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1000
[1]
[[日本]]の[[古代]]には[[干支年]]などが使われていましたが、
やがて[[元号][日本の元号]]制度が導入されました。
[SEE[ 他の時代も含めた概観は[[日本の元号]] ]]
* 紀年法
[1252]
[[日本列島]]で[[古代]]に用いられた痕跡のある[[紀年法]]や、
古代の出来事を記述するため当時から現在までにわたって使われた[[紀年法]]には、
実に多種多様なものがあります。
[FIG(short list)[ [1253] 古代日本と関係する主要な紀年法
- [[干支年]]
- [[天皇即位紀年]]
- [[中華王朝の元号]]
- [[日本の元号]]
- [[古代年号]]
- [[朝鮮半島の即位紀元]]
- [[皇紀]]
- [[西暦]]
]FIG]
[SEE[ 各制度に関する事項は[[元号]]、[[改元]]、[[干支年]] ]]
** 干支年
[1987]
5,6世紀頃には既に[[干支年]]が使われました。
(>>97)
[HISTORY[
[1986]
[[O. Kümmel]]
は、
「辛亥年」
(>>1937)
が[TIME[崇峻天皇4(591)年][year:591]]か[TIME[白雉2(651)年][year:651]]か定めるに当たり、
支那暦移入の13年前の崇峻天皇4年にこの日付はあり得ない、
としました。
[SRC[>>1939 (Die Kunst Chinas und Japans, Handbuch der Kunstwissenschaft, 1929 S. 109)]]
13年前とは[TIME[推古天皇10(602)年][year:602]]の[[百済]]僧[[観勒]]が暦書等を献上したことを指すと思われますが、
[CITE[日本書紀]]
にはその遥か前の時代から[[渡来人]]記事が散見され、
崇峻天皇4年に[[干支]]の知識があっても不思議ではありません。
[SRC[>>1939]]
]HISTORY]
** 天皇即位紀年
[860]
[[天皇]]の治世のはじめを[[元年]]とし、
区別が必要な場合には[[元号名スロット]]に[[天皇]]の名前を当てて[[元号風に記述][疑似元号]]する[[天皇即位紀年]]方式は、
[[元号]]が制定されなかった時代の[[日本]]の歴史の記述の標準的な方法として、
[[飛鳥時代]]から現在まで広く用いられています。
[861]
[CITE[日本書紀]]は[[神武天皇]]即位から[[持統天皇]]まで、
[[元号]]があった時期を除き、全面的に[[天皇即位紀年]]を採用しました
(>>29)。
[CITE[続日本紀]] (>>1049)
は[[文武天皇]]の[[大宝]]の[[建元]]以前にこれを採用しました。
[862]
[[元号名スロット]]の[[天皇名]]として、
現在の[[漢風諡号]]のほか、
[CITE[日本書紀]]では[[和風諡号]]が用いられましたし、
古い時代の文章にはそれ以外の呼称が使われたことがありました。
[545] 「[VAR[[[漢風諡号]]]]天皇」またはその省略形の
「[VAR[[[漢風諡号]]]]」
を[[疑似元号]]として用い、
[CITE[日本書紀]]に従い[[天皇]]の即位の頃を元年とする[[天皇即位紀年]]は、
歴史学の議論や神社の由緒の記述などで現在まで使われています。
各種の[[元号一覧]]の類で、
[[元号]]以前の時代における[[元号]]に相当するものとされています。
[SEE[ [[元号一覧]] ]]
[209] [CITE[日本書紀]]では
[[大化]]以前に[[神武天皇]]から[[皇極天皇]]まで、[[神功皇后]]を含めて
36個の[[擬似元号]]がありました。
他に[[大化]]以後の[[元号]]断続期のものがありました (>>210)。
[87] 基本的には[CITE[日本書紀]]の記述をそのまま皇紀元年から西暦645年に当てはめた形とされているようです。
[138] [[改元]]はそれぞれの初年の元日として扱われるようです。
;; [211] [[即位]]が前天皇の末年で、新天皇の元年よりも前の年である場合があります。
[865]
後述の通り、[[孝徳天皇]]の時代以後の[[天皇即位紀年]]の扱いはいろいろと混乱がみられます。
[863]
[CITE[日本書紀]]
の記述のように[[神武天皇]]即位からあったとは考えにくいですが、
[[即位紀年]]は世界各地で使われた例があり、
[[日本]]でも[[飛鳥時代]]頃には使われていたようです。
最初は「誰々の時代の頃」のような曖昧な時代記述から始まり、
次第に「誰々の時代の何年」のような形式に発展したようです。
[1034]
[CITE[Wikipedia]] の[[神武天皇]]記事を見ると、
即位前は[[干支年]]で表記し、
「辛酉年(神武天皇元年) 」
を経て以後
「神武天皇2年」
のように表記しています。
他に「即位4年2月23日」
のような表記もみられます。
[SRC[>>1033]]
[REFS[
- [1033] [CITE@ja[[[神武天皇]] - Wikipedia]], [TIME[2020-02-23 00:15:07 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87>
