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[16]
[DFN[[RUBY[自][じ]][RUBY[由][ゆう]][RUBY[自][じ]][RUBY[治][ち]]]]
([TIME[y~468]])
は、
[[明治時代]]に使われたとされる[[日本の私年号]]の1つです。
[[昭和時代]]に注目され、
[[平成時代]]から[[令和時代]]にも稀に使われているようです。
* 概要 Q & A
: [343] Q. [[自由自治元年]]とはなんですか? :
A.
[[日本の私年号]]の1つ「[[自由自治]]」の第1年のことです。
: [338] Q. [[自由自治元年]]はいつですか? :
A.
[TIME[明治17(1884)年][1884]]です。
: [339] Q. [[自由自治元年]]は誰が使いましたか? :
A.
[[日本]]で発生した暴動事件に関係して自首した人物の供述が、
[[明治時代]]唯一の用例です。
ただし、その人物は暴動事件に直接関わっていませんでした。
: [340] Q. [[自由自治元年]]は広く使われましたか? :
A.
[[明治時代]]に広範囲で使われた形跡は見つかっていません。
: [341] Q. [[自由自治元年]]は秩父で使われましたか? :
A.
[[秩父]]地方で使われた形跡は見つかっていません。
[[秩父]]を舞台にした[[昭和時代]]の小説やテレビドラマでは使われました。
: [342] Q. [[自由自治元年]]は[[自由民権運動]]と関係しますか? :
A.
はい、[[明治時代]]の唯一の用例は、
[[自由民権運動]]に関係する過激派グループの誓約書とされる文書です。
その信憑性には疑問が持たれていますが、
[[偽文書]]だとしても[[自由民権運動]]関係の過激派の作と考えられます。
: [344] Q. [[自由自治]]2年、3年と続きましたか? :
A.
[[明治時代]]当時は使われず、いったん忘れられました。
[[昭和時代]]や[[平成時代]]になって発掘されて、使う人が何人か出現しました。
: [354] Q. [[自由自治元年]]は[[元号]]ではなく[[元号風のスローガン][スローガン的元号]]のようなものではありませんか? :
A.
[[明治時代]]に[[自由自治元年]]が[[年]]の表記でなく[[スローガン]]風に用いられた例は知られていません。
また、「[VAR[何々]]元年」形式で[[元号風にスローガン的なものを示す手法][スローガン的元号]]の[[明治時代]]の用例は他でも知られていません。
* 呼称
[19] [[元号名]]は[[自由自治]]です。
[140]
[[読み][元号の読み方]]は
「じゆうじち」
とされます [SRC[>>1]]。
根拠不明ですが、[[現代日本語]]の普通の読み方です。
[34]
[DFN[自由・自治]]と表記するものもあります [SRC[>>4]]
が、根拠不明です。
[209]
この[[元号名]]は、[[秩父暴動]]の政治的主張をそのまま[[元号名]]としたものとされます。
実際には[[秩父暴動]]の首謀者らがこの[[元号名]]を使った形跡は確認されておらず、
事件に便乗した[[自由民権運動]]関係者の政治的主張の表れと考えられます。
[210]
後述の通り、[[昭和時代]]に至っては[[共産主義]]や[[社会主義]]を標榜するいわゆる左派知識人らが、
自分達の政治的主張を表現したものだと理解し絶賛しました。
[211]
[[日本の私年号]]のうち、4文字で構成されることが確実なものの初例に当たります。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[ワッパ騒動顕彰碑建設を呼びかける会で11月18日、第1回講演会「[[秩父事件]]と庄内のワッパ騒動」が開催されます]]
( ([TIME[2004-11-15 22:49:09 +09:00]]))
<http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/sinchaku/sintyaku2004.11/titibujikentowapasoudou041115.html>
(消滅確認 [TIME[2020-09-01T09:28:04.700Z]])
[CITE[ワッパ騒動顕彰碑建設を呼びかける会で11月18日、第1回講演会「秩父事件と庄内のワッパ騒動」が開催されます]], [TIME[2020-09-01T09:27:51.000Z]], [TIME[2005-06-01T08:27:20.381Z]] <https://web.archive.org/web/20050601082708/http://homepage3.nifty.com/sizenrankato/sinchaku/sintyaku2004.11/titibujikentowapasoudou041115.html>
]FIGCAPTION]
> 「自由・自治元年」の幟(のぼり)にこめられた願いはかなわず、明治政府は、12名の死刑と3千余名の科刑・科罰を持ってこれに対処した。
]FIG]
]REFS]
* 紀年法
[18]
[[元年]]は、[TIME[日本明治17(1884)年][year:1884]]です。
[SRC[>>1 ([CITE[日本史辞典]], [[角川書店]], [TIME[1996-11-01]])]]
[212]
[[秩父暴動]]の発生年が[[元年]]とされています。
-*-*-
[141] [CITE[Wikipedia]] は継続年数を1年としました。
[SRC[>>1, >>79]]
[142]
時代が少し離れて[[平成時代]]の[[日本]]で、
[[延長年号]]的な用法が確認されています
(>>76, >>65)。
[[明治時代]]の用法との連続性は無く、
歴史知識から派生したものとみられます。
[143]
このような「復活」は珍しい事例です (>>115)。
-*-*-
[135] 1年ずれたもの: >>134
* 秩父事件と自由自治元年
[116]
[[秩父暴動]] ([[秩父事件]]) は、[TIME[明治17(1884)年][year:1884]]に発生した、
租税や負債の軽減を訴えた暴動事件でした。
[20]
[TIME[1884-10-31]]、
[[大日本帝国]][[埼玉県]][[秩父郡]]の農民らで構成される[[困民党]]が蜂起しました。
[TIME[1884-11-01]]、
[[困民党]]は[[秩父郡]]の役場等を制圧しました。
[117]
[TIME[1884-11-04]]、
[[大日本帝国政府]]は[[秩父郡]]の大半を奪還しました。
一部部隊は[[長野県]]下に逃亡しました。
首謀者らは郡下および周辺各県に潜伏しました。
[TIME[1884-11-09]]、
残党は鎮圧されました。
