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998
999
1000
[3] [[日本国]][[滋賀県]][[蒲生郡]][[日野町]][[[RUBY[小][こ]][RUBY[野][の]]][小野]]304に、
[DFN[鬼室神社]]があります。
[15]
[[白村江の戦い]]の折[[日本]]に[[帰化]]した[[百済人]]王族の[[鬼室集斯]]が合祀されています。
* 呼称
[649]
[[江戸時代]]には[DFN[西宮]] [SRC[>>41, >>670]]、
[DFN[不動]] [SRC[>>41]] ([DFN[不動の祠]] [SRC[>>670]],
[DFN[不動堂]] [SRC[>>2124]]) と呼ばれていました。
;;
[1192]
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]によると、
[[本地仏]]として[[不動明王]]を祭っていたので、
[[不動]]というのが普通になっていました。
[SRC[>>41]]
[679]
[[明治時代]]の[[神仏分離]]により[DFN[西宮神社]]と改称しました。 [SRC[>>670, >>2124]]
[798]
[TIME[昭和30(1955)年11月][1955-11]]、
[[鬼室神社]]に改称しました。
[SRC[>>2124, >>23]]
* 立地
[1146]
[[小野]]の中心集落から西方に少し離れた位置にあります。
[NOTE[
[642]
現在の[[日野町]]は、
[[昭和の大合併]]で旧[[日野町]]、
[[西大路村]]、
[[東桜谷村]]などが統合されて成立しました。
[[東桜谷村]]は、
[[藩政村]]の[[小野村]]、[[中之郷村]]などが[[明治時代]]に統合されたものでした。
[643]
[[江戸時代]]、
この地域は多くの[[藩]]に分割されて統治されていました。
- [645] [[西大路村]]には[[西大路藩]]がありました。
[[西大路]]は、
[TIME[文久2(1862)年][1862]]の改称までは、
[[仁正寺]]と呼ばれていました。
- [646] [[小野村]]は、
[[伴信友]]の時代 [SRC[>>41]] および[[幕末]] [SRC[>>644]] に[[宮津藩]]領でした。
-- [648]
[TIME[天正4(1576)年][1576]]に[[西明寺村]]から分かれました [SEE[ [[小野村]] ]]。
[[西明寺村]]は[[明治時代]]に[[西大路村]]に統合されました。
- [769]
[[中之郷村]]は、
[[明治時代]]に[[桜谷村]]を経て[[東桜谷村]]に統合されました。
[[幕末]]時点で幕府領 ([[大津代官所]]管下) でした。
[SRC[>>644]]
- [647]
[CITE[江漢西遊日記]]は人魚塚の地を[[仙台藩]]領と書いていました [SRC[>>572]]
が、その次に訪れた[[石塔村]]と取り違えたのかもしれません。
[REFS[
- [644] [CITE@ja[[[蒲生郡]] - Wikipedia]], [TIME[2021-04-04T04:29:06.000Z]], [TIME[2021-04-04T12:16:02.612Z]] <https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E7%94%9F%E9%83%A1#%E8%BF%91%E4%B8%96%E4%BB%A5%E9%99%8D%E3%81%AE%E6%B2%BF%E9%9D%A9>
]REFS]
]NOTE]
- [1254] [TIME[平成27(2015)年][2015]]付[[ブログ]]記事の写真:
境内の森の遠景 [SRC[>>1250]]
-*-*-
[191]
[[小野]]の集落形成については[[小野村]]参照。
[375]
[[奈良時代]]前後の墳墓地は、
丘陵の末端に位置し、
前面に広い平地を望み、
左右は丘陵に擁せられ、
後方に山を負っているのが通例で、
しかも前面が南方に当たる場合が多いとされます。
[SRC[>>360 ([CITE[日本古代遺跡の研究]] 論考編, [[斉藤忠]], [TIME[[V[一九七六年]]][1976]])]]
[376]
一方で当地は、
山間の小[[扇状地]]の田地の中央で、[[前川]]に望んでおり、
社殿および[[鬼室集斯墓碑]]は、集落との関係か、東方を向いています。
そのため[[奈良時代]]前のものとするには不自然と考えられています。
[SRC[>>360]]
-*-*-
[244]
[[日野町]][[小野]]の[[[RUBY[石][いし]][RUBY[小][こ]][RUBY[山][やま]]][石小山]]は、
[[鬼室神社]]のある谷の南側にある[[山]]です。
北側中腹、[[鬼室神社]]から見て南東側に通称「石切場」
なる地があり、採掘跡が残されていました。
[SRC[>>224, >>2124 ([CITE[東櫻谷志]])]]
(>>224, >>2124 に[[地図]]あり。)
-*-*-
[1102]
この近辺には[[人魚伝説]]の他、
[[聖徳太子]]、
[[鬼室集斯]]、
[[菅原道真]]、
[[惟喬親王]]、
[[蓮如]]といった貴人に纏わる伝承が多いようです。
[1103]
しかも[[聖徳太子]]、
[[鬼室集斯]]、
[[菅原道真]]という[[日本]]を代表する学者達が[[小野村]]を訪れたことになっているのは、
大変興味深いものです。
** 周辺の地名
[404]
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]は、
所在地を
「[V[小野村西明王寺林]]」
と書いていました。
[SRC[>>625]]
[652]
[[江戸時代]]時点で、
