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448
449
450
451
* 太和 (魏)
[15]
[CITE@zh[三國史記/卷29 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-04-16T02:22:41.000Z]], [TIME[2023-04-30T05:43:42.787Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B729>
>大和元年
* 太和 (東晋)
[16]
[[太和]] [TIME[y~868]]
[17] [[元年]] [TIME[西暦366年][366]]
[6]
[CITE[張今:出土[[六朝]]磚銘文字校訂十五則]], [[先秦秦漢史]],
2022-07-13 19:00,
[TIME[2022-07-17T01:44:01.000Z]], [TIME[2022-07-24T08:40:02.377Z]] <https://mp.weixin.qq.com/s/fbRyDAKiUaleE1FovJ3TTg>
東晉馮慶地券
「[V[泰和元年十一月乙丑朔八日壬申[SNIP[]]]]」
* 泰□ (七支刀)
[102]
[[石上神宮]]
[WEAK[([[日本国]][[奈良県]][[天理市]])]]
所蔵[[七支刀]]には、
「泰□四年□月十六日丙午正陽」とありました。
ある年、ある月の16日正午と解されています。
この刀は[[百済]]から[[日本]]に贈られたものとされています。
[SRC[>>100]]
[608]
[TIME[西晋泰始4(286)年][year:286]]、
[TIME[東晋太和4(369)年][year:369]]、
[TIME[劉宋泰始4(468)年][year:468]]なとの説があります。
[SRC[>>100]]
[1249]
[CITE[日本書紀]]
[TIME[神功皇后五十二年秋九月丁卯朔丙子][kyuureki:252-09-10]]条の
「七枝刀」
との関係が指摘されます。
[TIME[西暦252年][year:252]]に当たりますが、
干支2巡繰り下げが通説となっており、
[TIME[西暦372年][year:372]]となります。
[TIME[東晋太和4(369)年][year:369]]ならちょうど時期が合います。
[1]
[CITE[日本私年号の研究]]
は、
[[銘文]]を
「[V[[RUBY[泰初][(ママ)]]四年六月一日平午[SNIP[]]]]」 ([[明朝体]])
と引いた上で、
[[百済]]元号説、
西晋[[泰始]]説、
東晋[[泰和]]説などを紹介しています。
独自の判断は避けていますが、
東晋泰和説が定説化してきた、
独自説は否定されていると紹介されています。
[SRC[>>1543]]
[HISTORY[
[857]
[[百済]]独自の[[元号]]とする説もありましたが、
当時[[百済]]では[[干支年]]が用いられたとして否定されています。
[SRC[>>100]]
]HISTORY]
[REFS[
- [1542] [CITE[[[日本私年号の研究]]]]
-- [1543] [CSECTION[第四章 朝鮮半島の公年号と僭竊年号・私年号]], p.[V[六四]]
]REFS]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[100] [CITE@ja[[[七支刀]] - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-08 08:58:53 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80>
]FIGCAPTION]
> 1963年、金錫亨は「分国論」を発表し、三韓の住民が日本列島に移住し、各出身地毎に分国を建てたと主張したが、そのなかで「泰和」を百済独自の年号とした'''['''8''']'''。この説はその後も李丙燾らによって踏襲され'''['''9''']'''、また延敏沫は別の文字「奉■」と判読し、おなじく百済独自の年号とした'''['''2''']'''。しかし、これらの百済独自年号説は、村山正雄のレントゲン写真'''['''10''']'''による分析の精緻化によって、浜田耕策によって反駁された'''['''2''']'''。「泰和」を百済独自の年号とする場合は、2005年時点でこの七支刀が唯一の現存史料となり、年代が全く特定できなくなるし'''['''2''']''''''['''11''']'''、また李丙燾は、日本書紀の神功皇后記の紀年論による年号である372年を根拠に「泰△元年」を369年とするが、その場合、東晋の太和4年であったということになるが、当時、百済が独自に建元した記録が存しないため、成立しない'''['''2''']'''。延敏沫は武寧4(504)年とするが傍証がないし、また504年当時の百済は干支を使用しているため、独自年号説は成立しない'''['''2''']'''。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE@ja[七支刀 - Wikipedia]]