]REFS]
[393]
関連: [[元興寺伽藍縁起并流記資財帳]]
[2743] [CITE@ja-JP[史学叢説 第1集]], [[星野恒 稿, '''['''星野幹, 星野彬 共編''']''']], [TIME[明治42][1909]], [TIME[2023-05-30T10:04:52.000Z]], [TIME[2023-06-17T07:16:57.947Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1026757/1/111> (要登録)
[2744] >>2743 [[天皇即位紀年]]の古い例がないことを指摘しています。
-*-*-
[383]
初代の[[神武天皇]]の即位前は他のいろいろな方法で記述されます。
[SEE[ [[神武天皇即位前の紀年法]] ]]
[2354]
初期の天皇の在位の間には空位期間がありました。
- [[神武天皇後空位年]]
- [[懿徳天皇後空位年]]
- [[成務天皇後空位年]]
- [[応神天皇後空位年]]
- [[反正天皇後空位年]]
[2666]
前の[[天皇]]の[[延長年号]]を使うもの、
[[干支年]]を使うものなど、
諸書の表記は様々です。
[SEE[ [[神武天皇後空位年]] ]]
[2277]
[[継体天皇]]から[[欽明天皇]]までの時代の
[CITE[日本書紀]]
などの記述は混乱しており、
諸説あります。
[[紀年法]]もその混乱を反映していろいろあります。
[SEE[ [[辛亥の変]] ]]
-*-*-
[4] [[皇紀]]は、[[神武天皇]]の即位年から起算した[[紀年法]]です。
[[神武天皇]]即位紀年の自然な延長ですが、
「神武天皇[VAR[何]]年」ではなく、
「皇紀[VAR[何]]年」などと表記されます。
[[日本の歴史]]のほとんどの期間を単調増加する年号で扱えるのが利点です。
もちろん[[神武天皇]]の時代から連続して用いられていたものではありません。
[[神武天皇]]の即位年から何年という数え方は[[南北朝時代]]頃から記録に残っているようです。
[[紀年法]]として実用されるようになったのは[[江戸時代]]頃でした。
[SEE[ [[皇紀]] ]]
* 推古天皇時代
[2630] [SRC[>>2629 PDF 17ページ]]
[REFS[
- [2629] [CITE[AN10086451-19911200-1001.pdf]], [TIME[2021-03-05T08:19:58.000Z]], [TIME[2021-03-07T04:52:33.482Z]] <repo.nara-u.ac.jp/modules/xoonips/download.php?file_id=1633>
]REFS]
* 元号の導入
[588]
7世紀の[[日本]]では、徐々に[[元号]]の導入が進みました。
そのあり方には今なお不明な点が多く議論があります。
[196]
初期年号とその異称 ([[大化]]、[[白雉]]、[[白鳳]]、[[朱鳥]]、[[朱雀]])
は、[[中世]]から近年まで、
いろいろな文献が[CITE[日本書紀]]と異なる形で記述していました。
特に[[古代年号]] (>>226) 文献は、
[CITE[日本書紀]]とまったく矛盾する時代や順序でこれらの[[元号]]が用いられたこととするものがありました。
[197]
異説は[[古代年号]]と共にかなり広まっていたようですが、
[[明治時代]]に近代的歴史学が成立すると徐々に消えていきました。
しかし[[白鳳]]はかなり後の時代まで[[白雉]]と別に扱われていました (>>847)。
[FIG(list)[ [229] 初期元号
- [844] 初期元号α群: [CITE[日本書紀]]にみえるもの
-- [[大化]]、[[白雉]]、[[朱鳥]]
- [845] 初期元号β群: その他[[六国史]]にみえるもの
-- [[白鳳]]、[[朱雀]]
- [846] 初期元号γ群: その他古い時代の記録があるもの
-- [[法興]] (>>770)、[[宝元]] (>>299)
]FIG]
** 法興
[770]
[[推古天皇]]の頃に使われたとされる[[元号]]に[[法興]]があります。
同時代的に使われた可能性が高いと見られる、
[[日本]]で作られた最古の[[元号]]です。
[SEE[ [[法興]] ]]
[296]
[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]]に[[日付]]として
「法興元丗一年歳次辛巳十二月」 (次の「鬼」まで日付部分とする説もあり)、
「明年正月廿二日」、
「二月廿一日癸酉」、
「翌日」、
「癸未年三月中」
があります。
[SRC[>>297]]
[301]
その釈迦三尊像の宣字形台座の下座下框に「辛巳年八月九月」
の墨書があります (>>64)。
これや釈迦三尊像の調査から、
銘文は造像当時のもので後刻ではないと考えられています。
([[昭和時代]]の研究者には後刻説もありました。)
[SEE[ [[法興]] ]]
[298]
現在では「法興」を[[私年号]]と解し、
「法興元丗一年歳次辛巳」と「辛巳年」を
[TIME[621年][year:621]]、
「癸未年」を[TIME[623年][year:623]]と解するのが定説となっています。 [SRC[>>297]]