首謀者のほとんどは殺害または捕縛されましたが、
一部はその後[[日本]]各地で逃亡を続けました。
[218]
[[秩父暴動]]で武装蜂起したのは、
景気悪化で高利貸への借金が膨張し生活が苦しくなった農民らでしたが、
その中にはちょうどこの事件の直前に解散した[[自由党]]の過激派が入り込んでいました。
そのためこの事件は[[百姓一揆]]としての性質を持ちながら、
[[自由民権運動]]の[[激化事件]]の1つともされています。
[219]
[[秩父暴動]]の首謀者らは、
借金減免や徴兵停止などを主張していましたが、
[[国体]]の変革や[[日本国]]からの分離独立のような過激な主張は見られず、
郡役場等官公庁は襲撃したもののそれにかわる政権構想は無かったようです。
軍規が乱れても上層部は各部隊を制御しきれず、
郡下の統治に取り掛かるまでもなく瓦解しました。
;; [220]
中には「天朝に敵対する」 [SRC[>>202]] のような発言をした幹部もいたようです。
[[天皇制]]を打倒すること、その象徴として[[元号]]を建てることは、
後の時代に[[共産主義者]]らに本事件が持て囃される一因となっているようです。
しかし明治17年という時期、未だ[[近世]]からの延長線上にあるそうした発言を、
近現代の[[皇国史観]]や[[象徴天皇制]]を前提に解釈するべきではないと注意されています
[SRC[>>203]]。
;; [240]
[[秩父事件]]に関する資料は、非常に難しい状況にあるようです。
同時代の新聞記事は政府系または野党系のバイアスがかかっている上に、
秩父という奥地からの伝聞であるが故の不正確性を持っています
[WEAK[(当時の新聞は都市部を拠点とし、事件の詳細が伝わるまで数日掛かっていた点に注意)]]。
事件後の取り調べの記録は最も信頼できる資料ですが、
政府側のフィルターを通った記録であるという点と、
供述側も減刑等の思惑あっての発言であるという点などの不安材料があります。
近代の雑誌記事等は[[検閲]]のような国家権力の統制の元で出版されたことに注意せねばなりません。
[[昭和時代]]の一般記事や学術論文などは[[社会主義]]や[[共産主義]]の強い影響下にあり、
自分達の思想と境遇に引き寄せて解釈する傾向が大きく、
原典を辿らずにその見解を採用するのは危険です。
そして各時代とも事件関係者の親類や現地出身者の関与が多く、
研究において大きな役割を果たしています。
そうした人々の活動は当事者の証言の記録に功績が大きい反面、
史実に対する中立性を欠く懸念も拭い去れません。
[[昭和時代]]以降はそれらの資料をもとに作られた小説や映像作品が、
史実と虚構の違いを曖昧にしたまま本事件を広めていきました。
研究や教育に従事する者も、どこまで史実か理解しないまま自説に有利に解釈しようとする節があります。
** [CITE[盟約書]]
[77]
「自由自治元年」
の唯一の用例は、
[[太田次郎]]らの[[八王子]]での
[CITE[盟約]]
とされます。
[SRC[>>151, >>74]]
事件鎮圧後の[[太田義信]] ([[太田次郎]]) の供述に[CITE[盟約書]]なるものがあり、
[[明治時代]]にまとめられた事件資料に収録されています。
[223]
[CITE[盟約書]]は[[西郷旭道]]、
[[富松正安]]、
[[太田次郞]]の3者による[[血判状]]で、
専制政府を打倒し自由政府を設立することを誓い同盟するものであって、
「[V[自由自治元年八月二日]]」
の紀年がありました。
[SRC[>>213]]
[318]
ただし、
[CITE[秩父事件史料]]
に収録された
[CITE[盟約書]]
では、日付は
「[V[自由自治元年月日]]」
になっています。
[SRC[>>317]]
どちらが原表記なのか (それとも2バージョンあるのか) 不明です。
[319]
大元の[[埼玉県]]庁文書課所蔵[CITE[秩父暴動始末]]に原本があるのか、それとも
[CITE[秩父暴動始末]]
時点で既に複写なのか不明です。
[CITE[秩父事件史料]]
所収
[CITE[秩父暴動始末]]
では[[太田義信]]発警察署長宛自首本末書の項に含まれていて、
そもそも[[太田義信]]が提出したものが ([[太田義信]]による) 複写 (の体)
かもしれません。
[225]
この盟約は、
[TIME[1884-08-02]]
(ないし[TIME[1884-09-20]] = 旧8月2日)
に[[日本国]][[神奈川県]][[八王子]]の旅館[[角屋]]で[[西郷旭道]]が提示し、
[[太田次郞]]が同意し成立したものとされます。
[SRC[>>213]]
-[224]
[RUBYB[[[富松正安]]][[TIME[1849]]-[TIME[1886]]]]は、
[TIME[1884-09-23]]に[[日本国]][[千葉県]]下で発生した[[加波山事件]]
[WEAK[([[自由党]]員らによる反政府テロ未遂事件)]]
の実行犯の1人でした。
[TIME[1884-08-02]]の八王子の盟約には、
盟約済であるとして出席しなかったとされます [SRC[>>213]]。
[[加波山事件]]後逃亡していましたが、
[TIME[1884-11-02]]に[[日本国]][[千葉県]][[市原郡]]で[[逮捕]]されました。
従って[[秩父暴動]]に直接的に関与していなかったことは確実です。
-
[227]
[[西郷旭道]]なる人物の正体には議論があるところです。
[[秩父暴動]]の前に秩父で薩摩浪士の[[自由党]]員を称する人物が武力蜂起を煽っていたとされます
[SRC[>>213]]。
また[[秩父暴動]]の直前に秩父で数千人を集めていたといいます [SRC[>>213]]。
-
[228]
[[太田次郞]]は、[[自由党]]員の過激派であり、
[[甲信越]]地方で人員を集めたものの数十人に留まり、
[[西郷旭道]]との方針の違いにより[[秩父暴動]]には加わらず、
その勃発した頃には解散したとされます [SRC[>>213]]。
[154]
この
[CITE[盟約]]
は[[偽文書]]の疑いが強いとされます。
[SRC[>>151, >>74]]
[226]
[CITE[盟約書]]の本文は、
[[加波山事件]]の檄文として現地に配られたものとほぼ同文だったようです。
[160]
[[大田次郎]]ないし[[太田義信]]は[[誇大妄想狂]]だったとされ
[SRC[>>13]]、
それが信憑性に疑問をもたせています。
;; [350]
[[太田義信]]という人物について、
この[CITE[盟約書]]以外の言動はほとんど情報がありません。
[[八王子]]で会合した(という設定)ということは、その近辺が活動エリアだったのでしょうか。
当時は[[秩父]]、[[八王子]]に限らずこの近辺一体で「困民党」
を称する団体があって、県境をまたいで交流はあったようです。
