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994
995
996
997
998
999
1000
[1] [[日本]]の南西部の島嶼群である[[南西諸島]]では、
現在、
[[日本]]の他の地域と同じ[[日本の暦]]や[[中央標準時]]
[TZ[+09:00]] が使われています。
* 時刻の変遷の概略
[SEE[ [[日本の標準時]] ]]
* 琉球暦と元号
[282]
前近代の[[南西諸島]]では、
[[中国大陸]]と[[日本列島]]の勢力の影響を受け、
両地の[[暦]]が使われました。
** 伝説の時代
;; [28]
[[平安時代]]頃までに、[[奄美群島]]や[[吐噶喇列島]]が[[日本]]の統治下に入りました。
;; [17]
後に編纂された[[琉球王国]]の[[正史]]によると、
西暦12世紀、
[[日本]]で失脚した元有力[[武士]]の[[源為朝]]が[[琉球]]に渡り、
王家の祖となりました。
[[尚]]王家の権威付けのためと考えられ、
信憑性は低いと考えられてはいるものの、
[[奄美群島]]各地にも[[源為朝]]の伝説は残されていました。
現代の学説では、
[[平安時代]]後期に[[九州]]から[[南西諸島]]へ多くの人が移住したとは考えているようです。
[279]
[[南西諸島]]現地に王朝成立以前の記録は残っていませんし、
当時行われた[[日時制度]]がわかるような外部の記録もみつかっていません。
[261]
[CITE[中山世鑑]]
は、
伝説の王朝の設立された[TIME[西暦1187年][year:1187]]以後を、
[[中華王朝 [WEAK[(南宋、元、明)]] の元号][支那の元号]]で記述しました
(>>432)。
それ以前の[[日付]]は記載されませんでした。
[281]
[CITE[中山世譜]]
は、
[[隋]]と[[流求]]との外交記事
[WEAK[(現在では[[流求]]は[[沖縄]]説と[[台湾]]説があります。)]]、
伝説の王朝の設立前の[[源為朝]]についての[[日本本土]]の[[保元の乱]]の記事、
伝説の王朝の記事のいずれも、
[[中華王朝の元号]]で記述しました。
[260]
[CITE[Wikipedia]]
は、
伝説の王朝の時代を、
[[中華王朝 [WEAK[(南宋)]] の元号][支那の元号]]で記述しました
[SRC[>>259]]。
@@
[CITE@ja[天孫氏 - Wikipedia]], [TIME[2020-09-06T11:37:28.000Z]], [TIME[2020-09-21T03:09:57.944Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%AD%AB%E6%B0%8F>
[CITE@ja[舜天 - Wikipedia]], [TIME[2020-09-06T08:40:04.000Z]], [TIME[2020-09-21T03:07:46.753Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9C%E5%A4%A9>
@@
[280]
歴史的記録が存在しない以上、
この伝説王朝の時代とそれ以前はどのように記述してもよい (何が正しいとも言えない)
ことになります。
[[南西諸島の日時]]
([[元号]]や[[旧暦]])
を出力する実装は、
正史の趣意を尊重し、
[TIME[西暦1186年][year:1186]]までは[[日本の暦]]と同じとし、
[TIME[西暦1187年][year:1187]]からは[[中華王朝の元号]]・[[農暦]]と同じとするのがよさそうです。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[259] [CITE@ja[[[舜天王統]] - Wikipedia]]
([TIME[2020-05-15 18:51:30 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9C%E5%A4%A9%E7%8E%8B%E7%B5%B1>
]FIGCAPTION]
> 舜天王統(しゅんてんおうとう)は、舜天を祖とする王統で、1187年(淳煕14年)から1259年(開慶元年)の間、3代73年にわたり、「琉球国中山王」として王位に就いたとされる。
]FIG]
]REFS]
** 三国時代
;; [203]
14世紀頃、
[[沖縄本島]]に[[北山]]、[[中山]]、[[南山]]の三国が成立しました。
;; [29]
14世紀頃、[[奄美群島]]南部が[[沖縄本島]]の[[北山]]王朝の統治下に入りました。
;; [18]
[TIME[1372年][year:1372]]、
[[琉球]]の[[中山]]王朝が[[明]]に[[朝貢]]しました。
[79] [[琉球王国]]は[[朝貢]]以来、[[中国]]の[[暦]]
([[支那の元号]]、[[農暦]])
を使っていました。 [SRC[>>22]]
;; [31]
[TIME[1416年][year:1416]]、
[[北山]]王朝は滅亡し、[[中山]]王朝の統治下に入りました。
[248]
[[琉球]]現存最古の[[金石文]]とされる[[安國山樹華木之記碑]]
[WEAK[(原位置[[日本国]][[沖縄県]][[沖縄本島]])]]
に、
「宣徳二年歳次丁未八月」
とありました。
[TIME[大明宣徳2(1427)年][year:1427]]8月建碑とされます。
[SRC[>>246, >>247]]
[REFS[
- [246] [CITE[世界の文字]], [TIME[2019-06-01 22:49:40 +09:00]] <http://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_easia_41.html>
- [247] [CITE@ja-JP[琉文21 » 長虹堤①]], [TIME[2020-05-30 18:46:50 +09:00]] <http://ryubun21.net/index.php?itemid=4878>
]REFS]
** 統一王朝時代
;; [19]
[TIME[1429年][year:1429]]、
[[中山]]王朝が[[沖縄本島]]を統一しました。
これが[[琉球王国]]の成立とされています。
[[奄美群島]]南部の[[与論島]]と[[沖永良部島]]も[[琉球王国]]の統治下に入りました。
その後[[徳之島]]も統治下に入りました。
;; [32]
[TIME[1447年][year:1447]]、
[[奄美大島]]が[[琉球王国]]の統治下に入りました。
[296]
[[琉球国]]王の名が入った[[雲版]]が現在に伝えられており、
「天順二年八月八日」
([TIME[1458年8月8日][kyuureki:1458-08-08]])
とありました。
[SRC[>>295, >>297, >>299]]
[NOTE[
[300]
[TIME[天順2(1458)年][year:1458]]に[[琉球国]]の[[国王]]の[[尚泰久]]が[[大里城]]に寄進したものとされます。
[SRC[>>297 PDF 11頁 ([CITE[奈良帝室博物館の雲板について]], [[真境名安康]], [CITE[南島研究]] 創刊号, [TIME[1928年][year:1928]])]]
