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[1]
[[日本]]では[[紀年法]]として[[元号]]が使われています。
[3]
現在の[DFN[日本の元号]]は[[令和]]です。
* 概要
[SEE[ 元号一般、表記、読み、用法などについては[[元号]] ]]
[SEE[ 改元の一般的事項については[[改元]]、[[改元手続き]] ]]
[25] [[日本の元号]]は[[大化]]に始まり、現在まで200個以上、
1400年近くにわたり使われています。
[26] 現在[[日本の元号]]は[[日本政府]]の[[内閣府]]の所管となっています [SRC[>>8]]。
[SEE[ [[日本の元号法制]] ]]
[REFS[
- [8] [CITE@ja[元号について - [[内閣府]]]] ([TIME[2019-05-15 16:56:26 +09:00]]) <https://www.cao.go.jp/others/soumu/gengou/index.html>
]REFS]
-*-*-
[28] 古代から現代まで[[天皇]]を中心とする政府が存続している[[日本]]では、
王朝交代に伴う[[元号]]の混乱や独自[[元号]]の[[建元]]はほとんど見られません。
[29] ただし、[[南北朝時代]]には[[北朝]]の[[元号]]の他に[[南朝]]の[[元号]]が並立しました。
また[[中世]]や[[幕末]]の戦乱の時代には地方政権の独自の[[元号]]らしきものがあったことが知られています。
その他中央政府の[[改元]]を無視したとみられる[[延長年号]]の例がいくつか知られています。
[30] そのようないくつかの例外を除けば、
[DFN[日本の私年号]] (中央政府の[[正式な元号][公年号]]ではない[[元号][私年号]])
は反政府的な意味が薄く、
制定者も不明で長年存続することなく消えていったものがほとんどです。
- [SEE[ 分類や他国との比較は[[異年号]] ]]
- [SEE[ 古代のものは[[日本古代の日時]] ]]
- [SEE[ 中世 [WEAK[(平安時代後期から安土桃山時代)]] のものは[[日本の中世私年号]] ]]
- [[江戸時代]]のものは >>173
- [SEE[ 幕末のものは[[幕末維新期の私年号]] ]]
- [SEE[ 近現代のものは[[近現代日本の私年号]] ]]
[REFS[
- [58] [CITE[[[古事類苑]]>歳時部四>年號下>逸年號]] ([TIME[2011-10-22 21:38:04 +09:00]]) <http://base1.nijl.ac.jp/~kojiruien/saijibu/frame/f000340.html>
- [352] [CITE[[[元号―年号から読み解く日本史―]]]]
]REFS]
* 古代
[4] [[日本]]の古代には[[干支年]]などが使われていましたが、
やがて[[元号]]制度が導入されました。
最古の[[元号]]は[[大化]]でした。
現在まで途切れず続く流れの最初は[[大宝]]でした。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[7] 現在のいわゆる「[[和暦]]」では[[大化]]以降の[[元号]]を用いるのはもちろん、
[[元号]]の建てられなかった期間は[[天皇即位紀年]]を[[元号]]風に扱う慣習となっています。
[SEE[ [[天皇即位紀年]] ]]
[31] [[中世]]には、[[古代]]の出来事を記述するため[[元号]]を[[大宝]]以前に遡って設定することもありました。
[SEE[ [[古代年号]] ]]
[59]
[[大宝律令]]制定後[[奈良時代]]にかけて[[元号]]制度が定着しおおむね[[代替わり]]ごとに[[祥瑞改元]]がありました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
-*-*-
[FIG(short list)[ [1027] [[日本の元号]] ([[奈良時代]])
- [[和銅]]
- [[霊亀]]
- [[養老]]
- [[神亀]]
- [[天平]]
- [[天平感宝]]
- [[天平勝宝]]
- [[天平宝字]]
- [[天平神護]]
- [[神護景雲]]
- [[宝亀]]
- [[天応]]
- [[延暦]]
]FIG]
[1029]
[[元号]]の使われ方に特に注意を要するもの:
[[養老]]、
[[白亀]]、
[[正法]],
4文字元号
* 平安時代
[266]
[[私年号]]
- [[大同]]年間 [[大道]] ([[追建]])
- [[大同]]年間か [[大筒]] ([[偽文書]])
- [TIME[天慶3(940)年][940]] [[太政]] ([[説話]]内[[改元]]指示)
- [[堀河天皇]]時代 [[長嘉]] ([[追建]])
- [[平安時代]]から[[鎌倉時代]] [[歓喜]]
[183] [CITE@ja[菅原道真と二つの改元]], [TIME[2021-02-23T03:13:06.000Z]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/bungakugogaku/227/0/227_52/_article/-char/ja>
[62] [CITE@ja[ノート:東武天皇 - Uyopedia]], [TIME[2014-01-29T08:22:37.000Z]], [TIME[2023-04-12T09:24:49.214Z]] <http://uyopedia.a.freewiki.in/index.php/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%9D%B1%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
>[SNIP[]]一説による と網野善彦が「新皇と称した平将門も独自に年号を建てた」といっていたらしいが私は網野の著書をす べて読破したわけではないのでなんともコメントできない。[SNIP[]]
** 源平合戦期
[150] [[平安時代]]末期には、[[関東]]の[[源頼朝]]勢力や[[西国]]の[[平氏]]勢力が中央の[[改元]]に従わない時期がありました。
[145] 対応表等では、[[源平合戦]]期の[[元号]]について、併記するか、
[[平氏]]側の[[改元]]も[[源氏]]側の[[元号]]も採用しているようです。
[CITE[日本年号史大事典]]は併記していますが、
[[国立天文台]]の[CITE[日本の暦日データベース]]は一方 (新しい方) のみ記載しています。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[FIG(table)[
:西暦: [[西暦]]
:時期: 時期
:平氏: [[平氏]]
:京都: [[京都]]
:源氏: 関東
:備考: 備考
:西暦: 1181年
:平氏: 治承5年
:京都: 治承5年
:源氏: 治承5年
:西暦: 1181年
:時期: 治承5年7月14日
:平氏: 養和元年
:京都: 養和元年
:源氏: 治承5年
:備考: [[養和]]に[[改元]]
:西暦: 1182年
:平氏: 養和2年
:京都: 養和2年
:源氏: 治承6年