[302]
従って「法興」元号は当時ある程度使われていたものとみられます。
[[法隆寺]]周辺など仏教信仰との関係の中で利用されていたと推測されます
[SRC[>>246 普及版 p.338 ([[田村圓澄]], [TIME[1968][year:1968]])]]。
[306] [CITE[伊予湯岡碑]]碑文に
「法興六年十月歳在丙辰」
とあり、[TIME[596年][year:596]]と解されています。
ただし原碑は行方不明となっています。
[SRC[>>305]]
[355]
[CITE[日本書紀]]に記録されておらず[[聖徳太子]]に関係する記録に残されたこの[[元号]]は、
[[聖徳太子]]の事績を敬仰するものであって[[法隆寺]]などの関係者が[[私的に使った][私年号]]とされています。
[SRC[>>352 p.52]]
[REFS[
- [297] [CITE@ja[[[法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘]] - [[Wikipedia]]]]
([TIME[2019-06-13 09:38:33 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E9%9A%86%E5%AF%BA%E9%87%91%E5%A0%82%E9%87%88%E8%BF%A6%E4%B8%89%E5%B0%8A%E5%83%8F%E5%85%89%E8%83%8C%E9%8A%98>
- [305] [CITE@ja[[[伊予湯岡碑]] - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2019-06-25 15:45:20 +09:00]]) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E4%BA%88%E6%B9%AF%E5%B2%A1%E7%A2%91>
]REFS]
** 大化
[66]
[[乙巳の変]]により[[孝徳天皇]]が[[即位]]し、
[[大化の改新]]と呼ばれる一連の改革が実施されました。
[[即位]]直後、
新たに[[元号]]として
「[[大化]]」
が[[建てられ][建元]]ました。
これが[[日本]]の最初の[[公年号]]とされます。
[SEE[ [[大化]] ]]
*** 改元直前
[1884]
[CITE[日本書紀]]
は、
[[皇極天皇]]の第4年 = [[孝徳天皇]]の第1年 = [TIME[西暦645年[LINES[乙][巳]]][year:645]]を、
「[[大化]]」
の[[建元]]を境に、
前半を皇極天皇4年、
後半を大化元年と呼んでいました
(>>67)。
[1930]
[CITE[日本書紀]]
やそれ以後の[[正史]]は[[年]]の名前を[[年]]単位で書いていました (>>1883)。
つまり[[年]]内に[[改元]]があっても、
[[年]]は年頭の記事の1度だけ明記されるので、
年頭から[[改元日]]までが[[遡及年号]]となっていました。
[SEE[ [[遡及年号]] ]]
ところが[[皇極天皇]]から[[孝徳天皇]]への[[譲位]]の前後は、
同じ[[年]]が[[皇極天皇即位紀年]]と[[大化]]の
2通りに書き分けられていました。
編纂方針のぶれのようにも思われますが、
[CITE[日本書紀]]
中唯一の[[譲位]]によって生じた特例ともみられます。
;; [1931]
次の[[譲位]]は[[持統天皇]]から[[文武天皇]]で、
[CITE[日本書紀]]
と
[CITE[続日本紀]]
の狭間に当たります。
同じ[[年]]が
[CITE[日本書紀]]
では[[持統天皇即位紀年]]の[[年]]、
[CITE[続日本紀]]
では文武天皇元年となっていました。
これも前例に倣ったと言えなくもありません。
[840]
[CITE[日本書紀]]
は、
[[改元]]を[[譲位]]の
5日後としていました。
[CITE[日本書紀]]
の[[譲位]]記事は、
いずれも[[皇極天皇]]4年と記述されていました。
(>>1883)
[1932]
これをそのまま受け取るなら、
[[孝徳天皇]]が[[即位]]した後も、
[[大化]]の新[[元号]]が決定し[[改元]]が実行されるまで、
従前の[[皇極天皇即位紀年]]が継続されたことになります。
[2543]
現存する[[金石文]]や[[木簡]]は、
この時代[[干支年]]が使われたことを示しています。
当時[[天皇即位紀年]]や[[大化]]の[[元号]]が使われた直接の証拠はありません。
[[皇極天皇即位紀年]]も[[大化]]の[[元号]]も、
現存最古の用例は
[CITE[日本書紀]]
とみられます。
残念ながら、
現存する史料から当時の運用を確定させることはできません。
[607]
[[大化]]という[[元号名]]が[[追号]]とする説 (>>519) による場合、
[[即位]]から[[改元]]までのこの期間をどう解釈するかが問題となります。
[[称元]]の日だったとする説もあり得ますし、
歴史的事実を反映しない潤色とする説もあり得ます。
[HISTORY[
[319] [CITE[[[Wikipedia]]]] の[[孝徳天皇]]記事は、
[TIME[西暦645年][year:645]]を当初[[皇極天皇]]4年、
