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1000
[1]
[[日本]]の[[古代]]には[[干支年]]などが使われていましたが、
やがて[[元号][日本の元号]]制度が導入されました。
[SEE[ 他の時代も含めた概観は[[日本の元号]] ]]
[SEE[ 各制度に関する事項は[[元号]]、[[改元]]、[[干支年]] ]]
* 神武東征時代
[423] [CITE[[[日本書紀]]]]の最古の[[紀年]]のある記事は[[神武東征]]であり、
「及年四十五歳。[SNIP[]] 是年也太歳甲寅。
其年冬十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子舟師東征。」、
すなわち「甲寅年冬十月丁巳朔辛酉」
なる[[日付]]が示されていました。 [SRC[>>5]]
[421] [[神武天皇]]の[[年齢]]を逆算して更に何年か遡ることはでき
[WEAK[(ただし[CITE[日本書紀]]と[CITE[古事記]]で記述が異なります)]]、
あるいは「于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。」 [SRC[>>5]]
との記述から[[神代]]の概年数を知ることはでき
([SEE[ [[天孫紀元]] ]])、
一方で史実がどの程度反映されているか不確かとはいえ、
[[日本]]の[[正史]]である[CITE[日本書紀]]で明確に記載された最初の[[日付]]がこれであり、
この日こそが[[日本の歴史]]の出発点であるといえます。
[422] それ以後[[神武東征]]時代については同様に[[干支年]]で[[日付]]が記載されました。
[SRC[>>5]]
[105] [CITE[日本書紀]]は以後の天皇については[[摂政]]、[[称制]]、[[壬申の乱]]のような空位時代も前後の天皇や天皇に準じた[[神功皇后]]の時代に組み込んでいますが、
[[神武東征]]については初代天皇という特殊性のためか、
[[神武天皇]]時代には組み入れられていません。
[[干支年]]で記述されるのは[CITE[日本書紀]]でここだけです。
[28] もちろんこれは[CITE[日本書紀]]編者らによる[[紀年法]]であって、
[[神武東征]]が史実かどうかの議論は置いておくとしても、
当該時代の実際の[[日時制度]]は定かではありません。
[16] [[皇紀]]が[[神武天皇]]の[[即位紀年][天皇即位紀年]]の延長として定められたためか、
[TIME[皇紀元年][year:-659]]以前も数年間連続した期間があるにも関わらず、
この期間は蔑ろにされがちです。
この[[神武東征]]期間を扱う[[神武天皇即位前の紀年法]]として次のものが知られています。
[FIG(middle list)[ [27] [[神武東征]]時代 (以前) を扱える[[紀年法]]
- [[神武天皇即位前紀干支年]]
- [[神武天皇前]]
- [[神武天皇紀元前]]
- [[西暦]]
- [[天孫紀元]]
- [[天之御中主天皇即位紀元]]
]FIG]
* 記紀天皇時代
[29] [[神武天皇]]即位後、
最初の[[元号]]である[[大化]]より前の時代について、
[CITE[日本書紀]]などでは[[天皇即位紀年]]が用いられてきました。
[9] [[神武天皇]]の即位について[CITE[日本書紀]]には
「辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」 [SRC[>>5]]
とする記事があり、
以後ここからの年数で記述されました。
[10]
例えば次の記事は「二年春二月甲辰朔乙巳。」 [SRC[>>5]]
とあり、
神武天皇の即位2年目、
2月すなわち[[朔日]]の[[日干支]]が[[甲辰]]である[[月]]、
[[日干支]]が[[乙巳]]である日、
すなわち[TIME[皇紀2年2月2日][-0658-02-02]]が表されていました。
[[神武天皇]]のみならず以後の天皇の時代、
[CITE[日本書紀]]に続く各[[正史]]でもこの[[日付形式]]が採用されました。
[30]
[[朔日]]を表すときは、
「廿四年春二月丁未朔」 [SRC[>>11]]
のごとく[[日干支]]は1つだけ記述されました。
[32]
[[月]]内のいつかを表すときは、
「廿三年春三月」 [SRC[>>11]]
のように[[月]]まで記述されました。
[33]
[[年]]内のいつかを表すときは、
「廿五年」 [SRC[>>25]]
のように[[年]]まで記述されました。
[34]
「五年秋八月庚寅朔壬寅。[SNIP[]]
冬十月。」 [SRC[>>25]]、
「三年冬十月辛未朔癸酉。[SNIP[]]
十一月。[SNIP[]]
是歳[SNIP[]]」 [SRC[>>25]]、
「廿二年春三月甲申朔戊子。[SNIP[]]
丁酉。」 [SRC[>>25]]、
「四十一年春二月甲午朔戊申。[SNIP[]]
是月。」 [SRC[>>25]]
のごとく、年、季節、月が前項と同じ時省略されたり、
「この歳」、「この月」のような表現が用いられたりもしました。
[49]
「三月上巳」 [SRC[>>48]]
のように朔日干支が省略されることもありました。
[52] [CITE[日本書紀]]では「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何々]]朔[VAR[何々]]」
といった日の表記がほとんどでしたが、
[CITE[続日本紀]]以後では
「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何々]]」
となりました。
;; [53] なお[CITE[六国史]]第6の
[CITE[日本三代實錄]]では、
[[日]]は「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何]]日[VAR[何々]]」
のように常に日番号が併記されるようになりました。 [SRC[>>54]]
[FIG(railroad)[ [36] [VAR[日付]]
= |
== =
=== [VAR[年]]
=== ?
