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566
[2]
[[日本国]][[滋賀県]][[蒲生郡]][[日野町]][DFN[大字[RUBY[小][こ]][RUBY[野][の]]]]は、
[[鈴鹿山脈]]の[[琵琶湖]]側に位置する山村です。
[3] [[江戸時代]]には[[藩政村]]でした。
[4] [[明治時代]]に[[東桜谷村]]に属する[[大字]]となりました。
* 成立
[373]
[[小野]]の集落の形成の時期は不明ですが、[[平安時代]]中期を遡らないと考えられています。
- [191]
[CITE[[V[近江蒲生郡志]]]] [V[巻六]][[天神社]]条 [SRC[>>670]] 所引[TIME[明和5(1768)年2月25日][kyuureki:1768-02-25]][[棟札]]銘文
「[V[当社天満宮人王六十六代一乗院御宇寛弘年中草創]]」
[SRC[>>90]]
[192] [[天神社]]は集落東方にある[[氏神]]です。
[[棟札]]銘文には[[潤色]]も考えられますが、
小野の集落の形成の上限が[RUBYB[[[寛弘]]年間][[TIME[1004]]-[TIME[1011]]]]と推測できます
[SRC[>>90]]。
[REFS[
- [52] [CITE@ja[[[近江蒲生郡志]]. 巻6 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[滋賀県蒲生郡]], [TIME[大正11][year:1922]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/965735/394>
-- [670] [CITE[[[近江蒲生郡志]] - digidepo_965735.pdf]], [TIME[2021-04-05T08:49:36.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_965735.pdf?pdfOutputRanges=392-394&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
]REFS]
* 分村
[1093]
[[小野]]は当初[[西明寺村]]に属していました。
[[西明寺村]]はその名の通り[[西明寺]]の所在する村でした。
[1094]
[[小野]]は[[西明寺]]の参道の村で、
しかも石材を算出する石造美術の村でもあったと推測されます。
[SRC[>>76 p.46]]
[1095]
そのため別院や末寺のようなものがあったかもしれません。
[[地名]]に堂前、堂後 [SEE[ [[鬼室神社]] ]]、救世菩薩、大門田、聖田といったものが残ります。
[SRC[>>76 p.46]]
;; [1101]
なお[CITE[東桜谷志]]が中世に栄えたという[[西明寺]]の説明に使っているのが[[椿井文書]]の
[CITE[[[大安寺資財録抜書]]]]
と関係する
[CITE[[[大安寺三綱紀]]]]
なので、その規模と実態は再検討が必要でしょう。
[648]
[TIME[天正4(1576)年][1576]]に[[西明寺村]]から分かれました [SRC[>>76 p.217 ([CITE[蒲生旧蹟考]]), >>41]]。
[25]
[[鬼室神社]]の[[棟札]]より、事実上はそれ以前から独立していたとも言われます。
[SEE[ [[鬼室神社]] ]]
[REFS[
- [47] [CITE[[[比古婆衣]]]]
-- [41] [CITE@ja[[[伴信友全集]]. 第4 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2020-06-17 20:22:33 +09:00]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/177>
--- [616]
<https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_991315.pdf?pdfOutputRanges=177-180&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
]REFS]
* 人魚伝説
