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[7] [DFN[新日本]]は、[[尾崎行雄]]らが用いていた[[私年号]]でした。
* 紀年法
[8] [TIME[昭和21(1946)年][year:1946]]を[[元年]]とするものでした。
[[大東亜戦争の終戦]]の'''翌年'''が[[元年]]でした。
* 呼称
[21]
[[元号名]]の[[新日本]]は、この時代の[[流行語]]でした。
[TIME[昭和21(1946)年1月1日][1946-01-01]]には、
[CITE[[[新日本建設ニ関スル詔書]]]]
が発せられました。
[22]
ただし[[新日本]]はこの時代の新語ではありません。
[[尾崎行雄]]は[TIME[明治19(1886)年][year:1886]]に既に
[CITE[新日本]]
なる書籍を刊行していました [SRC[>>23]]。
その他[[大正時代]]や[[昭和時代]]に同名の[[雑誌]]が他社から発行されていました。
[REFS[
- [23] [CITE@ja[[[新日本]]. 初巻 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[尾崎行雄]], [TIME[明19,20][year:1887]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/783233/1>
]REFS]
* 提案
[24] [RUBYB[[[尾崎行雄]]][[TIME[安政5(1858)年][kyuureki:1858-11-20]]-[TIME[昭和29(1954)年][1954-10-06]]]]は、
憲政の神様とも讃えられる人物で、史上最も長期にわたって[[衆議院議員]]を務めました。
[9]
[[昭和天皇]] [SRC[>>5]] や[[衆議院議長]] [SRC[>>35]]
に[[改元]]を提案しましたが、受け入れられませんでした。
[20]
この頃、[[改元]]の提案は他にもありました。
宗教団体などの独自の[[建元]]も見られました。
[SEE[ [[昭和時代の日時]] ]]
[25]
[[尾崎行雄]]は、
同じ頃[[英語]]の国語化も提案していたようです。
* メモ
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[35] [CITE@ja[元号 - Wikipedia]]
([TIME[2016-03-09 07:29:57 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]
> 第二次世界大戦終結の翌年に当たる1946年(昭和21年)1月には、尾崎行雄が衆議院議長に改元の意見書を提出した。この意見書において、尾崎は、第二次世界大戦で敗れた1945年(昭和20年)限りで「昭和」の元号を廃止して、1946年(昭和21年)をもって「新日本」の元年として、1946年(昭和21年)以後は無限の「新日本N年」の表記を用いるべきだと主張した。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE[なぜ、このような会を企画したか]]
([[立花隆]]、 [TIME[2009-03-03 18:08:48 +09:00]])
<http://chez.tachibanaseminar.org/images/etc/nanbara_3.pdf>
]FIGCAPTION]
([[南原繁]]「)
> されば、今日は紀元二千幾百年であるよりは、今を以って新たな紀元元年として出発すべきであると思う」
> 西暦一九四六年の紀元節は、日本紀元二六〇六年目の紀元節として祝うのではなく、新日本紀元元年として祝うのだ、ということである。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE[南原繁と戦後 - 鉄の檻の猿人]]
([TIME[2009-08-12 12:04:41 +09:00]])
<https://d.hatena.ne.jp/pton/20060815#p1>
]FIGCAPTION]
> 南原繁は東大法学部の政治思想史の教授で,終戦後間もなく東大総長となった人物です。敗戦の翌年1946年2月11日の紀元節の日には「新日本文化の創造」という講演を行い,この年を「昭和維新元年」と宣言しました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE[南原繁と戦後 - 鉄の檻の猿人]]
([TIME[2009-08-12 12:04:41 +09:00]])
<https://d.hatena.ne.jp/pton/20060815#p1>
]FIGCAPTION]
