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1000
[1]
[[日本]]の[[古代]]には[[干支年]]などが使われていましたが、
やがて[[元号][日本の元号]]制度が導入されました。
[SEE[ 他の時代も含めた概観は[[日本の元号]] ]]
[SEE[ 各制度に関する事項は[[元号]]、[[改元]]、[[干支年]] ]]
* 神武東征時代
[6] [CITE[[[日本書紀]]]]の最古の[[紀年]]のある記事は[[神武東征]]であり、
「及年四十五歳。[SNIP[]] 是年也太歳甲寅。
其年冬十月丁巳朔辛酉。天皇親帥諸皇子舟師東征。」、
すなわち「甲寅年冬十月丁巳朔辛酉」
なる[[日付]]が示されていました。 [SRC[>>5]]
[7] [[神武天皇]]の[[年齢]]を逆算して更に何年か遡ることはでき
[WEAK[(ただし[CITE[日本書紀]]と[CITE[古事記]]で記述が異なります)]]、
あるいは「于今一百七十九萬二千四百七十餘歳。」 [SRC[>>5]]
との記述から[[神代]]の概年数を知ることはでき
([SEE[ [[天孫紀元]] ]])、
一方で史実がどの程度反映されているか不確かとはいえ、
[[日本]]の[[正史]]である[CITE[日本書紀]]で明確に記載された最初の[[日付]]がこれであり、
この日こそが[[日本の歴史]]の出発点であるといえます。
[8] それ以後[[神武東征]]時代については同様に[[干支年]]で[[日付]]が記載されました。
[SRC[>>5]]
[105] [CITE[日本書紀]]は以後の天皇については[[摂政]]、[[称制]]、[[壬申の乱]]のような空位時代も前後の天皇や天皇に準じた[[神功皇后]]の時代に組み込んでいますが、
[[神武東征]]については初代天皇という特殊性のためか、
[[神武天皇]]時代には組み入れられていません。
[[干支年]]で記述されるのは[CITE[日本書紀]]でここだけです。
[28] もちろんこれは[CITE[日本書紀]]編者らによる[[紀年法]]であって、
[[神武東征]]が史実かどうかの議論は置いておくとしても、
当該時代の実際の[[日時制度]]は定かではありません。
[16] [[皇紀]]が[[神武天皇]]の[[即位紀年][天皇即位紀年]]の延長として定められたためか、
[TIME[皇紀元年][year:-659]]以前も数年間連続した期間があるにも関わらず、
この期間は蔑ろにされがちです。
この[[神武東征]]期間を扱う[[神武天皇即位前の紀年法]]として次のものが知られています。
[FIG(middle list)[ [27] [[神武東征]]時代 (以前) を扱える[[紀年法]]
- [[神武天皇即位前紀干支年]]
- [[神武天皇前]]
- [[神武天皇紀元前]]
- [[西暦]]
- [[天孫紀元]]
- [[天之御中主天皇即位紀元]]
]FIG]
* 記紀天皇時代
[29] [[神武天皇]]即位後、
最初の[[元号]]である[[大化]]より前の時代について、
[CITE[日本書紀]]などでは[[天皇即位紀年]]が用いられてきました。
[9] [[神武天皇]]の即位について[CITE[日本書紀]]には
「辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於橿原宮。是歳爲天皇元年。」 [SRC[>>5]]
とする記事があり、
以後ここからの年数で記述されました。
[10]
例えば次の記事は「二年春二月甲辰朔乙巳。」 [SRC[>>5]]
とあり、
神武天皇の即位2年目、
2月すなわち[[朔日]]の[[日干支]]が[[甲辰]]である[[月]]、
[[日干支]]が[[乙巳]]である日、
すなわち[TIME[皇紀2年2月2日][-0658-02-02]]が表されていました。
[[神武天皇]]のみならず以後の天皇の時代、
[CITE[日本書紀]]に続く各[[正史]]でもこの[[日付形式]]が採用されました。
[30]
[[朔日]]を表すときは、
「廿四年春二月丁未朔」 [SRC[>>11]]
のごとく[[日干支]]は1つだけ記述されました。
[32]
[[月]]内のいつかを表すときは、
「廿三年春三月」 [SRC[>>11]]
のように[[月]]まで記述されました。
[33]
[[年]]内のいつかを表すときは、
「廿五年」 [SRC[>>25]]
のように[[年]]まで記述されました。
[34]
「五年秋八月庚寅朔壬寅。[SNIP[]]
冬十月。」 [SRC[>>25]]、
「三年冬十月辛未朔癸酉。[SNIP[]]
十一月。[SNIP[]]
是歳[SNIP[]]」 [SRC[>>25]]、
「廿二年春三月甲申朔戊子。[SNIP[]]
丁酉。」 [SRC[>>25]]、
「四十一年春二月甲午朔戊申。[SNIP[]]
是月。」 [SRC[>>25]]
のごとく、年、季節、月が前項と同じ時省略されたり、
「この歳」、「この月」のような表現が用いられたりもしました。
[49]
「三月上巳」 [SRC[>>48]]
のように朔日干支が省略されることもありました。
[52] [CITE[日本書紀]]では「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何々]]朔[VAR[何々]]」
といった日の表記がほとんどでしたが、
[CITE[続日本紀]]以後では
「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何々]]」
となりました。
;; [53] なお[CITE[六国史]]第6の
[CITE[日本三代實錄]]では、
[[日]]は「[VAR[何々]]朔」または「[VAR[何]]日[VAR[何々]]」
のように常に日番号が併記されるようになりました。 [SRC[>>54]]
[FIG(railroad)[ [36] [VAR[日付]]
= |
== =
=== [VAR[年]]
=== ?
==== [VAR[季]]
==== [VAR[月]]
==== ?
===== [VAR[朔と日]]
== =
=== [VAR[季]]
=== [VAR[月]]
=== ?
==== [VAR[朔と日]]
== =
=== [VAR[月]]
=== ?
==== [VAR[朔と日]]
== [VAR[日]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [35] [VAR[[[季]]]]
= |
== [CODE[春]]
== [CODE[夏]]
== [CODE[秋]]
== [CODE[冬]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [37] [VAR[月]]
= ?
== [CODE[閏]]
= |
== [CODE[正月]]
== =
=== [VAR[[[漢数字]]数]]
=== [CODE[月]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [51] [VAR[朔と日]]
= |
== =
=== [VAR[朔]]
=== ?
