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歴史的に[DFN[改元の期日]]にはこれといった決まりはなく、
その時々の政治的指導者が適切と考える時期に、
その時代に最適と思われるスケジュールで[[改元手続き]]が進められてきました。
[358] 従って[[改元]]がいつ行われた (と解釈する) かの処理は、
かなり複雑で込み入った問題のようです。
[187]
[[現代日本]]人にとってはある日、ある瞬間に旧元号から新元号に変更されるという意識が強いようで、
事務処理上もある日がどの元号だったのか自動的に決まる方が便利なのであります。
ところが実際には旧元号と新元号の期間は互いに重なり合っているのであって、
[[改元日]]の含まれる[[年]]のはじめから[[無限]]の未来まで、
グラデーション状に移り変わるとでもいうべきものです。
[SEE[ 改元一般は[[改元]]、手続きは[[改元手続き]] ]]
* 改元の段階
[210] [[改元]]実施の時期に関する議論にはいくつかの要素があって混乱しやすく注意が必要です。
- [6001] ㋑ 改元事由発生の日時
- [6002] ㋺ 新元号の制定の日時
- [6003] ㋩ 新元号の発表の日時
- [6004] ㋥ 新元号の利用開始の日時
- [6005] ㋭ 新元号の対象となる最速の日時
[213] 改元事由発生㋑は主として[[代始改元]]・[[称元]]に関係します。
先代の年号から今代の年号に切り替えるに当たり、
先代の退位の年から新年号とするか、
その翌年を新年号とするか、
2つに大別できます。
[SEE[ 改元事由については[[改元]] ]]
[211] 制定㋺、発表㋩、利用開始㋥については、
日時制度、法制度、交通・通信と情報技術の発達に伴い、
互いに明確な区別が求められるようになり、
しかも利用開始㋥の精密化・同時化が進みました。
伝統と革新、利便性といったそれぞれの思惑で現在でもいろいろな議論があります。
利用開始㋥は厳密には法令の施行、書類やシステムの更新など段階を分けることができ、
議論はいくらでも複雑になります。
なお[[即位紀年]]に㋺㋩はありません。
[214] 対象日時㋭については利用開始㋥と同時とするのが直感的には自然でありますが、
改元は年の呼称が改められるのだから年始に遡及するという説が古くから唱えられていました。
代替わり㋑とそれ以後の手続きの時間的配置の問題とも影響してきます。
近現代に至っても、
制定㋺が利用開始㋥の日の途中だったときどう理解するべきか、
代替わり㋑と改元が一致しなければならないのではないかという議論があります。
利用開始㋥は「施行」と呼ばれますが、
対象日時㋭も「遡って施行」のように呼ばれるため混乱の元となっています。
-*-*-
[318]
改元時期について、次のような用語がありますが、
定義が曖昧で、同じ語でも人によって違うものを指していることがあります。
対になっているような語でも、意味が対になっていないこともあります。
誤用から生じたとみられる語もあります。
(詳しくは >>10):
[DFN[即時改元]]
[DFN[即日改元]]
[DFN[践祚同年同日改元]]
[DFN[践祚同日改元]]
[DFN[即位同時改元]]
[DFN[翌日改元]]
[DFN[踰日改元]]
[DFN[踰月改元]]
[DFN[踰年改元]]
[DFN[越年改元]]
[DFN[翌年改元]]
[DFN[明年改元]]
[DFN[次年改元]]
[DFN[踰年正月改元]]
[DFN[践祚踰年改元]]
[DFN[立年改元]]
[DFN[当年改元]]
[DFN[立年即日改元]]
[DFN[立年踰日改元]]
[319] 誤解を防ぐため、こうした語は'''できるだけ避け'''、
何から何までの時期か説明的に記述するべきです。
[235] 説明的に時期を表す言葉にも混乱の要素があります。
「即位翌年の改元」が、
「即位翌年年始の改元」を表す場合と「即位翌年中の改元」を表す場合があり得ます
(「即位よりも後の年のいつかの改元」を表す場合すらあります)。
「即位」の時点も、
先帝崩御、
皇位継承発生、
[[践祚]]儀式、
[[即位]]儀式、
皇位継承の発生した日全体 (のいずれかの時点)、
皇位継承の一連の行事全体 (のいずれかの時点)
のどれを指す場合もあり得ます。
冗長になってしまいますが、記述したい対象を正確に説明する他ありません。
* 代始改元の時期
[17]
[[即位紀年]]や[[代始改元]]は、
代替わり㋑から改元㋺㋩㋥までの時期が問題となります。
改元によって先代の最終年を途中で終わらせることを好ましくないとしたり、
逆に元号と在位時期が完全に一致することを好ましいとしたり、
いろいろな考え方があります。
;; [18] [[代始改元]]以外の理由の[[改元]]は、
おおむね改元事由㋑が生じ次第すぐに実施する趣旨のものですから、
あまり問題とされることはありません。
[19] 先代退位、[[称制]]・[[摂政]]、[[践祚]]、[[即位]]といった時代と地域によって異なり複雑な代替わりの過程も話を複雑にしています。
[56] 次のように分類できます。
- [57] 代替わりのあった年のうちに新元号を実施する
- [58] 代替わりの翌年以後に新元号を実施する
-- [59] 代替わりの次の年に新元号を実施する
-- [60] 代替わりの次々年かそれ以後に新元号を実施する
- [61] 代替わりの改元を実施しない
[20] 代替わりのあった年を当日、翌日、翌月などと細分することもあります。
ただし改元の諸段階㋺㋩㋥㋭の議論が交わり複雑になっています。
[21] 翌年(以後)に実施することを[[踰年改元]]ということが多いようです。
翌年といっても時期は様々で、元日でないことのほうが多いです。
「[[踰年改元]]」という言葉も使う人によって少しずつ意味が違っています。
-*-*-
[11] [[改元]]の実施時期は長年明確な定めを欠いていました。
[[日本]]の旧[[皇室典範]]時代は[[即位]]後ただちに[[改元]]すると定めていました。
[SEE[ [[日本の元号法制]] ]]
[146] 現在の[[法令][日本の元号法制]]は[[即位]]後どのタイミングで[[改元]]するべきかを定めていません。