[301]
この雲版は[[日本国]][[徳島県]]の[[浄智寺]]にありました。
[[浄智寺]]に施入された経路と年代は不明ですが、
細川家が琉球と貿易し、
[CITE[善隣国宝別記]]
に[[雲版]]が貿易品目として記されていることが注目されます
[SRC[>>295 [V[[B[参考[YOKO[2]]]]]] ([V[第一図版[YOKO[2]]]])]]。
[304]
明治44年に[[浄智寺]]から[[奈良帝室博物館]]に寄託されましたが、
その経緯は不明です。
現在も[[奈良国立博物館]]に保管されています。
[SRC[>>299]]
[305]
資料によって銘文の釈読が微妙に違っています。
- [306] >>295 [V[[B[参考[YOKO[2]]]]]] ([V[第一図版[YOKO[2]]]])
-- 表 右 「[V[大里城]]」
-- 表 中 「[V[琉球国主大世圭 慶庚生]]」
-- 表 左 「[V[天順二年八月八日]]」
- [307] >>297 PDF 11頁 ([CITE[奈良帝室博物館の雲板について]], [[真境名安康]], [CITE[南島研究]] 創刊号, [TIME[1928年][year:1928]])
-- 「[V[大里城 琉]]
[V[球国主大世主庚寅慶生 天順二年八月八日]]」
- [308] >>299
--
「[L[大里城 / 琉球国王大世主]]
[L[庚寅慶生 / 天順二年(1458)八月八日]]」
[309] このうち >>295、 >>299 に白黒写真が掲載されていますが、
一致しない部分を確定できるほどの鮮明ではありません。
>>295 の写真をみると中央列の末尾は
「庚寅慶生」
が正しいようにも見えます。
]NOTE]
[REFS[
- [295] [CITE[[V[雲版銘文󠄃集]]]],
[CITE[[[仏教考古学研究]]]], pp. [V[一三七]]-[V[一七八]]
(初出: [V[昭和三〇年]]-[V[昭和三三年]])
- [299] [CITE[平成29年度(2017年度) 博物館教育普及活動]],
[[沖縄県立博物館・美術館]],
[TIME[2018-06-15T03:01:39.000Z]], [TIME[2020-12-03T12:24:28.966Z]] <https://okimu.jp/userfiles/files/2017fukyuhoukoku_1.pdf#page=67>
]REFS]
-*-*-
[21] [TIME[1465年][year:1465]]、
[[琉球]]人が[[福建]]で[[造暦]]法を学び、
以後[[琉球]]国内で[[暦]]が作られるようになりました。 [SRC[>>22]]
[298]
15世紀の[[首里城]]の
「闕の南門」
には、
木製「[[漏器]]」 ([[水時計]])
がありました。
[SRC[>>297 PDF 7頁]]
[REFS[
- [297] [CITE[太宰府神社旧蔵「琉球国図」にみる一五世紀の[[琉球王国]]]],
[[安里進]],
[TIME[2004-03-30]],
[TIME[2020-12-03T12:00:35.000Z]] <http://okinawa-repo.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/20.500.12001/23767/1/No15p90.pdf>
]REFS]
;; [33]
[TIME[1466年][year:1466]]、
[[喜界島]]が[[琉球王国]]の統治下に入り、
[[奄美群島]]全体が[[琉球王国]]領となりました。
;; [20]
[TIME[1469年][year:1469]]、
[[琉球王国]]で[[クーデター]]があり、
[[第二尚氏]]の王朝が成立しました。
;; [23]
[TIME[1500年][year:1500]]に[[石垣島]]、
[TIME[1522年][year:1522]]に[[与那国島]]が[[琉球王国]]の統治下に入りました。
[252]
[[琉球]]現存最古の[[仮名]]書き[[金石文]]とされる[[たまおとんのひのもん]]
([[玉陵の碑文]]、[[日本国]][[沖縄県]][[沖縄本島]])
に、
「大明弘治十四年九月大吉日」
とありました。
[TIME[大明弘治14(1501)年][year:1501]]9月建碑とされます。
[SRC[>>253]]
[255]
[[田名家文書]]に含まれる琉球現存最古とされる文書は[TIME[嘉靖二年(一五二三)八月二十六日][1523-10-14]]のものとされます
[SRC[>>254]] (原表記不明)。
[[Web]] で画像として見られる例として、
「嘉靖十六年八月二十日」 ([[縦書き]]、画像では八月まで)、
「康凞五十七年[LINES[戊][戌]]正月廿六日」
のものがあります [SRC[>>246]]。
[277]
[[奄美群島]]の[[ノロ]]辞令書に、
「萬暦十五年十月四日」 ([[縦書き]])
と書かれたものがありました
[SRC[>>467]]。
[TIME[明万暦15(1587)年10月4日][kyuureki:1587-11-03]]と解され、
[[奄美群島]]で[[明の元号]]が使われたことがわかります。
この前後の辞令書もあったようです。
;; [278] 1523-08-26 と 1587-10-04 はたまたま[[農暦]]と[[旧暦]]が1日ずれている期間に当たっており、
どちらも[[農暦]]のはずですが、残念ながらそれを証明できる史料はありません。
[REFS[
- [253] [CITE@ja[[[玉陵の碑文]] - Wikipedia]], [TIME[2020-05-17 11:28:06 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%89%E9%99%B5%E3%81%AE%E7%A2%91%E6%96%87>
- [254] [CITE@ja[文化遺産データベース]], [TIME[2020-05-31 11:45:14 +09:00]] <https://bunka.nii.ac.jp/db/heritages/detail/134174>
]REFS]
** 薩摩藩属時代
;; [25]
[TIME[1609年][year:1609]]、
[[日本]]の[[薩摩藩]]が[[琉球王国]]に進攻しました。
[[奄美諸島]]は[[薩摩藩]]に編入されましたが、
形式的に[[琉球王国]]の管轄下にも置かれました。
その他の地域は[[琉球王国]]領土として存続しましたが、
[[琉球王国]]は[[薩摩藩]]の[[属国]]となりました。
ただし[[支那]]への[[朝貢]]も継続されました。
[286]
[TIME[日本慶安3(1650)年][year:1650]]、
[[琉球]]初の[[正史]]
[CITE[[[中山世鑑]]]]
が編纂されました
[SRC[>>287]]。
序文には
「日本慶安庚寅大呂吉旦」
とありました
[SRC[>>283]]。
'''[TIME[慶安3(1650)年[LINES[庚][寅]]][year:1650]]12月[[吉日]]'''と解されています。
[432]
[CITE[[[中山世鑑]]]]
は、
