/
803.txt
134 lines (100 loc) · 6.36 KB
/
803.txt
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
32
33
34
35
36
37
38
39
40
41
42
43
44
45
46
47
48
49
50
51
52
53
54
55
56
57
58
59
60
61
62
63
64
65
66
67
68
69
70
71
72
73
74
75
76
77
78
79
80
81
82
83
84
85
86
87
88
89
90
91
92
93
94
95
96
97
98
99
100
101
102
103
104
105
106
107
108
109
110
111
112
113
114
115
116
117
118
119
120
121
122
123
124
125
126
127
128
129
130
131
132
133
134
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[1] [CITE@ja-JP[発祥の地コレクション/東北海道電信創業記念碑]]
([TIME[2015-09-11 00:36:13 +09:00]] 版)
<http://hamadayori.com/hass-col/comm/HigasiHokkaidoDensin.html>
]FIGCAPTION]
> 国内の電信網は,まず1869(明治2)年に東京と横浜とに電信局が設置されて電報の取り扱いが始まったのが最初で,その後西に向かって延伸されて 1873(明治6)年には東京-長崎間の電信網が開設された。
> 北海道への電信網は これよりやや遅れて 1874(明治7)年になって 青森-函館間の海底電線が敷設されて,東京-函館-札幌の回線が開通した。
> しかし道東(東北海道)への回線の延伸は遅く,1884(明治17)年になって 札幌-根室間の電信線が開通。この時,真砂町(現・南大通り7丁目)に“釧路電信分局”の局舎が新設され,一般公衆電信取扱が開始された。この当時の電信は“トン・ツー”(モールス信号)による通信であった。
> 釧路で電話交換業務が開始されたのは,1909(明治42)年になってからである。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[2] [CITE@ja[幕末~明治前期 公文書挿画コレクション2]]
([TIME[2015-12-23 17:27:30 +09:00]] 版)
<http://www.pref.hokkaido.lg.jp/sm/mnj/digital/byouga/byouga2.htm>
]FIGCAPTION]
> 文字を電気信号に変換し送受信する電信は、明治7(1874)年10月に道内の専用線が開通し、津軽海峡の海底線を
> 介して本州との通信が可能となりました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE@ja[旧落石無線電信局 北海道の無線発祥の地|落石シーサイドウェイ(北海道・根室市)]]
([TIME[2012-02-15 16:24:42 +09:00]] 版)
<http://www.nemuro-footpath.com/ochiishi/2011/04/post_37.html>
]FIGCAPTION]
> 1908(明治41)年、北米航路の要衝として船舶や航空機と無線電信を行うため設置された。千島・樺太(サハリン)・カムチャツカの陸上局(電信局・郵便局)とも固定通信業務を行っていた。業務内容は公衆電報・遭難通信・気象通報・航行警報および報時通信など。開設当初は落石岬側にあったが、1923(大正12)年に現在の場所に移設されている。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[4] [CITE[開拓使による北海道の測量 勇払基線 函館助基線 福士成豊]]
([TIME[2015-08-23 22:37:41 +09:00]] 版)
<http://uenishi.on.coocan.jp/j334hokkaido.html>
]FIGCAPTION]
> 函館・札幌間の経度差を定めたときは電信による「電機弾報」を用いデイと荒井は札幌に福士は函館で連絡をとりあいながら観測しています。[M.S.デイ:北海道測量報文 開拓使 1877 p33、第一~三圖]
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE@ja[館報「開港のひろば」第114号 横浜開港資料館]]
([TIME[2012-02-01 08:00:02 +09:00]] 版)
<http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/114/02-3.html>
]FIGCAPTION]
> 日本における電信の一般受付は、明治2(1869)年12月に京浜間で始まった。当初は民部大蔵省の事業であった。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[6] [CITE@ja[館報「開港のひろば」第114号 横浜開港資料館]]
([TIME[2012-02-01 08:00:02 +09:00]] 版)
<http://www.kaikou.city.yokohama.jp/journal/114/02-3.html>
]FIGCAPTION]
> 明治4年10月、国内の電信線はすでに青森に到達していた。京浜間の伝達手段であった時代はまたたくまに過ぎていたのである。5年7月には函館・札幌間にも架設され、東京・北海道間の電信は、すごろく発行時は津軽海峡の海底線の完工をまつばかりであった。また6年10月には東京・長崎間の電信が完成している。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[7] ([TIME[2014-04-14 08:16:47 +09:00]] 版)
<http://toshiba-mirai-kagakukan.jp/learn/download/pdf/leaflet_07.pdf>
]FIGCAPTION]
> 明治5年に工部省(後の逓信省)が地方局に
> 正午の時報を初めて送り、その後正式には明治
> 8年3月から工部省本省と築地局間で正午時報
> が始まったとあります。報時の元信号は東京天
> 文台の報時用標準時間から発せられ
> それが電信線を介して分配されたのです。
> 帝国大日本電信沿革史に「正午報辰規則に基
> づいて、明治11年4月1日から各電信局の自
> 鳴鐘は東京の正午に合わせて鳴らせる」とある
> ことから、報時器は工部省が報時信号を地方へ
> 転送する時用いたもののようです。
> 当時は報時器を介して中央局から送られた信号
> により、各地方電信局の標準時間(当時は歯車
> 式の時計を自鳴鐘といった)を鳴らしたようで
> す。
>
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] [CITE@ja[暦Wiki/時刻/時と場所をわきまえる - 国立天文台暦計算室]]
([TIME[2015-11-19 18:52:05 +09:00]] 版)
<http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/wiki/BBFEB9EF2FBBFEA4C8BEECBDEAA4F2A4EFA4ADA4DEA4A8A4EB.html>
]FIGCAPTION]
> 明治の頃は電信電信また電信で各地の時計をつないでいました。
> この技術がもたらされたのは明治7年の金星日面経過のときです。
> 明治21年に設立された東京天文台では大子午儀 (レプソルド子午儀) が活躍していました。
> 明治25年、東京天文台のメルツ・レプソルド子午環中心を日本経緯度原点とすることが定められました。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[9] [CITE[鍋冠山の測点 長崎遠めがね]]
([TIME[2012-11-26 22:04:01 +09:00]] 版)
<http://hoshinabe.ojaru.jp/276_nabesoku/276.html>
]FIGCAPTION]
> 1879年(明治12)から翌年にかけて 内務省により
> 鍋冠山と東京赤阪葵町にある天文台間の 経度電信測量が行われました
> 1910年(明治43) 鍋冠山の中腹に報時観測所を建設するにあたり
> 経度を知るために 明治12年の観測地点を探しましたが 発見できませんでした
> 数年後 山頂から北北西の勾配のかなり急な草薮のなかに
> 二つに折れた石柱が発見されました 石柱には
> 「天象観測指点」「内務省地理局」「明治12年12月」と記されていたそうです
> 天文月報(第9巻第1号)4P 長崎に於ける経度電信測量の測点 田代庄三郎 より
]FIG]