==== [VAR[季]]
==== [VAR[月]]
==== ?
===== [VAR[朔と日]]
== =
=== [VAR[季]]
=== [VAR[月]]
=== ?
==== [VAR[朔と日]]
== =
=== [VAR[月]]
=== ?
==== [VAR[朔と日]]
== [VAR[日]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [35] [VAR[[[季]]]]
= |
== [CODE[春]]
== [CODE[夏]]
== [CODE[秋]]
== [CODE[冬]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [37] [VAR[月]]
= ?
== [CODE[閏]]
= |
== [CODE[正月]]
== =
=== [VAR[[[漢数字]]数]]
=== [CODE[月]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [51] [VAR[朔と日]]
= |
== =
=== [VAR[朔]]
=== ?
==== [VAR[日]]
== [VAR[日]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [38] [VAR[朔]]
= [VAR[[[干支][日干支]]]]
= [CODE[朔]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [39] [VAR[日]]
= [VAR[[[干支][日干支]]]]
]FIG]
[17]
[[天皇即位紀年]]は、「元年」、
「二年」のように年番号のみで表されていましたが、
他の天皇の在位中を参照する必要があるときは
「天豐財重日足姫天皇三年」 [SRC[>>18]] (斉明天皇3年)、
「天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月」 [SRC[>>18]] (天武天皇元年6月)
のように天皇名と共に表記されました。
[23]
天皇の他、[[神功皇后]]の時代についても、
「冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳。則爲攝政元年。
二年冬十一月丁亥朔甲午、[SNIP[]]」 [SRC[>>22]]
のように同様の方法で記述されました。
次巻では「攝政六十九年夏四月。」 [SRC[>>25]] のように参照されました。
[192] 天皇名は「[[天豐財重日足姫天皇]]」のような[[和風諡号]]で記述されました。
現在ではこれを「[[斉明天皇]]」
のような[[漢風諡号]]に置き換えて表記するのが一般的となっています。
簡略化して単に「[[斉明]]」のように表記することもあります。
;; [20] [[漢風諡号]]は[CITE[日本書紀]]よりも後の時代に[[追号]]されたとされています。
現存する[CITE[日本書紀]]写本には[[漢風諡号]]も巻名に併記されていますが、
[[漢風諡号]]成立後に追記されたと考えられています。
[424] [[神功皇后]]については、現在では
「神功皇后摂政[VAR[何]]年」 [SRC[>>135]]、
「神功皇后[VAR[何]]年」、
「神功[VAR[何]]年」 [SRC[>>135]]、
「摂政[VAR[何]]年」 [SRC[>>135]]
といろいろな表記がみられます。
[EG[
[90] [[Wikipedia]] は「神功元年10月2日 - 神功69年4月17日」 (在位期間)
や「神功皇后69年4月17日」 (死去) のように表記しています [SRC[>>135]]。
]EG]
[FIG(railroad)[ [40] [VAR[年]]
= |
== =
=== ?
==== ?
===== |
====== [VAR[[[漢風諡号]]]]
====== [VAR[[[和風諡号]]]]
==== ?
===== |
====== [CODE[天皇]]
====== [CODE[皇后]]
====== [CODE[皇后摂政]]
====== [CODE[摂政]]
=== [VAR[[[漢数字]]数]]
== [VAR[[[干支][干支年]]]]
= [CODE[年]]
]FIG]
[21] [CITE[日本書紀]]の[[漢文]]原文では「天渟中原瀛眞人天皇元年」
のように[[元号年]]の表記の形を採っており、
現在もこの年を表記する際「天武天皇元年」のように元号風に取り扱う慣例となっていますが、
[CITE[日本書紀]]の一般的な[[書き下し文]]では
「天渟中原瀛眞人天皇の元年」などと[[助詞]]を挟んで2語として扱っているようです。
[[年]]以下についても「二年の春の二月甲辰の朔の乙巳」
のように[[助詞]]をいくつも挟んで[[書き下し文]]とするようです。
;; [31] [[漢文]]の書き下しで日付をどう処理するかに一般的な規則があったのかはわかりません。
後の[[元号年]]も「何々の何年」と[[助詞]]を挿入している例は見られるようです。
天皇名でも[[元号]]でも、どの時代の何年目という包含関係を明確に意識にあってそう書き下したのでしょう。
[545] 「[VAR[[[漢風諡号]]]]天皇」またはその省略形の
「[VAR[[[漢風諡号]]]]」
を[[疑似元号]]として用い、
[CITE[日本書紀]]に従い[[天皇]]の即位の頃を元年とする[DFN[天皇即位紀年]]は、
歴史学の議論や神社の由緒の記述などで現在まで使われています。
各種の[[元号一覧]]の類で、
[[元号]]以前の時代における[[元号]]に相当するものとされています。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[209] [[大化]]以前に[[神武天皇]]から[[皇極天皇]]まで、[[神功皇后]]を含めて
36個の[[擬似元号]]がありました。
[87] 基本的には[CITE[日本書紀]]の記述をそのまま皇紀元年から西暦645年に当てはめた形とされているようです。
[138] [[改元]]はそれぞれの初年の元日として扱われるようです。
;; [211] [[即位]]が前天皇の末年で、新天皇の元年よりも前の年である場合があります。
-*-*-
[4] [[皇紀]]は、[[神武天皇]]の即位年から起算した[[紀年法]]です。
[[神武天皇]]即位紀年の自然な延長ですが、
「神武天皇[VAR[何]]年」ではなく、
「皇紀[VAR[何]]年」などと表記されます。
[[日本の歴史]]のほとんどの期間を単調増加する年号で扱えるのが利点です。
もちろん[[神武天皇]]の時代から連続して用いられていたものではありません。
[[神武天皇]]の即位年から何年という数え方は[[南北朝時代]]頃から記録に残っているようです。
[[紀年法]]として実用されるようになったのは[[江戸時代]]頃でした。
[SEE[ [[皇紀]] ]]
[13] [[天皇即位紀年]]相互の関係は「太歳己卯」 [SRC[>>12]]
のごとき[[太歳]]の[[干支年]]の記述により知ることができました。
;; [14] [[皇紀]]や、各[[天皇即位紀年]]と[[西暦]]との関係は、
こうした記述をつなぎ合わせて求められました。
[42]
[CITE[日本書紀]]の[[景行天皇]]紀には、
「活目入彦五十狹茅天皇 [SNIP[]] 九十九年 [SNIP[]]