[[源為朝]]の伝説を[[日本の元号]]を使って記述していますが、
全体的には[[南宋]]、[[元]]、[[明]]と[[支那の元号]]を使っています。
最初の年号は「南宋淳煕十四年丁未」
([TIME[1187年][year:1187]]、[[源為朝]]の[[子]]とされる[[舜天]]の即位) です。
[SEE[ [[中山世鑑]]、[[中山世譜]] ]]
;; [469] 実際には[[中国]]に初めて[[朝貢]]した頃より前は[[支那の元号]]が使われていたわけではないでしょうし、
歴史書の記述自体も史実かどうか疑わしいとされています。
@@
[REFS[
- [284] [CITE[[[中山世鑑]]]]
-- [283] [CITE@ja[[[琉球國中山世鑑]]/序 - Wikisource]], [TIME[2020-09-07T02:52:44.000Z]], [TIME[2020-09-21T02:53:43.395Z]] <https://ja.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E7%90%83%E5%9C%8B%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%B8%96%E9%91%91/%E5%BA%8F>
-- [287] [CITE@ja[[[中山世鑑]] - Wikipedia]], [TIME[2020-09-13T14:43:23.000Z]], [TIME[2020-09-21T02:55:51.564Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E4%B8%96%E9%91%91>
]REFS]
[113]
[[琉球王国]]発給の辞令書の[[日付]]は、
かつては[[支那の元号]]の年月日として表記されていましたが、
[TIME[1659年][year:1659]]頃から[[干支年]]も記載されるようになりました。
[SRC[>>112]]
[437] [[薩摩藩]]直接統治下の[[奄美諸島]]では、
[[日本の元号]]が使われていたようです。
(例えば >>468 参照)。
[[元号]]なしで[[十二支]]だけで[[年]]を表記することもありました
[SRC[例えば >>467]]。
[245]
[[日本国]][[沖縄県]][[石垣市]] ([[八重山諸島]])
に残る当時の島内の公文書に、[[日付]]が
「戌三月十五」
とありました。
[TIME[西暦1814年3月15日][kyuureki:1814-03-15]]と解されます。
[SRC[>>244]]
;; [53] [[十二支年]]のみの表記は[[日本本土]]でも一般的に見られました。
[250]
[[日本国]][[鹿児島県]] ([[奄美群島]]) [[徳之島]]に残る文書に、
[CITE[雑書由緒記寫]], [TIME[慶応2(1866)年][year:1866]]10月
「[ASIS[千][PDFママ]]時慶應二年寅十月寫之」、
[CITE[徳之島世の主由緒書(寶満家系図)]]
「慶長十七年壬子九月十五日死去」
といった[[日本の元号]]の日付がみられました。
[SRC[>>249]]
;; [251]
これらを引用した論文の本文に
「万暦三十六年(慶長十三年)二月死去」
とありました
[SRC[>>249]]。
この論文の本文の年號の多くは[[西暦]]か[[西暦]]と[[日本の元号]]の併記なのに、
この箇所だけ[[明の元号]]と[[日本の元号]]の併記とした理由は読み取れません。
(この部分は引用に直接現れず、他の資料からの転記でしょうか。)
[258]
[[日本国]][[鹿児島県]] ([[奄美群島]]) [[喜界島]]で[[卜占]]を行った[[我原家]]の[[トキ双紙]]に、
「天保四年巳十月吉日書之」
と書かれたものがありました。
[SRC[>>246]]
[263]
18世紀、[[琉球王国]]の[[正史]]が編纂されました。
[[琉球王即位紀年]]により編年されました。
[SEE[ [[琉球王即位紀年]] ]]
-*-*-
[234] [[明]]から[[清]]への交代期には、[[琉球]]はしばらく[[南明]]政権と交流しています。
その時期はまだ[[清]]の[[暦]]ではなく[[明]]の[[暦]]を使っていたと思われます。
(1648年の両者の[[閏月]]の配置が異なっています。
[[閏月]]の[[日付]]が入った記録があるかは不明。)
[503] [[明]]滅亡で[[清]]が[[中国]]主要部を占拠した後も、
しばらくは[[南明]]と交流があり、その[[元号]]を使っていたようです
[SRC[>>484, >>485, >>486, >>487]]。次のような例がみられ、
すっきり一度で切り替わったわけではなさそう [SRC[>>112]] です。
- 隆武五年二月 [SRC[>>485]]
- 順治六年十一月十三日 [SRC[>>486]]
- 隆武八年 [SRC[>>624]]
-*-*-
[438] [TIME[1854年][year:1854]]の[[琉球王国]]と[[米国]]の[[条約]]では、
[[琉球]]の[[日付]]として[[支那の元号]]が、
[[米国]]の[[日付]]として[[西暦]]が示されていました [SRC[>>439]]。
[SEE[ 日本本土については[[幕末維新期の日時]]、その他各国については[[外交文書の日時]] ]]
[REFS[
- [439] [CITE@ja[琉米修好条約 - Wikisource]] ([TIME[2014-08-05 03:56:41 +09:00]] 版) <http://ja.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E7%B1%B3%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%9D%A1%E7%B4%84>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[204] [CITE@ja[[[琉法修好條約]] - Wikisource]], [TIME[2019-11-09 10:18:35 +09:00]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E6%B3%95%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%A2%9D%E7%B4%84?uselang=ja>
]FIGCAPTION]
>咸豐伍年乙卯十月十五日在那覇公館立。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[442] [CITE@ja[琉蘭修好條約 - Wikisource]]
([TIME[2015-12-24 00:28:25 +09:00]] 版)
<https://zh.wikisource.org/wiki/%E7%90%89%E8%98%AD%E4%BF%AE%E5%A5%BD%E6%A2%9D%E7%B4%84?uselang=ja>
]FIGCAPTION]
> 天主降生千八百六十九年七月初六日,以荷蘭書漢書立字,應遵執據。
> 咸豐九年己未六月初七日,在那霸公館,鈐蓋關防。
