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* 文徳 (私年号)
[2]
[DFN[文徳]]は[[日本中世の私年号]]とされるものの1つです。
[3]
[[江戸時代]]の研究者[[伴信友]]が、
[[応安]]の頃の[[妖偽年号]]としました。
[SRC[>>6]]
ただし一覧のみで出典等の詳細は不明です。
[1]
[[昭和時代]]の[CITE[[[日本私年号の研究]]]]は、
[[伴信友]]の言及以外の情報がないため、
[[私年号]]とは判断できないとしました。
[SRC[>>7 p. [V[四八󠄃七]]]]
[8]
[[平成時代]]の[[日本語]]版[CITE[ウィキペディア]]は、
[[伴信友]]の記述を引いて[[私年号]]の一覧に掲載していますが、
詳細不明としています。
[SRC[>>10]]
[24]
[CITE[日本私年号の研究]]は用例がなく一覧表にしか掲載実績のないものを原則[[私年号]]として認めない方針を採っていますが、
研究史上一旦広く[[私年号]]として知れ渡ってしまったものは、
「実在の疑わしい[[私年号]]」として[[私年号]]の一分類に収容するのが妥当とも考えられます。
[REFS[
- [4] [CITE[[[長等の山風]]]]
-- [5] [CITE[[[年号の論]]]]
--- [6] [CITE@ja-JP[[[伴信友]]全集 第4]], [[国書刊行会]], [TIME[明治40][1907]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:09:34.205Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/991315/1/304>
- [7] [CITE[日本私年号の研究]]
-
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[10] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2022-12-10T11:22:17.000Z]], [TIME[2022-12-22T12:35:00.472Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7>
]FIGCAPTION]
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*典拠・備考
,(文徳) ,- ,応安年間(1368年-1374年)? ,不明 ,伴信友が『長等の山風』で「妖偽年号」の例として挙げるも所拠不明。
]FIG]
]REFS]
-*-*-
[13]
[TIME[2023-01-27T13:42:40.600Z]]
<https://dl.ndl.go.jp/pid/1140317> (非公開)
>東京府史蹟名勝天然紀念物調査報告書 第5冊
>図書
>東京府 編 東京府, 昭和2
>8: し所なるか。また文德二年四月に軻過突智命を、應永元年十一月に稻荷明神及白山權現を、延文三年八月に
[14]
実際そう書かれているのか [[OCR]] 誤読なのかわからないが非常に興味深い用例。
;; [15] 昭和2年出版、しかも[[東京府]]なのに図書館・個人送信すらNGなのも謎。
* 文徳天皇 (天皇即位紀年)
[SEE[ [[天皇即位紀年]], [[文徳天皇]] ]]
* メモ
[9] [CITE@ja-JP[[[大日本時代史]] 平安朝史]], [[早稲田大学出版部]], [TIME[明治40][1907]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:33:23.147Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/770057/1/196>
安子が文徳2年12月26日に立后。
[11] [CITE@ja[藤原安子 - Wikipedia]], [TIME[2023-01-21T02:33:41.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:34:29.117Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%89%E5%AD%90>
>[SNIP[]]天徳2年(958年)10月27日、中宮に冊立。[SNIP[]]
[12]
>>9 と >>11 は少々日付が違うけど同じこと? だとするとこの文徳は天徳の誤記。
-*-*-
[16] [CITE@ja-JP[室生寺]], [[土門拳 撮影, 北川桃雄 文]], [TIME[1954]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:48:01.129Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2468753/1/122> (要登録)
仏隆寺の堂の後ろの十三重の石灯「文徳二年」
様式は鎌倉風
[21] [CITE@ja-JP[大和古寺巡礼]], [[青山茂, 川副武胤, 平岡定海 共著]], [TIME[1964 2版][1964]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:58:06.996Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/3009010/1/164> (要登録)
仏隆寺 十三重の塔に
「鎌倉末期の文徳二年の銘」
[17] [CITE@ja[佛隆寺(ぶつりゅうじ)]], [TIME[2014-12-05T07:48:50.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:50:45.452Z]] <https://www.library.pref.nara.jp/nara_2010/0733.html>
>
境内には、重要文化財に指定された石室(内部に堅恵の墓と伝えられる五輪塔がある)、元徳2年(1330)の銘をもち、修円の墓とされる十三重石塔などがある。
[18] [CITE[仏隆寺(ぶつりゅうじ)十三重石塔]], [TIME[2019-02-08T03:46:00.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:53:27.079Z]] <http://kawai25.sakura.ne.jp/nara-uda-buturyuji-13tou.html>
>基礎は低く側面は無地。正面に「元徳二年(1330)十一月日」の紀年銘がある
写真があるが判読困難。
[19] [CITE@ja-JP[奈良県銘文集成]], [[土井実]], [TIME[1956]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T13:55:56.788Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/2995180/1/92> (要登録)
「[V[元徳二年[BR[]] 十一月日]]」 ([[明朝体]])
[20] >>16 >>21 の文徳は >>17 >>18 >>19 より元徳の誤記。
[22] [CITE@ja-JP[岩波講座日本文学史 第4巻]], [[岩波書店]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-01-27T14:01:08.847Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1336884/1/108> (要登録)
「[V[[SNIP[]]文徳二年(一三三〇)[SNIP[]]]]」 ([[明朝体]])
[23] >>22 も明らかに元徳の誤記。