しかし[[昭和時代]]に編纂された[CITE[八王子市史]]の[[自由民権運動]]の項には[[太田義信]]に関係しそうな記述がないどころか、
[[秩父事件]]への言及も見られません [SRC[>>349]]。
[347]
[[富松正安]]は、
[[西郷旭道]]も[[太田次郞]]も知らず、
盟約の事実はないと供述しています
[SRC[>>346]]。
[229]
[CITE[盟約書]]に署名したとされる3人はいずれも[[秩父暴動]]の首謀者グループのメンバーではありません。
[[自由党]]員が武装蜂起を煽り、
その首謀者グループおよび戦闘員に加わっていたのは事実だとしても、
この3人の主導によりその政治的な思想と政権構想に基づき挙兵したという事実は無く、
[CITE[盟約書]]
と[[秩父暴動]]それ自体との関係性を過剰に高く評価するべきではないでしょう。
[304]
つまり、
- [305] [CITE[盟約書]]とされるものは[[秩父事件]]そのものには無関係
- [306] [[明治時代]]に[CITE[盟約書]]が存在していたことは確か
- [307] [CITE[盟約書]]は[[大田次郎]]が作成したものかもしれないが、
盟約の存在は疑わしい
- [308] [CITE[盟約書]]に「自由自治元年」と書かれていた
というのが現在言えることでしょうか。
[309]
この[CITE[盟約書]]は[[昭和時代]]中期まで一般公開されなかったと思われます (>>286)。
[REFS[
- [213] [CITE@ja-JP[秩父騒動]], [[江袋文男]], [TIME[1956]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2023-01-04T04:17:12.302Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2995613/1/26> (要登録)
-- [221]
[CITE[盟約書]] 全文あり
(出典は[[埼玉県]]庁文書課所蔵[CITE[秩父暴動始末]] [SRC[/143]])
- [349]
[CITE@ja-JP[[[八王子市史]] 下巻]], [[八王子市史編纂委員会]], [TIME[1967]], [TIME[2023-10-31T01:53:09.000Z]], [TIME[2023-11-12T13:43:43.686Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3022498/1/664> (要登録)
-
[317]
[CITE@ja-JP[[[秩父事件史料]] 第1巻]], [[埼玉新聞社出版部]], [TIME[1970]], [TIME[2023-10-31T01:53:09.000Z]], [TIME[2023-11-12T02:47:04.155Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/12283444/1/50> (要登録)
- [346]
[CITE@ja-JP[茨城県警察史 上巻]], [[茨城県警察史編さん委員会]], [TIME[1971]], [TIME[2023-10-31T01:53:09.000Z]], [TIME[2023-11-12T13:26:15.619Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9768688/1/449> (要登録)
]REFS]
-*-*-
[332]
[[昭和時代]]の論文や書籍には[CITE[盟約書]]の異本が掲載されていることがあります。
[321]
[[昭和時代]]の[[日本]]の近代経済史学者で[[自由民権運動]]や[[士族反乱]]を[[天皇制]]と民衆の対立の構図として研究した[RUBYB[[[後藤靖]]][[TIME[1926]]-[TIME[1998]]]]の[TIME[昭和33(1958)年][1958]]の著書には、
8月2日の3人の
「[V[おそるべき盟約]]」
が収録されています。
[SRC[>>320]]
[322]
この「盟約」は、何の注釈もなくあたかも原文のように掲載されていますが、
他書掲載の[CITE[盟約書]]の後半を[[平仮名]]化し細かな表現を変更したものとなっています。
[323]
ここでは日付は「[V[自由自治元年 月 日]]」となっています。
[SRC[>>320]]
[324]
この改変(?)版が何に由来するのかは不明です。
[327]
[[国立国会図書館デジタル]]で全文が公開されていない断片情報なので不確実ですが、
[TIME[昭和29(1954)年][1954]]の[[共産]]系歴史雑誌にやはり
“自由自治元年月日”付の平仮名の盟約書が掲載されているようです。
[SRC[>>326]]
[328]
>>327 それを引用した昭和60年の論文によると、 >>320 版の盟約書とほぼ同文が掲載されていたようですが、
>>326 版は冒頭に「[V[[WEAK(smaller)[(前略)]]]]」とあったようです。
[SRC[>>195]]
だとすると >>320 はなぜそれを削ったのでしょう。
[331]
[TIME[昭和41(1966)年][1966]]の書籍 [SRC[>>330]] は8月2日に3人が結んだ盟約を掲載していますが、
これは >>320 からさらに注釈や署名を削った版です。
日付は「[V[自由自治元年 月 日]]」。
出典は不明。
[REFS[
- [325]
[CITE@ja-JP[歴史評論 = Historical journal (59);1954年9月]], [[歴史科学協議会]], [TIME[1954-09-01]], [TIME[2023-10-31T01:53:09.000Z]], [TIME[2023-11-12T03:20:03.851Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/10232761/1/31>
-- [326]
「加波山事件70周年/林基/54」
--- [329]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/2474281/1/129> (非公開)
は同じ著者の昭和30年の著書。 >>326 が収録されたものか。
- [320]
[CITE@ja-JP[自由民権運動]], [[後藤靖]], [TIME[1958]], [TIME[2023-10-31T01:53:09.000Z]], [TIME[2023-11-12T03:06:18.613Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2991011/1/84> (要登録)
- [330]