秋七月己巳朔卯己卯。太子即天皇位。因以改元。
是年也太歳辛未。 」 [SRC[>>41]]
とあり、新天皇即位により[[改元]]されたとありました。
[CITE[日本書紀]]で[[大化]]より前の「改元」の記事はこれだけです。
「[[建元]]」の記事はありません。
[REFS[
- [CITE[[[日本書紀]]]]
-- [5] [CITE@zh[日本書紀/卷第三 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 17:49:03 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89>
-- [12] [CITE@zh[日本書紀/卷第四 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 18:49:25 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%9B%9B>
-- [41] [CITE@zh[日本書紀/卷第七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-27 20:46:00 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%83>
-- [22] [CITE@zh[日本書紀/卷第九 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:47:37 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B9%9D>
-- [25] [CITE@zh[日本書紀/卷第十 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:50:57 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81>
-- [48] [CITE@zh[日本書紀/卷第十五 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:16:08 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%94>
-- [11] [CITE@zh[日本書紀/卷第十七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-27 17:15:56 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83>
-- [65] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿五 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:29:45 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%BA%94>
-- [69] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿六 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:37:36 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%85%AD>
-- [72] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:49:15 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%B8%83>
-- [74] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿八 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:55:32 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%85%AB>
-- [75] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿九 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:56:51 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%B9%9D>
-- [18] [CITE@zh[日本書紀/卷第三十 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 19:06:54 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81>
- [CITE[続日本紀]]
-- [80] [CITE@zh[續日本紀 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:05:22 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80>
-- [81] [CITE@zh[續日本紀/卷第二 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:32:33 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%BA%8C>
-- [84] [CITE@zh[續日本紀/卷第十七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 18:27:43 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83>
- [54] [CITE@zh[日本三代實錄 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:37:50 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E5%AF%A6%E9%8C%84>
- [135] [CITE@ja[神功皇后 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-08 23:31:07 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E>
]REFS]
-*-*-
[44]
[CITE[日本書紀]]と同じ時代を記した歴史書に[CITE[古事記]]がありますが、
[CITE[日本書紀]]ほど[[日付]]の記述は多くありません。
[45]
経過年数や人物の年齢を記したものの他に、
崩年が「壬子年十一月十三日」 [SRC[>>43]]
のように[[干支年]]と[[漢数字]]の[[月日]]で示されました。
例外的に「戊子年三月十五日癸丑日」 [SRC[>>43]]
と[[日干支]]も併記したものもありました。
[FIG(railroad)[
= [VAR[[[干支][干支年]]]]
= [CODE[年]]
= [VAR[月]]
= [VAR[[[漢数字]]数]]
= [CODE[日]]
= ?