([TIME[2016-02-08 08:58:53 +09:00]] 版)
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%83%E6%94%AF%E5%88%80>
]FIGCAPTION]
> 銘文の冒頭には「泰■四年」の文字が確認できる。年紀の解釈に関して「太和(泰和)四年」として369年とする説(福山敏男、浜田耕策ら)があり、この場合、東晋の太和4年(369年)とされる'''['''2''']'''。「泰」は「太」と音通するため'''['''2''']'''。
]FIG]
* □和 (高句麗)
[68]
[DFN[□和]]は[[高句麗の元号]]の1つとされるものです。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [69]
[DATA(.label)[[[朝鮮民主主義人民共和国]][[咸鏡南道]][[新浦市]]梧梅里寺廟遺址裡出土[CITE[新浦市寺谷金銅板銘文]]]]
-- [70]
「[DATA(.text)[[太]和三年歲次丙寅二月廿六日[甲]戌朔記首]]」
[SRC[>>66]]
]ITEMS]
[73]
[[元号名]]は発見後に「太和」と読まれましたが、
現在見られる写真では損傷が酷く1文字目は判読不能とされています。
[SRC[>>1717]]
[71]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は[[元号名]]を[[太和]]としています。
[SRC[>>66]]
根拠不明ですが、参考文献に >>67 があり、それに従ったのでしょうか。
[72]
[[中文]]版[CITE[维基百科]]は[TIME[西暦546年][546]]説により、
[[元年]]は[TIME[西暦544年][544]]としています。
[SRC[>>66]]
根拠不明ですが、参考文献に >>67 があり、それに従ったのでしょうか。
[REFS[
-
[67]
[CITE@ko[新浦市 절골터 金銅板 銘文 검토]],
[[이승호]] ([[Lee, Seung-ho]]),
[TIME[2015]],
[TIME[2023-06-07T12:58:07.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002015548>
(先頭5ページのみ [[PDF]] 閲覧可能)
-
[1717]
[CITE@ko[고구려의 稱元法과 年號 운용]],
[[이승호]] ([[Lee, Seung-ho]]),
[TIME[2020]],
[TIME[2023-06-06T09:59:10.000Z]] <https://www.kci.go.kr/kciportal/ci/sereArticleSearch/ciSereArtiView.kci?sereArticleSearchBean.artiId=ART002607784>
([[PDF]] 全文あり)
#page=26
-- 白黒写真あり
- [66] [CITE@zh[[[太和]] (高句麗) - [[维基百科]],自由的百科全书]], [TIME[2023-05-31T11:01:55.000Z]], [TIME[2023-06-07T12:57:15.953Z]] <https://zh.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E5%92%8C_(%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97)>
]REFS]
[1667] [CITE@zh[哪些帝王的「年号」「谥号」「庙号」及政权的「国号」史书阙载直到考古重新发现? - 知乎]], [TIME[2023-06-04T13:23:24.000Z]] <https://www.zhihu.com/question/319502342/answer/1622757434>
□和、カラー写真あるも低解像度で判読不可
-
[1689]
[CITE@ko[高句麗의 年號에 대한 小考 | [[국회도서관]]]],
[[임기환]],
[TIME[1997-03-01]],
[TIME[2023-06-05T12:15:07.000Z]] <https://dl.nanet.go.kr/search/searchInnerDetail.do?searchType=INNER_SEARCH&resultType=INNER_SEARCH_DETAIL&searchMehtod=L&searchClass=S&controlNo=KINX2007120506&queryText=&zone=&fieldText=&prevQueryText=KINX2007120521%3AALL_NI_TOC%3AAND&prevPubYearFieldText=&languageCode=&synonymYn=&refineSearchYn=&pageNum=&pageSize=&orderBy=&topMainMenuCode=&topSubMenuCode=&totalSize=1&totalSizeByMenu=1&seqNo=&hanjaYn=Y&knowPub=&isdb=&isdbsvc=&tt1=&down=&checkedDbIdList=&baseDbId=&selectedDbIndexIdList=&caller=&asideState=&dpBranch=ALL&journalKind=&selZone=ALL_NI_TOC&searchQuery=KINX2007120521>