> 今年は,南原繁が1946年の紀元節の演説に言う「新日本紀元」の60周年に当たります。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[【伝説】 國士舘 VS朝鮮高 Part 22 【昭和史】]]
([TIME[2017-01-24 13:11:36 +09:00]])
<http://human5.2ch.net/test/read.cgi/4649/1122532797/256>
]FIGCAPTION]
> 国士舘は創業三十五年、大方諸賢の庇護と叱正とによって自ら特異の傳統を培ひ来つた
> 武道教育はその一であり、国士舘の名は武道界において一の存在になって居る。
> この武道教育は国士舘の再出発と共に、その特長を生かして行きたい。
> けだし文武は鳥の両翼、車の両輪、文なき武は想像され得ざる如く、武なき文をもっては特性の完成を期し得ないからである。
> 若し、それ学風の揚がると否とは、学校の当事者の発憤精進と共に、同憂諸賢の垂教に俟つところが甚だ多い。切に大方の御支援を仰ぐ。
> 新日本紀元元年五月一日
> とあり、
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE@ja[尾崎行雄(尾崎咢堂)の生涯に学ぶ]]
([[Wada Setsuko]]著, [TIME[2012-01-12 11:04:38 +09:00]])
<http://www.kanda-zatsugaku.com/111014/1014.html>
]FIGCAPTION]
> 尾崎は、第二次世界大戦での敗戦の事実を踏まえて、改元を熱心に提唱しています。改元について、元々明治という元号を永久に通していきたいと主張していた論者でしたが、敗戦後すっかり感受性を失ってしまった全国民に、新たなる覚悟と決意を促すために、そうした結論に達したのでした。昭和20年(1945)12月29日、(昭和)天皇の招きにより直接陛下にお会いが実現した折り、「新たに年号を制定したらどうか」と提案しています。
> 「この敗戦を機会に心機一転、縁起の悪い(昭和)を止めにして、大いに将来の日本が世界に発展するよう(新日本)と年号を改めたらどんなものでしょうか、と提案したところ、陛下も大変共鳴してくださいました。」と語られています。(石田正一著『人間おザキゆキオ』公論社、昭和34年10月)その尾崎が発案した新時代に相応しい元号「新日本」は、諸々の反省を込めて、再出発しなければならぬ新生日本を意味する姿が体現している年号となっています。
> 翁自身、戦後個人的には昭和という年号を使わなくなって、実際「新日本」を使用している形跡が垣間見られます。『敗戦の反省』(岩波書店、昭和21年2月)には、同書序文の末尾に「新日本元年十二月十日」と記し、『咢堂清談』(昭和22年6月)の序に代えての末尾に「新日本三年五月 卒翁 尾崎行雄」となっています。また、先の石田正一が著した世界連邦思想の解説書である『原爆に挑む』(完稿出版、昭和28年)の序文にも「新日本九年二月 九十六翁咢堂居士」と認めているのです。翁が考案した決意を込めた元号は、他に「民主主義元年」、「興国元年」や降参した日本国を象徴して「降伏二年」など色々と妙案を出しています。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE[「人民」概念の獲得と喪失]]
([TIME[2015-07-22 18:29:31 +09:00]])
<http://members.jcom.home.ne.jp/tekato/jinmin.html>
]FIGCAPTION]
> 崋山茅原廉太郎『日本人民の誕生』は、第二次世界大戦直後の書物であるが (岩波書店、1946年6月)、この系譜の到達点といえよう。かつて竹越與三郎『人民讀本』にも序を寄せた長老尾崎萼堂(行雄)が序を寄せ、1945年の敗戦を「新日本元年」ととらえ、「在来の日本には『人民』の観念殆ど無く、『国民』の意識のみ力説され過ぎ、無条件降伏の屈辱を受くるに至りたるも其の結果とも云ひ得る」とし、「民主主義新日本建設のため現下の要望を充す良書なりと信ず」と推薦している。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE[「人民」概念の獲得と喪失]]
([TIME[2016-10-31 10:09:02 +09:00]])
<http://netizen.html.xdomain.jp/jinmin.html>
]FIGCAPTION]
> 崋山茅原廉太郎『日本人民の誕生』は、第二次世界大戦直後の書物であるが (岩波書店、1946年6月)、この系譜の到達点といえよう。かつて竹越與三郎『人民讀本』にも序を寄せた長老尾崎萼堂(行雄)が序を寄せ、1945年の敗戦を「新日本元年」ととらえ、「在来の日本には『人民』の観念殆ど無く、『国民』の意識のみ力説され過ぎ、無条件降伏の屈辱を受くるに至りたるも其の結果とも云ひ得る」とし、「民主主義新日本建設のため現下の要望を充す良書なりと信ず」と推薦している。