==== [VAR[日]]
== [VAR[日]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [38] [VAR[朔]]
= [VAR[[[干支][日干支]]]]
= [CODE[朔]]
]FIG]
[FIG(railroad)[ [39] [VAR[日]]
= [VAR[[[干支][日干支]]]]
]FIG]
[17]
[[天皇即位紀年]]は、「元年」、
「二年」のように年番号のみで表されていましたが、
他の天皇の在位中を参照する必要があるときは
「天豐財重日足姫天皇三年」 [SRC[>>18]] (斉明天皇3年)、
「天渟中原瀛眞人天皇元年夏六月」 [SRC[>>18]] (天武天皇元年6月)
のように天皇名と共に表記されました。
[23]
天皇の他、[[神功皇后]]の時代についても、
「冬十月癸亥朔甲子、群臣尊皇后曰皇太后。是年也、太歲辛巳。則爲攝政元年。
二年冬十一月丁亥朔甲午、[SNIP[]]」 [SRC[>>22]]
のように同様の方法で記述されました。
次巻では「攝政六十九年夏四月。」 [SRC[>>25]] のように参照されました。
[192] 天皇名は「[[天豐財重日足姫天皇]]」のような[[和風諡号]]で記述されました。
現在ではこれを「[[斉明天皇]]」
のような[[漢風諡号]]に置き換えて表記するのが一般的となっています。
簡略化して単に「[[斉明]]」のように表記することもあります。
;; [20] [[漢風諡号]]は[CITE[日本書紀]]よりも後の時代に[[追号]]されたとされています。
現存する[CITE[日本書紀]]写本には[[漢風諡号]]も巻名に併記されていますが、
[[漢風諡号]]成立後に追記されたと考えられています。
[89] [[神功皇后]]については、現在では
「神功皇后摂政[VAR[何]]年」、
「神功皇后[VAR[何]]年」、
「神功[VAR[何]]年」
といろいろな表記がみられます。
[EG[
[90] [[Wikipedia]] は「神功元年10月2日 - 神功69年4月17日」 (在位期間)
や「神功皇后69年4月17日」 (死去) のように表記しています [SRC[>>135]]。
]EG]
[FIG(railroad)[ [40] [VAR[年]]
= |
== =
=== ?
==== ?
===== |
====== [VAR[[[漢風諡号]]]]
====== [VAR[[[和風諡号]]]]
==== ?
===== |
====== [CODE[天皇]]
====== [CODE[皇后]]
====== [CODE[皇后摂政]]
====== [CODE[摂政]]
=== [VAR[[[漢数字]]数]]
== [VAR[[[干支][干支年]]]]
= [CODE[年]]
]FIG]
[21] [CITE[日本書紀]]の[[漢文]]原文では「天渟中原瀛眞人天皇元年」
のように[[元号年]]の表記の形を採っており、
現在もこの年を表記する際「天武天皇元年」のように元号風に取り扱う慣例となっていますが、
[CITE[日本書紀]]の一般的な[[書き下し文]]では
「天渟中原瀛眞人天皇の元年」などと[[助詞]]を挟んで2語として扱っているようです。
[[年]]以下についても「二年の春の二月甲辰の朔の乙巳」
のように[[助詞]]をいくつも挟んで[[書き下し文]]とするようです。
;; [31] [[漢文]]の書き下しで日付をどう処理するかに一般的な規則があったのかはわかりません。
後の[[元号年]]も「何々の何年」と[[助詞]]を挿入している例は見られるようです。
天皇名でも[[元号]]でも、どの時代の何年目という包含関係を明確に意識にあってそう書き下したのでしょう。
[545] 「[VAR[[[漢風諡号]]]]天皇」またはその省略形の
「[VAR[[[漢風諡号]]]]」
を[[疑似元号]]として用い、
[CITE[日本書紀]]に従い[[天皇]]の即位の頃を元年とする[DFN[天皇即位紀年]]は、
歴史学の議論や神社の由緒の記述などで現在まで使われています。
各種の[[元号一覧]]の類で、
[[元号]]以前の時代における[[元号]]に相当するものとされています。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[209] [[大化]]以前に[[神武天皇]]から[[皇極天皇]]まで、[[神功皇后]]を含めて
36個の[[擬似元号]]がありました。
[87] 基本的には[CITE[日本書紀]]の記述をそのまま皇紀元年から西暦645年に当てはめた形とされているようです。
[138] [[改元]]はそれぞれの初年の元日として扱われるようです。
;; [211] [[即位]]が前天皇の末年で、新天皇の元年よりも前の年である場合があります。
-*-*-
[4] [[皇紀]]は、[[神武天皇]]の即位年から起算した[[紀年法]]です。
[[神武天皇]]即位紀年の自然な延長ですが、
「神武天皇[VAR[何]]年」ではなく、
「皇紀[VAR[何]]年」などと表記されます。
[[日本の歴史]]のほとんどの期間を単調増加する年号で扱えるのが利点です。
もちろん[[神武天皇]]の時代から連続して用いられていたものではありません。
[[神武天皇]]の即位年から何年という数え方は[[南北朝時代]]頃から記録に残っているようです。
[[紀年法]]として実用されるようになったのは[[江戸時代]]頃でした。
[SEE[ [[皇紀]] ]]
[13] [[天皇即位紀年]]相互の関係は「太歳己卯」 [SRC[>>12]]
のごとき[[太歳]]の[[干支年]]の記述により知ることができました。
;; [14] [[皇紀]]や、各[[天皇即位紀年]]と[[西暦]]との関係は、
こうした記述をつなぎ合わせて求められました。
[42]
[CITE[日本書紀]]の[[景行天皇]]紀には、
「活目入彦五十狹茅天皇 [SNIP[]] 九十九年 [SNIP[]]
秋七月己巳朔卯己卯。太子即天皇位。因以改元。
是年也太歳辛未。 」 [SRC[>>41]]
とあり、新天皇即位により[[改元]]されたとありました。
[CITE[日本書紀]]で[[大化]]より前の「改元」の記事はこれだけです。
「[[建元]]」の記事はありません。
[REFS[
- [CITE[[[日本書紀]]]]
-- [5] [CITE@zh[日本書紀/卷第三 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 17:49:03 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89>
-- [12] [CITE@zh[日本書紀/卷第四 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 18:49:25 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%9B%9B>
-- [41] [CITE@zh[日本書紀/卷第七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-27 20:46:00 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%83>
-- [22] [CITE@zh[日本書紀/卷第九 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:47:37 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B9%9D>
-- [25] [CITE@zh[日本書紀/卷第十 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:50:57 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81>
-- [48] [CITE@zh[日本書紀/卷第十五 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:16:08 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%BA%94>
-- [11] [CITE@zh[日本書紀/卷第十七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-27 17:15:56 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83>
-- [65] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿五 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:29:45 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%BA%94>
-- [69] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿六 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 20:37:36 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%85%AD>
-- [72] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:49:15 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%B8%83>
-- [74] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿八 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:55:32 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E5%85%AB>
-- [75] [CITE@zh[日本書紀/卷第廿九 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 17:56:51 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%BB%BF%E4%B9%9D>
-- [18] [CITE@zh[日本書紀/卷第三十 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-25 19:06:54 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9B%B8%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89%E5%8D%81>
- [CITE[続日本紀]]
-- [80] [CITE@zh[續日本紀 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:05:22 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80>
-- [81] [CITE@zh[續日本紀/卷第二 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:32:33 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%BA%8C>
-- [84] [CITE@zh[續日本紀/卷第十七 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 18:27:43 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%BA%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E5%8D%81%E4%B8%83>
- [54] [CITE@zh[日本三代實錄 - 维基文库,自由的图书馆]] ([TIME[2019-04-28 13:37:50 +09:00]]) <https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%B8%89%E4%BB%A3%E5%AF%A6%E9%8C%84>
- [135] [CITE@ja[神功皇后 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-08 23:31:07 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%8A%9F%E7%9A%87%E5%90%8E>
]REFS]
-*-*-
[44]
[CITE[日本書紀]]と同じ時代を記した歴史書に[CITE[古事記]]がありますが、
[CITE[日本書紀]]ほど[[日付]]の記述は多くありません。
[45]
経過年数や人物の年齢を記したものの他に、
崩年が「壬子年十一月十三日」 [SRC[>>43]]
のように[[干支年]]と[[漢数字]]の[[月日]]で示されました。
例外的に「戊子年三月十五日癸丑日」 [SRC[>>43]]
と[[日干支]]も併記したものもありました。
[FIG(railroad)[
= [VAR[[[干支][干支年]]]]
= [CODE[年]]
= [VAR[月]]
= [VAR[[[漢数字]]数]]
= [CODE[日]]
= ?