[CITE@ja-JP[東陲民権史]], [[関戸覚蔵]], [TIME[1966]], [TIME[2023-10-31T01:53:09.000Z]], [TIME[2023-11-12T03:29:27.063Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2995647/1/11> (要登録)
]REFS]
** 革命軍布告
[231]
[TIME[1884-11-02]]に武装勢力が郡役場等を占拠し、
[[自由自治]]元年付の[[布告]]が発されたとする説があります。
[232]
その原典とされるのは、
[TIME[昭和31(1956)年][1956]]の[[日本共産党]]員で[[作家]]の[RUBYB[[[西野辰吉]]][[TIME[1916]]-[TIME[1999]]]]の歴史小説で、
それによると
>
[VRL[
自由自治元年十一月二日
]VRL]
と書かれて役所の前の掲示板に張り出されたのだといいます。
[SRC[>>217, >>201]]
[233]
本作は元より小説ですから、まるで現地で見ているかのような会話や描写がありますが、
そこには出典も書かれていません。取材を重ねての執筆ではあるのでしょうが、
文中のどこからどこまでが史実で、どこからが創作なのかはわかりません。
[234]
本書巻末には[[マルクス主義]]系評論家の[RUBYB[[[佐々木基一]]][[TIME[1914]]-[TIME[1993]]]]の[CSECTION[[V[解説]]]]があります。
そこでは本作が高く評価され、特に
>
[VRL[
[SNIP[]]作者はその困難をおかして、自らの手で資料を調べ、埋もれた事実を掘りおこし、ここに真[BR[]]
の意味での歴史小説を完成した。「自由自治元年十一月二日革命軍総理田代栄助」という困民党の布 [BR[]]告を明るみに出したこと一つにも、千鉤の重みがある。
]VRL]
... とあたかも本[[布告]]が隠された史実の発掘であるかのように紹介されています。
[SRC[>>230]]
[235]
しかし、本布告の出典、根拠となるものはその後発見されていません。
[[西野辰吉]]の創作とみなす [SRC[>>195]] のが通説となっているようです。
[[佐々木基一]]の目は[[史実と創作の区別]]もつかない節穴だったということでしょうか。
不思議なのは、
[[西野辰吉]]は出版前になぜ[[佐々木基一]]に誤解を指摘しなかったのでしょうか。
たとえ気づいたのが出版後だったとしても、
訂正が必要なレベルの重大な事実誤認です。
[243]
いずれにしても本作は研究者を含む[[昭和時代]]中期の一般人の[[秩父暴動]]の理解に大きな影響を与えました。
本作を読んだ人々は、[[自由自治]]元年の実在を信じて疑わなかったようです。
最初の刊行時の[CSECTION[解説]]がその史実性を訴えているくらいですから、
無理もないことです。
[78]
[[昭和時代]]の左翼運動家・[[日本共産党]]員で大学教授の[RUBYB[[[色川大吉]]][[TIME[1925]]-[TIME[2021]]]]は、
[[秩父暴動]]を含む[[自由民権運動]]の著名な研究者でした。
[[色川大吉]]は、
はじめ「自由自治元年」と書かれた[[布告]]があったと主張していました。
その後、
誤りを認めて撤回しました。
[SRC[>>81, >>151]]
(それはテレビドラマを通じて拡散された責任の一端を感じてのことでした (>>157)。)
[236]
[[布告]]文が域内に配布されたのではなく掲示板に1枚張り出されたに過ぎないのだとすると、
事件中または事件後に消失し現存しないのも不思議ではありません。
仮にそうだとしても、目撃証言がまったく残されていないのは不審です。
[237]
また、[[布告]]に使われた[[元号]]をその後他の文書でまったく1回も使わず、
それを見た領民が使ったこともない、というのも不自然です。
[238]
[[明治]]の[[元号]]を奉ずる[[明治政府]]に対抗する新政府樹立構想が武装蜂起前から練られていたのなら、
新[[元号]]を使った行政文書の1つや2つは当然作られていそうなものですが、
この幻の「布告」以外にはありません。
[239]
[CITE[盟約書]]が史実ならこの[[元号]]自体は武装蜂起前から[[自由党]]方面で利用されていて、
それが秩父地域に波及したということになりますから、
蜂起前の準備過程から新[[元号]]が使われていたとしてもまったくおかしくないはずなのですが、
それが何の痕跡もなく消え去ってしまうことは、あり得るでしょうか。
[351]
小説に
[CITE[盟約書]]
が登場しないのも不思議な点です。
当布告が創作だとすると
[CITE[盟約書]]
に着想を得たに違いないのですが [SRC[>>195]] [WEAK[(偶然の一致とするのは無理があるでしょう)]]、
だとするとその重要な史料を作品に反映させなかった理由は何でしょうか。
;; [352] 確かに革命軍の制定した画期的な新元号が、実は挙兵前に、
挙兵に関係していない人達がもう使い始めていた、
というのは小説として成り立たないのかもしれません。
[355]
なお、[[元号]]を除く布告の本文や、「革命軍総理」の肩書も含め、
「布告」の全体においてその史実性は著しく疑わしいといえます。
このような布告や「革命軍」のような呼称が実在したとすれば、
やはり何らかの痕跡が現存していそうなものです。
;; [356]
[[東洋]]的な[[易姓革命]]なり、[[西洋]]的な[[市民革命]]なりの思想的目標を首謀者グループや他の暴動参加者が共有し武装蜂起の原動力にしていたという根拠は特にないようです。
[[昭和時代]]の[[共産主義者]]らが[[共産主義革命]]に擬えて事件を
「革命」
と評価した結果広まった呼称と推測されます。
[REFS[
-
[217] [CITE@ja-JP[秩父困民党]], [[西野辰吉]], [TIME[1956]], [TIME[2022-12-28T09:26:51.000Z]], [TIME[2023-01-04T04:32:59.305Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1645034/1/98> (要登録)
-- [230]
/106
-[201] [CITE@ja-JP[秩父困民党]], [[西野辰吉]], [TIME[1968]], [TIME[2022-12-21T08:14:19.000Z]], [TIME[2022-12-23T14:57:05.125Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1650649/1/101> (要登録)
]REFS]
** 自由自治元年諸説
[17]
[[自由自治]]は[[秩父事件]]で使用された
[SRC[>>1]]
とされます。
その詳細にはいろいろな説があります。