== [VAR[[[干支][日干支]]]]
== [CODE[日]]
]FIG]
[46] [CITE[古事記]]の範囲は[[元号]]の建てられる前の[[推古天皇]]の時代まででした。
しかし序文には
「和銅四年九月十八日」、
「和銅五年正月廿八日」
と[[元号]]の[[日付]]が書かれました [SRC[>>43]]。
[REFS[
- [47] [CITE@ja[古事記 上-1 併序]] ([TIME[2014-06-02 16:53:02 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_01.html>
- [43] [CITE@ja[古事記 下-4 清寧天皇記~推古天皇記]] ([TIME[2014-06-05 17:33:31 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_17.html>
]REFS]
-*-*-
[26] [CITE[[[日本書紀]]]]には[[支那]]や[[朝鮮]]の歴史書の[[引用]]という形で、
「魏志云、明帝景初三年六月、」[SRC[>>22]]、
「百濟記云、壬午年、」[SRC[>>22]]、
「六十六年。是年、晉武帝泰初二年。」 [SRC[>>22]]
といった形の年の表現も一部に含められました。
[413]
[[和暦]]の実装の中には、
最初の[[元号]]である[[大化]]より前の時代をすべて[[大化]]として扱い、
[[建元]]前は0年や負の年とするものもあります。
あまり一般的な[[紀年法]]ではありませんし、
意図せず、または実装の便宜上採られた方法と思われます。
適切な年の表現方法とは思われませんから、
これに倣うべきではありません。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[55]
[CITE[日本書紀]]と[CITE[古事記]]の自然な解釈は寿命や記述の矛盾が生じるため、
そのまま歴史的事実とすることはできません。
記紀や他の史料をどう解釈するべきかについて、
古くから様々な議論があります。
[SEE[ [[紀年論]] ]]
** 継体-欽明時代
[425]
[CITE[日本書紀]]は、
- 継体天皇元年太歲丁亥 西暦507年 (25年まで、或本では28年まで) [SRC[>>427]]
- 安閑天皇元年太歲甲寅 西暦534年 (2年まで) [SRC[>>426]]
- 宣化天皇元年太歲丙辰 西暦536年 (4年まで) [SRC[>>426]]
- 欽明天皇元年太歲庚申 西暦540年 (32年まで) [SRC[>>428]]
... としていました。
[429]
安閑天皇紀には継体天皇25年の継体天皇から安閑天皇への譲位と崩御の記事の直後に元年記事が続いていて、
そのまま素直に読むと継体天皇25年の翌年が安閑天皇元年となります。
ところが元年の[[太歳]]に従うと、
両者の間には2年の空白が生じてしまいます。
異説として継体天皇の崩御が28年ともされており、
それによると継体天皇28年と安閑天皇元年が同年ということになります。
[CITE[日本書紀]]
以外の史料との突き合わせも含め、
この時代の出来事の解釈には諸説あります [SRC[>>385]]。
[430]
[[年表の類][元号一覧]]の中には、扱いかねたか
[TIME[532年][year:532]]、
[TIME[533年][year:533]]を空欄にするものもあるようです [SRC[>>383]]。
[431]
[[内田正男]]は、
[CITE[日本書紀暦日原典]] ([TIME[1988年][year:1988]]) でそれぞれ
「安閑天皇即位前2年」、
「安閑天皇即位前1年」
と[DFN[安閑天皇即位前]]年により表しました。
[CITE[日本暦日原典]] ([TIME[1992年6月][1992-06]]) でそれぞれ
「継体天皇26年」、
「継体天皇27年」
としました。
[SRC[>>383]]
[CITE[日本暦日原典]]の初版は[TIME[1975年][year:1975]]であり、
どちらが内田の新しい見解なのか不明です。
[CITE[日本書紀]]
によれば[[安閑天皇]]の[[即位]]は継体天皇25年なので、
「安閑天皇即位前」
と呼ぶのは不適当ともいわれます [SRC[>>383]]。
[437]
[TIME[2006年][year:2006]]頃から
[CITE[Wikipedia]]
は
[TIME[532年][year:532]]を安閑天皇元年とし、
4年まで数える[[紀年法]]を使っていました。
日本語版の他中文版もこれに倣っていたことを確認できます。
[TIME[2018年][year:2018]]、
誤りであるとして
[CITE[日本書紀]]
に従った[[紀年法]]に変更されました。
[SRC[>>433, >>435, >>434, >>436, >>383]]
[441] 「安閑天皇3年」、「安閑天皇4年」で[[ぐぐる]]と、
[CITE[Wikipedia]]
の影響を受けたらしき
[[Webページ]]が多々みつかります (多くは [CITE[Wikipedia]]
の[[コピペ]])。
[CITE[Wikipedia]]
の影響とは断言できないものもいくつかあります
[SRC[>>438, >>439, >>440, >>442]]。
-*-*-
[394]
[[仏教公伝]]の日を
[CITE[上宮聖徳法王帝説]] (>>311)
は
「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日」、
[CITE[[[元興寺伽藍縁起并流記資財帳]]]]
([TIME[天平20(748)年][year:748]])
は
「斯歸嶋宮治天下天國案春岐廣庭天皇御世 蘇我大臣稻目宿禰仕奉時 治天下七年歳次戊午十二月」
[SRC[>>393]]
としていました。
戊午年は[TIME[538年][year:538]]と解されています
[SRC[>>395]]。
[396]
[TIME[538年][year:538]]は[CITE[日本書紀]]によると[[宣化天皇]]3年で、
[[志癸嶋天皇]]すなわち[[欽明天皇]]の[TIME[元(540[LINES[庚][申]])年][year:540]]よりも前となりますが、
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]は
[TIME[531年][year:531]]を[[欽明天皇]]の即位としていました。
[CITE[日本書紀]]によれば欽明天皇7年は[TIME[546年[LINES[丙][寅]]][year:546]]となります。
解釈には諸説あります [SRC[>>395, >>397]]。
[432]
[CITE[日本古代史年表]], [[吉川弘文館]]編集部, [TIME[2006年12月][2006-12]]は
「(欽明元年)」、
「安閑元年
(欽明3年)」
のような形でこちらの紀年も併記しているようです [SRC[>>383]]。
[444]
ためしに「欽明天皇7年」
で[[ぐぐる]]と、
[[仏教公伝]]を扱っている記事が大量にヒットします。
学術的な色が強いサイトは混乱した状況にいくらか言及していますが、
そうでないサイトは何の注釈もなく欽明天皇7年が西暦538年であると書いていたり、
ひどいものは
[CITE[日本書紀]]
による[[仏教公伝]]の欽明天皇13年[LINES[壬][申]]の[TIME[西暦552年][year:552]]と注記もなく併記してあったりし、
欽明天皇[[即位紀元]]と[[西暦]]との[[換算][暦の換算]]で読者を混乱させています。
[FIG(table)[
:w: [[西暦年]]
:k: [[干支年]]
:j: [CITE[日本書紀]]
:j2: [CITE[日本書紀]]或本
:g: [CITE[[[元興寺伽藍縁起并流記資財帳]]]]
:s: [CITE[日本書紀暦日原典]]
:n: [CITE[日本古代史年表]]
:p: 旧 [CITE[Wikipedia]]
:o: [CITE[日本の暦日データベース]]
:w: [TIME[507][year:507]]
:k: [[丁亥]]
:j: 継体1
:o: 継体1
:w: ...