[[封戸]]が1烟あったと言われていましたが、
「封戸屋敷」という[[地名]]が残るだけでした。
[SRC[>>41]]
[665]
[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>76]] の地図によると、
[[鬼室神社]]から見て南西側に少し離れた山の麓の当たりを指すようです。
[1147]
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]頃の由緒が引く創建の沿革は、
御鎮座一帯を佐平海道(一名西海道)といい、
集斯田(神主田)の神田もあると書いていました。
[SRC[>>1133]]
([[佐平]]は[[鬼室集斯]]の[[百済]]官位。)
[688]
[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>76]] の地図によると、
[[鬼室神社]]から見て北東側が
「[V[西ノ海道]]」、
西側が「[V[堂後]]」、
南東側が「[V[堂前]]」
と呼ばれていました。
堂前より更に東側、集落の南西に「[V[堂田]]」がありました。
[V[堂後]]より更に西側、
封戸屋敷から見て北西に「[V[佛生]]」がありました。
;; [726] [[小野]]の集落中心側、上流側が「前」だったようです。
社殿の向きと合致します。
;; [728] 同地図によると、同じ[[東桜谷]]地域の少し離れた[[杉村]]にも
「[L[西海道]]」がありました。
そちらの近くには「[L[陸海道]]」や「[L[朝鮮屋敷]]」
という小地名もありました。
** 近隣の案内
[872]
[[平成時代]]時点で、
付近に[[近江鉄道]] (バス) の[DFN[鬼室神社前]][[バス停]]がありました
[SRC[>>22]]。
[824]
神社近くの[[村道]]には、
「[L[鬼室神社]]」
と[[日本語]]と[[韓国語]]を併記し方向を示した看板がありました。
[[平成時代]]初頭の姉妹都市締結以後の設置と思われます。
- [876] [TIME[平成18(2006)年][2006]]時点の写真 [SRC[>>20]]
- [1251] [TIME[平成27(2015)年][2015]]付[[ブログ]]記事写真 [SRC[>>1250]]
- [880] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [877] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]
[904] 他の位置にもあったようです。
- [905] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
[1018] 他の位置にもあったようです。
- [1019] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真 [SRC[>>1017]]
[878]
近くの道路には、
「[L[鬼室神社]]」
と[[日本語]]と[[韓国語]]を併記し方向を示した[[道路看板]]がありました。
[[平成時代]]初頭の姉妹都市締結以後の[[道路管理者]]による設置と思われます。
- [879] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [1013] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>1010]]
- [903] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
[970]
[[平成時代]]時点で、道中に
「老若男女[ASIS[で][>>1017 が]]気さくに話が弾む鬼室様の里」
の看板がありました。
[SRC[>>969, >>1017]]
* 入口
[464]
神社入口の右側には、
「[V[鬼室神社]]」の石碑がありました。
[SRC[>>89, >>20]]
社名変更時に設置されました (>>891)。
- [1020] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真 [SRC[>>1017]]
- [852] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [881] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [906] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
- [1014] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の入口付近全体写真 [SRC[>>1010]]
- [874] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [912] [TIME[平成30(2018)年][2018]]時点の写真 [SRC[>>901]]
- [851] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真, 東屋との位置関係がわかる [SRC[>>841]]
-*-*-
[823]
神社入口の左側には、
[CITE[鬼室神社]]
と題した[[日本語]]と[[韓国語]]の併記の案内看板がありました。
[[日野町国際親善協会]]名の看板でした。
[[姉妹都市]]交流について記載があり、
[[平成時代]]初頭の締結以後の設置です。
- [853] [TIME[平成18(2006)年][2006]]時点の写真 [SRC[>>20]]
