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[1]
[DFN[宝明]]と[DFN[宝力]]は、
[[江戸時代]]の[[日本の私年号]]の2つです。
[2]
どちらも天保5年に[[日本]][[陸奥国]] (現在の[[日本国]][[福島県]])
で使われました。
* 用例
[73] [[宝力]]の用例は2点知られています。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [40]
[DATA(.label)[[CITE[三世相写]] (馬場新家文書(その二)八三一)]],
[[馬場近右衛門]]の子[[佐内]],
[DATA(.addr)[[[日本]][[陸奥国]][[会津郡]][[鴇巣村]]]]
-- [41] 現在の[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[南会津町]]]]
-- [42]
[DATA(.label)[[[識語]]]]
「甲午二月十三日書之」
[SRC[>>3]]
--- [43]
「天保五年」を消し「[DATA(.text)[宝力元年]]」と加筆
- [44]
[DATA(.label)[[CITE[質畑証文之事]] (庄司家文書(その二)一九九九)]],
[DATA(.addr)[[[日本]][[陸奥国]][[会津郡]][[楢原村]]]]
--
[45] 現在の[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[下郷町]]]]
--
[46]
[DATA(.label)[後世の補記]]
「[DATA(.text)[宝力元年午ノ三月]]」
[SRC[>>3]]
]ITEMS]
[74] [[宝明]]の用例は1点知られています。
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [47]
[DATA(.label)[[CITE[寸志見込勧諭帳]] (馬場新家文書(その一)七)]],
[DATA(.published)[天保五年二月]],
[DATA(.addr)[[[日本]][[陸奥国]][[会津郡]][[鴇巣村]]]]
-- [75] 現在の[DATA(.addr)[[[日本国]][[福島県]][[南会津町]]]]
-- [48]
[DATA(.label)[表紙]]
「[DATA(.text)[[V[[LINES[寳明元年][[SNIP[]]][[SUP[午]]二月]]]]]]」 ([[草書]])
[SRC[>>3]]
--- [72] >>3 にカラー写真
-- [49] [[馬場近右衛門]]が関与 [SRC[>>3]]
-- [50]
[DATA(.label)[袋]]
「[DATA(.text)[天保五年午四月]]」
---
[51]
[DATA(.label)[他筆]]
「[DATA(.text)[宝明元年]]」
[SRC[>>3]]
]ITEMS]
[62]
「天保5年」、宝力、宝明の修正と他筆の順序関係はどう並べるべきだろう?
* 研究史
[76]
[TIME[令和4(2022)年][2022]]に[[日本国]][[福島県]]の地域史研究者[[小野孝太郎]]が紹介した
[SRC[>>3]] のが研究史上の初見です。
[53] >>3 の解釈:
- [54] >>48 には
「惣民安全」「百姓飢人御救心願」「五穀豊年」「一粒万倍」
と並んでいる。
- [56] [[私年号]]の除災招福
-- [57] 豊かさを意味する「宝」
-- [58] 強さ・勢いを象徴する「力」
-- [59] あかるく照らす「明」
- [55] 天明飢饉以来の大凶作を乗り越えようとしたもの。
[63] >>3 の評価
- [64] 「福島県域の
近世私年号は、凶作と関連して発生
し、対極的な「宝」を頻用する傾向
が一つにある」
- [65]
「私年
号は、支配者層の目を忍んで使用さ
れ、その使用が秘匿される制約性が
あるにもかかわらず、豊富な私年号
が伝存する点は、福島県史の注目す
べき特徴」
[66]
この論調、他の[[私年号]]でも[[見たような][現存最古を発生と誤認した事案]]...?