]FIG]
- [205] [CITE[甲 朝鮮(韓国)/乙 琉球]], [[アジア歴史資料センター | Japan Center for Asian Historical Records]], [TIME[2019-11-23 10:26:33 +09:00]] <https://www.jacar.archives.go.jp/aj/meta/image_B13090775800>
]REFS]
-*-*-
[502]
[[現代日本]]では、
過去の出来事に言及する時、
俯瞰的な目的では[[西暦]]を使い、
詳細な記述では[[元号]]と[[西暦]]を併記するのが一般的です。
[[琉球王国]]の出来事も同様です。
[[元号]]表記は、
[[日本の元号]]による場合、
[[支那の元号]]による場合、
併記する場合が見られます。
[57]
出来事の呼称に[[元号]]が含まれる場合、
[[日本の元号]]が使われたり、
[[支那の元号]]が使われたりしていて、
同じ事象に複数の呼称がある場合もあります
[SRC[>>464, >>465, >>56]]。
以前は[[支那の元号]]が一般的だったのが、
[[沖縄県]]設置後に[[日本の元号]]の呼称に置き換わったという事例 [SRC[>>690]]
もあります。
[262]
[[現代日本]]の辞書類、文書、 [[Webページ]]などでは[[琉球王即位紀年]]が使われることもあります。
単独で使われることはあまりなく、
[[西暦]]、[[日本の元号]]、[[中華王朝の元号]]の1つ以上と併記されるのが普通です。
-*-*-
[14] 1682年から1879年/明治12年まで[[琉球王国]]で発行されていた[[暦]]は[DFN[[RUBY[[[琉球暦]]][りゅうきゅうれき]]]]と呼ばれています。
1718年以降は[DFN[[CITE[選日通書]]]]という題名で発行されています。
正式には[[清]]の[[時憲暦]]を用いることとなっていましたが、
その到着までの便宜用という名目で[[琉球暦]]を発行して用いていたようです。
内容は[[時憲暦]]と同じで、[[北京]]の[[時刻][地方時]]により計算されていました。 [SRC[>>22]]
[SEE[ [[農暦]]、[[旧暦]] ]]
;; [156]
[[李朝]]も[[清国]]の[[曆][農暦]]を採用しつつ、
実際には自国で計算していました。
[SEE[ [[李氏朝鮮の日時]] ]]
[REFS[
- [112] [CITE[琉球王国史の基礎的研究]] ([TIME[2018-12-08 20:04:43 +09:00]]) <https://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/22114/takara7.pdf>
-- PDF 14ページ、44ページなど
- [146] [CITE@ja[琉球王朝の頃、どのような暦を使っていたか知る手掛かりとなる資料があるか。また、その暦は薩摩藩と関係が... | レファレンス協同データベース]] ([[国立国会図書館]] 著, [TIME[2015-11-21 19:01:06 +09:00]] 版) <http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085357>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[445] [CITE[古琉球の元号: 目からウロコの琉球・沖縄史]]
([TIME[2016-01-24 00:05:26 +09:00]] 版)
<http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2009/06/post-72ef.html>
]FIGCAPTION]
> 明朝の朝貢国だった琉球では、一貫して中国元号を使用していました。元号を受け入れることは、空間的に中国の国際体制に参加するだけでなく、時間的にもその傘下に入ることを意味していたのです。ちなみに琉球の「○○王統」や「○○王~年」という表現は、古琉球当時には一切ありません。
> 洪武 こうぶ (1368~1398)
> 建文 けんぶん (1399~1402)※
> 永楽 えいらく(1403~1424)
> 洪煕 こうき(1425)
> 宣徳 せんとく(1426~1435)
> 正統 せいとう(1436~1449)
> 景泰 けいたい(1450~1456)
> 天順 てんじゅん(1457~1464)
> 成化 せいか(1465~1487)
> 弘治 こうじ(1488~1505)
> 正徳 せいとく(1506~1521)
> 嘉靖 かせい(1522~1566)
> 隆慶 りゅうけい(1567~1572)
> 万暦 ばんれき(1573~1619)
> ※建文帝は永楽帝のクーデターにより皇位を奪われたので、その存在を抹消されていた。琉球側の記録では建文年号の使用は見られないが、当時の状況から言えば建文帝存命当時には使用されていた可能性が高い。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[444] [CITE[琉球新報新聞博物館]]
([TIME[2016-01-19 13:21:59 +09:00]] 版)
<http://page.freett.com/aienar/main/sinbunmuse.htm>
]FIGCAPTION]
> 来館した時、明治27年12月16日付と同年12月28日付の琉球新報のコピーがおいてありましたので、頂いて参りました。年号が明治の元号、西暦の他に、神武暦が書かれているのは時代的なものでしょうが、中国の清暦の記載まであるのは沖縄の地域的なものなのでしょう。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[443] [CITE@ja[沖縄紀行:琉球八社を巡る -2日目-]]
([TIME[2016-01-24 00:09:21 +09:00]] 版)
<http://hobbyland.sakura.ne.jp/Kacho/tabi_yukeba/2007/2007_0629_Okinawa_02/2007_0629_01.html>
]FIGCAPTION]
> 一方、スポンサーの懐具合についてはどうだろう。そのヒントは由緒書に隠されている。
> 天久宮の創建は "成化年間"とあるが、実は日本の元号に "成化" というのはなく、琉球にもない。これは中国の元号である。当時の王朝は明で、成化年間は1465~1487年に相当する。
> 一国が自国の歴史を刻むとき、自前の暦(こよみ)を使うか外国の暦を使うかで、国家間の力関係を読み解くことができる。この場合、もちろん琉球は明に柵封される立場であり、強い影響下にあったので暦も明暦を使っているのである。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[484] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [二九七 中山王世子尚賢より隆武帝あて、登極を賀し、朝廷の恩を謝す奏文]
> 隆武二年三月初九日
> 琉球国中山王世子臣尚賢、謹んで上奏す