:w: [TIME[531][year:531]]
:k: [[辛亥]]
:j: 継体25
:s: 継体25
:n: 継体25
:o: 継体25
:w: [TIME[532][year:532]]
:k: [[壬子]]
:s: 安閑前2
:n: (欽明1)
:p: 安閑1
:o: 継体26
:w: [TIME[533][year:533]]
:k: [[癸丑]]
:s: 安閑前1
:n: (欽明2)
:p: 安閑2
:o: 継体27
:w: [TIME[534][year:534]]
:k: [[甲寅]]
:j2: 継体28
:j:安閑1
:s: 安閑1
:n:
安閑1 (欽明3)
:p: 安閑3
:o: 安閑1
:w: [TIME[535][year:535]]
:k: [[乙卯]]
:j: 安閑2
:s: 安閑2
:n:
安閑2 (欽明4)
:p: 安閑4
:o: 安閑2
:w: [TIME[536][year:536]]
:k: [[丙辰]]
:j: 宣化1
:o: 宣化1
:w: [TIME[537][year:537]]
:k: [[丁巳]]
:j: 宣化2
:o: 宣化2
:w: [TIME[538][year:538]]
:k: [[戊午]]
:j: 宣化3
:o: 宣化3
:g: 欽明7
:w: [TIME[539][year:539]]
:k: [[己未]]
:j: 宣化4
:o: 宣化4
:w: [TIME[540][year:540]]
:k: [[庚申]]
:j: 欽明1
:o: 欽明1
:w: [TIME[541][year:541]]
:k: [[辛酉]]
:j: 欽明2
:o: 欽明2
:w: ...
:w: [TIME[546][year:546]]
:k: [[丙寅]]
:j: 欽明7
:o: 欽明7
]FIG]
[REFS[
- [427] [CITE@ja[[[日本書紀]] 巻第十七 継体天皇紀]] ([TIME[2017-02-05 13:55:04 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_17.html>
- [426] [CITE@ja[[[日本書紀]] 巻第十八 安閑天皇~宣化天皇]] ([TIME[2015-10-03 16:55:03 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_18.html>
- [428] [CITE@ja[[[日本書紀]] 巻第十九 欽明天皇紀]] ([TIME[2017-12-30 18:03:11 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_19.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[442]
[CITE[神話伝説に表徴される剣術(刀剣)についての考察(1)]],
[[金子國吉]],
[TIME[1977][year:1977]]
<http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00135710-00170001-0001>
(PDF 19ページ)
]FIGCAPTION]
>
この伝承を継承せる大社として群馬県宮町貫前神社一経津主神を祭神とす。安閑天皇3年鎮座
を伝えている。
]FIG]
- [384] [CITE@ja[[[安閑天皇]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-08-29 17:56:50 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87#%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E3%81%A8%E3%81%AE%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8>
-- [433] [CITE@ja[「[[安閑天皇]]」の版間の差分 - Wikipedia]] ([TIME[2019-09-22 10:10:47 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87&type=revision&diff=5836551&oldid=4997462>
--- 2006年5月22日 (月) 06:50時点における版,
220.98.223.168
--- 「[B[安閑天皇]](あんかんてんのう、雄略天皇10年(466年) - 安閑天皇2年12月17日(536年1月25日))は、第27代の天皇(在位:継体天皇25年(531年)2月7日 - 安閑天皇4年(535年)12月17日)。」
-- [435] [CITE@ja[「[[安閑天皇]]」の版間の差分 - Wikipedia]] ([TIME[2019-09-22 10:10:47 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87&type=revision&diff=10369689&oldid=9343055>
--- 2007年2月1日 (木) 09:25時点における版,
[[Nnh]]
-- [434] [CITE@ja[「[[安閑天皇]]」の版間の差分 - Wikipedia]] ([TIME[2019-09-22 10:10:47 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87&type=revision&diff=25891831&oldid=25891506>
---
2009年5月15日 (金) 03:23時点における版,
[[Tabechans]]
--- 「[B[安閑天皇]](あんかんてんのう、雄略天皇10年(466年) - 安閑天皇4年12月17日(536年1月25日))は、第27代の天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日) - 安閑天皇4年(535年)12月17日)。」
- [436] [CITE@ja[「535年」の版間の差分 - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-09-09 12:31:05 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=535%E5%B9%B4&type=revision&diff=5836576&oldid=5620668>