- [37]
[[困民党]]メンバーや同調者が、
蜂起中に使ったとされます。
[SRC[>>2]]
- [38]
首謀者の1人、
[[困民党]]総理の[RUBYB[[[田代栄助]]][[TIME[1834]]-[TIME[1885]]]]が宣言したとされます。
[SRC[>>10]]
- [43]
布告に書いたとされます。
[SRC[>>13]]
- [83]
[[田代栄助]]の[[布告]]に
「自由自治元年十一月二日」
とあったといいます。
[SRC[>>81]]
- [153]
[[田代栄助]]が[[郡役所]]を占拠した時に発した布告に
「自由自治元年、革命軍総理」
とあったといいます。
[SRC[>>151]]
- [257]
「自由元年とする」旨布告を掲示した。
[SRC[>>256]]
- [266]
郡役所に自由自治元年の看板を掲げた。
[SRC[>>265]]
- [82]
参謀長の[RUBYB[[[菊池貫平]]][[TIME[1847]]-[TIME[1914]]]]が発案したとされます。
[SRC[>>81]]
- [40]
書類に書いたとされます。
[SRC[>>8]]
- [44]
[RUBYB[[[井出為吉]]][[TIME[1859]]-[TIME[1905]]]]が[[領収書]]に書いたとされます。
[SRC[>>13]]
- [41]
本部看板に書いたとされます。
[SRC[>>12, >>8]]
- [45]
[[太田義信]]の供述に出現するとされます。
[SRC[>>13]]
- [39]
「自由自治元年」
と[[旗]]に書きました。
[SRC[>>63, >>85, >>272]]
- [259]
「自由元年」と大書きした旗を立てた。
[SRC[>>258]]
- [270]
[[加波山事件]]の[[富松正安]]が、
[[秩父事件]]の[[西郷旭道]]と[[太田次郞]]と盟約を結んで、
明治17年を自由自治元年に改めた。
[SRC[>>269]]
[69]
出典が明確でないもの、
後世の脚色によるものが含まれています。
当時実在した確実な根拠はないようです [SRC[>>13]]。
[310]
それにしてもこれだけ具体的な用例、用法が史実として説明されていながら、
その実ろくな根拠も出てこないというのはとても恐ろしいことです。
[REFS[
- [265] [CITE@ja-JP[長野県政史 第1巻]], [[長野県]], [TIME[1971]], [TIME[2023-01-04T09:54:44.000Z]], [TIME[2023-01-05T05:52:04.419Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9768847/1/64> (要登録)
- [269] [CITE@ja-JP[町田 : 歴史と文化財]], [[林陸朗]], [TIME[1975]], [TIME[2023-01-04T09:54:44.000Z]], [TIME[2023-01-05T06:04:36.903Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9640738/1/46> (要登録)
- [271] [CITE@ja-JP[作家 (312)]], [[作家社]], [TIME[1975-01]], [TIME[2023-01-04T09:54:44.000Z]], [TIME[2023-01-05T06:08:40.479Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2367057/1/16> (要登録)
-- [272] 小説。
作中の秩父で生まれ育った人物が幼少期によく聞かされたという話。
(どの程度取材してどこまで史実のつもりで書いたものかはわからない。)
- [256] [CITE@ja-JP[信州歴史の旅]], [[南原公平, 若林伝]], [TIME[1981.3][1981]], [TIME[2023-01-04T09:54:44.000Z]], [TIME[2023-01-05T04:31:14.552Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9538632/1/57> (要登録)
- [258] [CITE@ja-JP[大井町史 資料編 3-2 (現代)]], [[大井町史編さん委員会]], [TIME[1989.8][1989]], [TIME[2023-01-04T09:54:44.000Z]], [TIME[2023-01-05T04:33:30.032Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9644410/1/329> (要登録)
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[12] ( ([TIME[2016-05-24 02:15:50 +09:00]]))
<http://www.geocities.jp/asagao371/chichibuShingun.htm>
(消滅確認 [TIME[2020-09-01T09:47:19.100Z]])
[TIME[2020-09-01T09:47:09.000Z]], [TIME[2013-06-10T23:47:18.561Z]] <https://web.archive.org/web/20130610234548/http://www.geocities.jp/asagao371/chichibuShingun.htm>
]FIGCAPTION]
> 参謀長菊池寛平は郡役所を占拠すると、「郡役所」の表札を外して鉋で削り、「革命本部」と書いてかけなおした。そして門の前の掲示板に、以下の布令を貼り出した。「今日より郡中の政則を出すこと大将の権にあり、各其の意を体せよ。自由自治元年11月2日 革命軍総理田代栄助」
]FIG]
;; [42] 出典不詳。この時代[[欧州数字]]で[[日付]]を書いた可能性はほとんど皆無に近い。
[[漢数字]]でないとおかしい。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[13] [CITE[【恐れながら】[[秩父事件]]【加勢しろ】]],
[TIME[2016-05-24 02:18:02 +09:00]])
<http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1042048073/>
]FIGCAPTION]
>5 :日本@名無史さん:03/01/10 08:03
> 指導部層の中に当時一級の知識人がいたのは間違いないけどそれが
> 参加者にどれだけ理解されていたかは疑問。
> たとえば「自由自治元年」の意味をどれだけの農民が理解したか?