- [854] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [911] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
- [882] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点のテキスト [SRC[>>23]]
- [874] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [914] [TIME[平成30(2018)年][2018]]時点の写真 [SRC[>>901]]
- [867] [TIME[令和元(2019)年][2019]]時点の引きの写真 [SRC[>>32]]
** 国際交流広場
[937]
神社横には
「国際交流広場」
と称する空間があります。
[[大韓民国]]の建築様式の[[東屋]]が設置されています。
[[平成時代]]に[[姉妹都市]]交流の関係で整備されました (>>1095)。
-*-*-
[1094]
[[東屋]]には、
「[R[集斯𠅘[TATE[百済後人]]]]」
の扁額が掲げられていました [SRC[>>841]]。
[902] 屋根内側に寄付者の名前がありました。
[SRC[>>79]]
[843]
[[百済後人]]は何者か不明です。
「その名のとおり、朝鮮半島にルーツを持つ人物でしょう」
と書く [[Webページ]]もありますが [SRC[>>841]]、
その根拠は不明です。
- [850] 未建設の[TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の様子がわかる写真 [SRC[>>25]]
- [1303] [TIME[平成21(2009)年][2009]]の竣工直後のアップ写真 [SRC[>>51]]
- [847] [TIME[平成25(2013)年][2013]]時点の写真 [SRC[>>735]]
- [883] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>23]]
- [907] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>79]]
- [1093] [TIME[2015-08]]に[[大韓民国]]から訪問した中学生の写真 [SRC[>>1090]]
- [908] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [848] [[平成時代]]の写真 [SRC[>>846]]
- [913] [TIME[平成30(2018)年][2018]]時点の写真 [SRC[>>901]]
- [849] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]
[REFS[
- [735] [CITE@ja[[[日本書紀]]に記された日本初の[[人魚伝説]]を追え!]],
2013年6月24日,
[TIME[2017-06-17T10:17:24.000Z]], [TIME[2021-04-09T09:40:04.004Z]] <http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/post_225.html>
- [1090] [CITE[201509yuukounowa45.pdf]], [TIME[2018-04-03T09:16:21.000Z]], [TIME[2021-05-17T07:29:16.395Z]] <http://www.town.shiga-hino.lg.jp/cmsfiles/contents/0000002/2155/201509yuukounowa45.pdf#page=2>
]REFS]
-*-*-
[885]
広場には、
「日野町国際親善協会・大字小野」名の解説看板がありました (>>1011)。
[SRC[>>884]]
- [884] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点のテキスト [SRC[>>23]]
-*-*-
[836]
広場かその近辺と思われる場所に、
「[V[姉妹都市提携]]」の「[V[記念植樹]]」
として、
「[V[大韓民国国花]]」の「[V[ムクゲ]]」
とそれを案内する木製看板がありました。
[SRC[>>27]]
国際交流広場設置時 (>>1095) のものでしょうか。
[844]
境内と見られる場所に、
「[V[滋賀県韓国商工会議所]]
[V[西紀一九九八年十一月吉日]]」
銘の記念碑がありました。
[SRC[>>841]]
[WEAK[([TIME[平成10(1998)年11月][1998-11]])]]
;;
[845]
[[西紀]]は[[西暦]]の意味で、
[[韓国語]]では現役ですが[[平成時代]]の[[日本語]]としては不自然さが拭い去れません。
当時の[[在日韓国人]]の間では[[西紀]]が普通に使われていたのでしょうか。
- [1004] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]
* 石灯篭
[1126]
社殿前に[[江戸時代]]の石灯篭が2基、
石祠横 (>>709) に[[明治時代]]の石灯篭が1基あるようです。
各時代の記録はどれも断片的で、
増減がわかりにくいです
(何々があったと書いても、それ以外にないとは書かれていないことに注意)。
-
[706]
[[江戸時代]]、
[[石灯篭]]が1基ありました [SRC[>>249]]。
-
[658]
[[江戸時代]]後期、
普通の石灯篭が1基ありました。
「奉寄室徒中元禄四辛未年五月吉日」
とありました。
[SRC[>>41]]
-
[682]
[[大正時代]]、