:西暦: 1182年
:時期: 養和2年5月27日
:平氏: 寿永元年
:京都: 寿永元年
:源氏: 治承6年
:備考: [[寿永]]に[[改元]]、
寿永2年7月[[平家]][[都落ち]]・[[源義仲]]入京
:西暦: 1183年
:平氏: 寿永2年
:京都: 寿永2年
:源氏: 治承7年
:西暦: 1183年
:時期: 寿永2年10月14日
:平氏: 寿永2年
:京都: 寿永2年
:源氏: 寿永2年
:備考: [[寿永二年十月宣旨]]
:西暦: 1184年
:平氏: 寿永3年
:京都: 寿永3年
:源氏: 寿永3年
:西暦: 1184年
:時期: 寿永3年4月16日
:平氏: 寿永3年
:京都: 元暦元年
:源氏: 元暦元年
:備考: [[元暦]]に[[改元]]
:西暦: 1185年
:平氏: 寿永4年
:京都: 元暦2年
:源氏: 元暦2年
:西暦: 1185年
:時期: 元暦2年3月24日
:平氏: 寿永4年
:京都: 元暦2年
:源氏: 元暦2年
:備考: [[壇ノ浦の戦い]]で[[平家]]敗退
:西暦: 1185年
:平氏: 元暦2年
:京都: 元暦2年
:源氏: 元暦2年
:西暦: 1185年
:時期: 元暦2年8月14日
:平氏: 文治元年
:京都: 文治元年
:源氏: 文治元年
:備考: [[文治]]に[[改元]]
]FIG]
[121] [[Wikipedia]] は治承5年7月14日
([[ユリウス暦]]1181年8月25日) に[[治承]]から[[養和]]に[[改元]]したとしています。
[122] 一方で、[[源氏]]は[[元暦]]の[[改元]] (寿永3年4月16日/[[ユリウス暦]]1184年5月27日) まで[[平氏]]政権の[[元号]]
([[養和]]、[[寿永]]) を使わなかったとしています。
[148] 寿永2年10月14日の[[宣旨]]を期に[[源氏]]も[[寿永]]を使うようになったともあります
[SRC[>>146]]。
[123] [[平氏]]も[[元暦]]の[[改元]]を無視し、元暦2年(寿永4年、1185年)の壇ノ浦の戦いまで[[寿永]]を使ったとしています。
[[寿永]]の項には[[文治]]に[[改元]]したのも無視したとありますが [SRC[>>146]]、
[[改元]]は[[壇ノ浦の戦い]]より後です。誤記か、残党が使っていたのでしょうか。
[53]
[[源頼朝]]が[[寿永]]を使うのは2年以降でした。
[SRC[>>13 (平泉澄 1917)]]
[54]
動乱のため関東に改元の詔書が届かなかったため
[SRC[>>13 普及版 p.349 (>>55)]]、
あるいは国衙を通じた地方への情報伝達が機能不全を起こしたため
[SRC[>>13 普及版 p.349]] とする説もあります。
[205] なお、地方勢力が旧[[元号]]を使い続ける例は他にもありますが、
南北朝期と本期間が特別に両[[元号]]を列挙される (ことがある) のは、
[[天皇]]が同時に在位していたという特殊性によるものでしょうか。
[375] この時期の前後には、[[私年号]]として[[保寿]]、[[和勝]]、[[迎雲]]といったものが使われていました
[SRC[>>373]]。
[REFS[
- [55] [CITE@ja[[[元号と武家]]]]
-- [56]
北爪真[ASIS[知]]夫 [SRC[>>13 普及版 p.349]] とするのは誤り。
- [146] [CITE@ja[寿永 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-11 20:42:41 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8>
- [147] [CITE@ja[寿永二年十月宣旨 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-11 20:43:26 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BF%E6%B0%B8%E4%BA%8C%E5%B9%B4%E5%8D%81%E6%9C%88%E5%AE%A3%E6%97%A8>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[373] [CITE@ja[[[迎雲]](げいうん)とは - コトバンク]]
([[,世界大百科事典内言及]] 著, [TIME[2016-01-23 22:33:14 +09:00]] 版)
<https://kotobank.jp/word/%E8%BF%8E%E9%9B%B2-1308471>
]FIGCAPTION]
> まず1167年(仁安2)に当たる保寿の年号は,平清盛の全盛時,平氏と藤原氏の対立を背景に,藤原氏の息災を願う者の使用するところ,また90年(建久1)に当たる和勝・迎雲の年号は,ともに源平争乱の終結(和勝にはより明示的に源氏の勝利の含意がある)による平和の再来をことほぐ者の使用するところであって,いずれも個別特定の願意や祝意を,正年号を拒否する政治的態度をもって表明したもので,異年号のもつ基本的性格の一つを示している。 南北朝時代に入ると,1345年(興国6∥貞和1)能登に白鹿,駿河に応治の年号が現れ,いずれもそれぞれの地方における反北朝(南朝系)の人々の使用と考えられている。
]FIG]
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[149] [CITE[1987_2/解法のヒント]]
([TIME[2009-03-09 17:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.ab.auone-net.jp/~tsuka21/ronjutu/toudai/kakomon/kaisetu/kaisetu872.html>
]FIGCAPTION]
> 設問の要求は、朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元したにもかかわらず、報告書では治承の年号がそのまま使われていた理由。
> 問題文によれば、報告書は「建久8年(1197)に荘官が荘園領主ヘ提出した」ものであり、元暦元年(1184)以降、源頼朝が「北陸道にまで支配圏を伸ばし、所々に鎌倉から地頭を送りこんで」いる。ということは、報告書を送った荘官が御家人であるかどうかは明記されていないとはいえ、源頼朝の支配下にあることがわかるし(十月宣旨で東山・東海道の支配権を獲得した頼朝は源義仲滅亡(1184年)にともない北陸道の支配権もあわせて獲得していたことも想起しよう)、報告書のなかで使われている年号は源頼朝の支配地域においてその時々に使用されていた年号であるとも判断できる。つまり、「朝廷が治承5年に養和、翌年に寿永と改元した」当時に、越後国白河荘の現地でどのような年号が使用されていたのかについては、考慮する必要はない。
]FIG]