[TIME[6月14日][kyuureki:0645-06-14]]から
[TIME[19日][kyuureki:0645-06-19]]まで[[孝徳天皇]]元年、
[TIME[19日][kyuureki:0645-06-19]]から大化元年としています [SRC[>>318]]。
一方で [CITE[Wikipedia]] の他の記事 [SRC[>>322]] や[[元号一覧]]は、
[[大化]]開始日の
[TIME[6月19日][kyuureki:0645-06-19]]までを皇極天皇4年としていて、
一貫していません。
[321]
[CITE[Wikipedia]]
方式は、
[[皇極天皇]]が既に[[退位]]し[[孝徳天皇]]が[[即位]]しているにも関わらず、
[[皇極天皇]]4年と呼ぶのは不適切との考えによるものでしょうか。
しかしこのような[[紀年法]]は他に用例がみられず、
敢えてこの5日間だけ特別に扱うメリットもほとんど考えつきません。
そもそもこの[[天皇即位紀年]]の体系が
[CITE[日本書紀]]
による歴史的確立に依る所が大きいことを思えば、
それと異なる新方式にどれだけの価値がありましょうか。
]HISTORY]
[841]
この時期の[[日付]]を[[生成]]する場合には、
[CITE[Wikipedia]] 方式より、
歴史的に採用されてきた方式の方が適切と思われます。
[[日付]]を解釈する[[ソフトウェアの類][元号一覧]]は、
[[孝徳天皇即位紀年]]にも対応するのが良さそうです。
[FIG(table)[
:d: [[日付]]
:s: [CITE[日本書紀]] (>>67)
:w: [CITE[Wikipedia]] (>>318)
:note: メモ
:d:
[TIME[西暦645年6月12日][kyuureki:645-06-12]]
:s:
皇極天皇4年6月戊申
:w:
皇極天皇4年(645年)6月12日
:note:
[[乙巳の変]]
:d:
[TIME[西暦645年6月13日][kyuureki:645-06-13]]
:w:
皇極天皇4年(645年)6月13日
:d:
[TIME[西暦645年6月14日][kyuureki:645-06-14]]
:s:
皇極天皇4年6月庚戌
:w:
孝徳天皇元年(645年)6月14日
:note:
[[皇極天皇]][[譲位]]、
[[孝徳天皇]][[即位]]
:d:
[TIME[西暦645年6月15日][kyuureki:645-06-15]]
:s:
皇極天皇4年6月辛亥
:d:
[TIME[西暦645年6月19日][kyuureki:645-06-19]]
:s:
皇極天皇4年6月乙卯
:w:大化元年(645年)6月19日
:note:
[[大化]][[改元]]
:d:
[TIME[西暦645年7月2日][kyuureki:645-07-02]]
:s:
大化元年7月戊辰
:note:
[CITE[日本書紀]]
の[[改元]]後初記事
]FIG]
[546]
なお、[[改元]]以前を[[0年]]、負の年で表現する実装もあります。
[SEE[ [[大化]], [[CLDRの和暦]] ]]
[REFS[
- [320] [CITE@ja[[[大化]] - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2015-12-19 14:26:18 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8C%96>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[318] [CITE@ja[[[孝徳天皇]] - [[Wikipedia]]]],
[TIME[2020-06-15T01:27:10.400Z]]
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87>
]FIGCAPTION]
>
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に乙巳の変が起きると、[SNIP[]]
>孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、白雉元年2月15日とした。
>
-皇極天皇4年(645年)
--6月12日 - 中大兄皇子が蘇我入鹿を殺害。
--6月13日 - 蘇我蝦夷が自宅に火を放ち自殺する。
-孝徳天皇元年(645年)
--6月14日 - 皇極天皇の譲位を受け、即位した。中大兄皇子を皇太子とした。
-大化元年(645年)
--6月19日 - 史上初めて元号を立て、大化元年とした。
]FIG]
- [322] [CITE@ja[645年 - [[Wikipedia]]]] ([TIME[2016-01-14 06:42:09 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/645%E5%B9%B4>
]REFS]
*** 異説
[838]
[[大化]]の[[元号]]が当時制定されたのでなく、
後の時代に遡って制定されたとする説があり、
はっきりしていません (>>519)。
-*-*-
[839]
他の年を[[元年]]とする[[大化]]の異説がいくつかありました。
