クーデター]]が発生しましたが、失敗に終わりました
([[甲申政変]])。
[[親日派]]は失脚し、[[清国]]による[[属国]]の[[李氏朝鮮]]への支配はますます強化されました。
[[大日本帝国]]と[[清国]]はこの後撤兵しました。
クーデターの舞台となった[[郵征総局]]は閉鎖しました。
;; [401] この頃、[[清国]]は[[朝鮮]]域内の都市間の[[電信線]]の整備を進めました。
;; [376] [TIME[1885年4月][1885-04]]、
[[巨文島]]に[[英国]]が進攻しました。
[649]
[[欧米人]]や[[日本人]]は、
日常生活では自国の[[日時制度]]
([[西暦]] ([[日本人]]は[[日本の元号]])、
[[グレゴリオ暦]] ([[露国人]]は[[露暦]])、
[[西洋式時刻]])
を使っていたとみられます。
[[時刻]]は[[地方時]]が一般的だったのでしょうか。
[397] [TIME[1886年2月][1886-02]]以後、
在[[漢城]]日本[[公使館]]では定時の[[気象観測]]が行われていました
[SRC[>>395, >>393, >>207]]。その記録は残っていますが、[[時刻]]が何であったのかは不明です。
(これ以前にも観測が行われたことがありますが、記録は残っていません [SRC[>>207]]。)
[458]
[TIME[1887年][year:1887]]頃から、
在[[朝鮮]][[ロシア帝国]][[公使]]の[[ウェベル]]
([[Karl Ivanovich Weber]],
[[Carl von Waeber]]) による定時の[[気象観測]]が行われていました [SRC[>>207]]。
[[時刻]]が何であったのかは不明です。
;; [194]
[TIME[1887年2月][1887-02]]、
[[英国]]が[[巨文島]]から撤退しました。
;; [385] [TIME[1888年][year:1888]]、
[[元山]]に[[清国租界]]が設置されました。
[225] [[Shanks]] の [[KOREA, NORTH]] と [[KOREA, SOUTH]] は、
[TIME[1890年1月1日0時0分][1890-01-01T00:00]]から [TZ[+08:30]] (それ以前は[[LMT]])
としていました [SRC[>>226]]。 この[[日付]]の根拠は不明です。
;; [402] [TIME[1894年][year:1894]]春、
大規模な[[農民反乱]]が発生しましたが、[[李氏朝鮮]]政府は鎮圧できませんでした。
([[甲午農民戦争]] = [[東学党の乱]])
;; [170]
[TIME[1894年6月8日 (清国暦5月5日)][1894-06-08]]、
[[清国]]が[[朝鮮]]に進攻しました。
;; [171]
[TIME[1894年6月10日 (清国暦5月7日)][1894-06-10]]、
[[日本]]が[[朝鮮]]に進攻しました。
;; [403] [TIME[1894年7月23日][1894-07-23]]、
[[日本軍]]は[[京城]]を制圧しました。
[[大日本帝国]]の支援の元[[大院君政権]]が復活し、
[[閔氏政権]]は崩壊しました。
;; [404] [TIME[1894年7月25日][1894-07-25]]、
[[大日本帝国]]と[[清国]]は[[戦争]]状態となりました。
[530]
[[李氏朝鮮]]の[[官報]]では、
[TIME[「甲午六月二十一日」][1894-07-23]]
と[[干支紀年]]であり、その次の年号が
[TIME[「開國五百三年六月二十九日」][1894-07-31]]
となり、以後[[開国年号]]となっていました。 [SRC[>>168]]
[172]
[[Wikipedia]] は
[TIME[1894年7月27日][1894-07-27]]から[[開国年号]]採用としています
[SRC[>>173, >>174]]。
[177]
[TIME[1894年8月20日][1894-08-20]]の日朝両国の[[条約]]は、
[[調印]]を
[TIME[「大日本國明治二十七年八月二十日」すなわち「大朝鮮國開國五百三年七月二十日」][1894-08-20]]
としていました。
また本文中に
[TIME[「[LINES[日本暦明治二十七年七月二十三日][朝鮮暦開國五百三年六月二十一日]]」][1894-07-23]]
とありました。
[SRC[>>176]]
;; [169]
[TIME[1894年8月1日][1894-08-01]]、
[[日清戦争]]が開戦しました。
;; [72] [TIME[1895年][year:1895]]、
[[清国]]と[[大日本帝国]]の[[下関条約]]で、
[[清國]]は[[朝鮮国][清国属国朝鮮]]の[[独立]]を承認しました。
[275] [TIME[1895年6月][1895-06]]、
[[東京帝国大学]]は[[台湾の標準時]] (後の[[西部標準時]]) の検討にあわせて、
[[朝鮮国]]にある[[日本]]の官庁では[[西部標準時]] [TZ[+08:00]]