== [VAR[[[干支][日干支]]]]
== [CODE[日]]
]FIG]
[46] [CITE[古事記]]の範囲は[[元号]]の建てられる前の[[推古天皇]]の時代まででした。
しかし序文には
「和銅四年九月十八日」、
「和銅五年正月廿八日」
と[[元号]]の[[日付]]が書かれました [SRC[>>43]]。
[REFS[
- [47] [CITE@ja[古事記 上-1 併序]] ([TIME[2014-06-02 16:53:02 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_01.html>
- [43] [CITE@ja[古事記 下-4 清寧天皇記~推古天皇記]] ([TIME[2014-06-05 17:33:31 +09:00]]) <http://www.seisaku.bz/kojiki/kojiki_17.html>
]REFS]
-*-*-
[26] [CITE[[[日本書紀]]]]には[[支那]]や[[朝鮮]]の歴史書の[[引用]]という形で、
「魏志云、明帝景初三年六月、」[SRC[>>22]]、
「百濟記云、壬午年、」[SRC[>>22]]、
「六十六年。是年、晉武帝泰初二年。」 [SRC[>>22]]
といった形の年の表現も一部に含められました。
[413]
[[和暦]]の実装の中には、
最初の[[元号]]である[[大化]]より前の時代をすべて[[大化]]として扱い、
[[建元]]前は0年や負の年とするものもあります。
あまり一般的な[[紀年法]]ではありませんし、
意図せず、または実装の便宜上採られた方法と思われます。
適切な年の表現方法とは思われませんから、
これに倣うべきではありません。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[55]
[CITE[日本書紀]]と[CITE[古事記]]の自然な解釈は寿命や記述の矛盾が生じるため、
そのまま歴史的事実とすることはできません。
記紀や他の史料をどう解釈するべきかについて、
古くから様々な議論があります。
[SEE[ [[紀年論]] ]]
* 支那元号
[99]
[[東大寺山古墳]]出土中平銘大刀
([[日本国]][[奈良県]][[天理市]])
には、
「中平□□ 五月丙午」
とありました。「中平□年」は[[漢]]の[[元号]] ([TIME[184][year:184]] - [TIME[189][year:189]])
であり、「五月丙午」は実日付ではなく[[吉日]]の意であると解されています。
[SRC[>>96]]
[57] 3世紀頃の[[支那王朝の元号][支那の元号]]が記された[[鏡]]が日本各地で見つかっています
[SRC[>>58, >>56]]。
[102]
[[石上神宮]] ([[日本国]][[奈良県]][[天理市]]) の[[七支刀]]には、
「泰□四年□月十六日丙午」とありました。
この刀は[[百済]]から[[日本]]に贈られたものとされています。
[TIME[西晋泰始四年][year:286]]、
[TIME[東晋太和四年][year:369]]、
[TIME[劉宋泰始四年][year:468]]なとの説が示されました。
[[百済]]の元号とする説もありましたが、
当時[[百済]]では[[干支年]]が用いられたとし否定されています。
[SRC[>>100]]
[REFS[
- [58] [CITE@ja[銅鏡 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-27 11:00:28 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%85%E9%8F%A1#.E7.B4.80.E5.B9.B4.E9.8A.98.E9.8F.A1>
- [56] [CITE@ja[三角縁神獣鏡 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-30 16:43:18 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%A7%92%E7%B8%81%E7%A5%9E%E7%8D%A3%E9%8F%A1#.E7.B4.80.E5.B9.B4.E9.8A.98.E3.82.92.E3.82.82.E3.81.A4.E4.B8.89.E8.A7.92.E7.B8.81.E7.A5.9E.E7.8D.A3.E9.8F.A1>
- [100] [CITE@ja[七支刀 - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-04 17:06:27 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80>
]REFS]
* 干支年
[2]
古代[[日本]]では[[干支年]]が主に使われました。
[95]
[[隅田八幡神社人物画像鏡]]
([[日本国]][[和歌山県]][[橋本市]])
には「癸未年八月」とあり、
[TIME[西暦443年][year:0443]]または[TIME[503年][year:0503]]とされています
[SRC[>>94]]。
[97]
[[稲荷山古墳出土鉄剣]]
([[日本国]][[埼玉県]][[行田市]])
には「辛亥年七月」とあり、
[TIME[471年][year:0471]] (一説[TIME[531年][year:531]])
とされています。
[SRC[>>96]]
[98]
[[江田船山古墳出土鉄刀]]
([[日本国]][[熊本県]])
には[[干支年]]はありませんが
「治天下獲□□□鹵大王世[SNIP[]]八月[SNIP[]]」
とあり、
[[獲加多支鹵大王]]の治世の8月と解されています。 [SRC[>>96]]
[103]
[[元岡古墳群]]出土金錯銘大刀
([[日本国]][[福岡県]][[福岡市]])
には「大歳庚寅正月六日庚寅日時」とあり、
[TIME[570年][year:570]]と解されています。 [SRC[>>96]]
[199]
[[箕谷2号墳]] ([[日本国]][[兵庫県]][[養父市]]) 出土[[戊辰年銘大刀]]には
「戊辰年五月」とあり、
[TIME[[LINES[推古天皇16][608]]年][year:608]]と解されています。 [SRC[>>200]]
[64]
[[法隆寺釈迦三尊像]]台座墨書に「辛巳年八月九月」とあり、
[TIME[推古天皇29年][year:0621]]と解されています。 [SRC[>>59]]
[202]
[[穴太廃寺]] ([[日本国]][[滋賀県]][[大津市]]) 出土平瓦片には
「庚寅年」、「壬辰年」とあり、
それぞれ[TIME[630年][year:630]]、
[TIME[632年][year:632]]と解されています。 [SRC[>>201]]
[62]
7世紀の遺跡からは[[干支]]紀年を持つ[[木簡]]が多く出土しています。 [SRC[>>59]]
[60]
[[前期難波宮跡]] ([[日本国]][[大阪府]][[大阪市]]) で出土した[[木簡]]には「戊申年」
との記述があり、[TIME[大化4年][year:0648]]を指すと解されています。
[SRC[>>59]]
[61]
[[三条九ノ坪遺跡]] ([[日本国]][[兵庫県]][[芦屋市]]) で出土した[[木簡]]には
「三壬子年」とあり、
[TIME[白雉三年][year:0652]]を指す可能性が高いとされています。 [SRC[>>59]]
[206]
[[夏見廃寺]] ([[日本国]][[三重県]][[名張市]]) で出土した
大形多尊塼仏片には「甲午年」とあり、
[TIME[649年][year:649]]と解されています [SRC[>>212]]。
[204]
[[野中寺]]
([[日本国]][[大阪府]][[羽曳野市]])
塔跡出土平瓦に
「庚戌年正月」
とあり、
[TIME[650年][year:650]]と解されています。 [SRC[>>205]]
[203]
[[野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像]]
([[日本国]][[大阪府]][[羽曳野市]])
銘文に
「丙寅年四月□八日癸卯開」
とあり、
[TIME[666年][year:666]]と解されています。
[SEE[ [[野中寺銅造弥勒菩薩半跏思惟像]] ]]