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[485] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [三〇二 中山王世子尚質より福建布政使司あて、未だ帰国しない進香および慶賀使節の安否を問う咨文]
> 右、福建等処承宣布政使司に咨す
> 隆武五年二月 日
> ※本項の記年の隆武五年は順治六年(一六四九)に相当するが、隆武
は二年までで、その年に清に亡ぼされている(なお鄭成功は「隆武
四年暦」を出している)。当時の琉球の情報は隆武帝の即位までで
あり、隆武二年の金正春らの慶賀使派遣、同年冬の毛大用の帰国以
後、情報はとだえており、この間の金正春らの探訪船の派遣も福州
に達していない。まして、清軍による福州制圧の情報は未だもたら
されていなかった可能性が強い。なお、本項への中国側(魯監国)
からの返書は二九六項にあるので、項注ともに参照されたい。]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[486] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [三〇四 中山王世子尚質より巡撫福建都察院捉あて、金思徳らの送還の際の尽力に感謝する咨文]
> 右、巡撫福建都察院捉に咨す
> 順治六年十一月十三日
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[487] ([TIME[2001-02-07 20:31:06 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%93%DF%94e%8Es%8Ej/%97%F0%95%F3%93%C7%92%8D.txt>
]FIGCAPTION]
> [二九一 中山王世子尚賢より中国あて、先帝毅宗への進香使の派遣についての符文]
> 弘光元年四月十五日給す
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[488] ([TIME[2001-02-07 21:10:20 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa.oiu.ac.jp/cd/dai-3/%97%f0%91%e3%95%f3%88%c4%91%e6%88%ea%8fW%83e%83L%83X%83g/03.txt>
]FIGCAPTION]
> 一集 巻三
> 勅詔集
> 起順治四年
> 歴代宝案
> 至康熈三十四年
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[624] ([TIME[2013-03-30 13:59:04 +09:00]])
<http://rekibun.jp/201212tyousa.html>
[6] ([TIME[2018-11-25 20:17:54 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20170408100324/http://rekibun.jp/201212tyousa.html>
]FIGCAPTION]
> 『比嘉春潮全集』(第一巻 歴史篇Ⅰ)の後のグラビアに「のろの辞令書」として掲げてあり、本文に「のろ辞令書」についての説明が見つからない。「中国の三藩動乱と沖縄」(201頁)の琉球のスタンスを示すものとしてのものであろう。そのことについて、島袋源一郎は『補遺伝説 沖縄の歴史』(317頁)の「明・清の乱と琉球の態度」でこの辞令書を挙げている。「承応二年(1653)王尚質より今帰仁間切中城のろくもいに賜はりし辞令に、隆武八年と記されている。是れ即ち靖南王の称へた年号で清の福臨の順治十年に当たっているのから考えれば、あるいは順治を称へ、あるいは隆武を用い、その間日和見的態度にいたと推定することが出来る」とある。
> 伊波普猷は「その頃から進貢使は空道と称する琉球国王の印璽を押した白表を携帯していて、万一支那の革命の時は直ちに之に表文を認めることにしていたという。以て当時如何に事大主義なりしかを察知すべきである」と。
> 隆武年は動乱で1年しかないが、琉球では隆武八年(順治10年:1653)まで架空の年号を用いたことになる。中城のろ辞令書であるが、架空の年号を7年も使っていたわけである。動乱中の弘光元年(1645)の辞令書、それと隆武三年の辞令書があるが(辞令書等古文書調査報告書:沖縄県文化財調査報告書)、二点については動乱中、動乱間もない頃なので、当時の情報の流れからすると致し方ないのかもしれない。
]FIG]
- [468] [CITE[徳之島における三平所と手々村神役の継承システム : 琉球と薩摩藩の影響を受けた文書とシマの運営を含め]]
([[弓削政己]],
[TIME[2015-03-31]],
[TIME[2018-11-25 20:13:45 +09:00]]) <https://hdl.handle.net/10114/9940>
-- 旧:
([TIME[2015-04-01 16:09:36 +09:00]] 版)
<http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/9940/1/15_oki_41_yuge.pdf>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[464] [CITE@ja[「癒しの島」から「冷やしの島」へ:琉球王国の測量技術と遺産「印部石」]]
([TIME[2016-02-05 17:32:11 +09:00]] 版)
<http://earthcooler.ti-da.net/e2559845.html>
]FIGCAPTION]
> 1609年に琉球王国を侵攻した薩摩藩が「慶長検地」を行い石高を定めた後、首里王府は1735年から1750年にかけて自主的に検地を実施した。これを「乾隆(注1)大御支配」(けんりゅうのおおごしはい)といい、その際に用いられた図根点(基準点)を「印部石(シルビイシ)」という。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[465] [CITE[小禄 -OROKU- うるく]]
([TIME[2015-01-20 11:28:12 +09:00]] 版)
<http://098oroku.net/haru.html>
]FIGCAPTION]
> その後、1737~50年(乾隆2~15)に王府は印部土手を用いた独自の測量法で両先島を除く沖縄島と周辺離島を検地した(乾隆大御支配=元文検地)。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[56] [CITE[企画展「琉球王国の小さな遺産」]]
([TIME[2018-12-08 11:10:33 +09:00]])
<http://www.city.ginowan.okinawa.jp/pageRedirect.php?url=/2556/2562/2563/2602/36742/37476.html>
]FIGCAPTION]