を採用するべきであり、[[朝鮮国]]の[[標準時]]も [TZ[+08:00]]
とするよう勧告するべきだ、と[[日本政府]]に提案しました。
これを受けた[[大日本帝国]]の[[勅令]]案には
「朝鮮王國所在ノ帝國諸官衙ノ標準時ハ西部標準時ニ依ル」
ともありました。しかし[[内地]]と[[朝鮮国]]駐在官との連絡は便利になるとはいっても、
[[朝鮮国]]の[[標準時]]はまた別であり時期尚早だとして、
削除されました。
[SEE[ [[西部標準時]] ]]
[276] [[東京帝国大学]]の検討では、
[[朝鮮半島]]の東岸では[[標準時]]と[[地方時]]の[[時差]]が30分以上となるものの、
[[北海道]]と[[中央標準時]]で[[時差]]があってもそこまで問題にはなっていないとしていました。
[650]
[[東京帝国大学]]や[[東京]]の[[日本政府]]の関係者が[[朝鮮国]]の事情にどこまで通じていたか不明ですが、
未だ[[近代的標準時]]を実施していないと認識していたことがわかります。
;; [196]
[TIME[1895年7月][1895-07]]、
[[朝鮮政府]]の郵便事業が再開されました。
-*-*-
;; [407] [TIME[1895年10月8日][1895-10-08]]、
[[閔妃]]が暗殺されました ([[乙未事変]])。
[155]
[TIME[開國五百四年十一月十五日][1985-12-30]]、
[[朝鮮国][李氏朝鮮]]は[TIME[開國五百五年][1986-01-01]]より[[太陽暦]]を採用し、
[[建陽]]と[[建元]]し、
[[一世一元]]とすることと定めました。 [SRC[>>154]]
[157]
翌日の[[官報]]は発行されなかったようで、
次は[TIME[建陽元年一月四日][1896-01-04]]でした。
[328]
[TIME[開国504年11月16日][1895-12-31]]の翌日が[TIME[建陽元年1月1日][1896-01-01]]となりました。
[158]
この頃既に[[官報]]掲載の[[郵便]]の[[時刻]]は[[「午前[VAR[○]]時」、「午後[VAR[○]]時」と記述][12時間制]]されていました。
[178]
[[李朝]]は
[TIME[1896年][year:1896]]分の[[曆]]として
[CITE[大朝鮮開國五百五年歳次丙申時憲曆]]
を発行しました。[[清国]]の[[曆]]の[CITE[時憲曆]]の名を引き継いでいました。
[76]
後に[[標準時]]が [TZ[+09:00]] となるまで、
[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]の[[日付]]は[[清国]]の[[農暦]]と同じままでしたし、
[[太陽暦]]を採用したにも関わらず[[曆]]は[[旧暦][大韓帝国の旧暦]]しか扱っていませんでした。
;;
[406] [TIME[1896年2月][1896-02]]、
[[ロシア帝国]]は[[漢城]]に進攻、
[[国王]][[高宗]]は[[ロシア公使館]]に移りました
([[露館播遷]])。
[179]
[[李朝]]は
[TIME[1896年][year:1896]]分の[[曆]]として
[CITE[大朝鮮建陽二年歳次丁酉時憲曆]]
を発行しました。
;; [409] [TIME[1897年2月20日][1897-02-20]]、
[[国王]][[高宗]]は[[王宮]]に戻りました。
[145]
[TIME[1897年8月14日][1897-08-14]]、
[[大韓帝国]]は新しい[[元号]]として[[光武]]を[[建元]]しました
[SRC[>>139, >>141, >>143]]。
[146]
その前後、[TIME[建陽二年八月十四日][1897-08-14]]までの[[官報]]定期分は、
旧[[元号]]の[[建陽]]を使っていました。
しかし[TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]]と[TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]]の号外は、
[[開国年号]]を使っていました。
[TIME[光武元年八月十六日][1897-08-16]]から[[光武]]となっていました。
その後の発行分の記事内でも、
[TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]]と[TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]]は[[開国年号]]でした。
- [TIME[建陽二年八月十二日][1897-08-12]] [SRC[>>142]]
- [TIME[建陽二年八月十三日][1897-08-13]] [SRC[>>138]]
- [TIME[建陽二年八月十四日][1897-08-14]] [SRC[>>139, >>140]]
- [TIME[開國五百六年八月十四日][1897-08-14]] [SRC[>>139, >>141, >>142]]