[126]
[[船氏王後墓誌]]
([[日本国]][[大阪府]])
には「阿須迦天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅」、
「戊辰年十二月」
とあり、それぞれ641年、668年と解されています。
日本で現存する墓誌の最古の紀年とされていますが、
成立はそれよりやや遅れて7世紀の終わり頃とされています。
[SRC[>>124, >>125]]
[213]
[[那須国造碑]]
([[日本国]][[栃木県]][[大田原市]])
に
「永昌元年己丑四月」、
「歳次康子年正月二壬子日辰節」
とあり、
[[唐]]の[[元号][支那の元号]]と[[干支年]]で[TIME[689年][year:689]]と、
[[干支年]]で
[TIME[700年][year:700]]と解されています。 [SRC[>>214]]
-*-*-
[3]
[[干支年]]は60年で一周し区別ができなくなってしまうため
[[大宝律令]]以後[[元号年]]が採用されました。
[63]
8世紀になると[[干支年]]の紀年を持つ木簡の出土例は少なくなっています。 [SRC[>>59]]
[218]
[[上野三碑]] ([[日本国]][[群馬県]][[高崎市]])
にはそれぞれ
「辛巳歳集月三日」 [SRC[>>215]]、
「和銅四年三月九日甲寅」 [SRC[>>216]]、
「神亀三年丙寅二月二十九日」 [SRC[>>217]]
とあり、
[TIME[[LINES[天武10][681]]年][year:681]]、
[TIME[711年][year:711]]、
[TIME[726年][year:726]]と解されています。
律令の施行による[[干支年]]から[[元号年]]への移行が東国でも同時期になされた証左と評されています。
[REFS[
- [59] [CITE[黎明期の日本古代木簡]],
[[市大樹]],
[TIME[2015-03-31]]
([TIME[2019-05-12 14:41:16 +09:00]]) <https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2228&item_no=1&page_id=13&block_id=41>
- [96] [CITE@ja[鉄剣・鉄刀銘文 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-26 11:45:14 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%89%84%E5%89%A3%E3%83%BB%E9%89%84%E5%88%80%E9%8A%98%E6%96%87>
- [94] [CITE@ja[[[隅田八幡神社人物画像鏡]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-08 21:44:09 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E7%94%BB%E5%83%8F%E9%8F%A1>
- [124] [CITE@ja[船氏王後墓誌 | 大阪府柏原市]] ([TIME[2019-02-05 10:23:33 +09:00]]) <http://www.city.kashiwara.osaka.jp/docs/2016081400033/?doc_id=5199>
- [125] [CITE@ja[船王後 - Wikipedia]] ([TIME[2019-04-30 22:59:06 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%B9%E7%8E%8B%E5%BE%8C>
- [200] [CITE@ja[まちの文化財(87) 日本最古の辰年文字/養父市]] ([[養父市役所]]著, [TIME[2019-05-20 14:57:55 +09:00]]) <https://www.city.yabu.hyogo.jp/6231.htm>
- [201] [CITE@ja[[[穴太廃寺]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-06 15:04:30 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%B4%E5%A4%AA%E5%BB%83%E5%AF%BA>
- [205] [CITE@ja[野中寺]] ([TIME[2019-04-28 23:23:03 +09:00]]) <http://www9.plala.or.jp/kinomuku/yachuji/yachuji.html>
- [212] [CITE@ja[[[夏見廃寺]] - Wikipedia]] ([TIME[2019-05-05 11:20:20 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E8%A6%8B%E5%BB%83%E5%AF%BA>
- [214] [CITE@ja[[[那須国造碑]](なすのくにのみやつこのひ) 国宝(古文書) | 大田原市]] ([TIME[2018-12-31 23:55:52 +09:00]]) <http://www.city.ohtawara.tochigi.jp/docs/2013082778383/>
- [215] [CITE@ja[[[上野三碑]]:[[山上碑]]及び古墳 | 高崎市]] ([TIME[2019-01-08 13:08:55 +09:00]]) <https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/02.html>
- [216] [CITE@ja[[[上野三碑]]:[[多胡碑]] | 高崎市]] ([TIME[2019-01-08 13:08:55 +09:00]]) <https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/03.html>
- [217] [CITE@ja[[[上野三碑]]:[[金井沢碑]] | 高崎市]] ([TIME[2019-01-08 13:08:55 +09:00]]) <https://www.city.takasaki.gunma.jp/info/sanpi/04.html>
]REFS]
* 元号の導入
** 大化
[66]
[[大化の改新]]で[[元号]]として[[大化]]が[[建てられ][建元]]ました。
これが[[日本]]の最初の[[公年号]]とされています。
[67]
[CITE[日本書紀]]には、
「天豐財重日足姫天皇四年六月 [SNIP[]]
乙卯。 [SNIP[]] 改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年。」 [SRC[>>65]]
のように[[天豐財重日足姫天皇]] ([[皇極天皇]]) の4年を大化元年に改めたとあり、
以後
「大化元年秋七月丁卯朔戊辰。」 [SRC[>>65]]
のごとく[[大化]]の[[元号]]を使って[[年]]が表記されました。
[319] [[Wikipedia]] の[[孝徳天皇]]記事は645年を当初[[皇極天皇]]4年、
[TIME[6月14日][kyuureki:0645-06-14]]から
[TIME[19日][kyuureki:0645-06-19]]まで[[孝徳天皇]]元年、
[TIME[19日][kyuureki:0645-06-19]]から大化元年としています [SRC[>>318]]。
[[Wikipedia]] の他の記事 [SRC[>>322]] や元号一覧は[[大化]]開始日の
[TIME[6月19日][kyuureki:0645-06-19]]まで皇極天皇4年としています。
[321] [CITE[[[日本書紀]]]]が「天豊財重日足姫天皇の四年を改めて大化元年とす」
としており、[[孝徳天皇]]の即位から[[大化]]の[[建元]]までの
5日間を「孝徳天皇元年」のように特別扱いしていません。
[[天皇即位紀年]]と[[元号]]の両方に対応する対照表やソフトウェアの類のほとんども同様であり、
これが適切な処置と思われます。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[REFS[