(全文画像閲覧可能)
p.15
□和 中国に一致なし、日付から 426 486 546 606、銘文から長寿王 (426 486) は難しい。
[TIME[西暦606年][606]]の可能性が高い。
[65]
[[太和]]が[[高句麗の元号]]とされたことがありますが、
その可能性は低いとされます。
[SRC[>>1555 (姜賢淑2015など)]]
* 太和 (新羅)
[28]
[DFN[太和]]は、
[[新羅の元号]]の1つです。
[[新羅]]最後の独自[[元号]]です。
[26]
基本的に[[太和]]表記ですが、たまに[DFN[大和]]表記されています。
[27] 「大和」表記例:
[REFS[
- [25] [CITE@ja-JP[百済史研究]], [[今西竜]], [TIME[1934]], [TIME[2023-04-25T10:11:41.000Z]], [TIME[2023-05-15T10:04:47.773Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1918347/1/142>
]REFS]
[61]
非常に平和な世を願ったものといわれます [SRC[>>1555]]
が、想像の域を出ません。
[REFS[
- [1553] [CITE[[[日本語学]]]]
-- [1554] [CSECTION[[[年号を考える]]]]
--- [1555] [CITE[[[韓国の年号]]]], [[吉本一]], p.[L[79]]
]REFS]
[29]
王即位年の[[改元]]とする[TIME[太和1(647)年丁未][647]]説 ([TIME[y~270]])
があります。
- [30] [CITE[三国史記]]本紀にそうあります。 [SRC[>>7862]]
[31]
王即位年の翌年の[[改元]]とする[TIME[太和1(648)年戊申][648]]説 ([TIME[y~3991]])
があります。
- [32] [CITE[三国史記]]年表にそうあります。 [SRC[>>7862]]
- [33] [CITE[三国遺事]]にそうあります。 [SRC[>>7862]]
[60]
[CITE[紀元編]]には[TIME[唐贞观19(645)年乙巳][645]]とあります ([TIME[y~4127]])。
[SRC[>>59]]
[36] [CITE[三国遺事]]に用例があります。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [35] [CITE(.label)[三国遺事]]
-- [37]
「[SNIP[]]後有崛山祖師梵日。[DATA(.text)[太和年中]]入唐。[SNIP[]]以[DATA(.text)[會昌七年丁卯]]還國。[SNIP[]]」
[SRC[>>34]]
--- [38] [TIME[唐会昌7(847)年丁卯][847]] ([TIME[y~616]])
--- [39] [TIME[唐大和1(827)年丁未][827]]以後 ([TIME[y~553]])
-- [40]
「[SNIP[]]逃隱入五臺山(古記云:太和元年戊申八月初王隱山中。恐此文大誤。按孝照一作昭。以天授三年壬辰即立。時年十六。長安二年壬寅崩。壽二十六。聖德以是年即位。年二十二。若曰太和元年戊申。則先於孝照即位甲辰已過四十五歲。乃太宗文武王之世也。以此知此文為誤。故不取之)[SNIP[]]」
[SRC[>>34]]
--- [41] [TIME[新羅太和1(648)年戊申][648]] ([TIME[y~3991]])
--- [42] [TIME[唐天授3(692)年壬辰][692]] ([TIME[y~505]])
--- [43] [TIME[唐长安3(703)年癸卯][703]] ([TIME[y~550]])
--- [44] [TIME[新羅孝昭王1(692)年壬辰][692]] ([TIME[y~3903]])
-- [45]
「[SNIP[]][DATA(.text)[太和元年八月五日]][SNIP[]][DATA(.text)[神龍元年三月八日]][SNIP[]]」
[SRC[>>34]]
--- [47] [TIME[新羅太和1(647)年丁未][647]] ([TIME[y~270]])
--- [46] [TIME[新羅太和1(648)年戊申][648]] ([TIME[y~3991]])
--- [48] [TIME[唐神龙1(705)年乙巳][705]] ([TIME[y~285]])
-- [62]
「[DATA(.text)[[SNIP[]]興德王代大和元年丁未[SNIP[]]]]」
[SRC[>>34]]
--- [63] [TIME[唐大和1(827)年丁未][827]] ([TIME[y~553]])
]ITEMS]