]FIG]
[11] ([TIME[2013-01-28 21:50:18 +09:00]])
<https://library.city.iwaki.fukushima.jp/manage/archive/upload/00000_20130128_0030.pdf#page=1>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12] [CITE@ja[「令和」 「イチロー」 「入社式」 | 泉陽冷熱株式会社 社長ブログ]]
([TIME[2020-04-20 20:12:27 +09:00]])
<http://blog-ceo.senyo-r.co.jp/?eid=21>
]FIGCAPTION]
> 「社長!新年号発表されたで!」と近隣のオッチャンに声をかけられました。
>
> 「令和・・・」
> 「なんなん 令和って・・・」
>
> 「やるぜ日本!」とかやったらおもろいのに。。。「新日本元年!」 とか。。。
>
> どうでしょう? ないな・・・
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE@ja[一週間が過ぎ... : 鱗目ブログ]]
([[genki-itoh]]著, [TIME[2020-04-20 20:20:41 +09:00]])
<https://genkiitoh.exblog.jp/16075958/>
]FIGCAPTION]
> 繰り返し書きますが、2011年が世界に誇れる【新日本元年】になるチャンスだと思います。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE[【話題】巡航ミサイル導入を本格検討 政府、北朝鮮脅威に対処 '''['''無断転載禁止''']'''©2ch.net]]
([TIME[2020-04-20 20:22:31 +09:00]])
<https://mint.5ch.net/test/read.cgi/news4plus/1494020310/497>
]FIGCAPTION]
> 2020が新日本元年になるよう日本人みんなで力を合わせる時
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE[[[尾崎行雄傳]] - 伊佐秀雄 - Google ブックス]],
1951,
[TIME[2020-04-20 20:25:41 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=TB4NAQAAIAAJ&q=%E8%A5%BF%E6%9A%A6+%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC>
]FIGCAPTION]
> 1247 ページ
>
ただ私はりがけにシの考えていた改元について「昭和といっ年競をそのシけ“。れを
やめて新たに年競を制定したらよいと思う。私は今後個人的には昭和という年競は使わ
ないからこれをお許し願いたい。大権干犯などという問題にならぬようにお願いしたい」と述べると、陸下は何ともいはれ
なかったが、側近者が「西暦を用いたらどうか」といったのでビックリした。元来私は大正
とか昭和とかいう年競などはない方がいいと思っていたが、頭の古い宮内省の役人などに向ってそんなことをいったところで仕方があるまいと思って、年競の改正
を持出したわけだ。それを彼等から「西暦にしたらどうか」といわれて自分を恥じた。
先生は爾来「新日本」という年競を用いている。先生の年競改正の提唱については少し説明する必要がある。
元来先生は年競などは古い中園の習積の模倣にシいのでその使用には反封であるが、四十 ...
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[16] [CITE[尾崎咢堂全集 - 尾崎行雄 - Google ブックス]],
第 10 巻,
1962,
[TIME[2020-04-20 20:33:24 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=doMfAQAAMAAJ&q=%E6%94%B9%E5%85%83>
]FIGCAPTION]
>76 ページ
>(新日本二年一月二日起草)
> 101 ページ
> 改元といふことは、これも支那の真似であってほとんど無意味であるが、今日のやうな
> 場合には年競を改めると、わが国人をピンと緊張せしめ、時代が要ったといふことを
> はっきり認識させる数果はあらうと思ふ。明治維新後の日本は、年を天皇御一代限りとし
> 、 ...