- [320] [CITE@ja[大化 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-19 14:26:18 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96>
- [318] [CITE@ja[孝徳天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-23 09:00:05 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [322] [CITE@ja[645年 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-14 06:42:09 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/645%E5%B9%B4>
]REFS]
** 白雉
[107] [[孝徳天皇]]の治世の最初の[[元号]]だった[[大化]]は、
[[改元]]されて[[白雉]]となりました。
ところが[[孝徳天皇]]の崩御後[[白雉]]の[[元号]]は使われなくなり、
次の[[元号]]は[[建てられ][建元]]ませんでした。
[68] [CITE[日本書紀]]は大化5年までの記事の後、
「白雉元年春正月辛丑朔。[SNIP[]]
二月庚午朔戊寅。 [SNIP[(白雉献上の記事)]]
甲寅。 [SNIP[]] 改元白雉。 [SNIP[]]」 [SRC[>>65]]
とあり、2月に大化6年から白雉元年に[[改元]]されたことがわかりますが、
[[年始に遡って][立年改元]]大化6年ではなく白雉元年としていました。
その後白雉5年まで記事が続きました。
[SEE[ [[白雉]] ]]
[70] [CITE[日本書紀]]の次の[[天豐財重日足姫天皇]] ([[斉明天皇]]) 紀には
「天萬豐日天皇。後五年十月崩。 」 [SRC[>>69]]、
その次の[[天命開別天皇]] ([[天智天皇]]) 紀には
「天萬豐日天皇後五年十月崩。」 [SRC[>>72]]
とあり、
[[孝徳天皇]]が白雉5年10月に崩御したことを
「後五年十月」と表記していました。
[316] [[Wikipedia]] の元号一覧および個別記事 [SRC[>>317]]
では、[[白雉]]の最終日は[[旧暦]]白雉5年10月10日
([[ユリウス暦]]654年11月24日) となっています (空白期開始日も同日)。
それ以後は[[孝徳天皇]]の[[即位紀年][天皇即位紀年]]を使っています [SRC[>>318]]。
10月11日以後[[孝徳天皇]]10年とする対照表もあります [SRC[>>323]]。
[330]
[[白雉]]の[[元号]]がこの日に終わったとする根拠は、
[[孝徳天皇]]の[[崩御]]によって[[元号]]が用いられるべき期間が終了したとの考え方と思われます。
だとすれば[[元号]]不在だからといって崩御後の[[孝徳天皇]]の[[即位紀年][天皇即位紀年]]で代用するというのもおかしな話です。
[108]
[CITE[日本書紀]]同様に崩御後も年末まで[[白雉]]元年とする対照表もあり [SRC[>>329]]、
他の[[天皇即位紀年]]や[[朱鳥]]との整合性からもそちらの方が適切でしょう。
[190] [SEE[ 白雉後の空白期の処理についても参照: >>85 ]]
[REFS[
- [317] [CITE@ja[白雉 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-19 14:08:54 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%89>
- [329] [CITE[古代史年表(欽明天皇~元明天皇)]] ([TIME[2016-01-19 15:27:53 +09:00]] 版) <http://www.ookuninushiden.com/newpage1.html>
- [323] [CITE@ja[和暦・西暦対照表〔インデックス〕-公卿類別譜(公家の歴史)]] ([TIME[2016-01-19 14:48:31 +09:00]] 版) <http://www.geocities.jp/okugesan_com/taishohyo/index.html>
-- [[大化]]-[[改暦]]前
-- 消失確認 [TIME[2019-05-13T11:04:52.100Z]]
-- [CITE@ja[和暦・西暦対照表〔インデックス〕-旧暦変換]] ([TIME[2019-05-13 20:04:23 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20190329032818/www.geocities.jp/okugesan_com/taishohyo/index.html>
]REFS]
** 斉明天皇
[71] [[斉明天皇]]は[[皇極天皇]]の[[重祚]]でしたが、
[CITE[日本書紀]]は[[皇極天皇]]紀年でも[[白雉]]の続きでもなく、
二度目の即位の年 (白雉6年) を
「元年」としていました [SRC[>>69]]。
** 天智天皇
[73] [[天智天皇]] ([[中大兄皇子]]) は斉明天皇7年7月に[[称制]]しましたが、
[CITE[日本書紀]]天智天皇紀はこの年を (斉明天皇) 「七年」と表記し、
翌年を「元年」としていました。
[[即位]]を経て10年まで数えていました。 [SRC[>>72]]
各種対照表などもこれに倣っているようです [SEE[ [[元号一覧]] ]]。
[143] ただし一部に斉明天皇7年を置かず天智天皇元年とするものがあり、
この方法では1年早くなるので、注意が必要です (>>181)。
[221] [CITE[日本書紀]]天武天皇紀は、
「天命開別天皇元年立爲東宮。
四年冬十月庚辰。 [SNIP[]]
十二月。天命開別天皇崩。」 [SRC[>>74]]
としていました。
ここでの天命開別天皇 (天智天皇) 元年、4年とは、
[[天智天皇]]の[[即位]]の年から数えた年
([[天智天皇]]紀の7年、10年)
でした。
[222] つまり天智天皇[VAR[何]]年という[[紀年法]]は[CITE[日本書紀]]だけで
2通り、合計で少なくても3通りあります。
** 壬申の乱
[76] [[天智天皇]]没後、
[[弘文天皇]] ([[大友皇子]])
との[[壬申の乱]]を経て[[天武天皇]]
([[大海人皇子]]) が即位しました。
[CITE[日本書紀]]は[[弘文天皇]]の即位を認めず、
天武天皇10年の翌年を[[天渟中原瀛眞人天皇]] ([[天武天皇]])
の元年としていました [SRC[>>74]] (㋐)。
[111] [CITE[日本書紀]]を引用する[[学術論文]]や [[Webページ]]はもちろんのこと、
それ以外の記事や対照表の類 [SRC[>>323, >>347]]
でも多くは[CITE[日本書紀]]に倣っています [SEE[ >>115]] (㋐)。
[134] [CITE[Wikipedia]] の各記事 [SRC[>>132, >>133]] は、
671年を天智天皇10年、
672年を天武天皇元年としています (㋐)。ただし、 (㋒):
- [480] 日付記事は
672年を[[弘文天皇]]元年かつ[[天武天皇]]元年と併記しています
[SRC[>>479, >>481]] (㋑)。
- [112] [CSECTION[天智天皇]]記事は
672年を括弧書きで天智天皇11年としています
[SRC[>>136]]。
- [483] [CSECTION[天武天皇]]記事は、
基本的に[CITE[日本書紀]]と同じ方式 (㋐) ですが、
なぜか年表でのみ
672年を[[弘文天皇]]元年、
673年を[[弘文天皇]]2年とし、
以後[CITE[日本書紀]]と同じ方式
(㋐と同じく[[天武天皇]]元年は672年)
としています。
[91] [[弘文天皇]]の[[即位]]を認め[[天皇即位紀年]]を建てる立場であっても、
[CITE[日本書紀]]に倣い[[踰年称元]]を採り
672年を元年とするもの (㋒㋓) と、
[[即位]]の671年を元年とするもの (㋔) があるようです。
[185]
[[弘文天皇]]を認め[[天武天皇]]の元年を即位年とする場合
