-
Notifications
You must be signed in to change notification settings - Fork 4
/
6.txt
487 lines (385 loc) · 16 KB
/
6.txt
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
135
136
137
138
139
140
141
142
143
144
145
146
147
148
149
150
151
152
153
154
155
156
157
158
159
160
161
162
163
164
165
166
167
168
169
170
171
172
173
174
175
176
177
178
179
180
181
182
183
184
185
186
187
188
189
190
191
192
193
194
195
196
197
198
199
200
201
202
203
204
205
206
207
208
209
210
211
212
213
214
215
216
217
218
219
220
221
222
223
224
225
226
227
228
229
230
231
232
233
234
235
236
237
238
239
240
241
242
243
244
245
246
247
248
249
250
251
252
253
254
255
256
257
258
259
260
261
262
263
264
265
266
267
268
269
270
271
272
273
274
275
276
277
278
279
280
281
282
283
284
285
286
287
288
289
290
291
292
293
294
295
296
297
298
299
300
301
302
303
304
305
306
307
308
309
310
311
312
313
314
315
316
317
318
319
320
321
322
323
324
325
326
327
328
329
330
331
332
333
334
335
336
337
338
339
340
341
342
343
344
345
346
347
348
349
350
351
352
353
354
355
356
357
358
359
360
361
362
363
364
365
366
367
368
369
370
371
372
373
374
375
376
377
378
379
380
381
382
383
384
385
386
387
388
389
390
391
392
393
394
395
396
397
398
399
400
401
402
403
404
405
406
407
408
409
410
411
412
413
414
415
416
417
418
419
420
421
422
423
424
425
426
427
428
429
430
431
432
433
434
435
436
437
438
439
440
441
442
443
444
445
446
447
448
449
450
451
452
453
454
455
456
457
458
459
460
461
462
463
464
465
466
467
468
469
470
471
472
473
474
475
476
477
478
479
480
481
482
483
484
485
486
487
* 清末の諸紀年法
[SEE[ [[干支年]], [[孔子紀元]], [[黄帝紀元]], [[共和]], [[亡国紀年]], [[西暦]], [[仏暦]] ]]
[8]
[[清国]]時代の末期にはたくさんの[[紀年法]]が提案され、利用されました。
[4]
20種類以上の[[紀年法]]が存在するとされます。
[SRC[>>30]]
[7]
しかしそれらを一覧にした[[日本語]]のウェブサイトは見当たりません。
せいぜい主要な4,5個程度しか紹介していません。
[9]
各[[紀年法]]はその背景に政治思想がありました。
従来の[[中華王朝]]の伝統的な[[紀年法]]の体制からの脱却を狙いながらも、
[[紀年法]]が思想を体現するという[[東洋]]の伝統
[SEE[ [[紀年法の選択]] ]]
を色濃く受け継いでいました。
[10]
現代の[[中華人民共和国]]や[[日本]]では[[清末]]・[[辛亥革命]]期の政治思想研究などの分野で、
思想としての[[紀年法]]が研究されています。
[SEE[ [[黃帝紀元]], [[民国紀元]] ]]
[11]
従来の[[東アジア]]では中央勢力の支配を好ましからざるものと思っていて、
しかし対抗勢力を樹立するまでには至らぬような場合、
[[元号]]のかわりに[[干支年]]を使う伝統がありました。
[[干支年]]のみの[[紀年]]は必ずしも政治色が付かないので
(反抗的な意志がなくても使われ得る)、