[241] [CITE@ja[志水426714〜🌿🇺🇦🕊さんはTwitterを使っています: 「#源希義由縁の地を辿る #源希義 没年考④-4 希義死去が「寿永元(1182)年」であるというのは、『#吾妻鏡』元暦2(1185)年3月27日 #琳猷上人 #源頼朝 に対面時の記事にある(一部加工) が、鎌倉方では「治承」の年号を7(1183)年まで使用([[北爪真佐夫]] 氏 ) …となれば、本来「治承六」と記すべきところ https://t.co/1vmS4w1dBq」 / [[Twitter]]]], [TIME[2022-04-21T04:55:49.000Z]], [TIME[2022-04-21T05:49:07.082Z]] <https://twitter.com/yoshitaka1197/status/1232983898117656576>
* 鎌倉時代
@@
* 南北朝期
[151] 中央政府が分裂した南北朝時代には、それぞれの[[元号]]が用いられました。
両勢力の複雑な争いにより、[[元号]]の廃止や復活もあって複雑になっています。
[SEE[ [[日本南北朝時代の日時]] ]]
* 室町時代の関東
[180]
[V[[CITE[駿河史料]] 九]]の図によると、
現在の[[日本国]][[静岡県]]の[[永豊寺]]の雲版に、
「[V[明徳五年[LINES[甲][戌]]八月吉日]]」
とあったとされます。
この雲版は現存しません。
明徳5年7月5日に[[応永]]に[[改元]]されましたから、
[[久保常晴]]は
「[V[以て当時の同所の僻地なる事を知る(『静岡県史󠄃料』第一輯)]]」
と書きました。
[SRC[>>288 [B[20]]]]
(この書き方で「僻地」という評価が久保のものか
[CITE[静岡県史料]]
のものか不明。)
[REFS[
- [288] [CITE[[V[雲版銘文󠄃集]]]],
[CITE[[[仏教考古学研究]]]], pp. [V[一三七]]-[V[一七八]]
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[74] [CITE@ja[足利持氏 - Wikipedia]]
([TIME[2015-10-25 22:18:38 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%8C%81%E6%B0%8F>
]FIGCAPTION]
> 元号が永享に改元されても前年号の正長を使い続け、本来ならば将軍が決定する鎌倉五山の住職を勝手に取り決めるなど、幕府と対立する姿勢を見せ始めた。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[75] [CITE@ja[永享の乱 - Wikipedia]]
([TIME[2015-10-25 22:20:51 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%BA%AB%E3%81%AE%E4%B9%B1>
]FIGCAPTION]
> 1429年に元号が正長から永享に改元されても持氏は正長の元号を用い続ける
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[76] [CITE@ja[県指定文化財・古文書:久喜市ホームページ]]
([[Kuki City]] 著, [TIME[2015-11-24 00:04:04 +09:00]] 版)
<https://www.city.kuki.lg.jp/miryoku/rekishi_bunkazai/kenshitei/komonjo.html>
]FIGCAPTION]
> 元号は幕府の主導により改元されて康正2年(1456)となっていますが、願文では改元をせずに享徳5年を使用していることから、成氏が幕府に強く反発していたことがうかがえます。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[189] [CITE@ja[足利成氏 - Wikipedia]]
([TIME[2015-12-12 01:03:19 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E6%88%90%E6%B0%8F>
]FIGCAPTION]
> 京都では享徳4年7月に康正、康正3年9月には長禄と立て続けに改元されたものの、成氏は「享徳」を使用し続けて、幕府に抵抗する意思を示す'''['''27''']''''''['''5''']''''''['''19''']''''''['''28''']'''。
> 成氏が用いた「享徳」年号も、享徳27年(文明10年)以降の記録はない。
]FIG]
** 明応
[131]
[[公年号]]の[[明応]]がありました。
それ以前に[[後南朝]]にも[[明応]]があったとされます。
[SEE[ [[明応]] ]]
** 足利義輝
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[77] [CITE@ja[足利義輝 - Wikipedia]]
([TIME[2015-11-12 09:54:27 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E5%88%A9%E7%BE%A9%E8%BC%9D>
]FIGCAPTION]
> 年号が永禄に改元された際、朽木谷にいた義輝は改元を知るのに3か月かかり、それまで古い年号の弘治を使用し続けることとなり、朝廷に抗議している。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[80] [CITE@ja[困窮する朝廷 : fumi1202のブログ]]
([TIME[2015-11-25 22:55:04 +09:00]] 版)
<http://blog.livedoor.jp/fumi1202/archives/7480476.html>
]FIGCAPTION]
> 改元の知らせは長慶の許にも届けられたようだが、朽木の足利義輝には知らされなかった。 これに対し義輝は激怒し、改元を無視して弘治の年号を使い続けたという。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[81] [CITE[気まぐれ日記: 堺幕府]]
([TIME[2015-11-25 22:56:41 +09:00]] 版)
<http://1103ab.blog.eonet.jp/default/2015/06/post-4652.html>
]FIGCAPTION]
> この堺幕府論は今谷明氏が、改元(大永→享禄)を無視した文書が存在することに注目して、公文書の発給状況を分析し、当時の室町幕府は崩壊状態にあり堺公方と呼ばれた堺の政権は事実上の堺幕府である、と提唱した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[82] [CITE@ja[堺公方 - Wikipedia]]
([TIME[2015-11-21 02:25:10 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%BA%E5%85%AC%E6%96%B9>
]FIGCAPTION]
> 8月、朝廷は大永8年を享禄元年に改めたが、この改元について近江の将軍とは協議しながら堺公方には相談がなかった。朝廷が将軍側ほどには堺公方側を信任していないことを示すものであり、義維の将軍任官も確実視できない。これに不満な堺公方側は、しばらくの間は発給文書に享禄年号を使用しなかった。