[CITE[元号法]]制定当時の[[国会]]では翌年の新[[元号]]実施の是非も議論されました。
[[日本政府]]はその可能性を排除せず、
実際[[平成改元]]では仮に[[皇位継承]]が[[年末]]なら翌[[年始]]から新[[元号]]とすることが[[政府]]内で密かに検討されたといわれています。
[[令和改元]]でも[[年始]]からの新[[元号]]実施を提案する人はいました。
現実には、どちらも新年を待たずに[[皇位継承]]に近いタイミングで[[改元]]されました。
-*-*-
[48]
[CITE[旧唐書]]によると、
[[唐]]の[[代始改元]]の19例中、
10例は「踰年正月改元」であって、
うち9例は正月、
うち5例は元日から新元号が使用開始されました。
[[漢]]から[[清]]の時代まで、
約100例、6割が「踰年正月改元」でした。
[SRC[>>49 普及版 p.16, p.23]]
㋑ - ㋥
;; [357] [CITE[Wikipedia]] の説 >>65
[50]
[[日本]]では、
[[奈良時代]]には7例中4例が[[祥瑞][祥瑞改元]]を伴う「践祚同年同日改元」、
3例が「踰年改元」でした。
[[平安時代]]、[RUBYB[[[弘仁]]改元][[TIME[810年][year:810]]]]以来
「踰年改元」が慣例となりました。
[RUBYB[[[明治改元]]][[TIME[1868年][year:1868]]]]まで、
7割近くが「踰年改元」でした。
ただし正月以外の実施例が多くありました。 [SRC[>>49 普及版 p.17]]
㋑ - ㋥
[51]
[CITE[日本後紀]]の[RUBYB[[[大同]]改元][[TIME[806年][year:805]]]]
([[践祚]]と同年) の記事は、
踰年せずの改元は1年に2君を持ち、
新帝が旧帝の年の残りを奪うことになるため非礼だ、
と批判しました。
次の[RUBYB[[[弘仁]]改元][[TIME[810年][year:810]]]]
([[践祚]]の翌年) でこれが主張されたと考えられています。
以後これが先例とされ、
[[平安時代]]中期の[CITE[新儀式]] (逸文) や[[平安時代]]末期の[[大外記]]の[[清原頼業]]
([CITE[玉葉]] 治承4年12月4日条)
も同年の改元は不吉で、翌年の改元が慣例だとしていました。
[SRC[>>49 普及版 p.18, p.23]]
[REFS[
- [49] [CITE[日本年号史大事典]]
]REFS]
-*-*-
[FIG(short list)[ [521] [[代始改元]]の時期
- [[西夏の元号]]
]FIG]
[522] [CITE@zh[晉書/卷028 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2022-01-28T05:16:01.000Z]], [TIME[2022-02-11T05:20:34.189Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%99%89%E6%9B%B8/%E5%8D%B7028>
* 改元日
[45]
[[改元]]の日、[DFN[改元日]]に言及されることは多いですが、
[[改元手続き]]のどのタイミングを指すかは自明ではありません。
[52]
[[日本の元号]]の[[改元]]の大多数は[[改元日]]に一応の定説があります。
複数説がある場合でも、
そのうちの1つが多くの[[一覧表の類][元号一覧]]で共通して採用されているようです。
[SEE[ [[日本の元号]]、[[元号一覧]] ]]
[72]
[[昭和]]までの[[日本の元号]]は[[詔書]]㋺に記入された日付、
[[平成]]以降は[[政令]]の[[施行]]の日
(理論上は㋥、実態は㋭) を[[改元日]]とみなすのが一般的なようです。
;; [SEE[ 具体的な日付は[[元号一覧]]のデータファイル ]]
[76]
ただし、[[流布されている一覧表の類][元号一覧]]の中には、
[[旧暦]]、[[グレゴリオ暦]]、[[ユリウス暦]]の[[換算][暦の換算]]に失敗したもの、
[[西暦]]への[[換算][暦の換算]]時に[[暦法]]による[[年始]]の違いの処理に失敗したものもあります。
[[西暦]]が[[グレゴリオ暦]]か[[ユリウス暦]]か明記されず一見しただけではわからないものもあります。
[SEE[ [[ユリウスグレゴリオ暦]] ]]
-*-*-
[97] [[日本の公年号][日本の元号]]のうち、唯一[[文中]]への[[改元]]だけ、
[[改元日]]に定説すらありません。
[77] [[一覧表の類][元号一覧]]は[[月]]までで[[日]]不明としており、
[[変換ソフトウェア][元号一覧]]は仮に月初を改元日として扱うのが主流のようです。
ただし西暦換算が原因の揺れが存在します。
[SEE[ [[日本の元号]]、[[元号一覧]] ]]
-*-*-
[265] [[日本の公年号][日本の元号]]のうち、
[[白雉]]と[[朱鳥]]は、
次の[[元号]]が定められずに使われなくなりました。
[78] 次の[[天皇]]の[[即位]]までが旧[[元号]]の期間とされていますが、
それを過ぎても旧[[元号]]が一部で使われた記録があります。
[79] 一覧表の類は無[[元号]]期間について[[天皇即位紀年]]によるもの、
空白期間と明記するもの、
明記しないが前後期間に含めないもの、
旧元号の期間に含めるもの、
架空の元号的なものを置いて代用させるものと対応が分かれています。
境界は前[[天皇]]の[[崩御]]の日とするもの、
新[[天皇]]の即位の日 (または前日) とするもの、
年末とするものがあります。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
-*-*-
[150]
[CITE[日本年号史大事典]]は[[改元]]の日のほか、
各手続きの日程も判明しているものは記載しています。
異説も掲載しています。
[SEE[ [[元号一覧]>>401] ]]
[153] 巻末一覧表は[[文応]]欄に誤植があります。