「元禄四辛未年五月吉日」
銘の石灯篭がありました。
[SRC[>>670]]
-
[211]
[[昭和時代]]、
社殿の前に石灯篭が2基ありました。
うち1基の竿部裏面に
「[V[奉寄進室徒中]]」 [SRC[>>113, >>90]]、
左に
「[V[元禄四[SUP[辛]][SUB[未]]年]]」、
右に
「[V[五月吉日]]」
とありました。
[SRC[>>90]]
-- [TIME[元禄4(1691)年[LINES[辛][未]]][1691]]5月。
- [1128]
[[昭和時代]]後期、
元禄4年建立の2基があり、
「[V[元禄四辛未年五月吉日 奉寄進室徒中]]」
とありました。
[SRC[>>76 pp.323-324]]
-- [1148] 「[V[元禄四辛未年五[ASIS[日]]]]」 [SRC[>>76 p.571]]
-- [1129]
[[小野]]の氏神[[天神社]]にも元禄4年建立の2基があり、
「[V[元禄辛未年五月吉日 室徒中]]」
とありました。
[SRC[>>76 pp.323-324]]
-
[806]
[[平成時代]]初期、
「元禄四辛未年五月吉日」
銘の石灯篭、
「明治四十一年」
銘の石灯篭がありました。
[SRC[>>2124]]
[855]
[[平成時代]]の写真によると、
境内には社殿の他に手水舎、鳥居、石灯篭2基などがありました。
- [1130] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真: 灯篭のみ, 銘文見えない [SRC[>>76 p.322]]
- [1131] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真: 社殿一部、石灯篭1基、鳥居一部 [SRC[>>76 p.569]]
- [873] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [1253] [TIME[平成27(2015)年][2015]]付[[ブログ]]記事の写真:
鳥居、灯篭1基、社殿 [SRC[>>1250]]
* 社殿
[820]
[[社殿]] ([[拝殿]] [SRC[>>113]]) は[[江戸時代]]中期頃には既に存在し、
現在も存在します。
その間少なくても1度は建て替えられたようです。
([[棟札]] >>194)
-*-*-
[582]
[[江戸時代]]、
草葺の不動堂 (社殿) がありました [SRC[>>549]]。
草葺で、
2間四方ないし2間×1間半でした
[SRC[>>2124 ([CITE[江漢西遊日記]], >>795)]]。
-*-*-
[707]
[[昭和時代]]中期、
東面した社殿がありました。
[[鬼室集斯]]の廟とされていました。
[SRC[>>2104]]
[799] [[平成時代]]初期時点で社殿は瓦葺、
2間半四方でした。
[SRC[>>2124]]
[888]
[[平成時代]]時点で、
社殿内部には写真が2枚掲げられていました。
[[大韓民国]][[国立扶餘博物館]]所蔵の
[CSECTION[韓国扶餘陵山里出土 百済金銅大香爐]],
[CSECTION[金銅弥勒菩薩半跏思惟像]]
とされていました。
[SRC[>>889]]
[758]
[[平成時代]]時点で、
社殿には[[芳名帳]]が置かれていました (>>971)。
- [1021] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真、社殿や鳥居や石灯篭の位置関係がわかる [SRC[>>1017]]
- [952] 社殿前で[[大韓民国]]との交流イベントの写真、[[平成時代]]中頃か [SRC[>>949]]
- [974] [TIME[平成18(2006)年][2006]]頃の社殿前の写真、鳥居や石灯篭の位置関係がわかる
[SRC[>>973]]
- [934] [[平成時代]]中頃社殿周辺の写真 (団体訪問客?) [SRC[>>933]]
- [889] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の社殿内掲示パネルの写真 [SRC[>>23]]
- [910] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の正面写真 [SRC[>>79]]
- [863] [[平成時代]]時点の内側の写真 [SRC[>>29]]
- [862] [TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真, 外側・内側 [SRC[>>841]]
* 祭神と祭礼
[678]
[TIME[正長2(1429)年][1429]]の不動堂建設以来 (>>655)、
[[明治時代]]の[[神仏分離]]まで、
[[不動明王]] ([[不動尊]] [SRC[>>113]]) を祭っていました。
[SRC[>>670, >>2124]]。
[[江戸時代]]に当神社・社殿を[[不動堂]]・[[不動]]と呼んでいたのはそれによります。
[1193]
[[不動明王]]像が祀られていたともされますが (>>887)、
[[神仏分離]]後の所在は不明です。
-*-*-
[680]
[[明治時代]]初期の[[神仏分離]]で[[西宮神社]]となってから[[昭和時代]]中期の社名改称まで、
[[軻遇突智命]]を[[祭神]]としました
[SRC[>>670]]。
[1194]
当神社の真の[[祭神]]が[[軻遇突智命]]で[[本地仏]]が[[不動明王]]という設定が以前からあったのか、
分離時に決められたのかは不明です。
[938]
[[昭和時代]]中期の改称以後、
[[訶遇突智命]]は[[祭神]]から消えてしまっているようです
[SRC[>>933]]。
[[合祀]]でなく追い出してしまうのって、
ありなんでしょうか?