[TIME[673年][year:673]]が元年となり (㋓㋔)、
[CITE[日本書紀]]より1年遅れます。
[172]
[[辞書]]類では[[弘文天皇]]に関する記事で天武天皇元年ではなく弘文天皇元年とするものが多いようです
[SRC[>>159]]。かといってそれによって天武天皇年を遅らせることも無いようです (㋑)。
[180]
一方で[[対照表の類][元号一覧]]でしばしば天武天皇年を遅らせる方式
(㋓㋔) が採用されているようで
[SRC[>>113, >>50]]、 [[Webページ]]などでもそれに従うものがいくらか見られます
[SEE[ >>120 ]]。
[181] [CITE[日本年号史大事典]] 巻末年号対照表は[[天皇即位紀年]]と[[元号]]を併記し、
この期間の[[元号]]は空欄となっていますが、[[天皇即位紀年]]については[[天智天皇]]を[[称制]]開始年を元年とするため他より1年早く、
[[弘文天皇]]も即位を元年とするため[[壬申の乱]]より1年早く2年間、
[[天武天皇]]もまた即位を元年としています
(それらの前の[[斉明天皇]]は[CITE[日本書紀]]と同年)。
[[天武天皇]]年については[CITE[日本書紀]]との違いの注記があります。
(㋔)
[182]
この時代の出来事を検討する上で[CITE[日本書紀]]は避けて通れません。
[CITE[日本書紀]]以来1000年以上にわたり、
各種文献、論文、 [CITE[Wikipedia]]、[CITE[日本の暦日データベース]]、
多数の [[Webページ]]などが[CITE[日本書紀]]方式 (㋐) で各年に言及してきました。
この天武天皇紀年をずらすことは混乱の元でしかなく、
好ましい選択には思えません。
一方で[[明治政府]]が[[弘文天皇]]の即位を認めて以来[[壬申]]年を弘文天皇紀年で表現する方法
(㋑㋒㋓) が広く行われているのも事実です。
この方法を無視することはできそうにありません。
従って、[[対照表や実装の類][元号一覧]]は、
次のような方針を採るべきでしょう。
- [183] [[壬申]]年は天武天皇元年とする。 (㋐)
- [186] 複数表現を認める場合、[[壬申]]年に弘文天皇元年を併記する。 (㋑)
- [187] 天皇即位紀年''から''の変換等では天武天皇および弘文天皇の[[壬申]]年元年に対応する。
天智天皇紀年の延長にも対応する
[WEAK[(これはどの[[天皇即位紀年]]や[[元号]]でも一般に行うべき [SEE[ [[改元]] ]])]]。
(㋒)
- [188] 天皇即位紀年''から''の変換等で複数候補を併記できるときは、
他の可能性にも言及する。 (㋓㋔)
[FIG(table)[
:ad: [[西暦年]]
:k: [[干支年]]
:a: ㋐
:i: ㋑
:u: ㋒
:e: ㋓
:o: ㋔
:note: 注記
:ad: [TIME[670][year:670]]
:k: [[庚午]]
:a: 天智9年
:i: 天智9年
:u: 天智9年
:e: 天智9年
:o: 天智10年
:ad: [TIME[671][year:671]]
:k: [[辛未]]
:a: 天智10年
:i: 天智10年
:u: 天智10年
:e: 天智10年
:o: 弘文元年
:note: [[天智天皇]]崩御、
[[弘文天皇]]治世
:ad: [TIME[672][year:672]]
:k: [[壬申]]
:a: 天武元年
:i:
天武元年、
弘文元年
:u:
天武元年、
弘文元年、
天智11年
:e: 弘文元年
:o: 弘文2年
:note: [[壬申の乱]]、
[[弘文天皇]]崩御
:ad: [TIME[673][year:673]]
:k: [[癸酉]]
:a: 天武2年
:i: 天武2年
:u: 天武2年、
弘文2年
:e: 天武元年
:o: 天武元年
:note: [[天武天皇]]即位
:ad: [TIME[674][year:674]]
:k: [[甲戌]]
:a: 天武3年
:i: 天武3年
:u: 天武3年
:e: 天武2年
:o: 天武2年
]FIG]
[REFS[
- [136] [CITE@ja[天智天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-06 22:37:16 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [132] [CITE@ja[壬申の乱 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-30 09:54:11 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1>
- [133] [CITE@ja[弘文天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-29 00:04:24 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [479] [CITE@ja[8月3日 - Wikipedia]] ([TIME[2016-02-06 00:46:25 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/8%E6%9C%883%E6%97%A5>
- [481] [CITE@ja[672年 - Wikipedia]] ([TIME[2016-01-14 06:53:06 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/672%E5%B9%B4>
- [482] [CITE@ja[天武天皇 - Wikipedia]] ([TIME[2016-02-04 08:50:14 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [333] [CITE@ja[suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本]] ([TIME[2016-01-19 18:00:04 +09:00]] 版) <http://hosi.org/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC>
-- >>50 と同じ
-- [109] [CITE@ja[suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本/補足/天武天皇元年]] ([TIME[2019-05-15 13:04:21 +09:00]]) <http://hosi.org/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC%2F%E8%A3%9C%E8%B6%B3%2F%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%85%83%E5%B9%B4>
-- [113] 出典: [CITE[[[コンサイス世界年表]]]]
- [159] [CITE@ja[壬申の乱(じんしんのらん)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:24:12 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%A3%AC%E7%94%B3%E3%81%AE%E4%B9%B1-82010>
-- [160] [CITE[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]
--- 「天武1 (672) 年」 ㋑
-- [161] [CITE[世界大百科事典 第2版]]
--- 「672年(天武1,壬申の年)」 ㋐
-- [162] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「672年(弘文天皇1)」「671年(天智天皇10)」 ㋑
- [163] [CITE@ja[天武天皇(てんむてんのう)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:28:16 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87-102805>