- [TIME[開國五百六年八月十五日][1897-08-15]] [SRC[>>141, >>143]]
- [TIME[光武元年八月十六日][1897-08-16]] [SRC[>>142]]
[126]
[[大韓帝国]]から[[日本政府]]への通知では、
[TIME[1897年8月14日][1897-08-14]]より[[光武]]に[[改元]]し[[太陽暦]]を用いる
[SRC[>>125]]、とされていました。
[147]
[[中文]]版 [[Wikipedia]] は
[TIME[1897年8月16日][1897-08-16]]から[[光武]]としています。 [SRC[>>132]]
[HISTORY[
[151] [[韓国語]]版 [[Wikipedia]] は
[TIME[1897年8月17日][1897-08-17]]から[[光武]]としています。 [SRC[>>150]]
]HISTORY]
[153] [[大韓帝国]]の[[官報]]は、
この頃でも[[十二支時刻法]]を使った記事を掲載していました。
内容が[[旧暦][朝鮮半島の旧暦]]で記述された記事も少なくありませんでした。
一方で[[郵便]]の[[時刻]]は[[「午前[VAR[○]]時」、「午後[VAR[○]]時」と記述][12時間制]]されていました。
;; [408] [TIME[1897年10月12日][1897-10-12]]、
[[朝鮮国][李氏朝鮮]]は[[大韓帝国]]に改称しました。
;; [380] [TIME[1897年][year:1897]]、
[[鎮南浦]]と[[木浦]]に[[各国租界]]が設置されました。
[180]
[[大韓帝国]]は
[TIME[1896年][year:1896]]分の[[曆]]として
[CITE[大韓光武二年歳次戊戌明時曆]]
を発行しました。
この年から[[明時曆]]に改称されました。
[374] [TIME[1899年][year:1899]]にまとめられた [[Milne]] の[[時差の表]]では、
[[Korea]] は [TZ[+09:00:00]] とされていました。出典は[[英国政府]]や
[[International Telegraph Bureau]] とされていました。 [SRC[>>375]]
;; [190] ただし当時[[西部標準時]] [TZ[+08:00]] だった
[[Formosa]] を [[International Telegraph Bureau]]
出典で [TZ[+09:00]] としており ([SEE[ [[台湾の標準時]] ]])、
この情報をどこまで信用して良いものか不明です。
;; [381] [TIME[1899年][year:1899]]、
[[群山]]と[[城津]]と[[馬山]]に[[各国租界]]が設置されました。
;; [102]
[TIME[明治32年5月][1899-05]]、
[[京仁鉄道]]建設を[[日本]]企業が引き継ぎました。
;; [630] [TIME[1899年9月18日][1899-09-18]]、
[[京仁鉄道]]の[[仁川]] - [[鷺梁津]]
[WEAK[([[京城]]郊外)]]
間が開業しました。
;; [205] [TIME[1900年11月12日][1900-11-12]]、
[[京仁鉄道]]の[[鷺梁津]] - [[京城]]間が開業しました。
;; [382] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[馬山]]に[[露国租界]]が設置されました。
;; [390] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[日本]]の[[京城郵便局]]が設置されました。
;;
[197] [TIME[1900年][year:1900]]、
[[大韓帝国]]は[[通信院]]を設置しました。
;; [384] [TIME[1902年][year:1902]]、
[[馬山]]に[[日本租界]]が設置されました。
;; [631] [TIME[1902年10月][1902-10]]、
[[京城]]・[[釜山]]間の[[京釜鉄道]]が一部
([[京城]]からやや南までのみ) 開通しました。
;; [632]
[TIME[1903年][year:1903]]、
[[京釜鉄道]]が[[京仁鉄道]]を買収しました。
[11]
[TIME[明治三十七年十一月十八日][1904-11-18]]の[[京釜鐵道]]の[[仁川]]の事業所からの報告によると、
当時[[鉄道時]]として、
[[內地中央標準時]]より 32分遅い
「仁川ニ於ケル韓國標準時」
を使っていました。 [SRC[>>134]]
つまり「仁川ニ於ケル韓國標準時」とは [TZ[+08:28]]
でした。
[SEE[ [[アジア大陸の鉄道標準時]] ]]
[644]
「仁川における」の意味は不明ですが、
[[仁川]]の[[地方時]]は
[TZ[+08:26:28]]
で、[[京城]]の[[地方時]]
[TZ[+08:28]] と約2分の[[時差]]がありました。