[[清]]の時代にも普通に使われていて、
[[清末]]にもやはり使われ続けていました。
[[干支年]] (ないし[[太歳紀年法]]) の利用からその思想を読み解こうとする研究もあります。
[SEE[ [[干支年]] ]]
[12]
古い時代に[[元年]]を置いた[[紀年法]]は、
[[欧米]]の[[キリスト紀元]]や[[日本]]の[[皇紀]]に触発されたものと考えられています。
といっても[[キリスト紀元]]はそれこそ[[明]]や[[清]]初の頃から接触はあったのですから、
やはり直接的には清末の[[日本]]留学生が[[皇紀]]を体感したことが大きかったのでしょう。
[SEE[ [[黃帝紀元]] ]]
;; [14]
[[黃帝紀元]]のようなものは[[道教]]でそれ以前からの歴史があり、
[[宋]]末の頃には出現していたとされます。
また[[暦法]] (や[[占い]]) の世界では太古の昔に[[暦元]] ([[上元]])
を設定していました。
従って中華世界にもこうした[[紀年法]]の素地はあったのですが、
それが一般の[[日時表示]]のための[[年]]の表示法として普及はしていなかったのです。
[REFS[
-[30]
[CITE[[V[中国近代と「二十世紀」[BR[]]⸺中国人の時間意識 (三) ⸺]]]],
[[[V[遊佐徹]]]],
[TIME[2020-09-14T03:02:13.000Z]], [TIME[2021-08-30T09:16:45.756Z]] <https://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/files/public/5/53863/20160528123545957362/jfl_032_(109)_(122).pdf#page=12>
]REFS]
** 章炳麟の紀年法
[17]
[[辛亥革命]]期に活動した[RUBYB[[[章炳麟]]][[TIME[1869]]-[TIME[1936]]]]
([[章太炎]])
はいろいろな[[紀年法]]を使っていました。
-*-*-
[20]
[[著書]]
[CITE[訄書]]
は[TIME[西暦1900年][1900]]版、
[TIME[西暦1904年][1904]]版など、
その原稿含めいくつかの版が知られています。
[26]
[CITE[訄書]]
初刻版目次後の跋文には、
辛丑後238年とあります (>>25)。
[[辛丑]]とは、
[[明]]の[[皇帝]]家の最後の政権が[[清]]によって滅ぼされた、
[[南明]][[桂王]][TIME[永暦15(1661)年辛丑][1661]]を指します。
[SRC[>>19, >>6]]
[27]
[[辛丑後]]の解釈により、
[TIME[西暦1898年戊戌][1898]],
[TIME[西暦1899年][1899]]の2説があります。
[SEE[ [[亡国紀年]] ]]
[29]
[[章炳麟]]らの
[CITE[支那亡国二百四十二年紀念会啓]]
は辛丑後242年と書いていました。
[SEE[ [[亡国紀年]] ]]
[28]
また、同年12月とありますが、[[農暦]]によるものとされます。 [SRC[>>19]]
[41]
[CITE[訄書]]
重訂本に収録された文章の初稿に当たるものには、
辛丑後240年とありました (>>40)。
[TIME[西暦1900年][1900]]ないし[TIME[西暦1901年][1901]]に当たります。
しかしこの表現は刊行された重訂本にはありません。
[HISTORY[
[16]
この[[紀年]]を紹介したとある[[日本]]の[[平成時代]]の論文は
「[L[明が亡びた「辛丑」 (1661[BR[]]年) 後の「第二百三十八年」(1899年)]]」
と表現しました。
[SRC[>>6]]
この説明的な表現は日本語の文章としては悪くはないのでしょうが、
当該論文が[[紀年法]]の利用と思想の分析を目的としたものなのですから、
原文のニュアンスが失われるこのような表現の仕方は適切ではなかったように思われます。
]HISTORY]
[45]
[CITE[訄書]]
重訂本には序文部分に共和2741年と[[共和紀年]]の年表記があります (>>39, >>42)。
これは[TIME[西暦1900年][1900]]に当たります。
重訂本が出版された[TIME[西暦1904年][1904]]までに[[共和紀年]]を使うようになったことがわかります。
同書[[奥書]]も[[共和紀年]]で (>>43, >>44)
[TIME[西暦1904年][1904]]、
[TIME[西暦1907年][1906]]に当たります
[SRC[>>19]]。
[46] 不明瞭ですが、[[共和紀年]]も[[農暦]]と共に使っていたのでしょうか。
[50]
なお
[CITE[章太炎全󠄃集]]
は
「辛丑後」や「共和」の前に[[句点]]「。」を打って区切って、
「皇漢」を前文の終わりに入れています。
[SRC[>>18]] (>>31, >>42)
この前文は4字1句を連ねた構成になっているので、
最後の1句だけ6字1句とするよりは、
「皇漢」も[[日付][日時表示]]の一部と解する [SRC[>>49]]