[154] [[平成]]について、本文、巻末とも[[政令]]の[TIME[1月7日][1989-01-07]]を改元日とし、
[[施行]]の[TIME[8日][1989-01-08]]は注記に示しています。
* 元号の期間
[491]
[[改元]]から始まり[[改元]]で終わる[[元号]]の[[期間]]は、
本項で挙げた通り諸説諸流儀があります。
実用上どう取り扱うのが良い (便利) でしょうか。
-*-*-
[492]
[[日]]単位で扱う場合、
[[改元日]]から[[改元日]]までを[[元号]]の[[期間]]とみなすのが、
[[現代日本]]の主流の扱い方と思われます。
[493]
[[日]]を更に細かく区分したり、
ある[[日]]が複数の[[元号]]に属すると考えるのは一般的でなく、
扱いにくいものです。
もちろん詳細に説明したいこともありますが、
基本となるべきはある[[日]]が1つの[[元号]]にだけ属するという簡単なモデルでしょう。
[494]
[[改元日]]は旧元号に属する日とも新元号に属する日とも解釈し得ますが、
どちらかを選ぶとなると新元号とするのが適切でしょう。
[[改元日]]とそれ以降の日は、
「当初旧元号の予定だったが新元号に変わった日」
という性質が共通しています。
[FIG[
- [495] 新元号開始日: 新元号が適用開始された最初の日。
- [496] 新元号開始日前日: 新元号開始日の前日。
]FIG]
[498] 適用開始の日が決定の日、発表の日と違うこともあるので注意。
-*-*-
[497]
[[年]]単位で扱う場合、
新旧元号を併記する場合もありますが、
都合上1つに決めたいこともあります。
その場合新元号に統一するのが優勢に見えますが、
旧元号に統一する場合もあり、
適宜選択するものというべきです。
[499]
新元号に統一する場合、
新元号の最初の日は[[年始]]に遡及します。
普通は[[改元日]]の属する[[年始]]ですが、
例外的に2年以降から始まる場合は前年以前に遡ります。
旧元号最終日はその前年末になります。
[FIG[
- [500] 新元号初年始: 新元号開始日の属する年の初日。
- [501] 新元号初年前日: 新元号初年始の前日。
]FIG]
[502]
旧元号に統一する場合、
旧元号の最終日は[[改元日]]の属する年末まで延長されます。
新元号の最初の日は[[改元日]]後の最初の年始まで遅延します。
[FIG[
- [503] 旧元号末年翌日: 旧元号末年末の翌日。
- [504] 旧元号末年末: 新元号開始日前日の属する年の末日。
]FIG]
[505] 新元号開始日が年始のとき注意。
[506]
ある元号の期間を年単位で決めたいとなると、
初年始から末年末までとするのが妥当でしょう。
前後の元号の期間を重複が生じ得ることに注意が必要です。
* 改元時期の特殊例
[94] [TIME[西暦749年][year:0749]]、
[[天平]]21年から[[天平感宝]]元年 ([TIME[4月14日][kyuureki:0749-04-14]])、
[[天平勝宝]]元年 ([TIME[7月2日][kyuureki:0749-07-02]])
と1年に2回[[改元]]されました。正式改元が2回あったのは日本史上この年だけです。
[35] 一覧表の類で[[天平感宝]]が欠落していることがあります。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
-*-*-
[151] [TIME[西暦781年][year:0781]]、
[TIME[宝亀12年正月1日に天応元年正月1日][kyuureki:0781-01-01]]に[[改元]]されました。
[[元日]]改元は日本史上このときだけです。
[331] 一覧表の類では宝亀12年を含めているものも省いているものもあるようです。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
-*-*-
[152]
[[延長]]元年への[[改元]]は[TIME[閏4月11日][kyuureki:0923-04'-11]]でした。
[[閏月]]の[[改元]]は日本史上このときだけです。
* 事前の準備
[85]
[[計算機システム]]など[[元号]]を扱う機構は、
[[改元]]がいつ発表㋩されいつ[[施行]]㋥㋭されるかまったく予期不能であることを想定し、
[[改元]]決定後可及的速やかにこれを実施できる備えが必要となります。
[SEE[ [[ロケールの更新]] ]]
一方で[[改元]]の実施によって即時すべての元号の表記を改めるべきとの考え方は存在してこなかった
(物理的にも存在できなかった) 歴史的事実を踏まえ、
[[計算機システム]]が即時新元号に改まらなかったとしても、
ただちにこれを不適切としない寛容性が今後も受け継がれることが望ましいといえます。
[144]
[[日本]]の[[代始改元]]のほとんどは皇位継承の翌年の改元でしたが、
[[践祚]]の翌年というだけで時期は様々でした。
[[改元]]されないこともありました。
[[即位]]により[[改元]]が予期されるものの、
[[改元日]]が大々的に事前発表されることはなく、
新元号決定後に徐々に[[施行]]されていきました。
全国各地への情報伝達の時間差に加え、
[[公家]]、[[武家]]それぞれの改元儀式の時間差などもありました。
[SEE[ [[改元手続き]] ]]
[62]
[[日本の元号]]のうち、
[[大正]]への[[改元]]、
[[昭和]]への[[改元]]は、
皇位継承と同じ日の改元でした。
新帝[[即位]]後ただちに[[改元]]の[[詔勅]]が[[公布]]され、
[[官報]]や[[新聞]]などの[[年号]]は[[詔勅]]の[[公布]]の後直ちに改められました。
[63]
[[平成への改元][平成改元]]は、
新帝[[即位]]後ただちに[[改元]]の[[政令]]が[[公布]]されましたが、
[[施行]]は翌日とされました。
[[昭和天皇]]の[[崩御]]による[[譲位で行われた改元][代始改元]]だったため、
直前の連日の深刻なご容態の発表を[[改元]]の予告と捉えることは可能でしたが、