[[京仁鉄道]]は[[京城]]の[[地方時]]を[[仁川]]でも用いていたことがわかります。
[[仁川]]市内でもこの[[時刻]]が使われていたのでしょうか。
[[京釜鉄道]]一部開業、買収以前の状況は不明ですが、
[[京仁鉄道]]開通当初から[[首都]]の[[時刻]]が採用されていたと考えるのが自然です。
[634] [TIME[1904年][year:1904]]頃の[[米国海軍天文台]]の[[時差の表]]は、
次のように説明していました。
- [635] [[東京時]] [TZ[+09:00]] [SRC[>>724, >>725]],
[[日本中央標準時]] [SRC[>>726]]
が毎日[RUBYB[[[ソウル]]][Seoul]]の
[[Imperial Japanese Post and Telegraph Office]]
へ電信で送信されている。
- [636] これを30分引いて [TZ[+08:30:30]] に修正されている [SRC[>>724, >>725, >>726]]。
-- [637] 30分引いたのが[[経度]]差に近い。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
-- [638] 修正したものが鉄道、路面電車、郵便電信局、
[RUBYB[上流階級][better classes]]のほとんどで使われている。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
- [639] [RUBYB[地方][country districts]]では[RUBYB[まだ][to some extent]][RUBYB[[[日時計]]][sundial]]が使われている。
[SRC[>>724, >>725, >>726]]
[642]
これによれば[[鉄道時]]は [TZ[+08:28]] ではなくそれに近い [TZ[+08:30]]
だったことになります。
2分程度は誤差かもしれませんが (>>119)、
当時はどちらのつもりで運用していたのでしょうか。
[640]
[TIME[1905年][year:1905]]の[[日本政府]]の文書によると、
[[大韓帝国]]には[[漏刻官]]養成所が設置されていました。
「韓國ニ於ケル唯一ノ標準時タル京城ノ時刻」
を測定する[[漏刻官]]を「養成スルノ装置」を有していました。
[SRC[>>33]]
[641]
つまりこの当時[[京城]]には[[漏刻]] ([[水時計]])
があって[[漏刻官]]が運用していたことになります。
「唯一の標準時」とはいいますが、
[[太鼓]]か何かで[[報時]]していたのであれば、
城内または市内で ([[西洋式時刻]]を使っていない朝鮮人の間で)
通用していたということでしょうか。
[34]
[[Wikipedia]] はこれを根拠に
「[[首都]]・[[漢城]](現在の[[ソウル]])での[[平均太陽時]]が[[標準時]]とされており」[SRC[>>32]]
と説明しています。
[75] この文献や[TIME[1904年][year:1904]]時点で[[京釜鉄道]]が
「仁川ニ於ケル韓國標準時」を [TZ[+08:28]] と説明した文書 (>>11)
も残っている通り、当時 [TZ[+08:28]] を[[韓国標準時]]と認識する人がいたことは確実です。
[HISTORY[
[89] その他に現代の文献で「[[日韓併合]]前」に [TZ[+08:28]]
が[[大韓帝国]]の[[標準時]]として[[朝鮮半島]]全域で使われており、
[[日本人]]は[[京城標準時]]と呼んでいた [SRC[>>88]] とするものや、
[[清国]]から[[大韓帝国]]が独立した際に[LON[東経126.97度][126.97]]で[[中央標準時]]より
32.12分遅い[[時刻]]が[[韓国標準時]]となった [SRC[>>36, >>221]]
([LON[126.97]] は [TZ[+08:27:52.8]]。32.12分は32分7秒。)
とするものもありますが、出典は不明です。
[365] [[朝鮮民主主義人民共和国]]の歴史研究者[[黄明哲]]は、
[TIME[1884年][year:1884]][[国際子午線会議]]の決定
「に基づき、朝鮮封建王朝では、1日12時間体系を24時間体系に変更するとともに、
東経127度30分を本初子午線とする標準時を使用するようにした。」
[SRC[>>360]] と述べています。
文脈より[TIME[1884年][year:1884]]と[TIME[1906年6月][1906-06]]の間にそのような決定がなされたことになります。しかし、
- この主張の根拠は一切示されていません。
- [[大韓帝国]]はこの会議の参加国ではなく、
参加国ですら会議後直ちに[[標準時]]を制定した[[国]]ばかりではないのに、
その決定に「基づ」くというのは不審です。
- [[国際子午線会議]]で世界を24の[[時間帯]]に分割することが決定された、
というのは有名なデマです。
- 仮にそのデマに従うなら、 [TZ[+08:30]] は24の[[時間帯]]には含まれないはずなので、