[5]
[CITE[日本書紀]]と[[聖徳太子]]絡みの[[人魚伝説]]があります。
[[人魚塚]]があります。
[SEE[ [[人魚伝説]], [[鬼室集斯墓碑]] ]]
* 鬼室集斯
[1]
[[鬼室集斯]]を祀った[[鬼室神社]]があります。
[SEE[ [[鬼室神社]], [[鬼室集斯墓碑]] ]]
* 室徒株と祭祀
[26]
[[小野村]]の[[氏神]]で中心集落の東方にある[[天神社]]と、
中心集落から見て西方にある[[鬼室神社]]は、
古来[DFN[[RUBY[室][むろ]][RUBY[徒][と]]]]と呼ばれる有力者グループが運営してきました。
-
[21]
[[鬼室神社]]の[TIME[正長2(1429)年][1429]]の[[棟札]]に、
13人の村民の名前がありました。
[[室徒]]に相当する村の有力者達と考えられています。
[SEE[ [[鬼室神社]] ]]
-
[15]
[[天神社]]と[[西宮神社]]の石灯篭銘文より [SRC[>>90]]、
[TIME[元禄4(1691)年][1691]]には既に[[室徒]]が成立していたことがわかります。
[SEE[ [[鬼室神社]] ]]
-
[212]
[CITE[[V[近江蒲生郡志]]]] [V[巻六]][[天神社]]条所引[TIME[明和5(1768)年2月25日][kyuureki:1768-02-25]][[棟札]]銘文に、
「[V[神主は往古より村[RUBY[生抜][ハヘヌキ]]百姓弐十軒室徒と名付、四人つつ組合、一組八年つつ壱年替りに神職相勤め来る者也。]]」
[WEAK[([CITE[東桜谷志]] [SRC[>>76 p.566]] に全文あり)]]
とありました。
[SRC[>>90]]
-
[28]
[CITE[過去帳]] (>>210)
[SRC[>>90]]
-
[656]
[[江戸時代]]時点で[[西宮]] ([[鬼室神社]]) は[[室徒株]]の農民17家が毎年交替で神主となり、
神事を行っていました。古くから続くとされていました。 [SRC[>>41]]
-
[7]
[[明治時代]]中期頃までは、
[[室徒]]家系17家が[[鬼室神社]]の社守を務め、
神事一切を行っていました。
[SRC[>>76 p.675]]
-
[688]
[[大正時代]]時点で室徒十数家があったとされました。
[SRC[>>113]]
(出典は不明。)
-
[726]
[[昭和時代]]初期、
区長によれば21,2戸ありました。
当時の区長と宮守は浦田、
氏子総代は堀井など、
苗字は様々でした。
[SRC[>>2104]]
[27]
[[近江]]を中心とする[[村]]の宮座の座株保有者 (ないしはその家筋)
を意味するとされます。
[SRC[>>90]]
[213]
[[小野]]の宮座 ([[天神社]]、[[西宮神社]]) は、
辻氏を中心とする20軒の「室徒」で運営されていたとみられます。
[SRC[>>90]]
[758]
神社を建て祭礼を怠らず、
墳墓講や室徒株という制度も明治ごろまで続き、
鬼室神社は小野の生活に大きな比重を占めた
[SRC[>>57]]
とする[[昭和時代]]後期の説がありました。
ただし室徒株に限らず小野全体で「大きな比重」を占めたかどうか、
根拠が不明です。
[29]
[[昭和時代]]初期、
室徒は[[鬼室集斯]]の子孫とされておりました。
[SRC[>>2104]]
[727]
当時の区長は「むろと」と言っていました。
[SRC[>>2104]]
[728]
[[井上通泰]]は、
「鬼室の徒」を鬼を忌んで略したので「しつと」と呼ぶと思ったのに意外だと感じたようです。
村人は鬼の子孫と呼ばれるのを嫌がり、
墓碑を見せることも嫌がっていたといわれます。
ただし[[井上通泰]]はその真否は不明と書いており、
こうした情報は村外の人から聞いたものかもしれません。
あるいは昔のことを推測した伝承なのかもしれません。
[SRC[>>2104]]
[458]
[[伴信友]] [SRC[>>41]] と
[[明治時代]]の
[CITE[鬼室集斯墳墓考]] [SRC[>>449]]
は、
「室徒株」
を、
「鬼室の徒」
と解釈しました。
[1025]
「鬼室の徒輩」の意とする説がありました [SRC[>>1017]]。
[665]
[[伴信友]]は室徒株17家を[[鬼室集斯]]の一族としました。 [SRC[XXX]]
[664]