[[改元]]の手続きやシステム変更などの準備を行っていると公言するのはとても憚られる状況でした。
[64]
[[令和への改元][令和改元]]は、
[[譲位]]であり[[改元]]される見込みであることが1年以上前に示されつつも、
直前まで法的措置はとられませんでした。
新[[元号]]は[TIME[1ヶ月前][2019-04-01]]に[[政令]]で[[公布]]されました。
あくまで今回限りのスケジュールであって恒久的制度ではありませんが、
今後の事前予告ありの[[改元]]は
1ヶ月前には発表されるとの前例になると期待したいところです。
[120] しかし[[令和改元]]では事前予告ありの[[改元]]ゆえの問題も指摘されました。
- [121] [[改元]]されることが発表された後肝心の[[元号名]]が長く未発表だったため、
[TIME[平成31年5月][2019-05-01]]以後の[[日付]]の表記が不安定となった。
-- [126] 「平成32年」のような表記を誤りと考える者や、
[[西暦]]を用いるべきと考える者が出現した。
-- [127] 「(新元号)元年5月」のような恒久的に通用しない暫定表記も現れた。
- [145] しかも[[改元日]]も暫定的なもので、
わずか4ヶ月前まで政治的な争いが続けられていた。
-- であるなら初めから[[改元日]]が未定であることを明確に発表するべきだった。
- [122] [[施行]]日を[[改元]]日としたため、
発表から[[改元]]までの1ヶ月間新元号の利用可否に法的な不安定性を生じた。
-- [123] [[改元]]日を明記して即日施行の政令とするべきだった。
-- [124] [[平成改元]]を踏襲したためか、
あるいは[[退位特例法]]と[[元号法]]との整合性のためそうするしか選択肢がなかったか。
-- [125] 政府は[[将来の日時]]の表記も[[改元]]後切り替えるとしたが、
民間では発表後既に利用開始した。
--- [129] 政府は[[公布]]以外の準備は始めて構わないという見解を[[地方公共団体]]に送付しました
[SRC[>>128]]。
--- [136] 民間から政府に提出する書類ではどちらの表記でも構わないという見解を示しました
[SRC[>>135]]。
--- [147] 実際は政府も一部下部組織で[[改元]]前から[[公布]]以外の事務に[[令和]]を使用し始めました。
[SEE[ [[令和改元]] ]]
- [133] つまり
1年以上の準備はできるが不完全な時期、
1ヶ月の準備はできるが実施はできない時期が生じ、
国民、特に事務担当者やシステム担当者の不安を招いた。
- [134] 実務上の影響の大きい[[年度]]名の呼称に疑義が生じることが明らかだったにも関わらず、
取り扱いを[TIME[新元号発表当日][2019-04-01]]まで決定すらしなかった
([SEE[ [[元和元年度]] ]])。
[148] [[令和]]発表から[[令和改元]]までの1ヶ月で、
政府機関や学術機関だけでも
「令和2年」「令和3年」「令和4年」
の利用例が少なからず見られました。数年先を取り扱う事務の量が少なくないことは明らかで、
「[[改元]]されるが新元号は不明」
という時期を十数ヶ月も継続させたことは実務上でも[[元号]]というシステムへの信用の面でも致命的な失策でした。
新旧元号の併存が新旧天皇の「二重権威」化につながるなどとする主張が政府・与党方面でなされていたようですが
([SEE[ [[令和改元]] ]])、そのような意味不明で実務無視の態度が[[元号]]と[[天皇]]家の権威全般を貶めていることを知るべきです。
[23] その一方で、
発表から約半月新元号に沸き、
約半月[[平成最後]]の時代の終わりを感じながら新元号の最終準備を済ませ、
改元を迎え約1週間の寿ぎに包まれた連休を過ごし、
新元号の仕事始めとなる、
という[[令和改元]]前後のスケジューリングは非常によくできていて、
国民こぞっての祝賀行事に最適だったとも思えます。
この令和の改元ノウハウが失われず、
現場経験者が各業界で現役のままの時期に次の改元が
(おなじく祝賀ムードで)
迎えられると良いのではないでしょうか。
[REFS[
- [128] [CITE@ja[総務省|「元号を改める政令等について」の発出について]] ([TIME[2019-04-02 16:06:10 +09:00]]) <http://www.soumu.go.jp/menu_kyotsuu/important/kinkyu02_000318.html>
- [135] [CITE[改元に 伴う情報システムの 改修等を進めていく 上でよくご 質問いただく 事項]] ([TIME[2019-04-03 11:54:04 +09:00]]) <https://www.meti.go.jp/policy/it_policy/kaigen/20190403_kaigen_faq.pdf>
]REFS]
* 施行手続き
[170]
歴史的には[[改元]]にいろいろな手続があり、
[[施行]]は同時ではありませんでした。
[SEE[ [[改元手続]] ]]
[172]
[[改元]]の[[詔書]]㋺は[[覆奏]]を経て全国へ発送されました。
[[覆奏]]まで何日か、各地の到着まで更に何日かかかっていました。
[31] [[京都]]の[[朝廷]]では、それを待たずにすぐ㋺に新元号が使われた㋥とされています。
といっても新元号を決める[[改元定]]は[[改元日]]㋺当日のことが多く、
ときには夜明け近くまでもつれ込んだとされています。
すると[[改元日]]㋺当日にリアルタイムで新元号を使った㋥人が皆無だったこともあるかもしれません。
[185]
[[武家]]は[[吉書始]]の後新元号を利用開始㋥しました。
[[吉書始]]まで何日かかかっており、
[[公家]]と時間差がありました。
[[幕府]]から各地の到着まで更に何日かかかっていました。
[28] [[朝廷]] → [[幕府]] → [[藩]] → 庶民の正式な伝達には時間がかかり、
庶民が別ルートで新元号を知ることもありましたが、
フライングして新元号を使うと正式な元号を使うよう指導されることもあったようです。
[340]