> 印部石とは、沖縄が琉球王国だった時代、1737年~1750年にかけて実施された「乾隆(けんりゅう)検地」(「元文検地」または「乾隆大御支配(けんりゅうおおごしはい)」ともいう)の際、測量の基準点として置いた石のことです。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[690] [CITE@ja[八重山地震 - Wikipedia]]
([TIME[2018-09-27 00:52:27 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%87%8D%E5%B1%B1%E5%9C%B0%E9%9C%87>
]FIGCAPTION]
> 先島諸島(特に八重山列島)が大きな被害を受けた。そのため、元号を取って明和の大津波ともよばれる。
[SNIP[]]
> 防災システム研究所の山村武彦は、従来、地元ではこの地震による津波は乾隆大津波又は八重山大津波と呼ばれていたようだとする。そして、前者の名称は、この地震の発生年が、当時、琉球王国が使用していた中国の元号'''['''注 1''']'''で乾隆(けんりゅう)36年にあたることに由来しており、牧野清が1968年に著した『八重山の明和大津波』'''['''20''']'''で日本の元号で呼んでから、明和の大津波と呼ばれるようになったとされると述べている'''['''24''']'''。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[466] ([TIME[2009-09-11 15:01:00 +09:00]] 版)
<http://www.shimatate.or.jp/20kouhou/simatatei/50/06-09.pdf>
]FIGCAPTION]
> 図の左端の上に「嘉慶元年(一七九六)丙辰九月九日」と製作年月日と思われる日付を見ることができる。瓜二つの『薩摩藩調製図』も、これと同時に王府内で調製されたものと考えられる。
]FIG]
;; [[嘉慶]]は[[日本]]の[[北朝]]の[[元号]]でもあり、
[[清国]]の[[元号]]でもありました。この場合は[[清国]]の方です。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[467] [CITE[[[奄美諸島]]のノロ(女性祭司)関係文書 ―16世紀から19世紀において]]
([TIME[2016-02-05 18:11:02 +09:00]] 版)
<http://repository.tufs.ac.jp/bitstream/10108/26342/1/cdats-hub2-17.pdf>
]FIGCAPTION]
>
[BOX(vertical)[
萬暦十五年十月四日
]BOX]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE@ja[白雪姫と七人の小坊主達 チベットゼミ in 沖縄(前半)]]
([[白雪姫]] 著, [TIME[2016-02-08 23:48:36 +09:00]] 版)
<http://shirayuki.blog51.fc2.com/blog-entry-602.html>
]FIGCAPTION]
> 今日は沖縄三山時代の北山の王城の地、今帰仁城(ナキジングスク)に行く。むろん、世界遺産であーる。
> この城の上には乾隆14年の碑文があり、沖縄が薩摩の実効統治下にありつつも公式には中国元号を用いていたことがわかる。
]FIG]
- [249] [CITE[沖永良部島民のアイデンティティと境界性]],
[[高橋孝代]],
[TIME[2004 年 2 月][2004-02]]
<https://waseda.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=24690&file_id=20&file_no=2>
PDF 72頁から
- [244] [CITE[与那国島報告書(カラー).ren - yonaguni7.pdf]], [TIME[2017-12-04 16:37:34 +09:00]] <https://okimu.jp/userfiles/files/page/museum/issue/report/yonaguni7.pdf#page=6>
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[288] [CITE@ja[琉球王朝の頃、どのような暦を使っていたか知る手掛かりとなる資料があるか。また、その暦は薩摩藩と関係が... | レファレンス協同データベース]]
([[国立国会図書館]] 著, [TIME[2015-12-25 16:27:40 +09:00]] 版)
<http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000085357>
]FIGCAPTION]
> 上記資料から、沖縄の暦は進貢していた中国との関連が深いことがわかる。例えば、1465年琉球で初めて暦を作成した金鏘や、1674年暦を作成し広めた楊春栄は中国で暦法を学び、暦官として造暦を司っている。但し、第一尚氏王統時代には薩摩の侵攻と明清交代期であった影響で、和暦も使われたとの記述もある。また薩摩の侵攻後は琉球・薩摩両者の間で暦の併用、交換を行っていたことが当時の史料から確認できる。
> 1663年清の公暦である「時憲暦」を国内で刊行、1718年には「時憲暦」を沖縄に合わせて修改した暦「撰日通書」が作成され、一般に用いられたとされる。その他、民間で作られた暦として「選吉必鑑」や「選日宝鑑」、「廸吉全書」などがある。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[289] ([TIME[2014-07-20 20:07:20 +09:00]] 版)
<http://www1.cts.ne.jp/~koyomi/kikou2-20.html>
]FIGCAPTION]
> 〈中国暦の流通〉沖縄は明・清両王朝の正朔を受けるという冊封(さくふう)関係にあり、福建省まで
> 暦を受取りに行って毎年100部の暦が授けられた。しかし、年内未着の場合に備えて独自の「琉
> 球暦」を造暦し、康熙57年(1718)には『選日通書』(「通書」は雑書と同じ意味)と改名した。これを可
> 能にしたのは、清の頃に何年か先までの暦を記した官撰の「万年暦」が刊行されていたためでる。
> 〈砂川(うるか)暦〉これは宮古島城辺町(宮古島市)砂川地区で使用された暦。流刑地であった宮古
> 島に流されてきた知識人などの協力もあって、幕末以来、近年までおよそ100年続いた。現在は
> 神宮館の暦を用いている。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[290] ([TIME[2011-01-05 13:28:33 +09:00]] 版)
<http://www.chikyu.ac.jp/sociosys/PDF/okamoto-repo-2006.pdf>
]FIGCAPTION]
> 史料4:原田禹雄訳注『周煌 琉球国志略』巻四下、節令
> 『隋書』に、「月のみちかけを眺めて、時節を数え、草が茂り枯れるのをうかがって、一年とする」