-*-*-
[797]
[TIME[昭和30(1950)年][1955]]、
社号の[[変更登記]]があって[[鬼室神社]]となりました [SRC[>>76 p.569]]。
[TIME[昭和30(1955)年11月][1955-11]]、
[[祭神]]が[[鬼室集斯]]となりました
[SRC[>>2124]]。
これ以後[[鬼室神社]]の[[祭神]]は[[鬼室集斯]]のみとされているようです
[SRC[>>933]]。
[1196]
これ以前も[[鬼室集斯]]が[[祭神]]と説明されていたようですが、
実際には[[不動明王]]が祀られているので、
不安定な位置だったようです。
- [1198]
[[近世]]初期およびそれ以前の状況を示す確実な記録は残っていません。
- [365]
[[江戸時代]]中期頃の[[西生懐忠]]らは、
[[祭神]]は[[鬼室集斯]]だとしていました [SRC[>>362]]。
-
[654]
[[江戸時代]]後期の[[伴信友]]は、
当時[[不動]]と呼ばれていたものの実は[[鬼室集斯]]を祭っていたと村民の記録に残っていた、
として[[祭神]]は[[鬼室集斯]]だとしていました [SRC[>>41]]。
-
[1197]
[[江戸時代]]後期の調査で、
[[祭神]]は[[鬼室集斯]]でその[[本地仏]]が[[不動明王]]とされていました (>>748, >>804)。
-
[1002]
[[明治時代]]初期の[[神仏分離]]では、
なぜか[[鬼室集斯]]が[[祭神]]とされませんでした [SRC[>>2]]。
-
[990]
[TIME[明治36(1903)年][1903]]、
[[鬼室集斯]]が[[祭神]]の1つとして[[合祀]]されたとされます [SRC[>>986]]。
--
[2116]
[[明治時代]]にこの[[神社]]に[[鬼室集斯]]が合祀されたと説明されました
[SRC[>>2102, >>2114, >>52]]。
--
[991]
[[大正時代]]時点で、
[[神仏分離]]より後に[[鬼室集斯]]を合祀したとされていました
[SRC[>>670]]。
--
[74]
[[江戸時代]]に既に[[鬼室集斯]]が祭られていたことになっていたのに、
このときまた合祀されたというのは謎です [SRC[>>2]]。
-
[1199]
[TIME[昭和30(1950)年][1955]]、
[[祭神]]が[[鬼室集斯]]に変更されました。
[825]
[[平成時代]]時点で、学業の神とされているようです。
[SRC[>>20]]
[1022]
地元で「鬼室王」と呼ばれる [SRC[>>1017]]
とされますが、根拠は不明。歴史的に正しいかも不明。
[1195]
地元の看板には「鬼室様」と書かれていました (>>970)。
-*-*-
[729]
[[鬼室神社]]の祭礼は毎年11月8日です。
-
[653]
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]らや[[伴信友]]によると、
[[旧暦]]11月8日でした [SRC[>>41, >>362]]。
-
[438]
「古く」は毎年11月8日でした。
[SRC[>>57, >>437]]
-
[759]
[[昭和時代]]後期、
農繁期という理由で毎年10月8日に行っていました。
[SRC[>>57]]
-
[807]
[[平成時代]]初期、
毎年[TIME[11月8日][--11-08]]でした。
[SRC[>>2124]]
-
[760]
[[平成時代]]初期のその後、
毎年11月第1日曜日に変更されていました。
[SRC[>>437, >>1017]]
[940]
[[平成時代]]時点で、[DFN[鬼室祭]]と称していました
[SRC[>>933]]。
[[鬼室集斯]]の命日の祭と地元の人々に認識されていました [SRC[>>1017]]。
[49]
[[伴信友]]の時代には毎年恒例行事となっていたようですが、
それがいつから続くものかは不明です。
また[[鬼室集斯]]の命日との認識がいつ生まれたものか、
途切れず継続したものかも不明です。
[953]
[[平成時代]]中頃時点で、
[[大韓民国]]の[[姉妹都市]]からの使節団が参加するようになっていました。
[SRC[>>949]]
;; [439] 祭祀の詳細と担当者については[[室徒]]参照。
* 伝鬼室集斯墓
[2113]
[[鬼室神社]]境内に、
[[鬼室集斯]]墓とされる八角石柱があります。
[SRC[>>2102, >>2114]]
[62]
この石柱は偽作とされますが、
一部に真作説が[[江戸時代]]から現在まで続いているようです。
話をややこしくしているのは、
死亡直後の真作説と新しい時代の偽作説の中間の、
[[中世]]に子孫 (と主張する人々) が供養のために作った本物だとする折衷案的主張があるのに、
本物か偽物かの2分論で語られることが多いことのようです。
つまり「中世 (ないし近世) に作られた」という主張でも、
その背景の理解により真作説とも偽作説とも分類し得るのです。
また、
本物の墓なのかどうか、
本物の墓碑なのかどうか、
銘文がいつ作られたのか、
銘文がいつ彫られたのか、
本当の子孫なのかどうか、
祭祀が途切れず続いたのかどうか、
など論点が多い上に
(真の子孫ではないが本当だと信じて中世に作った、
という「真作」もあり得ます)、
[[日朝関係]]や観光利用のような[[政治的思惑][政治的理由]]が交錯しています。
** 石柱の位置
[711]
[[江戸時代]]の[[司馬江漢]] (>>249) の図や古城図 [SEE[ [[淡海温故録]] ]] では、
手前側に川 (右が上流)、奥側に神社が描かれ、
墓碑は社殿の左前側に描かれていました。