[49] 2つは[[新羅]]の[[太和]]でなく[[唐]]の[[太和]]、
1つは注釈内の古記からの引用で[[干支年]]があるものの信憑性不明、
1つは[[干支年]]等なく[[年]]の確定は不能です。
[50]
[CITE[三国遺事]]には継続年数6年とありますが、3年ないし4年の誤りです。
[SRC[>>7862]]
[64]
[CITE[三国遺事]]に「[V[「太和六年」といった記述が見える]]」 ([[明朝体]])
ので国内では独自の[[元号]]を使い続けたとする説
[SRC[>>1555 (鄭孝雲2011)]] がありますが、これのことを指しているのでしょうか。
繼續6年の記述はありますが、「太和六年」は見当たりません。
[REFS[
-
[34]
[CITE@zh[[[三國遺事]]/卷第三 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-05-07T06:42:07.000Z]], [TIME[2023-05-21T11:54:06.140Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E9%81%BA%E4%BA%8B/%E5%8D%B7%E7%AC%AC%E4%B8%89>
-
[59]
[CITE@zh-TW[[[紀元編]]一 第76頁 (圖書館) - 中國哲學書電子化計劃]], [[Donald Sturgeon]], [TIME[2023-03-11T20:10:53.000Z]], [TIME[2023-06-03T06:58:55.149Z]] <https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=29319&page=76>
- [74] [CITE[[[朝鮮の年号と紀年]]]]
-- [7862] [CITE@ja[[[朝鮮の年号と紀年]](上)]],
[[藤田亮策]],
[TIME[1958-09]],
[TIME[2019-04-06 21:05:42 +09:00]]
<https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=4748&item_no=1&page_id=25&block_id=47>
#page=16
]REFS]
[51]
この[[元号]]は、[[宗主国]]の[[唐]]に知られて廃止し、
[[唐]]の[[正朔を奉じ]]ることを決めたエピソードで有名です。
[52]
王の即位2年に[[唐]]に派遣された使節と[[唐]]の皇帝との間でそのやり取りがありました。
このエピソードが即位2年の[[改元]]と誤認される要因とも推測されます。
[SRC[>>7862]]
[53]
また、2年のそのやり取りの後、3年に[[唐]]の服制に従いながら、
4年にようやく[[正朔を奉じ]]るのは遅すぎるようにも思われます。
2年の使節は[[唐]]側に記録がなく、4年の使節の記録はあるので、
4年に[[正朔]]を受けたとも考えられます。
[SRC[>>7862]]
* 大和 (越南)
- [7] [CITE[joufsns_13_195.pdf]], [TIME[2023-04-01T13:50:29.000Z]] <https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/79680/joufsns_13_195.pdf>
-- [2] [CITE@ja[CiNii 論文 - 黎朝仁宗元号考(文化編)]]
([TIME[2019-04-25 15:24:56 +09:00]])
<https://ci.nii.ac.jp/naid/40004878822/>
[8] [CITE[Về một số danh xưng thời chúa Nguyễn]], [[Cổ vật tinh hoa]], [TIME[2023-04-08T09:55:41.000Z]] <http://covattinhhoa.vn/news/detail/1369/ve-mot-so-danh-xung-thoi-chua-nguyen.cvth>
[12]
[[Lê Thành Lân]]
は、
[[越南]]における
「"Thái" (chữ Hán "đại")」 (「タイ」、漢字「ダイ」、 >>202 では
「[V[「タイ」 [WEAK(smaller)[(漢字は「大」)]]]]」)
の読み方を検討しました。
[CITE[大越史記全書]]
に従って
Đại Hòa
と読んでも、
[CITE[欽定越史通鑑綱目]]
に従って
Thái Hòa
と読んでも構わないとしました。
[SRC[>>202, >>230]]
;; [13] >>202 では読みが両方とも「[V[大和]]」になっていて意味不明になっています。
[REFS[
-
[200]
[CITE[[V[[[日本語学]] 第三十九巻第四号冬号]]]],
[V[令和二年十二月十日発行]]
--
[201]
[CSECTION[[V[特集 年号を考える]]]]
---
[202]
[CSECTION[[V[[[ベトナムの漢字年号について[BR[]]⸺李王朝を中心に⸺]]]]]],
[[[V[グエン・ティ・オワイン]]]],