(「秘かに」説の他の事例は[[日本の私年号]]参照。)
新出[[私年号]]は最初は1つ、2つしか用例がないのでこのような推理をしがち。
ところが数年後に遠く離れた別地域で新用例が出てきたりするので、
初出用例の利用者や利用地域と深く関連付けて理由付けするのには慎重になった方がいいような。
[HISTORY[
[77]
なお、これを紹介した出版社の論文目録には「宝刀」とあります [SRC[>>5]] が、
[[誤植]]です。
]HISTORY]
[7]
[TIME[2023-02-08]]の[[日本国]][[福島県]]で発行されている[[新聞]]
[CITE[[[福島民報]]]]
のコラムは、
[[宝力]]を紹介しました。
出典はなくあたかも独自の見解かのように書かれていますが、
>>3 の説とほぼ同内容です。
[SRC[>>6]]
;; [78]
このコラムは前年に[[自由自治元年]]も取り上げています。
[[私年号]]にこだわりのある記者がいるのでしょうか。
[REFS[
- [52] [CITE[『[[福島県史料情報]]』第62号 - shiryojoho62.pdf]], [TIME[2022-06-06T03:24:38.000Z]], [TIME[2022-12-21T14:26:57.795Z]] <https://www.fcp.or.jp/history/uploads/2022/02/shiryojoho62.pdf#page=2>
--
[3]
[CSECTION[[V[私年号「宝力」「宝明」[BR[]]使用例の発見]]]],
[[[V[小野孝太郎]]]]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE[[[新地方史情報]]155_02.indd - local-info_155.pdf]], [TIME[2022-10-07T11:49:30.000Z]], [TIME[2022-12-22T03:15:35.385Z]] <http://www.iwata-shoin.co.jp/local/local-info_155.pdf#page=6>
]FIGCAPTION]
>
[LEFT[
私年号「宝[ASIS[刀]]」「宝明」使用例の発見 小野孝太郎
]LEFT]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE@ja[庶民の願い(2月8日) | [[福島民報]]]],
2023/02/08 09:48,
[TIME[2023-02-09T03:13:33.000Z]] <https://www.minpo.jp/news/moredetail/20230208104649>
]FIGCAPTION]
>[SNIP[]]江戸時代の天保年間、現在の南会津地方の農民は畑を質入れする証文に「宝力元年」と記した。当時は洪水や冷害による大飢饉[ききん]に見舞われていた。「宝」は豊かさ、「力」は強さを象徴する言葉として用いたようだ。他に旧会津郡や伊達郡で「宝久」「宝明」「永長」などがある▼元号は明治以降、天皇一代に一つとする「一世一元」が踏襲された。それ以前は天変地異や伝染病といった災いを断ち切る目的で改元された例もある。私年号はそれにならい、苦境を脱しようとして編み出されたのだろう。願掛けにとどまらず、自助や共助で盛り返そうとする民のしたたかさも垣間見える[SNIP[]]
]FIG]
]REFS]
* メモ
[60]
「宝力」「宝明」の異なる2つの[[元号]]が狭い範囲、同じ村の同じ人物
(名主[[馬場近右衛門]])
の周囲で発見されている (>>40, >>48) のは重要な点。
しかもどちらも2月。
[61]
新元号が何か、同時に2つの情報が流通していた?
[67]
[[私年号]]は同時代の[[公年号]]の文字を使う傾向が知られています。
[[私年号]]の発生原理が同時代の人々にとっての「[[元号らしさ]]」
の支配下にあるためなのでしょう。
[[江戸時代]]には「宝」が入った[[宝永]]、[[宝暦]]があり、
同音の「保」が入った[[元号]]も多数あります。
「明」が入った[[明暦]]、[[明和]]、[[天明]]があります。
従って[[宝明]]は当時の人にとってとても自然に感じられた[[元号名]]だったはずです。
[68]
ところが「力」は[[江戸時代]]どころか[[東アジア]]史を通しても他に例がありません。
「宝力」はあまり[[元号]]らしく見えませんが、当時の人にとっても新奇に感じられたのではないでしょうか。
ただし「明暦」「宝暦」の「暦」との音の響きの類似には注意するべきかもしれません。
あるいは[[方言]]音も考慮が必要かもしれません。
[36]
唐の宝暦が宝力と書かれる例があるが (誤記? >>25)、日本の宝暦は天保5年より前で時期が合わず、
誤記とは考えられない。
[4] [[久宝]]も同じ年の3月。地域は遠く離れていても、
まったく同じ月に「宝」が入った[[元号名]]。
偶然と片付けていいものか?
[71] [[永長]]の例があるので、この距離でも無関係とは言い切れない。
[70] [[宝久]]も参照。
-*-*-
[8] [CITE@ja-JP[[[人吉市史]] 第2巻 上]], [[種元勝弘 編著, 人吉市史編纂審議会 編さん]], [TIME[1990]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-02-09T03:21:29.225Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/9776277/1/126> (要登録)
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [9] [CITE(.label)@ja-JP[[[人吉市史]] 第2巻 上]]
-- [10] [CSECTION(.label)[球磨郡村誌]]
--- [11] [CSECTION(.label)[[V[中棚八󠄂幡神社]]]]
---- [12]
「[DATA(.text)[[V[宝明元年丁未八󠄂月十五日[SNIP[]]]]]]」 ([[明朝体]])
に[[鎌倉鶴岡八󠄂幡宮]]を勧請
[SRC[>>8]]
]ITEMS]
- [13] [TIME['''宝'''治1(1247)年'''丁未'''][1247]] ([TIME[y~1189]])