[FIG( list)[ [866] [[大化]]異説
- 西暦645年 孝徳天皇元年[LINES[乙][巳]] (>>66)
- 西暦646年 孝徳天皇2年[LINES[丙][午]] (>>1399)
- 西暦686年 天武天皇15年[LINES[丙][戌]]
- 西暦687年 持統天皇元年[LINES[丁][亥]]
- 西暦695年 持統天皇9年[LINES[乙][未]] ([[持統大化]] >>198)
]FIG]
[1399]
[CITE[法隆寺伽藍縁起并流記資財帳]]
に、
[CITE[日本書紀]]
と1年ずれた[[大化]]の用例がみられました (>>406)。
ほかにも例があります (>>1247)。
;;
[2578]
関係は不明ですが、
1年ずれた[[白鳳]]にちょうど接続します
(>>848)。
[1919]
[CITE@ja-JP[法隆寺の諸問題 昭和9]], [[鵤故郷舎]], [TIME[昭和9][1934]], [TIME[2023-01-11T10:47:13.000Z]], [TIME[2023-01-15T06:31:50.617Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/1146465/1/65> (要登録)
[1920] [CITE@ja-JP[續日本紀研究 (146/147)]], [[續日本紀研究会]], [TIME[1969-10]], [TIME[2023-01-11T10:47:13.000Z]], [TIME[2023-01-15T06:46:01.730Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/6076152/1/3> (要登録)
- [2797] [CITE@ja-JP[アジア・アフリカ文化研究所研究年報 (5)]], [[アジア・アフリカ文化研究所]], [TIME[1971-03]], [TIME[2023-11-28T02:04:43.000Z]], [TIME[2023-11-28T08:00:37.998Z]] <https://dl.ndl.go.jp/pid/4430359/1/15> (要登録)
[2798] [CITE[襲国偽僣考]]が[[大化]]と[[大和]]は音が似て混同したのではと指摘していますが [SRC[>>2797]]。
もしかすると原形は[[孝徳天皇]]の[[国名即位紀年]]の「大和元年」「大和2年」...
だったのが誤って「大化」に変化して記録された可能性もあるでしょうか。
[2799]
中世でなく上代の日本語でこの混同が起こり得るのか、「大和元年」の痕跡はあるのか、
という課題はありますが。
[2800]
[[持統大化]]でなく[[孝徳大化]]の変化した「大和」が知られていないのもこの説の弱点。
[[持統天皇]]時代に変化する前に「大和」が存在した根拠が皆無になるから。
** 白雉
[107] [[孝徳天皇]]の治世の最初の[[元号]]だった[[大化]]は、
大化6年、
[[改元]]されて[[白雉]]となりました。
[SEE[ [[白雉]] ]]
[68] [CITE[日本書紀]]
には、
大化5年までの記事の後、
「白雉元年春正月辛丑朔。[SNIP[]]
二月庚午朔戊寅。 [SNIP[(白雉献上の記事)]]
甲寅。 [SNIP[]] 改元白雉。 [SNIP[]]」 [SRC[>>65]]
とありました。
[[年始]]ではなく2月に大化6年から白雉元年に[[改元]]されたことがわかりますが、
年内で書き分けることはせず、
[[年始に遡って][年始遡及年号法]]白雉元年としていました。
その後白雉5年まで記事が続きました。
[1076]
[CITE[続日本紀]] (>>1049)
や
[CITE[新唐書]] (>>542)
は、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]に言及していました。
[[白雉]]の存在を裏付けるものとされます。
[SRC[>>859 p.二〇八]]
-*-*-
[867]
[[白雉]]と別称[[白鳳]]の異説はいろいろありました。
[FIG(list)[ [868] [[白雉]]・[[白鳳]]異説
- 西暦647年 孝徳天皇3年[LINES[丁][未]] 白雉、 白鳳
- 西暦649年 孝徳天皇5年[LINES[己][酉]] 白鳳 (>>1840)
- 西暦650年 孝徳天皇6(後元)年[LINES[庚][戌]] 白雉 (>>107)、 白鳳 (>>783)
- 西暦651年 孝徳天皇7(後2)年[LINES[辛][亥]] 白鳳 (>>848)
- 西暦652年 孝徳天皇8(後3)年[LINES[壬][子]] 白雉
- 西暦655年 斉明天皇元年[LINES[乙][卯]] 白雉
- 西暦661年 斉明天皇7年天智天皇称制0年[LINES[辛][酉]] 白鳳 (>>978)
- 西暦662年 天智天皇称制元年[LINES[壬][戌]] 白鳳 (>>978)
- 西暦671年 天智天皇称制10(即位4)年[LINES[辛][未]] 白鳳 (>>790)
- 西暦672年 天武天皇書紀元年[LINES[壬][申]] 白鳳 ([[天武白鳳]] >>790)
- 西暦673年 天武天皇書紀2年[LINES[癸][酉]] 白鳳 ([[天武白鳳]] >>790)
- 西暦690年 持統天皇4年[LINES[庚][寅]] 白鳳
