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997
998
999
1000
[2112]
[[鬼室集斯]]は、
[[百済]]の[[貴族]]でしたが、
[[唐]]と[[新羅]]の侵略により[[百済]]が滅亡
[WEAK[([[白村江の戦い]]、[TIME[天智天皇2(663)年][year:663]])]]
した後[[日本]]に[[渡来][渡来人]]しました。
[[日本]]では[[近江国]][[蒲生郡]]に居住しました。
[SRC[>>2102]]
* 鬼室神社
[3] [[日本国]][[滋賀県]][[蒲生郡]][[日野町]][[[RUBY[小][こ]][RUBY[野][の]]][小野]]に、
[DFN[鬼室神社]]があります。
[[鬼室集斯]]が合祀されています。
** 神社
[194]
神社の創設時期は不明です。
- [195]
[CITE[近江蒲生郡志]] 巻六[[西宮神社]]条所引の最古の[[棟札]]銘文
「[V[正長二[RUBY[[SUP[巳]][SUB[酉]]][(ママ)]]八󠄂月]]」
[SRC[>>90 (注記は >>90 にあるまま)]]
-- [196] 「巳酉」は80%くらいの文字サイズで行の左右にちょうど収まるように配置。
縦方向の中央軸付近には空間なく配置。
--- [197] この[[小書き干支文字][干支斜め書き]]の配置法は同書同論文の他の箇所 (>>159)
と違う。意図的に変えたものかどうか不明。
当例は[[ルビ]]に「(ママ)」とある点にも注意したい。
-- [198] [TIME[正長2(1429)年[LINES[己][酉]]][1429]]8月
[373]
[[小野]]の集落の形成の時期は不明ですが、[[平安時代]]中期を遡らないと考えられています。
- [191]
[CITE[[V[近江蒲生郡志]]]] [V[巻六]][[天神社]]条所引[TIME[明和5(1768)年2月25日][kyuureki:1768-02-25]][[棟札]]銘文
「[V[当社天満宮人王六十六代一乗院御宇寛弘年中草創]]」
[SRC[>>90]]
-- [374] [[天神社]]も当地にある神社。
-- [192] [[潤色]]も考えられるが、
小野の集落の形成の上限が[RUBYB[[[寛弘]]年間][[TIME[1004]]-[TIME[1011]]]]と推測できる。
[SRC[>>90]]
-*-*-
[211]
社殿の前に石灯篭が2基ありました。
うち1基の竿部裏面に
「[V[奉寄進室徒中]]」、
左に
「[V[元禄四[SUP[辛]][SUB[未]]年]]」、
右に
「[V[五月吉日]]」
とありました。
[SRC[>>90]]
[464]
神社入口の路傍には、
「鬼室神社」の石碑がありました。
[[大東亜戦争の戦後]]に建立されたものでした。
[SRC[>>89]]
-*-*-
[365] [[西生懐忠]]らによると、[[祭神]]は[[鬼室集斯]]で、
祭礼は[[旧暦]]11月8日でした [SRC[>>362]]。
[438]
[[祭礼]]は古くは毎年11月8日でしたが、
[[平成時代]]の頃の時点では11月第1日曜日に変更されていまいた。
[SRC[>>437]]
[439]
[[平成時代]]の頃の時点で、次のような[[神道]]の儀式でした。
まず宮司が祝詞を奏上します。
次に巫女が神楽や湯立などを行います。
最後に参列者が玉串を捧げます。
神前の供物は、
氏子が年番で勤める神主が、
斎戒沐浴して女手を借りずに当日早朝に調理します。
飯、つぼ、ひら、ちょく、汁、漬物などの熟饌を黒塗りの器に入れる他、
酒、米、魚、大根、林檎などの生饌もあります。
[SRC[>>437]]
** 大内蔵人時頼墓
[1]
[TIME[文亀元(1501)年][year:1501]]の絵図の複写だとされる
[CITE[興福寺領近江国蒲生郡長寸郷奥津野保左久良十七郷摠絵図]]
によると、
当地には
「[[大内蔵人時頼]]墓」
がありました [SRC[>>2114]]。
[8]
これがその後どうなったのか、
[[鬼室集斯墓]]と同じものか、
不明です。
[85]
本絵図は [[Web]] では検索しても文亀元年と説明しているページしか出てきませんが、
書写されたのは[[江戸時代]]です。
本絵図は[[椿井文書]]です。
** 伝鬼室集斯墓
[2113]
[[鬼室集斯]]墓とされる八角石柱があります。
[SRC[>>2102, >>2114]]
*** 所在地
[126]
かつては墓碑は風雨に晒されていました。
[SRC[>>90 (>>95 写真)]]
[128]
[TIME[明治41(1908)年][1908]]、
石祠が建てられて墓碑が収納されました。
[SRC[>>90]]
[129]
なお石祠には紀年銘がなく、
[CITE[近江蒲生郡志]] 巻八
[WEAK[([TIME[大正11(1922)年][1922]])]]
p.三八三
は、明治36年石祠造立としていました。
石祠と同じく地元石小山産の玉垣に
「[V[明治四十一年八󠄂月]]」
などとあります。
したがって明治41年造立と考えられます。
[SRC[>>90]]
[470]
[[平成時代]]初期時点で、当地の発掘調査は行われていませんでした。
[SRC[>>360]]
墓碑に関する議論は多いですが、
墓碑が設置された土地の性格はほとんど言及されることがないようです。
墓碑それ自体が象徴的に信仰されたものなのか、
あるいは本来この位置に意味があったのかは、
明らかではありません。
-*-*-
;;
[39]
なお[[鬼室集斯]]墓と記録されるものは他にもあるようです。
[375]
[[奈良時代]]前後の墳墓地は、
丘陵の末端に位置し、
前面に広い平地を望み、
左右は丘陵に擁せられ、
後方に山を負っているのが通例で、
しかも前面が南方に当たる場合が多いとされます。
[SRC[>>360 ([CITE[日本古代遺跡の研究]] 論考編, [[斉藤忠]], [TIME[[V[一九七六年]]][1976]])]]