この図が当時の配置をどの程度忠実に描いたものかは不明です。
[126]
[[明治時代]]まで、墓碑は風雨に晒されていました。
[SRC[>>90 (>>95 写真), >>2124]]
[[明治時代]]に社殿裏手に石祠が整備されて収納されました (>>709)。
以後現在地にあります。
石祠が元の石柱の位置のままなのかは不明です。
[1026]
石柱は研究のため石祠からたびたび取り出されていました。
[[江戸時代]]にも調査のため持ち出されたことがありました (>>92)。
当時から現在まで、移動は困難ではないようです。
[470]
[[平成時代]]初期時点で、当地の発掘調査は行われていませんでした。
[SRC[>>360]]
墓碑に関する議論は多いですが、
墓碑が設置された土地の性格 (>>376)
はほとんど言及されることがないようです。
墓碑それ自体が象徴的に信仰されたものなのか、
あるいは本来この位置に意味があったのかは、
明らかではありません。
** 石祠および周辺
[709]
[TIME[明治36(1903)年][1903]]頃からの[[鬼室集斯]]顕彰熱の高まりで、
墓碑周辺が整備されました (>>129)。
- [686]
社殿の西側 (後方) に新たに石祠 (石室、石龕、神祠) が設置されました。 [SRC[>>113]]
-- [710]
[[紀年銘]]はありませんでした。
[SRC[>>90]]
-- [398]
[[石小山]]産の石材が使われました。
[SRC[>>90]]
- [1200]
墓碑は石祠に収容されました。
- [1201]
石祠を囲む長方形のエリアに石の玉垣が作られました。
[SRC[>>113, >>2104]]
-- [398]
[[石小山]]産の石材が使われました。
[SRC[>>90]]
-- [397]
「[V[明治四十一年八󠄂月]]」
[SRC[>>1080 p.39, >>90]],
「[V[小野 辻久次良]]」
[SRC[>>90]]
(「[L[辻󠄂久次良]]」 [SRC[>>1080 p.39]]),
「[V[西大路向町 辻吉之助]]」
[SRC[>>90]],
「[L[辻󠄂世之助]]」
[SRC[>>1080 p.39]]
とありました。
-- [708]
玉垣エリアの北方に石祠があり、
南方に1株の杉の大木がありました。
[SRC[>>2104]]
- [1202]
近くに石灯篭が設置されました。
--
[1149]
「[V[明治四十一年七月]]」
とありました
[SRC[>>76 p.571]]。
- [396] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真 [SRC[>>1080 p.39]] 石祠、石灯篭など
- [1132] [CITE[東桜谷志]]所収白黒写真 [SRC[>>76 p.570]] 石祠正面
- [1023] [TIME[平成17(2005)年][2005]]頃の写真 [SRC[>>1017]]
- [826]
石祠とその前の石灯篭の位置関係がわかる写真
([TIME[平成18(2006)年][2006]]) [SRC[>>20]]
- [935] [[平成時代]]中頃の写真 [SRC[>>933]]
- [975] [TIME[平成18(2006)年][2006]]頃の写真 [SRC[>>973]]
- [860] 社殿、石祠、石灯篭の位置関係がわかる[TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [737]
石祠と玉垣の位置関係がわかる写真 ([TIME[平成25(2013)年][2013]]) [SRC[>>735]]
- [895] [TIME[平成27(2015)年][2015]]頃入手パンフレット掲載の写真 [SRC[>>893]]
- [892] [TIME[平成27(2015)年][2015]]頃の写真 [SRC[>>23]]
- [875] [TIME[平成28(2016)年][2016]]時点の写真 [SRC[>>22]]:
社殿と石祠の位置関係がわかる
- [842]
石祠の[TIME[平成31(2019)年][2019]]時点の写真 [SRC[>>841]]
-*-*-
[39]
石祠は普段は閉じられています。
[713]
[TIME[昭和13(1938)年][1938]]に研究者が訪れた際には、
石祠前方の石扉を開けようとしましたが、
案内人や車の運転手を動員しても開かず、
地元民が試しても開かず、
重い屋根石を持ち上げるとようやく扉も開きました。
[[明治時代]]に石祠を作ってから、
ずっと開いたことがなかったようです。
[SRC[>>2104]]
その後は[[平成時代]]までしばしば研究者らが開いて墓碑を見ているようですが、
苦労したと書いたものは見当たりません。
頻繁に開けてメンテナンスするようになったのでしょうか。
;; [714] なおこの地元民とは区長、氏子総代、宮守 (神主) らとされます。
[SRC[>>2104]] 明治36年頃に造立した、それから開いていない、
と書いているのが地元民らから直接聞いたことなのか、
他の資料や推測によるものなのか、文面から明瞭ではありません。
[730]
なお[TIME[明治44(1911)年][1911]] (>>689)
や[[大正時代]]初期 (>>780)
に拓本を採った記録がありました。
;; [71]
それにしても30年間、確認や手入れもせずまったく開帳の機会がなかったのでしょうか。
11月8日の例祭はこの時代も続いていたのでしょうか。
そのときに特に何か儀式はなかったのでしょうか。
;; [738]
長年屋外で放置されていたのですから、そんなものなのかもしれませんが...