> と、ある。思うに、これはすべて、まだ中国と通じなかった昔のことにすぎない。現在は、代々(中国
> 皇帝より毎年頒賜される)暦に謹んで従い奉っている。(琉球の)貢使が北京に着くと、必ず往って時
> 憲書を賜って、それを奉持して帰国する。そして、琉球国内では、特に通事官を置き、あらかじめ『万
> 年暦』によって、推算応用する《(暦の)書面には、「琉球国の司憲書官は、謹んで教礼に従い、選日通
> 書を印刷製造して、仮に国内に施行させ、(中国の)天朝が(時)憲書を頒賜あそばされるのを、お待
> ち申し上げるものである。頒賜された(時)憲書が、わが国に到着次第、国をあげて、すべて(時)憲
> 書を用い、ともに一王(皇帝)の正朔(暦)に、謹んで従い奉ることができるのである。これぞ、千億
> 万年も王(皇帝)の導きと、教化を尊ぶという意味なのである」と、書かれている》。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[291] [CITE[琉球王朝の暦日 suchowan's blog/ウェブリブログ]]
([TIME[2014-10-01 19:20:06 +09:00]] 版)
<http://suchowan.at.webry.info/201410/article_1.html>
]FIGCAPTION]
> when.exe では、琉球王の薨去の日付を『コンサイス世界年表』から
> とっています。'''['''1''']'''
> | 尚真王 大永 6(1526) 12 11 62歳
> という具合です。この「大永」は日本の年号です。一方、朔閏表は
> 島津の薩摩入りまでは中国、以降は日本の朔閏表を用いていました。
> 今回、確認したところ、もともとの日付は中国暦日で表現されていた
> ものを、『コンサイス世界年表』が月と日はそのまま保持して、機械的に
> 年を中国の年号と年次から日本の年号と年次に置き換えていたことに
> 気付きました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[292] [CITE[館長連続講演会「暦とくらし-日本編-」 千里ニュータウン+万博+∞…=吹田市立博物館!/ウェブリブログ]]
([TIME[2015-07-21 12:49:34 +09:00]] 版)
<http://sui-haku.at.webry.info/201301/article_6.html>
]FIGCAPTION]
> 学友の安藤隆雄君が明治改暦の時の旧暦と新暦を持参し、紹介してくれました。旧暦は使われず回収されたため、古本の市場にもあまりでまわっていないそうです。
> アルプスの少年
> 2013/01/20 18:09
> 琉球王国は日本と中国の年号をつかいわけていたそうです。暦も時憲暦をつかっていました。いまでも旧暦の記載がある『沖縄琉球暦』が重宝がられているようです。
> アルプスの少年
> 2013/01/20 18:20
]FIG]
* 首里城下の報時
[342] [[琉球王国]]時代には、[[首里城]]の[[日時計]]と[[水時計]]に基づき[[太鼓]]で城内に時刻を知らせ、
更に[[鐘][時の鐘]]により城下にも[[報時]]していました。
;; [37]
[[日本本土]]の他の[[城下町]]でも同様でした。
[SEE[ [[時の鐘]] ]]
[REFS[
- [155] [CITE@ja[琉球古来の数学 - 国立国会図書館デジタルコレクション]] ([[矢袋喜一]]著, [TIME[大正4][year:1915]]) <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/952291/63>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[89] [CITE@ja[沖縄美ら島財団 - 琉球王国御用達の時計 今では身近な時計ですが、昔は正確な時刻を知るというのは大変なことでした。...]]
([TIME[2015-12-23 22:00:22 +09:00]] 版)
<https://www.facebook.com/okinawa.churashima/posts/423749107812650>
]FIGCAPTION]
> かつての琉球王国では時間をどのように計っていたかというと・・・
> 水時計と日時計を組み合わせて用いていました。
> 水時計は、水槽に水を流し、水がたまる速度が一定であることを利用し、時刻を知るという方法です。
> その水時計があった場所が、漏刻門(ろうこくもん)と呼ばれる場所でした。
> 「漏刻」とは中国語で「水時計」を意味しています。
> 日時計は、太陽の位置から時刻を知る方法です。
> 琉球王国では、「日影台(にちえいだい)」と呼ばれる日時計が用いられていました。
> 時刻版と呼ばれる石の円盤の上に棒を立て、その陰の位置から時刻を計っていました。
> 日時計は太陽の動きに対応しなければなりませんので、季節ごとに時刻版を変えていたようです。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[90] [CITE[時計番はエライのだ: 目からウロコの琉球・沖縄史]]
([TIME[2015-12-23 22:01:28 +09:00]] 版)
<http://okinawa-rekishi.cocolog-nifty.com/tora/2007/02/post_2cc4.html>
]FIGCAPTION]
> この日時計が設置されたのは近世(江戸時代)の1744年のことです。日時計の導入を進めたのは、あの大政治家と呼ばれた蔡温です。実は、首里城の門の名前(漏刻門)からもわかるように、蔡温による日時計の設置以前にも、ここには時計(漏刻器。水時計)が設置されていました。古い記録から1463年(古琉球時代)にすでに存在していたことがわかりますが、この時計はあまり正確ではなかったようです。
> 蔡温は西原の幸地村(刻時嶺)であらかじめ日時計の実験をおこない、5年間の観測の後に首里城に導入します。この時計によって、琉球では正確な時間が計れるようになります。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[91] [CITE[首里城をゆく ]]
([TIME[2014-02-05 17:57:53 +09:00]] 版)
<http://www.lint.ne.jp/~uematsu/shuri.html>
]FIGCAPTION]
> 漏刻門(ろうこくもん)
> 「漏刻」は中国語で「水時計」の意味。門の楼内の水時計と奥の広場にある日時計とセットで時間を計った。時刻は太鼓で知らせたという。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[92] [CITE[首里城跡]]
([TIME[2014-01-16 10:39:44 +09:00]] 版)
<http://5.travel-way.net/~niemon/okinawa/nahasi/syurijo.html>
]FIGCAPTION]
> 漏刻門