のが妥当でしょう。
そのもう1文字前の「于」まで[[日付][日時表示]]の一部と解する
[SRC[>>51]]
ものもあり、それは[[于時]]のような表現を想定しているのでしょうが、
これは長く取りすぎでしょう。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [25]
[DATA(.label)[[CITE[訄書]] 初刻本]],
[[章炳麟]],
[DATA(.addr)[[[清国]][[上海]]]]
--
[31] [DATA(.label)[目次後]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]庶自完于皇漢。辛丑後二百三十八󠄂年[BR[]]十二月[SNIP[]]]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>23 p.[V[六]]]]
-
[37]
[DATA(.label)[[CITE[訄書]] 重訂本]],
[[章炳麟]]
--
[38]
[CSECTION(.label)[[V[訄書前󠄁錄]]]]
---
[40]
[DATA(.label)[上海図書館所蔵作者自校初刻本に書き入れられた初稿]]
「[DATA(.text)[[V[辛丑後二百四十年章炳麟曰[SUP[[YOKO[:]]]]]][SNIP[]]]]」
([[明朝体]])
[SRC[>>24 p.[V[一二〇]]]]
---
[39]
「[DATA(.text)[[V[共和二千七百四十一年[SUP[[YOKO[[ASIS[,][中央]]]]]]章炳麟曰[SUP[[YOKO[:]]]]]][SNIP[]]]]」
([[明朝体]])
[SRC[>>24 p.[V[一一九]], p.[V[一二三]], >>36]]
--
[42] [DATA(.label)[目次後]]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]劣自完於皇漢。共和二千七百四十[BR[]]一年[SNIP[]]]]]]」
[SRC[>>24 p.[V[一二八󠄂]]]]
--
[43]
[DATA(.label)[重訂本 西暦1904年初版本]],
[DATA(.addr)[[[日本国]][[東京府]][[東京市]]]]
「[DATA(.text)[共和二千七百四十五年夏四月出版]]」
[SRC[>>19]]
--
[44]
[DATA(.label)[重訂本 西暦1906年再版本]]
「[DATA(.text)[共和二千七百四十七年秋九月再版]]」
[SRC[>>19]]
]ITEMS]
[32]
[TIME[西暦1900年][1900]]の
[CITE[解弁髪]]
が共和2741年と[[共和紀年]]を使っていました。
[SRC[>>32]]
[33]
>>21
によると[[章炳麟]]は
[CITE[客帝匡謬]],
[CITE[分鎮匡謬]]
で
「共和年号 (黄帝紀元)」
を使用しました。
この括弧はどういう意味なのでしょうか?
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [47]
[CITE(.label)[解弁髪]],
[[章炳麟]]
--
[48]
「[DATA(.text)[共和二千七百四十一年秋七月、年三十三才[SNIP[]]]]」
[SRC[>>32]]
- [34]
[CITE(.label)[沈藎]],
[[支那漢族黄中黄]]([[章士釗]]),
[TIME[西暦1903年][1903]]
-- [35] 「[DATA(.text)[共和二千七百四十四年]]」
[SRC[>>74]]
]ITEMS]
[REFS[
-
[49]
[CITE[[V[章炳麟の民族思想 [WEAK(smaller)[(上)]]]],
[[[V[小野川秀美]]]],
[TIME[1954-04-30]]
[TIME[2021-09-06T09:28:14.000Z]], [TIME[2023-03-10T06:47:46.483Z]] <https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/138997/1/jor013_1-2_059.pdf#page=12>
-
[18]
[CITE[[[章太炎全󠄃集]] (三)]]
--
[19]
[CSECTION[[V[前󠄁言]]]] ([[明朝体]]),
[[[V[朱維錚]]]],
[TIME[一九八󠄂二年十月][1982-10]],
pp.[V[一]]-[V[二二]]
--
[23]
[CITE[訄書]] 初刻本
--
[24]
[CITE[訄書]] 重訂本, p.[V[一一三]]-
-- [22] [[ページ番号]]は部ごと。初刻本と重訂本のページ数は連続。
-
[36]
[CITE@zh-TW[[[訄書]] : 訄書 - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-03-10T05:01:33.000Z]] <https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=711971>