[376]
一方で当地は、
山間の小扇状地の田地の中央で、[[前川]]に望んでおり、
墓碑および神社社殿は、集落との関係か、東方を向いています。
そのため[[奈良時代]]前のものとするには不自然と考えられています。
[SRC[>>360]]
*** 八角形石柱
[234]
墓碑の形状は、
[[平成時代]]の[[日野町教育委員会]]の調査 [SRC[>>224 (>>2124)]] によると、
- [235]
ほぼ八角柱状、
高さ 48.8cm。
頂部から 4.4cm 下方まで鋭く尖らせてある。
- [236]
底部の幅 20.8cm、頂部の幅 18.8cm でわずかに細まっている。
- [237]
底部はほぼ平坦 (枘穴など無し)。
- [238]
頂部から下方 13.3cm の位置に、
4.4cm にわたるくびれがある。
最も大きいところでの幅は 18.0cm。
- [239]
頂部から 29.0cm 下方の水平断面は、
1辺 8.0cm - 9.2cm のほぼ正八角形。
[HISTORY[
[366]
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]らの研究 [SRC[>>362]] によると、
- [367]
高さ1尺6寸。
- [368]
8面、
面の上2寸7分、下3寸2分。
- [369]
頂正中隆起。
- [370]
上から下に2寸5分程のところに結縛の痕。
[130]
[[昭和時代]]の[[胡口靖夫]]の研究 [SRC[>>90]] によると、
- [131]
八角柱状で、上方より下方がやや深い形でした。
- [132]
高さは 48.0cm、
一面の上部の幅は 8.0cm、
下部は 9.5cm
でした。
- [133]
頂上は三角形に刻まれて隆起し、
頂上から下方 12.5cm 程度の位置に、
幅 4.0cm、深さ 1.5-1.8cm 程度のくびれのような溝が刻まれていました。
]HISTORY]
[189]
重量は、大人1,2人で移動可能な程度です。 [SRC[>>90]]
[147]
この奇妙な形状は[[日本]]にはあまり例が知られておらず、
注意を惹かせることになったようです。
-*-*-
[134]
明治36年、
[[蒲生郡]]教育会長の[[遠藤宗義]] (>>450) は、
墓碑等に造詣が深いという[[京都]]の[[松井淳風]]に鑑定を依頼しました。
その結果は、
正しく[[朝鮮石]]で、
形状は[[唐土]]の方式によるものであり、
従来未だ曽て見ない古物で珍重するべき、
とのことでした。
[SRC[>>90 (>>95)]]
[137]
[[昭和時代]]、
(おそらく[[胡口靖夫]]に依頼された)
[[国立科学博物館]]地学研究部 [SRC[>>90, >>224]] は、
墓碑の
「ごく小さな石材資料」
を使ってルーペによる肉眼観察で鑑定し [SRC[>>224]]、
[[流紋岩質凝灰岩]]としました [SRC[>>90, >>224]]。
[136]
[[平成]]に入った頃、
[[日野町]]に依頼された[[宇野光一]] (元[[大津市科学博物館]]) は
[SRC[>>224]]、
ルーペによる肉眼観察で鑑定し [SRC[>>224 (調査に立ち会った[[日野町]][[小野]]の[[植田慶一]])]]、
[[石小山]]産の[[黒雲母花崗岩]]としました
[SRC[>>90, >>224 (>>2124, [CITE[[V[朝日新聞]]]] [V[滋賀版]] [V[一九九四年六月二十四日]])]]。
[243]
[[平成時代]]初期、
[[日野町]]の鑑定結果を知った[[胡口靖夫]]に依頼された[[柴田徹]]
([[松戸市立博物館]])
は、
「客観的な石材資料の偏光顕微鏡写真による比較」
で、
石質と産地に[[宇野光一]]と同じ鑑定結果を示しました。
[SRC[>>224]]
[138]
[[黒雲母花崗岩]]は[[日本列島]]、[[朝鮮半島]]に広く分布し珍しくないもので、
朝鮮石との鑑定結果の根拠は不明です。
[SRC[>>90]]
[244]
[[日野町]][[小野]]の[[[RUBY[石][いし]][RUBY[小][こ]][RUBY[山][やま]]][石小山]]は、
[[鬼室神社]]のある谷の南側にある[[山]]です。
北側中腹、[[鬼室神社]]から見て南東側に通称「石切場」
なる地があり、採掘跡が残されていました。
[SRC[>>224]]
[245] [[石小山]]の採掘の歴史を遡れば墓碑の造立の上限も決定できると考えられます。
[SRC[>>224 (>>2124)]]
ただし[[平成時代]]時点で[[石小山]]は各所に自然崩落が散見され、
墓碑程度の原石はそこかしこに見られたため、
上限の決定は難しいとも言われています。
[SRC[>>224]]
-*-*-
[141] [[漢土]]との関係性を指摘する根拠として、
次のようなものが挙げられました。
-
[139]
[[西生懐忠]]は、
くびれを指して、
結縛の痕跡があって、
繋牲の形を表したものではないかという、
と書いていました。
[SRC[>>362, >>90]]
-
[140]
[CITE[礼記]] の祭儀によると、
宗廟の門内には碑があって、
生贄を繋ぐもので、
紐を通す孔がありました。
(孔であってくびれではありません。)
[SRC[>>90]]
-
[146]
[[漢土]]の[[唐]]・[[宋]]間には[[八角経幢]]と呼ばれる、
八角柱状で記念碑的機能を持ったものが多数作られました。
[SRC[>>90]]
[184] [[朝鮮半島]]との関係性を指摘する根拠として、
次のものが挙げられました。
-
[200]
[[西生懐忠]]は[[朝鮮半島]]の影響を示唆していました (>>135)。
ただしその根拠は明示していませんでした。
-
[142]
朝鮮開城郡松都面満月町双瀑洞の高麗温鞋陵の周囲にあった欄杆石が、
同じように八角柱で上面中央が高く、くびれが入っていました。
[SRC[>>90 (>>144)]]