> 「漏刻とは、中国語で水時計という意味です。この門の上の櫓の中に水で時間をはかる水槽(水時計)が設置されていました。門をすぎた広場には日時計があり、その二つで時刻をはかり、太鼓をたたいて時をしらせました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[93] [CITE[沖縄旅日記8]]
([TIME[2002-01-21 16:48:44 +09:00]] 版)
<http://homepage2.nifty.com/aquarian/Okinawa/OkinawaJourney/OkwaJrny_8.htm>
]FIGCAPTION]
> 次に辿り着いた門が「漏刻門(ろうこくもん)」。櫓の中に、時刻を計る水時計があったことから、名付けられた。門の内側には、かつて、日時計があって、太鼓を打ち鳴らして時刻を知らせたという。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[94] [CITE[JOBBB 168 沖縄ボラボラ② 那覇市 写真と記事のページ]]
([TIME[2012-11-09 02:11:01 +09:00]] 版)
<http://jobbb.sakura.ne.jp/radio/168Okinawa-bora-bora2/Okinawa-bora-bora2-picturecaption01.html>
]FIGCAPTION]
> 漏刻門(ろうこくもん 漏刻は中国語で水時計の事。門上のやぐらの中に水時計が設置されていたことからこの名がついた)を過ぎたところに現れる広場。
> ここには日時計があり街の方に向けられています。
> 琉球王国時代はこの日時計で午前・午後という大きな時刻を、漏刻門の水時計(漏刻)で細かな時刻を計算し、太鼓を叩いて人々に時刻を知らせたそうです。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[95] [CITE[JOBBB 168 沖縄ボラボラ② 那覇市 写真と記事のページ]]
([TIME[2012-11-09 02:11:01 +09:00]] 版)
<http://jobbb.sakura.ne.jp/radio/168Okinawa-bora-bora2/Okinawa-bora-bora2-picturecaption01.html>
]FIGCAPTION]
> 西(いり)のアザナという高台からは那覇市内が一望できます!目の前に広がるビル群に圧倒されること間違い無し!?現地解説板によると琉球王国時代にはここに鐘楼が建っており、鐘を打ち鳴らして時刻を知らせたそうです。標高は約130mあるとのこと。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[96] [CITE@ja[西のアザナ |「テンペスト」沖縄観光ガイド - Walkerplus]]
([TIME[2015-12-23 22:16:50 +09:00]] 版)
<http://sp.walkerplus.com/tempest/13.html>
]FIGCAPTION]
> かつて「西のアザナ」は「島添(シマスイ)アザナ」とも呼ばれており、その意味については「浦々を支配する」と「浦々を擁護する」の2説が存在しています。この「西のアザナ」でも、「東のアザナ」や「右掖門(うえきもん)」と同様に、1879年の琉球処分まで「漏刻門(ろうこくもん)」の時を報せる太鼓に呼応して、同時に鐘を打って城下に時刻を報せていました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[97] [CITE@ja[首里城公園紹介動画「西のアザナ」 | 首里城公園 ‐ 琉球王国の栄華を物語る 世界遺産 首里城]]
([TIME[2015-12-23 22:18:47 +09:00]] 版)
<http://oki-park.jp/shurijo/1717>
]FIGCAPTION]
> 別名「島添(しまそえ)アザナ」ともいい、往時はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じた。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[38] [CITE@jp[西のアザナ (観光情報) (観光情報) | 沖縄観光 VELTRA(ベルトラ)]]
([TIME[2015-12-23 22:19:28 +09:00]] 版)
<http://www.veltra.com/jp/japan/okinawa/ctg/173782:%E8%A5%BF%E3%81%AE%E3%82%A2%E3%82%B6%E3%83%8A/>
]FIGCAPTION]
> 昔はここに旗を立て、鐘を備えて時刻を報じたといわれています。1879年の琉球処分まで(漏刻門)の時を報せる太鼓に呼応し、同時に鐘を打って城下に時刻を報せていました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[99] [CITE[おきなわ建築Web|沖縄 暮らしのでざいん研究会【野外ワーク・第1回首里城~玉陵】]]
([TIME[2014-05-03 20:30:43 +09:00]] 版)
<http://www.okinawa-kentikuweb.com/special/okinawakurasi/work/01/index.html>
]FIGCAPTION]
> 西のアザナと東のアザナ、右掖門では、漏刻門の時を報せる太鼓と合わせて、同時に鐘を打って城下に時を報せていました。明治12年の琉球処分まで続いていました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[100] [CITE@ja[那覇港、沈みゆく夕日、那覇市街、三日月…首里城「西のアザナ」から - 結~つなぐ、ひらく、つむぐ~]]
([TIME[2015-12-23 22:23:41 +09:00]] 版)
<http://blog.goo.ne.jp/nrai5029knai/e/1d8a31f85a5e5bdb8e41a91b6beaa1f3>
]FIGCAPTION]
> 「西(いり)のアザナ…城郭の西端に築かれた物見台で、別名を『島添(しまぞえ)アザナ』ともいいます。かつてはここに鐘楼が建っていて、鐘を打って時刻をしらせました。 標高は約130mで、那覇市街や那覇港のようす、そして遠く水平線上には慶良間諸島を望むことができます。」
]FIG]
]REFS]
* 独自の文字による日時表記
[143]
[[沖縄]]、特に[[先島]]では、[[数値]]の記述に[[藁算]]と呼ばれる[[結縄]]法が用いられました。
[[明治時代]]頃まで続いていたようです。
その用途には[[暦日]]記述も含まれていました。
[SRC[>>142]]
[147]
[[石垣島]]では、木製の[[日時計]]が ([TIME[昭和9年7月][1934-07]]の)
「最近」喜舎場氏により旧家から発見されました。
「一年の季節を表した字」がはっきり判読できる状態でした。[SRC[>>145]]
[148]
[[石垣島]]の[[石垣町]][[北]]約一里の山麓のハナ[ASIS[バ][バ? パ?]]ル山なる場所に、
天測の遺跡がありました。
カナハリかカラハカリ (唐計り) の転かとの説もありました。 [SRC[>>145]]