]FIG]
[1206]
現在の [[Webサイト]]の用例を見ると[[白雉]]のほとんどは
[CITE[日本書紀]]
式の本来の650年元年の[[白雉]]です。
それ以外の[[白雉]]の利用例はほとんど見当たりません。
[[九州王朝]]愛好家サイトで652年元年の[[白雉]]が頻出しますが、
実用例はほぼありません。
[1207]
[[白鳳]]は現在の [[Webサイト]]でも[[寺社縁起]]を中心に複数の系統が相当数使われていることが確認できます。
[SEE[ 現代の寺社縁起類における、日本書紀の記述に一致する白雉の用例は[[白雉]] ]]
[SEE[ それ以外の用例は各異説の項 ]]
*** 孝徳天皇後元
[70] [CITE[日本書紀]]
の[[孝徳天皇]]より後の時代、
[[天豐財重日足姫天皇]] ([[斉明天皇]]) 紀に、
「天萬豐日天皇。後五年十月崩。 」 [SRC[>>69]]
とありました。
[[天命開別天皇]] ([[天智天皇]]) 紀に、
「天萬豐日天皇後五年十月崩。」 [SRC[>>72]]
とありました。
いずれも[[孝徳天皇]]の[[崩御]]を指し、
[[天萬豐日天皇]] ([[孝徳天皇]])
紀によれば白雉5年10月のことでした。
[1208]
内容の一致から、
ここでいう「後」
とは[[白雉]]のこととされています。
[[中華王朝の即位紀元][支那式即位紀元]]にも[[治世途中で改元][漢初の即位紀年の改元]]され、
後世に便宜上
「後元」
などと呼んだ例がありましたから、
それに類するものとされています。
[1867]
[[伴信友]] (>>1038)
は、
「後五年」
は[[元号のない漢初期の改元][支那式即位紀年]]の例に準拠した書き方で、
当時[[元号]]を重視していなかったため (>>1836)
としました。
[SRC[>>1731]]
[HISTORY[
;;
[1844]
[CITE[日本書紀]]
に[[皇極天皇]]の
「改元四年」
と書いた例があり、
[[伴信友]]はこれも同じく[[漢初の即位紀年の改元]]に近い例としました (>>1866)。
]HISTORY]
[1868]
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[CITE[日本書紀]]
の本文中で[[大化]]、[[白雉]]を使った例がないことを指摘しました。
その他の方法でもこの時代のことを指した例自体がないので証明は難しいものの、
当時[[白雉]]の[[元号]]を使って[[日付]]を書かなかった証拠になるとしました。
[SRC[>>1731]]
[HISTORY[
[1869]
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[CITE[続日本紀]]
以後なら必ず「白雉五年」のように書くので、
[[[CITE[日本書紀]]改刪]] (>>1614)
時に改めるべきところが漏れてしまったのだろうとしました。
[SRC[>>1731]]
[2086]
しかし
[CITE[日本書紀]]
にこの程度の不統一は散見されるのであって、
[CITE[日本書紀]]
編纂時に
「白雉五年」
と[[孝徳天皇]]の
「後五年」
の2通りの表記法があり、
混在したままになってしまったと理解できるものです。
敢えて改刪を仮定する必然性に欠けます。
]HISTORY]
[2545]
「後」が[[白雉]]であることは通説となっていますが、
当時どちらの表記だったのか、
どちらもあったのか、
どちらもなかったのかは、
よくわかっていません。
[[白雉]]の[[元号]]が当時制定されたのでなく、
後の時代に遡って制定されたとする説があり (>>519)、
「後」
はその痕跡で有力な根拠とされています。
*** 白雉の延長年号
[518] [[孝徳天皇]]の崩御後[[白雉]]の[[元号]]は使われなくなり、
次の[[元号]]は[[建てられ][建元]]ませんでした。
([[朱鳥]]の終わりと似ています。 [SEE[ 両者の共通点は >>1102 ]])
その終了をいつとするか、
諸説あります。
[2546]
[CITE[日本書紀]]
孝徳天皇紀は、
白雉5年10月壬子条に[[孝徳天皇]]の[[崩御]]を書いていました。
その後には、
12月己酉条の葬儀記事、
是日条の[[斉明天皇]]行幸記事、
是年条の朝鮮3国奉弔記事が続き、
終わっていました。
[SRC[>>65]]
年末まで特別の記事がない以上、
白雉5年が12月末日まで続いたとするのが自然な解釈です。
[1145]
[CITE[大辞林]]
は、
終了を
「654.10.?」
としました
[SRC[>>1143]]。
[[月]]を特定しているのは[[崩御]]の[[月]]に基づくのでしょうが、
[[日]]まで特定しなかった理由は謎です。
[1144]
[CITE[デジタル大辞泉]]
は、
終了を
「655年1月?」
としました
[SRC[>>1143]]。
「?」をつけて不明としながらも示したこの[[月]]の根拠は不明です。
[[旧暦]]の年末を[[ユリウス暦]]か[[グレゴリオ暦]]に換算したものでしょうか。
(だとしても[[白雉]]の開始の時期は[[西暦]]に換算されていませんでした。)
[316] [CITE[Wikipedia]] の[[元号一覧]]および個別記事 [SRC[>>317]]