- [14] [TIME['''宝'''暦1(1751)年辛'''未'''][1751]] ([TIME[y~1199]])
-- [18] 次の[[元号]]:
[TIME['''明'''和1(1764)年甲申][1764]]
([TIME[y~1406]])
- [15] [TIME['''宝'''寿1(1533)年癸巳][1533]] ([TIME[y~776]] [[私年号]]) : 2年が乙'''未'''
- [16]
[TIME[永'''宝'''1(1387)年'''丁'''卯][1387]] ([TIME[y~1483]] [[私年号]])
- [17] [TIME['''明'''暦1(1655)年乙'''未'''][1655]] ([TIME[y~808]])
- [32]
[TIME[天保6(1835)年乙'''未'''][1835]] : 天保5年が >>2
[24] この中なら宝治が最もそれっぽいがしっくりこない。
[35] 明はどこから来たのか。
[33]
同じ人吉市域の八幡社で
- [34] [CITE@ja[[[井口八幡神社]] | 人吉球磨ガイド]], [TIME[2023-02-09T04:18:53.000Z]] <https://hitoyoshikuma-guide.com/2019/12/12/inokuchihachimanjinjya/>
>相良氏の”戦の神”として信仰を集めた八幡宮。宝治元年(1247)、2代相良頼親が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請して創建したといわれる。現存の建物は江戸時代中期の元禄12年(1699)の再建時のもの。[SNIP[]]
という事例があり。
-*-*-
- [19]
[CITE@ja-JP[沛雨遺書]], [[吉岡呵成 稿]], [TIME[大正3][1914]], [TIME[2023-01-17T10:48:16.000Z]], [TIME[2023-02-09T03:46:08.559Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/914589/1/52>
[ITEMS[ [[日時事例]]
- [20]
[DATA(.label)[[CITE@ja-JP[沛雨遺書]], [[吉岡呵成]]]],
[TIME(.published)[大正3][1914]]
-- [21]
「[DATA(.text)[[V[[SNIP[]]寳明二年の春[SNIP[]]]]]]」 ([[明朝体]])
[SRC[>>19]]
]ITEMS]
[22] 直前に嘉禎2年、直後に建治2年とあるので、その中間で[[宝治]]か。
[23] 明はどこから来た?
-*-*-
[25] [CITE[[[元稹]]简介_虚阁网]], [TIME[2022-05-08T18:27:59.000Z]], [TIME[2023-02-09T03:58:44.003Z]] <https://www.xuges.com/mj/y/yuanzhen/000.htm>
>唐敬宗宝力元年(825年),元稹命所属七州筑陂塘,兴修水利,发展农业,深得百姓拥戴。
[26]
宝历 (宝暦) [TIME[y~822]]。
[27] [[中華人民共和国]]のウェブページで他にも元年、2年などでこのような例あり。
[28] [CITE[在博物馆里 文雅过年 ——大唐宝船里的风物(上)_华语环球]], [[ck 465]], [TIME[2023-02-09T04:03:26.000Z]] <https://chinese.cri.cn/media/album/zdfw/4486/20210209/619079.html>
>长沙窑青釉褐绿彩“宝力二年”铭花草纹碗
>
新加坡亚洲文明博物馆藏
>
本器为“黑石号”沉船出水器物中非常重要的一件,因器外壁在入窑烧造之前刻有“宝力二年七月十六日”铭记,这为判断“黑石号”沉没的年代以及船上装载货物的制作年代提供了可靠的依据。宝力二年为公元826年,以此为依据可以确定,“黑石号”沉没的年代不会早于公元826年。
[29] 写真があるが「宝力」の部分の字形はわかりにくい。
- [37] [CITE[一只粗瓷碗为沉船断代_凤凰艺术]], [TIME[2023-02-09T06:24:58.000Z]] <http://wap.art.ifeng.com/?app=system&controller=artmobile&action=content&contentid=3510038>
-- [38] [CITE[1604042740759.jpg (JPEG 画像, 347 × 550 px) — 表示倍率 (97%)]], [TIME[2020-10-30T07:25:40.000Z]], [TIME[2023-02-09T06:25:18.927Z]] <http://upload.art.ifeng.com/2020/1030/1604042740759.jpg>
[39] こちらの写真のほうがまだ見やすいが、「宝暦」部分がどういう字形なのかはっきりしない。
[30] [CITE@ja[「沈没船文化財展」が伝える1200年前の世界 中国と中東を結んだ海のシルクロード 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News]], [TIME[2023-02-09T04:05:24.000Z]] <https://www.afpbb.com/articles/-/3306229>
>船の材木はアフリカ産で、アラビア商人が中国の産品を中東に運ぼうとしたとみられる。西暦826年にあたる「宝暦二年七月十六日」と記された磁器があり、年代が特定された。船からは陶磁器、金銀器、銅器、鉄器、銭、ガラス、香料など6万点が見つかり、「まるで1200年近く前のタイムカプセル」と大きなニュースとなった。
[31] [CITE[从出土的陶瓷看唐宋时期中国与马来西亚的关系_杂志论文_文史博览(理论)杂志]], [TIME[2023-02-09T04:06:26.000Z]] <https://www.zz-news.com/com/wenshibolanlilun/news/itemid-580215.html>
>船上有一件外侧下腹刻有“宝曆二年七月十六日”字样的长沙窑阿拉伯碗。[8]
>[8] 陈克伦. 唐代“黑石号”沉船出水白釉绿彩瓷研究[J].上海博物馆季刊,2012.