--
2006年5月22日 (月) 06:52時点における版,
220.98.223.168
- [385] [CITE@ja[継体・欽明朝の内乱 - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-08-22 02:43:38 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%99%E4%BD%93%E3%83%BB%E6%AC%BD%E6%98%8E%E6%9C%9D%E3%81%AE%E5%86%85%E4%B9%B1>
- [383] [CITE@ja[プロジェクト‐ノート:[[紀年法]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-08-25 15:37:04 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%82%AF%E3%83%88%E2%80%90%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E7%B4%80%E5%B9%B4%E6%B3%95#%E5%AE%89%E9%96%91%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E3%81%AE%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E5%AF%BE%E7%85%A7%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6>
- [438] [CITE@ja[利用者‐会話:壁掛成蛸は三考する葦である - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-09-09 12:47:42 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E7%94%A8%E8%80%85%E2%80%90%E4%BC%9A%E8%A9%B1:%E5%A3%81%E6%8E%9B%E6%88%90%E8%9B%B8%E3%81%AF%E4%B8%89%E8%80%83%E3%81%99%E3%82%8B%E8%91%A6%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B#%E3%80%8C%E7%99%BD%E7%8C%AA%E5%B1%AF%E5%80%89%E3%80%8D%E3%80%8C%E5%90%89%E5%A3%AB%E3%80%8D%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6>
-- 「 「安閑天皇2年」ですが、自分の持っている資料では安閑天皇の在位年が「安閑天皇4年(536)12月17日」までとなっていた」
- [439] [CITE@ja[古墳時代年表 - [[日本史]]資料室]] ([TIME[2019-09-23 12:55:51 +09:00]]) <https://history.gontawan.com/nenpyo-kofun.html>
-- 旧 [CITE[Wikipedia]] と同じ方式を採る年表。
- [440] [CITE@ja[[[安閑天皇]] - れきち]] ([TIME[2019-09-23 12:56:30 +09:00]]) <https://rekichi.net/s/40210482>
-- 安閑天皇[VAR[何]]年のほとんどは[CITE[日本書紀]]の引用で[CITE[日本書紀]]方式。
[CITE[古事記]]の引用で
「安閑天皇4年3月13日」
とするのは[CITE[古事記]]の乙卯年三月十三日を指している旧 [CITE[Wikipedia]] 方式。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[443] [CITE@ja[日本の仏教]],
[[高橋俊隆]],
平成21年~令和1年
([TIME[2019-09-13 10:49:43 +09:00]]) <http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index66.htm>
]FIGCAPTION]
>日本に仏教が公に伝わったとされるのは、『上宮聖徳法王帝説』・『元興寺伽藍縁起並流記資財帳』により、欽明天皇7年の「538年説」が学界で承認されています。『日本書紀』の欽明天皇13年の「552年説」は誤りとされています。両者の年号の違いは6年ですが、西暦年数では14年の違いがでて矛盾します。これを整合させるために、欽明・安閑・宣化の両朝が並立した時代(532~539年)の欽明1年(532年)と、それにつづく、欽明が独立した540年を新たに欽明1年として、欽明1年を重複させて年表に提示されています。
]FIG]
]REFS]
* 支那元号
[99]
[[東大寺山古墳]]出土中平銘大刀
([[日本国]][[奈良県]][[天理市]])
には、
「中平□□ 五月丙午」
とありました。「中平□年」は[[漢]]の[[元号]] ([TIME[184][year:184]] - [TIME[189][year:189]])
であり、「五月丙午」は実日付ではなく[[吉日]]の意であると解されています。
[SRC[>>96]]
[57] 3世紀頃の[[支那王朝の元号][支那の元号]]が記された[[鏡]]が日本各地で見つかっています
[SRC[>>58, >>56]]。
[102]
[[石上神宮]] ([[日本国]][[奈良県]][[天理市]]) の[[七支刀]]には、
「泰□四年□月十六日丙午」とありました。
この刀は[[百済]]から[[日本]]に贈られたものとされています。
[TIME[西晋泰始四年][year:286]]、
[TIME[東晋太和四年][year:369]]、
[TIME[劉宋泰始四年][year:468]]なとの説が示されました。
[[百済]]の元号とする説もありましたが、