[185] これら大陸のものは、影響が確実視できるほど似ているとは言えませんし、
距離だけでなく時代も離れています。
大陸に目を向けずとも、[[日本]]国内の次のようなものとの類似性も指摘されています。
- [186]
[[日本]]の[[中世]]頃には、[[角柱塔]]が作られるようになりました。
くびれがないこと、上下同一の太さであること、
収納空間があることなど違いはあれど、
基本形態は酷似しています。 [SRC[>>90]]
-- [187] 最古のものは[[日本国]][[京都府]][[京都市]][[左京区]][[峰定寺]]木製方錐角柱塔
([TIME[仁平4(1154)年2月23日][kyuureki:1154-02-23]]銘)。
[[鎌倉時代]]末期には、[[角柱塔]]を仏塔とすることが確立されていたと考えられています。
[SRC[>>90 ([CITE[日本仏塔]], [[石田茂作]])]]
- [188]
[[日本]]の[[中世]]頃には、石造の八面体が作られるようになりました。
現存するものは平安時代後期から見られ、[[鎌倉時代]]後期には造形が確立していました。
[SRC[>>90]]
[REFS[
- [145] [CITE[高麗諸陵墓調査報告書]], [[今西龍]], [TIME[大正5(1916)年][1916]]度
-- [143] [CITE@ja[[[古蹟調査報告]]. 大正5年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[朝鮮総督府]], [TIME[大正8-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T09:26:51.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976583/194>
-- [144] [CITE@ja[[[古蹟調査報告]]. 大正5年度 - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [[朝鮮総督府]], [TIME[大正8-14][year:1925]], [TIME[2021-03-27T09:29:55.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/976583/199>
]REFS]
-*-*-
[246]
[[岡田精司]]は、
[[墓碑]]に死者の名前を刻むのは[[近世]]に入って一般化する風習だと指摘しました
[SRC[>>225]]。
[[胡口靖夫]]は、
墓碑の形態に類似した石造物の類例は極めて少なく、
[[近世]]のものとは断言できないと反論しました
[SRC[>>224]]。
*** 銘文
[148]
八角柱のうち正面と左右の計3面に、
1行ずつ碑文が陰刻されていました。
[SRC[>>90]]
[318]
拓本 (>>158) を見た[[黒田正典]] (>>317) は、
初夏の作意の書ではなく卒意の書、
すなわち作品としてではなく記録・目印を後世に残すだけの書き方と評しました。
[[江戸時代]]の爛熟した、あるいは俗流の字ではない、
としました。
[SRC[>>316]]
-*-*-
[2117]
[[日付]]は
「[V[朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八日□]]」
とありました [SRC[>>2124]]。
最後の1字は摩耗しており、
「殂」「歿」「殞」
などと解されています
[SRC[>>2124, >>2102]]。
それより下に文字が入る余地はないとみられます [SRC[>>90]]。
[155]
発見者の[[西生懐忠]]は銘文が不鮮明だと書いていました。
[156]
[[伴信友]]の [CITE[鬼室集斯墓考]] [SRC[>>41]],
[CITE[西州投化記]] 第一稿本 (>>108),
[CITE[日本書紀通釈]] [SRC[>>149]],
[CITE[大日本金石史]] [SRC[>>113]],
[CITE[近江蒲生郡志]] [SRC[>>150]],
[CITE[尚古年表]] (>>154)
ほか諸書に銘文が掲載されました。
[SRC[>>90]]
[154]
[CITE[尚古年表]] の[[大正時代]]の刊本は、
>
[VRL[
[ASIS[朱][亅]]鳥三年[SUP[戊]][SUB[子]]十一月八󠄂日殞
鬼室集斯墓
[[ ]]庶󠄂孫美成造󠄄
]VRL]
(「戊子」は8割位の文字サイズで左右に寄せられ、
縦方向の中央軸付近には空間なく配置。)
... としていました。
[SRC[>>151]]
[157]
[[胡口靖夫]]は、
[[昭和時代]]に実見し (>>158)、
[[遠藤宗義]]の [CITE[鬼室集斯墳墓考]] [SRC[>>95]]
の銘文が正しいとしました。 [SRC[>>90]]
>
[VRL[
(右) 朱鳥三年[LINES[戊][子]]十一月八日[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]
(正面) 鬼室集斯墓
(左) 庶孫美成造󠄃
]VRL]
[159]
[[胡口靖夫]]は、
[[干支]]は、
[CITE[日本書紀通釈]] の「[V[戊子]]」、
[CITE[尚古年表]] の「[V[[SUP[戊]][SUB[子]]]]」
(8割位の文字サイズで行の中央軸から左右に、
縦方向に重ならないように配置。)
ではなく
「[V[[LINES[戊][子]]]]」
が正しいとしました。
[SRC[>>90]]
-*-*-
[160]
右面の最後の文字は、
[[西生懐忠]]、
[CITE[西州投化記]]、
[CITE[尚古年表]] が「殞」、
[CITE[鬼室集斯墓碑考]] ([[伴信友]])、
[CITE[日本書紀通釈]]、
[CITE[大日本金石史]] が「殂」、
[CITE[近江蒲生郡志]] が「歿」
としていました。
[SRC[>>90]]
[163]
[[伴信友]]は、