-
[21] [CITE@ja-JP[清末政治史研究 : 改革から革命への接点をさぐって]], [[朴鍾玄]], [TIME[1992]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2022-12-30T14:24:29.408Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3063652/1/67> (要登録)
- [6]
[TIME[2021-05-04T05:43:43.000Z]]
<https://researchmap.jp/read0068043/published_papers/8235011/attachment_file.pdf>
#page=3
--
[5] [CITE@en[(PDF) Zhang Taiyan and the Late Qing Discourse on ‘South China’ 「章炳麟と清末における「南」言説」 | Shaoyang Lin - Academia.edu]], [TIME[2021-05-04T05:36:33.000Z]] <https://www.academia.edu/13040857/Zhang_Taiyan_and_the_Late_Qing_Discourse_on_South_China_%E7%AB%A0%E7%82%B3%E9%BA%9F%E3%81%A8%E6%B8%85%E6%9C%AB%E3%81%AB%E3%81%8A%E3%81%91%E3%82%8B_%E5%8D%97_%E8%A8%80%E8%AA%AC_>
- [74] [CITE[雑誌の黄帝紀年[BR[]]――旧暦新暦問題]],
[[樽本照雄]],
[TIME[2016-07-17 19:40:14 +09:00]]
<http://shinmatsu.main.jp/k7101.html>
-- [75]
[CITE[2dan.pdf]], [TIME[2017-09-04T23:23:00.000Z]], [TIME[2023-03-03T11:12:43.059Z]] <http://shinmatsu.main.jp/2dan.pdf#page=386>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[51]
[CITE@en[CiNii Books - [[訄書]] 不分巻補佚1巻]], [TIME[2023-03-10T07:00:57.000Z]] <https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB19525044?l=en>
]FIGCAPTION]
>目録末に「于皇漢辛丑後二百三十八年[1901]十二月章炳麟識」とあり
]FIG]
]REFS]
-*-*-
[52]
[CITE[祭沈藎文]]
は冒頭の紀年が収録のたびに変わっていました。
[SRC[>>302 #page=9]]
- [54]
[CITE[沈藎]],
[TIME[1903]]
-- [53] [CITE[祭沈藎文]]
「黄帝四千六百十四年秋七月朔」 [SRC[>>302 #page=5]]
--- [77] [TIME[1903-08-23]] [SRC[>>302 #page=5]]
- [56]
[CITE[浙江潮]] 第九期,
[TIME[1903]]
-- [55] [CITE[祭沈禹希文]]:
黄帝四三九四年
- [58]
[CITE[国民日日報彙編]] 第四集,
[TIME[1904]]
-- [57] [CITE[上海公祭沈愚渓国士文]]:
年なし
- [59]
[CITE[太炎文録]] 第二巻,
[TIME[1915]]
-- [60]
[CITE[沈藎哀辞]]
「歳在昭陽単閼月在室相」 [SRC[>>302 #page=5]]
--- [78] 昭陽単閼: 癸卯
--- [79] 室相: 7月
[61]
いずれも[[年]]は同じ[TIME[西暦1903年癸卯][1903]]とすると、
2つの[[黃帝紀元]]はそれぞれ
[TIME[y~1724]],
[TIME[y~1723]]
となります。
[62]
この紀年の変更について、[[辛亥革命]]の前後の変化であることから、
[[章炳麟]]の革命に対する立ち位置の変化を反映しているとする説があります。
[SRC[>>302 #page=7]]
[63]
そのような可能性を特に否定したいわけではありませんが、
十分な論証はなされていないように思われます。
同年中に2つの異なる[[黃帝紀元]]を使っていること、
翌年にそれを省略して収録されていること [WEAK[(祭文の日付を省略していいものか?)]]、
[[章炳麟]]の同時期 (前後の時期) の他の文章では[[共和]]を使っていることが、
どのような事情によるものかがまず考察されるべきでしょう。
もちろん、公表済みの祭文が再録に当たって[[紀年]]がまったく別形式に改められるのはただならぬことでしょうから、