]FIG]
[240] [CITE[shirin_056_5_623.pdf]], [TIME[2021-09-06T06:47:16.000Z]], [TIME[2022-04-14T12:29:38.562Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/238154/1/shirin_056_5_623.pdf#page=55>
[237] [CITE@ja[今谷明著『室町幕府解体過程の研究』]], [TIME[2022-03-17T09:27:32.000Z]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/96/9/96_KJ00003674362/_article/-char/ja/>
[238] [CITE[HNkeizai0003301710.pdf]], [TIME[2022-04-14T12:18:31.000Z]] <https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/9279/HNkeizai0003301710.pdf#page=40>
[239] [CITE[ab40112880.pdf]], [TIME[2009-04-23T04:48:26.000Z]], [TIME[2022-04-14T12:25:14.639Z]] <https://www.agulin.aoyama.ac.jp/mmd/library01/BD81112880/Body/link/ab40112880.pdf>
* 中世私年号
[235] [DFN[日本の中世私年号]]の利用例の多くは[[東国]] ([[関東地方]])
の[[板碑]]で見つかっています。
[279] 日本中世の[[異年号]]:
- [[万喜]] : [[清和天皇]]時代か ([[偽文書元号]])
- [[高喜]] : [[清和天皇]]時代か ([[偽文書元号]])
- [[太政]] : [TIME[天慶3(940)年][940]] ([[説話]]内[[架空][架空の元号]]改元案)
- [[長本]] : 一説[TIME[長保元(999)年][999]] ([[説話]]内[[架空][架空の元号]]か)
- [[平安時代]]末期か [[[ASIS[〓][⿸厂友]]治]]
- [[泰平]] ([[改元デマ]])
- [TIME[寛元元(1243)年][1243]] [[すんくえん]] ([[寛元]]誤か)
,建教元,1225 ,元仁2
- [TIME[正嘉元(1257)年][1257]] [[正喜]] (追建)
- [[正元]]年間 [[正見]]
- [TIME[弘長元(1261)年][1261]] [[ほうちやう]] ([[弘長]]か)
,永福元,1297 ,永仁5
,正久元,1319 ,元応元
- [TIME[元亨元(1321)年][1321]] [[こんこう]] ([[元亨]]か)
- [TIME[正中元(1324)年][1324]] [[正仲]] (異表記)
- [[元永]]年間 [[元禾]] ([[異体字]])
,真賀元,1356 ,
- [[応安]]頃 [[文徳]]
- [TIME[永和元(1375)年][1375]] [[永門]] (追建)
- [[弘徳]] : [TIME[至徳元(1384)年][1384]]
- [[好徳]] : 14世紀後期
- [[元真]] : [[南北朝時代]]
- [[品暦]] : [[南北朝時代]]
- [[至大]] : [[南北朝時代]]
- [[永幻]] : [[南北朝時代]]末期
- [[明悳]] : [[明徳]] (異表記)
- [[乾徳]] : [[室町時代]]初期
- [[善吉]] : 一説[TIME[嘉吉元(1441)年][1441]] (異表記か)
- [[福安]] : [TIME[文安元(1444)年][1444]]
- [[享高]] : [TIME[享徳元(1452)年][1452]]
- [[魚鳥]] : 一説[TIME[享徳元(1452)年][1452]] ([[作中元号]])
- [[天承]] : 一説[[東山時代]] (私年号か不明)
- [[享正]] : [[室町時代]]
- [[延徳]] : [[室町時代]]
- [[永楽]] : [[室町時代]]
- [[応享]] : [[室町時代]]
- [[福寿]] : [[室町時代]]後期
- [[正亨]], [[正享]], [[正京]] : [[延徳]]頃
- [[福徳]] : [[延徳]]年間
- [[王徳]] : [[延徳]]-[[大永]]頃
- [[永伝]] : [TIME[延徳2(1490)年][1490]]
- [[明翁]] : 一説[TIME[明応元(1492)年][1492]] ([[私年号]]か不明)
- [[徳応]] : [TIME[文亀元(1501)年][1501]]
- [[文鬼]] : [TIME[文亀元(1501)年][1501]]
- [[子平]] : [TIME[文亀2(1502)年][1502]]
- [[永章]] : [TIME[永正元(1504)年][1504]] (旧説)
- [[徳昌]] : [[室町時代]]後期
- [[加平]] : [TIME[永正14(1517)年][1517]]
- [[永喜]] : [TIME[大永6(1526)年][1526]]
- [[宝寿]] : [[天文]]年間
- [TIME[弘治元(1555)年][1555]] [[弘洛]] (追建)
- [[室町時代]]頃 [[則吉]]
- [[室町時代]]頃 [[門守]]
- [[中世]]後期 [[立徳]]
- [[中世]] [[弥勒]], [[命禄]], [[令禄]]
-[[天正]]年間 [[光永]]
-[[天正]]年間 [[天王]]
- [[中世]]頃 [[しうくわん]]
- [[中世]]頃 [[ほうへ]]
- [[中世]]頃 [[門元]]
- [[中世]]頃 [[元喜]]
- [[中世]]頃 [[永延]] (私年号か不明)
- [[中世]]頃 [[清保]], [[清水]] ([[偽文書元号]])
- [[中世]]頃 [[法徳]] ([[偽文書元号]])
- [[永彭]] (誤認)
- [[徳寿]] (誤認)
- [[明翁]] (誤認か)
[2]
[[南北朝時代]]関係は[[日本南北朝時代の日時]]を参照。
-*-*-
[34] [[日本の私年号]]の研究は[[江戸時代]]に始まりました。
[[昭和時代]]に[[関東地方]]の[[板碑]]の網羅的な研究が進められたことで中世東国の私年号の性質が明確になりました。
[SRC[>>35]]
[[日本の私年号]]は他に[[古代のもの][日本古代の日時]]や近現代のものもあり、
西国でも若干数見つかっていますが、最も広く使われたとみられる中世東国のものが研究の中心となってきたようです。
[272]
近世、近代には、それらの[[年号]]を人々の願望の現れと理解し、
[[朝廷]]によって定められた[[公年号]]ではない、という程度の意味で[[私年号]]と呼んでいました。
[SRC[>>271]]
[274]
今では[[私年号]]という呼称が最も一般的ですが、
[[近代]]の文献ではむしろ[[異年号]]という方が多いようにも思われます。
[[私年号]]の語も元からありましたが、[[昭和時代]]に一般化し、
[CITE[日本私年号の研究]]によって決定的に優勢となりました。