当時[[百済]]では[[干支年]]が用いられたとし否定されています。
[SRC[>>100]]
[353]
[[漢]]に[[朝貢]]した[[奴国]]や、
[[魏]]に[[朝貢]]した[[邪馬台国]]の外交文書では当時の[[支那の元号]]である[[建武中元]]や[[景初]]を使ったに違いない
[SRC[>>352 p.46]] ですが、それ自体はまったく現存していません。
[REFS[
- [58] [CITE@ja[銅鏡 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-27 11:00:28 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1#.E7.B4.80.E5.B9.B4.E9.8A.98.E9.8F.A1>
- [56] [CITE@ja[三角縁神獣鏡 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-30 16:43:18 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1#.E7.B4.80.E5.B9.B4.E9.8A.98.E3.82.92.E3.82.82.E3.81.A4.E4.B8.89.E8.A7.92.E7.B8.81.E7.A5.9E.E7.8D.A3.E9.8F.A1>
- [100] [CITE@ja[七支刀 - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-04 17:06:27 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80>
]REFS]
* 暦法輸入
[346]
[[倭の五王]]の頃、[[支那王朝]]から[[暦]]がもたらされたと考えられています。
[354]
[[宋]]に[[朝貢]]した[[倭の五王]]の外交文書では、
[[宋の元号][支那の元号]]が使われていたと考えられます。
[SRC[>>352 p.47]]
[348]
[CITE[日本書紀]]によると、
[TIME[欽明天皇14年][year:553]]、
[[百済]]から[[暦博士]]が来朝しました。
[349]
[CITE[日本書紀]]によると、
[TIME[推古天皇10年][year:602]]に[[百済]]から[[観勒]]が来朝し、
[[天文学]]や[[暦学]]を教授しました。
[350]
[CITE[日本書紀]]の[[雄略天皇]]時代以後は[[元嘉暦]]によって記述されていると考えられています。
[376]
[CITE[政事要略]]
[WEAK[([[平安時代]]成立)]]
廿五巻に、
「儒傳云、以小治田朝十二年歳次甲子正月戊戌朔始用暦日」
とありました。
[SRC[>>375, >>377]]
[WEAK[([CITE[儒伝]]は[[逸書]])]]
「小治田朝十二年歳次甲子」とは推古天皇12年です。
[REFS[
- [375] [CITE@ja[[[政事要略]]. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([TIME[2019-08-07 11:01:26 +09:00]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2561023?tocOpened=1>
- [377] [CITE[[[古事類苑]]>方技部五>暦道上>始用暦日 第 25 巻 319 頁]] ([TIME[2014-03-11 14:32:38 +09:00]]) <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/hougibu/frame/f000319.html>
]REFS]
* 干支年
[2]
古代[[日本]]では[[干支年]]が主に使われました。
[[干支]]だけでは年代が特定できないため、
周囲の様々な状況から推定されています。
それでも完全に年が特定できていないものが少なくありませんが、
次のような例が知られています。
[95]
[[隅田八幡神社人物画像鏡]]
([[日本国]][[和歌山県]][[橋本市]])
には「癸未年八月」とあり、
[TIME[西暦443年][year:0443]]または[TIME[503年][year:0503]]とされています
[SRC[>>94]]。
[97]
[[稲荷山古墳出土鉄剣]]
([[日本国]][[埼玉県]][[行田市]])
には「辛亥年七月」とあり、
[TIME[471年][year:0471]] (一説[TIME[531年][year:531]])
とされています。
[SRC[>>96]]
[98]
[[江田船山古墳出土鉄刀]]
([[日本国]][[熊本県]])
には[[干支年]]はありませんが
「治天下獲□□□鹵大王世[SNIP[]]八月[SNIP[]]」
とあり、
[[獲加多支鹵大王]]の治世の8月と解されています。 [SRC[>>96]]
[103]
[[元岡古墳群]]出土金錯銘大刀
([[日本国]][[福岡県]][[福岡市]])
には「大歳庚寅正月六日庚寅日時」とあり、
[TIME[570年][year:570]]と解されています。 [SRC[>>96]]
[264]
法隆寺献物銅造光背
([[東京国立博物館]]所蔵)
には「甲寅年」とあり、
[TIME[594年][year:594]]とされています。
[SRC[>>265]]
[266]
法隆寺献納銅造如来半跏像
([[東京国立博物館]]所蔵)
には
「歳次丙寅年正月生十八日記高屋」
とあり、
[TIME[606年][year:606]]または
[TIME[666年][year:666]]と解されています。
[SRC[>>267]]
[271]
法隆寺金堂薬師如来像光背銘
([[日本国]][[奈良県]])
に「歳次丙午年」、
「歳次丁卯年」
とあり、
[TIME[586年][year:586]]、
[TIME[607年][year:607]]と解されています。
[SRC[>>270]]
[199]
[[箕谷2号墳]] ([[日本国]][[兵庫県]][[養父市]]) 出土[[戊辰年銘大刀]]には
「戊辰年五月」とあり、
[TIME[[LINES[推古天皇16][608]]年][year:608]]と解されています。 [SRC[>>200]]
[64]