[CITE[鬼室集斯墳墓考]]は[[小野]]の人々はすべて[[鬼室集斯]]一族の子孫としました。
現在ではこれは誤りと考えられています。
[SRC[>>449]]
[1135]
[TIME[昭和30(1950)年][1950]]頃の由緒は、
[[鬼室集斯]]が[[小野]]を永住の地と定め、
今もなお4人1組になる室徒株があって日夕の祭祀に奉仕しているとしていました。
[SRC[>>1133]]
[8]
具体的には、村人の35,6歳の男子から4人が選ばれて組を作り、
年長者から1年交替で社守を務めました。
社守の組に選ばれた人を「おとな」と称し、
4年毎に組み替えが行われました。
[SRC[>>76 p.675]]
-
[9]
初めて社守に選ばれる「入組」の際には、
12月20日の夜に村内各戸代表を招いて組仲間の年長の家で盛大な披露の祝宴を催しました。
[SRC[>>76 p.675]]
-
[10]
社守の1年間は、
一切の肉類を絶ちました。
参殿の際には冷水をかぶって身を清めました。
正月の松の内は毎朝水垢離をとり、身を清めて参殿しました。
節分までは自宅で寒行を続けました。
[SRC[>>76 p.675]]
-
[11]
元日と祭礼の日には、
早朝に御飯・つぼ・ひら、ちょく・汁・漬物等を黒塗の大器に入れ、
神前に備えました。
[SRC[>>76 p.675]]
- [12]
秋の収穫後には、
村の各戸から白米、大根、山芋、里芋、薩摩芋、人参、牛蒡、干瓢等を社守の家に持参し、
氏神に備えるよう依頼しました。
社守は女手を借りずに料理しました。
翌朝早く、7つ余のお椀に盛って氏神に供えました。
そのお下がりを「おみおく」といい、供えた各戸に配布しました。
各戸は夜が明けきらないうちに食するために早起きして待機しました。
[SRC[>>76 p.675]]
[729]
[[鬼室神社]]は、
元々「室徒」で祭礼を行っていましたが、
[[昭和時代]]初期の時点で、
集落全体の行事となっていました。
[SRC[>>2104]]
[439]
[[鬼室集斯]]の祭礼は、
[[平成時代]]の頃の時点で、次のような[[神道]]の儀式でした。
まず宮司が祝詞を奏上します。
次に巫女が神楽や湯立などを行います。
最後に参列者が玉串を捧げます。
神前の供物は、
氏子が年番で勤める神主が、
斎戒沐浴して女手を借りずに当日早朝に調理します。
飯、つぼ、ひら、ちょく、汁、漬物などの熟饌を黒塗りの器に入れる他、
酒、米、魚、大根、林檎などの生饌もあります。
[SRC[>>437]]
[1026]
[TIME[平成17(2005)年][2005]]時点で、
[[鬼室神社]]の秋の例祭には近隣の神社の神主を呼んでいました。
[SRC[>>1017]]
;; [19] 祭礼日については[[鬼室神社]]参照。
[190]
[CITE[東桜谷志]]は、
[[小野]]に
「[V[[RUBY[室][むろ]][RUBY[徒][と]][RUBY[株][かぶ]]]]」
という宮座の組織が伝わるとしました。
[SRC[>>1080 p.45]]
[937] これを[[鬼室]]の「室」であり、
帰化人集団の呼び名だとするのは誤りとされます。
[SRC[>>1080 p.45]]
[1089] 「むろと」は「もろと」が訛ったものと思われ、
[[鈴鹿山脈]]の多くの山々の村に古代宮座の制度があって
「もろと」
と呼んでいるのが転じて、灯篭などに刻むため漢字を当てたものだとしました。
[SRC[>>1080 p.45]]
;; [1090] ただし[[小野]]以外の[[東桜谷]]地域の村には ([[宮座]]はあっても)
そのような呼称の制度はなかったようで、
本書には他の例が何も言及されていません。
[6]
[CITE[東桜谷志]]は、
[[小野村]]の社守は[[東桜谷]]の他の[[字]] ([[藩政村]]) に見られない伝統的な定めがあり、
[[昭和時代]]当時も継承されている、と説明していました。
当時は村人全体で神事を行っていました。
しかし勤め人が増えてきたため徐々に改正して強制しないようになってきました。
[SRC[>>76 p.675]]
[1152]
[[小野]]の辻家は、
[CITE[東桜谷志]]によると当時の当主が[[辻久一郎]]でした
[SRC[>>76 p.633]]。
同書編集委員に[[辻久太郎]]がいました
[SRC[>>76 p.786]]。
両者は別人でしょうか?