-- [164] [CITE[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]
--- 「天智7 (668) 年」「弘文1 (672) 年」 ㋑
-- [165] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「668年(天智天皇7)」 ㋑
- [166] [CITE@ja[弘文天皇(こうぶんてんのう)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,百科事典マイペディア,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:34:25 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%BC%98%E6%96%87%E5%A4%A9%E7%9A%87-63126>
-- [167] [CITE[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典]]
--- 「弘文1(672)」「天智 10 (671) 年」 ㋑
-- [168] [CITE[デジタル版 日本人名大辞典+Plus]]
--- (弘文天皇が)「天武天皇元年7月23日自決」 ㋐
-- [169] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「671年(天智天皇10)」「672年(弘文天皇1)」 ㋑
-- [171] [CITE[精選版 日本国語大辞典]]
--- 「弘文元年(六七二)」
- [173] [CITE@ja[大伯皇女(おおくのこうじょ)とは - コトバンク]] ([[ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,デジタル大辞泉,デジタル版 日本人名大辞典+Plus,朝日日本歴史人物事典,世界大百科事典 第2版,大辞林 第三版,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典]]著, [TIME[2019-05-15 17:51:06 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%BC%AF%E7%9A%87%E5%A5%B3-39126>
-- [174] [CITE[朝日日本歴史人物事典]]
--- 「天武2(673)年」
-- [175] [CITE[世界大百科事典 第2版]]
--- 「673年(天武2)」
- [176] [CITE@ja[矢田寺(ヤタデラ)とは - コトバンク]] ([[デジタル大辞泉,日本大百科全書(ニッポニカ),精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典内言及]]著, [TIME[2019-05-15 17:52:36 +09:00]]) <https://kotobank.jp/word/%E7%9F%A2%E7%94%B0%E5%AF%BA-648520>
-- [178] [CITE[デジタル大辞泉]]
--- 「天武天皇2年(673)」
-- [179] [CITE[日本大百科全書(ニッポニカ)]]
--- 「673年(天武天皇2)」 ㋑
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[50] [CITE@ja[suchowan's UniWiki Calendar/When/Exe/暦説明/本編/日本]]
([TIME[2016-01-10 15:17:11 +09:00]] 版)
<http://www2u.biglobe.ne.jp/~suchowan/u/wiki.cgi?Calendar%2FWhen%2FExe%2F%E6%9A%A6%E8%AA%AC%E6%98%8E%2F%E6%9C%AC%E7%B7%A8%2F%E6%97%A5%E6%9C%AC>
]FIGCAPTION]
> 改元の日付は三省堂の『コンサイス世界年表』[6]に拠りました。
[SNIP[]]
> 弘文天皇の在位の解釈により天武天皇元年 が1年食い違う史料もありますが(というか弘文天皇は明治になってから認められた 天皇なのでたいていの古文献では1年ずれているはず)、やはりコンサイス世界年表 に従ってAD673年を天武元年としています(指摘してくださったykawazoeさんありがとう ございます)。どうしても日本書紀[8]に合わせたい場合は、whenhv.exe と shoki.rsc を組み合わせて使用してください。
]FIG]
- [19] [CITE[HuTime - 時間基盤情報-暦変換(和暦)]] ([TIME[2019-05-03 17:17:57 +09:00]]) <http://www.hutime.jp/basicdata/calendar/calendars/Japanese.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[101] >>19
]FIGCAPTION]
> 「神武天皇」から「文武天皇」まで
> 『日本書紀』および『続日本紀』(ともに『日本国史大系』(吉川弘文館刊)収録のもの)の記述に従っています。
> (1)年号名および改元日が記されているものはそれによる(大化、白雉、朱鳥)。
> (2)年号がないものは天皇(または皇后)の名称を年号として用いる。この場合、各史料に元年と記された年の1月1日をもって年号を改める(即位日ではない)。ただし、持統天皇11年丁酉(日本書紀)と文武天皇元年丁酉(続日本紀)は同じ年であるため、この年は文武天皇の即位日から年号を「文武天皇」として扱う。なお、弘文天皇は入力のみ対応する(出力時は「天武天皇」)。
]FIG]
[FIG(list)[ [115] 天武天皇元年[LINES[壬][申]]672年
- [CITE[日本書紀]]を引用するものや
[CITE[Wikipedia]] を出典とするものなどは一々挙げていない。
- [114] [CITE[古戦場めぐり「壬申の乱・関ケ原の戦い(岐阜県関ケ原町)」 | mixiユーザー(id:7184021)の日記]] ([TIME[2019-05-15 16:28:44 +09:00]]) <https://open.mixi.jp/user/7184021/diary/1956030734>
- [116] [CITE@ja[飛鳥浄御原宮]] ([TIME[2019-05-15 16:30:03 +09:00]]) <https://tabi-mag.jp/na0373/>
- [117] [CITE[図説 尼崎の歴史-古代編]] ([TIME[2011-08-13 20:28:34 +09:00]]) <http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/01kodai/kodai2-0.html>
- [118] [CITE@ja[壬申の乱|合戦・歴史年表【刀剣ワールド(刀剣広場)】]] ([TIME[2019-05-15 16:31:20 +09:00]]) <https://www.touken-world.jp/tips/7781/>
- [122] [CITE@ja[天武天皇が吉野に赴く途中に立ち寄った許波多神社 | 京都観光旅行のあれこれ]] ([TIME[2019-05-15 16:35:15 +09:00]]) <https://kyotohotelsearch.com/blog/2013/10/15/kohatajinjaoama/>
- [123] [CITE[天皇号の成立(聖徳太子と推古天皇の真実)]] ([[塚田敬章]]著, [TIME[2019-03-30 15:19:41 +09:00]]) <http://www.eonet.ne.jp/~temb/14/tennougou.htm>
- [127] [CITE[会長挨拶 / 花光和久 会長]] ([TIME[2018-07-30 11:24:30 +09:00]]) <http://chibawest-rc.net/wp-content/uploads/2018/07/2026.pdf#page=1>
-- 「672年(天武天皇元年/弘文天皇元年6月24日)」
-- [[Wikipedia]] ㋑ が出典か?