11月8日が命日の祭と知られていたなら、
墓標を見えない所に隠したまま放っておきはしなそうなものですが...
[73]
鬼と呼ばれるのを憚って墓碑を見せるのも嫌がっていたという話もあったようです。
ただし[[井上通泰]]はその真否は不明とも書いており [SRC[>>2104]]、
こうした情報は村外の人から聞いたものかもしれません。
あるいは昔のことを推測した伝承なのかもしれません。
[SEE[ [[室徒株]] ]]
このとき村の代表が研究者に喜んで見せたというのですから、
昔はそうだった (といわれていた) ということかもしれません。
しかし[[明治時代]]後期まで野ざらしで見放題だったのは、
どう説明するのでしょう。
-*-*-
[856] 社殿横、石祠に近い位置に、
[CITE[鬼室神社]]
と題した[[日本語]]と[[韓国語]]の併記の案内看板がありました。
説明文の他、
境内風景カラー写真と、
[CSECTION[本殿裏の石祠に祀られている鬼室集斯の墓碑]]
として開扉した石祠のカラー写真が掲載されていました。
[[平成時代]]設置と思われます。
;; [870] 石祠の正面から撮られた写真で、
墓碑は文字があると意識して見ると何かあるように見えなくもない程度でした。
[916]
[[日本]]国内にも関わらず[[韓国語]]が上、
[[日本語]]が下に配置される珍しいレイアウトの看板です。
その意図を訝しがる人もいますが [SRC[>>915]]、
それだけ[[日本人]]よりも[[大韓民国]]からの観光客を重視していたということでしょうか。
- [21] [TIME[2006-01-09]]時点の写真 [SRC[>>20]]
- [976] [TIME[平成18(2006)年][2006]]頃の写真 [SRC[>>973]]
- [858] [TIME[平成21(2009)年][2009]]時点の写真 [SRC[>>25]]
- [936] [[平成時代]]中頃墓碑写真部分の写真 [SRC[>>933]]
- [857] [TIME[平成25(2013)年][2013]]時点の写真 [SRC[>>735]]
- [869] [TIME[2015-08-23]]時点の写真 [SRC[>>24]]: これが一番[[解像度]]が高いか。
- [1015] [TIME[平成27(2015)年][2015]]時点の写真 [SRC[>>1012]]
- [1016] [TIME[2016-04-08]]時点の写真 [SRC[>>22]]
- [868] [TIME[2019-05-13]]時点の写真 [SRC[>>32]]: 社殿、石祠との位置関係がわかる写真もあり。
** 台座
[712]
[[江戸時代]]の[[司馬江漢]] (>>249) の図によれば、
野ざらしだった当時は八角柱の下には台座のような直方体が置かれていました。
[721]
[[昭和時代]]初期、
石祠内の墓碑の下に台石 (墓石, 板石 [SRC[>>2124]]) がありました。
墓碑は台石の上にただ乗せてあるだけでした。
[SRC[>>2104]]
[722]
台座への言及はあまりなく、古いものがそのまま残っているのか、
其の下がどうなっているのか不明です。
銘文の有無も不明です。
[[昭和時代]]初期の調査で何も記録されていないので見つからなかったのでしょうが、
裏面まで調査したのか、風化した文字跡の有無まで調べたのかは不明です。
-*-*-
[72]
墓石中央には、径3寸の孔がありました。
墓碑の基底はこれより大きいので、
[[墓碑]]をはめるためのものではありません。
また遺骨を器に入れて収めるにも小さすぎます。
[SRC[>>2104]]
[720]
[[昭和時代]]初期の区長がその亡父から聞いた話では、
昔は孔に髪が入っていたのだといいます。
[SRC[>>2104]]
石祠ができる前の頃の話でしょうか?