字形が不鮮明なので推測したと書いていました。
[[西生懐忠]]が「殞」としたことについて、
字形がそうは見えないとしました。
[SRC[>>90]]
[161]
[[遠藤宗義]]は、
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
は「殂」「殞」「歿」のいずれかだが判定できないとしていました。
[SRC[>>90]]
[162]
[[胡口靖夫]]は、
偏ははっきりしているが旁は下半分が書けていて
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
としか判読できないとしました。
[SRC[>>90]]
[164]
[[胡口靖夫]]は、
[[伴信友]]の検討を引いて、
発見当初から
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
としか読めなかったと推測しました。
[SRC[>>90]]
;;
[165]
なお、
[[胡口靖夫]]の著書は
「[ASIS[〓][殞の旁から貝と口の下線を除去]]」
を[[作字]]していました [SRC[>>90]]。
初出の論文誌
[CITE[日本書紀研究]]
でも[[作字]]されていたのでしょうか。
[171]
「殂」「殞」「歿」
のいずれも、古代日本の[[墓誌]]銘文で[[鬼室集斯]]と同程度の位階の者に使った例が見つかっておらず、
不審とされます。
[SRC[>>90]]
**** 紀年
[2120]
朱鳥3年[LINES[戊][子]]は[TIME[持統天皇2(688)年][kyuureki:688-11-08]]に当たります。
[[延長年号]]ですが、一応
[CITE[日本書紀]]
とは矛盾しません。
[166]
[[江戸時代]]から[[現代]]に至るまで、
[CITE[日本書紀]]
が1年だけとしている[[朱鳥]]が実際にはより長く用いられたとする説が唱えられていました。
そうした学説の中には、
[[鬼室集斯墓碑]]を根拠とする者もありました。
逆に、
実際は長く用いられたことを根拠に[[鬼室集斯墓碑]]銘文の正しさを示す者もありました。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[HISTORY[
[167]
[[胡口靖夫]]は、
[CITE[日本書紀]]
に[[朱鳥]]が1年しかないことが、
「[V[『以]]
[V[文会筆記抄』などのような単純明快な偽銘説が成立する根拠]]」
だったとしました。
[SRC[>>90]]
しかし
[CITE[以文会筆記抄]] に偽造と判断した根拠の説明は見つけられません [SRC[>>102]]。
]HISTORY]
[168]
現在まで、「朱鳥元年」も含め、[[朱鳥]]時代にリアルタイムに作られたことが確実な
「[[朱鳥]]」の利用例は見つかっていません。
[[朱鳥]]がリアルタイムでは存在しなかったとする[[追号]]説も有力説の1つとなっているほどです。
[SEE[ [[日本古代の日時]] ]]
[169]
[[朱鳥]]が当時存在しなかった、または朱鳥3年とは書かなかったとすると、
この碑文が当時のものでなく、
朱鳥3年という表し方が成立した後に書かれたものということになります。
[170]
逆に他の根拠からこの碑文が確実に当時のものと言えるなら、
朱鳥3年という表し方が当時から存在した証拠となります。
しかし現在までに判明している事項を総合すると、
そのような主張に説得力を持たせるのは難しそうです。
-*-*-
[172]
[[昭和時代]]の研究者[[石田茂作]]によれば、
[[日本]]の[[金石文]]の[[紀年銘]]において
「[V[[LINES[戊][子]]]]」
のように[[干支]]を細字で[[割書]]する形式は、
[[平安時代]]の10世紀頃から使われるようになり、
[[鎌倉時代]]に普通に使われるようになり、
その後も使われるが少なくなるのだといいます。
[SEE[ [[東洋の日時表示]] ]]
[173]
これによれば、朱鳥3年は初出より何百年か遡ることになり、
当時リアルタイムで書かれたものとは考えにくいことになります。
[SRC[>>90]]
[HISTORY[
[174]
なお[[平成時代]]の[[ブログ]]や [CITE[Wikipedia]] で、
[[胡口靖夫]]の著書から
「「朱鳥三年[LINES[戊][子]]」のような紀年銘の干支の位置の記載形式は、天慶9(946)年を最古の例とするが、平安時代にはまだこの形式のものはあまり多くはなく、鎌倉時代に入るとこの形式のものがもっとも多く普通であったようであり、室町時代になるとまた少なくなることである(p60)」
と引いて、この[[紀年銘]]が疑問視される根拠の1つに示すものがありました
[SRC[>>2, >>2118, >>2122]]。
[175]
これだけ見ると[[胡口靖夫]]の研究成果のようですが、
実際には[[石田茂作]]の論文の記述を[[胡口靖夫]]がほぼそのまま繰り返したに過ぎません。
[[胡口靖夫]]の論文には出典が明記されているので [SRC[>>90]] 誤解はないのですが、
孫引きした [[Web]] 上の情報からはそのことがわからなくなってしまっています。
]HISTORY]
-*-*-
[80]
[[鬼室集斯]]の死去の時期は、
この碑以外の根拠が見当たりません。
[CITE[日本書紀]]
には[[天智天皇]]の時代に[[近江]]に移住した後の動向が残されませんでした。
従って朱鳥3年説の真偽は不明というほかありません。
[220]
[[胡口靖夫]]は、
当碑の造立を[[平安時代]]後期から[[鎌倉時代]]後期と推定し、
当時辺遠の地だった[[小野]]で、
[CITE[愚管抄]]
など[[朱鳥]]の[[延長年号]]を使った書物を参照できた可能性はほとんどなかっただろうとしました。
それ故に、卒年月日を記述した家伝が[[鬼室集斯]]の子孫に伝わっていた可能性が高く、
よって信憑性が高いとしました。
[SRC[>>90]]