[460] [[小野]]の[[辻久太郎]]家は、
[SEE[ [[鬼室集斯墓碑]] ]]
- [208] [[昭和時代]]時点で、石祠と石碑の管理権限を有していたようです。
- [209] [[昭和時代]]時点で、[[江戸時代]]の訪問者の署名帳を所蔵していました。
- [22]
[[昭和時代]]時点で、
「関係史料を貼り継いだ長い巻物」を所蔵していました。
[14]
なお[CITE[東桜谷志]]に資料一覧がありますが、
[[江戸時代]]の文書が[[森下太郎次]]家の1件、
[[辻久太郎]]家の5件しか掲載されていませんでした。
[SRC[>>76 p.776]]
村の有力者の家にはもっと大量の古文書が所蔵されていそうなものですが、
[[昭和時代]]の時点で既に失われていたのでしょうか。
それともここに掲載されたのは一部だけなのでしょうか。
[1027]
[TIME[平成17(2005)年][2005]]時点で[RUBY[社守][しゃもり]]を担当していた住民によると、
神社には神主が不在で、
毎年社守を小野の住民が持ち回りで担当し、
清掃、整備、管理を行っていました。
管理費用は住民から集めており、
大きな費用が必要なときは広く寄附を募っていました。
[[文化財]]指定されていないため、
公的な補助もありませんでした。
住民は誇りと親しみを持って協力していましたが、
[[天神社]]の管理も合わせ、費用的な負担になっていました。
[SRC[>>1017]]
[207]
[[小野]]の[[辻久太郎]]家が、[[鬼室集斯]]の末裔 ([[宗孫]] [SRC[>>58]])
を称しています。 [SRC[>>58, >>90]]
[217]
ただしその系譜関係は不明です。
[[近江国]][[蒲生郡]]では中世、[[南北朝時代]]頃から[[辻]]氏が記録に残り、
祖先の可能性が指摘されています。
[SRC[>>90]]
しかしそれも確証はありません。
[210] [CITE[過去帳]] が伝わり、巻頭の条に次のようにありました。
[SRC[>>90 (注釈も >>90 のまま), >>2124 (>>90)]]
>
[VRLBOX[
鬼室集斯が[RUBY[庶孫][(ママ)]]ニシテ室徒中ノ
筆頭株司ナリ代々庄屋ヲ勤メ郷士
トシテ帯刀御免ノ家柄ナリ名ハ代々
久右衛門ト称ス
近江国蒲生郡奥津保郷小野村
之住人(略)
辻久右衛門尉
[RUBY[宝永三年][(一七〇六)]]正月 釈 念心
]VRLBOX]
[214]
ここでの「庶孫」は[[子孫]]の意味と解され、
[[鬼室集斯墓碑]]銘文との関係性が指摘されます。 [SRC[>>90]]
[1153]
[CITE[東桜谷志]]によると、
辻家の仏壇に過去帳が祀られており、
その最初に次のように朱書されていました。
[SRC[>>76 pp.633-634]]
>
[VRL[
鬼室集斯が庶孫にして室徒中の筆頭株司なり 代々庄屋を勤め郷士として帯刀御免の家柄なり 名は代々久
右衛門と称す。
近江国蒲生郡奥津保郷小野村の住人、辻󠄂久右衛門尉、宝永三年正月釈念心
]VRL]
[13]
過去帳の内容の詳細は不明ですが、
「[V[辻󠄂家の過去帳(宝永三年正月釈念心から)]]」
と説明されており [SRC[>>76 p.776]]、
この冒頭朱書から書き始めて、それ以後の辻家の人々を書き連ねたものなのでしょうか。
[16]
過去帳には他に、
「[V[延宝七巳未年二月二十二日 恵忍坊]]」
と書かれていました。
([CITE[東桜谷志]]に掲載されたのはこれと冒頭朱書だけでした。)
[SRC[>>76 p.634]]
[17] [[石小山]]の麓の小高い山を[RUBY[恵][え]][RUBY[忍][にん]][RUBY[坊][ぼう]]山、恵忍山と呼びます。
昔[[小野村]]の[[恵忍坊]]が、
土中に埋められて読経し続けて往生すると何億年かの後に菩薩に生まれ変わると信じ、
この山で実践したと伝えられます。
[SRC[>>76 pp.619-620]]
[18]
恵忍坊は[[辻久太郎]]の祖先とされます。
「宝永三年正月 釈念心」
が恵忍坊である「とも」いわれています。
[SRC[>>76 p.620]]
[820]
[[日永伊久男]]は、
[CITE[過去帳]]
を根拠に[[小野]]には[[鬼室集斯]]の子孫が代々住み着いてきたとしました
[SRC[>>2124]]。
[REFS[
- [113] [CITE@ja[[[大日本金石史]]. 第1巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[木崎愛吉]], [TIME[大正10][year:1921]], [TIME[2021-03-27T07:34:44.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960208/149>
- [704] [CITE@ja-jp[[[上代歴史地理新考]]〈第1, 2〉―附・風土記逸文註釈 (1941年) | 井上 通泰 |本 | 通販 | Amazon]], [TIME[2021-04-08T08:44:58.000Z]] <https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B000JBGEI2/wakaba1-22/>
-- [2104] [CITE[上代歴史地理新考 東山道・附風土記逸文註釋、[[井上通泰]]]],
[TIME[1943.6.30][1943-06-30]],
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[TIME[1980][year:1980]],