> 8 :日本@名無史さん:03/01/12 00:15
> 「自由自治元年」自体、史料では宇都宮警察署に出頭した大田某の自供の
> 盟約を語った中に一箇所出てくるだけのものだったはず。
> ようは存在したか微妙な扱い。
> 最近はあまり秩父事件関係の書籍見てないから進展あったらスマソ。
> 9 :日本@名無史さん:03/01/12 02:31
> >8
> 領収書に勝手に書いてなかったっけ?
> 13 :日本@名無史さん:03/01/12 19:21
> 私も記憶がさだかでないのですが、最後に「自由自治元年」と書かれた何かの
> 布告書を本の中でみたような記憶があるんですよ。(間違いかもしれません)
> 手元に資料がほとんどないので記憶違いでしたらかんべんを。
> 20 :日本@名無史さん:03/01/14 23:03
> >>9
> 井出為吉の書いた領収書だね。
> 自分が興味持った頃は布告として出してた確証ないと言うことで
> スローガンとは言えないってのが主流だったと思う。井上幸治氏とか。
> 唯一の例としてあげた大田は太田義信でした。
> ただこの人物、誇大妄想狂として一月後に放免されており信憑性は極めて低い。
> 22 :1:03/01/16 22:45
> >>20
> 井出孫六によれば証拠には残ってなくても
> 「自由自治元年」はスローガンの一つであったといった論調だった気がします。
> ただこの人、先祖と一緒で先走り気味な感じもするんだけども。
]FIG]
- [85] [CITE[秩父の民俗: 山里の祭りと暮らし - [[栃原嗣雄]] - Google ブックス]],
[TIME[2005][year:2005]],
[TIME[2020-09-02T03:14:16.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?id=XBIGknxzqHYC&pg=PA415&dq=%22%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB%E5%85%83%E5%B9%B4%E2%80%9D>
- [1] [CITE@ja[[[自由自治]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-05-22 14:02:10 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%94%B1%E8%87%AA%E6%B2%BB>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE@ja[[[秩父事件]] - Wikipedia]]
( ([TIME[2016-04-23 02:03:19 +09:00]]))
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%A9%E7%88%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6#.E3.80.8C.E8.87.AA.E7.94.B1.E8.87.AA.E6.B2.BB.E5.85.83.E5.B9.B4.E3.80.8D>
]FIGCAPTION]
> 蜂起中に困民党メンバーやその同調者は「自由自治元年」という私年号を用いた。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[11] [CITE@ja[[[田代栄助]] - Wikipedia]]
( ([TIME[2016-04-23 02:14:07 +09:00]]))
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%BB%A3%E6%A0%84%E5%8A%A9>
]FIGCAPTION]
> 蜂起中に困民党メンバーやその同調者は「自由自治元年」という私年号を用いた。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[62] [CITE@ja[WEBマガジン「福祉広場」-[[編集長]]の毒吐録(どくはくろく)]]
([[HAL PROMOTION Inc.]], [TIME[2020-09-01T10:11:50.000Z]])
<http://fukushi-hiroba.com/magazine/srh/srh.cgi?act=list&page=717>
]FIGCAPTION]
> ☆2018/8/29更新☆
> ≪秩父紀行❿≫蜂起中に秩父困民党メンバーは、「自由自治元年」という私年号を用いたという(なんと素晴らしい響きであることか)。
> [SNIP[]]
> (終わり)自由自治136年の年に記す。
]FIG]
- [74] [CITE[[[近代諸元号現象]]]]
]REFS]
** 自由自治元年の暦日
[145]
明治17年は[[明治改暦]]から11年が経過していましたが、
農村部ではまだまだ[[旧暦]]が主流でした。
「11月2日」は[[グレゴリオ暦]]のようですが、
当時の秩父では既に[[グレゴリオ暦]]が普及していたのでしょうか。
それとも記述者が新暦を使う生活をしていただけなのでしょうか。
[206]
記録によると首謀者らの会見について[[盆]]のうちに、のような約束があり
[SRC[>>203]]、[[旧暦]]の[[盆]]を基準に人々が行動していたことが知られます。
そこから[[日付]]の記述まで飛躍することは難しいですが、
現在より遥かに[[旧暦]]が生活に溶け込んでいたことは確実です。
[311]
[CITE[盟約書]] (>>223) の8月2日は、
[[旧暦]]の[[日付]]と考えた方が辻褄が合います。
[312]
革命軍布告の11月2日は、[[旧暦]]を忘れた[[昭和時代]]中期の都会民の創作だとすればしっくり来ます。
* 自由党と自由自治元年
[169]
[[秩父暴動]]の蜂起当時に用いられたものでない、
妄想や偽造に属する類だとしても、
事件の関係者