[38] [[昭和時代]]初期、[[服部清道]]は[[板碑]]から[[私年号]]の実態を研究しました。
服部による[[私年号]]への理解 [SRC[>>37]] は当時の代表的な辞書である
[CITE[國史辭典]]
[WEAK[(四 pp. 756-758 [CSECTION[私年號]], [[日野一郎]])]]
にも反映されました。
[SRC[>>35]]
-*-*-
[39] [[昭和時代]]中期、
[[久保常晴]]は古代から近世までの[[日本の私年号]]について大量の史料を収集、検討し、
[[私年号]]の利用状況や時代背景などの総合的な研究を行いました。
従来若干の混乱が見られた[[私年号]]に関連する用語を整理し、
[[古代年号]]や中世の[[私年号]]の性格を明らかにしました。
久保の研究は[CITE[日本私年号の研究]]としてまとめられました。
[SRC[>>40]]
[CITE[日本私年号の研究]]はその後の若干の研究の進展によってやや古びているものの、
[[日本の私年号]]の「今日の研究水準を導き出す原動力」 [SRC[>>35]]
と高く評価されており、
現在でも[[日本の私年号]]をメインテーマとした唯一の研究書です。
[SEE[ [[久保常晴]] ]]
-*-*-
[49]
歴史研究者の[[佐藤進一]]は、
[[異年号]]は国家の正年号を否定する正確を持つと主張しました。
[SRC[>>60]]
-*-*-
[41] [[千々和到]]は、
関東に残る[[板碑]]を分析して[[私年号]]の利用状況を調査し、
中世[[私年号]]の性格や[[改元]]の伝達経路について考察しました。
[SRC[>>42]]
[[千々和到]]の研究は、発表数、頁数で見ると少ないですが、
重要な指摘が多く「高密度」で、
[CITE[日本私年号の研究]]以後の私年号研究の方向性を決定付けました。
[SEE[ [[千々和到]] ]]
[273]
千々和は、
一種の徳政願望であって、
災異改元による除災招福を求めたもので、
異年号の継続的な使用よりも改元されたという情報が重要だったとしました。
[SRC[>>13 普及版 p.343 (千々和 1990, 1995)]]
[275]
[[千々和到]]は[[板碑]]の研究で知られていますが、その専門性もあってか[[中世私年号]]を中心に考察しています。
[[平安時代]]や[[鎌倉時代]]の[[私年号]]の多くは使用例が少なく、
史料残存の偶然性よりも限られた僧侶などがまさに「私」年号として使ったのに対し、
[[室町時代]]以後はかなり広範囲に用いられ使用例も多いと指摘しています
[SRC[>>271]]。
;; [276] [[私年号]]の全体を連続した現象して捉えた[[久保常晴]]とは少し視点が違っています。
同じく[[板碑]]を専門分野としつつも[[古代]]から[[近世]]、はたまた[[ネパール]]まで幅広く取り扱う近代考古学者の[[久保常晴]]と、
学問分野の細分化が進み始めた[[昭和時代]]の研究者の[[千々和到]]との立ち位置の違いでもあるのかもしれません。
これは別に[[千々和到]]の視野が狭いということではなく、
用例数が多い = 広範囲に普及した[[私年号]]を少数例しかない[[私年号]]と区別するべきという[[千々和到]]の立てた研究方針によって[[千々和到]]や後続研究者は新たな視点からの成果を得られています。
[REFS[
- [271] [CITE[[[中世東国の「私年号」]]]]
]REFS]
-*-*-
[61]
[[勝俣鎮夫]]は、
[[東国]]で[[戦国時代]]に広まった[[私年号]]を「[DFN[地域年号]]」
と呼びました。
[SRC[>>60]]
[51]
[CITE[日本年号史大事典]]は、
こうした中世の
「公年号の存在を前提としつつ、それと異なる年号を用いる例」
とその研究を踏まえ、
「「私年号」と呼ばれるものが、中央の「公年号」
への対抗への意思などから作成・利用されたものではなく、
何らかの理由による改元情報の誤伝達などにより発生したものであることを物語る。」、
「それほど強い独立への志向はなく、
何らかの事情で伝わった京都での改元の結果が伝えられたものと理解していた可能性が高く、
誤りが判明すると、すぐにそれらは打ち捨てられている。」
としました。
[SRC[>>13 普及版 p.341, p.343]]
[174]
その後、
[[前川清一]]の研究により、
従来[[関東]]中心と考えられてきた[[私年号]]が[[九州]]でも次々に発見されました。
[SRC[>>13 普及版 p.343 (前川清一 1982)]]
[SEE[ [[前川清一]] ]]
[[関東]]ほどではないにせよ、広い地域と時代にわたって出現することが想定され、
しかも[[関東]]との共通性と相違点が共に観察され、
私年号研究に一石を投じることとなりました。
[46]
また[[幕末]]や[[第二次世界大戦]]の[[終戦]]後に[[私年号]]が発生したことも次々に判明しています
([SEE[ [[幕末維新期の日時]]、[[昭和時代の日時]]、[[永長]] ]])。
こうした他の混乱期の[[私年号]]や[[改元デマ]]とも比較検討することで、
中世の[[私年号]]への理解もいっそう深まることが期待されます。
[REFS[
[FIG(quote)[ [36] [CITE[國史大辭典]], [TIME[明治41年7月][1908-07]]初版, [TIME[大正元年12月][1912-12]]増訂縮刷版, p.1975 [CSECTION[[RUBY[年號][ネンガウ]]]] [SRC[>>35]]
>
朝廷に於て年号を定められたる以後も、
民間往々にして、
私に年号を称するものあり、
異年号、
また私年号 (シネンガウ)
と世に称するものこれなり
]FIG]
[FIG(quote)[ [37] [CITE[板碑概説]], [[鳥居龍蔵]]序, [[服部清道]]著, [TIME[昭和47年11月][1972-11]]初版, [TIME[昭和53年6月][1978-06]]再版 [SRC[>>35]]
第二編 [CSECTION[各論]] 第四章 [CSECTION[特殊研究]] 第五節 [CSECTION[板碑に現はれたる私年号]] pp. 559-574
pp. 559-560
> 私年号は逸年号・異年号・偽年号などとも称し、
民間に於いて私に制したる年号にして、
其の多くは神社・仏寺関係の後を用ひ、
その文字甚だ拙なりとは一般の批判である
> 板碑に於ける私年号は多く足利時代のものに現はれ、
就中福徳のもの最も多く、
鎌倉・南北朝時代に於いても私年号に近きもの一二の例を見うけられる
初出は[CITE[板碑概説]], [[鳥居龍蔵]]序, [[服部清道]]著, [TIME[昭和8年9月][1933-09]]。
]FIG]
- [79] [CITE[我が国の私年号に関する研究 口]]
([TIME[2014-04-24 01:37:43 +09:00]] 版)
<http://repository.ris.ac.jp/dspace/bitstream/11266/2900/1/KJ00000189425.pdf>
- [40] [CITE[日本私年号の研究]]
-- [107] [CSECTION[[V[本論]]]]
--- [106] [CSECTION[[V[第六章 江戸時代以降の私年号]]]]