[[前近代]]には新元号の利用開始は全国同時ではあり得ず、しかもそれが当然とされていたのです。
[24]
[[大正]]と[[昭和]]の[[改元]]は、
皇位継承㋑のその日のうちに[[詔書]]が発され㋺㋩、
実施されました㋥㋭。
[[施行]]手続きとしては最も簡単な形だったといえます。
[68] この時代でもまだ離島には[[改元]]が伝わるのが何ヶ月もかかることがありました。
当然ながら利用開始は情報が伝わった後になり㋥、
それまで㋺-㋥は旧元号を使い続けたことになります ([SEE[ [[延長年号]] ]])。
といっても法的な[[施行]]は全国共通なので、
情報がひとたび伝われば[[改元日]]以後の日付㋺-㋥は新元号で表すことになったはずです㋭。
[25]
[[平成改元]]は皇位継承㋑の日のうちに[[政令]]が制定㋺・公表㋩されましたが、
[[施行]]㋥㋭は翌日とされました。
従来の即日施行では当日が旧元号か新元号か安定して定められなくなるため、
翌日施行することとされました
[SRC[>>396]]。
(仮に[[政令]]の決定が遅れて皇位継承㋑当日中に[[官報]]によって[[公布]]㋩できない場合、
皇位継承㋑の翌日に[[公布]]㋩し翌々日に[[施行]]㋥㋭することが想定されました
[SRC[>>396]]。)
[26]
[[令和改元]]は、皇位継承が事前の特例法制定により予告され、
新元号の発表と施行も首相談話として予告された上で、
1ヶ月前に[[政令]]が制定㋺、公表㋩され、
皇位継承㋑と同時に[[施行]]㋥されました。
[27]
ここで法的に新元号の利用開始㋥は[[政令]]の[[施行]]のはずで、
政府もそのような方針を採りましたが、
一般には公表㋩の時点で使われ始めました。
しかもそれ以前の皇位継承の日が内定した段階で、
[[延長年号]]となることが確実な改元予定日以後の旧元号表記に疑念が持たれる状態となってしまっていました。
(>>120)
これを回避するには皇位継承㋑の日取り決定を新元号施行㋥と揃えるしかありませんが、
[[令和改元]]の経緯をみるに現実的とは思えません。
[30] 現代でも、全国共通の正式な改元とは別に、
例えば[[計算機システム]]の切り替えの都合による別の利用開始日時㋥が設定されることがあります。
[527]
[[長享]]:
[528] [CITE@ja[元号一覧 (日本) - Wikipedia]], [TIME[2022-05-20T22:00:01.000Z]], [TIME[2022-05-21T08:48:29.097Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)#cite_note-10>
>ただし改元後も幕府側の準備不足の為、8月9日(8月27日)まで公家も武家も「文明」の年号を使用した。
* 改元伝達
[SEE[ [[改元手続]] ]]
[362]
[[律令制]]下では[[朝廷]]から[[国衙]]を介して各地に通達されていました。
[SRC[>>49 普及版 p.415]]
[363]
[[平安京]]の役所は[[覆奏]]より前から新元号を使っていました。
諸国は[[太政官符]]が到着してから新元号を使いました。
[SRC[>>361 pp.118-119 ([CITE[江家次第]])]]
[364]
[[菅原道真]]は、
[[讃岐国]]や[[太宰府]]で[[寛平]]や[[延喜]]の[[改元]]の詔書を受け取ったことについての詩を残しました。
当時中央から地方への[[改元]]の伝達が確かに行われていたことを伝えています。
[SRC[>>49 普及版 p.185]]
-*-*-
[365]
[[鎌倉時代]]半ば頃から、
[[六波羅探題]]から[[鎌倉幕府]]に通達されるようになりました。
[[鎌倉幕府]]は[[政所]]で[[吉書始]]の儀を行いました。
おそらく[[守護]]や[[寺社]]を介して各地に通達されました。
[SRC[>>49 普及版 p.415]]
[366]
[CITE[吾妻鏡]]にある[[京都]]の[[六波羅探題]]から[[鎌倉]]への[[改元]]の詔書の伝達記事などから、
[[改元日]]から[[鎌倉]]まで約10日、
そこから一般で通用するまで約1ヶ月かかったとされています。
[SRC[>>49 普及版 p.395 (千々和到 1995、峰岸純夫 1979)]]
(c.f. >>360。>>49 の各元号の項にも[CITE[吾妻鏡]]の伝達記事の日付の記載あり。)
[367]
[[鎌倉時代]]の[[九州]]の文書 5507通の分析から、
改元後約2ヶ月で[[九州]]全域に新元号が広がったことが確認されています。
[SRC[>>49 普及版 p.395 (瀬野精一郎 1968)]]
[[文永の役]]の蒙古襲来が[[博多]]から[[京都]]まで約12日で伝わったのと比較すると、
かなりの速度で広がっており地域社会も[[改元]]に敏感だった
[SRC[>>49 普及版 p.395]]
と評されています。
[368]
[[室町幕府]]も[[鎌倉府]]へ通達を行っており、
[[鎌倉時代]]同様に伝達されたと考えられています。
[SRC[>>49 普及版 p.415]]
[369]
一方[[南朝]]は[[綸旨]]により直接諸国に伝達しました。
[SRC[>>49 普及版 p.415 (峰岸純夫 1979、千々和到 1990)]]
[370]
中世の庶民に[[改元]]がどう伝わったかは十分明らかではありません。
[[鎌倉時代]]以後東国などの[[板碑]]に[[元号年]]が記されていることから、
ある程度普及していたことはわかっています。
[SRC[>>361 pp.130-131]]
[371]
[CITE[[[紀伊国阿弖河荘百姓訴状]]]]
には
「ケンチカン子ン十月廿八日」
とあり (4月25日[[改元]])
[SRC[>>361 pp.130-131]]、
[[農民]]も[[元号]]を使うことができ、しかも[[改元]]が数ヶ月以内に伝わっていたことがうかがえます。
[471]
[[中世]]の[[多摩川]]流域近辺の[[板碑]]の紀年から、
[[改元伝達]]に数ヶ月かかる場合もあったこと、
海沿いより山間部ほど遅れる傾向が見られることが指摘されています。