[[大韓帝国]]は会議の決定に違反していることになってしまいます。
- [[黄明哲]]の問題なのか翻訳の問題なのかわかりませんが、
この[[論文]]は[[本初子午線]]という用語を独自の用法?で使っていて、意味が通りません。
... ということで、信用しがたいです。
;; [518] [TIME[2018年][year:2018]]の[[朝鮮民主主義人民共和国]]の[[政令]]には
「기준자오선」 [SRC[>>517]] (基準子午線) という表現が見られます。
これを[[英語]]で「prime meridian」 ([[本初子午線]]) と訳した例 [SRC[>>506]]
もありますが、単純に基準となる[[子午線]]という意味と解するべきでしょう。
[TIME[2015年][year:2015]]の[[政令]]には ([[子午線]]を) 「기준으로」 [SRC[>>187]]
(基準として) という表現がありました。
[[朝鮮民主主義人民共和国]]で「기준자오선」がどの程度幅広い意味で用いられているかは不明ですが、
ここでは基準となる[[子午線]]という意味で用いられていたのを[[日本語]]で[[本初子午線]]と訳してしまったのが文意が不明となった原因でしょうか。
]HISTORY]
[324] 公式に[[標準時]]を制定したとする資料は見当たらず、
後の[[大韓國標準時]]の制定でも「従来慣用の時刻」に言及はあっても旧[[標準時]]には言及がありません。
[[大韓民国]]の政府当局の [[Webページ]] [SRC[>>61]]
も、[[大韓國標準時]]以前には何も示していません。
伝統的な[[測時]]・[[報時]]機構による[[時刻]]が[[ソウル]]近辺で用いられており、
現地では実質的に[[標準時]]であると捉えられてもいたものの、
[[法令]]や全国的な[[報時]]システムに支えられた[[近代的標準時制度]]には到達していなかった、
と解釈するのが妥当でしょうか。
[85]
[TIME[1905年][year:1905]]の[[日本政府]]の書籍によると、
天文家と巫祝の育成のため天文学校が設置されていました。
次の三科がありました。 [SRC[>>81]]
- 天文科
-- 毎年10人入学
-- 入試: 天体測量詩の記憶が必要
- 気象科
-- 毎年4人入学
-- 入試: 墓地等の選定の吉方を指定する知識が必要
- 占術科
-- 吉日を選定する
-- 毎年4人入学
[86] [[京城]]には[[天文台]]がありました (>>87)。
[REFS[
- [161] [CITE@ja[日朝修好条規 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-26 11:31:08 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%9D%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E8%A6%8F>
- [163] [CITE@auto[조미수호통상조약 - 위키문헌, 우리 모두의 도서관]] ([TIME[2019-01-25 06:35:41 +09:00]]) <https://ko.wikisource.org/wiki/%EC%A1%B0%EB%AF%B8%EC%88%98%ED%98%B8%ED%86%B5%EC%83%81%EC%A1%B0%EC%95%BD>
- [164] [CITE[The 1882 US and Korea Treaty: Draft and Final Versions]] ([TIME[2019-02-10 14:37:41 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20160311075538/http://www.instrok.org/instrok/resources/Draft%20and%20Final%20Versions.pdf>
- [160] [CITE[漢城旬報]]
- [168] [CITE[舊韓國 官報]] <http://www.nl.go.kr/nl/search/bookdetail/online.jsp?contents_id=CNTS-00049827465> <http://viewer2.nl.go.kr:8080/main.wviewer?cno=CNTS-00049827465>
- [176] [CITE@ja[暫定合同條款 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-27 16:37:33 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%9A%AB%E5%AE%9A%E5%90%88%E5%90%8C%E6%A2%9D%E6%AC%BE>
- [375] [TIME[1899年][year:1899]] [CITE[The Geographical Journal, for February 1899.]]