[TIME[2020-06-18 11:18:14 +09:00]] <https://books.google.co.jp/books?id=jtglAAAAMAAJ&q=%E9%AC%BC%E5%AE%A4>
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- [76] [CITE[[[東櫻谷志]]]]
-- [1080] [CSECTION[[V[鬼室集斯を]]
[V[めぐる謎]]]],
pp.37-47
-- [1133]
鬼室神社奉賛会の御由緒記,
pp.569-571
- [2123] [CITE[滋賀文化財だより - 204.pdf]],
[TIME[1994.12.20][1994-12-20]],
[TIME[2014-03-14 08:43:46 +09:00]] <http://shiga-bunkazai.jp/download/dayori/204.pdf>
-- [2124] [CITE[鬼室集斯墓碑について]], [[日永伊久男]]
- [60] [CITE[[[近江朝と渡来人⸺百済鬼室氏を中心として⸺]]]],
[[胡口靖夫]],
1996年10月18日発行
-- [90] [CITE[鬼室集斯墓碑をめぐって]],
pp.44-72,
初出[TIME[[V[一九七九年]]][1979]]
-- [437]
[CITE[[V[鬼室福信の祭祀⸺韓国恩山別神堂と恩山別神祭⸺]]]],
pp.335-354,
新稿
-- [449]
[CITE[遠藤宗義小伝⸺鬼室集斯墓碑の顕彰者⸺]],
pp.355-368,
初出[TIME[[V[一九九五年]]][1995]]
- [1017] [CITE[ROOM 1 [[琵琶湖]]の風物詩]],
[TIME[2005-11-01]],
[TIME[2005-10-31T08:49:02.000Z]], [TIME[2021-04-11T10:06:52.432Z]] <http://sakuranamiki.my.coocan.jp/room1kkkk.htm>
]REFS]
-*-*-
[659]
[[江戸時代]]時点で、近郷に「美成」を[[氏]]とする農民がいました。
[[伴信友]]は[[鬼室集斯墓碑]]にある「美成」の子孫としました。
[SRC[>>41]]
[835]
[TIME[明治40(1907)年][1907]]頃の記録で、
近くの「美成」姓の家が[[西宮神社]]を守っていたとされます。
[SRC[>>20, >>23]]
出典は不明です。
[891]
[[平成時代]]時点で[[小野]]には「美成」姓はいなかったとされます。
「辻久一郎」宅がありました。
[SRC[>>23]]
[REFS[
- [20] [CITE[湖東の渡来人:[[鬼室集斯]]のこと: Yagiken Web Site]],
[TIME[2006.01.15][2006-01-15]],
[TIME[2020-06-17 17:23:19 +09:00]] <http://yagiken.cocolog-nifty.com/yagiken_web_site/2006/01/post_267e.html>
- [23] [CITE@ja[旅 527 [[鬼室神社]](1): ハッシー27のブログ]],
2016年04月07日,
[TIME[2020-06-17 17:28:12 +09:00]] <https://09270927.at.webry.info/201604/article_4.html>
-- 「2015年 8月23日」
]REFS]
** 鬼室集斯の末裔
[SEE[ 記録に残る子孫については[[鬼室集斯]] ]]
[216]
[[近江]]のこの近辺には、
「鬼」や「室」の[[姓氏]]の記録があり、一部は現存しているとされます。
[[鬼室集斯]]の後裔の可能性が指摘されています。
[SRC[>>90]]
ただしその根拠は居住地域の近さと名前の類似くらいで、
十分に検討されているとは言えなそうです。
[659]
「美成」氏がいたともされますが、残された記録はあやふやなものだけです。
[SEE[ [[小野村]] ]]
-*-*-
[190]
[[小野村]]には[[室徒株]]と呼ばれる[[宮座]]がありました。
[[室徒株]]は[[小野村]]の[[氏神]]の[[天神社]]と、
[[西宮]]の祭祀を司る、
村の有力者グループでした。
[192]
[[室徒株]]諸家の1つ辻家は[[鬼室集斯]]の後裔を称していました。
さらに、
室徒の「室」の字を鬼室の意味だとしたり、
[[室徒株]]や[[小野村]]が鬼室氏の子孫だとする主張が、
[[江戸時代]]から現代まで様々な人々により唱えられました。
しかしこうした主張に客観的な根拠は伴われていないのが実情です。
[SEE[ [[室徒株]] ]]
[996]
[[平成時代]]、
「祖先である鬼室集斯の墓が人魚塚呼ばわりされるのを、黙って見ていたということか?
西生懐忠が来るまで、墓碑の存在を知らなかったということか?」
と疑問が呈されていました。
[SRC[>>2, >>1003]]
[REFS[
- [1003] [CITE@ja[[[鬼室神社]]3|現時点での見解 - ハムスターの日本史研究所]], [[hyperhamster]], [TIME[2021-04-11T08:58:48.000Z]], [TIME[2021-04-11T09:37:41.511Z]] <http://hyperhamster.blog.fc2.com/blog-entry-78.html>
]REFS]
* 関連
[24]
[[大内時頼]]
* メモ