[221]
この説は、「朱鳥3年」が死去当時ないしそれに近い時期に使われた表現であることと、
朱鳥時代の紀年の資料を参照できる人が墓碑造立に関与しなかったことが前提となります。
信憑性が高いと言う根拠にしては脆弱に思えます。
[247]
しかし信憑性の高い根拠がなかったとすると、
この日付がいかなる方法で導かれたものかにも検討が必要となります。
まったくの偽造なら、敢えて日付まで捏造する必要性は低いとも考えられます。
**** 庶孫
[176]
碑文には[[庶孫]]の「美成」が作ったとあります。
この「美成」は他の記録に見つからず、また[[鬼室]]氏の系譜も伝わらないため、
何者か確定されていません。
[177]
[[伴信友]]は、
[[鬼室集斯]]の[[嫡子]]、[[庶子]]が既に死去していたので[[庶孫]]が家を継いで墓を立てたとしました。
[SRC[>>90]]
[178]
[[胡口靖夫]]は、
[[奈良時代]]までに断片的な記録が残る数名の「鬼室」氏が子孫の可能性があり、
[[伴信友]]の説が成立しないかもしれないと指摘しました。
更に、[CITE[養老律令]] から推定して「庶孫」が継承権を持っていたと考えにくいこと、
古代の[[墓誌]]で「庶孫」と表現した例が見当たらないことを指摘しました。
[SRC[>>90]]
[215]
これらの解釈は、「庶孫」を古代の本来的な意味で理解し、
「孫」とは[[子]]の[[子]]だとして検討したものでした。
[[小野]]の[[辻久太郎]]家に伝わる [CITE[過去帳]] は「庶孫」
を[[子孫]]の意味で使っているとされます (>>214)。
現地にそのような文献が残されている以上、
それを踏まえた検討が必要と思われます。
[219]
[[胡口靖夫]]は明言しませんでしたが、
[[鎌倉時代]]後期から[[平安時代]]後期に[[鬼室集斯]]後裔の辻氏らが墓碑を造立したとする[[胡口靖夫]]の説
(>>218) に従うなら、
「庶孫」の[[美成]]は辻氏かそれに近い一族の代表的な人物ということになります。
そう解するのでなければ、辻氏らが「庶孫美成造」と偽ったとしなければならないことになります。
**** 宀
[319]
拓本 (>>158) を見た[[黒田正典]] (>>317) は、
[[江戸時代]]の書風ではないと推測しました。
その最も端的な特徴として「室」の「冖」左方の点の形状を指摘しました。
[SRC[>>316]]
[320] それによると、この点の形状は (>>316 に図示あり) [SRC[>>316]]、
- [321] 勢いよく筆を抜く[RUBY[撥][はね]]形
-- [322] [[漢土]]では[[六朝時代]]に頻出しました。
-- [329] [[漢土]]では[[唐]]時代にはごく稀に見るのみとなりました。
-- [330] [[漢土]]では[[唐]]より後には無いようでした。
-- [327] [[日本]]では[[那須国造碑]]の「宮」に明快な撥形が見られる他、
「壹」や「家」などに同様の形が見られました。
-- [331] [[日本]]では他にも[[奈良時代]]の石碑によく見られました。
-- [332] [[日本]]では[[江戸時代]]にはないはずです。
-- [328] [[鬼室集斯墓碑]]の「室」もこの形でした。
- [323] 筆を引いたままの形
-- [324] [[漢土]]では[[唐]]時代にこの形が大勢となりました。
- [325] 押さえてしまう形
-- [326] [[漢土]]では筆を引いたままの形に次いで現れました。
[333] といった状況から、[[鬼室集斯墓碑]]近隣で撥形が皆無なら、
「本物説」の有力な証拠になると指摘しました。 [SRC[>>316]]
-*-*-
[335]
[[胡口靖夫]]は、
3回採拓し (>>158, >>334)、
「室」が撥形と判断しました。
>
[VRL[
撥形の最末端部は、風化により石が欠けていて確認できないが、拓影に見られるウ冠の第二
筆の外郭の二線の延長線上に字画の存在を示す小黒点がいくつか残存しており、筆跡の推定が可能である。それによ
ると「室」字のウ冠の第二筆は、筆を勢いよく抜き先端が尖っていることが了解できる。
]VRL]
... のだとしました。
[SRC[>>316]]
[336] 専門家の[[黒田正典]]の判定は尊重するべきなのでしょうが、
挿絵として出版された拓影を見ても、
この判断の妥当性は容易に追認できるものではありません。
字形が不鮮明だからです。
[[胡口靖夫]]がわざわざ3回も拓本を作成して慎重を期しているのも、
撥形であるとの主張により説得力を持たせる必要が認められたからではないでしょうか。
[337]
[[胡口靖夫]]は、
周辺地域の金石文の宀や冖の字形を調査し、
- [338] 撥形: 筆を勢いよく抜くものや、逆三角形の先端が尖るもの
- [339] 押形: 筆を押さえたものや、単に筆の動きが止まるもの
- [340] 中間形: どちらとも判定しにくいもの
... の3種に分類しました。そして、
- [341] [[江戸時代]]
-- [342] [[東桜谷村]] ([[小野]]を含む地域) - 35例中、撥形3例、押形28例、
中関形2例、判定保留2例。
--- [344] 撥形の「常」2例「安」1例はいずれも逆三角形の先端が尖る撥形で、墓碑とは異なる。
-- [343] [[西大路村]] ([[藩庁]]を含む地域) - 41例中、押形37例、判定保留4例。
- [349] 中世
-- [350] [[東桜谷村]], [[西大路村]]で対象は各1例しかなく、
しかもうち1基は盗難により所在不明
-- [351] [[日野町]] (両村を含む地域) - 8例中、
撥形1例、押形3例、中間形3例 (うち撥形寄り1例)、判定保留1例
(これ以外に判読不能3例)
--- [352] ほとんどが風化による摩滅で判読困難
- [348] 古代
-- [355] [CITE[飛鳥・白鳳の在銘金銅仏]] 銘文編、