[[時差の表]]
- [395] [CITE[1.公使館ノ部 自明治十九年二月 至同二十五年三月/分割1]] ([[アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records]]著, [TIME[2018-01-25 19:24:01 +09:00]]) <https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B12082121400>
-- [396] ([TIME[2015-10-11 12:32:05 +09:00]]) <https://www.jacar.archives.go.jp/aj/contents/pdf/B12/B12082121400.b3_0109.3-2512.00000215.pdf>
- [156] [CITE@ja[年號ヲ建陽ト建ツル件 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-25 20:50:17 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E3%83%B2%E5%BB%BA%E9%99%BD%E3%83%88%E5%BB%BA%E3%83%84%E3%83%AB%E4%BB%B6>
- [104] [CITE@ja[改曆及建元ニ關スル件 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-26 15:33:45 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E6%94%B9%E6%9B%86%E5%8F%8A%E5%BB%BA%E5%85%83%E3%83%8B%E9%97%9C%E3%82%B9%E3%83%AB%E4%BB%B6>
- [144] [CITE@ja[年號ヲ光武ト改ムルノ件 - Wikisource]] ([TIME[2019-01-26 20:22:34 +09:00]]) <https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B9%B4%E8%99%9F%E3%83%B2%E5%85%89%E6%AD%A6%E3%83%88%E6%94%B9%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%8E%E4%BB%B6>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[125] [CITE@ja[官報. 1897年08月30日 - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([[大蔵省印刷局 '''['''編''']''']]著, [TIME['''['''1964''']'''-][year:1964]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2947536/4>
]FIGCAPTION]
>
[BOX(vertical)[
○朝鮮國改元 朝鮮國ニ於テハ本月十四日ヨリ建陽ノ年號ヲ改メテ光武ト稱
シ仍ホ陽曆ヲ用フヘキ旨本邦駐箚同國臨時代理公使ヨリ本月十八日附ヲ以テ
外務省ヘ通知アリ
]BOX]
]FIG]
- [393] [CITE@ja[京城公使館における気象観測記録とその気象学史的位置づけ]] ([TIME[2018-01-25 19:23:12 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2013s/0/2013s_280/_article/-char/ja/>
-- [394] ([TIME[2018-01-25 19:23:48 +09:00]]) <https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2013s/0/2013s_280/_pdf/-char/ja>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[173] [CITE@ja[開国 (李氏朝鮮) - Wikipedia]] ([TIME[2019-02-02 23:35:27 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%9B%BD_(%E6%9D%8E%E6%B0%8F%E6%9C%9D%E9%AE%AE)>
]FIGCAPTION]
>公式には甲午改革で成立した金弘集政権が1894年7月27日から採用
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[174] [CITE@zh[開國 (朝鮮高宗) - 维基百科,自由的百科全书]] ([TIME[2019-01-27 14:45:59 +09:00]]) <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E5%9C%8B_(%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E9%AB%98%E5%AE%97)>
]FIGCAPTION]
> 金弘集进行甲午改革,1894年7月27日採用。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[148] [CITE@ja[光武 (元号) - Wikipedia]] ([TIME[2019-02-02 23:35:26 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6_(%E5%85%83%E5%8F%B7)>
]FIGCAPTION]
>光武(こうぶ、광무、クァンム)は李氏朝鮮・大韓帝国で用いられた元号。建陽2年(1897年)8月14日に改元して光武を用い[1]、同年10月に国号を大韓帝国と改めた。光武元号は1907年8月2日に隆熙に改元されるまで使用された。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[132] [CITE@zh[光武 (年號) - 维基百科,自由的百科全书]] ([TIME[2019-01-26 18:41:41 +09:00]]) <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%AD%A6_(%E5%B9%B4%E8%99%9F)>
]FIGCAPTION]
> 光武(1897年8月16日—1907年8月2日)是朝鲜王朝大君主、大韩帝国皇帝高宗之年號,1897年8月16日改元光武,10月12日高宗称帝,改国号大韩帝国,1907年8月2日改元隆熙。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[150] [CITE@ko[광무 (연호) - 위키백과, 우리 모두의 백과사전]] ([TIME[2019-01-25 18:00:40 +09:00]]) <https://ko.wikipedia.org/wiki/%EA%B4%91%EB%AC%B4_(%EC%97%B0%ED%98%B8)>
]FIGCAPTION]
> 광무(光武)는 1897년 8월 17일부터 1907년 8월 11일까지 대한제국 고종 때에 사용한, 대한제국의 첫 번째 연호이다.