> 102 ページ
> いまは敗戦の事賞を老幼男女区出の差別なく全国民にピンと響かせるために改元を
> やらせたいと思ふ。従ってその年焼は明治、大正、昭和などといふ文字のやうに完愛の
> 出典に機らず、現在にふさはしいものにしたい。どう改元するかの具鶴的、技術的なことは専門の構威
者にお願ひするか、あるひは一新生日本第一年」といふ意味のものでもよい。私は「新
日本三年」といふ
やうに自分だけで新しい年焼を用ひてみる。その他「民主主義元年」、「興園元年」、「降伏二年」など色々考ヘられるが、要するにこれを行なって厳然...
> 109 ページ
> 年就が木か何か神物の発生でも基にして出来てみると、私』喜んでそれを用みる気に
> なる s だが、それは私情で、便利な断からいって、意味のない従来の年戦を廃して西暦
> を用みるのはょいであらう。最近改元の問題は政府や議書でも問題になったやうだが、
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[17] [CITE[石橋湛山全集 - 石橋湛山 - Google ブックス]],
第 13 巻,
1970,
[TIME[2020-04-20 20:38:26 +09:00]]
<https://books.google.co.jp/books?id=0-HSAAAAMAAJ&q=%E6%94%B9%E5%85%83>
]FIGCAPTION]
> 34 ページ
> 一五元号を廃止すべし#昭和二一年一月一二日号「顕正黢」尾崎行雄氏が先頃島田
> 衆議院議長に提出した意見書なる,ものを見るに、中に改元の一項がある。今回の降伏
> は神武建国以来の最大凶事だから、全国民をして一人残らず之れを認識反省悔悟せしめる為め、此の際昭和の年号を廃し、本年を以て新日本の元年とし、将来
長く之れを継続せしめよと云うのである。蓋し翁の意見に依れば、例えば本年を新日本元年とするならば爾後は改元せず、永久
に右の元号を継続するのである。践祚の後元号を建て一世の間に再び改めずとする皇室典範の規定は勿論玆に改めざるを得ない。若し然うなら記者は旧くから其の
必要を痛感していた事だが、此の際更に一歩を進めて、元号廃止、西紀使用を主張
したい。元来我が国に於て初めて元号を建て ...
> 35 ページ
> 改元を主張する尾畸翁は未だ旧日本の因習に囚われたりと言わねばなら
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[18] [CITE[聞き書南原繁回顧錄 - 南原繁 - Google ブックス]]
(1989 [TIME[2020-04-20 20:44:30 +09:00]])
<https://books.google.co.jp/books?id=fRY7AAAAIAAJ&q=%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC+%E5%85%83%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
> 310 ページ
> 私はその講演に「新日本文化の創造」という題を掲げまして、民族の自重、同時に自信
> の回復を要望した。 ... 民族主義ではなく、世界的な普遍性の基盤にたつ新しい日本の
> 建設、国民は国民たると同時に世界市民として自らを形成する、その紀元元年として今日から出発すべきでは
ないか。 ...
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[19] [CITE[南原繁著作集: 文化と国家 - 繁南原 - Google ブックス]]
(1973 [TIME[2020-04-20 20:46:45 +09:00]])
<https://books.google.co.jp/books?id=17g2AQAAIAAJ&q=%E6%98%AD%E5%92%8C%E7%B6%AD%E6%96%B0%20%E5%85%83%E5%B9%B4>
]FIGCAPTION]
> 27 ページ
> されば、今日は紀元一一千幾百年であるよりは、今を以って新たな紀元元年として出発
> すべきであると思う。国民全体がこのことを自覚し奮起するのでなければ、よく祖国再建
> の事業を達成することはできないであろう。真の昭和維新の根本課題は、そうした日本 ...
]FIG]