- [42] [CITE[板碑とその時代―てぢかな文化財 みぢかな中世―]]
- [44]
[CITE[板碑の総合研究 2 地域編]],
[[板詰秀一]]編,
[TIME[1983年11月][1983-11]],
pp. 126-143
の
3 [CSECTION[関東地方]], 6 [CSECTION[東京都]], [[比留間博]], p. 1131
に、
[[福徳]]、[[弥勒]]、[[命禄]]の板碑は西多摩に特に集中しており、
久保の甲斐発祥説に有利である、
とあります [SRC[>>35]]。
- [236] 美禄 = 弥勒? <http://www.chibanippo.co.jp/news-box/2001/5-16/chiiki.html>
- [35]
[CITE[「私年号」とは何か]],
[[小山田和夫]],
[CITE[歴史読本]] [TIME[2008年1月][2008-01]]号 特集 日本の年号, pp.114-122
;; [43] >>35 には自治体の文化財調査報告書などにみえる私年号板碑のリストが掲載されています。
- [60]
[CITE[「亀光元年」を彫る墓石に関する調査報告]] ([TIME[2017-08-31 14:45:43 +09:00]]) <https://www.city.koga.fukuoka.jp/uploads/files/somu/222.pdf#page=6>
]REFS]
[176] [[日本私年号一覧表]]
[48] [CITE@ja[ADEAC(アデアック):デジタルアーカイブシステム]]
宮代町史 通史編第二編 中世第四章 中世の寺社と信仰第四節 石造供養塔の造立
コラム 板碑に刻まれた私年号
([TIME[2019-06-24 18:43:10 +09:00]]) <https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1144205100/1144205100100010/ht200510>
-*-*-
[259]
[CITE@ja-JP[信濃 '''['''第3次''']''' 49(12)(575)]], [[信濃史学会]], [TIME[1997-12]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:25:20.525Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6070057/1/19> (要登録)
[261] [CITE@ja-JP[板碑概説]], [[服部清五郎]], [TIME[1933]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:30:42.256Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918330/1/383> (要登録)
[262] [CITE@ja-JP[栃木史学 = The Tochigi journal of Japanese history (2)]], [[国学院大学栃木短期大学史学会]], [TIME[1988-03]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:32:40.997Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4424952/1/83> (要登録)
[263] [CITE@ja-JP[小山市史 通史編 1 (自然.原始・古代.中世) 本編]], [[小山市史編さん委員会]], [TIME[1984]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:34:30.385Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9643282/1/443> (要登録)
[264] [CITE@ja-JP[武蔵国板碑集録 : 板碑発生最密集地域精査 第2 (旧比企郡)]], [[千々和実]], [TIME[1968]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T04:55:39.655Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2998370/1/46> (要登録)
[265]
[CITE@ja-JP[東京都文化財調査報告書 第2]], [[東京都教育委員会]], [TIME[1955]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-25T12:07:14.570Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2515336/1/22> (要登録)
[175] [CITE@ja-JP[研究紀要 (1)]], [[埼玉県立歴史資料館]], [TIME[1979-03]], [TIME[2023-01-06T06:14:39.000Z]], [TIME[2023-01-08T03:43:45.496Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/7952158/1/68> (要登録)
[19] 雑誌 [CITE[浦和]] ([[さいたま市図書館]]に所蔵されている)
- [27] [CITE[[[浦和]] No88]], [TIME[1976-08]]
-- [45] [CSECTION[浦和遺文29「私年号板碑」]], p11
- [21] [CITE[[[浦和]] No.123]], [TIME[1979-07]]
-- [22] [CSECTION[やさしい浦和の歴史19「中世の浦和」室町時代5(私年号-弥勒と福徳,沼影広田寺]], ppp48-49
-*-*-
- [116] [CITE[埼玉史談]] 13(2)
-- [117] [DFN[[CITE[[V[県内における私年号板碑]]]]]],
[[[V[中英夫]]]],
pp.[V[二四]]-[V[二六]]
[118] >>117 は筆者手持ち資料に基づく[[私年号]][[板碑]]の一覧表。
[[久保常晴]]の[[論文]]を参照しているものの、
[CITE[日本私年号の研究]]より前の時代。
[CITE[日本私年号の研究]]未掲載の用例が含まれます。
- [119] (1) [[元悳]]元年十月廿三日 (1329) 比企郡菅谷村志賀 宝城寺
- [120] (2) 元得三年四月日 (1331) 比企郡菅谷村平沢 平沢寺
- [124] (3) 致得元年甲子正月五日 (1384) 北足立郡新座町片山 未調査
- [125] (4) 福徳□ 比企郡菅谷村遠山 遠山寺
- [126] (5) 福徳元年辛亥八月時正 (1491) 川口市 善光寺 未調査
- [127] (6) 福徳二年八月日 (1491) 川口市 善光寺 未調査
- [128] (7) 福徳二年三月十六日 (1491) 浦和市内谷 旧普門寺墓地 未調査
- [129] (8) 福徳二年 (1491) 大宮市奈良町 観音堂(宝性寺)
- [130] (9) 福徳三年辛亥十月十六日 (1491-3) 川口市前川 観福寺 未調査