その意図を考察すること自体は妥当でありましょう。
* 民国紀元制定
[SEE[ [[民国紀元]], [[黄帝紀元]] ]]
[15]
[[太平天国]]の前例を[[孫文]]が意識したものとする説があります。
[SRC[>>302 #page=8]]
** 魯迅の紀年法
[64]
[[魯迅]]は[[中華民国]][[教育部]]に勤務していました。
[SRC[>>302 #page=2]]
[69]
[[魯迅]]が[[太歳紀年法]]を使った例が知られています (>>65)。
[70]
旧説では[[陶淵明]]や[[顧炎武]]が「同様の年代表記」
で2朝に仕えないことを示したのと同様に、
[[魯迅]]の[[袁世凱]]の治世への反発を表したものと解されていました。
[SRC[>>302 #page=3]]
[76]
それに対し、
[[魯迅]]はその2人と違って[[中華民国]]に仕えていること、
革命派的立場から[[袁世凱]]に反発するならむしろ[[辛亥革命]]で生み出された[[民国紀元]]を奉じるはずであること、
中華民国3年の当該[[太歳紀年法]]用例以前にも[[民国紀元]]を使わず[[干支年]]を使っていること
(>>71, >>72, >>73)
などの理由から、
否定して別の理由を求める説があります。
[SRC[>>302 #page=4]]
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [71]
[CITE(.label)[雲谷雑記跛]],
[[魯迅]],
中華民国2年
「[DATA(.text)[癸丑六月一日]]」
[SRC[>>302 #page=4]]
- [72]
[CITE[稽康集跛]],
[[魯迅]],
中華民国2年
「[DATA(.text)[癸丑十月二十日]]」
[SRC[>>302 #page=4]]
-
[73]
[CITE[雲谷雑記序]],
[[魯迅]],
中華民国3年
「[DATA(.text)[甲寅三月十一日]]」
[SRC[>>302 #page=4]]
- [65]
[CITE(.label)[会稽郡故書雑集]],
[TIME(.published)[中華民国3(1914)年甲寅11月3日][1914-11-03]]
-- [66] [DATA(.label)[序]]
「[DATA(.text)[太歳在閼逢摂提格九月既望]]」
[SRC[>>302 #page=2]]
--- [68] [[閼逢]][[摂提格]]: 甲寅
--- [67] [[既望]]: [[農暦]]16日
]ITEMS]
[REFS[
-
[302]
[CITE[[V[民初紀年考]]]],
[[[V[竹内弘行]]]],
[TIME[1989-06-15]],
[TIME[2023-03-08T09:49:59.000Z]] <https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61000/cks_007_021.pdf>
]REFS]
* グレゴリオ改暦
[SEE[ [[グレゴリオ改暦]], [[民国紀元]] ]]
[SEE[ [[農暦]], [[干支年]] ]]
[1]
清末の[[雜誌]]の[[日付]]は基本的に[[農暦]]で、
[[辛亥革命]]後は[[グレゴリオ暦]]に変わっていきますが、
[[農暦]]のままのものもあります。
[SRC[>>13]]
[2]
この時代を扱う文学研究者は、[[暦法]]の違いにあまりこだわっていないそうです
[SRC[>>13, >>3]]。
小説目録だと[[換算][暦の換算]]して新旧併記したりもします。
編纂方針によって[[清の元号]]や[[西暦]]に統一するものもあれば、
原表記に近い[[日時表示]]を採用するものもあります。
[SRC[>>13]]
[6] >>5 奥付に[[中華民国][民国紀元]] ([[グレゴリオ暦]])
と[[干支年]] ([[農暦]]) を併記した書籍の例
[REFS[
- [13] [CITE[雑誌の黄帝紀年[BR[]]――旧暦新暦問題]],
[[樽本照雄]],
[TIME[2016-07-17 19:40:14 +09:00]]
<http://shinmatsu.main.jp/k7101.html>
-- [3] [CITE[お知らせ]], [TIME[2021-09-23T06:30:00.000Z]], [TIME[2023-03-03T11:40:18.675Z]] <http://shinmatsu.main.jp/jm15.html#:~:text=新補近代小説書目>
-- [5]
[CITE[お知らせ]], [TIME[2021-12-24T23:27:00.000Z]], [TIME[2023-03-03T11:53:40.601Z]] <http://shinmatsu.main.jp/jm21.html#:~:text=車中毒針>
]REFS]
* 標準時制定
[SEE[ [[中国大陸の標準時]], [[滿洲の標準時]] ]]
* 中華帝国
[SEE[ [[洪憲]] ]]
* 中華民国における清室
[SEE[ [[宣統]] ]]
* メモ