[CITE[日本古代の墓誌]] 所収の[[金石文]]銘 - 撥形56例、押形34例、中間形5例
... との結果を得ました。 [SRC[>>316]]
[345] ここから、次のように結論づけました。 [SRC[>>316]]
- [353] 古代3:2、中世1:3で撥形と押形の割合が逆転する。
- [354] [[江戸時代]]に撥形はほぼ無い。
- [346] 墓碑の撥形「室」は[[江戸時代]]の筆跡ではない。
-- [347] [[西生懐忠]]ら[[仁正寺藩]]関係者の筆跡ではない。
-*-*-
[62]
この石柱は偽作とされますが、
地元民などに真作説が[[江戸時代]]から現在まで続いているようです。
話をややこしくしているのは、
死亡直後の真作説と新しい時代の偽作説の中間の、
[[中世]]に子孫 (と主張する人々) が供養のために作った本物だとする折衷案的主張があるのに、
本物か偽物かの2分論で語られることが多いことのようです。
つまり「中世 (ないし近世) に作られた」という主張でも、
その背景の理解により真作説とも偽作説とも分類し得るのです。
また、
本物の墓なのかどうか、
本物の墓碑なのかどうか、
銘文がいつ作られたのか、
銘文がいつ彫られたのか、
本当の子孫なのかどうか、
祭祀が途切れず続いたのかどうか、
など論点が多い上に
(真の子孫ではないが本当だと信じて中世に作った、
という「真作」もあり得ます)、
[[日朝関係]]や観光利用のような[[政治的思惑][政治的理由]]が交錯しています。
[2121]
かつては
「ほんとうの朝鮮石」
という説があった [SRC[>>57]] ようですが、
実は近くの石切場のものとみられています [SRC[>>2124]]。
しかも11世紀以降の[[石]]だとされます [SRC[>>2102]]。
*** 人魚塚
[2115]
[[江戸時代]]後期、墓碑銘文の発見前に当地を訪問した[[村井古巌]]と[[司馬江漢]]は、
墓碑を人魚塚・人魚墓と書き残しました。
当時現地でそう呼ばれていたと考えられています [SRC[>>2102, >>2114, >>2]]。
[312]
外部からの訪問者である[[村井古巌]]と[[司馬江漢]]の誤解で、
現地でそう呼ばれていたわけではないとする説もあります。
それによると、
[[村井古巌]]は人魚塚を調査しに行ったため (>>311) 先入観があり、
[[司馬江漢]]は[[村井古巌]]の影響下、
かつ誘導質問で村民に案内させた (>>254)
のだといいます。 [SRC[>>224]]
*** 司馬江漢の訪問
[249]
[TIME[天明8(1788)年8月12日][kyuureki:1788-08-12]]、
[[江戸]]の[[画家]]で[[蘭学者]]の[RUBYB[[[司馬江漢]]][[TIME[1747]]-[TIME[1818]]]]は、
当地を訪問しました。
[251]
[[司馬江漢]]は、
[TIME[天明8(1788)年4月23日][kyuureki:1788-04-23]]に[[江戸]]を発ち、
[[長崎]]に向かいました。
[TIME[寛政元(1789)年4月13日][1789-04-13]]、[[江戸]]に帰着しました。
この間、毎日詳細に写生入り日記をつけていたと思われます。
[SRC[>>224]]
後日[CITE[西遊旅譚]]や[CITE[江漢西遊日記]]としてその様子が出版されました。
[309]
[[司馬江漢]]は、
その中途[[日野]]の豪商中井家に滞在していました [SRC[>>224]] が、
[[小野]]の不動堂と人魚墳を訪れました。
**** [CITE[西遊旅譚]]
[252]
[CITE[西遊旅譚]]
([CITE[西遊旅談]])
は、その旅日記から毎日の行程、見物場所、若干の印象を抜粋し、
多くの写生 (141個の図) を入れ、
寛政6年に木版5巻で刊行したものでした。
[SRC[>>224]]
[504]
序文には
「[V[寛政甲寅五月戊申]]」
([TIME[寛政6(1794)年5月22日][kyuureki:1794-05-22]])
とありました。
[SRC[>>513, >>516, >>512, >>10]]
[505]
[V[巻之五]]最終丁の本文の後には、
>
[VRL[
寛政庚戌四月 門人蘭江平民誌
江漢先生著
]VRL]
... とありました。
[SRC[>>514, >>519, >>507, >>224]]
[TIME[寛政2(1790)年[LINES[庚][戌]]][1790]]4月。
[508] [[国立国会図書館]]本は、
それに続く[[奥書]]に
「[V[[ASIS[享][梯子]]和三年癸亥八󠄃月發行]]」
とありました。
[SRC[>>507]]
[TIME[享和3(1803)年][1803]][LINES[癸][亥]]8月。
[506]
従って本書は[[江戸]]に戻った翌年までにまとめられ、
それから4年で出版されることになったようであります。
少なくても次の版が現存しています。
- [272] [[国立国会図書館]]所蔵[TIME[享和3(1803)年][1803]]刊本 [SRC[>>509]]
-- [522] 人魚塚の図 [SRC[>>524]]
-- [526] 不動堂の図 [SRC[>>525]]
- [273] [[早稲田大学]]所蔵 [[大田南畝]] ([[蜀山人]]) 写1冊 [SRC[>>520, >>224]]
-- [523] 不動堂の図 [SRC[>>521]]
- [274] [[弘前市立図書館]]所蔵 2巻2冊 [SRC[>>224]]
- [275] [[静岡県立中央図書館]]葵文庫 1冊 [SRC[>>224]]
[276] このうち葵文庫本は、他の2本と趣が大きく異なります。
小さな文字でびっしりと筆写され、
挿絵を独立させずに本文中関係する箇所の文の途中に挿入していました。
[SRC[>>224]]
絵柄もオリジナルとかなり違っています。
[HISTORY[
[282]
[CITE[[V[補訂版国書総目録]]]] [V[第三巻]], [TIME[[V[一九九〇年]]][1990]],
