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[6]
[DFN[久保]]は、かつて使われた[[私年号]]です。
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[3] [CITE[佐賀県大町町文化財マップ]]
]FIGCAPTION]
>
[RUBY[土井家住宅][どいけじゅうたく]]
>
指定:昭和49年2月5日
>
所在地:大町町大字大町1045
>
所有者:土井時雄
>
当初は造り酒屋であったといわれて
います。昭和50年~51年の解体修理
で「久保元年酉四月十八日作立」の
墨書が見つかりました。久保は実在
しなかった年号、いわゆる私年号と
見られ、正確な建築年はわかりませ
ん。しかし構造等から19世紀初頭
~中頃と思われます。
]FIG]
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[5] [CITE[町報おおまち]] 第105号 昭和52年4月1日 ([TIME[2009-05-17 09:00:00 +09:00]]) <http://www.town.omachi.saga.jp/kouhou/1964-1979/pdf/s5204.pdf#page=6>
]FIGCAPTION]
>重要文化財
完全復元なる
―上大町土井家―
> [SNIP[]]
>
建築年代は、北面柱の持送取付
仕口に墨書で「久保元年酉四月十
八日作立」とあったが、この年号
は実在せず、類似年号として寛保
元年酉と文久元年酉があるが、い
ずれもその年代を確定することは
できないが、持ち送りの波形絵様
や全体の構造手法から十九世紀初
期ごろの建設と推定され、「久保
」は藩暦ではないかと言われてい
る。
[SNIP[]]
]FIG]
;; [[佐賀藩]]領。
[1]
[CITE[土井家、久保元年の謎―架空年号の墨書についての考察―]],
[[網谷りょういち]],
[CITE[民俗建築]] 第91号 [TIME[1987年(昭和62)5月][1987-05]]
[SRC[>>11]]
という論文があるようです [SRC[>>2]]。
[12]
天保8年酉とするのが >>11 の説。
[13] 建造物の様式が19世紀前半頃。
新旧2つの鬼瓦があり、新しい方には明治6年酉とあるとのこと。
[SRC[>>11]]
[14] すると酉なのだから明治6年なのでは?と思いたくなるが、
明治6年に[[私年号]]が生じるかどうかはよくわからない。
その可能性を検討していないのは、
墨書があるのがもっと古いところなのだろう。新旧の新が明治6年なので、
旧はそれよりずっと古いと推定される。
[15]
天保8年とする根拠は、19世紀前半の酉年のうち世が乱れていたのがこの年だから、
ということでちょっと弱い。補強する他の材料がほしいところ。
[REFS[
- [2] [CITE[『[[民俗建築]]』第81号~第100号総目次]] ([TIME[2018-09-30 13:51:20 +09:00]]) <http://www.folkhouse.org/5ronbun/81.htm>
- [11]
[CITE@ja[[[民俗建築]]. (91) - 国立国会図書館デジタルコレクション]], [TIME[1950-][year:1950]], [TIME[2022-12-20T14:01:30.000Z]] <http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/4418458/23>
(要登録)
]REFS]
[4]
[CITE[Google Books]] は[CITE[汲冢周書]]という[[漢文]]の書に「久保元年」
と書かれているとしますが、 [[OCR]] の読み取りの誤りで関係ない文字の一部分を曲解したものです。
[7]
[[幕末]]には他にも日本各地で[[私年号]]が使われました。
[SEE[ [[幕末維新期の日時]] ]]
[16]
同じ(と推定される)天保8年には[[永長]]がありました。
[9]
[[天保]]年間に[[私年号]]の[[久宝]]が、
[[幕末]]に[[公年号]]の[[文久]]がありました。
「保」も[[公年号]]に頻出する文字です。
[10] 「宝」と「保」が同音なのは要注意?
[FIG(quote)[
[FIGCAPTION[
[8] [CITE[[[民俗建築]] - Google ブックス]],
[TIME[1987]],
[TIME[2021-04-16T05:58:36.000Z]] <https://books.google.co.jp/books?hl=ja&id=MdieAAAAIAAJ&focus=searchwithinvolume&q=%E4%B9%85%E4%BF%9D>
]FIGCAPTION]
>40 ページ
>-架空年号の墨書についての考察- -40-41-42表 1 ( No4 以下はすべて福岡県北野
平野. 網谷りょういち今回見学会の折に訪れた、佐賀県杵島郡大なので無理のない
事である。
棟梁の生れ育った時代は天保であろう。
このため文久を久保町町大町(誤植ではない)の土井家では、解体修理の時に「久保
元年四四月十八日作と書き誤ったものであろう。立」との墨書が発見された。
もちろん「久保」ところがこの文久説にも少々難点が出てしまった。土井家には
...
土井家は、以前酒造屋であったものを明治台風で飛ばされる場合もあるが、両者
の様式初期に買受けたもので、造立期は、構造手法や絵様等から 19 世紀前半頃で
あろうと推定さの違いなどから、文久説は無理が多いので、謎解きは振出しに ...
寛享和・文久はいずれも辛酉(しんゆう)
革命保は 19 世紀前半という推定年代とは離れすぎによる改元であり、すぐ後に ...
>41 ページ
>何等かの理由で命名された年号の類。いままで 1 のケースだけを考えていたので
、 2 ・ 3 のケースも考えてみる必要がありそうである。
江戸時代の改元は朝廷が発議し、幕土井家大戸口の持送り府の了承を得て幕府
から布告することとなっていたが、幕府が同意せず、予定した年号を改変した例
もあったと云われている。改元を出典は老子経で、天地はとこしえにという意
中止 ...
]FIG]