[SRC[>>519]]
- [462]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]南品川3丁目海晏寺板碑
「[V[暦応五年七月日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三四九]]]]
-- [463]
[TIME[日本北朝暦応5(1342)年][1342]]7月,
[[延長年号]] +約2ヶ月, [TIME[康永元(1342)年4月27日][kyuureki:1342-04-27]][[改元]]
-- [464] +約1ヶ月、5月27日改元とする
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
は誤りか。
- [465]
海岸を離れた[[多摩川]]沿い鵜ノ木光明寺板碑
文和五年六月
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [466]
[TIME[日本北朝文和5(1356)年][1356]]6月,
[[延長年号]] +約2ヶ月, [TIME[延文元(1356)年3月28日][kyuureki:1356-03-28]][[改元]]
- [454]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑3, 4, 5
「[V[延文六年二月 日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三四]]]]
-- [455]
[TIME[日本北朝康安元(1361)年3月29日][kyuureki:1361-03-29]][[改元]]
-- [456]
約1ヶ月の[[延長年号]]とする
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
のは誤認か。
- [458]
三多摩、入間郡延文板碑
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [459]
1ヶ月以上の[[延長年号]]が11基
-- [467]
[[日本国]][[東京都]][[大田区]]尾山伝乗寺板碑
延文6年11月
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
--- [468]
[[延長年号]] +7ヶ月
-- [460]
南多摩郡、入間郡に8ヶ月以上遅れるものあり。
- [450]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑11
「[V[応安八󠄂年三月二十九日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三四]]]]
-- [451]
[TIME[日本北朝応安8(1375)年3月29日][kyuureki:1375-03-29]]、[[延長年号]] +約1ヶ月.
[TIME[永和元(1375)年2月27日][kyuureki:1375-02-27]][[改元]]
- [452]
[[入間郡]]高萩板碑 応安8年8月22日
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [453] [[延長年号]] +約5ヶ月
- [469]
[[日本国]][[東京都]][[大田区]]雪ヶ谷円長寺井旅
寛正7年7月
[SRC[>>519 p.[V[三四七]]]]
-- [470]
[TIME[日本寛正7(1466)年][1466]]7月,
[[延長年号]] +約3ヶ月, [TIME[文正元(1466)年2月28日][1466-02-28]][[改元]]
[479]
[[改元日]]から1,2年ほど遅れた例も報告されていますが、
例外的です。
銘文誤読も疑われますが、
正しいとすれば相当に遅れていたことがわかります
[SRC[>>519 p.[V[三四八󠄂]]]]。
- [475]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑 (昭和7年[[服部清五郎]]調査) 1
「[V[正嘉五年]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三八󠄂]]]]
-- [476] [[延長年号]] +2, [TIME[正嘉5年 = 正元3年 = 文応2年 = 弘長元(1261)年][1261]]
- [477]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑 (昭和7年[[服部清五郎]]調査) 2
「[V[徳治五年]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三八󠄂]]]]
-- [478] [[延長年号]] +2, [TIME[徳治5年 = 延慶3(1310)年][1310]]
[474]
次の例は[[遡及年号]]で、銘文誤読が疑われます。
[SRC[>>519 p.[V[三四八󠄂]]]]
- [472]
[[日本国]][[東京都]][[品川区]]御殿山出土板碑32
「[V[享徳元年七月五日]]」
[SRC[>>519 p.[V[三三六]]]]
-- [473]
[TIME[享徳元(1452)年7月25日][kyuureki:1452-07-25]][[改元]]
[REFS[
- [519]
[CITE[金石文より見た中世の品川]],
[CITE[[[続仏教考古学研究]]]], pp.[V[三二九]]-[V[三六八󠄂]]
]REFS]
[481] [CITE[0618-P9-上から張り込み用‐これが最終データ.indd - almuseo128.pdf]], [TIME[2019-07-14T08:38:29.000Z]], [TIME[2021-06-10T08:08:56.553Z]] <http://www.fuchu-cpf.or.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/095/almuseo128.pdf>