- [132] (10) [[永章]]□年十月三日 ([V[元年は一五〇四]]) 川口市神根 源長寺 未調査
- [133] (11) 弥勒二年丁卯三月三日 (1507) 川口市安行領家 宇田川氏 未調査
- [134] (12) 弥勒二年丁卯正月二十六日 (1507) 浦和市三室山崎 宝蔵院(現・玉蔵院保存)
- [135] (13) 命禄三年壬刀正月廿三日 (1542) 北葛飾郡松伏村築比地 栄光院 未調査
- [136] (14) [[享正]]三丙子四月廿四日 比企郡玉川町一ト市 高山氏墓地
- [137] (15) [[享正]]四年四月十三日 入間郡坂戸町大家 大戸氏 未調査
[138] >>117 の推測:
- [140] (3) は[[至徳]]といわれている、[[干支]]と[[音通]]
;; [187]
同じ著者の
[CITE[[[「永章」の私年号板碑について]]]]
に続報があります。
- [142] [CITE[[L[石川れきはく]] No.42]],
[[[L[石川県立歴史博物館]]]],
[L[1997.1.25]]
-- [143]
[CITE[[L[私年号の新資料「永佳」]]]],
[[[L[戸澗幹夫]]]],
p.[L[6]]
[144]
>>143 によると[TIME[平成9(1997)年][1997]]当時に[[石川県]]域で発見されていた[[私年号]]
(「異字年号」を含む。) は12種25例で、そのほとんどは[[江戸時代]]とのこと。
しかし具体的にどれかは示されていません。
当時発見されていたはずのものを探すと:
- [154] [[白鹿]] : [[得江文書]] [[南北朝時代]]
- [158] [[法徳]] : 複数文書 (どうカウントされたか不明)
- [155] [[□徳]] : [CSECTION[故墟考]]所収文書 (どうカウントされたか不明)
- [157] [[清徳]] : [CITE[能登日暦]]所収文書 (当時刊行済だがカウントされたか不明)
- [164] [[慶喜]] : [[上梶家文書]]5点 [[江戸時代]] (どうカウントされたか不明)
- [165] [[慶喜]] : [[珠洲市]] 延武文書 [[江戸時代]]
- [166] [[慶喜]] : [[珠洲市]] 尾間谷文書 [[江戸時代]]
- [168] [[慶喜]] : [CITE[能登国古文書]]所収文書 [[江戸時代]]
- [169] [[慶喜]] : [[内浦町]] 山下家文書 [[江戸時代]]
- [170] [[永長]] : [CITE[永長元丁酉暦]] [[江戸時代]] (発見済か不明)
- [171] [[永長]] : 加賀商人文書 [[江戸時代]] (発見済か不明)
- [153] [[久宝]] : [[七尾市]] [[絵馬]] [[江戸時代]]
- [152] [[永佳]] : [[七尾市]] [[絵馬]] [[江戸時代]]
- [178] [[征露]] : 池田周三家文書 [[明治時代]] (平成8年までに報告、カウントされたか不明)
-- [179] [[征露]]用例は他にもあるが当時未発見か
- [172] [[霊寿]] : [[金沢市]] [[璽宇教]] [[昭和時代]] (カウントされたか不明)
[182] 以上、□徳を除くと9種類。あとの3つは何か。
[185] [[石川県]]は[[関東]]を除くと[[私年号]]発見数最大級ではないでしょうか。
[[私年号]]が多く使われた理由があるのか、それとも多く見つかる理由があるのか。
しかし発見数が多いからといって研究が進んでいるわけではないのは残念。
[186] [[能登]]が多いですが、[[加賀]]にもあります。ところで[[富山県]]域では報告がないのが気になります。
[[近世]]の[[越中]]の大部分は[[加賀藩]]領、[[富山市]]付近はその[[支藩]]の[[富山藩]]領でした。
-*-*-
- [188] [CITE@ja-JP[日本史研究 (190);1978・6]], [[日本史研究会]], [TIME[1978-06]], [TIME[2024-01-05T08:01:52.000Z]], [TIME[2024-01-06T06:08:55.278Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/13000561/1/29> (要登録)
-- [194]
[CITE[[[[V[元号問題雑感[BR[]][WEAK(smaller)[―朝鮮人・戸籍・憲法そして日本史研究会―]]]]]]]],
[[[V[田中真人]]]]
[195]
>>194
筆者は[[極左活動家]]で[[元号廃止]]を求めている。
[[元号]]に反対する理由に[[私年号]]の「伝統」が使われている。
[196]
その時代、当時の[[私年号研究]]の成果を曲解して[[元号廃止]]の主張に組み込んだり、
そこまでしなくても[[公年号]]を相対化して[[元号]]や[[日本政府]]に批判的な政治的・思想的主張の論拠の1つに使ったりする人達が出現していた。
[197]
そうした「曲解」はもとより妄想部分が多くて学術的価値はないし、
今ではそのベースになっていた[[私年号研究]]の描く中世像も研究の進展で様子が変わってきていて、
当該政治的・思想的主張の拠り所にはならない。
[198]
イデオロギーの曇った目で見た「歴史」を主張の根拠にしてはならないというのは、
そういう主張の人達が反対していたのであろう戦前の[[皇国史観]]と同じ轍を踏んでいるのであって、
どちらも歴史学の成果を濫用して社会を混乱させた[[黒歴史]]として学界は大いに反省しなければならないだろう。
特に戦後史学の濫用は、[[皇国史観]]の反省のはずの暴走だから余計にたちが悪い。
[201]
[[昭和時代]]の[[日本国]][[奈良県]]の歴史研究者[RUBYB[[[田村吉永]]][[TIME[1893]]-[TIME[1977]]]]は、
昭和47年に当時知られていた[[奈良県]]域の[[私年号]]をまとめて発表しました。
[SRC[>>200]]
[203]
いずれも寺社関係であることから、
神社仏閣等が縁起を担いでつけた[[年号]]と推測しました。
[SRC[>>200]]
[SEE[ [[永宝]], [[歓喜]], [[建教]], [[保寿]], [[弘徳]] ]]
([[法興]], [[迎雲]]にも簡単に言及。)
[202]
特に[[永宝]],
[[歓喜]],
[[法興]],
[[迎雲]]が[[法隆寺]]に関係していることに注目しています。
[REFS[
- [199] [CITE[[[近畿文化]] (277)]],
[TIME[昭和47(1972)年12月][1972-12]]
-- [200]
[DFN[[CITE[[V[大和の私年号]]]]]],
[[[V[田村吉永]]]],
p.[L[3]]
]REFS]
[208]
[[昭和時代]]の歴史研究者[[浅沼徳久]]は、
当時知られていた[[下野]]の[[私年号]]用例を
- [209] [V[第一類]] : [[下野]]において、または[[下野]]の人が記録したもの
([[延徳]]、[[福徳]]のすべてが[[日光山]]所蔵)
[SEE[ [[延徳]], [[福徳]], [[弥勒]], [[永喜]], [[命禄]] ]]
- [210] [V[第二類]] : そうだと立証できないもの (すべて[[日光山]]所蔵)
[SEE[ [[真賀]], [[福徳]], [[王徳]], [[命禄]] ]]