は、
[[白雉]]の最終日を[[旧暦]]白雉5年10月10日
([[ユリウス暦]]654年11月24日)
としました
(その次の[[元号]]空白期の開始日も同日)。
それ以後の[[日付]]の記述には、
[[孝徳天皇即位紀年]]を使っています [SRC[>>318]]。
[CITE[Wikipedia]]
以外にも、
同様に
10月11日以後を[[孝徳天皇]]10年とする[[対照表][元号一覧]]があります [SRC[>>323]]。
[330]
[[白雉]]の[[元号]]がこの日に終わったとする根拠は、
[[孝徳天皇]]の[[崩御]]によって[[元号]]が用いられるべき期間が終了したとの考え方と思われます。
だとすれば[[元号]]不在だからといって[[崩御]]後まで[[孝徳天皇即位紀年]]で代用するというのもおかしな話です。
-*-*-
[1113]
[[坂本太郎]]は、
[CITE[日本書紀]] (>>1104)、
[CITE[万葉集]] (>>1112)、
[CITE[革命勘文]]
「巳上一蔀自神倭盤余彦天皇即位辛酉年至于天豊財重日足姫天皇七年庚申年 合千三百廿年已畢」
(皇紀1320[LINES[庚][申]]年は正しくは[TIME[斉明天皇6(660)年][year:660]])
といった[[斉明天皇]]時代の記述がみな[[元号]]でなく[[斉明天皇即位紀年]]を用いることを指摘し、
[[延長年号]]が当時正式に用いられたものではないとしました (>>522)。
[SRC[>>859 pp.二一一-二一二]]
[2547]
[[孝徳天皇]]や[[斉明天皇]]・[[天智天皇]]の時代の[[金石文]]や[[木簡]]は、
[[干支年]]を使っていました。
当時[[白雉]]や[[天皇即位紀年]]が用いられたという直接の根拠は見つかっていません。
[[白雉]]の[[延長年号]]が[[斉明天皇]]・[[天智天皇]]時代にも使われたかどうかは、
不明とするほかありません。
[CITE[革命勘文]]
はともかく、
[CITE[日本書紀]]
や
[CITE[万葉集]]
から、
[[奈良時代]]時点では[[白雉]]の[[元号]]を使っても[[延長年号]]は一般的ではなかったとみられます。
-*-*-
[2330]
[[白雉]]の別名たる[[白鳳]] (>>783)
には[[延長年号]]の用例がかなり多く見られます。
[REFS[
- [317] [CITE@ja[白雉 - Wikipedia]] ([TIME[2015-12-19 14:08:54 +09:00]] 版) <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%9B%89>
- [329] [CITE[古代史年表(欽明天皇~元明天皇)]] ([TIME[2016-01-19 15:27:53 +09:00]] 版) <http://www.ookuninushiden.com/newpage1.html>
- [323] [CITE@ja[和暦・西暦対照表〔インデックス〕-公卿類別譜(公家の歴史)]] ([TIME[2016-01-19 14:48:31 +09:00]] 版) <http://www.geocities.jp/okugesan_com/taishohyo/index.html>
-- [[大化]]-[[改暦]]前
-- 消失確認 [TIME[2019-05-13T11:04:52.100Z]]
-- [CITE@ja[和暦・西暦対照表〔インデックス〕-旧暦変換]] ([TIME[2019-05-13 20:04:23 +09:00]]) <https://web.archive.org/web/20190329032818/www.geocities.jp/okugesan_com/taishohyo/index.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1143] [CITE@ja[[[白雉]] とは - 【@nifty辞書 powered by コトバンク】]], [TIME[2020-05-04 17:55:46 +09:00]] <http://dictionary.nifty.com/word/%E7%99%BD%E9%9B%89-600351>
]FIGCAPTION]
>デジタル大辞泉
>[SNIP[]]
650年2月15日~655年1月?。びゃくち。
>大辞林 第三版
>[SNIP[]]
年号(650.2.15~654.10.?)。
]FIG]
]REFS]
*** 孝徳天皇白雉たる白鳳
[783]
[[孝徳天皇]]や[[斉明天皇]]の時代を表す[[元号]]に[[白鳳]]があり、
主に[[奈良時代]]頃、
使われていました。
[[白雉]]の別名と考えられています。
;;
[2548]
[[天智天皇]]時代の[[白鳳]] (>>978)
や[[天武白鳳]] (>>617) とは同名ですが、
[[元年]]が違っています。
[[孝徳天皇]]時代を[[元年]]とする[[白鳳]]が、
[[天智天皇]]や[[天武天皇]]の時代を表すために使われることがあり、
同じ年でも年数が変わってくるので要注意です。
[871]
[[平安時代]]以後[[白鳳]]とは[[天武白鳳]] (>>790)
との認識が一般的になったようです。