- [137] [CITE@ja[草莽崛起ーPRIDE OF JAPAN 672年(天武天皇元年/弘文天皇元年6月24日) - 大海人皇子(後の天武天皇)が弘文天皇を討つ為に吉野を出発。壬申の乱の始まり。]] ([[日本会議地方議員連盟]]著, [TIME[2019-05-14 19:53:57 +09:00]]) <http://prideofjapan.blog10.fc2.com/blog-entry-4990.html>
-- 同前か
- [129] [CITE[国の文化審議会の答申について] ([TIME[2017-10-03 00:00:00 +09:00]]) <https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/2045255.pdf>
- [130] [CITE[壬申の乱]] ([TIME[2019-02-19 23:48:56 +09:00]]) <http://houki.yonago-kodaisi.com/F-Ran-Jinsin-ran.html>
- [131] [CITE[瀬田商工会]] ([TIME[2016-01-08 17:12:16 +09:00]]) <http://www.setacai.com/chiiki/index6.html>
- [145] [CITE[第39代 弘文天皇]] ([TIME[2019-04-26 11:07:30 +09:00]]) <http://sakuwa.com/yw-18.html>
- [146] [CITE[第7章 藤原宮跡から出土した馬の飼育形態と産地推定] ([TIME[2016-05-12 11:47:36 +09:00]]) <https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/5546/1/BB20962352_076_087.pdf>
- [147] [CITE[元号と天皇陛下]] ([TIME[2019-03-19 13:38:23 +09:00]]) <http://vecs.co.jp/img/vecslife27.pdf#page=2>
- [148] [CITE@ja[神社人 - 天武天皇社]] ([[culcharge]]著, [TIME[2019-05-14 19:45:11 +09:00]]) <http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=7989>
- [150] [CITE[天皇の一覧 - tennou.pdf]] ([TIME[2017-08-25 15:06:36 +09:00]]) <http://kobichin.sub.jp/tyousen7c/siryou/tennou.pdf>
- [151] [CITE[歴代天皇一覧 -- Key:雑学事典]] ([TIME[2009-10-27 18:20:03 +09:00]]) <http://www.7key.jp/data/tennou.html>
- [152] [CITE@ja[西暦671年〜680年 - 歴史]] ([TIME[2019-01-05 13:21:57 +09:00]]) <http://www.el-xiii.com/history/timeline/ad1000/ad671-680.html>
- [154] [CITE@ja[飛鳥時代年表 - 日本史資料室]] ([TIME[2019-05-15 17:10:39 +09:00]]) <https://history.gontawan.com/nenpyo-asuka.html>
-- 「672年 弘文天皇元年
天武天皇元年」 ㋑
- [155] [CITE@ja[天武天皇 (てんむてんのう)とは【ピクシブ百科事典】]] ([TIME[2019-05-15 17:11:11 +09:00]]) <https://dic.pixiv.net/a/%E5%A4%A9%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
- [156] [CITE@ja[皇紀・年号・歴代天皇・歴代将軍 京都通百科事典]] ([TIME[2019-02-02 08:16:53 +09:00]]) <http://www.xn--1lq080npta.jp/WorldWide/Chronology.html>
- [157] [CITE@ja[歴代天皇系図(神代六) | 家系図作成本舗]] ([TIME[2019-03-11 10:56:57 +09:00]]) <https://www.e-keizu.com/kakeizu/tennou6.html>
- [158] [CITE@ja[壬申の乱~大海人皇子はなぜ、大友皇子と戦ったのか | WEB歴史街道]] ([TIME[2019-05-15 17:12:29 +09:00]]) <https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/4064>
]FIG]
[FIG(list)[ [120] 天武天皇元年[LINES[癸][酉]]673年
- [119] [CITE[宮城の庭園 | 一般社団法人 宮城県造園建設業協会ホームページ]] ([TIME[2019-05-15 16:31:53 +09:00]]) <http://www.miyagi-zoen.or.jp/garden/>
- [121] [CITE@ja[村屋坐弥富都比売神社(奈良・田原本町)]] ([TIME[2014-10-21 14:37:06 +09:00]]) <http://www.y-tohara.com/nara-mihutuhime.html>
-- 「社頭に掲げる案内には、
「
[SNIP[]]
天武天皇元年(673)壬申の乱のとき、
[SNIP[]]」とある [SNIP[]] 後段にいう“天武天皇元年云々”とは、書紀・天武元年(673)条にいう
[SNIP[]]
との記述を指す。」とある。
「(673)」との注記が現地案内にあるのかこのページの著者が補ったのか不明。
- [128] [CITE[土佐和紙年表1]] ([TIME[2010-02-02 23:53:24 +09:00]]) <http://www.tosawashi.or.jp/tosa/nenpyo1.html>
- [149] [CITE@ja[佛教入る]] ([TIME[2012-06-21 12:24:41 +09:00]]) <http://www.snk.or.jp/cda/kourataisya/13bukkyo.html>
- [153] [CITE[大海人皇子]] ([TIME[2019-05-15 17:10:11 +09:00]]) <http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/artifact/0000000210>
]FIG]
]REFS]
** 朱鳥と持統天皇
[77] [CITE[日本書紀]]には天武天皇14年の次に
「朱鳥元年春正月壬寅朔癸卯。 [SNIP[]]
秋七月己亥朔庚子。[SNIP[]]
戊午。改元曰朱鳥元年。〈朱鳥。此云阿訶美苔利。〉[SNIP[]] 」 [SRC[>>75]]
とありました。
ここでも[[元日から先立って][立年改元]][[朱鳥]]の元号が使われました。
[SEE[ [[朱鳥]] ]]
[78] 朱鳥元年9月の[[天武天皇]]崩御を境に[[高天原廣野姫天皇]] ([[持統天皇]]) 紀に続き、
[[持統天皇]]の[[称制]]から12月まで朱鳥元年の記事がありました。
その後改めて「元年」となり、以後持統天皇11年8月の[[譲位]]まで記事が続きました。
これが[CITE[日本書紀]]本文の最後でした。
[SRC[>>18]]
[93] 朱鳥は686年1年のみ [SRC[>>92]]
で[[天武天皇]]崩御後[[元号]]が用いられなくなったとするのが一般的な理解ですが、
687年を[[朱鳥]]2年として示す場合もみられます。
古い文献には[[朱鳥]]8年まで用例があります [SRC[>>92, >>269]]。
[141] [CITE[Wikipedia]]
の[[元号一覧]]は[[持統天皇]]の[[称制]]の日である朱鳥元年9月9日を[[朱鳥]]最終日とし、
以後空白期にしています。
しかし他の記事では、残りの期間も[[朱鳥]]元年として扱っています [SRC[>>207]]。
[327] 他の[[対照表の類][元号一覧]]も一般に686年末まで[[朱鳥]]元年、
687年初から[[持統天皇]]元年としています [SRC[>>323]]。
[193]
このように[[持統天皇]]元年を称制翌年の687年とすることが多いようですが、