[V[六六四ページ]]に
「[V[慶応義塾大学斯道文庫([ASIS[「][アキなし]]西遊」巻二、一冊)]]」
とありました。しかし[TIME[平成8(1996)年][1996]]出版の書籍の原稿執筆時点で、
所蔵されていませんでした。
[SRC[>>224]]
]HISTORY]
[REFS[
- [11] [CITE[[[西遊旅譚]]. 巻之1-5 / '''['''司馬''']'''江漢 著]], [TIME[2020-06-16 20:38:39 +09:00]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_00028/index.html>
-- [513] [CITE[ru03_00028_0001_p0004.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2007-01-09T13:01:27.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:24:20.486Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00028/ru03_00028_0001/ru03_00028_0001_p0004.jpg>
-- [10] [TIME[2007-01-09 22:02:24 +09:00]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00028/ru03_00028_0002/ru03_00028_0002.html>
-- [514] [CITE[ru03_00028_0005_p0020.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2007-01-09T13:02:04.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:25:05.478Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00028/ru03_00028_0005/ru03_00028_0005_p0020.jpg>
- [515] [CITE[西遊旅譚. 巻之1-5 / '''['''司馬''']'''江漢 著]], [TIME[2021-04-03T02:26:58.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_00334/index.html>
-- [516] [CITE[ru03_00334_0001_p0005.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2006-09-16T14:32:59.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:27:23.346Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00334/ru03_00334_0001/ru03_00334_0001_p0005.jpg>
-- [517] [CITE[ru03_00334_0001_p0007.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2006-09-16T14:33:00.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:27:48.824Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00334/ru03_00334_0001/ru03_00334_0001_p0007.jpg>
-- [518] [TIME[2006-09-16T14:32:41.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:29:15.061Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00334/ru03_00334_0002/ru03_00334_0002.html>
-- [519] [CITE[ru03_00334_0005_p0021.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2006-09-16T14:32:12.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:29:47.160Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_00334/ru03_00334_0005/ru03_00334_0005_p0021.jpg>
- [509] [CITE@ja[[[西遊旅譚]] 5巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:19:15.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558222?tocOpened=1>
-- [510] [CITE@ja[[[西遊旅譚]] 5巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:19:45.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558222/3>
-- [511] [CITE@ja[[[西遊旅譚]] 5巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:20:08.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558222/5>