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[175] [CITE[1894迄(1413件)]]
<http://luckyday.html.xdomain.jp/PDF/18931894.pdf>
]FIGCAPTION]
>1894年7月31日-09:00|韓国/朝鮮| ||朝鮮・開国503年6月29日|清国年号使用禁止と
李朝開国紀元の使用を定め
る(1894年=高宗31年は、開国503年と表記)
]FIG]
]REFS]
* 鉄道時
;; [311] [TIME[1904年][year:1904]]、
[[ロシア帝国]]と[[大日本帝国]]は[[日露戦争]]となり、
[[朝鮮半島]]、[[南満州]]、[[日本海]]が戦場となりました。
[SEE[ [[日本軍の軍用時]] ]]
;; [383]
[TIME[1904年2月6日][1904-02-06]]、
[[日本軍]]は[[馬山電信局]]を制圧しました。
[TIME[1904年][year:1904]]、
[[日本軍]]は[[馬山露国租界]]に進攻しました。
;; [620]
[TIME[1904年2月8日][1904-02-08]]、
[[日本軍]]は[[ソウル]]を制圧しました。
;; [624]
[[ロシア軍]]は[[平安道]]と[[咸鏡道]](南北)に進攻しました。
[629]
[[ロシア軍]]の[[軍用時]]は不明です。
[[内滿洲]]の[[ハルビン時]]あるいは[[外滿洲]]の[[浦塩時]]でしょうか。
あるいは各地の[[地方時]]でしょうか。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]
;; [622]
[TIME[1904年4月][1904-04]]、
[[ロシア軍]]は[[咸鏡道]]の大部分を制圧しました。
;; [621]
[TIME[1904年5月][1904-05]]はじめ頃、
[[日本軍]]は[[朝鮮半島]]および海上から[[南満州]]に進攻しました。
[TIME[1904年5月][1904-05]]頃、
[[日本軍]]は[[南満州]]の制圧地域で[[軍政]]を[[施行]]しました。
[1207]
[TIME[明治37年5月5日][1904-05-05]]、
[[日本軍]]は、
陸海軍各部隊に[[日時計]]と説明書を配布し、
[LAT[東経123度子午線][123E]]の時刻 = [TZ[+08:12]] を
[TIME[5月25日][1904-05-25]]以降の「満韓地方の基準時」
とすることを通達しました。
これは[[遼東半島]]付近 ([[遼河]]) の時刻に当たります。
時刻を一定のものとするため、と説明されています。
それまでは部隊ごとに、あるいは現在地ごとに異なる時刻を使っていたのでしょうか。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]
[129] [TIME[1906年][year:1906]]の[[日本]]の学術雑誌記事は、
[[日露戦争]]開戦当時、[[韓国]]と[[遼東]]で[[平壌]]の[[地方時]]を用いる構想が[[陸軍]]内にあったらしい、
としていました
[SRC[>>93]]。
[TZ[+08:23]] ということになります。
[TZ[+08:12]] との関係は不明です。
[SEE[ [[満州の標準時]] ]]
;; [623]
[TIME[1904年10月10日][1904-10-10]]、
[[日本軍]]は[[咸鏡道]]南部の制圧地域に[[軍政]]を[[施行]]しました。
[633]
[TIME[1904年11月20日][1904-11-20]]、
[[京釜鉄道]]は[[鉄道時]]を[[中央標準時]] [TZ[+09:00]]
に変更しました [SRC[>>134, >>112, >>232, >>1254]]。
[SEE[ [[アジア大陸の鉄道標準時]] ]]
[440] [[大韓帝国]]で発刊されていた[CITE[帝國新聞]]は、
毎日の[[鉄道]]の発着時刻を掲載していました。
[TIME[11月18日][1904-11-18]]から
[TIME[21日][1904-11-21]]の紙面には、
[[韓国時刻]]から[[中央標準時]]に改められる旨の注釈がありました
[SRC[>>437, >>438, >>439]]。
;; [617] 掲載されている[[時刻]]は、前後数日変わっていません。
[[標準時]]改正後の[[ダイヤ]]も、[[時刻]]の数値はそのままでスライドしたのでしょうか。
その後[TIME[12月3日][1904-12-03]]と[TIME[5日][1904-12-05]]で1時間前後の[[ダイヤ]]改正があったようです。
[1098] [TIME[明治37年12月7日][1904-12-07]]の[[朝鮮半島]]南部の都市[[釜山]]からの報告によると、
[[釜山]]の各国[[領事館]]その他官衙では今後 [TZ[+09:00]] が用いられることになった [SRC[>>97]]
といいます。7日付報告ではありますが、いつ施行だったのかは不明瞭です。
しかしそれほど日が経ってはいなかったと思われます。
;; [426]
[TIME[1905年1月1日][1905-01-01]]、
[[京釜鉄道]]の[[京城]]・[[草梁]] [WEAK[([[釜山]])]]
間が開通しました。
[HISTORY[
[98] [[京釜鉄道]]開通当初から[[中央標準時]] [SRC[>>1097]]、
[TIME[明治37年12月][1904-12]]の[[京釜鉄道]]一部開通以来[[中央標準時]] [SRC[>>95]]、