[WEAK[(首謀者でないことには注意。)]]
にこのような[[私年号]]の発想が生じたことは確かなようです。
[252]
[CITE[盟約書]]の成立の経緯が事実だとすれば[[西郷旭道]]が、
そうでないとすれば[[太田次郞]]が、[[秩父暴動]]と同年に
「自由自治元年」を[[紀年法]]として使ったことになります。
[254]
どちらにせよ、
[[加波山事件]]の檄文とほぼ同文の[CITE[盟約書]]は[[自由党]]系過激派グループによって生み出されたことは間違いなく、
「自由自治元年」もまたそうした文脈で生じ、使われた[[紀年法]]ということになります。
;; [253] 一応[CITE[盟約書]]関連の供述がすべて捏造という可能性もあり得ますが、
官憲がこの1例だけ「自由自治元年」を発想し捏造する動機がありませんから、
[[自由党]]方面で出現したと推測して構わないでしょう。
[170]
欧米から渡来した当時としては新奇の[[自由民権]]思想に触れた人達が、
[[東洋]]の、それもどちらかといえば大陸系の[[反乱、革命の蜂起の伝統][私年号]]にのっとり現政権の[[元号]]を否定し、
独自の[[元号]]を[[建元]]するべきと判断するに至ったというのは、
興味深い現象です。
そうした新思想を受容した知識人達は土台として従前の東洋思想も熟知していたのでしょうか。
[171]
東洋の伝統にのっとりつつも、
2文字でなく4文字の、それも思想をそのまま捻らず[[元号名]]とする大胆さは、
まさに型破りです。
[172]
武力蜂起して[[建元]]する例は[[日本]]では前にも後にもほとんど例がありません。
大規模な例では[[オウム真理教]]の[[真理]]くらいでしょうか。
[173]
自称政府の[[建元]]例としてはこの事件の約10年後に[[芦原太陽暦]]がありました。
[[秩父事件]]以前に参考にできたであろう事例は[[日本]]国内には見当たりません。
敢えて言えば[[奥羽越列藩同盟]]の[[改元]]の噂が流れたくらいです。
噂が流れた地域とも近いので、もしかするとそれを知っていた人はいたかもしれません。
[SEE[ [[延寿]] ]]
[255]
あるいは[[フランス共和暦]]に重ね合わせる[[昭和時代]]の[[マルクス主義]]者の分析
(>>205) も、あながち無視できないかもしれません。
「自由元年」
([TIME[西暦1789年][1789]])
のような[[フランスの元号]]を「自由自治」の考案者が知っていた可能性も、ないではありません。
[289]
しかしそれにしても異例の4文字元号名に違和感はなかったのかという疑問は残ります。
[[フランスの元号]]の和訳は自由元年、平等元年とやはり2文字に収まっています。
その模倣にとどまらずに「自由自治」としたのはなぜでしょう。
[282]
後世において[[自由自治]]の[[元号]]は[[秩父事件]]や[[自由民権運動]]の象徴として祭り上げられている割に、
それに対する考察は十分になされていないように感じられます。
「自由」は[[自由党]]や[[自由民権運動]]の[[自由]]ということでひとまずよしとしましょう。
「自治」とはどういうことでしょう。現代でも連邦国家の民族''自治''、
各国の地方''自治''体、
町内の''自治''会、
大学の''自治''、
など同じ[[自治]]でも大きな幅があります。
当時の[[秩父]]や[[八王子]]の人々、あるいは[[自由民権運動]]に関わった人々が描いた
「自治」はどういったものだったのか。
[[秩父]]や[[八王子]]の人々が書き残した文書に「自由」や「自治」
はどのような意味で使われ、どれだけの量、現存しているのか。
数ある概念の中から「自由」と「自治」を選び、
この順序で並べたことにはどのような意味があるのか。
彼らは[[自由党]]であって自治党ではないのですから、
この2つの言葉には元来差があったはずです。
「自由自治」と組合せた語は[[自由民権運動]]の中で、
どのような人々がどのくらい使ったものなのか。
それは[[秩父]]や[[八王子]]に残された文書にどれだけ出現するのか。
それは「自由自治元年」と[[元号名]]に採用されるまで、
どのような過程を経ているのか。
「自由元年」や「自治元年」や「秩父元年」ではなぜいけなかったのか。
といった基礎的な分析が、未だ十分なされないまま
「自由自治」の語感だけが独り歩きしているのは遺憾と言わざるを得ません。
* 近代の自由自治元年
[174]
[[秩父事件]]については[[明治時代]]から[[昭和時代]]前期まで、
公共の場で語ることがほとんど許されなかったといわれています。
[[自由自治]]の[[元号]]への言及もこの時期にはほとんどないと思われます。
[207] といっても[[昭和時代]]初期の新聞や雑誌の記事が数件残っているようです。
それらには当事者や現地民への取材に基づく詳細な事件経過の描写もありますが、
[[自由自治]]の[[元号]]は登場しないようです。
[[検閲]]や自粛の空気の存在を考慮しても、
この[[元号]]の存在を伺わせる要素がまったく見られないということは、
初めから存在していなかった、あるいはさほど重視されなかった、
目立つ存在ではなかった、ということは断定してよいのではないでしょうか。
;; [208]
諸々の条件が異なるとは言え、
[[31独立運動]]で使われた[[大韓民国][大韓民国 (紀年法)]]という[[紀年法]]については、
まだ日が浅い[[大正時代]]や[[昭和時代]]初期の出版物で紹介したものが数点あります。
[SEE[ [[大韓民国 (紀年法)]] ]]
当時でもこの種の[[紀年法]]がまったく表に出せなかったということはないのです。
[286]
現存唯一の用例である[CITE[盟約書]]の出典は[[埼玉県]]庁文書課所蔵[CITE[秩父暴動始末]]とされます [SRC[>>221]]。
本書は現在[[埼玉県文書館]]に所蔵されているようで、
概観が >>199 左下の写真に写っています。
本書は事件直後の成立と思われます。
[287]
そのうちの
[CITE[盟約書]]