-- [512] [CITE@ja[[[西遊旅譚]] 5巻. '''['''1''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:21:01.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558222/7>
-- [524] [CITE@ja[西遊旅譚 5巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:40:00.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558223/3>
-- [525] [CITE@ja[西遊旅譚 5巻. '''['''2''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:40:00.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558223/4>
-- [507] [CITE@ja[[[西遊旅譚]] 5巻. '''['''5''']''' - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[2021-04-03T02:11:33.000Z]] <https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2558226/20>
- [520] [CITE[西遊旅譚 / '''['''司馬''']'''江漢 [著]]], [TIME[2021-04-03T02:30:34.000Z]] <https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ru03/ru03_01691/index.html>
-- [521] [CITE[ru03_01691_p0023.jpg (JPEG 画像, 2592x1728 px) — 表示倍率 (36%)]], [TIME[2006-09-16T14:38:09.000Z]], [TIME[2021-04-03T02:32:27.680Z]] <https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru03/ru03_01691/ru03_01691_p0023.jpg>
]REFS]
-*-*-
[12]
本書の[TIME[天明8(1788)年8月12日][kyuureki:1788-08-12]]条には、
次のようにありました。
- [254] 本文に、
「西の方不動堂有。堂のかたハらに八方の墳あり。是人魚墳なり」
とありました。
[VRL[
小野村と云フに至ル。[SNIP[]]夫より田婦案内して人魚塚を見ンとて行ク事四五町、路の傍ラに四角なる塚ヲ指し示ス。
吾聞クに六角なりと云ニ、亦一人老婦の来りて、爰ヨリ西の方不動堂の前にありと教ル。行キ見ルに小サキ草ふきの堂アリ。ガマの大樹アリて、其傍ラ六角の塚アリ。
是人魚ツカなり。
]VRL]
[SRC[>>224]]
- [255]
不動堂とその前の石灯篭1基、八角石柱を描いた絵がありました。
[SRC[>>10, >>261]]
-- [256] 石柱は内部に文字は書かれていませんでした。
石柱右横に
「[V[人𩵋墳]]
[V[是[CURSIVE[なり]]]]」、
石柱左横に
「[V[文字]]
[V[不[SUB[レ]]見]]」
とありました。
[SRC[>>10, >>261]]
- [257]
石柱のみを描いた絵がありました。
[SRC[>>10, >>260]]
-- [258]
石柱前面には上から下に「[V[一尺一寸余]]」、
台座前面には右から左に「[V[一尺三寸]]」とありました。
[SRC[>>10, >>260, >>262]]
--- [264] 葵文庫本では石柱の右側にも「[V[一尺一寸余]]」とありました。
[SRC[>>262]]
-- [263] 石柱右上に
「[V[人魚墳]]
[V[八方なり]]
[V[文字]]
[V[あれども]]
[V[見𛂹𛁑゙]]」
とありました。
[SRC[>>10, >>260]]
--- [277] 葵文庫本では石柱の下側に
「[V[文字あれ]]
[V[とも見へ]]
[V[す]]」
とだけありました。 [SRC[>>262]]
- [259]
どちらの図も、
石柱の下には直方体の台座の石板らしきものが描かれていました。
[SRC[>>10, >>260, >>261, >>262]]
- [260] 写生図のうち、人魚墳とその左隣の石碑部分の抜粋 [SRC[>>224 p.80 図10 ([CITE[[V[司馬江漢全集]]]] [V[第一巻]])]]
- [261] 不動堂を描いた写生図 [SRC[>>224 p.80 図11 ([CITE[[V[司馬江漢全集]]]] [V[第一巻]])]]
- [262] 人魚墳の図 [SRC[>>224 p.80 図12 ([[静岡県立中央図書館]]葵文庫本 >>275)]]
[271] 人魚墳の注釈が「文字不見」と「文字あれども見えず」で少しく異なります。
全体図ではスペースの都合で省略し、拡大図では詳細に書いたに過ぎず、
同義と考えられます。 [SRC[>>224]]
**** [CITE[江漢西遊日記]]
[253]
[CITE[江漢西遊日記]]
は、
[CITE[西遊旅譚]]
を全編にわたって増補改訂したものでした。
全文が清書し直され、
挿絵 (62個の図) を全面的に描き改めていました。
[SRC[>>224]]
最終丁の本文の後には、
「[V[文化乙亥三月]]」
とありました。
[SRC[>>13 コマ6, >>224]]
[TIME[文化12(1815)年[LINES[乙][亥]]][year:1815]]3月。
[14]