[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]の用法は、
それ以後あまりみられなくなります。
[[天武白鳳]]に圧倒されたのは事実でしょうが、
[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]がその後も細々と使われ続けたのか、
消えてなくなってしまったのかはわかりません。
(新規性のない文献はあまり紹介されないバイアスがあるでしょうから。)
-*-*-
[2082]
[[伴信友]] (>>1038)
は、次の根拠を挙げて、
明らかに[[白鳳]]は[[白雉]]の別称だとしました。
[SRC[>>1731]]
- [2549]
[CITE[大織冠伝]] (>>939)
に、
白鳳5年に[[孝徳天皇]]が[[崩御]]とあること。
それが
[CITE[日本書紀]]
の[[白雉]]5年と一致すること。
(>>2332)
- [2550]
[CITE[古語拾遺]] (>>752) に、
[[孝徳天皇]]の[[白鳳]]4年とあること (>>1050)。
- [2551]
[CITE[西宮記]] (>>2069) に、
[[白鳳]]とあり、
[[孝徳天皇]]の時代とみられること。
- [1842]
[CITE[大鏡]]
のある本の注に、
[[斉明天皇]]の[[崩御]]が白鳳十三年辛酉とあること (>>2080)。
[CITE[大織冠伝]] (>>939)
の記述と一致し、
[[干支年]]の辛酉も一致すること。
[938]
[[斎藤励]]
[SRC[>>556]]、
[[坂本太郎]] (>>517) [SRC[>>859 p.二〇八]]、
[[西山德]]
[SRC[>>937]]
は、
[CITE[藤氏家伝]] (>>939)
の検討 (>>2332)、
[CITE[古語拾遺]] (>>752)
の検討から、
[[孝徳天皇]]の[[白雉]]が[[白鳳]]とも呼ばれたとしました。
[[坂本太郎]]は、
[CITE[類聚三代格]] (>>1046)
も根拠に挙げました
[SRC[>>859 p.二〇八]]。
[1839]
[[白雉]]と[[孝徳天皇]]時代の[[白鳳]]が同じであることは、
[[伴信友]]以来これといった有力な反論もなく、
通説となっています。
(同じでないとする説の例: >>550)
-*-*-
[2302]
[[平安時代]]の
[CITE[口遊]] (>>1626)
は、
初期[[元号]]の一覧に[[白鳳]]を挙げていましたが、
[[孝徳天皇]]の時代が[[大化]]から[[白雉]]までとし、
その次の[[白鳳]]をどの[[天皇]]とも結びつけていませんでした。
[1853]
[[伴信友]] (>>1038)
は、
[[孝徳天皇]]の時代が[[大化]]から[[白鳳]]までとするべきで、
誤写だとしました (>>2071)。
[2576]
[[坂本太郎]] (>>517)
は、
[[天武白鳳]]が生じる過渡期の不安定な状態と考えました (>>1625)。
[REFS[
- [937] [CITE[[[粟原寺]]銅鐘盤銘に就いての二三の考察]],
[[西山德]],
昭和二十四年四月十二日報告,
[TIME[2020-01-30 18:32:25 +09:00]] <https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/7/1/7_1_33/_pdf/-char/en>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[913] [CITE@ja[[[御祭神]]・御由緒 / 鷺宮咲前神社]], [TIME[2020-01-29 17:16:51 +09:00]] <http://www.sakisaki.net/yuisho.html>
]FIGCAPTION]
>白鳳元年(650)、第11代小崎邦平は、神託により抜鉾大神を神楽の郡(甘楽郡)蓬丘菖蒲谷に御遷座する。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[909] [CITE@ja[福智上宮神社/[[福智町]]]], [TIME[2020-01-06 08:57:43 +09:00]] <http://www.town.fukuchi.lg.jp/soshiki/gakushu/syakaikyoiku/bunkazai/bunkazai4/247.html>
]FIGCAPTION]
>福智修験の発祥地で、白鳳元年(650年)に開山したと伝えられています。
]FIG]
]REFS]
**** 孝徳天皇時代の白鳳の終了時期
[2552]
[[白雉]]の終了時期が明確でない (>>518) のと同様、
[[白鳳]]の終了時期もはっきりしません。
[CITE[日本書紀]]
に記載がないため依拠すべき規範がまったく存在しない反面、
[[白鳳]]の方が[[延長年号]]の用例は多いようです。
[1861]
[[伴信友]] (>>1038)
は、
次のように考えました。
[SRC[>>1731]]
- [2553]
[[白鳳]]は[[斉明天皇]]の時代まで使われ、
[[天智天皇]]の時代には使わなかったようにもみえます。
- [2554]
しかし、
[[天智天皇]]は[[中華王朝]]の制度を多く取り入れていました。
-- [2555]
代替わり直後も、