/
456.txt
131 lines (99 loc) · 5.75 KB
/
456.txt
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
[4]
[DFN[神亀]] ([DFN[神龜]]) は、
[[日本の元号]]の
1つです。
* 白亀
[5] [DFN[白亀]]
([DFN[白龜]])
は、[[神亀]]の誤記とされる[[異年号]]です。
[8]
[[神亀]]は[[白亀]]を[[祥瑞]]とする[[元号]]でした。
これをそのまま[[元号名]]とみたものでしょうか。
[19]
[[読み][元号の読み方]]は「はくき」
とするものがあります [SRC[>>18]]
が、根拠は不明です。
[10]
[CITE[旧唐書]]
の[[遣唐使]]の記事に、
「白亀元年」
とありました [SRC[>>7]]。
[CITE[新唐書]]
に、
[[聖武天皇]]が[[即位]]して[[白亀]]に[[改元]]したとありました [SRC[>>9]]。
[6]
[CITE[古事類苑]] の
[CSECTION[[[逸年號]]]]
の項には収録されませんでした。
[[久保常晴]]の
[CITE[日本私年号の研究]]
でも言及されませんでした。
[13]
いくつかの[[私年号]]の一覧表は、
[[白亀]]を収録しました。 [SRC[>>12, >>11]]
[[私年号]]として扱うべき根拠は定かではありません。
[SEE[ [[私年号]] ]]
[17] その他いろいろ自説を展開する人も見られるようです。
[SRC[>>14, >>15, >>3, >>16]]
[REFS[
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] [CITE@zh[[[舊唐書]]/卷199上 - 维基文库,自由的图书馆]]
([TIME[2020-02-18 01:56:27 +09:00]])
<https://zh.wikisource.org/wiki/%E8%88%8A%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7199%E4%B8%8A#%E6%97%A5%E6%9C%AC>
]FIGCAPTION]
> 開元初,又遣使來朝,因請儒士授經。詔四門助教趙玄默就鴻臚寺教之。乃遺玄默闊幅布以爲束修之禮。題云「白龜元年調布」。人亦疑其偽。所得錫賚,盡市文籍,泛海而還。其偏使朝臣仲滿,慕中國之風,因留不去,改姓名爲朝衡,仕曆左補闕、儀王友。衡留京師五十年,好書籍,放歸鄉,逗留不去。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[9] [CITE@zh[[[新唐書]]/卷220 - 维基文库,自由的图书馆]]
([TIME[2020-02-18 01:56:27 +09:00]])
<https://zh.wikisource.org/wiki/%E6%96%B0%E5%94%90%E6%9B%B8/%E5%8D%B7220#%E5%80%AD%EF%BC%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC>
]FIGCAPTION]
> 文武死,子阿用立。死,子聖武立,改元曰白龜。開元初,粟田復朝,請從諸儒受經。詔四門助教趙玄默即鴻臚寺爲師,獻大幅布爲贄,悉賞物貿書以歸。
]FIG]
]REFS]
- [2] [CITE[[[比古婆衣]]]],
[CITE@ja[[[伴信友]]全集. 第4 - 国立国会図書館デジタルコレクション]]
([TIME[1907-1909][year:1909]])
<http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991315/167>
-- <https://dl.ndl.go.jp/view/pdf/digidepo_991315.pdf?pdfOutputRanges=167-168&pdfOutputRangeType=R&pdfPageSize=>
- [12] [CITE[[[私年号]]一覧表]], [TIME[2001-01-17 03:06:39 +09:00]] <http://kitabatake.world.coocan.jp/rekishi12.html>
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[11] [CITE@ja[[[私年号]] - Wikipedia]], [TIME[2020-02-24 17:29:22 +09:00]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%81%E5%B9%B4%E5%8F%B7#%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%B9%B4%E5%8F%B7_2>
]FIGCAPTION]
>
,*私年号 ,*異説 ,*元年相当公年号(西暦) ,*継続年数 ,*実例・備考
,(白亀) ,- ,神亀元年(724年) ,不明 ,『旧唐書』倭国日本国伝。公年号「神亀」の誤認。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[14] [CITE[276 大崎=水俣市浜([[熊本県]])こいのぼりの泳ぐ水俣川の河口右岸に桜の岬:でんでんむしの岬めぐり:SSブログ]],
2008-06-17 06:47,
[TIME[2020-02-27 16:10:44 +09:00]] <https://dendenmushimushi.blog.ss-blog.jp/2008-06-17>
]FIGCAPTION]
>水俣大橋のひとつ上流の幸橋の袂に喫茶店があったので、そこに入って一休み。上品な年配のご婦人がひとりでやっているらしい。喫茶店の白い窓の向こうに文化会館が見える。その前にあった石の亀の像について聞くと、なんでも白い亀がここで見つかって縁起がいいというので都に献上したという。その人も、詳しくは知らなかったらしいが、それだけ聞けば想像はつく。「白亀」という年号も、700年頃にはあったはずだ。ただし、それは「私年号」というやつで、年表には出ていない。当時は、そういうのが亀以外にもあちこちいっぱいあって、しょっちゅう年号を変えていた。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[15] [CITE@ja[百済の前方後円墳(6)『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号 : ひもろぎ逍遥]], [[lunabura]],
2012年 05月 31日,
[TIME[2020-02-27 16:14:32 +09:00]] <https://lunabura.exblog.jp/18039316/>
]FIGCAPTION]
>参考にした本では「写し違いだ」と簡単に片づけてありましたが、
中国側はわざわざ「疑った」と話題にしているのです。
日本国は現在伝わる年号と違う年号を持っていたと考える方が合理的でしょう。
そう簡単に写し違いにするのはもったいないですね。
]FIG]
- [3] [CITE@ja[万葉雑記 色眼鏡 五十八 [[白亀元年]]調布の礼 - 竹取翁と万葉集のお勉強]],
2013年12月21日,
[TIME[2020-02-27 15:17:29 +09:00]] <https://blog.goo.ne.jp/taketorinooyaji/e/2bc1b6535a5aefdf741d70b423bc3222>
- [16] [CITE@ja[いわゆる「[[白亀元年]]調布」について - Togetter]], [TIME[2020-02-27 16:18:12 +09:00]] <https://togetter.com/li/720920>
- [18] [CITE[日本古代史つれづれブログ [[新唐書]]日本伝を読む その6(最終回) ~ 大和朝廷(日本国)の本当の始まり]], [[青松光晴]],
2015-10-01(19:23),
[TIME[2020-02-27 16:22:22 +09:00]] <https://aomatsu123.blog.fc2.com/blog-entry-47.html>
* メモ
[1] [CITE@ja[神亀 - Wikipedia]]
([TIME[2020-02-13 11:25:57 +09:00]])
<https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E4%BA%80>