は[RUBYB[[[江袋文男]]][[TIME[1915]]-[TIME[1989]]]]が[TIME[昭和25(1950)年][1950]]に全文翻刻掲載した [SRC[>>221 /144]]
ものが、現在知られている中では研究史上の初出です。
[288]
[CITE[秩父暴動始末]]
全体としては[TIME[昭和46(1971)年][1971]]に
[CITE[秩父事件史料]]
に収録されて広く流布されるようになりました。
それ以前は一般人のアクセスは困難だったと推測されます。
[155]
なお[[江袋文男]]は[[日本国]][[埼玉県]][[大里郡]]生まれ、
[TIME[昭和44(1969)年][1969]]には埼玉県立図書館長に就任しました
[SRC[>>70]]。
[CITE[秩父事件史料]]にも監修者の1人として関わりました。
[TIME[昭和25(1950)年][1950]]当時は高校教員で、
[[史料編纂所]]の[RUBYB[[[西岡虎之助]]][[TIME[1895]]-[TIME[1970]]]]の指導の元で[[秩父暴動]]を研究していました
[SRC[>>221 /144]]。
[315]
[TIME[昭和59(1984)年][1984]]には
[CITE[秩父事件史料集成]]
が刊行されました。
[CITE[盟約書]]
は
[CITE[秩父事件史料集成]]
にも収録されたと思われます [SRC[>>79]]。
;; [316]
[CITE[秩父事件史料]]
と
[CITE[秩父事件史料集成]]
は別書なので要注意です。
[CITE[秩父事件史料]]
は[[国立国会図書館デジタル]]で一般公開されていますが、
[CITE[秩父事件史料集成]]
はなぜか非公開です。
[HISTORY[
[283]
当ウィキ記事は、
[CITE[Google Books]]
を引いて、
「自由自治元年」
の研究は[TIME[西暦1933年][year:1933]]が初出 [SRC[>>109]]、
ただしそれは文献リストなので真の初出はもっと前、
としていました。
[284]
ところがその後当該文献は [CITE[Google Books]] の書誌情報が誤っている
(当該文献は第8巻なのに第1巻の発行年が書かれている)
ことがわかりました。
実際の発行年は昭和61年でした。
]HISTORY]
[REFS[
- [199]
[CITE[第51回収蔵文書展-県文化財指定記念-「埼玉県行政文書が語る80年~明治・大正・昭和~」平成18年10月21日(土)~12月24日(日)-1.pdf]],
[TIME[2023-01-06T04:31:32.100Z]]
<https://monjo.spec.ed.jp/wysiwyg/file/download/1/1049>
#page=1
- [70]
[CITE@ja[『[[秩父騒動]]』(秩父新聞出版部 1956)の著者江袋文男氏の生没年をを知りたい。江袋文男氏は埼玉県立図... | レファレンス協同データベース]], [[国立国会図書館]],
事例作成日 2018年07月30日,
更新日時 2018年12月06日 15時16分,
[TIME[2023-01-06T04:45:02.000Z]], [TIME[2023-01-06T04:46:36.933Z]] <https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000240625>
]REFS]
* 昭和時代の自由自治元年
[111]
[CITE[Google Books]]
の収録対象がどんな集合なのかよくわからないのであれですが、
[TIME[西暦1951年][year:1951]]頃からコンスタントに言及されるようになるみたいです。
[[西暦1970年代]]くらいからどんどん増えていくのは、
[[井出孫六]],
[[色川大吉]],
[[NHK]]
らの作品が世に出ていったのと、
[CITE[元号法]]
などで世間の[[元号]]への関心が高まったためでしょうか。
[147]
[TIME[西暦1981年][1981]]前後は[[自由民権運動]]から100年ということで顕彰の動きが広がりました。
またその前後を含む[[昭和時代]]後期には、
[[社会主義]]や[[共産主義]]を信奉する人達が[[明治時代]]の[[自由民権運動]]を自分達の思想の源流とみなしてその歴史をたどる動きが出ていたようです。
[148]
そうした人々によって一連の武装反乱事件 ([[激化事件]])
は[[抵抗権]]・[[革命権]]の行使であって、
[[自由自治]]の[[元号]]を建てて新政府樹立を目指した[[秩父事件]]は[[自由民権運動]]の最高の到達点だったと絶賛されたのが、
この時代だったようです。
[164]
「自由自治元年」
の[[元号]]は[[昭和時代]]後期のそうした空気の中で
「発見」
され、
絶賛され、
そして否定されたのでした。
(が絶賛の後から否定してもなかなか受け入れられなかったようです。)
[165]
見方によっては[[昭和時代]]こそが「自由自治元年」の最盛期だったのかもしれません。
[163]
[[昭和時代]]の一部の人々の
「自由自治元年」
の捉え方は過剰評価と言わざるを得ないようです。
それは後述 (>>147) のように、
[[大東亜戦争]]の反省と反動による[[自由民権運動]]の再評価や、
[[55年体制]]下における[[自民党政権]]への反発の文脈の中で生み出されたように思われます。
[183]
その時代の学術研究や映像作品等の意義は認めつつも、
今一度[[明治時代]]の同時代史料に立ち返って客観的に事実関係を精査していく必要があるのではないでしょうか。
;; [182]
当時の用例としては疑わしく、
むしろ後世の受容の方が興味深い現象である事例は他にもあります。
例えば[[古代年号]]などがそうです。
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[110] [CITE[[[日本歴史]] - Google ブックス]],