[480] [CITE[cs6-129正.indd - almuseo129.pdf]], [TIME[2019-10-30T07:38:23.000Z]], [TIME[2021-06-10T08:05:51.827Z]] <http://www.fuchu-cpf.or.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/095/almuseo129.pdf>
-*-*-
[372]
[[江戸時代]]、
[[朝廷]]では[[改元]]の日から新元号が用いられましたが、
[[京都]]町内では[[幕府]]からの通達があってから用いられたため、
平均で10日ほどかかっていました。
[SRC[>>49 普及版 p.543]]
[373]
[[朝廷]]が[[改元]]すると、
[[京都所司代]]を通じて[[江戸幕府]]に伝達されました。
[[江戸幕府]]は諸[[大名]]を[[江戸城]]に集め、これを披露しました。
[[幕府]]の正式な[[改元日]]は披露の日とされ、
全国にもこの日が伝えられました。
[SRC[>>49 普及版 p.543]]
[374]
[[藩]]によっては、
[[家臣]]を集めて[[改元]]を披露しました。
[SRC[>>49 普及版 p.543]]
[375]
[[松前]]、[[対馬]]、[[薩摩]]なども含め、
全国に1ヶ月から2ヶ月程度で新元号が伝達されました。
[[伊豆大島]]に4ヶ月後に伝達されたというのが現在確認された最も遅い事例です。
全国各地にかなりのスピードで伝達されたと評されています。
[SRC[>>49 普及版 p.543]]
;; [376] しかし[[昭和改元]]でも離島への伝達にはかなり時間がかかっており (>>380)、
離島で記録が残っていない、より伝達に時間がかかったケースはありそうです。
[377]
[[農村]]に対しても、
少なくとも[[名主]]や[[庄屋]]などには確実に伝えられたようです。
古文書では[[干支年]]もみられますが、
[[借用書]]など証文類では[[元号年]]のことが多く、
[[過去帳]]や[[石碑]]では[[干支年]]よりもむしろ[[元号年]]の場合が多いです。
争論の経緯の文書でも[[元号年]]が使われる例があります。
[SRC[>>49 普及版 p.579]]
[378]
あるいは[[暦本]]にも[[元号]]が明記され、各地に頒布されました。
従って[[農村]]でもほとんどの人が[[元号]]を知っていたと考えられています。
[SRC[>>49 普及版 p.579]]
[379]
[[江戸]]では、(正式な伝達経路以外に)
[[改元]]直後に新元号を紙に書いて売り歩く者がいました
([SEE[ [[改元]] ]])。
[[改元]]直前に[[偽の新元号が流布][改元デマ]]されたことも何度か記録されています。
正式発表前にも[[改元]]情報がある程度出回っていたのでしょうか。
[SEE[ [[改元デマ]] ]]
[444] [CITE[2018_kaigen_pamphlet.pdf]], [TIME[2021-04-28T12:00:55.000Z]], [TIME[2021-04-28T12:08:37.163Z]] <https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1552954521928/simple/2018_kaigen_pamphlet.pdf#page=16>
- [448] [CITE@ja[法律案審議録(元号法案 その1) 昭和54年第87回[[国会]] 総理本府関係 1]] ([[独立行政法人国立公文書館 | NATIONAL ARCHIVES OF JAPAN]]著, [TIME[2018-06-12 23:56:17 +09:00]]) <https://www.digital.archives.go.jp/das/image/M2011021814402318057>
PDF 180ページ
[402] [CITE@ja[[[福岡通りの三十年]]]]
[FIG(table)[
:o: [[旧元号]]
:n: [[新元号]]
:w: [[西暦]]
:k: [[干支年]]
:s: [[改元日]]
:e: [[江戸城]]
:a: [[盛岡藩]]到着
:m: [[盛岡藩]]施行
:o: 寛永21年
:n: 正保元年
:w: [TIME[1644]]
:k: 甲申
:s: 12/16
:a: 酉1/22
:m: 酉1/22
:o: 正保5年
:n: 慶安元年
:w: [TIME[1648]]
:k: 戊子
:s: 2/15
:a: 3/4卯刻(飛脚)
:m: 3/4
:o: 慶安5年
:n: 承応元年
:w: [TIME[1652]]
:k: 壬辰
:s: [ASIS[9/28][正しくは 9/18]]
:a: 10/8
:m: 10/8
:o: 明暦4年
:n: 万治元年
:w: [TIME[1658]]
:k: 戊戌
:s: 7/23
:a: 8/12 (正式9/12)
:m: 9/12領内通達
:o: 万治4年
:n: 寛文元年
:w: [TIME[1661]]
:k: 辛丑
:s: 4/25
:a: 5/19
:m: 5/19領内通達
:o: 寛文13年
:n: 延宝元年
:w: [TIME[1673]]
:k: 癸丑
:s: 9/21
:a: 10/7
:m: 10/7領内通達
:n: 享和元年
:e: 2/13
:a: 2/23
:m: 2/23用人等,
2/25諸士・一般
2/25施行
:o: 天和4年
:n: 貞享元年
:a: 3/8
:m: 3/8
]FIG]
[484]
[[江戸城]]に大名有司が総登城、新元号が申し渡されました。
国許に飛脚で報知、
諸係には即日通知、
領内には翌日以降布告となることが多く、
それ以後領内で新元号が用いられました。
[SRC[>>402 p.171]]
[485] 貞享元年3月8日
「[V[今日より証[BR[]]文等ニ貞享と相調可申由被 仰付之]]」
即日実施の珍しい例。
[SRC[>>402 p.172]]
[486]
通例[CITE[雑書]]に[[改元]]記事があるが、万治4年・寛文元年にはない。
(本書本文にある伝達日は別出典?)