[725]
墓碑を移動させた[[西生懷忠]]がこれに言及していないのは不審です。
孔は土に埋もれてでもいたのでしょうか。
[SRC[>>2104]]
[1205]
「墓石」とは呼ばれているものの、この石が元々意味のある石なのか、
ただの台座なのか、
石柱とどちらが古いのかなどは不明です。
** 八角形石柱
[234]
墓碑の形状は、
[[平成時代]]の[[日野町教育委員会]]の調査 [SRC[>>2124, >>224 (>>2124)]] によると、
- [235]
ほぼ八角柱状、
高さ 48.8cm。
頂部から 4.4cm 下方まで鋭く尖らせてある。
- [236]
底部の幅 20.8cm、頂部の幅 18.8cm でわずかに細まっている。
- [237]
底部はほぼ平坦 (枘穴など無し)。
- [238]
頂部から下方 13.3cm の位置に、
4.4cm にわたるくびれがある。
最も大きいところでの幅は 18.0cm。
- [239]
頂部から 29.0cm 下方の水平断面は、
1辺 8.0cm - 9.2cm のほぼ正八角形。
[189]
重量は、大人1,2人で移動可能な程度です。 [SRC[>>90]]
[HISTORY[
[366]
[[江戸時代]]の[[西生懐忠]]らの調査 [SRC[>>625, >>362]] によると、
- [367]
高さ1尺6寸。
[SRC[>>625, >>362, >>113]]
- [368]
8面、
面の上2寸7分、下3寸2分。
[SRC[>>625, >>362]]
- [369]
頂正中隆起。
[SRC[>>625, >>362]]
- [370]
上から下に5寸程のところに結縛の痕。
[SRC[>>625]]
-- [385] 2寸5分程 [SRC[>>362]]
[716]
[[昭和時代]]初期の[[井上通泰]]の実測 [SRC[>>2104]] によると、
- [717] 重量は七八貫 (伝聞)
- [718] 長さ一尺六寸
- [719] 八面の一面の幅は中央で3寸、上がやや狹く下がやや広い
[1136]
[TIME[昭和30(1955)年][1955]]頃の由緒 [SRC[>>1133]] によると,
- [1137] 八面葱頭型
- [1138] 高さは 1尺6寸、
面上2寸7分、
下3寸2分
- [1139] 頂隆起、頂上から下5寸許に総括、牲をつぐ形を表す
[130]
[[昭和時代]]後期の[[胡口靖夫]]の研究 [SRC[>>90]] によると、
- [131]
八角柱状で、上方より下方がやや深い形でした。
- [132]
高さは 48.0cm、
一面の上部の幅は 8.0cm、
下部は 9.5cm
でした。
- [133]
頂上は三角形に刻まれて隆起し、
頂上から下方 12.5cm 程度の位置に、
幅 4.0cm、深さ 1.5-1.8cm 程度のくびれのような溝が刻まれていました。
[399]
[[昭和時代]]後期の[CITE[東桜谷志]] [SRC[>>1080 p.38]] によると、
- [401] 八角柱
- [400] 高さ 48cm (1尺6寸)
]HISTORY]
[147]
この奇妙な形状は[[日本]]にはあまり例が知られておらず、
注意を惹かせることになったようです (>>505)。
*** 石材
[134]
[TIME[明治36(1903)年][1903]]、
[[遠藤宗義]] (>>450) は、
墓碑等に造詣が深いという[[京都]]の[[松井淳風]]に鑑定を依頼しました。
その結果は、
正しく[[朝鮮石]]で [SRC[>>90 (>>95), >>57]]、
形状は[[唐土]]の方式によるものであり、
従来未だ曽て見ない古物で珍重するべき、
とのことでした。
[SRC[>>90 (>>95)]]
鑑定の根拠は不明ですが、経験からの判断でしょうか。
[715]
[[昭和時代]]初期、
当時の集落の代表者らは、
墓碑の石は地元のものではないとしていました。
[SRC[>>2104]]
根拠は不明ですが、
時代が近い[[遠藤宗義]]らの見解を踏襲したのでしょうか。
[137]
[[昭和時代]]後期、
[[日本]]の[[国立科学博物館]]地学研究部 [SRC[>>90, >>224]] は、
墓碑の
「ごく小さな石材資料」
を使ってルーペによる肉眼観察で鑑定し [SRC[>>224]]、
[[流紋岩質凝灰岩]]としました [SRC[>>90, >>224, >>2124, >>1080 p.38]]。