[[朝鮮鉄道]]は[TIME[明治37年][year:1904]]以来[[中央標準時]]を使っていた
[SRC[[CITE[朝鮮鉄道史]] >>1135]]
といった異なる説明もあります。
一部開業と全線開通や開業済みの[[京仁鉄道]]買収など、
鉄道開業当初の複雑な経緯のために混乱した情報と思われます。
]HISTORY]
[204]
[TIME[1906年][year:1906]]の[[日本]]の[[学術雑誌]]の記事は、
[[韓國]]では既に[[京釜鉄道]]開通の頃から汽車発着その他普通の生活で[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] を採用してきたとしていました。 [SRC[>>1097]]
[627] [TIME[1905年1月8日][1905-01-08]]、
[[日本軍]]は各部隊に対し、
以後[[中央標準時]]を用いるよう指示しました。
[[朝鮮半島]]北部と[[満洲]]の軍用鐡道もこの時刻によっていたかもしれません。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]
[608] [TIME[1904年][year:1904]]頃の[[米国海軍天文台]]の[[時差の表]]は、
次のように説明していました。
- [609] [[標準時]] [TZ[+09:00]] [SRC[>>725]]
- [610] [[標準時]] [TZ[+08:30]] [SRC[>>726]]
- [611] [[東京時]] [TZ[+09:00]] [SRC[>>724, >>725]],
[[日本中央標準時]] [SRC[>>726]]
が毎日[RUBYB[[[ソウル]]][Seoul]]の
[[Imperial Japanese Post and Telegraph Office]]
へ電信で送信されている。
- [612] [TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]より前には [SRC[>>725, >>726]]、
これを30分引いて [TZ[+08:30:30]] に修正されている [SRC[>>724, >>725, >>726]]。
-- [613] 30分引いたのが[[経度]]差に近い。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
-- [614] 修正したものが鉄道、路面電車、郵便電信局、
[RUBYB[上流階級][better classes]]のほとんどで使われている。 [SRC[>>724, >>725, >>726]]
- [615] [TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]より、
[[Korea]] の Japanese post-offices and railways は[[東京時]] [SRC[>>725]],
[[日本中央標準時]] [SRC[>>726]] [TZ[+09:00:00]] を使い始めた。
- [616] [RUBYB[地方][country districts]]では[RUBYB[まだ][to some extent]][RUBYB[[[日時計]]][sundial]]が使われている。
[SRC[>>724, >>725, >>726]]
[268] [[Time Changes]] の [[CHINA, PEOPLE'S REPUBLIC OF]] は、
[TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]から
[[Chosen]] (今の [[Korea]]) と [[Manchuria]]
が[[標準時]] [TZ[+09:00]] としていました [SRC[>>1256]]。
[SEE[ [[滿洲の標準時]] ]]
[257] [[Time Changes]] の [[KOREA]] は、
[TIME[1904年12月1日][1904-12-01]]から[[標準時]] [TZ[+09:00]]、
それ以前は[[標準時]] [TZ[+08:30]] としていました [SRC[>>1256]]。
この[TIME[12月1日][1904-12-01]]という[[日付]]の根拠は不明ですが、
関係があるのかどうか、[[千島列島]]でも現れます ([SEE[ [[北日本の日時]] ]])。
[227] [[Shanks]] (2003) の KOREA, NORTH と KOREA, SOUTH は、
[TIME[1904年12月1日0時0分][1904-12-01T00:00]]から [TZ[+09:00]]
としていました。 [SRC[>>226]]
[223] [[Wikipedia]] 記事は、
[TIME[1904年][year:1904]]に[[支那]]海岸部、
[[朝鮮]]、[[満州]]で[[グリニッジ子午線]]基準の[[標準時]]が採用された [SRC[>>420]]
としていますが、出典要検証とされています。
[260] [[Time Changes]] は、
[TIME[1904年][year:1904]]から[TIME[1932年][year:1932]]の変遷を示した後、
[RUBYB[地方の民衆は[[日時計]]を使っていた]@en[People in country districts used sun dials.]]との注釈を加えていました [SRC[>>1256]]。