に分類しました。第2類の多くは[[日光輪王寺]]慈眼堂収納で関東各地から集められたと考えられるものが多く、
[[下野]]での用例かどうかにわかには立証できないものです。
[SRC[>>207]]
[211]
このうち第1類の[[延徳]]、[[福徳]]は、同時期に[[日光山]]で[[公年号]]を使用した史料が見当たらず、
むしろ最大行事の記録や事実上の別当が[[私年号]]が使っていることから、
一山全体が[[私年号]]のみを使っていたと考えられます。
[SRC[>>207]]
[212]
[[延徳]]は[[足利成氏]]と関係するという先行研究
(おそらく[CITE[日本私年号の研究]]などのこと)
を踏襲して公年号同様の儒教的発想があり、政治的対立によるとします。
一方[[福徳]]以後は仏説的な現世利益希求だとします。
後者は天災、飢饉、兵乱などに続いて発生し、解消すると使われなくなるとします。
特に[[弥勒]]や[[永喜]]は孤例で[[日光山]]の他の記録では[[公年号]]なので、
伝播による偶発的知識による使用だとします。
よって[[日光山]]は[[足利成氏]]の時代には[[私年号]]を使用し、
死後は使用しなくなったと結論付けています。
[SRC[>>207]]
[REFS[
- [204] [CITE[[[古文書研究]] 第12号]],
[TIME[昭和53(1978)年10月][1978-10]]
-- [206] [CSECTION[[V[日本古文書学会第十回学術大会発表要旨]]]]
--- [207] [DFN[[CITE[[V[室町時代における日光山の私年号使用[BR[]][WEAK(smaller)[⸺下野に現存する私年号資料の紹介をかねて⸺]]]]]]]],
[[[V[浅沼徳久]]]],
pp.[V[一四〇]]-[V[一四一]]
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[214]
[CITE@ja[富士見と富士見坂(2)の2 太田道灌の城のコスモロジー(後半) | 今日も日暮里富士見坂 / Nippori Fujimizaka day by day]],
[[yokout]],
2014.03.11,
[TIME[2024-01-07T08:11:49.000Z]] <https://fujimizaka.wordpress.com/2014/03/11/fujimi_fujimizaka2-2/>
]FIGCAPTION]
>また、注目すべきは、集翁興徳以外には北方面の風景を描く者のないことである。関東平野の北域には、関東随一の霊山である日光山が見えたはずであるが、これについてはどの作者も触れようとはしない。日光は、男体山頂上を中心に平安後期を中心とした大祭祀遺跡が存在し(註69)、山岳信仰の霊場として屹立するが、この当時は、太田道灌の扇谷上杉氏側と敵対する古河公方の庇護者となっており、宗教的権威を背景に、古河公方を中心にして関東に通用する「延徳」「福徳」などの異年号をつくっていたともいわれる。(註70)したがって、太田道灌の城と町を祝福する詩の中には日光山は登場しないというふうに理解することができる。
>註70 久保常晴「足利成氏勢力圏の私年号―享正と延徳―」『日本私年号の研究』吉川弘文館 1967、浅沼徳久「室町時代における日光山の私年号使用―下野に現存する私年号資料の紹介をかねて―」日本古文書学会『古文書研究』第12号 1978、網野善彦『東と西の語る日本の歴史』そしえて文庫7 そしえて 1982、森浩一 網野善彦『日本史への挑戦 「関東学」の創造をめざして』大巧社 2000 における網野の発言
]FIG]
[215] 示された文献4つのうち最初の2つは[[日光山]]が[[私年号]]を作っていたとはいっていない。
ということはまた[[網野善彦]]?
-*-*-
[218]
[[平成時代]]の歴史研究者[[佐々木茂]]は、
[[私年号]]の[[延徳]]が[[東北地方]]で使われていたことを初めて指摘しました。
しかも[[鎌倉]]の[[鶴岡八幡宮]]の[[延徳]][[改元]]記事とほぼ同時期であることから、
従来説の[[巡礼者]]
[SRC[[CITE[中世私年号と板碑―私年号伝播者および足利成氏との関係を中心に―]], [[浅沼徳久]], [TIME[1977]]]]
のような悠長なメディアではなく、
[[私年号]]を迅速に伝える情報網が東北日本全域に張り巡らされていたことを想定するべきだとしました。
[SRC[>>217]]
[SEE[ [[延徳]] ]]
[219]
[[佐々木茂]]は、
[[東北地方]]と[[私年号]]はあまり結びつかない印象があるが、
正しくないと指摘しました。
[CITE[日本私年号の研究]]で[[東北地方]]の[[福徳]]、[[弥勒]]、[[永喜]]の用例が紹介されているにも関わらず、
その後[[東北地方]]の[[私年号]]はほとんど紹介されていませんでした。
しかし自治体史等で容易に閲覧できる史料が増えた結果、
新たな[[私年号]]史料が見出されるようになりました。
[[千々和到]]が[[永喜]]の史料を紹介したり、
[[佐々木茂]]が[[延徳]]の史料を紹介したりしました。
[SRC[>>217]]
[220]
[[佐々木茂]]は、
[[私年号]]発見地を結ぶ情報網を明らかにするには材料が少なすぎて生産的ではないとしながらも、
共通性を見出し情報伝達ルートを探る試みは (困難だが) 無意味ではないだろうとし、
思考を巡らせています。明瞭な結論はやはり得られていないものの、
掻い摘んで紹介すると、
- [221] [[私年号]]の伝わった場所は「宗教的」「呪術的」性格が指摘されてきた。
-- [225] 巡礼者の伝達への関与説
[SRC[[CITE[中世私年号と板碑―私年号伝播者および足利成氏との関係を中心に―]], [[浅沼徳久]], [TIME[1977]]]]
-- [228] [[私年号]]は宗教的かつ呪術的とする説
[SRC[[CITE[戦国期の私年号について「福徳」「弥勒」「[ASIS[命録]]」を中心に]], [[渡辺恵美子]]]]
-- [229] [[東北地方]]の[[延徳]]や[[福徳]]の用例も確かにそう
-- [230] 一方宗教的でないものも。
弥勒2年の[CITE[岩城親隆書状]] (土地関係)、
命禄の[[武田信虎]]文書。
寺社のみならず武家も[[私年号]]を使っていた。
- [231]
[[福徳]]が記録された[[甲斐]]の[CITE[妙法寺記]]と[[福島]]の[CITE[会津塔寺八幡宮長帳]] [SEE[ [[延徳]] ]]。
どちらも商業や流通への関心が窺える記事がある。
[[妙法寺]]も[[塔寺]]も交通路上に位置している。
と指摘しています。
[SRC[>>217]]
[232]
そして[[私年号]]を「宗教的」「呪術的」など特殊な[[元号]]と捉えてきた従来説に与せず、
「[V[特殊な年号であると考えていない]]」、関東以北で
「[V[公年号のほうがむしろ特殊]]」
な状況が存在した可能性を示唆します。
- [233] [[福島県]]域の史料を広く収集した[CITE[福島県史]]で、
私年号の延徳2年に相当する寛正3年表記の古文書はほとんどありません。
-- [234] 寛正3年9月8日 [CITE[乗々院御坊御教書]]2通
-- [250] 寛正3年9月24日 [CITE[熊野総検校等連署下知状]]