[488] [CITE[JCDP]], [TIME[2021-06-28T12:25:05.000Z]] <https://jcdp.jp/daily-diary-weather-records-jp/>
-*-*-
[380]
[[大正改元]]や[[昭和改元]]が[[伊豆諸島]]の[[青ヶ島]]に伝わるまで、
1年近くかかったとされています。
[SEE[ [[大正改元]], [[昭和改元]] ]]
[507]
[[大正改元]]が[[小笠原諸島]]の[[硫黄島]]に伝わったのは約1ヶ月後でしたが、
たまたま学術調査団が訪問したことによるものでした。
[SEE[ [[大正改元]] ]]
[382]
やや特殊な事例ですが、
[[チベット]]に滞在していた[[日本人]]は[[大正改元]]を半年後も知りませんでした [SRC[>>383]]
(いつ知ったか不明)。
[381]
[[平成改元]]の頃には離島でも[[放送衛星]]など何かしらの[[放送]]が受信できたと思われます。
日本全国の人がほぼ同時に新元号を知り得たと思われます。
その発表の翌日に[[施行]]されましたから、
事情があって新元号を知らないまま当日を迎えた人も少数いたことでしょうが、
一般的な生活形態の人々はおおむね即時に知ったのではないでしょうか。
[487]
[[令和改元]]は施行1ヶ月前の新元号発表が、
[[日本政府]]および民間事業者の[[動画配信サービス]]、
[[SNS]] の動画配信機能、
[[テレビ放送]]等で全世界に[[生配信]]されました。
[[日本]]の歴史上初めて、
ほとんどすべての[[日本国民]]が新元号を知った状態で施行の日を迎えました。
[REFS[
- [360] [CITE@ja[[[元号と武家]]]]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[348] [CITE@ja[ノート:[[改元]] - Wikipedia]], [TIME[2020-02-03 12:36:34 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%83%88:%E6%94%B9%E5%85%83>
]FIGCAPTION]
>[SNIP[]]
幕府に正式な改元の書類が通達される「公達日」(改元日から約10日後)までは、公的に新元号を使うことは許されず、更に京都を含めた諸国には幕府からの使者が各地の藩や幕府官吏に伝えて彼らの手で公表されると言う形式をとっていたため、宮廷のある京都では改元の事実が直後には町中に広まっていたにも関わらず京都町奉行が改元を公布する日(2週間から1ヶ月後)以前に宮中の外で新元号を使うと偽の年号を使ったとして処罰されるという奇妙な現象が生じた。--[[水野白楓]] 2006年10月30日 (月) 17:05 (UTC)
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[383] [CITE@en[チベット・インディペンデンス2015 - Students for a Free Tibet: 日本]]
([TIME[2017-01-04 13:16:52 +09:00]])
<http://www.sftjapan.org/nihongo:tibetindependence2015>
]FIGCAPTION]
> 明治四十六年一月一日*、 [SNIP[]]
>(矢島保治郎「入藏日誌」チベット文化研究所、1983)
> *明治天皇は1912(明治45)年7月30日に崩御し、元号は大正に変わっていたが、チベット滞在中の矢島保治郎はこのことを知らず、明治46年と記している。実際は大正2(1913)年1月1日
]FIG]
- [361] [CITE[[[元号―年号から読み解く日本史―]]]]
]REFS]
[65]
[[支那王朝]]では[[元号]]制度確立以前の[[即位紀年][支那式即位紀年]]の頃から[[踰年改元]]が行われました。
[[明国]]、[[清国]]時代は原則[[踰年改元]]でした。
[[支那王朝]]では全国への周知に時間がかかるため[[踰年改元]]が現実的な方法で、
[[服喪]]の意味もありました [SRC[>>298]]。
とするのが [CITE[Wikipedia]] の説ですが、出典は示されていません。
[WEAK[([CITE[Wikipedia]] 記事は全般的に信憑性が疑われます。 >>346)]]
この説が成立するためには事前に新元号と[[改元日]]を発表し全国に伝達していなければなりません。
[[中国大陸]]における[[改元]]の伝達の実態が研究されているのか不明です。
(>>48 も参照。)
[349]
[CITE[Wikipedia]]
は、[[中国大陸]]では
「国土の大きい中国の場合、布告の周知徹底には時間が長引くため、
新元号の発表と同時に全土で改元を実施することは困難であり、4が現実に即していた」
(4 は「越年改元」)
と述べていました [SRC[>>298]]。
この説の出典も記されておらず真偽は不明で、
かつ[[改元]]が全国一斉実施されるとの前提にたっています。
;; [350] [[日明貿易]]時代の[[室町幕府]]や、
[[琉球王国]]で[[支那の元号]]の[[改元]]の情報を即時に把握できなかったらしい痕跡はありますが、
特殊な例かもしれません。
[SEE[ [[元号の選択]]、[[南西諸島の日時]] ]]
[351]
[CITE[Wikipedia]] のこの記述には、
その後の改訂で
「日本も南北東西に長く、特に北海道と沖縄県を編入した明治初期以降はますます日時較差は開くことになる。交通の不便な離島は数ヶ月以上遅延したこともあった。」
との注記が挿入されました [SRC[>>284]]。
「国土の大きい」に引きづられてここに挿入されたのでしょうか。
解説文の体裁として不自然な挿入にみえますが、それは編集方針によるところなので置くとしても、
この記述には問題があります。
[[北海道]]が設置されたのは[[明治時代]]であっても、