pp.[L[88]]-[L[101]]
- [230]
[CITE[CVv235S12021003.pdf]], [TIME[2021-08-01T04:22:35.000Z]], [TIME[2023-04-02T02:19:43.252Z]] <https://sti.vista.gov.vn/tw/Lists/TaiLieuKHCN/Attachments/320590/CVv235S12021003.pdf>
-- [231]
>>202 の[[越南語]]版と思われる (さらっと見た感じ同内容、
出版はこちらが後、著者が[[越南人]]なのでこちらが原文か)
]REFS]
- [9]
[CITE[Bàn về niên hiệu thứ nhất của vua Lê Nhân Tông]],
[[Lê Thành Lân]],
[TIME[1999]]
-- [10] >>230 に [CITE[Về niên hiệu thứ nhất của vua Lê Nhân Tông]]
とあるものの、他の[[ウェブ]]上の情報では >>9 と書いている。
-- [11] >>202 は
[CITE[[V[黎仁宗の第一の年号について]]]]
と引用。
* 大和 (唐)
[18]
[[唐]] [[大和]] [TIME[y~553]]
[19]
[[元年]] [TIME[西暦827年][827]]
-*-*-
[3] [CITE@ja[元号一覧 (中国) - Wikipedia]], [TIME[2021-05-01T04:48:29.000Z]], [TIME[2021-05-06T07:05:13.344Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%8F%B7%E4%B8%80%E8%A6%A7_(%E4%B8%AD%E5%9B%BD)#%E5%94%90>
>
大和(827年-835年):一説に「太和」
[14] [CITE[“大和”还是“太和”]], [TIME[2023-04-27T09:57:14.000Z]] <https://baijiahao.baidu.com/s?id=1674428296142469642&wfr=spider&for=pc>
[22] [CITE@zh[[[三國史記]]/卷44 - 维基文库,自由的图书馆]], [TIME[2023-04-18T09:02:18.000Z]], [TIME[2023-05-02T09:11:19.806Z]] <https://zh.wikisource.org/wiki/%E4%B8%89%E5%9C%8B%E5%8F%B2%E8%A8%98/%E5%8D%B744#%E9%87%91%E9%99%BD>
>[SNIP[]]太[SUP[__&&[&&__13__&&]&&__]]和和二年,興德王三年,[SNIP[]]
13
>原本「大」
[23]
わざわざ校訂しているのに「和和」になっているのが謎。
「大」を「太」に訂正したのより後に余分な「和」が挿入された?
[24] 大和とされることが多いこの元号を校訂者はなぜ太和に直したのだろうか。
-*-*-
[55]
[[日本国]][[福井県]]に太和7年銘の鐘があります。
[[朝鮮半島]]から持ち込まれ、慶長年間に寺に寄贈されたものです。
[SRC[>>56]]
[57]
[[江戸時代]]の[[藤貞幹]]は[[新羅]]の[[太和]]と考えました。
[SRC[>>54, >>7862]]
[[内藤湖南]]と[[稲葉君山]]も支持しました。
[SRC[>>7862]]
[58]
[[平子尚]]が[[唐]]の[[太和]]と考えました。
[[藤田亮策]]も支持しており、
鐘の様式も[[新羅]]の[[太和]]の時代のものではないとしています。
[SRC[>>7862]]
現在はこれが通説となっています。
[SRC[>>56]]
[REFS[
-
[54] [CITE@ja-JP[[[日本随筆大成]] 巻十一]], [[日本随筆大成編輯部]], [TIME[昭和3][1928]], [TIME[2023-05-15T11:26:02.000Z]], [TIME[2023-05-21T12:59:52.386Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1914138/1/297> (要登録)
-
[56] [CITE[国指定文化財等データベース]], [TIME[2023-05-21T13:00:53.000Z]] <https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/201/366>
]REFS]
* 泰和 (金)
[5]
[CITE[[[《馬天祥造像記》與北齊武平九年紀年]]]]
>還有傳世《重修政和經史證類備用本草》,卷首有牌記署曰:“泰和甲子下己酉冬日南至晦明軒謹記。”[20]錢謙益在入清後爲此書撰寫題跋,謂“泰和甲子下己酉,金章宗太和四年,甲子,宋寧宗嘉泰四年也;至己酉歲爲宋理宗淳祐九年,距甲子四十五年,金源之亡,已十六年矣。猶書‘泰和甲子’者,蒙古雖滅金,未立年號,又當女後攝政,國內大亂之時,而金人猶不忘故國,故以‘己酉’係太和甲子之下與”[21]?
* メモ