[[法隆寺釈迦三尊像]]台座墨書に「辛巳年八月九月」とあり、
[TIME[推古天皇29年][year:0621]]と解されています。 [SRC[>>59]]
(>>301)
[308]
[CITE[天寿国繍帳]]銘文に、
「歳在辛巳十二月廿一癸酉日入」、
「明年二月廿二日甲戌夜半」
とあったとされ、
[TIME[621年][year:621]]、
[TIME[622年][year:622]]と解されています。
ただしいずれの箇所も[CITE[上宮聖徳法王帝説]]所収のもので、
現存していません。
銘文成立は7世紀頃とされますが、正確な時期には諸説あります。
[SRC[>>307]]
[202]
[[穴太廃寺]] ([[日本国]][[滋賀県]][[大津市]]) 出土平瓦片には
「庚寅年」、「壬辰年」とあり、
それぞれ[TIME[630年][year:630]]、
[TIME[632年][year:632]]と解されています。 [SRC[>>201]]
[62]
7世紀の遺跡からは[[干支]]紀年を持つ[[木簡]]が多く出土しています。 [SRC[>>59]]
[60]
[[前期難波宮跡]] ([[日本国]][[大阪府]][[大阪市]]) で出土した[[木簡]]には「戊申年」
との記述があり、[TIME[大化4年][year:0648]]を指すと解されています。
[SRC[>>59]]
[61]
[[三条九ノ坪遺跡]] ([[日本国]][[兵庫県]][[芦屋市]]) で出土した[[木簡]]には
「三 壬子年」とあり、
[TIME[白雉三年][year:0652]]を指す可能性が高いとされています。 [SRC[>>59, >>417, >>418]]
[206]
[[夏見廃寺]] ([[日本国]][[三重県]][[名張市]]) で出土した
大形多尊塼仏片には「甲午年」とあり、
[TIME[649年][year:649]]と解されています [SRC[>>212]]。
[204]
[[野中寺]]
([[日本国]][[大阪府]][[羽曳野市]])
塔跡出土平瓦に
「庚戌年正月」
とあり、
[TIME[650年][year:650]]と解されています。 [SRC[>>205]]
[203]
[[野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像]]
([[日本国]][[大阪府]][[羽曳野市]])
銘文に
「丙寅年四月□八日癸卯開」
とあり、
[TIME[666年][year:666]]と解されています。
[SEE[ [[野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像]] ]]
[126]
[[船氏王後墓誌]]
([[日本国]][[大阪府]])
には「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」、
「戊辰年十二月」
とあり、それぞれ641年、668年と解されています。
日本で現存する墓誌の最古の紀年とされていますが、
成立はそれよりやや遅れて7世紀の終わり頃とされています。
[SRC[>>124, >>125]]
[257]
[[妙心寺]] ([[日本国]][[京都府]][[京都市]]) [[梵鐘]]に
「戊戌年四月十三日壬寅収」
とあり、
[TIME[[LINES[698][文武天皇2]]年][year:698]]と解されています。 [SRC[>>258]]
[374]
[[長谷寺銅板法華説相図]]銘文に
「歳次降婁漆兎上旬」
とあり、
[[戌]]年7月[[上旬]]を表します。
時期は不明確で諸説あるものの、
[TIME[文武天皇2年][year:698]]と解されています。
[SRC[>>373]]
-*-*-
[213]
[[那須国造碑]]
([[日本国]][[栃木県]][[大田原市]])
に
「永昌元年己丑四月」、
「歳次康子年正月二壬子日辰節」
とあり、
[[唐]]の[[元号][支那の元号]]と[[干支年]]で[TIME[689年][year:689]]と、
[[干支年]]で
[TIME[700年][year:700]]と解されています。 [SRC[>>214]]
[295]
この碑については[[江戸時代]]から議論されてきました。
新羅系渡来人の関与を指摘する説もあります。
[[滝川政次郎]]は、
大陸文化の影響が強い土地柄で[[永昌]]が用いられることがあった、としました
(1974)。
[[今泉隆雄]]は、
康子年に[[元号]]がないことから、
[[永昌]]の次の[[元号]]を知らない、
[CITE[日本書紀]]持統天皇3年・4年で[[下野国]]に移住した新羅系渡来人の撰文と推測しました
([CITE[銘文と碑文]], [CITE[日本の古代一四 ことばと文字]] 1988 所収)。
[SRC[>>246 普及版 p.131]]
[351]
[TIME[文武天皇元年][year:697]]、
従来の[[元嘉暦]]にかわって[[儀鳳暦]]が使われるようになりました。
[[那須国造碑]]の[[日付]]は[[儀鳳暦]]と一致しています
[SRC[>>352 p.24 ([CITE[古代の暦日]], [[大谷光男]])]]。
-*-*-
[311]
[CITE[上宮聖徳法王帝説]]には、
法隆寺金堂坐釋迦佛光後銘文
(>>296)
や
[CITE[天寿国繍帳]]銘文
(>>308)
が収録されていますが、
それ以外に[[日時]]を記したものとして
「戊午年四月十五日」、
「壬午年二月廿二日夜半」、
「來年二月廿二日」、
「明年二月廿二日」、
「歳次丙午年」、
「丁未年六七月」、
「志癸嶋天皇御世戊午年十月十二日」、
「庚寅年」、
「小治田天皇御世乙丑年五月」、
「七月」、
「飛鳥天皇御世癸卯年十月十四日」、
「□□天皇御世乙巳年六月十一日」、
「辛卯年四月」、
「乙巳年八月」、
「丁未年四月」、
「秋七月」、
「壬子年十一月」、
「戊子年三月」、
「甲午年」、
「壬午年二月廿二日」、
「庚戌春三月」、
「惟古天皇即位十年壬戌」、
「十三年辛丑春三月十五日」、
「辛丑年」、
「癸卯年」、
「戊申」、
「己酉年三月廿五日」、
「癸亥年」、
「癸酉年十二月十六日」、
「丙子年四月八日」、
「戊寅年十二月四日」、
「乙酉年三月廿五日」、
「承歴二年【戊午】」、
「甲寅年十月癸卯朔壬子」、
「推古天皇卅四年秋八月」、
「廿二年甲戌秋八月」、
「卅五年夏六月辛丑」
があります。
[SRC[>>309]]